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イスラムシャトランジの兵駒は、なぜ大臣駒に成るルールなのか(長さん)

兵駒が、金将に成るのは、日本将棋の起源が王侯貴族将棋であるという
証拠と言う点で、伝来経路の一つのヒントと見ている、本ブログにとって、
表題のイスラムシャトランジの、兵駒のルールは、謎の一つである。
 すなわち、兵駒はイスラムシャトランジでは、

大臣、象、馬、車の任意の駒に成れた方が、むしろ良い。

そもそも、伝来元のインド・チャトランガの兵駒の成りは、到達最奥段点
の駒の動き、というルールであり、伝来先の西洋チェスが、少なくとも現
代では、女王、僧侶、騎士、城への任意成りだからである。
 更には本ブログの立場では、アラブシャトランジが元と目する、中国
シャンチーの歩兵成りは、本ブログの見方では、本来成りではなくて、相
手駒を取ったときの、筋変えの擬制である。中国シャンチーのこのルール
も、インドチャトランガの兵成りが、片面字書き駒では、表現できない
ために、採用しなかった為だと考えれば、自明に説明がつく。つまり、
イスラムシャトランジの兵駒の成りは、東南アジアや仮説雲南古将棋、
日本の将棋のように、大臣成り型ではなくて、大臣、象、馬、車の任意の
駒に成れた方が、むしろ伝来経路の仮説と、つじつまを合わせやすいので
ある。
 では、実際にはイスラムシャトランジの兵駒の成りが、大臣成りになっ
ているとされるのは、なぜだろうか。これが、今回の論題である。
 回答を書くと、

少なくともローカルルールとして、西洋チェスかインドチャトランガ型の
兵成りルールは、当時イスラム圏にも、存在したのではないか

と、本ブログでは考える。つまり、

現在のイスラムシャトランジの兵成大臣定説は、当時のイスラムシャトラ
ンジのルールを、正確には伝えて居無い疑いが強い

と、私は個人的にだが疑うと言う事である。また以上の回答は逆に言うと、

イスラムシャトランジで、兵駒が大臣成りなのは、簡単には理由が思いつ
かない

と言う事でもある。西洋チェスの駒名が、僧侶、騎士については、シャト
ランジの象、馬と違って人間であり、兵や農民が、僧侶や騎士へ成るとい
うルールが、より矛盾が無い事は、確かかもしれない。しかし、インドチ
ャトランガでは、象や馬の升目に達した兵は、象や馬に平気で成っている
のであり、アラブ人が、それを止めなければならない、強い理由も無いと
言えば、無いのである。
 前に個人的には、マレーのチェスの歴史本を、ぱらぱらとめくって、
イスラムシャトランジのルールを、チェックした事があった。が大臣駒の
名称に、ローカルで変種が有るという情報は有ったが、成りの駒の動かし
方のルールの変遷が、詳しく書いてあったような記憶は無い。
 なお、本件に関しては、木村義徳著「持駒使用の謎」や、大内延介著
「将棋の来た道」にも、関連記載はある。増川宏一著「チェス」は、個人
的に、未チェックである。何れにしても、ここでは

”イスラムシャトランジで、兵の成りが大臣であるというのは、おかしい”
という指摘で、留めておこう

と思う。
 なぜなら本ブログの本題が、大将棋であり、その議論からは外れてくる
からである。内容自体には興味はあるが、今の所、これ以上の議論を、こ
の場ではしないで、様子を見ようと考えている。(2018/02/28)

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中将棋。駒の成り条件ルールは、歴代複数有るようだ(長さん)

これまで、中将棋の成りの条件則については、”中将棋型の成り条件”
といった、くくりで、一種類を個人的にはイメージしてきた。なお最
下段で、歩兵をどうするか、香車や仲人まで、歩兵の成り則を、踏襲
するのかという点については、ごちゃごちゃするので、ここでは単略
化して、数に入れない事にする。
 すると、中将棋の成り条件則とは概ね、
「敵陣に入ったとき、自由成り。動かす前に敵陣にいる位置では、通
常成れず、敵陣内で、相手の駒を取ったときに成り。」
を指すから、以上一通りと、最近まで認識して来たのである。
 しかし、古文書を読むと、それとは違う、江戸時代のルールが有る
事が判ってきた。
 文献名は、中将棋絹篩で、内容は、

動かす前に敵陣にいる位置では、成れないのは、入ってからその駒を
次に動かすときだけで、入るために動かした、次の次の手では、成れ
るというもの

である。すなわち、問題部分の中将棋絹篩には、古事類苑、30巻遊
戯部の、将棋の中将棋に記載が有り、昭和の初期のような、ひらがな
まじりの文で、次のように書いてある。文体が、なぜ漢文等でないの
か、古事類苑についての情報は、私には判らない。すなわち文面は、
”成馬の例は、敵地へ入るとき成なり。もし素馬にていれ(入れ)ば、

三の手にて成なり。

二の手にては、成(る)事を得ず。但し敵の馬を取(り)ては、内地
にても(”も”は、余計か?)なる(成る)なり。”と、なっている。
つまり、入ってから、一つ動き、更に

もう一つ動いたときには、成れるらしい

事が判る。
 中将棋絹篩の、明らかにローカルルールと見られる、この成り条件
則が、どの程度普及していたのか、私には良く判らない。

 あるいは、一部の中将棋プレーヤーが、思いつきで始め、やがて
消えた、文字通りのローカルルールに過ぎなかった

可能性も、否定は出来ないと思う。なお、中将棋絹篩は詰め中将棋
の本らしいので、本の内容が、ルール変化の影響を受けると思う。
 ただし、このようなルールにすると、何がどうなるのかを考えて
みると、だいぶん前に、普通唱導集小将棋の、持ち駒を打つ禁手の
中身と、関連して来る事が、浮かび上がる。
 すなわち、普通唱導集小将棋第2節で、”銀が取られた相手が、

桂馬が手に入り、また、8升目の原始平安小将棋の持駒有りタイプ
だとすれば、香車が1~2枚、その時点で持ち駒で、所持されている
にも係わらず、驚き・困惑の表情を浮かべた理由”

を解くために、”次に成れる位置に、持ち駒は当時打てなかった”と、
仮定した持ち駒ルールの部分に、中将棋絹篩の成りの条件則は、関連
して来る言うわけである。
 なぜなら、当時の本ブログの、この点についての説明では、

中将棋の成り条件則が、普通唱導集原始平安小将棋持ち駒有りタイプ
にも適用される

と仮に仮定して論を進めていた。当然だが、もし、

日本将棋のように、”動かす前に敵陣自由成り”にしてしまうと、
特に、持ち駒の香車は、全く打てなくなる

のである。
 香車は、あのとき解説したルールでは、自陣と中間段では、次に成る
位置なので、唱導集に唄われている小将棋では、打てないはずである。
が、敵陣内へは、次に相手の駒を取らないと成れない、中将棋の普通の
成り条件則では、例外的に打てるはずだったのである。
 つまり、別の中将棋の成り条件則であるにしても、冒頭に述べた、

中将棋絹篩のような、次の次の手成りの条件則なら、仮説の普通唱導集
小将棋(持ち駒有り)の香車は、相手陣には、相変わらず打てる

事になる。この事から、
ひょっとすると、仮説と考えてきた、普通唱導集の、本ブログ固有の、

特異な”持ち駒を打つ際の、禁手則”は、実際に存在した

のかもしれないと、私には思えてきた。つまりそのために、中将棋の成
り条件規則を考える際に、中将棋デザイナーの方で、問題が出ないよう
に、成り条件則ルールが、考慮された可能性が有り得るという事にも、
なるのではないか、という事である。
 更に中将棋絹篩では、冒頭で少し述べた、歩兵の最下段成りについて
も、別の所で言及があり、

歩兵だけで、仲人と香車等、別の種類の駒には適用されない

と、他にも、同様な言い回しの文献が、あったかもしれないが、この本
でも断っている。実は行き止まりを無視して、香車が、敵陣に入って、
進んでも、相手駒を取らなけれは、最下段で成れないようにしている
から、前記の特殊な持ち駒ルールでは、敵陣には打てるのである。これ
はまるで、

中将棋絹篩の中将棋の成りルールは、次に成る位置で、持ち駒は打てな
いという、(仮説)普通唱導集小将棋持ち駒禁手条件と、手拍子のよう
に良く合うルール

になっているように、私には見える。
 何れにしても、”持ち駒ルール”と、通常は一括りにされるが、
複数の、尤もらしい”持ち駒を打つルールの禁手”が、理論的には考え
られると見られるため、厳密な議論をするときには、注意深く論を進め
る必要が、あるのではないかと、私は考える。(2018/02/27)

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玄怪録の宝応将棋の輜車。香車動きだから副官へ成り易い訳でもない(長さん)

今回の議題は、未解決問題の解明ではなくて、以前の本ブログの主張で、
記述に、曖昧に部分があったのを、正確に見解を表現するために、設け
たものである。
 すなわち、前に述べた本ブログの見解によれば、西暦800年~
900年頃の、中国雲南に有った、南詔国王室の将棋を、記載したもの
であるはずの、表題の唐・牛僧儒記載の、玄怪録の宝応将棋には、端筋
に輜車という、香車と同じ動きの駒があるとされた。そして輜車は、
銀将(大臣駒)という名称の、金将動きの駒に、相手陣3段目に成ると、
本ブログでは説明した。
 その際、これもまた本ブログの見解によれば、輜車が、このように
香車の動きなのは、金将動きの駒に、成り易くするため、本来の、9世
紀のインド・チャトランガ系の、車または船駒の動きを、改善したもの
であると主張した。しかし、本ブログでは、その

9世紀のインド・チャトランガ系の、車または船駒の動きが、どうなっ
ていて、それを香車の動きにすると、なぜ金将動きの成り駒になり易い
のかを、説明していなかった

と、認識する。なんとなく元駒が、飛車動きのような、イメージで話を
進めた印象記憶があり、

”元輜車の動きが、飛車である”というイメージを消すのが、今回この
点を議題にした主な理由

である。
 根拠は、

インド・チャトランガ(8世紀バージョン)では、象、馬、車駒が、順
に、飛車、桂馬、跳ぶ猛牛または後期大将棋型飛龍であって、車が飛車
動きだという話は無い

からである。
 なお、この時代に既に、イスラムシャトランジは、象、馬、車駒が、
順に、跳ぶ後期大将棋型飛龍、八方桂馬、飛車だったと、私は認識して
いる。しかし、

南詔国王室の将棋は、インド・チャトランガ(8世紀バージョン)が、
ミャンマー付近ののタトンから、ビュー都市国家を伝わり雲南へと、ほ
ぼ直線的に伝来したものであって、イスラム・シャトランジ経由で、
迂回して伝わったものではないと、このブログでは主張している

のである。よって、

輜車が、飛車から香車に変わったとイメージするのは、少なくとも本
ブログの見解が正しいとすれば、誤り

だ。

輜車は、むしろイスラムシャトランジの、後期大将棋飛龍型のような、
前後左右斜め2升目跳びの駒を、金将動きの成りが出来やすいように、
香車動きにしたはず

なのである。しかし、以下の点が大事だが、

確かに香車は、後退できないので、上の段に上がり易いが、猛牛等と
違って、筋を変えられないので、数が減りやすいので、致し返しでは
ないか

と、言う事である。良く考えてみたのだが、このケースは、
動きを工夫して、後退させないようにしたのではなくて、後退できない
から、不成りのルールから、銀将成(大臣成り。動きは金将)ルールに、

ルールを変える口実が出来たので、香車動きを選択したのではないか、

と、私には思えてきた。そもそも、既にその時点で、桂馬動きの馬は、
相手陣奥で、行き止まりになる。ので、馬については、後退できる、
近王としての、名称・銀将、恐らくルールが金将への成りに、
9Cチャトランガから、南詔国王室の将棋(仮説・宝応将棋)では、
ルールを変える口実が、揃っていた。そこで、車についても、

後退できず、車っぽい動きのルールとして、香車動きを、南詔国王室の
ゲーマーが、たまたま考えた

のではないだろうか。ひょっとすると、当時の象(宝応将棋の上将)の
動きを1/4にするという程度の、安直なアイディア程度の、ものだっ
たのかもしれないと、私は思う。
 以上の事から、今後は、

”香車は、成り易い動きである”という、表現を本ブログでは取らない

事にした。”後退できないから、『成りは金将で良い』という、考えを
正当化できる動きである”と、こちらの方が、筋が通りやすいので、こ
れからは、代わりに、こう表現しようと考える。(2018/02/26)

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流行末期の大将棋駒を使い”王将詰め遊び”で13升目盤をチェック(長さん)

本ブログが開設して間もなくのころに、麒麟抄が”偽書”であるにして
も、南北朝時代の情報を伝えているとして、”将棋の駒の成りが、皆金
である”事を、示唆しているのではないか。そしてその事から、たとえ
ば、西暦1300年ころの普通唱導集時代の大将棋が、西暦1350年頃
まで、かろうじて生きているとして、その大将棋の駒も、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄の後期大将棋よりは、金成りが多いのではないかとの、
ぼんやりとした仮説を、述べた事があった。
 つまり南北朝時代の大将棋の駒は、歩兵以外にも、金に成るのが多かっ
たのではないかという事である。この南北朝時代の将棋に関する仮説は、

栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡出土の、裏一文字金角行駒が、今の所
唯一の、それを示唆する史料

である。角行が金成りなのは、横行を人間の類と、見ているからであろ
う。その他、飛車も奔車の類とみて、平安大将棋の、二中歴大将棋記述
の不明の末尾十文字が、奔車の金成も示唆しているとして、飛車も、
南北朝時代の普通唱導集大将棋では、奔車に類と見られて、金に成るの
かもしれないと思う。その他、平安大将棋といっしょで、銀将、銅将、
鉄将、桂馬、香車も、水無瀬の後期大将棋とは違って、金成りに違いな
い。しかし飛龍、猛牛、嗔猪は、動物でかつ、嗔猪も含めて、後退でき
るとすれば、二中歴の平安大将棋流で行けば、恐らく不成りなのであろ
うが。
 以上、ごちゃごちゃ述べたが、仮説普通唱導集大将棋の初期配列は、
5段目以下が結局、

五段目:口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:飛車横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛車
二段目:反車飛龍嗔猪猛牛猛虎麒麟酔象鳳凰猛虎猛牛嗔猪飛龍反車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

と、初期配列され、その

南北朝時代の、麒麟抄型の金成りの多い、駒裏の”成り駒の図”は、

五段目:口口口口口口金将口口口口口口口口口口金将口口口口口口
四段目:と金と金と金と金と金と金と金と金と金と金と金と金と金
三段目:金将金将金将金将不成不成不成不成不成金将金将金将金将
二段目:金将不成不成不成不成獅子太子奔王不成不成不成不成金将
一段目:金将金将金将金将金将不成不成不成金将金将金将金将金将

という事になる。ちなみに、水無瀬兼成の時代の、後期大将棋流だと、
4段目以外は、全部金に成らないのである。なお、繰り返しになるが、
正調の平安大将棋流だと、横行系は、たぶん不成り、飛車も不成り
だろうから、3段目が全部不成りなので、やはり(仮説・麒麟抄の時代
の)南北朝時代流よりは、金成りは、より少なくなる。
 そこで、以下は想像なのだが、

駒の裏が金が多い事を使って、童遊文化史にある、王将詰めゲームの類
が、出来ないものかと考えた。

つまり金で守られた王将を、他方が最初から、持ち駒を持っていて、
金を剥がしながら、王を詰めるようなゲームが、できないかと、と言う
事である。金将を剥がして行くので、金持ち王様から、金を巻き上げ、
身包み剥いでから、倒してしまうような、

以下は”現代”にも通じる、日本の南北朝時代のゲームである。

金持将棋.gif

 調整してみると、角行動きの攻め方の飛龍を、写真のように各辺の
中央に置いて、初期持ち駒20枚を、写真のような組合せで持って、
聖目で囲まれた範囲に、金将がぎっしり並んだ、王将が1枚で、金将
が24枚、合計25枚の相手駒を、主として持ち駒を打つ事により攻
め、王将が詰んだら1ポイント取得とする。そして、交互にゲームを
繰り返し、獲得ポイントが多い場合は、多いほうの勝ち。同点の場合
は、捕獲した、金将駒の合計数の、多いほうが勝ちという、ゲームに
するのが、詰め将棋の”精神”には合わないが、ゲームとしては、判
り易くて良いように思われた。
 なお、王将周りの金将として成りの金のうち、南北朝期普通唱導集
大将棋(仮説)に特徴的な、成り金である、飛車、角行、堅行、横行、
銅将、鉄将の裏の金を使うと良いように思える。ただし、別のでも、
ゲームに支障は無い。
 その結果、攻め方の駒は、その他から選ぶことになるが、飛龍は、
4枚とも例外的に使う事にして、その他の駒は、普通唱導集大将棋の、
片一方の駒で足りる。飛龍と金として使った駒を除くと、片方54枚
の駒のうち、14枚が使われていて、残りが40枚だが、更に玉将1
枚と、金将2枚、歩兵13枚、それにあまりに強い龍王2枚と、龍馬
2枚は、使用し無い事にすると、残りは20枚となり、もともと辺の
中点に配置する飛龍4枚で、攻め方も24枚(予め、初期持ち駒とし
て持てるのは、20枚)と言う内訳である。なお、守り方は成り金な
ので当然だが、このゲームでは、攻め方の駒も全部不成りとする。
”麒麟が獅子に成るルール”だと、攻め方が、余りに有利である。
 また、攻め方は、ゲーム開始時、20枚駒を持つが、基本的には、
このゲームは、駒を取り捨てて、持ち駒としては使用しない。特に、
攻め方が、守り方から取った金将は、後で勝敗を決めるときに使用さ
れる。
 そしてこのとき、飛龍を辺の中点に、写真のように配置するといい
のは、初手▲4四銀等と指したとき、さいしょから、その銀将には、
繋ぎ駒が付くので、攻め方の勢いが、適正に付く。また、4枚ともに
飛龍の利き筋から、外れた升目が、これで盤面半分できるので、先手
の攻撃力を、小さくして、余りにも簡単に後手王将が、捕まらないよ
うにしている。また、写真のように、ゲームの初期配列としての見栄
えも、それなりに良い。実際に、このような将棋遊びが、有ったと言
う保障は、今の所無いが。しかし一応このとき、13升目だから、写
真のような飛龍配置になるのであり、

15升目盤に交換してしまうと、
飛龍は2段目に配置しなければならず、もっともらしさが低下する。

 つまり、普通唱導集大将棋があまりに面倒だったため、より早く勝
負をつけようとして、このような、金回りの良い王将の、王将詰め遊
びを、その時代に思いついたとしたら、

左右両方の金の、死角に当てられた銀に、紐としてつけた角行動きの
駒が、見栄えとして、盤が13升目のときに、一番尤もらしくなる

という事ではあると思う。

つまり、以上のような遊びが有ったという情報が出土すると、その
遊びに使用した、盤の升目は13升目の可能性が、少し高くなる

と、言う事であろう。
 普通唱導集の時代の大将棋の初期配列情報が、文献等として発掘さ
れるのが、むろんベストではあるのだが。
 何か、将棋倒しの話のような、別の将棋遊びの話から、中世の大将
棋に関する、新たな情報が得られないものかと考え、一例として、以
上述べたようなゲームを、考えて見たところである。(2018/02/25)

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鉤行・摩羯。摩訶大将棋口伝で”踊り型ルール”になって居無い訳(長さん)

単に、将棋纂図部類抄の、水無瀬兼成の編集が丁寧であった、だけなのか
もしれないが。同古文書の、摩訶大大将棋口伝の鉤行と摩羯のルール補足
部分の説明は、同古文書の、行然和尚まとめ表の鉤行と摩羯のルール補足
に比べて、丁寧である。つまり、後者では”飛車・角の2度動き”としか、
実質書かれていないが、摩訶大大将棋口伝には、”飛車角型と同じ動きで、
90度折れる動きもできる”と、より厳密に書いて、更には、私の古文書
読みが正しいとすると、

これらは一旦駒を取ったのちには、それ以上向こうの升目に行けないし、
曲がる事もできない(正確な訳は”取った駒を引きずったまま、動くこと
が出来ない”)とまで書いてある、

のである。なお、原文をだいたい書くと、以下のように、純粋漢文ではな
くて、半分”古文”で書いてある。

右両馬(二)不(一)臂折 シテモ(レ)仕之。(レ)取馬テ後、ヒキツ
ル(引き摺る)コトナシ。

 ここでのポイントは、鉤行と摩羯のルールのポイントは、”相手の駒を
一枚取った後には、それ以上向こうへは行けない”という、踊り型とは別
のパターンの、駒の動かし方のルールになっている事である。ところで以
下は私見だが、羅刹の説明の無い、将棋纂図部類抄の摩訶大大将棋口伝は、
安土桃山時代に成立したものだと、本ブログでは推定している。
 従って、曲がって走れるが、駒はその間だけ取れ、1枚だけの取得に
留まるというタイプのルールは、恐らく安土桃山時代に、はっきりと確立
したのであろう。室町時代や戦国時代にも、摩訶大大将棋には、鉤行と摩
羯は有ったのかもしれないが、ルールブックは、恐らくぼんやりとしたも
のだったに、違いない。
 こんかいの論題は、この安土桃山時代に確立したと思われる、

曲がり走りルールが、何処から来たのか

を考える事である。そこで最初に、とっとと回答を書くと、

朝鮮半島に有った、七国将棋の”騎”駒の動きが起源で、豊臣秀吉の
朝鮮征伐等で、日本人と李氏朝鮮のゲーマーとの接触が増えたため、
鉤行、摩羯に、七国将棋”騎”型のルールが、転移した

のではないかと、私は考える。理由は、

ほかに、このようなルールが発生する要因が、特に見当たらない

事が、挙げられると思う。つまり、安土桃山時代には、

七国将棋自体は、日本では流行はしていなかったが、日本の将棋デザイ
ナーには、ある程度、知られていた可能性もある

のだと思う。
 それとともに、鉤行、摩羯のルールから類推しても、前に本ブログで
指摘したように、もともと、七国将棋の

騎駒は、シャンチー・チャンギ馬やチャンギ象とは違って、4パターン
の、何処でも止まれるルールが正しい事をも、示しているのではないか

と、私は思う。前にこの点を問題にした時には、泰国の駒の中に、楚国
の初手から、只取りされてしまう駒が、発生する不自然さと、騎駒の価
値が最も高いはずなのに、単純なチャンギ象型のルールだと、明らかに、
そうならない事等を、根拠として示した。
 なお、地域を限定しなければ、中世スペインのチェス、グランドアセ
ドレフに、”斜めに一升目進んだ位置から、飛車の動きをする”という、
グリフィン駒が在るとも聞いている。安土桃山時代には、日本人の少数
が、欧州に派遣されていたから、欧州の情報が全く入らないとは言えな
いかもしれない。またそもそも、七国将棋の騎駒に、シルクロード伝い
の、西方の影響が、全く無いとも、言えないのかもしれない。イスラム
系のさまざまなタイプのゲームが、東方に伝来し、李氏朝鮮の時代には、
朝鮮半島までには、確実に影響を与えていたのかもしれない。
 何れにしても、互いに戦争している国同士だったため、安土桃山時代
には、朝鮮半島の文化が、比較的大量に、日本に入ってくる時代だった
のではないか。
 その余韻が、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、摩訶大大将棋口伝にも、
淡くだが、残っているような気が、私にはする。またこの事は、日本の
将棋のルールに対しては、長い時間の目で見ると、大陸のゲームのそれ
の影響が、かなり含まれているのではないかと、言う事でもあると私は
考える。(2018/02/24)

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大阪電気通信大学”摩訶大将棋net対局”論文には誤りが有るよう(長さん)

最近、大阪電気通信大学の高見友幸研究室のブログに、摩訶大将棋
連盟の主催の対局会等を、奈良市にて行うとの内容の、紹介記事が
載っている。ネットワーク対局システムを、活用するという記述もあ
り、同研究室が、5年位前に発表した表題の、それに関する論文
”摩訶大将棋のネットワーク対局、「エンターテインメントコンピュー
ティングシンポジウム(EC2013)」2013年10月、
大阪電気通信大学総合情報学部 デジタルゲーム学科 高見友幸研究室”
を、最近まじめに読んでみた。
 システムについては、何が出来るのかが、結論だけ紹介されている
という内容なため、幾ら説明されても同じ物は当然、私には作れな
いが、論文の文面の意味は、理解できた。
 そこでさっそく本論に入ると、私にどうしても、納得が行かなかっ
たのは、最後のページの11図で説明されている、先手の優位が、
後手の”獅子の一歩斜め前への前進から始まる、法性なり替わりの手”
で崩されたという、確かに

摩訶大将棋に特徴的な、”対局事例”の将棋の内容の説明である。

ひょっとして論文のこの部分の内容は、以下の点が変なのではないか。
 問題点を先に述べると、先手の金剛で、成り鳳凰と悪狼を取られた
後手、向こう側の棋士は、

先手の成り金剛の金将を、龍馬で取り返すのではなくて、最初から
有る奔王で、取り返すのが正しいように、私には思える

のである。
 論文のように指したので、結局後手は、鉤行を無くした事になり、
このケースは先手が、後手にできた法性を、少し後で、先手の鉤行で
取り返して、結局先手が勝ったのではないかと、私には疑われた。
 下に、字は判らなくしたが、どの論文だったのか、判る程度に、
論文の画像を示した。なお、論文自体はweb上で公開されている。

摩訶大大将棋ネットワーク.gif

 論文の文面中の赤でラインをつけた部分に、

”法性の取り合いで、勝った方が、摩訶大将棋では概ね勝つ”

との意味の事が書いてある。が、私はこれは、時と場合ではないか
と疑う。つまり、

論文のこの部分の内容は、一般論として、まずもって変だ。

つまり、鉤行の方が法性よりも、摩訶大将棋では、玉詰み能力が強い
ので”鉤行をなり替わり”をしてまで、法性の取り合いで勝とうとし
ては、そもそもだめなのではないか。この論文では、最後に先手が、
鉤行で相手の、2013年当時は、大阪電気通信大学ルールでも、斜
めに踊れた、夜叉替わりの法性を取ったのだが、その結果、少し駒を
動かせば、今度は先手の鉤行で、後手の法性が、狙われ、追われるよ
うになっているように思える。
 それに対して、成り金剛を龍馬で後手が取り返さないで、局面の、
10五の位置に居る、元からの奔王で取ったとする。そうすれば、
本ブログの上の写真の、左上棋譜の小さな赤い四角のすぐ下段の、
やや見難いが、青い四角(□)の位置に当たる、7十の位置での、
”法性への、なり替わり合い”で、後手は、論文のように、順に

羅刹、左車、龍馬、獅子、鉤行で先手駒を取るのではなくて、順に
羅刹、左車、奔王、龍馬、獅子で先手駒を取る事が出来るようになる

のだと、私は思う。その結果、最後の先手の踊った夜叉(当時のルー
ル)は、後手の鉤行ではなくて、後手の獅子で取れるので、後手は、
結果的には獅子が法性に昇格し、

鉤行の法性への降格は、免れる

と思われるのである。このように進めば、論文では実際の結果の報告
が、はっきりとは示されて居無いので良く判らないが、後手鉤行が
無ければ、先手がそれでも勝て、後手鉤行が残れば、恐らく後手が
勝てるだろうと、私は予想する。
 よって、このケース、下側の先手は7十の位置への、後手の鉤行の
利きは、この高見研究室論文が指摘するように、見落としても、奔王
が斜めに利いている事までは、見落としにくいだろうから、そもそも

▲7十無明成という、右側の図のような手を、指してこないのでは
ないか

とも、疑われる。だから、この例を出すには、そもそも本ブログの写
真で、左上の棋譜で緑の四角(□)で示した、

10五の位置に、後手の奔王が有るような棋譜事例では、だめだった

というのが、正しいのではないかと疑うのである。
 以上は、この論文の主要な題材からは、外れる内容ではある。
従って、以上のような内容の点に、この論文には、問題があっても、
主要な部分の、価値を損ねる事には、たぶんならないのだろう。
そもそも対局事例も、棋譜の”奔王”に一箇所、ミスがあっただけだ。
そこでこのようなタイプの、論文の問題は、

著者よりも査読者の方に、誤りの見逃し責任が、問われるような内容

かとも、疑われる。後手の龍馬、奔王は、このケースでは、文面にも
登場する後手の悪狼の、すぐ斜め隣に居るわけだし、後2者は、
中将棋にも有る駒であるから、査読者は念のため、中将棋のブレーヤー
等に、この部分の記載を、問い合わせるべきだったのではないのか。
 何れにしても、この論文を読み、将棋のネットワーク対局について、
私も幾らか興味は持てた。
 摩訶大将棋連盟の、webをも活用予定と言う、この春予定されて
いるイベントが成功するよう、私も心から御祈り致す次第である。
(2018/02/23)

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和将棋の端列際下段は、なぜ牛車と風馬なのか(長さん)

前回、6升目型の、互い違いに玉、金、銀、象、馬、車が配置される
仮説の小型の将棋について述べた。実は、このような配置の日本の将棋
は、良く知られていて、江戸時代の作とみられる、和将棋がある。
 和将棋では、最下段中央に靍(かく・鶴)玉が有って、左右に、猛狼、
猛鹿、鳫飛、鶏飛、烏行、鴟行、盲犬、登猿、牛車、風馬(鳥の説有り)
と、配列される。端列の馬と車が逆であり、馬駒も前方走りで、それら
しさは欠けるが、馬という字が名前に有る駒が、車駒である牛車と並ん
で、端列にあるという点で、6升目24枚制の仮説寺院型平安小小将棋
と、いっしょである。今回の論題は、この馬・車の端列1つづつが、前
回述べた、寺院型平安小小将棋と、何か関連するのかどうかを、問題に
する。
 結論を述べると、

寺院型平安小小将棋が、実際に今までに述べた経過で、存在するとすれ
ば、両者に関連が有るのは、ほぼ確実

と考える。根拠は、和将棋の他の最下段の駒の、動かし方ルールが、大
理国平安小将棋または大将棋状であるからである。なお、
大理国平安大将棋については、かなり前だが、三塔主塔の出土ミニチュ
ア仏の、素材との関連で、本ブログでは言及した事がある。
 すなわち和将棋では、猛狼、猛鹿、鳫飛が、それぞれ、金将、銀将、
銅将の動きと同じであり、鶏飛が前に進めない、平安大将棋の鉄将の動
きなので、盲犬、登猿は、更につけたしの、計5升目隣接歩みと計4升
目の隣接歩みの駒だとすれば、

和将棋は、大理国原始平安小将棋型の、互い違いで、左右が別駒である
部分の多い将棋の形を踏襲し、更に銅・鉄以上にまでまで拡張したもの

のように思えるからである。そもそも、寺院型平安小小将棋は、上記の
大理国小将棋のパターンを、端にまで適用したものでしかないから、和
将棋と、寺院型平安小小将棋とは実質、単に駒の名前を変えて、動きも
少し、変えただけの差にすぎない。従って、寺院型平安小小将棋から、
和将棋の、最下段の駒の、少なくとも動かし方ルールを作る事位は、
誰にでも当たり前に、出来るような内容と、私には思えるのである。
 ただし大大将棋も、左右の駒がかなり別々の将棋であるから、和将棋
の作者は、大大将棋を参考にし、6升目型の小小将棋を仮定しなくても、

独立に馬の字の入る駒を、車駒と同様、端列に持って来る事を思いつい
た可能性も、有り得ないとまでは、言えない

のかもしれない。しかし、何か

はっきりとした前例が有った方が、和将棋のような将棋が、成立しやす
い事も確か

なのではないだろうか。よって目下の所、確定的とまでは言えないのだ
が、以上の事から、6升目の仮説

寺院型平安小小将棋が、実際に存在するとすれば、和将棋の成立に、
なんらかの関与をしている

可能性が、少なくとも否定できないとして、注意すべきなのではないか
と、私は疑うようになっている。そもそも和将棋については、成立に関
し、謎の点が多い将棋種とされる。本ブログは、”和将棋の謎”を解明
するのを、さしあたり今の所目的にしては居無いので、これ以上詳しく
述べる予定は、今の所無い。が、何れにしても将来、何らかの解明の糸
口になるような、和将棋に関連する、江戸時代の史料が発見されること
を、心から期待したいと思っているところである。(2018/02/22)

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鳥獣戯画の遊戯図は、6×6升目24枚制寺院型平安小小将棋か?(長さん)

十六ムサシの遊戯図とも、(小)将棋を指す場面とも言われる、表題の
鳥獣戯画の遊戯図は、升目の数”7×7程度の将棋を指しているように
見える”という説が有力である。他方、前回このブログに於いて提案し
た、6×6升目24枚制寺院型平安小小将棋(取捨て型)、以下略して、
寺院型平安小小将棋は、6×6升目盤となるため、鳥獣戯画の遊戯図の
盤升目に近いものである。そこで今回は、鳥獣戯画の遊戯図のゲームは、

見ようとして見れば、6×6升目の寺院型平安小小将棋に、見えるのか
どうか

を、論点とする。回答を書くと、

取り捨てた駒の一部が、盤の端の直ぐ外に、散漫に置かれていると見る
と、6×6升目の盤の将棋の類にも見える

という結論になった。
 実際の絵では、駒らしき物体は複数描かれているが、個々の駒の種類
は、全く判らない。

鳥獣戯画元.gif

そこで、6×6升目の寺院型平安小小将棋を、仮に指していると仮定し、
駒様の物体の分布パターンから、比較的近い棋譜を割り出すと、以下の
ような写真の、将棋局面のようにも、一例として見えるようである。
なお、前回も述べたが、手を考える所で、ルールを間違えないようにす
るため、酔象(興福寺出土駒ルール)を、角行で置き換えている。ただ
し、この角行酔象は不成りとする。

鳥獣戯画.gif

写真で、盤の向きは、鳥獣戯画の絵に、だいたい合わせていて、玉側が
先手、王側が後手である。つまり右が先手、左が後手である。鳥獣戯画
では、先手を”鼻の丸い”僧侶のような人物が、後手を”小柄な(定説)
女性”が持っている。その他見物の僧が、2名描かれている。3人目は、
次のページに、戯画が続くことを示す、漫画の挿入キャラクターに当た
る人物らしい。そして、定説で7升目に見えたのは、

先手が右袖に、写真のように取った駒をたまたま、何枚か、置いている
からだ

と解釈するのである。すると、線は8本ではなくて7本になり、升目は
7升目ではなくて6升目になる。
 なお、実際の鳥獣戯画では、後手が着手中の瞬間で、なぜか自分の駒
をずらして移動させ、同時に相手の駒を取って、持っているところが、
描かれていると私は見るのだが。戯画の画面は、その着手が完了する、
直前で、相手の駒を持ちながら、手を引いていると見られるところと、
ここでは解釈する。
つまり鳥獣戯画では、写真の後手の

6四位置の歩兵を”△5四と”と、移動させる手の途中が描かれている

と考える。つまり後手はその手で、先手の5四位置の銀将が、排除される
手を、指しているのである。なお、後手の女性の腕に隠れて、1二位置の
成香は、戯画では描かれて居無いと、ここでは解釈する。△5四との前の
手は、”△6四と”と、と金が引かれ、ついで▲5四銀(5五)と進んだ
ものと、推定される。つまり、写真は”▲5四銀(5五)までの局面”で
あり、戯画では”△5四と”と、先手の銀を後手が、取り去ったのである。
 この将棋では、先手の鼻の丸い僧侶が、香車先の歩兵を突いて、
後手の小柄な女性の左辺を荒らしたが、攻めきれず、小柄な女性が、
前手の左辺から、攻め返した所のように見える。
 つまり問題の鳥獣戯画で、なんとなく、

駒の分布が、手前に偏っているのは、先手が先攻めして、絵の向こう側の
駒が、捌かれているせいである

と、一応見たという事である。
 なお、この局面では、後手の小柄な女性の、残りの駒数が少なく、こ
こでは後手が、やや劣勢のようにも見える。が、女性の目論みが正しい
とすると、このあと△5四と▲同桂△同金▲1一酔象△2三玉▲2一成香
△1二玉▲3三酔△2一玉等と進んで、後手の劣勢は、さほどでもないと
も見られる。そのためこの局面は、先手の鼻の丸い僧侶の、あるいは
”終盤近くの長考所”、なのかもしれない。
 むろん、ここで示した写真は単なる一例であって、鳥獣戯画のゲーム
を完全に、特定したものでは、むろん無い。しかし少なくとも、前回ネー
ミングした、6×6升目24枚制平安小小将棋を、鳥獣戯画の遊戯図の、
登場人物の職種からみて、

寺院型平安小小将棋という名称にしたのは、一応は的確であった

と言えると思う。つまり、ゲーム名称決定の、具体的な根拠を示したこと
には、一応なっているように、思われるという結果である。(2018/02/21)

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6×6升目24枚制平安小小将棋が、指された可能性(長さん)

前回、思いつきだったが、仮説8×8升目32枚制大理国平安小将棋
(原始的・取り捨て)から、馬と車の2列を削除し、6×6升目24枚制
の小型の将棋を、今回私が作成したところ、取り捨てルールのゲームとし
ては、8升目型と比較して、より出来の良いものであった、との旨述べた。
 では、このようなゲームの変形は、大理国平安小将棋が、指されたとみ
られる、当の大理国王室内か、日本の奈良県の興福寺等で、実際に行われ
た可能性は、あるのであろうか。
 回答を先に書くと、

 大理国王室内で、指された可能性は少ない。が興福寺では、このゲーム
の出来の良いのに、気がついた僧侶等の棋士が存在し、その影響で、日本
の特定の、寺院内等では細々だが、指されたかもしれない

と、私は思う。理由は、

西暦1198年から、遅ければ南北朝時代までの、酔象の消失とその再出
現を説明する、一つの仮説になり得る

からである。すなわち、現時点で酔象は、1098年に興福寺境内内で、
駒が発見されてから、南北朝時代のものとみられる、京都の上久世城之内
遺跡の出土駒の時代まで、約250年の、空白期が存在する訳である。
 酔象が少なくとも、上久世城之内遺跡の時代には、復活できる要因とし
て、外国の象棋には、象駒が存在し続けているわけであるから、その影響
が、当然有りうると、私は思う。しかし、これでは、

消失前と復活後で、どちらも”酔”が修飾詞である点が、説明し辛い。

 つまり、酔象が、記録には無いが、何らかの将棋型のゲームで、一部、
たとえば、特定の寺院内部では、250年間使用される要因があった、
とする方が、酔象の復活は、より説明しやすいのである。
 なお興福寺で、西暦1110年頃の、年月の日付以降の木簡と一緒には、
今後、酔象駒が出土しなかったとしたら、それは、

興福寺の管理責任者である、藤原氏の長者が成立に関与した、平安大将棋
でも、酔象は、”制御出来ない軍隊内の隊列”を意味する名称だった
ために、削除され、存在しなかったため、頭目の指示に配下も従った為

と説明はできる。しかし、興福寺ではなくて、釈迦の伝記を知っている
別の寺内部で、この酔象の有る、平安小将棋より更に小型の将棋が、

大駒で角行動きである、酔象が有る事によって、ゲームとして面白いため
指され続けていた

とすれば、酔象という駒種が250年後に、そのままの名称で、復活する
理由には、一応はなるように私には思われる。
 なお大理国で、6升目型が指されなかったのは、8升目より、見た目
が地味になるため、たとえ、大理国の王室でも、6升目24枚型のゲーム
の、優秀さに、王様等、誰かが気がついたとしても、

黄金の多数の将棋駒で、遊びとして将棋が指せるという快感が、大理国
の支配者階層にとって、半減するので敬遠された

のだろうと私は予想する。
 そこで、ここでは以降、今議題にしているごく小型の将棋を、

(仮説)6×6升目24枚制寺院型平安小小将棋(取捨型)と名づける

とする。この将棋は、角行動きの酔象が残った、升目の少ない将棋であっ
たために、たまたまゲームとしての出来は、8×8升目32枚制原始
平安小将棋(取り捨て・銀将2枚型)と少なくとも同等、恐らく、より
良かった。そのために、一部の寺院内部等で、記録には残らない程度だが、
平安小将棋とは別の、いわば星目が、2升目ごとに付いた、より小型の
6×6升目の、布に線を引く等により、作成した盤を使う、

小小将棋の一種として、初期院政時代から、鎌倉時代の蒙古来襲までの、
少なくとも200年以上に亘って指され続けた

とするのである。そのために、復活のときには、中国シャンチーの影響で、
酔象の駒の動きが、角行ルールから、シャンチーの象/相に代わり、更に
は釈迦をイメージして、太子に成るようになったとしても、名前は酔象
のままで、日本の将棋では、大将棋の駒として復活できたのだと、私は
考えるという事である。(2018/02/20)

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仮説8升目32枚制大理国平安小将棋、馬・車も一枚ならどうなるか(長さん)

少し前に、原始平安小将棋は、標準型の9升目制の平安小将棋から、
金を一枚除いたものであり、8升目32枚制の大理国平安小将棋の
銀と象が交換改ざんされたものであるとの旨、私見を述べた。逆に
言うと、8升目制の大理国平安小将棋は、玉将・金将・銀将・象が、
それぞれ、双方とも一枚づつあり、馬・車が、標準型同様、2枚づつ
あった事になる。
 このような駒構成の将棋を見れば、少しでも関心の有る方なら、

では、玉将、金将、銀将、象、馬、車が、いっそ全部1枚づつの、
6×6升目制の、取り捨ての将棋なら、どうなるのだろうか

と、考えるのではないだろうか。そこで私は、前に鯨将棋をチェック
するのに作成した事のあった、6×6升目盤を使って、今述べた、
取り捨て型、24枚制将棋を、最近チェックしてみた。結果、

平安小小将棋.gif

上の写真の、6×6升目24枚制の取り捨て型の将棋は、比較的
ゲームとして、出来の良い方になる

のではないかと、いう結果になった。なお、酔象駒は、写真では、
ルールが間違えにくいので、角行で代用している。だからこの角行は、
不成りである。ざっとチェックした限り、このゲームは、8×8升目
制の32枚制原始平安小将棋(取り捨て)に比べて、少なくとも、

指し方が単純にはなっていない

ように私は見る。
 すなわち開始後、香車先の歩兵を突いて、後手の銀と桂馬を攻める
手が、先手の手として直ぐに思い浮かぶが、この攻めは、結果として、
先手が後手に対して、さほど有利になるように、局面を変化させない。
 つまり、▲1四歩△3三歩▲1三歩△同歩▲同香△2三桂▲2四歩
△3五桂成▲同金と9手進むと、いっけん後手の桂馬が死んで、先手
が駒得になったようにも思えるのだが。その後△3二銀▲1二香成の
11手目までは、先手の攻め勝ちかと、一時思われた後、△2三歩
▲同歩△同銀▲1三香△3四銀▲1五金△6三歩の18手目の局面で
は、後手が中央部を、いつのまにか大きく制圧していて、後手やや優
勢になって、しまっているのである。

18手目.gif

つまり、自明なように見える、

右端の香車先の歩兵突きの手が、序盤の最善策に、どうやら、なって
いない将棋

に、この将棋はなっているのである。たぶんこの性質が有るだけでも、

この駒数クラスの取り捨て将棋としては、相当に出来の良い方

なのではないかと、私は思う。今回は、以上の事実の確認に留め、で
は実際に、大理国か日本の興福寺で、この6升目型のゲームの存在に、
気が付く可能性が、有ったのかどうか等、将棋史との関連については、
少し考えてから、次回以降に論じたいと考える。(2018/02/19)

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