鎌倉市北条時房・顕時邸跡で鎌倉前期成一文字金銀将(長さん)
西暦2002年前後に、表題の神奈川県鎌倉市
雪ノ下一丁目の遺跡で、
知られて無い小将棋用とみられる銀将駒が出土
していたようだ。なお、これとつり合う成一文
字金桂馬出土駒が存在する事で、雪ノ下は有名
だ。今のところ、鶴岡八幡宮の三の鳥居を過ぎ
ると、駅の方まで戻らないと、鎌倉市では何故
か、大将棋駒出土の気配が無いと私見する。元
々北条氏が、自身を小さな軍勢と謙遜して公表
する意向が、鎌倉時代には有ったのだろうか?
遺物のスケッチが明確に書かれているものの、
写真図版の写真が小さく、はっきりし無い写真
が、発掘報告書に載っていて、発掘報国書が、
奈良文化財研究所、発掘報告書データペース、
全国遺跡報告総覧にpdfが最近登録されたよ
うである。
pdfファイル名は、以下の通りである。
132941_1_鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書.pdf
このpdfファイルは、幾つかの発掘報告書
が合冊されていて、その一つにここで話題とす
る遺跡の報告内容が書かれている。
その報告書の表題は、以下の通りでる。
鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書21
西暦2004年4月~翌年3月発掘調査報告書、
、鎌倉市教育委員会、西暦2005年3月、
(第1分冊の第1ページ)北条時房・顕時邸跡
(No.278)、雪ノ下一丁目264番4地点。
発掘報告書冒頭の地図や、過去本ブログで
紹介した、雙六盤、折敷、将棋駒型の「土門」
と読まれている荷札の発掘地の地番から、遺跡
の場所は鶴岡八幡宮の境内を出た直ぐの、若宮
大路の沿いの大通り西に面した、広大な敷地内
の、現代の東京の、大型高層ビル用の広い敷地
を連想させる、分散した一地点と認識される。
発掘報告書末尾抄録により、今回紹介した
将棋駒が出土したのは、西暦2002年前後の
事で、双六盤が出土してから、かなり後である。
なお以前本ブログで紹介した「土門」荷札?
は、この発掘の際、数十年成立時代が後とみら
れる地層から共出土しているとの事である。
遺物の成立年代は、発掘報告書第84ページ
付近の記載により、永福寺第Ⅰ期瓦の共出土に
より、12世紀第1四半期ないし前期と考えら
れているようである。
遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第26
の、「図62:第6面出土」の左下に在り、
木製品遺物の第15番との旨、ナンバリング
され、左右に、裏表と見られるコマが撮影され
ている。が私には、駒名はこの写真からは良く
判らない。
スケッチ図が、発掘報告書の第79ページ
付近に在り、成り一文字金銀将と表現されてい
る。恐らくだが、冒頭に述べた状況から、
小将棋の駒であろう。本文中には、若宮大路の
側溝より出土との旨が有るが、将棋の駒である
という以上の詳しい説明は、私には目下見い出
せない。
双六盤の成立年代は、集成鎌倉の墨書により、
将棋駒より数十年後だとみられているようであ
るが、鎌倉時代を通して、北条時房・顕時邸で、
双六だけで無く、将棋も指されていた事が判る、
余り知られてい無い、貴重な出土品である事は、
見るからに明らかなように、私には感じられる。
いろいろな遺物が、莫大な量出土する地点であ
るらしく、さすがの将棋駒も扱いは小さい。
集成鎌倉の墨書でも言及されてい無い、鎌倉
市ではっきりとした銀将駒が出土した、初の例
だと、私にもかなり明快に指摘できる。
(2024/01/25)
雪ノ下一丁目の遺跡で、
知られて無い小将棋用とみられる銀将駒が出土
していたようだ。なお、これとつり合う成一文
字金桂馬出土駒が存在する事で、雪ノ下は有名
だ。今のところ、鶴岡八幡宮の三の鳥居を過ぎ
ると、駅の方まで戻らないと、鎌倉市では何故
か、大将棋駒出土の気配が無いと私見する。元
々北条氏が、自身を小さな軍勢と謙遜して公表
する意向が、鎌倉時代には有ったのだろうか?
遺物のスケッチが明確に書かれているものの、
写真図版の写真が小さく、はっきりし無い写真
が、発掘報告書に載っていて、発掘報国書が、
奈良文化財研究所、発掘報告書データペース、
全国遺跡報告総覧にpdfが最近登録されたよ
うである。
pdfファイル名は、以下の通りである。
132941_1_鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書.pdf
このpdfファイルは、幾つかの発掘報告書
が合冊されていて、その一つにここで話題とす
る遺跡の報告内容が書かれている。
その報告書の表題は、以下の通りでる。
鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書21
西暦2004年4月~翌年3月発掘調査報告書、
、鎌倉市教育委員会、西暦2005年3月、
(第1分冊の第1ページ)北条時房・顕時邸跡
(No.278)、雪ノ下一丁目264番4地点。
発掘報告書冒頭の地図や、過去本ブログで
紹介した、雙六盤、折敷、将棋駒型の「土門」
と読まれている荷札の発掘地の地番から、遺跡
の場所は鶴岡八幡宮の境内を出た直ぐの、若宮
大路の沿いの大通り西に面した、広大な敷地内
の、現代の東京の、大型高層ビル用の広い敷地
を連想させる、分散した一地点と認識される。
発掘報告書末尾抄録により、今回紹介した
将棋駒が出土したのは、西暦2002年前後の
事で、双六盤が出土してから、かなり後である。
なお以前本ブログで紹介した「土門」荷札?
は、この発掘の際、数十年成立時代が後とみら
れる地層から共出土しているとの事である。
遺物の成立年代は、発掘報告書第84ページ
付近の記載により、永福寺第Ⅰ期瓦の共出土に
より、12世紀第1四半期ないし前期と考えら
れているようである。
遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第26
の、「図62:第6面出土」の左下に在り、
木製品遺物の第15番との旨、ナンバリング
され、左右に、裏表と見られるコマが撮影され
ている。が私には、駒名はこの写真からは良く
判らない。
スケッチ図が、発掘報告書の第79ページ
付近に在り、成り一文字金銀将と表現されてい
る。恐らくだが、冒頭に述べた状況から、
小将棋の駒であろう。本文中には、若宮大路の
側溝より出土との旨が有るが、将棋の駒である
という以上の詳しい説明は、私には目下見い出
せない。
双六盤の成立年代は、集成鎌倉の墨書により、
将棋駒より数十年後だとみられているようであ
るが、鎌倉時代を通して、北条時房・顕時邸で、
双六だけで無く、将棋も指されていた事が判る、
余り知られてい無い、貴重な出土品である事は、
見るからに明らかなように、私には感じられる。
いろいろな遺物が、莫大な量出土する地点であ
るらしく、さすがの将棋駒も扱いは小さい。
集成鎌倉の墨書でも言及されてい無い、鎌倉
市ではっきりとした銀将駒が出土した、初の例
だと、私にもかなり明快に指摘できる。
(2024/01/25)