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玄怪録岑順「小人の戦争」。六甲とは宝応将棋のルール上の何を表す(長さん)

以下玄怪録岑順「小人の戦争」に書いてある内容だが、物語上の、
軍師の次のセリフは、将棋の駒の進め方の事だという話になって
いる。
「天馬は斜めに跳んで3升目先に行け。
 上将は縦横に走り、横行せよ。
 輜車は突入し退くことなく、
 六甲の順序は乱れること無かれ。」
以上は、将棋の駒の動かし方のルールっぽくなるように、私の方
で、少し脚色して書いてある。なお、「さらに攻め鼓が(2回目
に)鳴ると、それぞれに歩兵が一尺を進む。」と、東洋文庫版の、
㈱平凡社1964年発行、前野直彬訳の玄怪録「小人の戦争」に
は書いてある。ので、上記のルールに加えて、歩兵または兵、卒
が、前一歩動きである事も判る。
 ただし、六甲という種類の駒については、少なくとも日本の将
棋史研究家の中で、いろいろ言われていて、何を指しているのか
確定していないと、私は認識している。玄怪録、岑順「小人の戦
争」に言及した将棋史家は、たいてい六甲にも言及していて、そ
れぞれに尤もらしい解釈を、昔から別々に色々述べている。その
中で、どの解釈が正しいのかだが、

全部一理ありと、本ブログでは見る。

そもそも、玄怪録岑順「小人の戦争」は、将棋書ではなくて、文
学であるから、

よほど曲がった解釈をしない限り、その解釈が間違いだと証明
できるような性質のものではない

と、私は思うからである。
 そこで、ここでは諸説の優劣を判定するのではなくて、未だ表
明が遅れてしまった、本ブログの見解を、述べる事にしたい。
何時ものように結論から、ずばり先に書く。物語上に現われる、

王、軍師、上将、天馬、輜車、歩卒の、以上6種類のキャラクター
をひっくるめて、六甲と表現している

と、本ブログでは考える。なお、なぜ駒の種類数を1甲、2甲と、
玄怪録で数えているのかだが、これは”六甲”座という中国星座
が有って、それのひっかけだと、私は考える。甲の字は兜の数と
も対応し、兜の数は馬や棋の数とが、一対一対応するので同じ意
味という事があるので、それを利用したのだろう。なお怪奇小説
では、読者に、あの世を連想させる必要があるので、星空に有る
星座を文中に使うから、六甲が出てきたという主旨の説明を、本
ブログでは、だいぶん前にしている。
 では以下に、以上の結論についての補足説明をする。
 こう考える場合のポイントは、

”王”を六甲のうちの一甲に数える

という事である。
 妙な話だが、私の解釈では、この場合、軍師が自分に対して、
着手の順序を間違えるなと、命令しているばかりか、上司の王に
対しても、将棋の手筋通りに動けと、命令しているのである。
 なお、次に”王が「よし」と答えると、攻め鼓がとどろき”と
文面が続くのであるが、この”王は「よし」”は、将棋ゲームの
対局開始の合図の事だと、私は考える。
 つまり、玄怪録岑順では、王は対局棋士であると同時に、ゲー
ム駒の一種でもあると、私は解釈する。このケース対局者は、
金象将軍と天那国の将軍であり、将棋の駒種類の中にも、彼らを
表現する、王駒が計2枚存在すると、解釈しているという事であ
る。つまり、このように”エコロジーの根本にある思想”風に解
釈するとき、何を示すかについては、

参謀本部は、危なくなって来たら、別の場所に移すという手も、
”小人の戦争”で描写された、将棋の着手には含まれる

と考えれば、判りやすいだろう。これは、

実際に戦争をしながら、参謀本部で戦略を練っている、本当の
戦争が、宝応将棋ならずとも、チェス・象棋・将棋ゲームの場合
には、始原的な本来の姿

という事が、(伝)牛僧儒にも理解出来ているから書ける、文章
なのだと思う。しかも良く考えてみれば、恐らく誰にでも、それ
は時代を超えて

正しい解釈

であると、認めざるを得ない事なのではないのだろうかと、私は
思う。
 つまり、”六甲の順序は乱れること無かれ。”とは、王が軍師
の意見も参考にしながら、作り上げた戦略に、

王も軍師も含めて皆が一丸となって、戦術手筋にそって戦闘せよ

という意味にとるのが自然と、私は考える。従って”六甲の順序
は乱れること無かれ。”の六甲は、最初に述べたように、将棋の
駒の動かし方ルール等で現われた、物語の戦闘に関与した全ての
駒、王、軍師、上将、天馬、輜車、歩卒の、以上6種類の事を指
すと、本ブログでは解釈すると言う事である。(2018/08/31)

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水無瀬兼成将棋纂図部類抄行然和尚まとめ。小将棋の棋はなぜ”棋”(長さん)

少なくとも大阪府三島郡島本町教育委員会編集の安土桃山時代末期作
の水無瀬兼成著書、将棋纂図部類抄では、行然和尚まとめ部の、最後
の3項目名は、大将棊、中将棊、小将棋となっている。つまり、

将棋の棋が、大将棋と中将棋だけ、その時代は普通の”棊”が使われ、
現行の日本将棋を実質的に指す小将棋だけが、江戸時代から現代まで
使われた”棋”の字になっている

のである。大阪商業大学アミューズメント産業研究所が2014年に
発行した、松岡信行氏の「解明:将棋伝来の謎」によると、将棋を
”将棋”と書くのは、江戸時代になってからで、

安土桃山時代以前の文献には、ほとんど例が無い

との旨が、まとめ表の形で示されている。そこで今回は、この安土桃
山時代の人である行然和尚が、なぜ将棋を、将棋と表現できたのかを、
論題とする。
 いつものように、最初に回答を書く。
 初代の大橋宗桂が著作した何らかの文書に、”小将棋は駒数40枚”
との旨等が書いてあり、行然和尚は、曼殊院将棋図とイコールの、
将棋纂図部類抄の”小象戯”という字や、まとめ部の元文書であった、
曼殊院所蔵の将棋図に関連した、中将棋から摩訶大大将棋までの説明
書きの古文書の将棊表現を、日本将棋についてだけ、その説明書きに
は書いてい無いので参照せず、

”小将棋は駒数40枚”という表現について、初代大橋宗桂著と見ら
れる、草創期の大橋文書に記載された通りに、字体まで丸写しにした

と本ブログでは推定する。
 では、以上の結論につき、以下で解説を加える。
 そもそも、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の行然和尚まとめ部の、
”曼殊院将棋図解説”古文書に、”小将棋”の項目は、

無かったのかもしれない

と、私はこの将棋の棋の字を見てから、思うようになった。
小将棋、中将棊、大将棊、と反対に並べた文書が、曼殊院の将棋図に
関連して、曼殊院には有ったと、以前には考えていたのだが、将棋だ
け”棋”を”棊”にしないのも、不自然な話だからである。だから

以前の本ブログの見解は、訂正が必要

なのかもしれないと思われた。つまり、行然和尚がまとめ部を作成す
るとき、小将棋の項目の中の最後の方の、だらだらと書いた3行だけ
を、行然和尚が作文したと以前は見ていたのだが、これが

間違い

で、実は小将棋の項目そのものが、オリジナルの、曼殊院将棋図解説

別添文書には、項目まるごと存在しなかった

疑いが強いという事である。曼殊院の”曼殊院将棋図解説”別添文書
は、中将棋の項目で始まり、中身は”駒数が92枚で、成りは小将棋
に準じる・・”といった内容だったのかもしれない。ところが、
日本将棋に全く言及し無いと、豊臣秀吉の機嫌を害する等の、懸念を
抱いた曼殊院の僧とみられる行然は、小将棋の項目そのものを作成し、
出だしの、”小将棋は駒数40枚”は、恐らくその時代には、京都市
市内では、出回っていた何らかの

大橋宗桂著作の文書等の内容を、まる写しにした

ため、宗桂流で”将棋”になったのではないかと、私には考えられた。
 初代大橋宗桂は、将棋を将棊でなくて、将棋と表現する習慣が有っ
たので、その通りに、文書を書いてしまって、中将棋や大将棋の
将棋が将棊にはならずに、チグハグに、小将棋だけ、”小将棋”に
なってしまったという意味だ。なお初代の大橋宗桂が、将棋を将棋と
書いたのではないかと推定できる根拠としては、江戸時代の大橋文書
の将棋が、将棊ではなくて、将棋となっている点を挙げる事が出来る。

代々創始者の習慣を、大橋家は将棋を将棋と書いたのではなかろうか。

 そもそも、行然まとめ部の中将棋と大将棋が、中象戯と大象戯にな
っていない点から見て、曼殊院に有った曼殊院将棋図解説文書の中将
棋と大将棋は、たぶん中将棊と大将棊になっていたのだろう。おかし
いとも思わず行然は、そのまま”まとめ部”を作成しているので、行
然和尚まとめ部を作成するときに、解説書の解説対象である、曼殊院
の将棋図を、行然がほとんどチェックしていない事は明らかである。
この点については、”中将棋の成りが、小将棋の成りに準じるという”
記載が、間違いである事という点からみても、確かだろう。
 そして、行然は自身の”まとめ書”、小将棋の項目を書くときにも、
曼殊院の将棋図はチェックせず、恐らくは大橋宗桂著書の別書籍等の
通りに、駒数を写しているという事だろう。水無瀬兼成の将棋纂図部
類抄と内容が同じ、

曼殊院の将棋図の小将棋、つまり現行の日本将棋の図の駒数を数える
よりは、大橋宗桂からの情報の方が確か

と当時、行然が考えていたからだと、思われると言う事である。
 つまり、行然は、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄と曼殊院の将棋図に
ついては、

こと日本将棋に関しての情報の正確性は薄い

と見ていたのではないかと、私には疑われる。

行然和尚は、小将棋が42枚制ないし36枚制が本来である事を、
薄々知っていたと疑われる証拠

なのではないかと、私が疑っているという意味である。そこで小将棋
と表現して、初代大橋宗桂の将棋界のフロントランナーとしての権威
を、持ち出す必要性を感じたので、小将棋が”小将棋”になったので
はないか。
 つまり、この事から、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の小象戯に、
飛車角が有ったとしても、

西暦1443年の小将棋に飛車角が有ったかどうか、行然の態度から
見て、かなり怪しい

と、私は考える。
 他方木村義徳氏の”持駒使用の謎”では、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄の小将棋が、飛車角入りの40枚制になっている事が、

日本将棋が西暦1443年に成立していた根拠の一つ

とされている。が、同じ将棋纂図部類抄の、行然和尚のまとめ部の、
小将棋が、小象戯でも小将棊でも無く、小将棋という別の字になって
いると言う事は、

行然和尚にとって、同時代の初代大橋宗桂からの情報だけが、信用に
足る唯一の物

という意識を私には感じさせる。そのため”日本将棋が西暦1443
年から存在する”という、木村義徳氏の論には、

一点の疑いも無いと言うべきである

というような、断定的な表現をするという所までは、少なくとも今の
所はまだ行かないのではないかと、私は個人的には判断するのである。
(2018/08/30)

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一乗谷朝倉氏遺跡、横顔人形成り龍馬角行駒。角行駒人形を作った訳(長さん)

一乗谷朝倉氏遺跡では、今とルールに差が無い日本将棋用の駒と、
酔象駒が一枚出土した事で著名である。しかし、出土枚数が大量
(180枚程度)なため、成りホータン歩兵駒の存在等、他にも話題
に事欠かない。

 本ブログでは前にもその他、角行駒が過剰な理由について、考察

した事もあった。
 今回は、この朝倉駒についての別の話題である。すなわち表題のよ
うに、180枚出土した将棋駒のうちの一枚、普通の日本将棋用の、
厚みが薄い木製のヘギ材で作成した、成り龍馬角行駒の一枚が、横顔
の人形(ひとがた)に、ハサミで削り取られて変成されている遺物を、
問題にする。
 へぎ材なので、将棋駒を挟みで切り取って、影絵のような”人形の
横顔”を、作成する事が技術的に可能な事は明らかである。そもそも
横顔人形(ひとがた)自体は、他の古代・中世の遺跡で、多数発掘さ
れている。
 だが、そもそも将棋駒を、用いて作った例も珍しいし、なぜ

まだ使えそうな、きれいな角行駒を、壊してしまったのかも謎

である。そこでここでは、将棋駒の木切れを使った事は、さて置く事
にして、その際、いろいろな駒種類のうちで、

特に角行を人形(ひとがた)の材料にした理由

を論題とする。
 回答から先に書く。

縦に角行と書くと、角の上の方を頭、行の下部を二本の足と見て
人間の姿に見えるため

だと、私は考える。
 では内容は見えているようだが、以下に簡単に補足説明をする。
 将棋の駒種はいろいろあるが、行駒のように下部が、2本足に
見える字のついた、駒種は余り無いと見られる。行駒の中で、一文字
目が人間の、顔から胴体の上部のような字の駒も、ほぼ角行に限られ
るのではないか。なお、角行の真ん中の”田”部分は、武将の鎧のよ
うでもある。そこで実際、角行を縦書きしたとき形が、人間の全身を
象っているとも見えた為に、

”ひとがた”に見立て易い

という事があると私は思う。そこで例えば、戦死者の武将の形しろを、
一乗谷朝倉氏遺跡の将棋駒の出土した城館で、法事用に作成したとき
に、角行駒の一つを潰して、人形を作成する事がしばしば行われたの
ではないのか。そのたまたまの一枚が、朝倉氏城館の堀跡から、発掘
で見つかったと言う事のようにも、私には見えるという事である。
 従って、一乗谷朝倉氏遺跡の城館跡から、角行駒の出土数が多いと
いう話をしたとき、ゲーム種に関して、現行の日本将棋以外に、別の
ゲームが混在していると、本ブログでは前に推定した事が有った。が、

それも一つの説明であるが、その他に、角行駒は人形用として、呪術
的目的で、比較的多めに作られる傾向があったという説明も出来る

可能性が有る、のかもしれない。
 以上は、一乗谷朝倉氏遺跡の遺物の説明であったが、余り例が多く
ないものの、角行駒だけ出土した、宗教関連の別遺跡の駒についても、

角行二文字の書の姿の、人形(ひとがた)類似仮説

は、角行だけが出土する理由付けに関して、一応可能性の一つとして、
候補に挙げて置く必要はあるのかもしれない。
 そこで私が思い浮かぶ遺跡の、第一候補は、

栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡の、裏一文字金角行駒が、トップ

である。しかも、そこは”宮内”の墨書カワラケが、共出土していて、
小山市天神町の天満宮という、宗教関連施設内を示唆している。実は
人形(ひとがた)自体が、”下野人形”として、小山市は、今も有名
な地でもあるのである。そこで上記の仮説は、栃木県小山市という場
所では特に、有力視できると私は考える。
 恐らく、南北朝時代の将棋駒の寸法等の情報は、小山市の天満宮を
別当としてきた、廃尼寺(江戸時代、男の真言宗系の寺)、小山市の
青蓮寺に、正確に残っていた。そして、その記録の寸法通り、今度は

江戸時代に”代しろ”の目的で角行駒を、人形(ひとがた)として
再複製(復刻)して寺に置いたのが、現在の出土駒

なのではないかとも私には思える。櫛の破片が4本、別に、その将棋
駒出土地点の、10m以内の井戸跡の中から出土しているので、この
角行が、江戸時代頃には、女性を象っている可能性も有り得る。なお、
栃木県小山市の、今は無い青蓮寺は、”ここは昔は尼寺”との宣伝を、
江戸時代にしていた記録が残っている。つまり、江戸時代に街道筋の
寺の物品が、盗難を恐れて、ありきたりの駒を選んで、

たまたま角行として作られたとする、私の以前の説が間違いであった

か、それだけが理由では無い、恐れも有ると言う事である。むろん、
小山市神鳥谷出土の将棋駒自体は、小山朝氏が京都の南朝方の公家、
近衛経忠から西暦1340年頃に、”藤氏の関東の頭領用”として、
持ち上げられた上で、”鎌倉後期ゆかりの大将棋の盤駒セット”とし
て贈答された物が、元だったという、別の事象が生んだものなのかも
しれないが。
 以上の事から、何か人形(ひとがた)に絡んだ将棋駒が出土した際
には、駒種類が”角行”かどうかに、一応の注意が必要だと、結論さ
れるように、私には思われた。(2018/08/29)

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石川県鹿島郡中島田上町カイダ遺跡の出土駒は将棋駒なのか(長さん)

前に、石川県金沢市堅田町出土の”桂馬駒”が桂馬ではなくて、”飛馬”
とスケッチされているという話をした。実は前田藩お膝元の石川県には、
もう一枚、種別の不明な駒が、西暦1990年頃に出土している。表題
の、室町時代から、安土桃山時代の住居跡とされる、鹿島郡中島田上町
カイダ遺跡の、恐らく不成りの”白食”と書かれているとされる、将棋
駒の可能性があると指摘の五角形の木片である。いうまでも無く、
白食という種類の将棋駒は存在しない。将棋駒という判定にクエスチョ
ンが付いているのは、そのためである。
 そこで今回は、金沢市の堅田城跡遺跡(堅田B遺跡)の不成り(?)
”飛馬”駒に続いてこの”不成り?白食”駒の正体について論題とする。
 回答を最初に書くと、

将棋駒であり、”おもて面判読不能だが、たぶん香車の、裏一文字金駒”

であると、本ブログでは、前記成書の写真から推定する。
 では以下に、以上の結論に至る経過を説明する。
 この駒は成書、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真を見る限り、墨
跡は極めて薄いので、ブログに転載しても無駄だと思う。だから以下に
は、文面で説明するだけに、ここでは留める。
 上記成書の情報によると、墨があるのは一面だけであるようであり、
墨のある面には、

”白食”の二文字に近い墨跡があるとされ、ただし白の字の”日”の部
分が、日ではなくて角張った”6”の形に欠けて見える

とされる。が、本ブログでは、

今述べた見方は、間違いだ

と考える。良く見ると、”白食”ではなくて”合食”に近く、合の字の
”一口”の部分が、一口ではなくて、角張った数字の”6”になって、
癒着していると、墨跡は見えると、本ブログでは、そう見るのである。
何れにしても墨跡は薄く、判定はすこぶる難しい。
 そして実は、2文字目とされる、食に見える部分は、

食の字の第2画目の八の字の右側だけ、墨跡として本物であり、この一
画を除いて、”ノ”や、”良”の部分は全部、汚れであって文字でない

と本ブログでは考える。つまりこの駒の字は、2文字ではなくて1文字
であり、

合と下線”_”を足した字で、合の”一口”を角張り”6”に変えた字

が、本当は書いてあるという事である。これは、

桂馬や香車の、成り程度に崩した”金”の字に、かなり近いもの

である。つまり、駒の形を見ても、この駒は歩兵か香車のようであるか
ら、金の崩しが弱ければ、

表の香車の字が消えてしまった、裏の成り金が見えている

と見ても、特に矛盾が無いように、本ブログでは見ると言うわけである。
 そこで何れにしても、すこし大きめに、金の崩し字が書いてあるのが、

墨跡が薄くなって、見えにくくなっているだけ

なのではないかという、最もつまらない解釈を、本ブログではとる。
 ただし、以上の結論は、絶対に間違いないというほどの、確信を持っ
て、書いたわけではない。科学的な測定をすると、覆る可能性は、少し
有ると見る。以上の事から、この駒については話だけで、本ブログでは
特に駒の姿は、掲載しないことにしたい。なおこの”上町カイダ駒”を、
掘り出したのは、石川県立埋蔵文化財センターで、西暦1990頃の事
だそうである。
 やや紛らわしいが、前に述べた金沢市堅田町の、堅田B遺跡出土の、
不成り(?)”飛馬”駒については、こちらの方は、市立の研究機関で
ある、金沢市埋蔵文化財センターという、今回の駒とは別の研究機関が、
西暦2002年頃に発掘したものと私は聞く。後者の駒だけ複写掲載の
許可をお願いしたので、金沢市堅田町の、堅田B遺跡出土の、”飛馬”
駒についてだけ、本ブログでは、スケッチ画を掲載している。
(2018/08/28)

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2002年頃発掘。金沢市近郊”堅田B遺跡”の裏不明飛馬駒の謎(長さん)

今から15年位前の事だと考えられるが、石川県の金沢市埋蔵文化財
センターが発掘調査した、金沢市近郊の”堅田B遺跡(堅田城跡)”
という城館跡遺跡とみられる場所から、成りが不明の”飛馬”という
駒が、発掘されていると聞いた。最近まで桂馬だろうと、個人的に私
は、記録を読み流していたのだが。良く見ると、この駒は

桂馬にしては形が変だ。

細長い桂馬というのは、少なくとも今の常識では、一般的でないから
である。なお、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(2003)にも、当
時発掘されてまもなくの時点とみられる、この駒の情報が載っている。
それによると、

成り不明の”馬”駒

とされたようである。余りはっきりしない情報だが、この遺物が将棋
駒だとすると、存在する将棋駒で一番近いのは、むしろ”龍馬”で、

成り龍馬角行駒か、成り角鷹龍馬駒か、不成り龍馬駒

のどれかのように私には思える。ただし、少なくとも2文字目の”馬”
が崩し字になっておらず、反対面に墨跡が無いとすると、

後期大将棋や大大将棋、摩訶大大将棋の「不成り龍馬駒」

と言う事になってしまうだろう。今回の論題は、最初に結論から書く
が、”この駒は何なのか”である。

堅田B.gif

では結論から書く。

栃木県小山市神鳥谷曲輪出土の、裏一文字”金”角行駒の仲間

のように私には見える。根拠は、

寸法がほぼ同じ

であり、小ぶりで、やや細長く、駒の形が寸胴なのが良く似ている
からである。では、以下に以上の結論について補足説明をする。
 根拠に述べたように、堅田B遺跡の不成り?龍馬駒?の寸法は、
長さ3.1センチ、幅1.7から2.0センチ、厚さがやや薄いが、
0.3から0.5センチとされる。
 他方栃木県小山市神鳥谷曲輪出土の、裏一文字金角行駒の寸法は、
長さ3.5センチ、幅1.8センチ、厚さがだいたい均一で0.7
センチであるので、

外見がほとんどいっしょである。

これほど細っそりした桂馬は、一見して珍しいし、またこれほど小ぶ
りでほっそりした角行や龍馬駒も、栃木県小山市の前記駒を除くと、
無いように、私にはぱっと見ても思える。桂馬でこの形に近いのは、
新安沖沈没船出土の成り”と金”桂馬駒だが、それよりも、やや細い。
また、神奈川県鎌倉市、雪ノ下出土の桂馬駒も、やや似ているが、
堅田B駒や、小山市神鳥谷曲輪駒よりむしろ、こちらの方が、やや大
振りである。ひょっとしてこれは、

小山市の駒と同列に並べてちょうど良い、後期大将棋や摩訶大大将棋
の歩兵下列の、不成り龍馬駒

なのではないのだろうか。なお、この駒が出土した遺跡の城館跡は、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒や、webの金沢市の情報によると、
鎌倉時代の1250~60年ごろのものであるとしており、栃木県
小山市の角行駒と、条件が、この点に関してもほぼ同じか、やや金沢
市の方が古い。普通唱導集の時代よりも、さらに少し古い時代である。
 なお、本ブログの大将棋西暦1260年モデルには、龍馬も角行も、
西暦1230~60年に発明されたとしており既に有る。普通唱導集
の大将棋の唱道には、角2龍馬2の専制攻撃を、嗔猪と桂馬で右仲人
の位置で受ける定跡が、書いてあると本ブログではみているので、
龍馬、角行が共に、少なくとも西暦1300年には、はっきり存在す
るというのが、私の持論である。
 ところでこの金沢市、北方郊外の山沿いの城館は、木曽義仲の戦城
とも、この地の有力武家、たとえば源姓の能登吉見氏関連の武者の住
居とも云われるが、記録文献が少ない。謎の多い城のようだ。何れに
しても、

栃木県小山市神鳥谷曲輪の裏一文字金角行駒は、ひょっとすると
摩訶大大将棋の2枚目の駒

だったのかもしれない。
 気がつくのが余りにも遅かったが、正直チェックして、事の重大さ
に、改めて驚いた。(2018/08/27)

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玄怪録岑順の書かれた時代は、炮駒が生成される状況には無い(長さん)

前に述べたが、表題の物語で現われる砲(石)は、”小人の戦争”が
かなり手数として進んだ後に、”しばらくの間、乱舞した(何手に亘っ
ても指された)”ものである。よって、象棋の局面の様子の描写という
よりも、実戦闘の映像のイメージであり、象棋の様子を描写していない
と考えられる。しかし、最近、中国の火薬兵器の成書を読んで私は、
”鼓の音がせわしく鳴った・・”という、経過手数が多い状態との表現
がなされてから、砲石を投げる手に切り替わらなくても、しばらくの
間とは言え、その手が多数回繰り返される、つまり乱下(乱舞)したと
表現されただけでも、象棋で、炮を使う手とは言えないと、考えるよう
になった。以下に、理由を先ず書き、説明を後でする。

石は当たらなければ、相手は破壊されないが、火薬兵器の炮弾は、周囲
に火炎と散乱弾の束を放出する。ので、爆心地の近傍の敵施設等は、す
べて破壊される。そのため、炮という駒で、模式的にその様子を再現で
きるのは、火薬兵器としての炮が成立して、有る程度の性能が得られる、
中国シャンチーの成立年代、西暦1100年以降としか、考えられない

という点に気がついたのである。
 では、以上の点につき以下、説明する。
 炮、すなわち中国の火薬兵器の歴史については、増川宏一氏も、もの
と人間の文化史23-1、将棋Ⅰのシャンチーの項で、問題にしている。
”火薬と投石装置(石はじき)の発明は早いので、炮駒が、早い時代に
出来ないとは断言できない。が、兵器としての炮は、北宋の成立期に、
南唐を滅ぼすのに使われたとの記録がある為、炮駒が作れるのは、唐の
時代の末以降であろう。”との結論だったと認識する。
 しかるに最近、次の化学書の成書(発行が1995年)を読んで私は、
問題は、兵器の炮が、石なのか火薬なのかではなくて、

兵器としての威力が大きいかどうか

であるのに気がついた。

朝倉書店。西暦1995年発行。島尾永康著「中国化学史」。

 前にも述べたが、唐代・牛僧儒の時代の「砲石」は、石はじきで発射
された石か、石火矢だったとみられる。当然だが、

石はじきで発射された石は、その石に当たった物体が破壊されるだけ

だし、石火矢も、可燃物に矢が当たれば燃える程度のものである。後者
については、上記の成り書によると、唐代のものはまだ、火薬成分で、
燃焼性能を上げたものでも無いという。

唐代の玄怪録岑順の書かれた時代には、火薬が発見されていたが、兵器
としては余り使用されていなかったというのが、上記成書によると定説

との事である。
 他方、現在のシャンチーに炮駒があるのは、石火矢に火薬が使われる
ようになって、火箭と呼ばれるようになった時代と、中国シャンチーの
成立が、ほぼ同じな事に加えて、石はじきで発射されるものが、石では
無くて、

炮弾になり、それが霹靂砲と言われた時代とほぼ一致するため、霹靂砲
の発明を記念して、炮駒が作られたかのような状況がある

と、私には理解された。ここで霹靂砲とは、火薬と散乱弾をまぜて弾
を作り、それらを花火の玉のように、厚紙で包み込んだ投下物で、石と
同様、石はじきを用いて投下するものだと言う事である。爆発すると、
音に比べると、たいした事がないのだが、有る程度周りに、散乱弾を
撒き散らすので、

一発の命中で、隣接する施設に対する破壊力は、砲石より大きい

という事になる。つまり、炮を指すという手は、投石機で、小石を投げ
た程度では、将棋としての着手の範疇にも入らず、歩兵の戦闘での交戦
行為一般の類の程度である。だが、投石機で霹靂砲を、敵陣に投げ入れ
れば、破壊力が大きく、

象棋の一指し手と言うに相応しい

という事である。だから、玄怪録岑順では、
一つ一つの砲石の破壊力はたいした事が無いので、乱下(乱舞)させる
必要があるのであり、

砲石乱下と、書いてあるという事自体、その砲は、シャンチーの砲には
はるかに届かない、歩兵の持つ、刀や槍と同格の、小物兵器と見るべき

と言う事になるのである。
 つまり、

”鼓の音が次第にせわしくなり・・”という表現は、これに加えて、
必ず必要になるとまでは行かないもの

という事になるらしい。
 なお、今述べた、北宋時代の中国シャンチー成立期の、火薬兵器の炮、
霹靂砲とは別に、震天雷という炮弾があるらしい。後者は前者の、格段
に進んだ改良品で、蒙古来襲の20~30年前から存在するようになっ
た、投石機で打ち出す火砲である。当然だが、震天雷は、蒙古来襲の際
に、日本軍に対して、モンゴル帝国の軍隊が、博多等で用いた、いわゆ
る”てっぽう(鉄砲)”と同じものと、推定されているようだ。
 ここで霹靂砲と震天雷との違いは、前者が厚紙で包まれた炮なのに対
して、後者が鉄砲の名に相応しく、鉄の容器に入ったものである、とい
う点である。そのため、

シャンチー成立期の炮である霹靂砲に比べて、日本の武士が鎌倉時代の
中期に浴びた震天雷、すなわち”てっぽう(鉄砲)”の散乱弾としての
威力は、格段に大きい

とされる。
 何れにしても以上の事から、玄怪録岑順に記載された、須臾砲石乱下
の”砲”は、乱下の2文字が書いてあるだけでも、中国の火薬兵器の
歴史に関する、現在の定説からは、中国シャンチーの炮駒とは、繋がら
ないものだと判断できると言う事らしい。(2018/08/26)

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玄怪録の中の、岑順以外の象棋話から判る事(長さん)

現在、玄怪録と言えば、宝応将棋が記載された、岑順(小人の戦争)
が、将棋史では著名である。だが幸田露伴の将棋雑考には、玄怪録
の中の、岑順以外の象棋話が実は載っているようだ。露伴によると、
”巴郷の橘園の話”というような題名だそうである。

象棋の器物霊が、龍の肝から龍を魔法で作り出し、それに乗って
去ってゆくという話

のようである。この話が将棋史にとって、何らかの情報を含んでい
るのかどうかを、今回の論題にする。結論を先に書くと、

平安大将棋に飛龍が入る、動機のひとつにはなったのかもしれない
と考えられる。

では、以上について、以下に経過説明をする。幸田露伴の将棋雑考
でしか、現在個人的に私は、”玄怪録の巴郷の橘園”に接していな
い。ので漢文(中国語)を読まなければならず、紹介はごく短いが、
物語内容を正しく解釈するのが、私には困難な状態である。ともあ
れ幸田露伴の将棋雑考の漢文によれば、次のように書いてあるよう
に読める。

巴郷の橘園という所が中国にあって、霜が降りると橘の木に、実が
実ってくるという。そこで、その実の中を開いてみると、老人の姿
をした、3人の象棋の精霊が現われたという。その中の、老精霊の
一人が言うには、「橘園の中にいると、楽な事は商の山の中に居る
事のようであり、いつまでも続く事である。ただしここに居るのは、
不得深根固蔕爾なので不満だ」。その老精霊は、龍の肝を取り出し
て食べると、食べ残しの龍の肝を、生きた龍に変化(へんげ)させ
てしまった。すると三人の老精霊たちは、それに乗って、橘園から
とっとと、去ってしまったということだ。

残念ながら、私には、文中の”不得深根固蔕爾”が解読できない。

”我らにとって本当に大切な何物かが無い”と言っているようにも
とれるが、私には残念ながら、良く判らない漢文である。しかし
何れにしても、この物語では象棋を冠した”精霊”は出てくるが、
ゲームをする話では無いとみられる。龍を食した上に、それに乗っ
て精霊は去っている。この話は、何だか私には良く判らないのだが、

象棋・将棋の器物霊と、龍とは関連していると言っているらしい

と解釈できそうだ。
私が宝応将棋の末裔で、龍が始めて現われる例として知っているの
は、いうまでも無く、

平安大将棋の飛龍

である。他方中国の駒数多数の象棋に、龍駒が入った例が有るのか
どうかは今の所、少なくとも私には良く判らない。が日本の将棋に、
伝来後、中国人好みの”龍”が入り易かったのは、こうした唐代の
文学に、良く龍が出てきた事によるというのは、この例から見て、
いかにも有りそうな理屈だと、私にも理解できる。
 なお、現行日本将棋の駒10種類のうち、成りの新種駒は、龍王、
龍馬の何れも龍駒である。だから幸田露伴流の簡易キーワード解析
をする限り、玄怪録では岑順物語と、今回述べた巴郷の橘園を足し
合わせると、現行日本将棋の裏表駒種に、(伝)牛僧儒作の玄怪録
の物語群は、100%見事に合致する事になっている。(2018/08/25)

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玄怪録岑順物語。結末の”立体将棋駒”が同じ材質の金銅なのは何故(長さん)

大阪商業大学アミューズメン産業研究所2014年発行、松岡信行氏
著の「解明:日本将棋伝来の謎」にも載っているし、それは東洋文庫
の唐代伝奇集2の玄怪録「小人の戦争」(1964)と同じ物である
事を、私も確認しているが、表題の玄怪録岑順物語には、末備の方に、
著者とされる唐代晩期の牛僧儒および、その時代の中国人には、

立体駒で、成形により駒種が判別でき、かつ材質は単一である象棋種
が、イメージできていた事を証明する下りがある。

 すなわち、玄怪録岑順物語(東洋文庫版「小人の戦争」)には、松
岡氏も「解明:日本将棋伝来の謎」で良心的に、そっくり写して書い
ているように、次のような記載がある。
”(墓の中の瓦でたたんだ部屋の、戦争道具の鎧等の置かれた所)の
前には

金で作った将棋盤があって(1)、
駒がいっぱいならんでいるが、すべて金銅で形を抽出したもので(2)、

合戦の様相がすっかりととのっている。そこで始めて、あの軍師の
言葉は将棋の駒の進め方だとわかったのであった。
 それから将棋を焼きすて、穴を埋めてしまった。(後略)”
 ところで本ブログによれば、宝応将棋は、少なくとも玉駒である
金将と、副官軍師の銀将は、形よりも材質で、駒の名称を区別するも
のと、以前に表明している。そのため、
この”すべて金銅で形を抽出したもの”で同一との物語中の表現とは、

整合していない。

そこで今回の論題は、この矛盾するようにいっけん見える物語上の記
載を、このブログでは、どう解釈するのかという点とする。
 そこでいつものように結論から述べ、その説明をそのすぐ後でする。
立体駒を使用する将棋ないしは象棋種は、唐代の玄怪録岑順の作家は、

宝応将棋とイスラム・シャトランジという様に2種類とも知っており、

駒の態様については、イスラム・シャトランジの黒い石製の地味な駒
を、金銅製に置き換えて、宝応将棋型は止め、ハイブリッド表現した
のであると、本ブログでは、物語のこの部分の表現を解釈する。
 では、以下に上記の結論に至る、説明を加える。
 そもそも、玄怪録岑順のこの部分は、中国の少なくとも華北に住む
人間が、晩唐期に、立体駒で造形によって駒種類を区別するゲームを、
象棋や将棋と認識できたものである事を示すものであり、たいへん
重要な記載であると私は思う。中国人は唐代には、円筒駒に、字で
駒名が書いてある駒を使うゲーム具ではなくて、物語のようなシステ
ムでも、”象棋または将棋ゲームの駒”と認識できたのである。その
ため、”軍師の言葉は将棋の駒の進め方だとわかった”と
(伝)牛僧儒に書かれて、その作り話の類の内容に、晩唐当時の中国
の読者も、納得できたという事なのである。
 すなわち、この事から

中国人は、術芸としては、晩唐から五代十国時代には、象棋と将棋を
指さなかったとみられる。が、イスラムシャトランジと宝応将棋が、
それぞれ象棋と将棋ゲームである事が認識できていた。もしそうで
なければ、自国民に玄怪録岑順は、自国語の話としては理解出来ない
事になってしまう

と、私は考える。
 以上の点から、

玄怪録岑順の物語上の将棋を、当時の雲南の南詔国の将棋だと、もろ
だしに読者にバラさないようにするためには、物語上の将棋駒の形態
を、当時長安等で、移住民の大食人(イスラム教徒)が指していたと
みられる、イスラム・シャトランジの単一材質型に、話をズラせば良
い事は明らか

だと、私には思える。いかにも、南詔国で指された、後の日本の平安
小将棋っぽいと、唐代の中国人の読者には、ミエミエなのであろうが。
材質は単一で、全部形状だけで、駒種が区別されているように書けば、

玄怪録岑順の物語上の”将棋”の王が、実は金将で、軍師が銀将

であるとは、読者には証明できないだろうと、晩唐代の(伝)牛僧儒
は踏んだのだろうと、本ブログでは考えると言う意味である。ただし、
金象将軍というのは、いかにも金銀将軍の言い換えであるのが、当時
の読者にも、見えているのではあろうが。
 なお、玄怪録岑順の作者(伝)牛僧儒は、晩唐代なら、そこの国は、
”東ウイグル”であったはずの国名を、時代の違う”匈奴”という国
名に置き換えて記す等、この物語が実在の地名や、人物に関してのノ
ンフィクションとは、読者に取られないように、複数工夫をしている。
 よって、冒頭近くに述べた通り、物語上では、いわゆるイスラム流
の地味な立体駒を、材質が単一だという点は残して、派手な金銅に置
き換えて表現しても、唐代の中国人の読者に”将棋”の意味が通ると
いう事は、繰り返すと中国人は当時、自分たち自身は、ゲームにどち
らも難が有ると見て、余りシャトランジも宝応将棋も指さなかったが、
イスラムシャトランジと、後に日本の将棋となる、雲南で指された
宝応将棋という、

2種類の将棋類のボードゲームが存在し、ほぼ、どういう外観である
かを、晩唐代や五代十国の中国人が、両方とも知っていた証拠

であると、私は考えるという訳である。
 なお、玄怪録岑順「小人の戦争」東洋文庫では、憑依から逃れるた
めに、金の将棋盤と金銅単一材質型の将棋駒からなる将棋具は、”焼
きすて”たと書いてある。金属ならば、”火の中に放り込んで、熔か
してしまった”の方が、より適切なはずだ。原文もこうなっていると
すれば、晩唐代の中国人には、

将棋盤は金製より、香木等で作られた木製。将棋の駒のうち、将駒以
外の象、馬、車、兵は、同じく香木等の木を彫った彫り物と、本当は
認識していたため、(伝)牛僧儒はうっかり誤って、妙な書き方をし
てしまった

のかもしれない。つまり金属なのに燃えるように書いてしまったのは、

ウソをついたが、つじつまの合わない事をうっかり書いてボロを出し、
ウソである事がばれてしまっていることを示している

ように、私には見えるという事である。なお、木村義徳氏の「持駒
使用の謎」では、”純金の将棋盤(1)だけ焼”いた事になっている。
駒(2)を焼かなくても、憑依から逃れられるのかどうかは、私には
謎だが。
 何れにしても、なまじ西洋チェスを当たり前に知っている我々は、
晩唐代の小説である玄怪録岑順の、将棋具に関連した記載のこの部分
を、自分には判ったつもりで、安直に読み飛ばしては、絶対にならな
いということだけは確かだと、言えるのであろう。(2018/08/24)

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晃無咎の広象棋の序。虎関師錬の異制庭訓往来で引用か(長さん)

中国の19路98枚制の、ルール内容の良く判らない広象棋は、
北宋時代に晃無咎(晃補之と同一人物)が作成した、駒数多数型の
シャンチーだとされる。他方、日本の南北朝時代、西暦1356年
頃に成立した学生用の教科書、”異制庭訓往来”には、多い将棋
として、360という数値にちなんだ、将棋が記載されており、
泰将棋に相当するとか、摩訶大大将棋に相当するとか、本ブログの
ように、晃無咎の中国の広象棋に対応する等、説がいろいろあり、
正体が良くわかって居無い。
 さいきん私は、幸田露伴の将棋雑考の口語訳を読んでいて、
晃無咎作の文献史料の中に、

”広象棋の序”と称する史料がある

事を知った。内容は題名から察するに、中国の北宋時代の、小型
の象棋(いわゆる、11路32枚制の北宋象棋、プロト・シャン
チー)の情報を含んだ、19路98枚制大型シャンチーのルール
本の、序文のようである。
 他の将棋史家には、知られていた事かもしれないが、断片的だ
が、書いてある内容を見たのは、私にとっては、前記”将棋雑考”
の口語訳が初めての事だった。
 そこで今回は、晃無咎の広象棋の序によって、何が判るのかを
論題とする。いつものように答えから、先に書く。
 ”象棋は帝王の戯である”と広象棋の序に書いてある。だか
ら”国を治めるものがそれに熟達しないと、国がどうなるかは謎”
との旨記載されている、異制庭訓往来の記載と対応しており、

晃無咎の広象棋こそが、異制庭訓往来の多い将棋と匂わせる内容

になっていると、結論される。
 では、以上の結論について、以下に説明を加える。
幸田露伴の紹介した、”晃無咎の広象棋の序”によると、そこに
は、次の2つの内容が含まれるとの事である。

一.北宋時代に指されたプロト・シャンチーは、11路32枚制
である。
二.象棋(小型のシャンチー型の象棋)は、玩具の兵隊のゲーム
であるとされ、それは黄帝の遊びで、猛獣を操って以て戦陣を作
り出すものであると、される。(以下に、象駒と象棋というゲー
ム名との関係に関する説明が有ると言う。)

これとは別に、広象棋の序から判るのかどうかは、私には不明だ
が、広象棋が、19路98枚制のゲームである事が判っている。
 上の情報のポイントは、異制庭訓往来の将棋で”多いものは、
360の月日の数に則っている”の次に出てくる、

”国を治めるものがそれに熟達しないと、国がどうなるかは謎”
と記載されている、治めている者の例として、中国四大文明時代
の黄帝も含まれるのだが、黄帝は、象棋・将棋を指す有能な王と、
表現されている

という点である。つまり、

象棋や将棋が、帝王の戯れだと、主張している点で、広象棋の序
と、虎関師錬の異制庭訓往来には共通点がある

という事である。将棋は一般には、大衆向けのゲームとされるが、

晃無咎と虎関師錬の主張では例外的に、そう言って居無いという
共通性がある

という事である。つまり、

虎関師錬は、晃無咎の”広象棋の序”を読んで、異性庭訓往来の
”将棋”の項目を作っている疑いがあるのではないか

と言う事である。
 また、晃無咎の”広象棋の序”で皇帝は猛獣を操っているとい
うのは、虎関師錬の異制庭訓往来の将棋の、”少ない駒の将棋は、
36禽の獣類の序列を象っている”という記載で、将棋や象棋で
帝王が操っているのは、一般に猛獣であると主張されている点で
も共通性がある。以上の事から、以上の解釈に誤りが無ければ、

異制庭訓往来に記載された、”多い駒の将棋”は、中国の象棋の
類である、晃無咎の広象棋と特定される可能性がある情報の一つ

と、本ブログでは見るのである。
 晃無咎筆の文献が、今まで残っているという話を、私は他所で
聞いた事が無かった。今回、中国文献に詳しい文豪の

幸田露伴の将棋雑考を、口語訳だがチェックして本当に良かった

とつくづく感じる。(2018/08/23)

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大阪電気通信大学高見友幸氏”将棋の進化大から小”説は前から存在(長さん)

幸田露伴の将棋雑考を最近読むまで、日本の将棋が、摩訶大大将棋等
の駒数の極めて多い将棋から、小型の将棋へ進化したとの説は、

大阪電気通信大学の高見友幸氏以前には、考えた者の無かった説

であると私は信じて、疑っていなかった。さっそくながら今回はこの、

日本の将棋の大から小説が、最近、高見友幸氏より最初に考えられた
説なのかどうか

について、論題とする。
 結論から書いて説明を、いつものように後でする。

高見氏のオリジナルでは無い。
西暦1900年頃は、大将棋から小将棋へ変化したとの説が強かった

そうである。
 では、今述べた結論につき、私が得た知見を以下に記す。
 幸田露伴の将棋雑考によれば、
幸田露伴が小将棋系の日本将棋の、中国からの伝来を示唆するまでは、
日本の将棋史界では、結論としては高見友幸氏同様、

文献史料の解釈という観点から、大から小への進化説が強かった、

との事である。なお、幸田露伴が将棋雑考第1版を発表したのは、
明治33年、西暦1900年の事と雑考の中でも述べている。
 今では将棋史界ではたいへん強い、”小から大進化説”が、前々世
紀の末に振るわなかったのは、

二中歴が忘却された状況で、将棋の最古史料が新猿楽記ではなくて、
台記であったため

との事である。藤原頼長の”大将棋”の方が、将棋という単語の初出
よりも、早かったためである。だから、理由は高見友幸氏が
大から小説を唱える現在の根拠とは、当然全然違う。
 何れにしてもこうした事情から、幸田露伴の将棋雑考では”日本の
将棋”のセクションが、”先行研究”の紹介との兼ね合いから、後期
大将棋の説明で始まっている。第1版の時代には、二中歴の将棋・大
将棋の記載が、まだ埋もれていたので、最終版の昭和13年以降の記
載でも、藤原頼長の指した将棋が、平安大将棋に訂正されて居無い。
後期大将棋をあてているので、説明が後期大将棋から始まるのである。
 そして、西暦1900年時点で、幸田露伴は当時の多数派の”大か
ら小進化派”の中に在って、少数派の”小から大進化派”に属してい
たようだ。理由は大から小派を、次の点から困難と批判している。

1.そもそも大将棋がオリジナルなら、大将棋と名乗ること自体が変。
2.中国シャンチーかまたは宝応将棋と、駒の種類からみて現日本
将棋は関連するに違いなく、そのどちらかの子孫であるなら、駒枚数
や盤升目数は、前2者のどちらかは、現日本将棋とほぼ同じと見られ
る。この事から日本将棋の駒数・盤升目数の桁の、小型の”将棋”が
伝来したのちに、日本人が駒数多数将棋を作成したと考えるのが自然。

以上の2点を軸として述べている。この点は仮に、現在の高見理論を、
現在圧倒的多数の

”小から大への進化派”が批判するとしても、ほとんど差は無く同じ

やりかた、なのではないかと、私は考えている。つまり将棋史研究は

約120年間に進歩はさほど無い

という事である。
 将棋伝来時の様子を示唆する、史料が全く知られて居無いのである
から、大から小進化論を完全に駆逐する、決め手に欠いた状態である。
しかし今の所、”奢る平家は何とやら”のように、小から大進化派は、
多数派を自認して、ほぼ安閑としている訳である。が、実際には、

マスコミ等が高見理論を大大的に宣伝した程度で、”体制”はひっく
り返ってしまうというのが、現在の日本の社会の姿

なのではないかと、正直私は疑っている。
 小から大進化派は、よって本当はそのときに備え、

幸田露伴の将棋雑考の日本将棋のセクションの、大から小進化派批判
のプロセス位は、今からじっくり読んでおいた方が、利口ではないの
だろうか

と、私は思っているのである。(2018/08/22)

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