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四人制チャトランガのツマラなさで2人制生むか(長さん)

4人制チャトランガが2人制に先行するとの
説が強かった前世紀”4人制チャトランガの
行き詰まりが、2人制の通常将棋を生んだ”
と、しばしば指摘された。
 今回は、前回紹介した、馬が2手で左王に
当たり、船は右王対策に回せ、象は対面する
軍を攻めるという、4人制の改善ゲームで、
その点をチェックして議論してみる。
 答えを書くと、四人制チャトランガの場合、

簡単に王が取られるゲームには、基本的に
欠陥は、余り無い。

では、議論を続ける。せっかく馬が序盤で活
躍するゲームに直したので、個々の着手をも、
以下のように、従来より強力にしてみる。
 1~6の目の出る、立方体のサイコロを
使い、出た目で、動かせる駒が決まっている
とする。なお、馬と兵は、最初に属する軍に
よって決まった方向へ、常に動くものとする。
また船は、斜めへ1升目ないし2升目走る、
すなわち、間に駒がある場合、向こうに行け
無いとする。兵は、対面側の相手陣の奥で、
インド方式で、そこに初期配列されていた相
手駒と同じ駒に成るとする。その際、王と馬
の位置では兵は成れず、行き止まり兵になる。
後者の端筋馬位置不成りのパターンを、
”ガーダー”と言う。大臣の位置では、
”第五王”に成り、熊目・毒狼・前牛等同様、
玉駒の意味を持たないが、王の動きに変わる
ものとする。
 サイコロの目による、動かし方のルールは、
次の通り。
1の目:兵1個動かせる。
2の目:船を動かせる。または、別々の兵を
2個動かせる。
3の目:馬を動かせる。または、船と兵1個
を動かせる。
4の目:象を動かせる。または、馬と兵1個
を動かせる。または、占領した別の国の船と、
それとは別の船を2個動かせる。
5の目:王を動かせる。または、象と兵1個
を動かせる。または、馬と船を動かせる。
6の目:王と、兵を1つ動かせる。または、
象と船を動かせる。または、占領した別の国
の馬と、それとは別の馬計2個を、1回づつ
2個共動かせる。
手はパスする事ができる。ただし2枚動かす
ときの、1方だけパスしてはいけない。動か
し方の順序は、自由とする。
 王が取られたら、王だけ排除し、元の動か
し方で、勝った国が残りの駒を使う。基本的
に、最後に王が残った国が、勝ちである。
 以上の強力なルールにすると、馬で王を取
る手が、比較的に頻繁に起こるため、ゲーム
の進行が早い。サイコロ賭博では、序盤早々
王手に自殺手で応答しても、とりたててゲー
ムに難があるように、感じられる訳ではない。
 そのため、

上記程度のルール調整で、四人制チャトラン
ガの弱点とされるものは、解消されてしまう
疑いが強い

と本ブログでは考える。
 最近までインドで、このゲームが残ってい
たとされるのも、尤もなのではないか。
 もともと、ゲームルールは人為的なものな
ので、工夫により、欠陥が改善されてしまう
場合が多い。
 よって、”4人制チャトランガの欠陥から、

2人制が生まれる”という説には、そもそも
無理が有った疑いがある

と推定できるとみられるのである。(2019/08/31)

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伊東倫厚氏古インドチャトランガ馬八方桂説の根拠(長さん)

本ブログでは、古インドチャトランガの最下段は、
飛龍、桂馬、角行、玉、近王、角行、桂馬、飛龍
の増川宏一”将棋Ⅰ”説を、今の所取っている。
なお、このうち飛龍は、本ブログだけの解釈だが、
2升目までの走りかもしれない。
 ただし上で、馬は八方桂だというのが、学会全体
としては主流であるとみられる。欧米のチェス史
の研究家は、ほぼ八方桂説と見られる。日本でも、
将棋ジャーナルに、西暦1984年頃から投稿記事
を著作されていた、東洋言語に詳しい伊東倫厚氏は、

古代チャトランガの馬は、八方桂馬動きと将棋
ジャーナルに書いている。

 馬が八方桂だと、古代チャトランガと、原始平
安小将棋の共通駒は、玉、近王、桂馬の3種類か
ら、玉と近王としての金将の2種に後退するので、
日本の平安小将棋を、インドの古形型チャトランガ
の類とするのは、少し厳しくなる。そこで今回は、
すばり、どちらが正しいのかを、論題とする。
 回答を書く。
どちらにも取れるように、インドの文献には、別々
の所で、一方では桂馬と取れ、別の所の記載では、
八方桂と取れるように、矛盾した内容が書いてある
だけで、

従って確定無理なのが、現状である

と考えられる。
 では、説明を続ける。
 伊東倫厚氏は、将棋ジャーナルの1984年
10月号の将棋探源5で、”問題の
ユディヒシュティラ王子とヴィアーサ仙人問答には、
王が八方隣接升目歩み、歩兵が前方歩みで、相手
駒斜め前捕獲、象が四方向に走り、馬が八方桂馬、
船が飛龍で跳び超えるが踊らず、隣接升目に行かず
の動きであると、書いてある”と述べている。
 他方、ものと人間の文化史110チェス(20
03年)四人制チャトランガ(1)で増川宏一氏
は、個別にルールが、判りやすく書いてあると述べ
ていない。
 ただし伊東氏、増川氏両者共に”原文は意味不明
の部分も多い”と、主張している。ので、

それぞれ今の所、互いに意味の取れない部分は、
読み飛ばしたと解釈する以外に無い

と私は思う。なお、将棋ジャーナルで伊東氏は、
”この『ユディヒシュティラ王子と、ヴィアーサ
仙人の問答』は、サンスクリット語の辞書で、
13世紀以降の、ナーガリー文字で書かれている
とされる”シャブダ・カルパ・ドゥルマ”及び、
”ヴァーチャスパトヤ”に、項目名『ディティ・
アーディ・タットヴァ』の中の記載として、出て
いるものである。”との旨を述べている。
 辞書の中のユディヒシュティラ王子と、ヴィアー
サ仙人の問答と、増川宏一氏の言うA・ウェーバー
の、”インド起源のチェスに関する幾つかの覚書”
で記載されたユディヒシュティラ王子と、ヴィアー
サ仙人の問答とは、あるいは、同じではないのか
もしれない。
 所で、本ブログでは、2人制古代チャトランガ
と10世紀4人制チャトランガとで、初期配列が、
王、象、馬、船から、王、船、象、馬に変わって
いるとみている。この点も、伊東氏の解読とは、

合って居無い。”王・象・馬・船、2段目兵と、
ユディヒシュティラ王子と、ヴィアーサ仙人の
問答に書いてある”と、伊東倫厚氏は述べている。

なお確かに、端列の名称は、矛盾するが、船側と
表現していると私も解釈している。以下に、本ブ
ログ独自の、4人制チャトランガ配列図を示す。

四人制チャトランガ改善.gif

 上記の配列が、アル=ビールーニー図より良いの
は、序盤の駒組を考えなくても、元々各自の駒が、
別の王に当たり易く、サイコロの賭博性の
特長だけが出て、勝負が早く付くという点である。
 何れにしても、本ブログで強調している、端列
で段奥に達した歩兵の、ガーダー状態に関する記
載について、伊東倫厚氏の将棋ジャーナル、
将棋探源シリーズには、対応する記載が、今の所
見当たら無い。シャートパダの説明の後、ガーダー
の説明が飛んでいて、カーカカシューターの説明
へ、移っているという感じである。他方以下が
重要だが、伊東氏は、
将棋ジャーナルの1984年11月号の将棋探源
70ページ以降で、”ユディヒシュティラ王子と、
ヴィアーサ仙人の問答で、

船の行き所は、4箇所だと、記載されているのに
対して、
馬の行き所は、8箇所だと記載されていて、前者
より、後者の方が多い事が判る”

と、明確に述べている。しかし、重大な内容だが、
増川宏一氏の、ものと人間の文化史110、チェス
の四人制チャトランガに、その旨の記載は見当た
らない。
 今の所、この点についてもお互いに、意味不明と
見ている部分は、読み飛ばしていると考えるしか、
説明する道は無いだろう。
 以上の事から結論としては、ユディヒシュティ
ラ王子と、ヴィアーサ仙人の問答には、”
①ガーダーの記載から、象・馬・車(船)の中
に、後退できない駒が有る事を示している。
②車(船)に4升、行き所が有るのに対し、
馬に8升、行き所が有る事が記載されている。”
の、①、②が、共に書いて有るとしか、言いよう
も無いように、私には思える。
 馬が桂馬にも八方桂にも、どちらも取れる形で、
10世紀頃の、二人制チャトランガのルールが、
伝えられているのだろう。
 なお記述内容が、”ものと人間の文化史110
チェス、チャトランガ1”と合っているように、
私には今の所読めないが、”第5の王”という
単語自体は存在する事を、伊東倫厚氏も、将棋
ジャーナル、1984年11月号の将棋探源6
ないし、1985年1月号の将棋探源7に、記載
しているようである。(2019/08/30)

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中国シャンチー砲卒をチャンギ包卒に変更チェック(長さん)

以前に述べたように、中国シャンチーが朝鮮半島に
伝来したとき、中国シャンチーの砲と卒を、
朝鮮チャンギの包、卒に変えるという、ルール変更
が、伝来直後に起こったと、本ブログでき推定して
いる。そして、ディフェンスが過多になったために、
象の調整が起こり、漢楚士の調整が、”各駒九宮内、
線に沿い斜め動き”ルールの導入と対で起こって、
朝鮮チャンギがほぼ、高麗王朝の末期に完成したの
だろうと、ここでは見ている。そこで、
中国シャンチーの砲と卒を取り替えた時点で、攻撃
が、本当に不足になったかどうかについて、今回は
大まかだがチェックをしてみた。
 以下は、エクセルでチェックするのに、都合が良
いように、升目置きにした、
問題の推定13世紀初期頃のチャンギの配列である。

初期チャンギ.gif

名前は、チェック時、間違えないように、卒を成卒
と表示した。なお、同様な表示方法で、普通の中国
シャンチーは、エクセル升目置きだと、以下の感じ
になる。

中国シャンチー配列.gif

最初に示したほうをチェックしてみると、

いつもでは無いものの、駒枯れ模様になるケースが
以下のように、やや出やすい

事が判った。

初期チャンギ指終.gif

上記の指し終わり図で、攻撃駒は、両軍に残ってい
る。が、残り駒が少なくなった状態で、残った包は、
両軍ともに、寄せに大きく寄与しない。このまま続
けても、上の局面からは、なかなか寄せられないだ
ろう。
 なお、普通のシャンチーでは、駒の捌きが、比べ
て見ると判るが(推定)13世紀初期朝鮮チャンギ
よりもだいぶん良い。だからゲーム性が、砲を包に
変えて、かつ、卒が最初から、横歩みするようにす
ると、ゲームは、やや劣化する事が良く判った。
 ちなみに、駒の動かし方ルールを、間違えないよ
うにする為に、チャンギの実際の駒と、だいぶん駒
の名前を変えているが、同様に、以下の初期配列の
朝鮮チャンギとも比較してみた。なお図の例では、
線対称陣になる形で、互いの象、馬を交換するテス
ト配列図となっている。

朝鮮チャンギ配列.gif

”朝鮮チャンギの象”の攻撃力は、なかなか侮れな
い事が、元の場合と比べてみると良く判る。なお、
玉と副官駒の動きの変更は、九宮内での相手”車”
等の攻撃駒の、動かし方のルールの変更に伴う、
攻撃力の増強で、相殺されている事も、だいたい理
解できた。
 以上のように、仮に最初に、中国シャンチーが
朝鮮半島に伝来したときに、砲のルールを、奇手を
防ぐため等の理由で、ただちに変更したとしたら、
やはり何れは、象のルール変更等が、起こる事は、
朝鮮チャンギでは必然のようであった。(2019/08/29)

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鎌倉時代平安小将棋→朝鮮チャンギの転換が無い訳(長さん)

本ブログでは、日本の鎌倉時代の草創期頃、中国
シャンチーが中国の金王朝、南宋王朝で指され、
他方標準平安小将棋(駒落ち、取捨て)及び、
日本の原始平安小将棋(取捨て)、二中暦大将棋
の以上3種類が、日本で指されている状況であっ
たと見る。そして以上の状況で、牛僧儒の玄怪録
岑順(小人の戦争)に書かれた”天那国”が、
任那国を連想させたために、

日本で平安小将棋から、中国シャンチーへの転換
が阻害され、シャンチーは日本で定着し無かった

と以前から主張している。皇族への中国シャンチー
駒等の伝来は、それよりもずっと早い、西暦
1130年少し前の疑いも、鳥羽天皇時代の”将棋駒
を12個使用した占いの記録”より有るものの、日本
人の多くへの、中国シャンチーの伝送のタイミングは、

少なくとも西暦1200年の、少し前頃であった
はずだ

とみる。
 しかしながら、以前に述べたように、その頃、
朝鮮半島に、朝鮮チャンギが成立しつつあったと
考えられる。そして高麗国は、中国の王朝では無
いから、朝鮮チャンギから、牛僧儒の玄怪録岑順
(小人の戦争)に書かれた、中国人の小説の
天那国は、任那が朝鮮半島の国だったとしても、
ただちには関連付けは、しづらいと予想される。
つまり、

大陸伝来のゲームが全て、”唐の同盟国と任那と
の戦いを模したもの”であるとは、結論しにくい。

にも係わらず、ゲーム性で大差が無かった、中国
シャンチー同様、朝鮮チャンギも、日本に於いて
西暦1200年前後に、

原始平安小将棋等を、それに置き換える事が、実
際には、出来て居無いのは何故なのか。

本ブログの論には、この点で、つじつまの合わな
いという事は、本当に無いのかどうかを、今回は
論題とする。
 回答から書く。
西暦1200年当時、

朝鮮チャンギを指していた棋士は、”金、南宋、
高麗3国で指される、標準将棋を指している”と、
日本人に対して主張した。

つまり、朝鮮チャンギは、高麗国だけのローカル
ゲームであると、日本人のゲーマーに対して、主
張は、していなかった。そのため、当時の朝鮮チャ
ンギも中国シャンチー同様、日本人には、

唐軍と任那の戦いを、模したものと認識された。

では以下に、議論を続ける。
 以前に述べたように、朝鮮半島の朝鮮族に中国
シャンチーが伝来して、砲がチャンギの包に置き
換わる等した時点で、

朝鮮族は、極東で指されている共通将棋のルール
の欠陥を、自分達の手で、改善していると意識し
ていた

と見られる。つまり、行く行くは金、高麗、南宋
の全域で、中国シャンチーの砲、卒ルールは、
朝鮮チャンギの包、兵ルールに、置き換えるべき
ものだと、当然考えていたはずである。
 そのため、その時点で朝鮮チャンギを指してい
たゲーマーには、それが中国シャンチーとは異な
るゲームであるとの、はっきりとした意識は、存
在しなかったとみられる。
 その状態で、そうしたプロト朝鮮チャンギとで
も言うべきゲームが、日本に伝来したとしたら、
日本人には、それが、中国シャンチーそのものか、
または、知識が有って、中国シャンチーの砲は、
相手駒を取らないときには、飛車動きで有る事を
知っている者には、”シャンチーに変種が幾つか
有る”と認識された、だけのはずである。

つまり、朝鮮チャンギの日本への伝津者は、西暦
1200年前後の時点で、朝鮮チャンギの、中国
シャンチーからの存在の独立性に関して、事実上、
その主張をして居なかった

と考えられる。
 以上のように考えると、朝鮮チャンギが、中国
の怪奇小説での、表現ミスから、日本へ進出でき
ないという問題が、中国シャンチー同様回避でき
ない理由を、このケースには、はっきりと説明で
きるとみられる。
 恐らく、高麗王朝のゲーマーが、朝鮮チャンギ
のゲームとしての独立性を主張し出したのは、

日本では平安小将棋(持ち駒タイプ・成り敵陣移
動ごと型)が成立した、西暦1350年頃の事

であろう。その時点で、日本の平安小将棋系の
ゲームは、かなりゲーム性が改善されていたので、
朝鮮チャンギが、平安小将棋(持ち駒使用型等)
に置き換わる事は、もはや困難だったとみられる。
 更に、朝鮮チャンギの玉駒が、漢と楚なのは、
以前本ブログで主張したように、李氏朝鮮国内で、
余り需要の無い、木製高級チャンギ駒を日本に輸
出するプロジェクトを、日本の近世に、李氏朝鮮
で立ち上げたときに、唐代の怪奇小説に出てくる
天那国の件が、朝鮮チャンギの、日本での普及の、
阻害要因になっていた事が、言い伝えとして、
李氏朝鮮の盤・駒制作業者の間で、その時代には
まだ、残存していた疑いが有るという点を、挙げ
る事ができる。
 すなわち別の戦いへ、ゲームのモデルを置き換
える必要が、明らかに朝鮮チャンギについても有っ
た為の、ネーミングの変更であろう。そのように
考えれば、

中国シャンチーと朝鮮チャンギが、まぜこぜ扱い
であった時代が、実際に存在した事を示している

とも取れるという意味である。
 以上の事から冒頭に述べたように、逆に
朝鮮チャンギが当初、中国シャンチーの改善と、
意識されて出発していたと仮定すれば、本当は、
朝鮮チャンギが、鎌倉時代の草創期に存在しても、
中国シャンチーの、当時の日本でのネガイメージ
に妨害される事に変わりは無かった。そこで朝鮮
チャンギもまた、中国シャンチー同様、日本には
上陸制覇できなかったと、結論できよう。以上の
ように、両国の駒数の少ない将棋の、成立のタイ
ミングを調整すると、両国それぞれのゲーム発展
の流れが両者とも、一応説明可能だという事にな
る、と見られるのである。(2019/08/28)

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朝鮮半島チャンギの成立。本当に李氏朝鮮時代か。(長さん)

本ブログの独自見解だが、朝鮮チャンギは、高麗王朝
の時代末には、ゲームとして確立されていると考える。
理由は、本ブログでは、

中国シャンチーに不慣れな事が、朝鮮半島のチャンギ
と、中国チャンチーの分裂の原因だと、見なしている

からである。
 韓国等の通俗書の解説では”新羅王朝の時代に伝来
した”とされているが、朝鮮半島のチャンギは中国シャ
ンチー起源であると、本ブログでは見ているので、
”12世紀初に成立した中国シャンチーより、朝鮮半
島にチャンギが伝来したのは、後である”との定説に、
本ブログも賛成する。
 しかし、伝来して直ぐに、ルール変更が始まるため、
遅くても、日本の南北朝時代の末に、ルールとして、
今の形になっていたと、ここでは独自に見ているので
ある。手直しの始まりが早ければ、完了もその分、早
かろうという見方だ。だから、

高麗王朝期伝来の、高麗王朝末確立説を取る

のである。
 結論は、以上であるが、以下にもう少し、説明を続
ける。
 中国シャンチーが成立した、西暦1100年頃から
見てその普及は、ゲーム性が優れていたために、速かっ
たというのが、本ブログの見かたである。金王朝と
高麗が和睦し、高麗に軍のクーデター政権が発生した
西暦1170年までには、金から高麗に中国シャンチー
が伝来したのではないかと、私は見る。
 伝来して直ぐに、手筋が朝鮮半島では確立していな
かったために、初手に砲を4進させる奇手・鬼手への
対策が、必要になったというのが、本ブログの見方で
ある。
 つまりそのため西暦1230年頃の、モンゴル帝国
の朝鮮半島侵入開始までには、シャンチーの砲のルー
ルと卒のルールが、牛僧儒の岑順の、将棋の歩兵の動
く場面の記載の、曖昧な解釈も卒の変更に寄与し、
チャンギのゲームデザイナーによって、中国シャンチー
の砲と卒のルールから、最大60年間で、チャンギの
包と卒のルールに、変換されたと私は考えている。
 なお普通唱導集の大将棋の唱導唄の第2節は、日本
の大将棋の指し方に関するものであるが、手筋として、

中国シャンチーの桂馬上げによる、兵へのひも付け、
朝鮮チャンギの、卒同士の結合による利かせの組合せ

である。後者は、朝鮮チャンギの戦法の影響が疑われ、
西暦1300年の時点で、朝鮮チャンギの、横に歩む
卒駒と、それを作る原因となったとみられる、
”チャンギの包駒”の既存性が、疑われるのである。
 ひょっとすると、この状態でしばらく、中朝ハイブ
リットなゲームが、朝鮮半島では指されたのかもしれ
ない。すなわち、モンゴル帝国に占領されている間は、
ややディフェンスが強すぎる状況で、我慢して指され、
朝鮮チャンギの進歩が、そのままの状態で、百年くら
い、停滞していたのかもしれない。
 しかしながら、遅くても西暦1350年の、日本の
南北朝時代までには、元朝の衰退による、民族主義の
高揚から、八卦思想の影響を受けた、チャンギの象駒
が、中国シャンチーの、イスラム型の象から変換され
て出現し、更には例えば

倭寇の影響で、日本の玉・金が取り入れられて、漢/
楚、士が、チャンギのルールに中国方式から変わった

のではないかと、私は疑っている。そうすると、

朝鮮チャンギはルールとしては、伝来より約210年
後の西暦1380年程度には今と同じルールになった

のではないかという、計算になっていると思う。
 他方、李氏朝鮮は14世紀末成立だから、それより
僅かだが後である。だから、高麗期に伝来して、高麗
末に、ゲームルールとしては、確立と言う事になるの
ではないか。
 ただし、駒が八角形になったり、玉駒が漢/楚であ
るケースが多くなったり、ハングル文字の駒が発生し
たりするという、

道具としての朝鮮半島のチャンギの確立は、李氏朝鮮
時代だった

のだろう。
 聞くところによると、中国国内の朝鮮半島に近い所
に居住の朝鮮族は、恐らく明清王朝の時代からであろ
うが、中国シャンチーのゲーム具で、朝鮮半島のチャ
ンギを、今でも指す習慣が残っているという。ひょっ
とすると、ゲーム具自体の、不足にもよるのだろうが。
日本の鎌倉時代を、昔として考えた場合、

朝鮮チャンギを指す時には、中国シャンチーの道具で、
間に合わせていたという、昔の習慣の名残り

の疑いもあるのではないか。以上のように、見かけの
ゲーム道具の歴史と、ソフトウェアーとしての、ゲー
ムの内容自体の歴史は、このケースも一応、分けて考
えるべきではないかと、現時点で私は疑っているので
ある。(2019/08/27)

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朝鮮広将棋の改善を試みた(長さん)

以前に紹介した、”研究が進んで、駒の動かし方
ルールまでは確定した”朝鮮広将棋は、本ブログ
の見解では、跳び越え駒である砲駒で、即死・ト
ン死が起こらないような、初期配列上の調整が
不充分で、良好なゲーム性が確保されて居無いと
いう事であった。
 その調整は、相当に難易度の高いとみられるも
のであるが、朝鮮チャンギが現に存在するため、
既存の普及した、同系統のゲームの初期配列を
参考に、web上で現在、公開されている、
この将棋の初期配列を、今は調整してみる事に
した。
 結論を述べると、以下のように変えると、多少
は、良くなるようであった。

朝鮮広将棋配列改善.gif

なお上の図では、元々交点置きのこのゲームを、
エクセルでチェックできるように、升目置きにし
ている。そして、黄色の枠の周りが、3箇所ある
九宮に当たる領域である。
 以前チェックしたときには、以下のように、

個人的な感覚で、

駒名だけ、動きを直イメージしやすいように、別
の名前に変えて、テストしているが、こちらは覚
える必要は無い。~の駒の動きという意味である。

朝鮮広将棋改善チェツク用.gif

 では、経過をもう少し、詳しく説明する。
 このゲームは、駒の構成から見て、かなり攻撃
力が過多なようであった。しかし、それとは別に、
砲駒が、序盤に帥の頭を、簡単に狙える事が問題
のようであった。
 それは、

砲の段に、砲以外の駒があるので、チャンギルール
の包の砲が、動きやすいためであった。

そこで、まず、砲は4段目に集め、他の駒は4段目
に関して、端列以外には、配置しないようにした。
 また、車が動きやすいので、帥頭に車を集中され
て、開戦早々に、寄せを狙えるようになってしまっ
ていた。そもそも、朝鮮チャンギでは、車は四隅に
居て、一段目が象馬士で押さえられていて、動き出
しが簡単には、出来ないので、ゲームが面白くなっ
ていたと考えられた。そこで、

九宮を2~4段目ではなくて、1~3段目に下げる
と共に、車の両脇を別の駒で完全に固めた。

これは”下”駒が取られても、下は九宮の中に置け
ば”士”で、ただちに取り返せるので、前に紹介し
た急戦手順が、成立しないようになるという、意味
も有る。
 更に、前列の歩・騎駒を、同一種類を集めるので
はなくて、互い違いにして、砲の先制攻撃を、かわ
し易くした。なお今回は”游”を、中国シャンチー
の象動きとした。が、仮にこれを、隣接升目にも行
ける、踊れない飛龍にすれば、図のような”游”と
”伏”を交換した配列だと、出だし▲7六砲、
△5五馬、▲7十砲等の展開になり、以下、一応の
収まりはつくと見られる。
 今述べた事の繰り返しだが、近王動きだが、ほと
んど相手駒を捕獲できない”伏”駒が、前段に有る
のが無意味だったので、シャンチーの象駒動きの
”游”と取り替えている。
 以上の結果が、前記の初期配列図に示されている。
 なお、以前の岡野伸氏のチャンギ情報(ニ)の紹
介のときに、落としたが、将は九宮から出られない
ルール、将を取られると、将九宮の列の自陣一段目
から5段目までに居る、味方の駒が、いっぺんに排
除されるルールを採用した。
 以上のように、初期配列を変更してチェックする
と、web上の現在普及している、朝鮮広将棋より
は、急戦であっと言う間に、ゲームが終わってしま
うような手順が、一応消失して、

以前に比べると、かなりゲームはマシになる

との感触を得た。
 なおこの変更は、広象戯志の文言を、

多少、拡大解釈すれば、可能な程度である

と私は考える。岡野氏の言うように、”前”と”後”
は、文字通り前後が逆だが、更に”游”と”伏”も、
広象戯志には、”伏”が陣深くに配列するように、
逆と見なせる内容が、書いてあると私は読む。また、
文節番号29は、頭の”先鋒”が抜け落ちており、
文節番号30と韻を踏んでいて、後が内営内、前が
内営外だが、どちらも敵陣へ出撃も出来ると、

前と後とで、初期配置の所属領域が異なる事が、
(29)と(30)には、元々は書いてあった

と私は見ている。
 ともかく、

現実として、確立されたゲームとして朝鮮チャンギ
は有る。

ので、馬・象の影がやや薄いのは気になるが、陣形
が全く崩れないうちに終わる、天竺大将棋に比べる
と、かなり、マシなゲーム程度までは、確立した
朝鮮チャンギを手本にすれば、調整は出来るのかも
しれないと、私には思われた。(2019/08/26)

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朝鮮広将棋は指されたゲームなのか(長さん)

だいぶん前の事であるが、朝鮮広将棋のweb上
の情報を、本ブログで紹介した事があった。
webには、駒の動かし方ルールの説明が無く、
本ブログ上で、適当に判らない駒のルールを補っ
たものであった。

攻撃力過多であり、優秀なゲームとは言えない

と結論したと記憶する。その後昨年、2018年
の7月に、将棋ゲームとその歴史の研究家で知ら
れる岡野伸氏が、自費出版書で、チャンギ情報集
(二)を出版しているのを、最近知った。
 そこに、このゲームの、駒の動かし方や初期配
列に関する研究結果が載っていた。”広象戯志”
を、内外国の遊戯史研究者および、岡野氏自身が、
解読した結果のようである。
 それによるとチャンギに有る駒は、想像通り、
チャンギそのものだったが、無い駒についても、
概ね解読が進んでいると言う事である。すなわち、
兵駒の”騎”は、石将動き。
”前”は、ほぼ嗔猪だが、行人のように、邪魔駒
としてしか使えない。(次の後と動きは同じである。)
”後”はほぼ嗔猪。ただし、九宮では線に沿って
動く。
”伏”は大大将棋の近王そのもので、通常でも斜
めにも歩む。つまり、線に関係なく8方歩み。た
だし、伏しか取れない。
”奇”は、隣接升目へも行け、跳べる猛牛。
”游”は、中国シャンチーの象の動きである。
 今回は、前に紹介した、初期配列等で、岡野氏
の指摘に従い、”前”と”後”を交換した上で、

この動きとして、ゲーム性は良好であるのか、

日本の普通唱導集の大将棋のように、従って昔

指された可能性があるのかどうか

を論題とする。
 答えを先に書く。

依然攻撃力過多だと考える。

また、このゲームはそもそも、日本の

江戸時代にやっと、成立したとみられ、盛んに指
された可能性は、ほぼ無い

とみられる。
 では、説明を続ける。
 このルールで、本ブログで紹介した初期配列で
は、北宋将棋のような、歩側端筋の砲により、相
手騎の2枚の、横歩取りが初期配列で可能である。

だから、良い出来とは言えない。

また、7十一位置の先手の砲を、▲5十一砲左~
▲5八砲△4ニ車▲7八歩~▲8八砲△7五後
▲1八砲で、相手の後駒を取ると同時に、相手
陣奥へ、砲が切り込む手筋が自明に見える。だから、

跳び超え駒で、急戦にならないように、砲の有る
象棋は、初期配列を旨く調整しなければならない

という、ゲーム性を良くする基本に則って居無い。
 たとえば駒名を、ルールを間違えないように、
する目的で適当に変えて、エクセルで出来るように、
交点置きから、升目置きに変えると、以下の初期
配列になる。なお、九宮の中でだけ、チャンギでは、
多くの駒の、動かし方が変わる事に注意が要る。

朝鮮広将棋初.gif

そして、砲と車を中央に集めるように指すと、以
下のように、比較的簡単に終わってしまう、場合
があるようだ。

朝鮮広将棋終.gif

従って、このゲームには、北宋将棋時代の、

古シャンチーにも存在するタイプの難点が有る

と私は考える。
 また、以前に本ブログに述べた時点で、朝鮮広
将棋は、日本の南北朝時代のものかとも、個人的
に考えたのであるが、岡野伸氏の前記、自費出版
書籍(2018年)により、

18世紀に成立したと、考えるようになった。

 広将棋と言っても、19路の囲碁盤を使って
おらず、15筋14段なので、元々このゲームは、

日本の後期大将棋が、李氏朝鮮へ伝わった結果、
南有容によって真似て作成され、雷淵集27巻に
載っただけの可能性が高い

と、少なくとも本ブログでは疑う。
朝鮮チャンギと中国シャンチーには、9升目の
日本の標準タイプの平安小将棋のように、旦代の
難点というゲーム性の難は特に無く、駒数多数
将棋の前身である

”第2標準ゲーム”が作られなければならない、
動機付けを、基本的に欠いている

と考えられる。よって、砲の動きをシャンチーか
らチャンギに変えるときに、やや緩慢にしたとし
ても、チャンギにゲームとしての難が発生したと
は考えられない。だから、その改良のために、
朝鮮広将棋を作らなければならない、動機付けは
無いと思う。更に文献初出が、日本の江戸時代で
あるから、日本の将棋書の将棋図式等が李氏朝鮮
に渡って、日本の後期大将棋のようなものを、真
似て作ってみたいという、興味本位な動機で、
南有容が、問題の駒数多数チャンギを作成した疑
いが、このケースにはかなり可能性が高いと、私
は思う。
 南有容が、朝鮮チャンギの類似、第2段品を作
成するに当たり、砲駒でトン死が多発し易い中で
の調整である為、そもそも、そのようなゲームを
作る事自体が相当に難しいという、覚悟を決めた
上で、問題の

広将棋で、砲の数、配列、兵の構成を巧みに工夫
しているようなフシが、今の所余り感じられない。

 ちなみに、岡野氏紹介の(朝鮮)広象戯志の文
と、本ブログ等の初期配列は、まだ、ヅレている
所がありそうだ。しかし、それを直したところで、
車や砲が、15×14路の盤で大きく動くので、

駒の連関性の弱い、シャンチー・チャンギ系の陣
は、これらの駒の攻撃に対して、元来脆すぎる

ように、私には思える。従って、
1)この駒数多数ゲームが、日本の中世に当たる
時代に、朝鮮半島で、ある程度指されたものとは、
考えにくい。
2)日本の近世にあたる18世紀に、思いつきで
作られた、”火鬼が走り過ぎの天竺大将棋”と、
同程度の低いゲーム性のゲームに、有る程度調整
したとしても、留まる恐れのあるものである。
 以上のように今の所、私は予想しているので
あるが、どうだろうか。(2019/08/25)

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牛僧儒はなぜ吐蕃国の象棋を岑順で書かなかったか(長さん)

本ブログの推定では、晩唐期成立の、中国の
怪奇小説、玄怪録岑順(小人の戦争)の将棋は、
中国雲南省付近を中心に存在した、南詔国のゲー
ムであり、牛李の抗争の一争点となった、吐蕃国
の象棋とは考えられないという事になっている。
 では、親吐蕃国的な政策を主張していた、
牛僧儒なり彼の仲間が、吐蕃国でなくて、唐と
吐蕃との間の緩衝国である、南詔の将棋を岑順
(小人の戦争)の中で持ち出したのは、どんよう
な経緯だったのかを、今回は論題にする。
 以下に、回答を先に書く。
吐蕃の都のラサは、国際交流が盛んな都市だった。

その為、そこで指される象棋は、イスラムシャ
トランジとほぼ同じだった。

これでは、中国国内の都市部で、大食人が指し
ているゲームを、小説の中に書いているのと、
実質同じであり、敢えて吐蕃のゲームを持ち出す
意味は無い。
 よって、吐蕃の都付近で指される、象棋を
玄怪録岑順(小人の戦争)の中では、使う訳に
は行かなかった。そのため、

やむなく、南詔の将棋を持ち出したとみられる。

では、以下に説明を続ける。
 現在チベットには、チャンドラキという、チェ
ス系のゲームを表す言葉が残っている。現在では、
西洋チェスそのものを意味する単語である。
 諸説あるが、世界の将棋の著者の一人の梅林勲
氏によれば、チャンドラキが西洋チェスを意味す
るようになったより前の、現地での意味は、

大臣が女王動きではなくて、猫叉動きのチェスに
近いものを指す

という。それは梅林氏の言う、モンゴルの弱シャ
タルと同じものである。梅林氏は、チベット
のチャンドラキは、その前にはイスラムシャトラ
ンジとイコールだったと、考えているようである。
 この考えを

本ブログでも、今の所支持する。

 従って、吐蕃国時代のラサでの象棋は、恐らく
雲南と異なり、イスラムシャトランジないし、そ
の類である可能性が高いと、今の所私は見る。
 つまり、晩唐の唐の都長安と、吐蕃国の都市の
ラサでは、

都市の人間の言う象棋が、ほとんど同じゲームを
指し、それは実質、イスラムシャトランジだった

と考えられる。物語上で、戦闘が終わった所で、
岑順の作者は、金象軍の勝因を”神の、ご加護に
よるもの”という類の、

囲碁文化と比較した場合に、将棋棋士を小馬鹿に
したような観戦記表現を、最初から取るつもりだっ
た。

ので、小説を書いている場所の近間に、プレーヤー
の居るゲームを、できるだけ、取り扱いたく無い
と考えたのだろう。そのため、吐蕃国との間の関
係で、”唐王朝は戦略的に同盟を結ぶべきだ”と、
牛派が考えていた、南詔国のゲームを、小説の中
で持ち出す方法を、思いついて実行したのではな
いか。
 以上の経緯で、吐蕃の象棋は、長安の大食移民
のゲームといっしょだったので、雲南・南詔国の
ゲームに、小説の中でのゲームの題材を、取り替
えられたのではないかと、私は考えるのである。
(2019/08/24)

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高麗国の宮廷に、雲南の大理国将棋は贈られたのか(長さん)

言うまでも無く、現在の朝鮮半島では、中国
シャンチーに酷似の、朝鮮チャンギが主流で
ある。しかしながら、今から1000年程度
前の北宋時代に、北宋商人を通じて、中国と
高麗王朝の間に、交易があった事は明らかだ
ろう。その間、日本へは雲南の将棋が、交易
品としてやってきたと、本ブログでは従来よ
り推定・主張している。理由はともかくとし
て、高麗に北宋商人等が、原始平安小将棋
(8升目、取捨て、酔象1枚型)と同じと
みられる雲南大理国、宮廷将棋を伝来させ無
かったのか。また、有ったとしたら、日本の
ように、それが朝鮮半島では、主流になら無
かった理由は何だったのかを、今回は論題に
する。
 答えをまず書く。

高麗の宮廷に、北宋商人が、雲南大理国の、
日本の小将棋の原型を伝えた事は、有った

と本ブログでは見る。しかしながら、
武者、貴族、僧侶、果ては庶民等、
贈答先の国の、贈答人とは別の広範な階層に、
宮廷用の玉金銀装飾将棋の、ルール同一品が、

日本のように広まる事は、朝鮮半島高麗国で
は起こらなかった。

理由は、日本の平安期と違い、高麗国では、

国境警備隊の主力が荷揚げ港に居なかった為

であると、考えられる。
 では、以下に説明を加える。高麗国の国境
警備隊の武者は、

北部の遼(契丹)との境目と、半島の東の沿
岸に、女真族の侵入に備えて、11~12世
紀には、主力配備されていた

と考えられる。他方、北宋からソウルへの、
交易品の伝来は、

黄海沿いだった

と考えられる。つまり、伝来の貴族・皇族用
の贅沢将棋の道具は、高麗では、博多の近く
に居た大宰府の武家と違い、

自分の居所を通って、都に運ばれなかった。

だから、武芸を磨く目的で、行われる将棋・
チャンギは、皇族・貴族の贅沢な御遊び用の
将棋と、

兼用になるという事が、高麗国では無かった。

武芸を磨くに相応しい、ゲーム性が向上して
から、民間ブームのレベルで大理国将棋より
も100年以上送れて伝来した、中国シャン
チーからの変性ゲームの、朝鮮チャンギが、
従って、高麗では、武者の武芸の上達のため
のゲームとなった。
 他方、大理国の絢爛豪華な玉金銀装飾将棋
は、高麗では、本来の目的の通り、皇族や、
上級貴族の遊びとして使用され、

王朝が衰退するか、消滅してしまうと、それ
と共に、消えてしまった。

 以上のような経緯で、結局、他の点で高麗
と日本とで差が、それほどは無かったにも係
わらず、日本では民間に、五角形駒に遊具の
形を変えて、玉金銀装飾将棋は生き残り、朝
鮮半島、韓国・北朝鮮では、朝鮮半島のチャ
ンギが、主流として残っているのではないか
と、私は考えている。
 以上の状況は、前に述べたが、北宋と李氏
大越の境、チャンパ王国と李氏大越の境に、
国境警備隊が配備され、大理国と李氏大越国
の間には、事実上、緊張が無かったために、
大理国の将棋が、(一例)周文裔が通過した
際に民間に伝わらなかった、ベトナムと、韓
国・北朝鮮は、ほぼ同じ状況だと私は考える。
 なお他の国は、概ねイスラムシャトランジ
が、その前に、その国の将棋・象棋文化を、
制圧していたと私は見る。
 特に朝鮮半島の現在のチャンギを見ると、
象は、八卦思想を強調しようとして、イスラ
ムシャトランジの象から、変更しているし、
士は恐らく、日本の小将棋に後影響を受けて、
漢・楚と同じルールに変わっている。また、
象と馬と、場合によっては車までもが、交換
できるルールになっていて、インドのある地
方や四人制チャトランガのあるバージョンで、
象、馬、車の配置が入れ替わる事を、連想さ
せている。つまり、

イスラムシャトランジに対する”こだわり”
は、中国の北宋とは異なり、高麗国内では、
それほどまでには、強くは無かった

と、考えられるという事であろう。
 だから、古インド系の系統の大理国将棋が
定着しないのは、イスラム科学・天文
学への信仰から、イスラム文化を吸収すると
いう傾向ばかりで、あるからではなくて、
高麗王朝内では、

皇族・貴族も含めて、高麗では古インド文化
でも良しとしたが、情報そのものが日本と違っ
て単に、別の場所に居た”底辺層”に、伝わ
らなかった、だけだからだ

と考えた方が、より尤もらしいのではないか
と私は思う。
 日本は間宮海峡で大陸と続いているが、寒
すぎて、ユーラシア大陸の他民族が侵攻して
来る事が、それほど頻繁には無く、間にアイ
ヌも居たから、国軍の駐屯場所として、北海
道等が重視される事は、古代末期には、それ
ほど無かった。そして、

もっぱら博多が、軍も交易も玄関だったのが、
皇族・貴族の玉金銀装飾の唐物贅沢品将棋
と、武芸上達用将棋の兼用という、特異な状況
を日本でだけで生んだ理由

だった。
 以上のように、一応考えられるという事で
あろう。(2019/08/23)

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中国四川省で11筋10段象棋盤が発見されていた(長さん)

西暦2019年4月24日の、中国四川省の
地元新聞とみられる”甘孜新聞”に”甘孜県
内にて、晩唐時代かと疑われる、石に彫った
彫刻物様の姿で、11筋10段象棋盤(河無し)
に見える、格子模様の遺物が発見された”と
の旨の、写真が載っているようである。
 北宋象棋の類とみられる遺物が、今年春、
中国の四川省で発見されていた可能性が、
あるという事らしい。

北宋象棋盤.gif

 サイトは、

https://kknews.cc/culture/42z46y2.html

となっている。石の破片が右の方に写り、
また、撮影者とみられる、人の体の一部が
上の写真のコマでは、たまたま切れているが、
別のコマの写野に入っている。盤の縦横線の
メッシュは、正確には判らないが、その地方
新聞には2.5センチ角と書いてあるようで
ある。よって囲碁や中国象棋の、遊戯盤程度
の大きさと升目のメッシュのようだ。写真の
説明では、囲碁類の盤の石刻品となっていた。
 岡野伸氏の北宋象棋で、河は普通のシャン
チーの1跨ぎ巾に、変えたようなものだと考
えると、この盤で象棋をするとすれば、ゲー
ムの内容のおよその性質の、予想は付くよう
に思える。
 この遺物の成立時代は、正確では無いよう
なので、晩唐ではなくて、北宋初期として
考えると、北宋象棋の盤である可能性がある。
すなわち、砲を一段目に配列した、既に交点
置きのシャンチーは、ゲーム性に難があると
はみられるものの、本ブログの予想と違って、
当時四川省のかなり西の奥まで、北宋の時代
の初期に、分布が拡大していた可能性があり
そうだ。(2019/08/22)

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玄怪録岑順「小人の戦争」の日本伝来は何時(長さん)

本ブログでは、中国雲南の南詔国の将棋は、山の
中である事と、貴族しか指さず、棋士の頭数が少
なかったという理由で、西暦1015年まで、
日本へ情報は、全く入らなかったと推定している。
 つまり、インドの四人制チャトランガの第1波は、
持駒使用の謎で、将棋史研究家で将棋棋士の
木村義徳氏が述べているように、

西暦600年~650年頃発生して、西暦775
年頃には、南詔(中国雲南)までは届いた

と本ブログでも見る。が、直後に勃興した、
イスラムのアッバース朝の象棋、
イスラムシャトランジ(アラブシャトランジ)に
圧倒されて、ただちに波は、”腰砕け”になって
減衰し、辛くも北宋商人、(一例)周文裔の貿易
船に乗って、ゲーム具1組だけが、南詔到達に遅
れる事、約240年後の西暦1015年の年初に、

やっとこさで、日本に届いたというのが、本ブロ
グの見方

という事である。
 しかし、この将棋ゲームは、少なくとも本ブロ
グでは、唐代の政治家、牛僧儒作か、その時代作
とみられる、玄怪録岑順、イコール『小人の戦争』
の将棋、宝応将棋と同じ物と考えられている。
 従って雲南の将棋が、直接わが国に伝来しない
としても、今では東洋文庫蔵の、唐代伝奇集2収
録の玄怪録の岑順が、日本に伝来していれば、
将棋が伝来したのと、ほぼ同じと言っていいとは
考えられる。では、南詔~大理の将棋が直接では
なくて、玄怪録からの情報として、いつ日本に来
たのかを、ここでは問題とする。回答を先に書く。

陰陽寮に安倍晴明が居た頃、太平広記の中の記載
として伝来した。西暦1000年前後がよって初

とみられる。
 では、以下に説明を続ける。
 結局の所、これでは、
後一条天皇の玩具等として、雲南大理国の将棋が
伝来したのと、牛僧儒の怪奇小説、玄怪録岑順
「小人の戦争」の伝来とは、ほぼ同じと言って良
い程度だと言う事になる。
 玄怪録が、唐の時代に著作された頃、長安では
その小説は知られていたし、雲南に、金銅の立体
駒で将棋を指す、南詔の貴族が居る事は、中国の
中原の人間なら、たいていは、知っていたに違い
ない。
 しかしながら、それを遣唐使等を通じて、

日本へ情報として伝えなければならないほどの、
大げさな話では、特に無かった

のではあるまいか。山で金銀が取れて、そのへん
一帯を支配する国が有れば、金・銀で作ったゲー
ムで上流階級が遊ぶという話のは、自然といえば
自然であろう。それが隣接している国なら、その
国の中だけでは、話題になるかもしれない。つま
り隣国の、都市部の噂話としては成立するが、
”それだけのもの”なのではあるまいか。
 つまり、日本の陰陽寮へ、業務用の関連文献と
して、当時の稀少書『太平広記』が、中国の北宋
から贈られてから始めて、(伝)牛僧儒作の怪奇
小説も、日本に知れたという程度の、経緯なので
はないかと、今の所私は疑う。つまり、晩唐や、
五代十国の時代に、牛僧儒の怪奇小説が、日本に
伝来していたとは、私には余り考えられない。
 貴金属の立体駒で指す、中国山奥の将棋が有る
という事は、太平広記に関して、それを読んでい
たので、安倍晴明と繋がりの有った、藤原道長は
知っていたのだろう。だから彼は、火災で焼けた
大内裏の金銀飾りとして使える事と、孫の玩具に
なる事は、(一例)周文裔が、平安小将棋の道具
を、雲南から持ってくる前から、認識していた可
能性が有るとは、一応考えられる。
 しかし、安倍晴明や藤原道長より前の日本人が、

宝応将棋について、知っていた可能性はほぼ無い

のではないかと、今の所私は疑う。太平広記に、
たまたま入れるという以外に、日本に表題の怪奇
小説を、予め伝来させなければならない、強い動
機が、特に見当たらないように思えるからである。
 従って、たとえば藤原秀郷等も、西暦940年
に平将門を成敗して日本の朝廷に寄与し、言うな
らば”銀帯大将軍”であったのだろうが。それを
見習って、坂東の武者達が、宝応将棋を指すとい
う事は、原理的に不可能であっただろうと、今の
所、私は考えるのである。(2019/08/21)

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木村義徳氏指摘の千日手模様の平安小将棋が無い訳(長さん)

以前に紹介した将棋世界の1994年11月号2
08ページ~には、モンゴルの古将棋だけでなく、
”平安小将棋が、千日手模様で勝負がつきにくい、
ゲーム性に難があるゲーム”との紹介が、将棋博
物館元館長で、日本将棋の棋士、将棋史研究家の
木村義徳氏により表明されている。標準型平安小
将棋に、旦代の難点があると、本ブログでも紹介
した当の旦代氏は、この将棋世界の記事が書かれ
た時点で、サイコロを使う平安小将棋を考えて
いたらしい。なお将棋世界では、この後、将棋史
関連の記事の件数の減少が顕著であった。今回は、
この平安小将棋の隆盛に関する謎が、謎のまま残っ
て、日本の将棋史の研究が、難攻不落と思われて
見捨てられてしまわないように、本ブログの見解
を、繰り返しになると見られるが、以下簡単に、
まとめて置く事にする。

(1)8×8升目の将棋を指していたのであり、
9×9升目の将棋では元々無い。そのため
9×9升目の81升より17升目少ない、64升
の中で、玉を追いかけるため、千日手は発生しに
くく、勝負がつきやすい。
(2)二中歴の”相手裸玉の勝ちルールの記載”
は、そのルール、そのものではなくて、

自殺手指し負けに対する、裸玉勝ちの優先

を記述したものである。その結果実質最後に、
劣勢な相手に残った、金将(成駒)と玉将は、

どちらかを取れば勝ちなので、相手のディフェン
スが、オフェンスに比べて大きく後退した状態

である。そのため従来の解釈より、平安小将棋は
ずっと、千日手で行き詰まらずに、勝負がつきや
すくなっていた。
 以上の2つの効果の合算で、木村氏の指摘は回
避されるというのが、本ブログの従来よりの見解
である。
 つまり、この将棋は、

味方が玉・金・金3枚、相手が玉・金2枚になる
ように、着手の方針を決めるというゲームに、
ほぼ指し始めからなっている。

だから、確かに持ち駒ルールが無くて、着手空間
は小さいが、
次ぎの一手をどう決めるかの、方針に関与する
要素が、日本将棋に比べて、ごく少数の要素しか
無い。だから次の一手は予め、ほぼ決まるのであり、
比較的容易に

局面の流れは直線的に、終局に向かって進行する

ゲームになる。つまり途中に、棋士が着手に迷っ
て、どっちつかずの手を指し、ループを作りやす
い要因は、従来のルールで予想するよりも、かな
り少ないと、考えられるのである。
 そもそも、次ぎの一手をどう決めるかの、方針
に関与する要素が、一つか二つしか無いというゲー
ムは、馬鹿馬鹿し過ぎて、

現代のプロの将棋棋士には指す気力も起こらない

もののはずである。しかしながら、少なくとも
本ブログでは、

千年程度前に、将棋が日本に伝来してから、最初
の250年強は、その程度で、結構将棋場は盛り
上がっていた

のではないかと、疑っているのである。
 むろん、木村義徳氏の示した平安小将棋の難点
は、普通に指したら発生するのは、その通りであ
る。そして解決方法は、幾通りか、当然考えられ
るのであろう。本ブログの解決策は、そのうちの
一つとみられるものであり、

古文書に全く記載されて居無い要素を、追加仮定
する必要が、特に無い

という点で、特長はそれなりにあるはずだと、本
ブログの管理人は、以前から考えているという事
になる訳である。(2019/08/20)

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将棋世界94-11弱シャタル(木村義徳)の確認(長さん)

以前に述べた、将棋世界1994年11月号208
ページより213ページ紹介の、木村義徳、元将棋
博物館館長聞き取りの、モンゴル古将棋弱シャタル
について、最近将棋世界を実際に確認して、内容を
チェックした。岡野伸氏の”世界の主な将棋”への
転載内容で、

概ね正しい事が判った。

 以下、もう少し詳細に述べる。
 なお、聞き取りは個人から、木村氏が当時得たも
のであった。つまり聞き取り元は、モンゴル将棋の
愛好家で、モンゴル語と日本語間の通訳を当時して
いた、モスクワ大学卒業のモンゴル人、

アルタンスク氏、一名からだけによるもの

であると記載されていた。木村氏は、アルタンスク
氏から、”兵駒の成り先を聞きそびれた”と、当時
の将棋世界の該記事で記載しており、この弱シャタ
ルについては、来日していた、アルタンスク氏の情
報以外に、関連情報が全く存在しないようであった。
聞き取り元のアルタンスク氏は、”(木村義徳氏
発掘)弱シャタルは、

現在(1994年)は、田舎でのみ指されている”

と、発言していたそうだ。
 従って、ほかのモンゴル弱シャタル同様、

アルタンスク弱シャタルも残念ながら、何時頃から
のものなのかに関する、基本的な情報が無い

ようだ。
 なお、この弱シャタルについては、これだけのよ
うであった。が、ヒャーシャタルのヒャーについて、
木村氏は”モンゴル史研究家の吉田順一氏によると、
『ヒャー』という官職は、中国で言う清王朝の時代
の物”であるとされる”と紹介していた。ヒャーシャ
タルは、モンゴル象棋がチェス化してから、ヒャー
駒を導入した物と、木村氏自身が解釈して居る事も、
木村氏の、将棋世界1994年11月号の記載から、
私にも読み取れた。
 なお、木村氏の記述でも表が書かれていて、モン
ゴル強シャタルは、西洋チェス化型であると、木村
義徳氏は、はっきりと表現していた。
 木村義徳氏は弱シャタルを、日本で言えば平安小
将棋のような、伝来した始原将棋とのイメージで、
該雑誌では論じていた。が、それをサポートする情
報は、少なくとも雑誌のその記事を読む限り、元々
無いように、私には読み取れた。つまり、玉を除い
て、走り駒の走りを、歩みに変えただけの、西洋チェ
スの改造品だという疑いを、このゲーム種に関して
払拭する情報は、元々無いという事だと、私は認識
するようになったという事である。(2019/08/19)

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木村義徳将棋世界94-11弱シャタルは平安小将棋類(長さん)

以下、将棋史研究家で元将棋博物館館長、日本将棋
の将棋棋士、木村義徳氏発掘のモンゴル将棋、
弱シャタルが、他のシャタル、ヒャーシャタルとは、
系統が違うという、話題について述べる。結論から書く
と、本ブログの見解だが、

このシャタルは、モンゴル帝国が、己の征服した、
大理国の財宝を略奪等して、金塊銀塊盤盛将棋であ
る、大理国将棋をまねて作った、モンゴル帝国版、
原始平安小将棋や大理国将棋類の可能性がある

という事になる。
 なお別のシャタル等は、イスラムシャトランジの
変形であり、西洋チェス化したもの。特にヒャーシャ
タルは、西洋チェスに、隣接通過駒を四天王のよう
に凍らせる、白象駒、ヒャーを加えた、近世のモン
ゴルオリジナルゲームと考えられる。
 では、以下に論を続ける。
 木村義徳氏の紹介した、モンゴルの弱シャタルは、
将棋世界1994年の11月号に、西洋チェスと
ほぼ同じルールの、強シャタルと共に、紹介がある
と、岡野伸氏の”世界の主な将棋”に書かれている。
 本稿を書いている時点で、オリジナルの木村氏の、
将棋世界の記事を、本ブログの管理人は読んで居無
い。岡野氏からの紹介の、

又聞き状態である。

 何れにしても、

大切なのは、駒の動かし方ルールの内容と本ブログ
では見る。

 すると木村氏紹介の”弱シャタル”は、いわゆる
モンゴルの”シャタル”とはかなり、ルールが違っ
ていて、岡野氏の世界の主な将棋で、以下のように、
紹介されている。
 配列は西洋チェス型である。
玉は玉将、大臣が大大将棋の近王、象が駱駝という
名称に変わり、猫叉動き。馬が八方桂馬。車が後退
できる嗔猪。兵は西洋チェスのポーンと同じである。
大切な事は、

ポーンが段奥で、近王動きに成って、モンゴル帝国
が収奪した、黄金駒を使う将棋になっているらしい

という事である。
 以上の事から、

大臣が近王型であるから、日本の平安小将棋(特に
8升目型)の類

だと一応推定できる。ちなみに、歩み駒のうちの、
大臣、駱駝、車の各方向の歩みを、走りに変えると、
西洋チェスとも同じになる。だから、

このゲームは、モンゴル帝国とは関係の無い、近世
の作り物の話の可能性も、完全否定は出来ない。

 モンゴル帝国を持ち出す根拠としては、次の点が
挙げられる。すなわち象が角行ではなく猫叉、馬が
桂馬ではなくて八方桂なのは、

象よりモンゴル帝国では、騎馬隊が戦争で活躍した。

ので、イスラムの天文学思想も受け入れ、イスラム
世界そのものを飲み込んだ上で、元王朝は授時暦を
作り上げると共に、イスラムシャトランジの八方
桂馬を取り入れ、象と強弱を取り替えたと考えれば、
何故、こんなゲームが有るのかに関しては、

一応説明はつくという事

だ。そのようなゲームを発明したのが、元王朝内の、
被征服国から奪った財宝で、将棋を指す事ができた、
王朝内のゲーマーや、ゲームデザイナーだったとい
う事は、一応疑えるように、私は判断する。
 ポーン動きの兵駒が、少なくとも相手陣奥で近王
成りだとすれば、だいたいの所は、ゲームの流れは

平安小将棋と同じ感じになる

と言う点が、ミソである。つまりそうだとすれば、
木村義徳氏発掘、将棋世界1994年11月号の
モンゴル弱シャタルも、イスラムシャトランジ型と
言うよりは、日本の平安小将棋型の、発想のものと
いう事になるように思う。
 つまり、その弱シャタルは、次のような初期配列
だが、

弱シャタル初期.gif

 指し進めると、次のような指し掛けの図になって、
図で成ポーンと表示した、近王残りの、金塊盤盛り
将棋になるのではないか、という意味である。

弱シャタル指掛.gif

 なおこの局面では、裸王にされたら負けとすれば、
後手(金色の側)の勝勢の局面である。
 よってモンゴルのシャタルは、聞き取り相手にとっ
て、内容が一定でないばかりか、

素性そのものに、別々のものが入り混じっている。

そんな可能性も、一応疑うべきかも知れないと、私
は、木村義徳氏の弱シャタルの紹介の話を聞いて、
一応考えるようになったのである。(2019/08/18)

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マークルックは金一枚の原始平安小将棋と似ているのか(長さん)

口頭で発言したのを、誰かがコピーしたのだ
ろうが、将棋の高段者の羽生善治氏が”世界
の主なチェス・象棋・将棋類で、日本将棋に
近いのは、マークルックである”と発言され
た事があるようだ。同じく日本将棋の高段者
の大内延介氏が、”将棋の来た道”を著作さ
れて、大きく時間が経つ前の話だったと記憶
する。
 日本将棋とマークルックの類似性は、日本
将棋連盟の見解に任せる事にして、ここでは、
金が双方に1枚タイプの、原始的な8×8升
目32枚制平安小将棋、取り捨て型(聖目超
え成り一発)型と、マークルックとの類似性
について議論する。答えを先に書く。

基本戦法が、余り似ているように見えない。

では、議論を続ける。
 マークルックで終盤、駒枯れ模様ないしは、
双方飛車による、玉の追い掛け、千日手模様
の局面にならないようにするには、

1)玉自体が、序盤から攻めに加わるように
駒組をする事が必須

だと、私は認識する。そのような指し方は、

8升目タイプの原始平安小将棋はしない。

8升目タイプの原始平安小将棋は、金で玉を
守りながら、右銀、右桂馬、右香車で、相手
左袖を破ってゆくような、

”守り駒は金気。攻め駒は銀、桂、香”とい
う、日本将棋的な指し方をする

からである。玉が攻め駒の一枚だと、強く意
識されないので、マークルックとは、

かなり趣が違う

と私には思える。
 なお、玉損の攻めをして、ようやく引き分
けではなくて、勝負がついた、マークルック
の指し終わり図の例を、下記に示す。

マークルック終.gif

上の例では、先手玉は入玉しているが、手前
先手の勝ちである。
 また、

2)兵が歩兵ではなくてポーンなので、香車
先の歩兵を突き捨てるような、日本将棋流の
戦法は踏襲できない。

この点でも、序盤の戦法は、マークルックと、
8升目型の取り捨て平安小将棋とは違ってい
て、似ているとは私には思えない。
 似ているのは、

a)根駒が銀型なので攻めに加わってくれる。

という点と、
b)終盤、余り勝負に関係するように私には
見えないのだが、成りポーンの猫叉駒が、幾
つも現われて、

原始平安小将棋が金将将棋だったのを、マー
クルックを指す事により思い出させてくれる。

という2点位である。

 たしかに、大理国の将棋の”香り”はする

のだが。
 基本的に現代マークルックは、中世のイス
ラムシャトランジの方に、日本の原始的な
平安小将棋よりは近いゲームなのではないか。
 以上のように、やはり私は結論したいと思
う。(2019/08/17)

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タイのマークルックは何故滅びなかったのか(長さん)

本ブログによれば、日本に7世紀~10世紀の間
将棋文化が無いのは、イスラムシャトランジ及び、
象の飛龍動きを銀に替えた、東南アジア系古将棋
が、それとは別に有ったとしても、何れの場合も
単調に、終盤に玉を飛車で追うゲームとなると、
日本人が中国人知識人に聞き、また少数の者が、
自ら体験して知っていて、

ゲーム性に難があると理解して、流行らなかった
からだ

という事になっている。
 ところで、ミャンマーのシットゥインは、両陣
の配列が自由なため、飛車駒が最後に残りにくい
陣を、指し始め前に選択して、上記問題が解決さ
れているとみられる。しかし、表題のタイのマー
クルックには、イスラムシャトランジ等と違い、
兵が3段目であるため、条件が全く同じとは言え
ないが、日本人が、

駄目なゲームと烙印を押した、性質は残っている

とみられる。仮に、日本人に比べて、タイの人間
が、ゲーム性能に関する、選択感覚に於いて、劣
る事が無いとして、日本人が、駄目だと判定する
ゲームが、何故タイでは、現在まで滅びずに残っ
ているのか。本ブログの論に、論理矛盾が無いの
かどうかを、今回は論題とする。
 回答を先ず書く。

タイのゲーマーによって、陣固めをしたゲームだ
けを指すように後進が教育されたため、ゲームの
難点が出やすいマークルックが、指されにくい状
態になった事によって、現在まで滅びずに残った

と考えられる。
 では、以下に論を続ける。
 とりあえず、この問題を考える際、岡野伸氏の
マークルックに関する情報が正しいと仮定しよう。
 彼の著作物によると、問題の点と関連すると見
られる情報については、以下の旨が、記載されて
いる。

1)マークルックのゲーマーは、棋力の違う人間
とは、余り指したがらない。
2)序盤で駒組がしっかりしていれば、難の出な
いマークルックになる。
3)駒が減りすぎると、ジリ貧という一方的な
状態で無ければ、だいたい引き分けになる。

1)は、棋力というよりも、急戦を好む棋士を、
マークルックの棋士は、だいたい嫌っていると、
一応疑える

ように、少なくとも私は考える。
どんなマークルックを指しても良いのなら、指す
相手の選択というのは、余りしないように思う。
よほどの初心者を問題するので無ければ、途中で
強い側が緩めて、ゲームを面白くすれば、済むだ
けのはずだからだ。

マークルック初期.gif

 マークルックというゲームには難が有り、

兵が高配列されている特性をきちんと生かすよう
な指し方を、マナーとして、出来ない相手と余り
ゲームは、しないしきたり

が何時の時代にもあった。それで、ゲームの弱点
がカバーされた結果、皆に呆れられて、指されな
くなるような結果に至らなかったと、私は今の所
考える。そうすれば、本ブログの、日本に7世紀~
10世紀に将棋が無い理由の論に、

致命的な難点は、一応生じ無い

ように、私には思えるからである。
 なお、シャトランジ自体が完全に滅んだわけで
は無いが、インドではインドの今に残るチャトラ
ンガおよび、インドのシャトランジは、西洋チェ
スに押されている事。インドネシアのチャトルは、
元々はインドの今に残るチャトランガと、類似の
ゲームだったが、今や西洋チェスの、現地用語に
なっていると、少なくとも私は聞いている。ので、
インドとインドネシアについては、本ブログの、
日本に7世紀~10世紀に将棋が無かったと同じ
理由で、今に残るチャトランガ系は、衰退してい
ると見れば、これらの民族は、日本人のゲーム性
認識のレベルと同等と仮定できて、本ブログの仮
説には、矛盾がないと言えると考える。
 また、エチオピアのセヌテレジは、イスラムシャ
トランジの生き残りである。が、陣を組みきるまで、
交互に着手せずに、自由にシットゥインのように
組み替えられるルールである。だから、車余りの
終盤になるようなゲームは、ミャンマーのシットゥ
インと同様なやり方で、避けられると見られる。
ので、エチオピアのチェス類ゲームに関しても、
矛盾は起こらない。
 以上の結果から今の所、タイのマークルック
についてだけ、ゲーム性のチェックに関して、
公平性を疑うという、やや無理な議論をしなけれ
ばならないだけである。他の地域の古典的チェス
ゲームの残存状況と、日本の将棋の隆盛時期に関
する仮説との間に、大きな矛盾は一応無いように、
私には思える。(2019/08/16)

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web上インドチャトランガルールと本ブログが違う訳(長さん)

 現在web上では、インドチャトランガの説明として、
アラブまたはイスラムシャトランジの駒の動かし方で、
兵の成りが、相手の一段目初期位置対応駒のバージョン
との記載が多い。wikipediaには、その
ルールをも紹介した上で、”『時代によりルールは異な
り、今のは一例』との説がある”と断り書きがある。
インド・チャトランガのルールを、紹介しているサイト
は現行数箇所あるが、wikipediaの、今述べた
シャトランジ型のルールと同じ物を書いた上で、出所を
きちんと示したものは、今の所見当たらない。なお、
浅学の私には、今述べたweb上の、数箇所の日本の
サイトの

彼らの記載のゲームの、元文献に心当たりは無い。

本ブログでは、岡野伸氏の”世界の主な将棋”の表現に
合わせて、今述べた、日本の一般サイトの、”インド・
チャトランガ”を、

インドのシャトランジ

と表現している。この表現は、大内延介氏の、”将棋の
来た道”の巻末一覧表とも同じものである。
 次に、日本のサイトでは余り見かけないが、wiki-
pedia(日本)の、象を飛龍型ではなくて、銀将で
示したバージョンを、

インドの今に残るチャトランガ

と本ブログでは表現している。
 つまり本ブログの言う、”インドの古型チャトランガ”
は、玉、猫叉、銀、八方桂、飛車一段型の”インドの今
に残るチャトランガ”とは全く別の物である。なお、や
やこしいが、大内延介氏は、”将棋の来た道”で、
本ブログの言う上記の”インドの今に残るチャトランガ”
を、”古代インドチャトランガ”と、巻末一覧表で記載
している。つまり大内氏は、古代のゲームだと思って
いるようだが、

本ブログの管理人は、そう思って居無い

という意味である。
 更に本ブログでは、インドの今に残るチャトランガは、
日本の小将棋が痕跡として残す、インドの古いルールの
ゲームの事だと、ここでは思って居無い。

何故なら”インドの今に残るチャトランガ”は、平安小
将棋より新しいと、本ブログでは認識

しているからである。
 そこで、我々の言う”インドの古型チャトランガ”と
は何物なのかであるが、ものと人間の文化史110チェ
スで、増川宏一氏が紹介している、

”ユディヒシュティラとヴィアーサの38条”から解読
される、ニ人制チャトランガのルールを指す

という事である。これは、一段目が玉将、近王、角行、
桂馬、飛龍のルールになっている、2段組8×8升目、
32枚制のチェス類のゲームの事である。
 なお、解読結果は、本ブログの2017年09月09
日から10日の所に示した。が、ものと人間の文化史
23-1、将棋Ⅰ、34ページの、増川宏一氏の解読と、
駒の動かし方ルールに関して、本ブログの解は一応一致
している。この2人制チャトランガは、幾つかある、
アラブ・コラズムの天才科学者、アル=ビルーニー
(970-1038)のインド旅行記に書かれたルール
と、桂馬部分以外一致している。
 増川宏一氏は、将棋Ⅰを書いた時点で、バールフート
の彫刻を紀元前2世紀の、四人制チャトランガの絵とし
ていたので、象が角行のチャトランガは、紀元前のもの、
飛車が9世紀初、銀将がより新しい11世紀の物と、
将棋Ⅰの72ページ付近で記載している。
 本ブログでは、”ユディヒシュティラとヴィアーサの
38条”ルールは、アル=ビルーニー(970-103
8)のインド旅行記の頃のものだと、今の所見なして、
11世紀。更に、象が飛車の動きは、南詔の始原原始
平安小将棋と同じ、宝応将棋の時代のものであるとして
9世紀初。象が銀将は、これら2タイプより、より新し
いものだと、考えている。つまり、インドに於いて、

象は飛車(西暦800年頃)→角行(1000年頃)→
銀将(それ以降。含今に残るインドチャトランガルール)

と変化した、本ブログではみているのである。
 本ブログの言葉の使い方は、以上のように増川宏一氏
の成書に大きく依存しており、電子媒体で主流の、
web版”インドチャトランガ”の言葉使いを、今の所
していない。以上の点に注意が必要である。
 そして以下のように、インドのシャトランジを、あた
かも日本の平安時代程度のものであるかのように、誤解
してしまうと、

本ブログで言う”インドの古型チャトランガの大臣駒は
金将動きであって、猫叉では無い”という議論を理解し
ようとする局面で、大きな障害を生み出す。

言葉の定義が違う事が判らないと、この議論が、全く判
らないはずである。つまり、大臣は

猫叉ではなくて、インドで11世紀には金将に近かった

のである。日本の将棋が、インド古型を宿すという言い
方をするとき、今の事柄がわからないと、本ブログが何
を言っているのか、

全く理解できないので、注意が必要

と考える。
実は、”ユディヒシュティラとヴィアーサの38条”の
解読で、西暦2017年09月09~10日の本ブログ
で、14条と19条から、

大臣駒は、金将や酔象や熊目の動きの類の、近王型の駒
であると導かれる

と解したのであるが、増川宏一氏の将棋Ⅰの34ページ
には、この事が露に書いてないので、注意が要る。
 ユディヒシュティラとヴィアーサ・チャトランガでは、
”相手王位置に達した兵は不成り”と、第14条に記載
され更に、”相手大臣駒位置に達した兵は、成りとして
王に成って、第5の王が発生する事”が、暗に第19条
に記載されている。以上の点の理解が、

日本の将棋の将系列駒の発生の起源を読み解くのに必要

なのである。つまり、中世にグローバル標準化した、
他の国のチェス・象棋では、イスラムシャトランジに習
い、大臣は、インドの古型の金将から猫叉駒化して、

玉将、金将、銀将系列という、駒系列を作るという考え
方自体が、ほぼ消失していて、存在し無いという理解が、
日本の将棋の特質(中国雲南省で発明)の理解にとって、
とても大事

だというのが、本ブログの主張となっている。
 本ブログの、増川宏一成書を使って作った、本ブログ
内特有の言葉の定義に関しては、今回述べた事柄が、今
の所、

最重要なポイント

であるように、私には見える。(2019/08/15)

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”搦・口王馬馬仲”木片出土小町一103駅ロータリ(長さん)

表題の神奈川県鎌倉市小町一丁目103番7(地番)
出土の木片は、鎌倉時代の風俗営業店の、諸芸・
博打の手ほどき文句を散りばめた、豪華な飾り扇子
の群の一本の、更に骨1本の破片というのが、今の
所の本ブログの見かたである。
 そこで”搦・・・口王馬馬仲(人)”と、骨の一
本に書かれていた、扇子ともみられる物品の落ちて
いた場所、つまりは、神奈川県鎌倉市小町と御成町
の境付近の、小町一丁目103番7号という地番の
場所は、

JR鎌倉駅の構内である

と、前に本ブログでは報告した。西暦1984年に、
当時の国鉄鎌倉駅を整備する工事があり、そのため
の発掘調査であるとの旨が、”集成鎌倉の墨書”の、
遺物の説明の中に、記載されていたからである。
 しかるに最近web上で、”西暦2019年にも
JR鎌倉駅の東口の駅前ロータリーの工事があ”り、
市役所の文書で、地番が出ていて、小町一丁目
103番になっているのを、私は発見した。
 つまり、

駅構内ではなくて、玄関の外か、東口の駅前ロータ
リーの場所のどこかが、地番で小町103番7号

らしい。問題の鎌倉時代の風俗営業店は、いっけん
すると、立派な土蔵のある武家屋敷だったようなの
で、広い敷地で場所を特定して、意味があるかどう
かまでは謎だが。問題の7号がどこなのか、判るか
どうか、鎌倉市の”都市整備部道路課”に、聞いて、
より正確に、場所を特定してみようかと思ったので
ある。
 問い合わせた所、JRの鎌倉駅前東口ロータリー
の所が確かに、神奈川県鎌倉市小町一丁目地番で、
103番であり、枝番の幾つかの合算で、ロータリー
の場所が被覆される事は、ほぼ確かだと判った。
1984年の整備も、駅の改装も有ったのだろうが。
東口駅前も整備しており、そのための遺跡の破壊に
備えて、事前の発掘調査が行われたという、経緯な
のであろうと、ほぼ特定された。(2019/08/14)

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徳島川西大将棋のデザイナーは何故え奔横を先ず入れた(長さん)

本ブログでは、徳島県徳島市上八万町川西の、
川西遺跡の奔横は、平安大将棋4段段上げ型の、
横行前升目に、横行が存在したまま、奔王動きの
奔横を加えたものと、今の所見ている。では、
この奔横を入れた将棋から、平安大将棋の進化が、
特に始まった訳は何なのかを、今回は論題とする。
 回答を書いて、説明を加える。

奔横が最初と解釈しない方が良い。飛車と奔横が、
同時に入ったと考えた方が、判りやすい。

実体は次のとおりと、考えられるからである。

飛車が最も強い駒のときに発生する、終盤”玉追
いの飛車将棋”になるのを避けるには、飛車より
強い駒を、飛車と同時に入れればよい。以上のよ
うに、徳島川西大将棋(大将棋1230年型)の、
ゲームデザイナーが気がついたためそうした

のである。
 では、以下に説明を加える。
 そもそも、ここで論じようとしている、徳島
川西大将棋(大将棋1230年型)は、以下のよ
うな、初期配列の将棋だと本ブログでは見ている。

大将棋1230.gif

スカスカなため、慣れないと把握し辛いが、一言
で言うと、

1~2段目を玉将だけ残して他の駒は全部取り去
り、ついで八方桂馬を2枚加えて、盤を13×
13から8×8に変えると、西洋チェスになる

と表現できる。つまり、
”大臣の猫叉を、奔王の女王に変えて、飛車動き
の城より強い駒を作り、終盤『玉追いの飛車チェ
ス』になるのを避ける”というアイディアは、
15世紀の後半以降に成立した西洋チェスの成立
よりも

250年程度前に日本の徳島県では知られていた

という事である。なお、飛車については、日本人
は知らなかったのではなくて、うかつにゲームに
加えると、難の有るゲームになると認識して、
西暦1110年頃に成立した平安大将棋には、
敢えて入れなかったというのが、本ブログの見解
である。
つまりは、

同じ事を、チェスの成立よりも250年前に、日
本人の、恐らく僧侶が発見した

という事であろう。
 むろん、徳島川西大将棋にナイトが無かったし、
横行や香車、反車、あるいは金・銀・銅・鉄将、
猛虎、桂馬が有って注人があるから、小駒が余分
で、チェスよりディフェンスが強すぎ、また升目
が多いから、チェスの方が、玉を仕留めやすいゲー
ムで、より優秀である。しかし、ゲームとしては、

この1230年型大将棋が、日本の将棋の中では
西洋チェスに、一番近かったはず

だ。持ち駒法でも九宮+王同士対面不可法でもな
く、追加であって入れ替えでは無いものの、大駒
の割合を増やして、オフェンス強化側に傾かせる
という意味で、西洋チェスの改善方式と、同じ
パターンのやり方が、西暦1260年までの大将
棋では、コンセプトの中心に採用されていたので
ある。ただし1290年型普通唱導集大将棋では、
大駒としての獅子の加入の効果が増え、中将棋型
の、中心駒として獅子を導入するという、ゲーム
改良の考え方が混在する時代になって来た。
 しかしながら、

実に平安大将棋から西暦1230年型への改善は、
加える駒種まで、西洋チェスとほぼ同じパターン

だったのである。
 思考の内容も、私が見る限りは、日本人も欧州
人も、どちらもいっしょだったと思える。
 約250年日本の方が欧州より早いので、模倣
の可能性が当然考えられるが、チムールチェスの
全体形が1260年の大将棋に、むしろ似ている
ので、たぶん偶然の一致なのではないかと思う。
 ただし、欧州で、イスラムシャトランジをチェ
スに、大臣を女王に変えて切り替えるときに、
チムール帝国関係者から、日本人がモンゴル帝国
の侵略を免れたのは、”我々には大将棋が有った
のも一因だ”と自慢していたと聞くとの”風説”
が、奔王駒と共に紹介され、それが、キャスティ
ングボードの働きをして、西洋ボードゲームの、
副官猫叉動きを、奔王動きに、最終的に力で変え
させた可能性が、全く無いとまでは、言えないの
かもしれない。
 つまり、川西遺跡の出土駒のイメージから、
奔横が第1番目とイメージしやすいが、

オフェンスをUPする為、飛車を入れたいと考え
たのが最初で、その解決策が奔横(動き奔王、
クイーン)の発明だったと考えれば、飛車と奔横
は、導入時期の早さでは同率1位のはずである

と考えれば、つじつまが合う。少なくとも本ブロ
グでは、そのように見ていると、言う事である。
(2019/08/13)

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江戸時代の将棋三家は、日本将棋の作者を源隆国と報告(長さん)

日本将棋の作者として、江戸時代には、本朝俗諺志や、
象棋図式百番奇巧が、大江匡房(1041-1111)
を挙げている。「広象戯図序」を著し、中国の象棋の
デザイナーでもあった、晁無咎または晁補之(ちょう
ほし、1052-1110)とほぼ同年代で、その時
代には、中国シャンチーが、欧州の研究家によっても、
縦11列の奇数筋になった時代とされると聞く。
 日宋間で交易は継続していたと見られ、よって本ブ
ログでは大江匡房を、奇数筋の、標準的平安小将棋、
9×9升目36枚制平安小将棋(取り捨て、双王型)
の、標準化上奏者と目している。
 しかし江戸時代、誰もが日本将棋と標準型平安小将
棋を混同した上で、大江匡房を発明者と、みなしてい
た訳では無かったらしい。
 具体的には将棋三家の、大橋宗与、伊藤宗看、
大橋宗寿は連名で、江戸時代の八代将軍の、徳川吉宗
から、将棋の歴史について下問され、当時の学者と共
にまとめた回答書(口上)を、西暦1727年頃に提
出している。それには、日本将棋は大江匡房ではなく
て、それよりやや前の、

”源隆国(西暦1004~1077)が、その他の点
で日本将棋と同一内容だった、当時の古小将棋から、
玉前配置の酔象と金前配置の猛豹を除いて、日本将棋
とした”

と、書いているとの事である。なお”口上”は、東洋
文庫に収められた、次の囲碁の歴史に関する、江戸時
代の古文書に、漢文ではなくて文語体で載っている。

爛柯堂棋話(Ⅰ)、東洋文庫(平凡社)、林元美(西
暦1778~1861)著、西暦1849年本。
東洋文庫による出版、西暦1978年、校注者は林裕。

 問題の文は、この文書の最初の方、1巻目の8ペー
ジ付近から後の、3ページ前後に出ている。
 なお源隆国は、宇治拾遺物語に出てくる実在公爵で、
宇治大納言と、上記文書では表現されているようであ
る。今昔物語の編者との説も昔はあったらしい。摂関
家に比較的近く、藤原頼道の側近の人物とも言われる。
 本ブログでは、今の所、この御三家の説は、別の文
献では見かけないので、読み飛ばしにする事にした。
私には真面目に書いているように見えるが、山本亨介
氏には、”かなり杜撰な文書”と酷評されている。
 なお、玉前配置の酔象と金前配置の猛豹のある小将
棋(持ち駒型)は、平安時代の古将棋ではなくて、

安土桃山時代の末期に、初代大橋宗桂が作った当時の
新作小将棋である

というのが、今の所の本ブログの見かたである。口上
の三人の説は、初代の大橋宗桂がそもそもり情報の出
所だと、私は思う。
 そして、どういう経緯で源隆国(西暦1004~
1077)が出てくるのか、今の所、少なくとも私に
は、さっぱり判らない。
 大江匡房は、後三条天皇の時代にも、失脚せず健在
だったと言われる源隆国から、”銀が一枚しかなく、
他方が酔象になっている、興福寺等の小将棋は変だ”
と聞いて、酔象を取るアイディアに、気がついたのか
もしれない。が、そこの所が今、どうもモヤモヤとし
た感じにしか、私には見て取れない。(2019/08/12)

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日本の平安小将棋用将棋盤は中国中原伝来の9路囲碁盤(長さん)

本ブログでは、日本の将棋の伝来元を、中国雲南と
見ている。ただし、日本の将棋の将棋盤は、どうみ
ても、一番似ているのは囲碁盤だ。つまり日本の将
棋は、駒を交点置きにしないので、中国シャンチー
と大きく違うが、その升目置きをする置く盤自体は、
小型で九路の囲碁盤に、一番近いと私は考える。
 確かに現在の日本将棋は9×9升目なので、交点
置きすると、10路×10路の囲碁盤しか使えない。
が、伝来時の原始的な平安小将棋は、玉が中央左、
金が1枚だけで中央右置きだったと、少なくとも、
本ブログでは考えている。ので、本ブログの考えが、
仮に正しいとすれば、8升目将棋なので、9路の
囲碁盤が使える。
 私は囲碁をほとんどしないので、9路囲碁盤の聖
目が、4筋目が正調なのかどうか知らない。しかし、
囲碁に詳しくないものの、縁の近くが戦場になりや
すいゲームである事は知っている。たぶん、聖目は、
19路の普通の囲碁盤と同じく、第4路、すなわち、
升目に換算して3段目の所に付いていた方が、使い
やすいという意見も、多少は有るのではなかろうか。
 中国の北宋時代にも、恐らく開封では、囲碁の
一種で、勝負が早くつく、4路目に聖目が有った
9路盤を使った囲碁も有ったのだろう。だから、
将棋が日本で流行って来たのを知って、将棋駒とし
て使われる、経帙牌とセットで、日本人へ将棋具を
売りつけようと考えた、北宋の交易商人、西暦10
20年、刀伊の入寇後、初の交易商人であるなら、
(一例)周文裔が、

経帙牌を仮に500個持って、博多へやって来ると
きには、碁石を置くにはスカスカな、升目の粗い、
9路囲碁盤を、経帙牌にメッシュを合わせた上で、
たとえば15枚、西暦1020年に一緒に持って来
日するというような事は、いかにも有りそう

な気が、私にはする。
 そもそも、イスラムシャトランジから中国シャン
チーを試行錯誤で生み出そうとしているとき、プロ
ト中国シャンチー駒が、大きさとしてぴったりに
なるように調節しながら、中国人のゲームデザイナー
は、囲碁の九路盤に駒を交点置きして、シャンチー
ゲームを、完成させようとしていたのではないかと、
私は疑う。囲碁が盛んな国だったので、象棋の盤を
交点置きにしたのだし、副官駒を中国の王朝の制度
に合わせて2枚置きにしたかったので、縦9筋の9
路盤は、開発中のゲームをイメージしやすい、良い
開発道具と考えたのだろう。その時代、

聖目は9路盤の4段目だったので、兵卒も置きやす
かった

のだろう。そして試行の結果、段は9段ではなくて、
10段にした方が、兵卒が直ぐにぶつからないし、
馬アタリから見ても良かったので、

9路盤を真ん中から2つに切って、間に河を入れて
完成したというのが、現行の中国シャンチー盤の
正体

なのではなかろうか。その後、兵卒の成るルールが
河越に調節されたので、たまたま不要になって、中
国シャンチー盤からは、4個の聖目が消えたのだろ
う。その証拠に、今では、不要なので聖目はシャン
チー盤から確かに消えて、存在して居無いのだが。
当初は有り、2つの聖目の間隔が2升、つまり3路
だったので、聖目のラインを下に伸すことによって、

九宮ルールも、すんなりと思いつけた

という事なのではないかと、私は疑う。
 実際には雲南では、市松模様の8×8升目盤を
使っていたのかもしれないし、×の線、つまり、
ミャンマー式にシッケチュウの入った盤だったのか
もしれない。が、元々日本人には、囲碁盤は馴染み
があったので、それそのままよりも評判が良かった。
 また経帙牌の調達も頼まれたので、それに合わせ
て、中国開封でも馴染みの、第4路聖目9路囲碁盤
の、メッシュ調整済み品を日本の将棋用の盤として、
中国人の北宋交易商人(一例)周文裔が、西暦
1020年に、将棋の普及の為に、加勢して持って
来たのだろう。特に地面に線を書いて、将棋の練習
をする訳にも行かない、大宰府長官や少弐、大監と
言った、お偉方のゲーム用には、中国交易商人が、
ゲーム用の盤を送って来るようなケースが、実際に
有ったのではないかと、私は推定する。
 従って”自陣の駒は、敵陣の聖目に入ると皆金に
成る”という、いかにも中国伝来の囲碁盤を使った
ゲームルールの言い方は、日本の将棋が伝来して数
年程度後には既に有った将棋用語と、かなり疑われ
るのではないかと、少なくとも私には、そう思える
のである。(2019/08/11)

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堅田Bの不成り(補)龍馬駒と将棋馬写の龍馬(長さん)

以前、石川県金沢市近郊の堅田B遺跡の西暦12
50年前後に成立の、不成り龍馬駒は、西暦12
60年型大将棋の駒であって、大将棋の鎌倉時代
の進化を知る上で、ポイントになる駒の旨を述べ
た。
 ところで、だいぶん以前だが、この駒を龍馬と
本ブログが読んだときに、飛馬にも見え、不確定
性があるような書き方で、説明を終わった記憶が
ある。その時点から、どんな情報が新たに加わり、
龍馬に確定したのか、経過を以下述べる。
①天童の将棋駒と全国遺跡出土駒にて”裏に墨跡
の発見されない、口馬”と読みが公開されていた。
②京都曼殊院で、近年発掘された中将棋の駒の字
の写書”将棋馬写”の、中将棋の角行成り”龍馬”
の龍の字が、書き方のパターンで、堅田Bの龍馬
駒の龍の書き方と、同じだった。
 以上が結論であり、①については、その通りと
いう以外に無いので、②について、もう少し以下
に説明する。
 堅田B遺跡の龍馬駒と、曼殊院で成立が、江戸
草期とみられる、中将棋の駒に関する将棋馬写の
角行の成りの龍馬は、縦横比率をだいたい合うよ
うにして並べて見ると、以下のようになっている。

堅田B_駒写.gif

堅田Bの龍は、真ん中の縦棒が余計で、これが
あるせいで、飛にも見えてしまうのだが。仮に、
真ん中の棒が、汚れや傷だとすると、

将棋馬写の中将棋の龍馬と、筆運びが、ほぼ同じ

である。将棋駒の飛は、平泉の飛龍や、焼津の
飛鹿を見ても判るとおり、かなり特殊な書き方を
するケースが多く、金沢近郊の堅田Bの第1字目
とは、余り似て居無い。また、第1字目は、桂で
は、明らかに無い。近代に、この書き方の龍馬は
余り見かけないが、そう読むしか無いのである。
 ただし、上記で傷とした真ん中の棒は、龍の字
のヘンに当たる部分により似せて、草書書きする
つもりが無い事を示すために、堅田Bの出土駒で
は加えられた可能性が有る。なお、堅田Bの龍馬
の裏に、角行と書いてあるとの情報は無い。成立
西暦1250年代なら、鎌倉時代中盤に中将棋が
有ると言う事になり、

たいへんな発見になる所

だが”大将棋の駒の出土”という、

より、おとなしい(?)結論

に今の所落ち着いているという事である。つまり、

どちらにしても際立った発見だ。

同時期に発見された、”正月飾りのお経の額”よ
り、現地金沢の注目度は、今の所低いようである。
 ともかく②の項目、すなわち将棋馬写と堅田B
の龍らしき字が、筆使いといい、全体的な形のバ
ランスといい、良く似ていたので、

龍の字の雰囲気が、近代と、中世とでは、かなり
異なっていたため、本ブログに誤って、桂馬と読
まれていただけ

と、将棋馬写と堅田Bの龍馬通しの比較から、私
は考えるようになった。堅田B将棋駒のスケッチ
をした発掘担当者が、中世の書の書体に詳しく、
思い込みで、そう解釈できるように書いてしまっ
た可能性は、無いとは言えないのだが。今の所は、
以上のように、解釈する事にしたと言う事である。
 そもそも、曼殊院の将棋馬写の字のうち、龍馬
だけ紹介したのは、現在の将棋駒の角行の裏の龍
馬の書体と、曼殊院の将棋馬写の龍馬が、かなり
字が違っていた為、この字だけに注目したという
経緯であった。”桂馬と間違える”と、自らが指
摘しながら、堅田Bの出土駒では、自分自身が
”桂馬”と間違えていたと言う点で、誠にお恥ず
かしい次第である。
 以上の事から本ブログでは、天童の将棋駒と全
国遺跡出土駒にも出て、馴染のこの遺物について、

堅田B駒は、大将棋の不成り龍馬の駒である

との見解を、上記の経過から、その後継続して取
るようになっていたのである。(2019/08/10)

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金く、金・、金や、歩兵金也、と書いた駒師が居た理由(長さん)

以下、背理法で、日本の将棋の五角形駒が、他の
漢字文化領域の外国の産物では無い事を証明する。
 証明には、表題のように、興福寺(1058物)
作駒の、成り金の”金く”、”金~”、中尊寺境
内出土駒の作駒の、成り金の”金・”、栃木県
小山市神鳥谷曲輪の角行裏の”金や”、一乗谷
朝倉氏遺跡の一部の曲がり字歩兵の”歩兵金也”
といった作駒は、

外国産の五角形駒が、仮にあるとしたら、それを
生むような、字書きが行われているはずが無いの
で生まれない

という理屈を使う。
 では、説明を続ける。
 仮に、中国の揚子江下流域や、朝鮮半島等、と
にかく、漢字文化圏ではあるが、漢字を日本語の
訓読みで読む習慣が無い、外国で日本の将棋の
五角形駒が発明されたとすれば、仮想伝来五角形
駒の

成りの金は、楷書一文字で”金”と書いてあると
いう以外には、考えられない。

 理由は、”金に成る”という文を、漢文で書く
と、成るは動詞なので”成金”となるが、将棋駒
には、補語である”金”を書けば良いので、外国
人が”成金”と駒字を書くはずが無いからである。
なぜなら、カナ交じりで文章の意味を、他の漢字
圏の民族は、概ね把握しないからである。つまり、

日本人より、他の民族の方が”『成』という漢字
は動詞である”と、明解に意識している

という意味である。
 仮に、外国人の作成した五角形駒が、日本将棋
の駒のオリジナルとすれば、伝来時の姿の印象・
影響は大きいはずで、それは、日本人に真似られ
るのが必然だから、
真似た日本人は、銀、桂馬、香車、歩兵の裏には、
楷書で金と書いて、取捨て平安小将棋をするとし
か考えられない。
 つまり、興福寺(1058物)作駒の、成り金
の”金く”、”金~”、中尊寺境内出土駒の作駒
の、成り金の”金・”、栃木県小山市神鳥谷曲輪
の角行裏の”金や”、一乗谷朝倉氏遺跡の一部の
曲がり字歩兵の”歩兵金也”といった作駒は、
五角形駒が、元々外国起源なら、

この世に存在するはずの無い物品

と、少なくとも私には考えられる。
 しかしこのような、不可解な成りを表す駒が、
日本の方々で出土するのは、将棋駒が出来たとき、
作者が、最初は”成金”と書いて、”金に成る”、
または”きんなり”と呼んでいたとしか、考えら
れない。つまり成(レ)金とレ点、一ニ点入りで
漢文を認識する人種の書いた”成金”だったと考
えられる。
 つまり、

五角形駒に、将棋のルールを書くのが、将棋駒第
一号の使い方だったと言う事が、昔は、駒師の多
くに知れ亘っていて、面白半分にパロディ駒が作
られた

としか、考えられないと言う事である。
 そうすれば、成が、標識の第1字なのはおかし
いから、成金を金也に変えたのが、事の始まりだ
と説明が付く。また、諸橋徹次の大漢和辞典を見
ても、セイやジヤウが音読みの成と、ヤ、イ、エ、
が音読みの也とを、

置き換えるという発想が、日本人以外に、出来る
はずが無い。

成という字と、也という字の両者の間に、外国人
にとっては、共通性がほぼ無いからである。つま
り、諸橋徹次の大漢和辞典を、精読すれば明らか
だが、本来の漢字に、成と也とで、意味や解字、
その他、ほぼいかなる事柄においても、共通性は
ほとんど無いという事である。だから、日本語と
して

訓読みが、どちらも”なり”だったので、動詞の
成を、助詞の也で入れ替えただけ

と、このケースは、ほぼ断定できる。
そして、”急激に盛んになって、金に変わる”の
文意の”成金”を、現代語で表すと、

”金だゾゥwwww!”の意味の金也に置き換え、

日本人以外には、ほぼ意味不明であるが、重箱訓
読みすると、多少尤もらしいように、表現を変え
たのが、一部の裏金の後等に”く”や”~”や、
”・”や、”や”や、”也”が書かれた駒の、正
体だと考えれば、出土史料が理解出来るのである。
 そもそも、ある程度中国渡来の事物には、権威
が有ったはずである。だから、再度繰り返すが、
伝来品の、将棋駒の裏の成りに関して、金を表す
楷書”金”一文字が、このように書いてあれば、
とりたてて、それが不便な理由も無いだろうから

日本人は、その通りに真似続けるはず

である。だから金く類の将棋駒が、日本に現われ
る事は、ほぼ無いはずである。
 しかし、初期には、”金く”系が卓越している
ように見えるほど、出土駒に例が有るのは、

五角形の駒を発明したのが、元々日本人である事。

しかも彼は、ルールブックのようであって、モダ
ンで、こざっぱりした遊戯駒にはとても見えない、
”成金”と、裏に書かれた将棋駒を、

誤って、幾らか普及させてしまった経緯がある事。

以上を、かなり明解に示唆しているのではないか。
以上のように、私は疑うのである。(2019/08/09)

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滋賀県長浜市塩津港遺跡から2018年に王将駒が出土(長さん)

2019年8月1日前後の、読売新聞に多分、表題
の滋賀県長浜市塩津の塩津港遺跡で、昨年に新出土
した王将駒の記事と、写真が載っている。

奈良県を除いて近畿では、古代末~中世の玉将駒は
出土しないという法則が、更に強固なものになった。

滋賀県文化財保護協会や新聞の見出しを補足等する
と、以上の結論となり、更に以下のような状況のよ
うである。
 問題の王将駒は、外見が鳥羽離宮135次の王将
のような縦横比率だが、典型王将ではなくて、王真
ん中の横棒が、僅かに下に下がった、本ブログ流に
言うと、”玉将と書きたかったが、大江匡房から禁
止されたので、王ではなくて玉なのをこれ見よがし
にはっきり表現した、『屈折した心の生んだ王将型』”
である。ただし、出土駒の書体は、オリジナルの
”反体制側”の駒師のものではなくて、単に先達の
マネをしたという感じで、丁寧に書けている。

つまり、この王という字に点を付けると、興福寺出
土1058年物玉将のような形の、王将駒になる類

の一枚と表現されると、私は思う。
 これは、これまでの滋賀県産の王将で名高い、
滋賀里遺跡の、裏が下がり中央棒の王の駒や、
観音寺城下町遺跡の王将等、

これまでの滋賀県産の典型王将駒に、更に続く史料

となったと、私には認識された。
 なお、外見が鳥羽離宮135次の王将のような、
縦横比率なため、鎌倉時代のものと、私はいっけん
思った。が、滋賀県文化財保護協会が発表したPDF
ファイルによると、平安時代末期の遺跡での出土の
ようである。よってこれは、大阪府四条畷市の、
上清滝遺跡の王将駒と並ぶ、平安時代末の最古級の
王将駒なのかもしれない。
 ただし、この遺物の成立年代の詳しい情報につい
ては、今の時点で、本ブログの管理人には判らない。
なお発掘は、2018年の5月~11月の間のどこ
かで、滋賀県長浜市塩津港遺跡内でなされたようだ。
 何れにしても、近畿で中世までの玉将は、
南都北嶺のような所以外では、出土しないという、

今の所の経験側

は、特に滋賀県に関しては、まだ破るような例が、
全く無い”揺ぎ無い経験則”に、次第になりつつあ
るもののように、私には印象付けられる。(2019/08/08)

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増川宏一著”盤上遊戯”のリスモマティのチェック(長さん)

以前に述べたように、ものと人間の文化史29
”盤上遊戯”で、戦争ゲームのカテゴリーで紹介
されている、12世紀フランス発祥とされる、
リスモマティは、戦争ゲームではなくて、チェス
類とみられる。今回は、増川宏一氏の紹介して
いるリスモマティが、チェス・象棋・取捨て将棋
型なのかどうかを、ゲームをしてチェックした。
 ものと人間の文化史に記載されているリスモマ
ティの駒の、初期配列と数字部分を、完全に同じ
になるようにコピーすると、以下の、初期配列を
示す図のようになると見られる。

リスモマティ初期.gif

 増川氏の解説だけを頼りに、取った駒の数値の
合計が、一例として図のメモ部のように、850
と差が無い方が勝利(目標値が850)として、
ゲームを行うとする。このときチェスや将棋のよ
うに、玉駒や駒の価値は、ルールだけからは自明
ではないものの、目標値が、一例850のときに
は、次ぎのように考えなければならない事が、指
し初めの前からほぼ判る。
 先手は、狛犬駒のうち、後手の”120駒”、
”190駒”以外の6枚を取れば、勝ちである。
120駒、190駒は、取りたくない駒。また、
その他の後手の全ての駒も、目標値が850のケー
スには、取りたくない駒となっている。
 後手は、先手の狛犬駒の全てと、近王駒の、
”002駒”の計9枚を取れば勝ちである。その
他の先手の駒は、係わりたくない駒である。よっ
て、目標値を850にしたときには、

先手の方にだけ、”近王002”が玉駒になると
いう状況が、明らかに発生している。

そのため、目標値が850の時には、

先手が、すこぶる不利なゲーム

になっている。
 ちなみに、増川氏が盤上遊戯で紹介したリスモ
マティは、数字の合計が、上の図で言う先手が
1292点、後手が1752点と、すこぶる差が
あり、不均衡である。元ネタもそうなっていたか
ら、増川氏はその通り書いただけとみられるが、

上図はその点が妙であり、先手と後手を公平にす
る目標値は、設定しにくい。

ちなみに、狛犬駒の点数の合計も、上図に入れた
通り、先手が848点なのに対し、後手が
1160点と大きく差があり、その点でも先手と
後手が公平な目標値は、ほぼ作れないとみられる。
 実際ゲームを開始すると、後手が先手の、逃げ
足の遅い玉駒、”近王002”駒を、先手の狛犬
駒を蹴散らしながら、後手の、先手に取られる危
険性の無い、ウルトラ大駒の”狛犬120駒”と、
”狛犬190駒”とで追いかける、以下のような
展開となる。

リスモマティ途中.gif

ここから、少し進めば、以下のような局面になり、
”近王002”駒が詰まされて、先手はこれ以上
ゲームをする気が無くなって投了するとみられる。

リスモマティ投了.gif

 後手に比べて先手が、大きく不公平という意味
で、ゲームとして、極めて難があるが、実際にプ
レーヤーがしているのは、目標値の取り方によっ
て、たまたま玉駒になった、ほぼ近王に限定され
る特定の相手の駒を、詰ますゲームになっている
という事である。
 つまり旨く出来ているように私には見えないが、

実質的にリスモマティは、チェスの類だ

と言って良いと私は考える。
 なお、webの英文の情報を読める範囲で見た
が、駒を取るのに実際には、条件が有るようで、
好き放題に、狛犬で狛犬が取れるとも、限らない
ようだ。その点を加味しても、チェスに近い事に、
変わりは無いだろう。
 そこで、ものと人間の文化史29、盤上遊戯で
紹介されているリスモマティに戻ると、増川氏は、
このゲームを、完全には紹介していないが”目標
値に近くなるように、相手駒を取れば勝ち”とい
う、増川氏の文面からは、これが、戦争ゲーム
の中でも、チェスに近いものであるという、疑い
が、かなり強いと言う結論になるだろう。
 そう認識した上で、ゲーム具という観点から
更に見てみると、本ブログで紹介した狛犬、白象、
近王は、実際には立体造形で区別されている。
 しかしながら、
同じ狛犬でも捕獲できる駒と、相手が取りたくな
い狛犬駒という区別は、

”書かれた数字で区別される”という意味で、
書き字駒の要素が半分ある。

また、同じ近王でも、邪魔駒の機能を持つ近王と、
玉駒の近王とは、目標値の設定により、駒に書い
てある値で区別が決まるから、やはり、それにつ
いても”書かれた数字で区別される”という意味
で、書き字駒の要素が半分ある。
 よって、フランスで12世紀に考案された、
リスモマティも、中国シャンチー駒や日本の将棋
駒のように、書き字駒の要素が、全部とは言えな
いが、部分的に存在して、それはフランス人が、
たまたま工夫した結果と推定するのが自然である。
 以上のようにして、書き字駒を使うのが、中国
文化圏の特徴であるとは、フランス産のゲームを
実際にしてみると、半書き字駒を使ってチェスを
しているようであり、いつもそうだと言えない為、

定説には疑問符が付く

と言えると、結論できるのである。(2019/08/07)

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仏発生リスモマティはチェス類かつシャンチー型書字駒(長さん)

ものと人間の文化史29とかなり古い成書に、
1978年法政大学出版局、増川宏一氏著書の
”盤上遊戯”がある。そのⅣ-3戦争ゲームに、

12世紀フランスで発明と記載されている、

表題のゲーム”リスモマティ”が記載されてい
る。チェスからの派生と、増川氏は、この著書
の中で述べて居無い。が、

本ブログの見解によれば、チェス派生だと見る。

そして、特徴的な事は、各駒を討ち取ったとき
に、プレーヤーに与えられる点数が、

駒に”字”として記載

されているという点で、

中国シャンチーと日本の将棋に似ている

という事である。
 フランスが中国と距離的に離れ、12世紀は、
中国シャンチーが完全成立した世紀である事
から、

日本の将棋の書き字が、中国を見習ったと自明
に言えない

と以下結論する。
 では、もう少し説明を加える。本ブログでは、
中国仏典の伝来窓口の九州博多で、経帙牌に、
中国北宋商人から得た情報を、要点だけ掴んで、
書き込む事を業として行っている者が、輸入品
のチェックをするための、博多のターミナルに
置いて、西暦1015年の推定1月に、後に日
本の平安小将棋となる、伝来ゲームのルールを、
北宋商人がたまたま、説明し出したので、

生業から来る条件反射で、経帙牌に要点を書き
込んだのが、日本の字書きの将棋駒の始まり

だと見ている。つまり、
経帙牌に説明札として字を書き込むのが、
輸入経文受付者にとって、通常の業務の範囲に
於いて当たり前だったので、経帙牌が起源だっ
た、日本の五角形将棋駒は、彼がルールのメモ
として使用した経帙牌が、将棋駒へ用途拡張さ
れる事によって、必然的に発生したのであり、
中国からのゲーム具の、五角形駒部分に関する

アイディア伝来が、必要だったと到底思えない

と見る立場を、以前から取っている。つまり、

日本の将棋駒と中国シャンチーの駒が、共に書
き字タイプなのは、ほぼ、偶然の一致

だという意味である。
 それに対して、現在の将棋史学会の定説は、
言うまでも無く、

中国の文化に、日本のそれが影響を受けやすい
証拠の一つ

だと言う事になっている。しかしながら、
中国からかなり離れた所で、かつ中国象棋の
発生時代と、100年と差が無いフランス発生
のリスモマティで、書き字駒を使っているのは、
フランスが12世紀に、中国文化圏だったから
だとは思えない。だから、本ブログが正しく、

定説が、おかしい証拠なのではないかと言う事

になるという訳である。
 そこでここからが本論だが、次に、単なる戦
争ゲームとされているリスモマティへ、チェス・
象棋・将棋系統の議論を、

そのまま、持ち込んでよいカテゴリーのものな
のかどうか

を、次に問題にする。
 持ち込んでよいと、私は見るが、

このゲームが、以下のように表現できると見る

からである。
 ”盤上に、狛犬駒と白象駒と近王駒の3種類
が有って、狛犬駒で討ち合いをした結果を確認
した上で、結局どの相手駒を、相手の玉駒と見
るのかを決める”という指し方のコツを有する
チェス・象棋・将棋型ゲームだと、

ほぼ言い尽くせるのが、リスモマティの内容

である。なお、チェス・将棋類のゲーム盤に相
当する物品として、増川氏の前記著書を見る限
り、チェス盤を2つ連結させて、リスモマティ
盤にしているように、私には見える。
 つまり増川氏の上記著書の説明から、このゲー
ムが、算数の計算を主体にしているように読み
取れるが、そう考えてしまうのは、このゲーム
に関して”ビギナー”だからだと私は考える。
 実際にはこのゲームの上級者ともなれば、計
算は、だいたい何時ものパターンで自明なので
あり、そのため、玉駒がどれになるのかだけを、
ほとんど指し始めの時点で、算数ゲームの名に
相応しく、多少は考える程度のものなのだろう。
そして、計算結果に基づいて、相手の玉駒になっ
た駒を、どう詰めるのかしか、実戦のゲームの
各局面では、ほぼ問題になって居無いと、私に
は推定される。よってこのゲームは、単なる戦
争ゲームではなくて、玉駒が変動するという意
味で、変則的ではあるが、チェス・象棋・将棋
類の範疇であると、考える事ができると、少な
くとも、私は見るのである。
 具体的には、このゲームの必勝法は、以下の
ようなものではなかろうか。
1.狛犬駒は前段に出して、中央やや下に、
並列配置する。他の駒は下段へ下げる。相手が
仕掛けてこない限り、必要以上に自駒を繰り出
すような、無駄手は指さない。
2.最初、相手の狛犬駒と、味方の狛犬駒が、
相討ちになるように指す。基準点数は、互いの
狛犬駒の合計点数より、少し高めにするのが、
よい方法だろうと想像される。動きの下位の駒
で上位の駒を狙うような作戦は、無理筋である。
3.一枚だけ、味方の狛犬が駒得になるように、
注意する。最後の狛犬で、不足分の白象駒ない
し近王駒を取り、基準点になるべく近くして、
主導権を確保しておく。
4.最後に活躍した狛犬は、相手がそれを殺す
のに、1手でも2手でも、余計にかかるように
注意しながら、わざと相手に殺させる。その間
に、逆転の可能性のある味方”玉駒”を、白象
囲いで完全に防御し、ゼットの状態にする。囲
いが完成しさえすれば、このゲームの場合、相
手の投了は必然である。
 凡そ、上のような要領で、チェスゲームのよ
うに指すのだろう。
 だから、リスモマティの駒に書かれた数字は、
玉駒を決定するために必要な定数の情報である
だけでなく、

駒の種類のうちの細分類を、字を書いて示して
いるという、字書きという点で、中国シャンチー
・日本の将棋と同じ類のやり方

と見る事ができる。
 よって、フランスで12世紀に発生したゲー
ムが、書き字であり、東アジア文化圏に、その
頃のフランスが属していたとの情報は、ほぼ無
いとみられる事から、

チェス・象棋・将棋系の駒が書き字ならば、
”東アジア文化の影響が、100%有る文化圏
内である証拠”とまでは言えない。

以上のようにして、冒頭に述べた結論が、導き
出せるという事である。(2019/08/06)

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(コラム)本ブログの将棋史書き込み件数、千件達成(長さん)

初日の書き込みに、実質内容が無い等、正確にカウント
するのは困難ですが、本ブログの将棋史関係の書き込み
が、連続毎日1件書き込みで、どうやらここに来て、おかげ
さまで、ちょうど一千件に達した模様です。
 アクセスカウンタの様子から見て、本ブログは、ほと
んど本ブログの初期から、長い期間に亘って、チェック
を漏らさず続けておられる方が、十数人といったレベル
でおられ、極端にランキングが下がらないという、特徴
があったようです。
 そうした読者の皆様の御厚意は誠に、ありがたい事で
あり、本ブログの管理人は深く感謝しております。
 最近では、記事数900件を超えたあたりから、ラン
キング自体も少しですが、上がる傾向を示して来ました。
本ブログ・オリジナルを、力不足で少数例だけですが、
出す事により効果が上がったと考え、嬉しかったです。
 次に今後の見通しですが、よほど大きいネタが、近々
発掘されない限り、誠に残念ですが、

毎日連続し更新するという記録自体はまもなく途切れる

見込みです。
 ただし、更新が相当の日数で空くという事は、くれぐ
れも無いように、して行きたいと考えます。読者の皆様、
今後とも何卒よろしく御願い致します。以上誠に簡単で
すが、御報告いたします。(長)(2019/08/05の2)

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楽しい将棋の有ゲーム性。小将棋持駒型が中将棋より先(長さん)

だいぶん前に論じたテーマの続きだが、ここでは、
通説15世紀早期に開始した、娯楽として将棋を
指す行為は、南北朝時代の中将棋の確立では無く
て、鎌倉時代1320年頃の、小将棋への現在と
ほぼ同じと見られる、持ち駒ルールの確立からで
あるという点につき論じる。なお、本ブログでは、
これまで中将棋の成立によるものとしてきたので、

これは、以前の考えを撤回するという事

である。
 理由は、旦代の難点が残っていても、それを、
そのような局面からは、無理攻めを押し通すとか、
最初から駒落しして指すとか、そもそも9升目盤
では無くて、8升目の将棋盤で、金将を2枚から
1枚へ減らして指すとか、以上の”何らかの方法”
で、解決しさえすれば、

持ち駒ルール特有の、終盤近くのオフェンスの強
さゆえ”何だか、一般規則が判り辛い状況のまま、
終盤攻められて玉が詰む”現実として面白いゲー
ムへ、それまでのものが、変貌を遂げたから

と考えられる。
 では以下に、もう少し説明を加える。
 西暦1300年前後の普通唱導集の小将棋の唱
導唄の第2節は、佐伯真一氏の説の通り”小将棋
に、持ち駒ルールが存在する事を示している”と
言うのが、従来からの本ブログの見方である。
ただし、

西暦1300年には、成りが相手陣三段目を跨い
だ時点の一発成りだった為、持ち駒ルールの機能・
効果が、今とは実質的に違っていた

と本ブログは考える。状況から見て、それが同じ
になったのは、僅か後の、

新安沖沈没船の船内で、小将棋が船員に指された、
西暦1320年代ではなかろうか

と思う。鎌倉末期の太平記に、密偵と斬り合いに
なった、大宰府の武家の頭少弐直資が、小将棋盤
とみられる将棋具で、敵の刃を避けるシーンが、
記載されているし、少し時代が前だが、西暦13
04年頃亡くなった、鎌倉時代の後深草天皇の亡
くなった後の遺品に小将棋盤が有った事などから、

小将棋のルールが改善されて、旦代の難点が西暦
1320年頃には、それ以前よりも軽微になった

と、疑われるからである。つまりは桂馬を相手陣
に打っても、3段目なら最奥へ動いたときに、西
暦1300年頃のルールでは成れなかったが、西
暦1320年ルールでは成れるので、銀と交換し
てしまった失敗を、相手が悔しがらなくなった、
といった変化が、実際には起こったという事が、
考えられるという意味である。
 その結果、西暦1323年前後、

新安沖沈没船船内では、小将棋が娯楽として指さ
れた

と推定される。西暦1300年よりかなり前まで
は、都へ栄転させてくれるように、あからさまに、
大宰府で原始平安小将棋を指してみせるといった
”生きている『神様のような』為政者への願掛け”
や、モンゴル帝国が攻めて来そうなので、
”敵国降伏の呪い”をするといった呪術的な動機
で、将棋を指していた事が多かったのであるが、

西暦1320頃から、それが実質、暇つぶしの
娯楽の為

等、現代に近い動機に、

小将棋から先に転換した

と、少なくとも最近、私は考えるようになったの
である。
 異性庭訓往来には、各種の将棋が指されている
かのように書いてあるが、実際には南北朝時代は、
平安小将棋が、良く指されていたのだろう。
 ただしそれを追いかけるように、西暦1350
年頃には、旧普通唱導集大将棋の、定跡化の難点
を克服し、先獅子の規則等が有るので、アヤが出
来て、

面白い中将棋が確立

してきた。
中将棋は、旦代の難点は無縁であったし、日記を
書くのは貴族が多かったので、今に残る記録とし
ては、

15世紀に中将棋が立ち上がって、娯楽としての
将棋が延びたように、文献だけからは見えた

と考えられる。
 要は、

新安沖沈没船の中から、駒種によって大きさ・形
を完全に変えた小将棋の駒群が、現実として複数
出土しているという点を、重く見るべき

だったのだと考える。
 ただし、持ち駒ルール有りの平安小将棋という
のは、歴史的な日本の将棋としては、研究が余り
進んでおらず、現行

面白いと実際に実感しているのが、本ブログの管
理人等、人間の頭数が限られている事に、この文
面を御読みになられている方は注意

してほしい。つまり”日本の将棋の看板である、
持ち駒ルールの成立は、早いに違いない”という
空気は、将棋史界に昔から有るが、特定の将棋、
すなわち

平安小将棋、持ち駒ルール有りタイプの終盤につ
いて、詳しく論じた、少なくとも成書は無い

という現実に、注意はしてほしいという意味だ。
 つまり、今回述べた事は、”それがあるなら、
人気は高まるはずだ”等と、漠然と主張はされた
ものの、その効果を、定量的に考える等の意味で、

将棋史界では意外に厳密には議論され尽くしては
居無い事柄

という事なのである。政治的思惑を匂わせながら、
”大将棋を指し”ていると表現された娯楽将棋以
外の史料が、藤原頼長の台記位で少ない為である。
(2019/08/05)

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別の普通唱導集大将棋2017の右袖攻め戦法は有るか(長さん)

従来より、普通唱導集大将棋(本ブログタイプ)西
暦1290年型には、角2枚、龍馬2枚、奔王の、
5枚定跡攻撃が生じているが、”西暦2017年型
には無いように、改善された”と、本ブログでは主
張してきた。
 方行を嗔猪と交換した上で、横行、飛龍、猛牛を、
それぞれ飛龍、猛牛、横行と配置換えして、元の
横行位置に利きが集まり、当の横行は奥に退いて、
失いにくくしたためである。むろん、方行が大駒な
のも利いている。しかしながらそうすると、袖から
3列目と少し遠いが、竪行と方行が袖近くにあり、
これらを端筋に集めて、雀刺しが出来ないかと言う
疑問が湧いて来る。5枚攻撃ではなくて、端筋の
もともと3枚ある攻撃駒に、竪行と方行を加えて
5枚にし、斜めの角2枚、龍馬2枚、奔王の5枚も
入れて、相手の右袖の大駒10枚、集中攻撃戦法と
でも言う、普通唱導集大将棋唱導唄の第1節の拡張
定跡が、本当に無いのかどうかという意味である。
 つまり、普通唱導集の大将棋の第1節で、”耳を
破る”

反車と香車に加えて、飛車、竪行、方行も、加えた
戦法が、むしろ1290年型から2017年型へ
移行する事によって可能にならないのか

という疑問が生じるという意味である。
 そこで今回は、そのような陣を組んだとして、
今述べたような戦法が、成立するかどうかを論題に
する。答えを先に書くと、

恐らく、それも無理攻めに終わると見られる。

駒損をしながらの、急戦の戦法で、この将棋の場合、
柔軟に相手に受けられてしまい、恐らく勝勢に持っ
てゆくのは、かなり困難だと見られる。
 では、以下に、もう少し説明する。
 このような戦法が成立するとすれば、本ブログの
言う、13升目108枚制の普通唱導集大将棋は、
西暦1290年型を、西暦2017年型に変えても
だめだと言う事になる。
 たとえば、雀刺し戦法を、仮に後手が3筋から端
筋に、方行と竪行を移して陣を組み、先手が”いつ
もの軽い陣型で受けたとすれば、以下のような局面
になると考えられる。

普通唱導集2017十枚.gif

上の図で、向こう側の後手の黄緑色の四角の10枚
の駒が、相手右袖攻撃用の10枚の大駒である。
 仮に以下の局面から、後手が、エクセル表示で、
L9飛車(2九飛車)と指し、端筋を守ろうとして
いる駒の、一枚である角行を取ったとして、以下、
攻撃で右袖が破れるかと言えば、

恐らく破れない。

 先手が、左袖から持ってきた、H8の位置の飛車
が決め手の駒で、この飛車で、雀刺しは最終的に、
先手に受けられてしまう。その後、斜め攻撃走り駒
5枚で攻めても、先手の右飛龍で、逆攻めされ、
先手B9位置の、中央攻撃用の定位置にある角行も
反撃に加わり、10枚共に先手陣右袖を崩す前に、
消失してしまうと見られる。
 その後、先手は、今度は相手後手の右袖を、小駒
を、じわじわ上げて攻めて行けば、後手陣が、先手
の麒麟攻撃に耐えられない程度に、陣が崩れてしま
うはずである。
 なおこの例では、左袖から、先手が左鉄将を上げ
て行き、仲人や左翼の歩兵と連携して、2枚の龍馬
を、攻めの決め手に残しながら、相手陣を攻めて反
撃していく例が、オレンジの矢印で示されている。
よって、陣袖の駒の横への動きが、西暦1290年
タイプに比べて、西暦2017年タイプは、ずっと
スムーズになっているので、

即攻の大駒を5枚から10枚に増やしても、”勝ち
を取れる”ような大定跡は、そう簡単には作れない。

どうやらこの2017年作の新型将棋では、以上の
ようになって、問題が一応解決しているようであ
る。(2019/08/04)

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江戸時代初期、明王朝時代小説金瓶梅にシャンチー盤図(長さん)

これまで、本ブログでは、逆蓮花型脚の日本将棋の
将棋盤は、江戸時代初期には日本の囲碁盤と同形式
で、テーブルに脚無し囲碁盤を置いて、椅子に座っ
て碁を打つ、中国の碁盤の形式と違っていたとの認
識を取って来た。他方、安土桃山時代末~江戸時代
初期の、中国シャンチーのゲーム具について、本ブ
ログの管理人には未知であった。そのため、

日本将棋の将棋盤と、中国シャンチーの象棋盤とを
直接議論出来ず、囲碁盤同士に置き換えた議論をし
ていた。

 最近になって中国の古典小説”金瓶梅”の挿絵に、

囲碁ではなくて、珍しくシャンチー盤の絵がある

のを発見した。その結果、

日本将棋の盤と中国シャンチーの盤とは江戸初期に
違う

と言えるようになった。以下詳しく経過を示す。
 江戸時代初期に当たる17世紀初、中国の明王朝
時代の小説”金瓶梅”の中国シャンチー盤の挿絵は、
以下のようなものである。

金瓶梅.gif

中国シャンチーの遊戯具は、中国の囲碁の遊戯具と
形式が、日本の江戸時代の早期には同じだった事が
判る。
 だから、日本将棋の盤と中国象棋の盤との間には、
江戸時代初期の、逆蓮座型の将棋盤だった時代には、

中国の囲碁盤と、日本の囲碁盤との差と、ほぼ同じ

差がある事が判る。つまり逆蓮座型の独特の将棋盤、
囲碁盤は、日本の国内の事情で生じたものとみて、
間違いないようだ。
 それにしても、シャンチーの遊戯具の、江戸時代
初期頃の絵は、少なくとも私には、珍しいものだと
感じられた。金瓶梅の挿絵は成書:PHP新書
(2014)の、”中国人はつらいよ”大木康氏に
転載されていた。
 中国史の書籍で余り目にしない、”おもちゃ”に
ついて、1章設けて紹介してくれた、東京大学東洋
文化研究所の文学博士の大木康氏に、深く感謝した
い。(2019/08/03)

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