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平安小将棋「裸玉ルール」。玉詰め勝ルールが無かったらどうなるか(長さん)

本ブログでは、二中歴の小将棋の末尾の記載の裸王ルールは、「玉詰めに
失敗しても、相手の玉を裸にすれば勝ちである。その際、相手最後の一枚
の駒を、自分の玉で取ったとき、相手玉が、最後の駒に利いていて、自分
の玉が次に取られる場合でも、相手の負けである」の意味であるとの、
見解を取っている。
 しかしながら、先行研究の中には「玉詰めで勝ちというルールそのもの
が、平安小将棋には、そもそも無いのではないか」との、疑念の見解を、
表明している例が多い。というより、その疑念をきっちりと否定した見解
を、更に表明している例を、私は今の所、個人的には聞いた記憶が無い。
そこでせめてここで、もし平安小将棋に、”玉詰め勝ちというルール”が
そもそも無いとすれば、実際に、どんなゲームになるのか、今回は考えて
見たい。
 そこで何時ものように、結論から述べると、

独立したゲームの一種にはなるが、将棋系らしい、合戦のシミュレーショ
ン(合戦を模したもの)には、たぶんならないのではないか、

と私は思う。理由は、将棋系とは真逆で、

そのケームに於いて最適な戦略が、自玉を早く相手に取らせる事

だと私は思うからである。なぜなら、

自玉が裸になって、負けないようにする、最も有力な方法は、自玉をなる
べく早く切って、そもそも自玉が存在しないので、”裸玉で負ける”とい
う局面自体が、作れないようにしてしまう事

だと、私は見るからである。逆に言うと、この場合、

玉に関して、どんな本来の自殺手を指しても、相手はその玉を取ると
負けになるため、玉は事実上、取られる事の無い、とてつもなく強い攻め
駒になるはず

である。従って、その平安小将棋での指し方は、
玉で相手のどれでも良いから駒を、ひたすら追い掛け回して取ろうという
手を繰り返して指す事であろう。あるいはまた、逆に相手から、玉で味方
の駒に対して、しばしば、互いに当たりで、相手にとっては、それでは本
来、自殺手になるはずの、”一般駒の取り”を、相手の玉で掛けられたと
きには、その相手玉は、取れても取れば、取ったほうの負けなので、なる
べく消耗しないように、狙われた自駒を、ひたすら逃げ回らせるだけの、
将棋をもまた、指す事になると思う。恐らくそれでも、ゲームとしては、
成立すると、私は見るのだが。そのゲームは、

合戦の雰囲気とは似ても似つかない、むしろ玉を牛と見立てたときに、牛
が闘牛士の群を退けて勝つことが、予め定めとなっている、やや不自然な
闘牛ゲームになる

ような気が、私にはするのである。二中歴に書いて無い事は確かなので、
敢えて「絶対に、平安小将棋には、玉詰めルールは有る」とまでは言わな
いが。少なくとも、以上で述べた裸玉ルールしか無いゲームが

異制庭訓往来の、「合戦を模したもの」との意味での、将棋の定義とは、
毛色が、かなり違う事だけは確か

なように思う。なお、現在のチェス型ゲームには、ルールブックで裸玉に
言及のある、普通に玉駒詰めルールのものが複数有る。800年前と今と
で、状況が違うと言われれば、それまでだが。少なくとも、ゲーム系統樹
で、孤立して来るのが、玉詰めと裸玉の両方があるゲームではなくて、裸
玉ルールだけしか無い方である事は、事実としては確かであると認識する。
(2018/02/08)

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興福寺駒という、初期の出土駒の成り金が2文字のような訳(長さん)

興福寺出土駒等、11世紀とみられる将棋の遺物で、玉や金自身の
ほかの種類の駒には、劣化して消えたとみなせる遺物を除いて、
裏の成り金文字につき、金く、金也、金・、金将等、金と、もう一
文字が、位置や墨跡から、推定できる場合が多い。言うまでも無く、
現在の日本の将棋では、成り金は一文字で、表駒が何かは、その字
体の崩し方等で、区別されるのが普通である。今回は、その違いの
理由を問題にする。
 答えを先に書くと、

駒の向きが厳格に、五角形の矢印角が前である事に関し、今より
11世紀の方がルーズであり、ゲームを円滑に行うためには、それ
を、より徹底させる必要性があった

とみられるからだと、私は思う。すなわち、駒をきちんと初期配列
時並べるのは、我々には自明に見える。が当時は、そうではなかっ
たからだと、言う事である。つまり、我々が将棋駒を

きちんと並べられるのは、単に繰り返し躾けられたから、それが当
たり前だと思っているだけ

だと私は考える。すなわち、11世紀の日本の将棋の時代には、
実際にはその時代には存在しないが、例えば仮に、”古猿”という
駒が、その時点でも有ったとして、その成りの”山母”が、一文字
で、”毋”とでも書かれていたとしよう。すると、

古猿が成ったとき、駒を横に寝かせて、”申猿”という駒だと主張
し、自分勝手に、駒の動かし方ルールを決めてしまうというような、
マナーを守るという事にほぼ無頓着な、乱暴な人間も居た位

だったのではないか。しかし、この場合も、山母を”毋”と略さずに、
山母と記載しておけば、山を横に倒したような漢字は、存在しない
し、他の駒は縦に二文字であるから、トラブルが防げるのであろう。
つまり、

金一文字という表記に、11世紀の時点では、信頼性がまだ無かった

のではないか。そのために、

ほぼ2文字の表記である、”金く”や”金也”で、駒の向きの信頼性

について、たぶんダメ押しをしたのであろうと、見るという事である。

そもそも、元駒は、このブログの推定では、

伝来当初は、桂馬が馬、香車が車、歩兵が兵と、”呼ばれていた”

はずである。
 そしてそれに桂、香、歩の修飾詞(文字)を加えたのも、車等の字
の向きから推定される、駒の向きに関して、安定性・信頼性に、問題
が有ったからだと、私は思うのである。成りの金将も、そのため、表
駒によって、差をつけようとしたときに、11世紀の最初期には、
2文字は、そのままの範囲内で、工夫されたのかもしれないと、私は
思う。ただし実際には、興福寺出土駒の劣化が激しく、確定とまでは
行かないようだ。
 何れにしてもその後、金の字体は、倒したり、ひっくり返したりし
ても、現実には、別の字に見えるような事が無かった。そのため、
金一文字成り表記に対して、じょじょに信頼性が増すようになり、

現在のように、金は一文字にし、やまとカナ生成流に字体を変えて、
元駒の種類が判るようにする形式に、やがて変化した

のかもしれないと、私は思う。何れにしても、私の推定では、玉将、
金将、銀将以外の駒名への、修飾詞の付与による2文字化は、日本の
将棋の場合、

駒の敵味方帰属を、より正確にするための、国内で発生した名称変更

である事だけは、確かなように思えるのである。(2018/02/07)

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本ブログ。日本へ五角形将棋駒が伝来し、将棋が発生したと見ない訳(長さん)

通常、現在の所、「五角形の日本将棋の駒は元々、中国なり朝鮮半島で
発明されたものであり、それが伝来して平安小将棋になった」との説が、
有力視されている。しかし、それが定説までとはなっていないのは、

大陸で、五角形駒出土の例が実際には無いという、考古学の未成熟のため

とされる空気が、将棋史界では強いように思える。しかしながら、本ブロ
グでは、そのような、発掘考古学の未熟さが”日本の将棋の字駒は、大陸
起源”との説が固まらない、理由になっているとは見て居無い。
 たぶん、五角形の将棋の駒は、かつて海を渡って日本に来たという、

日本将棋駒の大陸起源説は、かなりの確率で、何れ否定されるだろう

と、見ているのである。理由を最初に書いてしまうと、

日本の将棋駒は、意匠で他国のよりも優れた所は余り無いのに、機能だけ

が抜群に秀でているという、不思議な性質がある

というのが、私の個人的な見解だからである。なお、今の日本将棋は全く
違うが。伝来したはずの、原始平安小将棋は、二中歴の記載のように、
「裸玉にしないと、勝負が付かない」ほど、玉を詰める事を争う面白さが、
本来の姿である、チャス・象棋・将棋類の中では、ゲームとして出来が悪
いものである。そこで、

ヘビー・ゲーマーが、ゲームする事自体の面白さに吊られて、日本の将棋
用の貧弱な意匠の駒を、渋々大陸の盤駒業者から買ったのが、将棋の始ま
りとは、少なくとも考えにくい

と、私は見る。つまり、ゲームの面白さ以外にゲームをする動悸があると
言う事であるから、当時の日本国内だけの、ローカルな事情が、将棋駒発
生の発端だったと、推定できるのである。
 さて話を移すと、私が日本の将棋駒の機能で、最も関心する点だが、

駒の裏側に、成り駒名を、しかも工夫の上で書いている

という点である。一般には五角形である事に、むしろ目が行っているよう
だが。しかし先端が、矢印の代わりになって、敵味方が区別できるように
したのが、基本的には駒が五角形の形の理由であり、

これは、他国のチェス・象棋ゲームの、色分け等のやり方と、引き分け

だと思う。
 他方、

他国の駒で、成り駒がこれほど判りやすいものは、日本の将棋駒の他に
は見当たらない

という点がある。この点を日本人は、先祖の遺産として大切にするべき
だと、私は個人的には思っているのだが。
 しかも、それでけではなくて、今では成り金の字体を工夫したり、少し
前に述べたように、かつては金将を金也とか、”金・”と表現したり
する事によって、

表の字の情報まで入れている

のである。なお、このようにする理由は、元の将棋博物館の館長等のプ
ロ将棋棋士の木村義徳氏が、「持駒使用の謎」で述べている、
①成る前の駒が何で有るかを知る事により、持ち駒としたときの駒の価
値を正確に把握できるようになる
のほかに、
②相手の成り金が、元は何の駒だったのかを知ることによって、相手が
その駒を成らせる事によって、局面評価値を、どの位変化させたのかを、
後把握しやすくする。
③元々、歩兵の成りの成り金等に、見物人が興味を持っているので、歩
兵の成り金かどうかが、成り金の字から、判断できることが好ましい
等、幾通りもの理由が考えられる。が、何れにしても、同じ成り金でも
表駒は、幾通りのケースも有りうるという事情が、日本の将棋にはある
訳であるから、成り金の字の中に、

表駒の情報が含まれているという、日本の将棋駒の性質は、極めて秀で
たもの

に違いない。なお、その為に

たとえば、金を”今”の字に代用する事も考えられた

のだと私は思う。そこで更に、話は脱線してしまうが、

理由が無くて、当て字を使うというケースは、日本の将棋駒には、この
ルール把握を道具ではっきりさせるという、機能重視の性格から見ても、
実際には、存在しないのが当然だ

と私は思うのである。つまり逆に、表駒名だけでは、成り駒に任意性が
出来るというケースは、成りに右犬と左犬の有る

大局将棋の口偏”奇犬”の一種類程度

だったため、現実には駒表の名称に、あて字を使う習慣は、日本には全
く存在しないと、私は予想する。

つまり”奔横”という駒は、あて字ではなくて、横行の前の升目に居る、
川西遺跡大将棋の奔王に似たルールの、未知の駒名だと、私は考える

のである。

何れにしても以上のように、日本の将棋駒ほど、見栄えはたいした事が
無くても、機能的に、プレイヤーにフレンドリーな道具は、世界中何処
を探しても、恐らく見あたらない

のではないか。
 それに対して、

日本の将棋駒の意匠としての地味さは、イスラム・シャトランジの駒に
次ぐもの

だと、私は思う。中国シャンチーやチャンギのように、色が付いている
わけでもないし、古代のチェス駒のように、駒を区別するという点では
過剰な、細かい装飾が、駒に施されているわけでもない。
 日本人は、最初は誰も将棋は知らなかったはずであるから、駒を着飾っ
て伝来させない限り、道具のデザインに引かれて、日本人が中国交易商
人等から、将棋駒を買うと言う事は、余り無いはずである。
 他方、どうみても、「そういう個別の事情なら、経帙牌を売ってやるか
ら、漢字でも、ヤマト仮名でも良いから、あなた方の好きなように、写経
所等で、字を書いてもらって将棋をしてください」が、五角形駒木地が、
経帙牌という名札と、近似の形なら自明なはずである。従って駒名を書い
て、字で名前を示せるのが当たり前の、地味な五角形駒に、実際にたとえ
ば中国にあった、原始日本の平安小将棋の源の駒の、漢字を中国人
の感覚で書いて輸出しても、ゲームを楽しむというよりも、たとえば例を
示すと、呪いや

願掛けに近いような、

特殊な理由で、一定の地域階層で、始められたゲームの駒の名札としては、
微妙に適合性が違っていて、受け入れられないだろう。たとえて言えば、
絵馬の製造業者が、個別のユーザーの願いまで、先に印刷しては売れな
いのと一緒で、完成品の輸出進出は、もともと、しにくいはずである。
 ようするに日本の将棋駒は、いわゆる商品や伝来品では無いのだろう。
そうではなくて冒頭近くで述べた、何らかのローカルな事情によって、
必要に迫られて、自分たちで作成した自家製の、筆と墨等で、どんな字を
どんな書体で書くかを、いろいろ工夫した結果生まれた、いわゆる家庭内の

ドイトの物品に、日本の将棋駒は近い

ように私には思える。
 つまり、日本の将棋の元ゲーム自体は、恐らく、かつて外国に有った
にしても、

五角形の将棋駒自体は、恐らく最初から日本の写経所等で、工夫の上で
作られたもの

と、ほぼ断定できるのではないかと、私は見ているという訳である。
(2018/02/06)

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後期大将棋嗔猪の動き、将棋纂図部類抄と世界の将棋で何故違うのか(長さん)

最初に断っておきたいが、実は嗔猪の動きは3通りある。うち大局将棋の、
盲猿や登猿や、大阪電気通信大学の盲熊の動きと、同じ動きのルールの起源
に関しては、私には良く判らない。ここでは、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
の後期大将棋の嗔猪と、江戸時代の将棋書、松浦大六氏所蔵の象戯図式と、
同じとみられる、近年の成書「世界の将棋」、あるいはweb上の、
wikipediaの後期大将棋の嗔猪の動きが、どうして違うのかだけを
問題にする。なお、

嗔猪の動きは縦横隣接升目に歩み型であるが、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
ルール(=大阪電気通信大学の摩訶大将棋の嗔猪)では、後退できない点が
違う

のである。なお最初に推定される実態を述べると、私見では、

西暦1300年頃書かれた、普通唱導集大将棋の少し後頃に、嗔猪の動きは、
世界の将棋型から、将棋纂図部類抄型に、一旦変わった

と、本ブログでは推定している。根拠ではなくて、原因を以下述べる。よう
するに普通唱導集大将棋の第2節から、嗔猪のルールと、中国シャンチーの
兵卒の動きとは、イコールと誤解したので、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の
元文献である、室町時代初期の曼殊院の将棋図の頃に、後退の動きが消失し
たと、私が推定しているという事である。そう推定出来るのは、前にも述べ
たが、

仲人と嗔猪とで連関性を持たせるのは、チャンギの隣接兵卒の使い方と類似

だからである。蛇足だが、更に仲人に桂馬で紐をつけるのは、シャンチーの
馬の使い方と類似である。つまり、普通唱導集が成立し、かつ中国・朝鮮の
象棋ゲームも指せる棋士が、普通唱導集をたとえば、西暦1350年頃に読
んだとすれば、

”嗔猪はチャンギの兵卒の動きのようである”と、イメージできる

と私は見て、結果的に”間違えるだろう”と、予想するのである。他方、
平安大将棋時代の猛虎をモデルに、鎌倉中期、西暦1260年の蒙古来襲
前後の頃に、嗔猪を導入したとすれば、導入者は時代から見て、

猛虎と嗔猪を、北宋時代の司馬光の幾つかの将棋種の裨・偏の対応を
イメージして、猛虎から嗔猪を作り出した可能性が強い

と私は見る。すなわち、はっきりとはしないが、

日本で平安期にあたる北宋時代の裨・偏のあるゲームを見て、嗔猪が猛虎
を連想して、鎌倉時代中期に作られたが、鎌倉時代後期の普通唱導集を、
数十年後の南北朝時代に読んだ読者が、たまたまシャンチー・チャンギの、
できる棋士だったため、嗔猪の後退ルールが、南北朝時代に誤って
抜け落ちた

のではないかと、私は疑っているのである。
 なお、更にぼんやりとした推定でしか、今の所無いのだが。江戸時代の
松浦大六氏所蔵の象戯図式で、嗔猪のルールが、再び四方向型に戻るのは、
以上の記憶が江戸時代まで残っていたのでは無いと思う。そうではなくて、
もともと、3方向動きの新版ルールの嗔猪の動きに、合わせて作られた、
悪狼の動きを、実際に指したときの改善等、なんらかの理由で、江戸時代
に、象戯図式では銀将に変えた結果、猫叉との関連性が、配置から高く見
るようになったため、4方向の古型に、たまたま戻しているように、私に
は見えるのである。つまり、

オリジナルと、松浦大六氏所蔵の象戯図式の、嗔猪のルールが一致したの
は、単なる偶然

と見ていると言う事である。
 ただその際、徳川家治に気に入られた、七国将棋の裨・偏のルールが、
やや時期が早いが元禄期には知られていて、その影響もあるのかもしれな
いとは思う。そして、近年の著作である「世界の将棋」やwikipe-
diaへは、たまたま、松浦大六氏所蔵の象戯図式の、対称性の高い嗔猪
のルールが、取り入れられたのだろう。
 何れにしても、中国の北宋時代の象棋、シャンチー、チャンギ、七国将
棋等は、大陸で出来ても、すぐに日本に伝来するという事は無いにしても、

100年・200年たつうちには、確実に日本にも情報が伝わり、
その影響が、日本の将棋にも、何らかの形で残ったのではないか

と、一般論として私は、思考の要素に、加えるようにしているのである。
(2018/02/05)

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シャンチー兵卒の河越え成りルール。鉄将から前横一升へ変化の意味(長さん)

岡野伸氏の1999年の著作である、彼の自費出版書、「世界の主な将棋」
には、中国シャンチーの歴史に関して、朱南鉄著書の「中国象棋史叢考」の
紹介があり、その中で表題のような、日本では、他には余り紹介の無い、
シャンチーの兵卒駒の河を越えた所での

成り駒のルール変更という、たいへん大事と私は見る情報の紹介

がある。すなわち、表題のように、後期大将棋の鉄将の前3方向歩みから、
現在の、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の嗔猪の動き、すなわち、前と左右
横に、それぞれ一升歩みに、変化したというのである。
 これが、なぜ大切なのかと言えば、

その成りの動きが、士(大臣の駒)ではなくて、兵卒+駒を取った時の
チェス/ポーンを足した動き

と、解釈できるからである。なお、駒を取った時には、斜めに兵が進むの
は、チェスと、古イスラムシャトランジ、古チャトランガ、現東南アジア
象棋、モンゴルの古チェスと、たいへん範囲が広い。すなわち、

シャンチーの河越えの成りは、元々成りが目的ではなくて、中央付近で、
ポーンが、相手駒を取った時の動きの擬制

とみられるのである。つまり駒を取った時だけ、兵卒の動きを変化させる
というのでは、シャンチーの棋士の、少なくとも一部には、「判りにくい」
と評価が悪かったため、プロト・シャンチーのデザイナーが、駒を取って、
兵卒の筋変わりが起こるのと、

ほぼ、等価な効果を与えるために、中央付近から、兵卒の動きを変更した

と、考えるのが自明のように思われる。そうしたのも、イスラムシャンチー
の兵の動きのルールを取り入れる際の、たまたまの変更だったのかもしれ
ない。
 しかし、そうした結果シャンチーでは、兵卒が段奥で、本当の成りルー
ルらしくは、成れなくなってしまった。つまり、成ろうとすると、
2段成りになり、判りにくくて、採用できなかった。そのため、岡野氏も
書いているように、段奥で

兵卒が行き止まりになるのを避けるために、筋転換を、実質同じの、斜め
前から横への動きで、代用

したのであろう。なお、中国シャンチーが伝来し、砲のルール調整の過程
で、兵卒の動きを再調整した、朝鮮チャンギでは、上記の新しい成り兵卒
の動きが、最初からの動きに、更に変更されたとみられる。

以上の事から、元々中国シャンチーは、駒の動かし方ルールが、砲以外、
イスラム・シャトランジに、塞馬脚等の、これも後からの変更と見られて
いる象・馬の細則を除くと、全くもって類似

と結論できる。従って、中国シャンチーは、インド・チャトランガから
の進化の過程で、一旦西アジアに行ったゲームが、中世のイスラム文明と
共に、再度東アジアに戻ったものであるとの証拠が、兵卒の成り規則の
変化にも、痕跡として明らかに残されているのだと、私は考えるのである。
(2018/02/04)

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砲筋が車筋の内側の、11×11路34枚制北宋象棋を指してみた(長さん)

少し前、11路の北宋将棋(プロト・シャンチー)について、車筋の外に、
更に砲筋を付け足した形の、32枚制のバージョンのチェックをした。その
際、少なくとも岡野伸氏の自費出版書「世界の主な将棋」には、プロトシャ
ンチーが、もう一タイプ記載されているとの旨も、紹介した。そしてそれは、
下の写真のように、

34枚制北宋象棋.gif

砲筋が車筋の、今度は内側に有って、兵卒が1枚づつ増加し、11×11路
34枚制北宋将棋(②)と、呼べるようなものであった。玉駒の頭が、32
枚制北宋将棋(①)に比較して、がら空きなため、こちらの方が、更に攻め
が単調になるだろうと、①タイプのチェックのときに述べた。だが、気に
なったので、今回、あり合わせのもので、兵卒駒を1枚づつ作成し、写真の
ように並べて、実際に指してみた。
 結果を先に述べると、①と同じく、砲による横兵卒取りが、最初から
▲2四砲△10八砲以下出来、そのために歩兵を取り合った後で、既に述べた
ように、それぞれの帥・将駒の下の升目に、残ったもう一方の砲を移動させ
て、王手を掛けると、自明な急戦展開になって、

この象棋も、通常のシャンチーとは、似ても似つかない、展開が単調で、
出来の悪いゲームになってしまっている

事が判った。
 なお、初期の玉形が、シャンチーというよりは、チャンギに似ていたし、
玉形が危ないことは明らかだったので、帥将の動きは、シャンチーではなく
てチャンギの漢楚の動きに、変えてみた。結果は、焼け石に水だったと思わ
れた。また、少なくとも岡野伸氏の著書では、実際には、左辺”士”駒が、
wikipediaの後期大将棋の嗔猪の動きである、”偏”になっている。
しかしながら、このオリジナルルールは、他方の士(または裨)との連関が、
士が2個の場合よりも、更に悪くなって、囲いが一層崩れるので、今回は、
余計にひどくなるだろうと見て、採用しなかった。
 砲と車による寄せという、余りに単純なゲーム展開になるので、私の棋力
のせいかと疑い、ためしにその後、普通のシャンチーもチェックした。しか
し、相変わらず、こちらは駒が相乱れて、面白いゲームと感じられた。
 結果を見てしまえば、何でも無い事だったのだろうが、恐らく、

 ”砲筋を、独立には作らない、一定の位置に置いた配列に変える”という
最終的な答えに、シャンチーのゲーム・デザイナーが到達するのに、この
ゲーム成立のケースは、相当長い年月の混乱が有った

のかもしれないと、私には疑われた。(2018/02/03)

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西暦1010年代の大宰府将棋。五角形駒の歩兵の成りは”と金”か(長さん)

前回、藤原隆家を”と金のモデル”と表現したが、厳密にはこの表現は
誤りだったかもしれない。実際には、大宰府の写経所で作成されたと推
定する、初の日本の将棋駒は、当然だが出土して居無い。日本の将棋の
作者の、写経坊主(推定)が作成した、日本の将棋具第一号は、当然だ
が、周文裔親子から、ルールを教わった(推定)通りに、作ったと見ら
れる。つまり、と金はまだ無く、表が玉将、金将、銀将、馬、車、兵で、
後4者の成りは全部、金将と普通に書かれていたのだろう。
 そして西暦1019年に大宰府の武士が、日本で始めて熱心に、将棋
というゲームを指すようになり、将棋場の景気づけから、馬が桂馬、車
が香車と書かれて、駒の向きも、より間違えにくく、なったとみられる。
 その際、兵は歩兵に変えると、いっけんすると、やぼったくなったよ
うにも思える。ただし、実際には、次の理由で”歩”は付ける意見が、
勝ったのだろう。というのも、当時の小将棋は8升目なので、

3歩で成れた。そこで相手がズルをして、ただちに成り歩兵を作ろうと
して、兵の複数歩進みの、禁止手を指さないように、はっきりと、”兵
は1歩進みのルール”である事を、明記する必要があった

のだろうとみられる。事実、少し時代は下がるが、西暦1058年頃作
の興福寺出土駒の歩兵も、兵と略す例は、ここからは発見されない。が、
それに対して”歩”と略した駒は、一枚発見されている。一歩進みルー
ルが、この頃にも強調されたのだろう。また大宰府の武家が指すように
なって、特に歩兵の成りの金将に、注目が集まったと推定される。そこ
で、

歩兵の成りが区別のため”と金”になったかと言うと、残念ながら否だ。

同じく、興福寺出土駒の例を見ると、相変わらず金将か、あるいは、
歩兵の成りは、はっきりしないが「金・」と書かれていた可能性がある。
 それに対し、銀・桂・香の成り金を”金也”と表現する事で、”也”
と”・”~”将”とで、その他の成り金か歩兵の成り金かを、区別して
いた可能性も、遺物が劣化していてかなり曖昧だが、ひょっとすると有
るとの解釈が、なされているようだ。
 なお、更に時代は下がると、平安時代最末期には、中尊寺遺跡の歩兵
の成りのように、”と金”も、実際発生する。しかし、貴族的な武家で
ある、平家政権が批判されて、鎌倉に武家政権が誕生する頃になると、
彼ら武士は、名実共に主役になって、各地方に年貢の請負権等を持つ
ようになったのだから、京都への進出を夢見て、と金の斬り合いをし、
将棋を指す場が異様に盛り上がる事も、中尊寺遺物の時代には、ほぼ無
くなっていたのではないかと、疑われる。
 以上のように、実際に1015~1020年頃の、五角形型の将棋駒
が出土しないと、はっきりとしない点が多い。そもそも、ありあわせの
経帙牌を使用していたとすると、当時駒は、全部同じ大きさだった可能
性も、大いに有ると考えられる。(2018/02/02)

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大理国将棋象の削除。貴金属銀の増加、象成規則の説明煩雑外の理由(長さん)

以前、大理国の王室で指された、8升目32枚制(使用金駒20個)原始
平安小将棋には、もともとは恐らく、カツラ材製の象駒が、計2個存在し、
北宋代中国人交易商人の、周文裔親子によって、立体銀駒に置き換えられ、
更に成り金用の黄金の立体金駒が、20個から22個になって、大宰府
経由で都に運ばれ、後一条天皇が保管する事になったのだろうとの、
本ブログの見解を述べた。その際後に、興福寺で西暦1058年前後に、
不成り酔象となって、正しい大理国将棋を指す目的で、一時期復活したと
みられる不成り象を、前記の交易商人が取り除いた理由として、

①藤原道長からの西暦1014年の”内裏の火災による、金銀装飾品の
消失の補充”要求が、もともと周文裔らが、黄金の将棋駒等を持参する
理由であるから、カツラ製の象を、銀製の立体駒の銀将に変えた方が、
藤原道長には喜ばれるだろうと、彼らは判断した。

②象は、大理国将棋のルールでは、恐らく角行の動きで不成りだったが、
不成りの理由である”後退できる非人間駒には、後退できない非人間駒、
桂馬、香車には適用される、例外的に金将に成るという規則が、象には
適用されない”と表現される、本来の大理国の原始平安小将棋の成りルー
ルを、何も知らない日本人に説明するのが、ごちゃごちゃしていて、
彼らにとっては、至極めんどうだった。

③そもそも、日本人で摂関時代に象を知っているのは、宮廷の上層部
程度であり、大宰府の下級役人や、噂を聞いて物見に集まった、字が書
けるだけが、とりえの”にわか”僧侶や、警護の下級武士に、象とは何か
から説明を始めるのも、同じく彼らにとってはめんどうだった。

の3点を挙げた。その際、私は

角行象を、銀に替えてもゲームは、さほど変化が無いように思える

と、どこかでうっかり述べてしまったと記憶するが、現在

これは間違いだ

と判っている。角行が一つでも入ると、歩兵のうちのかなりのものが、
角行の象に喰われてしまい、と金の数が実際には、かなり減るからである。
 他方、そもそも南詔国や大理国の将棋の馬が、八方桂馬ではなくて、
桂馬の動き、車が飛車ではなくて香車の動きと、宝応将棋から推定され
るのは、南詔~大理の王侯貴族が、

中盤以降、成りを増やして、盤上に立体駒の銀駒ないし金駒を増加させ、
キンキラの盤上の光景を見て、階級的な優越感に浸るのが目的の、四人制
時代の二人制チャトランガからの、古代雲南将棋へのルール変更の、主な
目的の為であった

とここでは独自にみる。しかもその事を、日本にこの将棋をもたらした、
上記の中国交易商人は、人づてに聞くないし、自分達も、試しにこのゲー
ムをやってみる事により、充分に承知していたはずだったと、私は今は見
ているのである。つまり、日本に大理国から、原始平安小将棋をもたらし
た、北宋の交易商人、恐らく周文裔親子には、

④右象をなくし、元々は2つ、その時点で1つ有ったはずの角行象を、全部
銀将にすれぱ、中盤以降の盤上の駒群が、歩兵が消耗しない事により、
より絢爛豪華さが増す事を知っていて、それもあって象を無くした

と、当然考えられると、現在は見ているのである。
 ただし、絢爛豪華な盤面を喜んだのが、実際には、漢詩の書籍を読むと
いう、やや渋い趣味の、大宰府も牛耳る藤原道長ではなくて、

自らが歩兵の役回りで、その中から藤原隆家という、”と金”のモデルが
直ぐ後に、刀伊の入寇の発生という偶然から生まれた、大宰府の国境警備
役の武士達になろうとは、西暦1014年の時点では、周文裔親子にも、
そこまでは予想できなかった

のであろうという事だと、私は現在は考えている。(2018/02/01)

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