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中将棋。初期配列2段目盲虎と角行の間が、空升目なのは何故(長さん)

中将棋には、初期配列で、中段に空升目がそれぞれの側に4箇
所ある。表題の二段目盲虎と角行の間、および同じく2段目の
角行と反車の間である。左右あるので先手後手それぞれにつき、
4箇所になる。このうち後者については、原因に関して本ブロ
グの見解を既に述べている。元々、角行と反車の間に猛豹があっ
たのだが、現在猛豹の居る位置に居た、鉄将が除かれて猛豹が、
猛将と洒落た上で、位置が1段下がったというものである。理
由は、堅行が龍馬+角行の筋にあたっていて、睨まれているた
め、退避升目を作るためと、そのとき述べた。では残りの、盲
虎と角行の間の隙間(空き升目)が、何故生じたのかを、今回
は問題にする事にしよう。
 最初に何時ものように、本ブログの見解を書き、以下でその
説明をする。
 そこで、回答を書く。もともと中将棋では、不要として

仲人を抜く予定だったが、それをやめて問題の升目を空にし、
96枚制の将棋を作成するため

だったと、ずばり本ブログでは推定する。
 では以下に、以上の結論につき説明する。

本ブログでは、中将棋は当初、4段組でびっしり駒を並べた配
列にしようとした

と考えている。理由は、12升目が干支の数で、暦と将棋の関
連性に関する、北周の武帝の言い伝えと良く合うし、8段分駒
を集めて96枚にするというのは、24節気と72候のずばり
和であって、たとえば他の例として、大大将棋と摩訶大大将棋
の駒数の半分であり、その理由も一緒であるから、当然さいしょ
は、そのような将棋を作りそうだという点が指摘できる。中将
棋成立の経緯が、完全に残っていたとは考え難いが、江戸時代
19世紀の中将棋の将棋本、中将棋絹篩にも、
”これ(中将棋)すなわち縦横12(升)目なれば、十二支を
もって合文(思想を表した)とす”とあり、”12升目は干支
にちなむ”という説明があるから、時代に関係無く、誰でも考
えそうな話には、間違いは無いと私は思う。

そして96枚というのが、12の8倍である事から、4段組の
将棋を作れば、24節気と72候の和の96で、ちょうど良い

将棋になる事は明らかだった。
 ところが、最初使用しない予定だった仲人は、龍馬+角筋を
止めるために、普通唱導集の大将棋の第2節に唄われているの
と原理はいっしょで必要なのに、中将棋のデザイナーは、試行
するうちに、気がついたのであろう。そのため

仲人下の2段目の駒を取り除いて、96枚は変えずに、2升目
歯が抜けたような将棋に、結果として、せざるを得なかった

と、ここでは推定する。
 以上の事から、

中将棋では本来のプロトタイプになった形が、本ブログの推定
する、駒が4段でびっしり詰まった、108枚制の普通唱導集
大将棋(本ブログ推定タイプ)

のように、隙間無く駒を並べた将棋であっただろうと、推定で
きるように思える。96枚制の将棋を作るという動機は、将棋
の起源が、暦学と関連するらしい、象経だという伝説から考え
ると、暦に現われる数に関連付けたくなるのは自然だから、

袖にもともと隙間のあるような、後期大将棋から、中将棋が作
られるという考えは、12升目にする意味が不明で不自然

と、本ブログでは見るのである。そもそも、角行と反車の間の
隙間と、盲虎と角行の間の隙間は、結果として、一つおきの隙
間であって良い意匠にはなったが、各々について、その存在が

必然かどうかは、2種類の隙間について、それぞれ別々に考慮
したと、私には疑われる

という事である。だから本ブログでは、

中将棋が後期大将棋から生まれたのではなくて、後期大将棋の
方が、中将棋の袖の市松隙間模様を手本にして、それ以前の、
中間的な大将棋、すなわち普通唱導集大将棋から作られた

のだと、いう結論になる。
 さらに言えばそれ以前に、そもそも

現在の中将棋は92枚制だが、それ自身が不自然

という事が現に有ると、私は思う。12升目にして1年の月の
数に、盤の一辺升目数をなぞらえたのならば、駒の総数も、
24節気とか72候とかそれらの和とか、暦に関連する数に、
合わせるのが本来は自然だった。だが実際にはそうならなかっ
たのは、後の調整の結果だと、私は思っているという事である。
(2018/10/11)

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平安大将棋は、なぜ3段配列から4段配列になったのか(長さん)

二中歴記載の平安大将棋は、3段配列と4段配列のケースがある
ため、歩兵の段数が明確に記載されて居無いというのが、本ブロ
グの見方である。
 一般には3段配列が有力であるが、中間段が7段では多すぎて
不釣合いであるから、中間段が5段になる、4段配列だったので
はないかという、議論がある。そのケースは、

4段配列にしたのは見栄えの為

という事になる。4段配列の初期の提唱者、溝口和彦氏は、横行
を3段目に、猛虎を2段目に、そして、飛龍を鉄将の上の3段目
に配列する方式を、彼のブログでだいぶん前に、発表している。
彼もまた、4段配列は見栄えのため、最初から4段配列だったと
見ていたようだ。
 本ブログでは、平安大将棋が何故あるのかという、そもそも論
から、平安小将棋と同様、多数派である、3段配列から出発した
とみる。そして、4段配列にしたのは、ゲーム性能がややマシに
なるためだと、前に表明した。しかし、その後考えてみると、
本ブログの4段配列の平安大将棋は、溝口モデルと異なり、

主に飛龍が、鉄将の2つ前の升目ではなくて、桂馬の2つ前の升
目としたため、互いに睨み合っていない

という点が、かなり違っている。その結果、猛虎と飛龍が筋違い
ではなくなり、猛虎と飛龍の連携は良くなるのだが。致し返しで
先手が、飛龍先の歩兵を上げた第一手目で、初期配列のままでは、
後手にとっては、自分の繋ぎ駒の無い歩兵に、相手の飛龍が当たっ
ているという、好ましくない事が起こる。だから、先手は飛龍先
の歩兵を上げるが、後手は、猛虎で、繋ぎ駒の無い、当たった
歩兵を守る手を指さなければなら無い。
 具体的に、左右の飛龍先の歩兵を上げると、4手目には、以下
のような局面になるのである。

4段平安4手目.gif

 つまり、4手まで先手が攻める一方、後手が守る一方となる。

これでは、先手必勝とまでは行かないにしても、先手有利な、
性質の悪いゲームになりはしないかという、懸念があるかもしれ
ない。
 そこで、今回の論題は、少なくとも

本ブログの、4段配列の平安大将棋はゲーム性で、難が無いのか

としよう。
 いつものように以下回答を先に書き、次いで説明を後で加える。
そこで回答を次に書く。

難は無い。この後5手目に、先手の攻めの継続手は無い。

 次に説明を書く。実は、平安大将棋では、4段歩兵配列にし、
注人を5段目に持ってくると、上の局面から、先手が5手目に、

▲7六(f)飛龍(左右どちらでも良い)が、指せない

のである。後手の注人で、△同注人と只取りになるからである。
なお、図では奔車が反、注人が仲になっているが、何れも間違
いだ。なお図から、先手は5段目に上げた両歩兵を4段目に戻
し、後手は、猛虎を先手と同じ形に下げると、初期配列になる。
つまり”二枚飛龍で相手陣の一点狙い”という手が、この将棋
には存在しない。更に、岩手県平泉の志羅山遺跡の両面飛龍の
出土駒が示すように、平安大将棋の飛龍は、桂馬と奔車を動か
す手を一手づつ入れ、狙われた駒が筋を変えてしまうと、それ
で取れなくなる。なぜなら、

角行動きだが、飛龍は相手陣で成れない

のである。だから、この局面から5手目以降に、先手に有効な
攻撃の継続手は、無いのではないかと私は疑っている。つまり、
この局面の後は、桂馬を上げる等の、攻撃陣を揃える手を、先
手は指さざるを得ず、後手が今度は飛龍を上げて、

9手目の所で、先手後手同じような形になってしまう可能性が
高い

と、私は見る。つまり、4手までは、確かに先手が先行するの
だが、この将棋の場合は、

先手が出だし、攻撃し、続けるような将棋になる事が無い

と、少なくとも私は思うのである。そして実際には、一旦鉄将
等で繋ぎをつけ、飛龍で取られるのを避けながら、猛虎を相手
飛龍に直射させたのちに上げてゆくと、今度は味方の飛龍の先
に、猛虎が進む形となって、じわじわと戦闘が始まる、将棋ゲー
ムとして好ましい形になると、みられる。繰り返すとそのとき、
桂馬や奔車が、相手飛龍の攻撃筋に無いように、予め動かして
おけば、早い時期から、相手飛龍の攻撃に晒されることも無い。
以上の事から、上の局面が第4手目になる、歩兵4段配列の、
平安大将棋(恐らく西暦1170年頃の改良型)は、

元の3段目配列の平安大将棋(西暦1110年頃)に比べて、
ゲーム性が、少しマシなので、4段配列に移行した

のだと、本ブログでは今の所見ている。それが正しいかどうか
の決め手は繰り返して言うと、上図で示した、この将棋の先手

第5手目の局面で、手前側の先手に、攻めの継続手が有るのか
どうかにかかっている

と、本ブログでは見ているのである。(2018/10/10)

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奈良の興福寺で西暦1200年頃に盤双六と”囲棊”が行われた(長さん)

将棋という語が出てくる文献では無いのだが、西暦1200年、
ちょうど二中歴が成立した時代の史料として、興福寺に於いて、
盤双六と、”囲棊”が行われたと、疑われる文書が存在する。
 文献は、興福寺の僧の貞慶が、西暦1205年に、浄土宗の
法然を”邪教の教祖として、流罪にせよ”と主張した、
興福寺奏状の、罪状9箇条のうちの、第8箇条目の冒頭の部分
である。岩波書店1971年発行の、日本思想体系「鎌倉旧仏
教」、田中久夫氏校注によると、そこには次のように書いてあ
る。

(浄土宗)の云く、「囲棊双六は専修(浄土宗)に乖(そむ)
かず、女犯肉食は往生を妨げず、末世の持戒は市中の虎なり。
恐るべし、悪(憎)むべし。もし人、罪を怖れ(て)、悪(業)
を(行う事を)憚(はばか)らば、是(其)れ、仏を憑(たの)
まざるの人なり」と、此のごときの麁言(そげん)、(浄土宗
は)国土に流布す。(後略)

田中久夫氏の読み下し文であるが、漢字が難しく、上の読みを
旺文社の標準漢和辞典(学生用)で引いて、ようやく、どうい
う悪口なのかが、私にも理解できた。なお、”市中の虎”とは、
”危険な者”との意味であろう。少なくとも、余り私は聞いた
事が無いが、「”戒律などあると、危険である”と、浄土宗の
法然が言っている」という噂を、奈良の興福寺では、当時流し
ていたようだ。
 ところで問題なのは、その戒律で禁止されている事柄のトッ
プに、この例では、女犯・肉食・飲酒等、有名な戒律ではなく
て、囲棊双六という、私には外来仏書の内容としては、余り聞
いた事の無い、賭博が出てくる事である。鎌倉旧仏教の中で、
著者の一人の田中久夫氏は、

仏教研究者の間では、興福寺で鎌倉初期に、囲碁や双六が下級
僧侶によって遊ばれ、飲酒が盛んで退廃していた事は、良く知
られる

との旨を指摘されている。つまり、仏教の戒律で禁止されてい
る事柄には、昼に病気でも無いのに横になってはいけないとか、
僧の衣服は最低量しか保持してはいけないとか、いろいろある
はずなのに、興福寺では、賭博の範疇と見られる、

囲棊双六を下っ端僧侶がするという違反が、西暦1200年頃
には、最も目立っていた

ので、海竜王寺同様の禁止令が在った、という事なのであろう。
 ところで、通常”囲棊”は、囲碁だろうが、興福寺の出土遺
物としては、現在、

碁石や双六の駒よりも将棋駒の方が有名

だ。”囲棊”は囲碁と西暦1971年頃には解釈されたが、
囲碁と将棊(棋)なのかもしれないし、

そもそも賭博が問題になっているのだろうから、奈良の海竜王
寺の大小将棋の禁止の令からみて、興福寺でも、その令の時代
に近い、西暦1200年頃には、将棋が盛んな状況

だったのではないかと、私は疑う。
 今後興福寺の発掘が更に進んで、現時点での最も新しい出土
駒である、西暦1098年物だけでなく、それより100年位
後の、将棋駒が出土してくれないものかとも、私は期待する。
 なぜなら、奈良の海竜王寺の禁止令に、”大将棋”が入って
いる事から見て、冒頭紹介の史料から、

興福寺からは、西暦1200年頃の物の駒として、平安大将棋
の駒の出土が充分に期待できる

と、明らかに思えるからである。(2018/10/09)

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東京都文京区本郷元町史跡を確認した(長さん)

江戸時代の将棋駒で、中将棋の成り太子酔象駒が出土した、
東京都文京区本郷本町遺跡を、最近確認した。文京区だが、
千代田区との境付近、JR中央線の水道橋駅の、東側の出
口の神田川をわたって、直ぐ北側、都営三田線水道橋駅の
A1出口の所である。都立工芸高校の校舎の地下だが、大
きな校舎の建物の下のため、正確な場所は確認できない。
なお工芸高校の建物の東側は、東京都の教育委員会の施設
が入っている。教育委員会としては、この界隈の何処を掘っ
ても同じだが、たまたま発掘地点が、工芸高校の建設のた
めの調査というだけだったと、認識しているのだろう。特
に、遺跡の立て札等は、全く建ってい無い。
 東京都の教育委員会の設置物としては、讃岐(高松又は
香川)松平藩の屋敷の、石垣跡の石碑の立て札だけが、
都立工芸高校の校舎の、北側の花壇の所に設置してあった
だけだった。ただし、少なくとも現在、城の石垣は全く見
当たらない。
 石碑には、最近の字体で、次のように記載されていた。

題字:高松松平邸の石垣
本校(都立工芸高校)敷地は徳川御三家水戸藩祖徳川頼房
の長男、頼重が始祖となった高松松平家の上屋敷跡で、
明治以来本邸になった。松平邸は冠木門と築地塀に囲まれ、
大名屋敷の風情を漂わせていた。築地塀を支えていた石垣
の一部を残し昔の姿をしのぶ。

なお、繰り返すが、城の石垣らしい石垣は無いと見られる。
 ちなみに酔象駒は、この高松松平邸の南側の、旗本居住
区から出土したようである。大江戸古地図大全(別冊宝島、
2016)によると、工芸高校の西玄関から石川、石丸、
建部、安倍、広戸、安藤等の苗字の旗本の家があるようだ
が、残念ながら私には、今の所どの家の持ち物と、された
のかは、良くわかっていない。”退屈な旗本”はこの時代、
多数居ただろうから、東京の古井戸等の地下の水場に、江
戸時代の遺物として埋設されている将棋の駒の数は、今も
かなりの数にのぼるのではないかと、私には想像される。
(2018/10/08)

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中将棋ゲームデザイン。玉将・玉近似酔象と並ぶ将棋は何が手本(長さん)

本ブログでは、酔象は中将棋の成立から7方向動きになると見る
が、少なくとも中将棋の成立時、酔象が後ろへ行けない点を除い
て、玉将の動きであった事は、確かだと考える。何故なら、象の
駒を軍師(大臣)駒に当てる例が、世界の将棋に無いからである。
つまり象と副官では、銀将と金将の差が有るという意味である。
それでも、象を副官の所に持ってきたのは、酔象を太子成りにし
て更に、酔象の表面の動きも、本来の象とは全く違ったパターン
にするという方法を、思いついてからだろう。
 ところで、世界の将棋は、四人制チャトランガ時代の恐らく、
二人制チャトランガを除いて、大臣は王より相当に弱い、猫叉動
きのゲームか、チェスの奔王動きのゲームのどちらばかりである。
 ちなみに、西暦1250年頃中将棋が成立しているが、その時
代に、250年程度前にすぎないとはいえ、二人制チャトランガ
の情報が、中将棋のゲームデザイナーに、知られていたとは考え
にくい。四人制のサイコロ将棋というゲームが、日本の中世には、
余り知られてい無い点から、インド起源は疑問である。
 では、中将棋のゲームデザイナーが、近王型のルールで動く
酔象を、玉将の隣に置いて、インド古代二人制型近王軍師将棋が
作れたのは、何故なのかを今回は論題とする。
 答えを何時ものように先に書き、後で説明を加える。答えは、
中将棋の初期配列が、現行のようになっていると言う事自体、

8×8升目32枚制で金将が、片方に1枚づつしかない
原始平安小将棋が、元々有ったという有力な証拠

なのではないかと、本ブログでは推定する。
 では以下に、今述べた結論につき、説明を加える。
 本ブログで、8×8升目の平安小将棋が、9×9升目の普通の
(標準型)平安小将棋に先行すると考えるのは、二中歴の小将棋の
初期配列がボカされている事と、”旦代の難点”が9升目型にはあ
り、原始伝来将棋がそのため、母国で9升目であった、はずが無い
という推定に基づいている。今の所、史料としてはっきりしたもの
は残念ながら無い。
 また、8升目型が伝来型だったとの記憶は、南北朝時代まで、
明確に残っていたと考えている。麒麟抄の将棋の字が、平安時代の
”将碁”になっており、確信犯的な模倣であると見られる点等が、
根拠である。他方、中将棋は遊学往来から

南北朝時代に発生したと見られており、8×8升目で、軍師駒とし
ての金将が一枚しか無い将棋が、11世紀に存在したという事を、
中将棋のゲームデザイナーは13世紀に知りえたと推定

できると、本ブログは見なす。そもそも、

玉に近い副官駒を、玉と並べて配列するという将棋は、8升目型の
原始平安小将棋が存在して、それを中将棋のゲームデザイナーが知っ
ていたと考える場合が、最も説明が楽である事は明らか

である。従って、

中将棋の玉と酔象の配列を自然に説明したいのなら、9升目の小将
棋以外に、8升目の小将棋も国内に有ったと考えるのがむしろ当然

なのではないか。以上のように、本ブログでは明確に考えると言う
事である。
 なお、偶数升目の12升目の中将棋は、3の倍数将棋盤に対する、
賛美思想が、鎌倉時代終わりごろの、新安沖沈没船出土駒と出土将
棋盤(?)の時代になって、わが国で発生した事が、成立の動機で
あると、本ブログではみる。また、後期大将棋を例えば13升目、
中将棋を11升目にしなかったのは、その他には、以前述べたよう
に、13升目の場合の、先手5手目▲8七角行(左)の、2枚角で、
後手の右仲人を狙う、普通唱導集大将棋第2節定跡の発生要因を、
中将棋では無くす意味もあると、ここでは見ている。
 普通唱導集大将棋定跡回避の要求は、14世紀には強かったと見
られ、”古来より定跡が無いとされ”る、中将棋という名の偶数升
目の駒数多数将棋は、発生しやすい状況だった。しかしそうすると、
玉将を中央筋に置けなくなり、チェスのように、女王とか大臣とか
軍師と呼ばれる、ナンバー2の駒を作らなければならなくなった。
イスラムシャトランジを真似れば良いのなら、酔象は猫叉動きのルー
ルで良かったはずだが、

日本に伝来した将棋が、4人制時代の2人制インドチャトランガと
同様、1枚しか無い副官のルールが、王に近い近王・金将型だと、
まだ南北朝時代には記憶が残っていた

ので、酔象は難なく7方向動きにされた上で、玉将の右隣に置かれ
たというのが、本ブログの見方という事になる。(2018/10/07)

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小将棋の成り金の書体。”今”の崩し字が最初だったのは何故(長さん)

本ブログでは、私の確認の遅れがあって、中尊寺境内金剛院出土
の桂馬と歩兵の一文字の成り金の書体を”ケの字の一筆書き”と
これまで表現してきた。この書体は、将棋史界では有名で、

今の字の草書

と、表現されているものである。私も、増川宏一氏の大橋家文書
の解説という講演会で、増川氏本人からこの書体の話は、直接聞
いている。平泉市の遺跡が初出で、今金の変形である、と金の先
祖である事は、間違い無いように、私も思う。ここでは、なぜ成
りの金将や金也が、金一文字に略され、さらにその書体を揃える
時点で、

今の草書体が、敢えて最初に選ばれたのは何故か

を、論題にする。答えを最初に書き、ついで説明を加える。

金の崩し字が、良い格好にならないため止めた

のだと私は考える。
 では、以上の結論につき、以下に説明を加える。
 この点については、今の崩しの連続ケの字金が、発生したたて
で、一文字金や、”金・”等が混在している、中尊寺境内金剛院
遺跡出土駒を、観察するのか早道だと思う。

少なくとも楷書の金よりは、今崩しケ金の方の格好がよい。

画数が少ない割りに、識別がしっかりしており、印象が強い。

見た目で、今崩しケ金にしたという論を、完全否定するのは困難

だと、私は見る。
 更に、金の草書には、楷書ではなくて草書にしなければならな
い動機付けが、取り捨てルールの将棋を指している限り余り無く、
むしろ楷書の”金”として存続するように思う。だから、
金の草書の駒というのは、平安末期から鎌倉時代前期までは、出
土駒の様子を見ても、さほど多くは作られず、よって、金を崩し
て”と”の字に近くするという着想には、なかなか到達しなかっ
たのではないか。
 それに対して、誰かが、金を今で置き換えても、今付きの駒種
は存在し難かったため、それで良いのに気がついて、その字の草
書の一筆書きケ金にしたら、かっこうが良いという、結果になっ
た。それで、おおかた奥州藤原氏発明では無いかと見られる、そ
の今金の崩しが、全国に広がって定着したのが、後の”と金”の、
起源で、正しいのではないかと私も思う。
 さて、中途の部分でさらりと述べたが、今を崩して金の代わり
にする場合には、たとえば、

今将という名前の、金将とは別ルールの駒が、ほぼ発生しない

という条件が、必要だと私は思う。それに対して、

奔横という駒種は、奔王とは別の駒種として発生しそうな名前で
あるから、王を横で代用するのは駄目だというのが本ブログの論

である。
 事実、平安大将棋の駒について考えると、歩兵と元祖奔駒の、
奔車は除けば、大局将棋を入れると、全て奔駒が、たがいに別々
に考え出されている。つまり、平安大将棋の

玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車、猛虎、飛龍、注人
には、別の種類の日本の将棋に、
奔王、奔金、奔銀、奔銅、奔鉄、奔馬、奔車、奔虎、奔龍、奔人
と、”奔駒”が後に、全て出現する。

奔横は出土駒しか出て居無いが、私見だが、大局将棋の淮川の動
きで、奔王とは別に奔横を作ろうと思えば、自然に作れる

と私は見る。他方、奔王が存在するという事は、鎌倉時代に、
奔駒を奔車以外にも、作ろうとした事は確かとみられる。つまり、

鎌倉時代にも、互いに別の名前で、互いに別の動きが連想される
ネーミングを、どちらかの駒の別称にするのは不合理

だったと推定できるという事だと、私は見る。よって結論を述べ
ると、奔横は奔王とは別の種類の駒だったが、動きは、奔王より
も複雑であり、その意味も無かったので、後に横行が移動すると
共に、平安大将棋系では

奔横から奔王に、厳密に言うと別の駒種に取り替えられた

と考えた方が、駒数多数将棋棋士の”ネーミングが不明瞭”との
批判を無視して、敢えて別名として使用したと考えるよりも、

横行の動きの弱さから見て自然

というのが、本ブログの以前からの見方と言う事になっている。
徳島の奔横駒が、単純にあて字だと、本ブログにとっては大きな
打撃だが、その心配はほとんど無いのではないかと、思えるので
ある。(2018/10/06)

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良季の居た観勝寺。13升目108枚制大将棋指すのに似合いか(長さん)

前に、鎌倉時代は熊野信仰が著名で、熊野には13社権現仏が存在す
るため、寺社で、13×13升目であろうと本ブログで想定する、
普通唱導集の大将棋を、京都府京都市東山区にあったとされる、密教
系とみられる寺院、東山観勝寺で住僧の良季(普通唱導集の編者)が
指すのに違和感は、時代的には無かったであろうとの旨を論じた。
 ところで、密教と言えば曼荼羅図が有名である。曼荼羅は108煩
悩に関連するため、108枚制とここでは見る、西暦1300年頃の
13升目制の普通唱導集大将棋(本ブログ仮説)と、親和性がある。
 では、13升目という点で、曼荼羅と本ブログの普通唱導集大将棋
は、類似性があるのかどうかを、ここでは問題にする。いつものよう
に回答から書き、ついで説明を加える。
密教に於いてポピュラーな、インド仏教流の曼荼羅、”金剛界曼荼羅”
図の1/9ユニットの多くは、13升目の将棋盤に、61柱程度の仏
像を配したような形になっており、

密教系の寺院で、曼荼羅になぞらえながら、13升目108枚制の
大将棋を指すのは、まったくもってお似合い

だったと言える。
 では以下に、説明を加える。
 普通唱導集の編者とされる僧の良季は、普通唱導集の内容から見て
真言宗でも、曼荼羅と関連が深い、真言密教(東密)系の僧であろう
とみられている。今は京都市東山区で安井金比羅宮として存続してい
る古寺の、東山観勝寺も、東密系の寺だったのであろう。崇徳上皇や、
その御前で、恐らく平安大将棋を指したと見られる、藤原頼長を祭っ
ていたので、有名だったようである。
 ところで、東密系の寺院には何処にでも在ったと見られる”金剛界
曼荼羅”図は、3×3の9ユニットに分けられ、その1ユニットづつ
が、以下のような図になっているケースが多い。

金剛曼荼羅.gif

 上図はその1/9成分であるが、その中が更に、3×3の中ユニッ
トが中央にあって、額型に更にその外側に2重に、帯状ユニットが、
取り巻いている形にしばしばなっている。そして、中央部の3×3の
中ユニットは、更にそれぞれが、3×3の仏像が1柱づつ入る、小ユ
ニットに分かれている。ので、3×3の中ユニットは、全体として、
9×9の小ユニット、

つまり、9升目の平安小将棋の盤

のようでもある。だが、その外側に2重に帯ユニットが取り巻いてい
て、2重帯びユニットにも仏像が載っているので、”会”と称される

曼荼羅の1/9成分は、13×13升目の平安大将棋盤状

である。実は、9×9の小ユニットには、嗔猪駒とその行き先に当た
る升目に仏像を入れ、他は飾り升目にする形を単位として、嗔猪駒そ
のものに当たる中央仏像が、日本将棋盤で言うと、5五、5ニ、5八、
2五、8五の位置に配列されて、仏像25柱となり、更に2ニ、2八、
8ニ、8八にも、金剛界37尊と言われる、仏像が1柱づつ配列され
る。これで、合計29柱となる。更に、外枠のうちの、内側の方の帯
状の部分に、別の金剛界37尊の残りの一部が8柱配置されて、29
柱+8柱で、金剛界37尊になるとの事である。そしてさらには、外
枠の外側の方の帯状部分に、20柱の、金剛権天、金剛食天、
金剛衣天、調伏天等の37尊以外の神様が、配置されるという事であ
る。そのために今度は、金剛界曼荼羅1/9(会)ユニットを、
13升目の、平安大将棋盤に例えると、7段目で水平に、または、
中央筋の7筋目で垂直に見ると、図中の枠で示したように、

仏像が何れも13柱、並ぶ形に見える。

 つまり、将棋の初期配列のように上下に分かれて居無いし、仏像の
柱数も、108柱ではなくて、57柱、または地天、水天、火天、風
天を入れても、61柱程度が多く、本ブログの普通唱導集の大将棋の
駒数、108枚とは違うのではあるが、

13升目盤に、将棋駒が並んでいるのと、金剛界曼荼羅(会の1/9
ユニット)は、フォームが似ている

のである。
 従って、曼荼羅が108煩悩に関連しているため、描かれた仏像の
数が108でなくて61程度だが、

本ブログの仮定した普通唱導集大将棋(13升目、108枚型)は、
良季の居た、真言密教の寺院、東山観勝寺で指すには、まったくもっ
て、お似合いであると言える

と私は考える。
 なお法蔵館が、西暦1931年に発行した密教大事典によると、
配列は大将棋とは全く違うが、実態が良く判らない、百八尊を配置し
た、金剛界曼荼羅も、実在したとの文書記録だけは在るそうである。
むろん、以上の情報だけでは、

普通唱導集大将棋が、13升目制であるという証明にはならない。

単に、真言密教系の寺院では、13升目で108枚制の大将棋は、

場の空気にぴったりの遊戯と見られるというだけの事

ではある。つまり、たとえば15升目だと、金剛曼荼羅の会1/9ユ
ニットの3×3分割部には、十字であるにしても、嗔猪駒とその行き
先に当たる升目の、5柱仏構成ではなくて、

猛牛とその行き先に当たる升目の、9柱構成の曼荼羅を飾った、別の
曼荼羅図のある寺院の方が、指すのには似合っている

はずだという事である。(2018/10/05)

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2013年の興福寺酔象駒の発見で大型将棋の存在説はむしろ不利に(長さん)

西暦2013年ころ書き込まれた、web上の興福寺の酔象駒の発見
に関連して、表題のように、「酔象を含む駒数多数将棋の、興福寺駒
の出土年代、西暦1058年から1098年付近での存在が、発見に
より有力になってきた。」との旨の報告がある。なお少なくとも、そ
のページに、誰の説であるかの紹介はない。ここでは以下仮に、
「某氏の説」と、表現して置くことにしよう。
 本ブログの見解によれば、今述べた某氏の説は、真逆で、西暦20
13年より前に比べて、不利になったとみる。理由を先に書くと、

酔象以外の、駒数多数将棋を示唆する駒種が、興福寺の遺跡から全く
発見されて居無いため

である。つまり、
酔像木簡が見つかっているだけなら、たまたま、奔王、龍王、龍馬、
角行、飛車、堅行、横行、獅子、麒麟、鳳凰、反車、銅将、盲虎、
猛豹、仲人、酔象と中将棋の、小将棋以外の駒が本来在るとして、

偶然酔象だけ存在が示されたとして、1回位なら許されたが、駒とし
ての酔象が発見されて、2例目になったために、偶然にしては明らか
におかしい

からである。
 なお、このケースは、平安小将棋と中将棋を混ぜ合わせても、だめ
である。上の例で言えば中将棋の駒の中から、酔象だけが選択される
事が、問題だからである。
 他方本ブログでは現在、西暦1058年~1098年に指された将
棋を、以下のように推定するが、この将棋だけが指されたとしたとき
が、統計的に考えると、最適解に近いものである。説明できないのは、
他のモデルと同じく、香車が出土しない位で、金将の過剰も、予備だ
とすれば説明できる。この(推定)大理国正調小将棋と、駒数多数将
棋をわずかに混ぜたケースは、出土駒のパターンと矛盾しない。が今
度は、混ぜる事自体に、”最初に”そのようなケースを議論しなけれ
ばならない学術的意味が、”オッカムのカミソリ”式論法と同じで、
ほとんど無い。つまり、将棋伝来の問題の最短解明にならないという、
”議論の故意の回り道(煙幕化)”という問題が、今度は生じる。

三段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
二段目:口口口口口口口口口口口口口口口口
一段目:香車桂馬銀将玉将金将酔象桂馬香車

なお、将棋史研究家で棋士の木村義徳氏が、次のモデルを持駒使用
の謎で、今世紀初めに既に発表している。
以下の初期配列である。

三段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
二段目:口口口口口口口口酔象口口口口口口口口
一段目:香車桂馬銀将金将玉将金将銀将桂馬香車

上の2つを比べてみると、現在酔象の割合は、概ね15枚中に1枚弱
だから、木村氏のモデルよりも、駒数が18×2の36枚ではなくて、
16×2の32枚のために少ない分、むしろ

本ブログのモデルの方が、出土駒の構成の事実を、僅かだが良く説明
している。

それに比べて、たとえば、”中将棋が指されたが、興福寺の出土駒に
は、奔王、龍王、龍馬、角行、飛車、堅行、横行、獅子、麒麟、鳳凰、
反車、銅将、盲虎、猛豹、仲人、は、たまたま無い”、という説は、

圏外

なのではないかという事である。
 なお紹介ブログには、酔象駒の大きさが、私が見る限り、劣化して
小さくなっている分を、戻して考えてみると、”背の低い歩兵”程度
の大きさである点を、証拠として挙げている。しかしこの論も、

出土しない香車に、酔象と同じ面積の駒があり、桂馬が少し大きくな
り、両側の香車と酔象が少し小さめになったのだが、手作りなために、
バラツキが少しある程度であるとして、使用者は我慢した

と理由付ければ、回避できてしまう程度の、差しか無いのではと疑う。
 恐らく、上記の中将棋の駒種類を、上の15種類ではなくて3種類
程度に減らせば出土状況を、なんとか説明は出来るのかもしれないが。
それでは、駒数多数将棋種には、なり難いと私は考える。(2018/10/04)

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二中歴大将棋の横行位置。なぜ玉ではなく”王”の頂の升目と記載(長さん)

二中歴加賀前田家写本の将棋の、大将棋には横行、猛虎、飛龍
奔車、注人の、後ろに配置される駒に対する、位置の説明があ
る。そのうち、飛龍から後は、正式駒名称で、後ろの升目に位
置する、桂馬、香車、中央の歩兵が記載されているので、問題
は無い。ところが特に、横行の後ろの升目の”王”は、別の所
で双玉を示しているので、

誤記である。

今回はこの、”横行は玉の先端升目の方に有り”と書かずに、

”横行は王の先端升目の方に有り”と書かれ、王と玉が違う

理由を、論題にする。
 結論を最初に書く。

誤写の可能性も有る。しかし、そうでないとすると、二中歴
1200年版を編集した、恐らく貴族が、9升目36枚制の
標準平安小将棋(持ち駒無し。大江匡房1080年頃設定型)
を良く指す棋士だった事を示唆

すると見る。
 では、以上の論につき、以下に説明を加える。
 冒頭で示唆したが、二中歴に於いて、平安大将棋の駒種の説
明で、後ろの基準になる位置の駒名が、正式名称で無いのは、
横行と猛虎の2種類である。
 すなわち、横行は王の前の方の升目に在り、猛虎は、銀将で
はなくて、銀の前の升目に在りとの旨が、記載されている。
 また、これに加えて、銀将の位置を2回ダブらせた上、桂馬
を忘れるという、銀将のだぶりと、銅将、鉄将の位置の説明に
関するミスがある。後者は、平安大将棋で主な駒が、将駒だと
認識した事によるミスと、以前本ブログでは指摘した。が、個
別に銀将を2回書く間違いは、

王、金、銀の3種将制の将棋が普通の棋士に、大将棋の説明を
させたときの、ミスのようにも見える。

つまり、

双玉を自らが示しておきながら、横行の説明の所で、基準駒を
間違えるのは、双王と見られる、西暦1080年型の標準平安
小将棋だけを指す、京都付近の朝廷勤務者によって、二中歴の
少なくとも将棋部分が、西暦1200年頃編集されている証拠

にも見えるという訳である。だからこの部分は、一例として、
前田家で写本をしたときに、玉を王と間違えた可能性も否定は
困難だが、銀将を銀と読んだり、銀をダブらせたりするという、

間違え方のパターンが、小将棋指しの書いた大将棋のルール本
の疑いを、かなり匂わせている

ようにも、私には見えるのである。
 なお、将棋史研究家の溝口和彦氏は、横行の位置説明で、
二中歴の王頂方の”方”の字の出現を問題にされ、横行が3段
目にあると言う説を、自身のブログで述べられている。本ブロ
グでは、これでは奔横の入る隙間が無いため、

溝口説には反対である。

二中歴の将棋の項の執筆者は、全体として、最初の方は丁寧に
書くが、途中から省略形を使う癖があると私は思う。金将から
香車までの位置説明でも、金将と銀将の位置説明は丁寧だが、
銅将から先は、はしょっており、桂馬を落とす間違いまでして
いる。だから、横行で位置説明を頂方と表現し、

猛虎、奔車、注人では頂の一文字にしたといっても、横行との
間に差が在るとは限らない

と、私は思うからである。なお脱線するが、飛龍が桂馬の上な
のは、陣が4段で、飛龍が3段目配列になる進化が、西暦11
10年から西暦1200年までの間に、起こっているからだと、
私は思う。溝口氏の”平安大将棋4段配列”説は、有り得る話
だと、私も考えている。
 そもそも、京都府や滋賀県等で、玉将が少なくとも戦国時代
以前の駒としては、全く出土して居無いという事からみて、二
中歴が、鎌倉時代に京都で編集されたとすれば、大将棋は玉将
が標準だったとしても、標準平安小将棋棋士系の編者が、王と
間違えても、さほどおかしく無いと考える。
 戦国時代に入って記憶が薄れてしまったが、関西では興福寺
等、藤原氏関連の寺院を除いて、小将棋で

玉将が使われる事は、実際にはほぼ無かった時代があった

のではないかと、二中歴の横行位置説明の誤記からも、私は推
定するのである。(2018/10/03)

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静岡県焼津市小川城成飛□竜王駒。別の裏竜王飛車の裏字は草書竜か(長さん)

前に、竜王や竜馬の字が龍ではなくて、竜である駒として、静岡県
焼津市小川城跡の出土駒、成り飛口竜王駒と、長野県上田市塩谷城
からの出土駒、成り竜馬角行駒を挙げた。龍が竜なのは比較的稀で、
たぶんこの2例だけだとみられる。しかもこの2枚は、全く出土場
所が別だし、片方の小川城のはどうやら中将棋の駒で、焼津駒とし
て知られるものだが、上田市塩谷城の方は、普通の日本将棋用に見
えるのに、竜の書体がいっしょなだけでなくて、駒の行く方が線と
点で示されているのもいっしょで、関連性が疑われるとしたのであ
る。特に、

小川城の駒を、塩谷城の方が真似たような感じにも見える。

ただし、小川城のケースは、角行や飛車が塩谷城のパターンで楷書
だとすると中将棋の場合、飛車の裏と龍王の表、角行の裏と龍馬の
表が区別しにくくなる。では、

小川城の中将棋の飛車の裏は、どう書いていたと考えられるのか

を今回は論題としよう。
 回答を先に書く。

小川城の失われてしまった、中将棋の飛車の裏は、竜の字が草書だ
った

と考えられる。
 では以下に、以上の結論について、説明をする。
 上記で述べた結論が自明でないのは、言うまでも無く、

草書の”竜”の字の入った駒は現在までほとんど出現した例が無い

からである。竜はほぼ常に龍であって、現代では当用漢字であるが、
龍の古書体である”竜”を崩した字の入った駒を見たことのある人
間は、ほぼ居無いのではないかと、私は考える。
 だから戦国時代に、焼津の小川城で、きちんとした草書の竜の字
は書けないのではないかと考えるのは、たぶん間違いだ。

中将棋が指されている訳だから、普段から草書で文書を書いている
ような公家が、焼津の小川城には居て、中将棋の駒を作成している

と、みるべきだろう。その証拠に、裏飛鹿盲虎の飛鹿は、手馴れた
草書で書いてある。小川城で中将棋を指している、応仁の乱から
逃れた等の公家にとって、

手馴れているから、竜の草書を書くことなど、何でもなかった

はずである。
 他方一条谷朝倉氏遺跡等、他の日本将棋等しか指さないところで
は、ありきたりの既製品のような書体の駒しか出土しない。これは、
既製品を真似て、字を書くことしかできない、文書作成を普段余り
しない、下級武士が作った将棋駒だからだと思われる。それに対し
て、焼津市小川城跡の中将棋駒は、楷書でも草書でも、手馴れて字
をすらすら書く習慣の人間、恐らく公家や、城主クラスの武士が居
て、その人間がどんどん、中将棋駒を作って指したので、その駒が、
出土しているという様子なのである。だから、

飛車の裏は、同じセットで龍王駒の表面を”竜王”としたからには、
飛車の成りの龍王は、竜王の崩し字を、難なく書いたに違いない

とみられるのである。
 そのとき、小川城の焼津駒では見た目、草書の竜は極端に崩れて
おらず、楷書が想像できたのだろう。それは、裏飛鹿盲虎の飛鹿が、
簡単に読める程度の崩れであるから、そのように推定できる。
なお、同じく中将棋が指された、同じ静岡県内の駿府城三の丸遺跡
からも、中将棋の駒、裏鯨鯢反車駒が出土しているが、成りの鯨鯢
は、読める程度の崩れである。これも、字書きに手馴れた公家の作
なのだろう。
 そして崩しが見た目に少ないから、その草書の竜は楷書に直して、
長野県上田市の塩田城では、成り竜馬角行を、簡単に真似て作成し
ているような、ふしもあると私は思う。上田市塩谷城の竜馬の竜を、
少し崩すと、失われた小川城の焼津中将棋駒の、成り竜王飛車駒の
竜の字になるような気が、私にはする。
 なお、焼津市小川城からは、別の地点で成り□馬角行駒が出土し
ている。しかしこの駒は、時代が少し違うようで、普通の今の日本
将棋の駒の形に近い。成りの1文字目が消えてしまっており、何が
書かれていたのか判らないが、普通に龍馬で、龍も馬も今の将棋駒
の形に、この別角行駒については、極端に崩されているように、馬
の字だけからは想像される。
 何れにしても焼津駒は、中世の中将棋の出土駒については、公家
等、文書書きの手馴れた人間の、日常の楷書と草書で、将棋駒が、
いつもの書体で、書かれているのが一般的と、予想できる。以上の
事実を、垣間見ることが出来たように、私には思える。(2018/10/02)

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