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大理国からの交易路はソンコイ河下りベトナム経由(長さん)

本ブログでは、西暦1014年の内裏の火災
による貴金属の焼失が理由で、黄金は朝廷に
よって必要と見た為、藤原道長主導の調達は
当然行われたろうと推定してきた。その結果
として、日本の将棋と、藤原道長用の孔雀を
同時に伝来させた、西暦1015年が、鉱山
国家、大理国から日本への、将棋のまさに
伝来年であろうと、これまで推定してきた。
 その際、インドネシア等、東南アジアに多
く生息していたとみられる孔雀を、交易品と
して混載し、日本に着いてただちに藤原道長
に贈呈するためには、
雲南の大理市から、陸路でしばらく歩いて、
昆明市の北方面に流れる、揚子江の支流で
上海に出るよりは、直ぐ近くを流れている、

ソンコイ河を下って、

ベトナムのハノイを経由し孔雀を調達、その
後、海南島方面から、日本に来たとするしか
考えられ無いのではないかと、推定してきた。
 なお、孔雀は生物であるし、当時三条天皇
が、焼失した内裏の再建を焦っていたと、私
は聞いている事から、その藤原道長への配布
は、”急に”だっただろうと、本ブログでは
推定したのであった。すなわち、周文裔等は、
西暦1012、1015、1020年に計3
回、特に1015年の年初にも日本に来たと、
ここでは推定している。
 そこで今回述べる事を、結論から書いてし
まうと、中国雲南省の大理市と、ベトナムの
ハノイとは、ソンコイ河の水上交通で古くか
ら繋がっていたと指摘する文献が有り、その
点でも、

ベトナム経由の可能性が、卓越して大きい

事が判った。
 文献の名称を、以下に先に示す。

角川書店1999年発行”ベトナムの事典”
「こうが(紅河)」の項目

に、その旨記載されている。
 成書の表現は、次の通り。

”紅河はまた、雲南省に至るまで滝をもたず、
年中河川交通が可能であるため、古代から
中国内陸部と、南シナ海を結ぶ交通路として
重視されてきた。”(桜井由躬雄氏執筆)

 なお、ソンコイ河は、この河自体よりも、
河口のデルタ地帯の方が、ベトナムの首都
も有り著名であり、古代交通路について、記
載している書は、そう多くは無いようである。
web上にも、”滝が無い”事に関する情報
は、日本語では今の所、私には発見できない。
 河自体も全長1200km程度の、日本の
河川に似た急流河川で、河口のハノイから、
雲南大理市へ、物資を船で運ぶには、苦労が
有りそうだ。だが逆にハノイから

空舟で登って勝負手の交易品を大理で積んで
ソンコイ河を下るというやり方は、さぞや
軽快感が有った事だろう。

 経路は、それほど長く無いと見られるが、
揚子江経由の上海ルートは、雲南省の大理市
からは陸路がある。だから、海のシルクロー
ドの使用に慣れていた、北宋の交易商人にとっ
ても、安全性という点で、幸い北宋王朝との
外交関係が西暦1014年頃には、一時的に
改善されていた、李氏大越国経由の方が、
孔雀の産地を通らない上海ルートよりも、か
なりルートとして、使い易かったに違いない。
 河川も海も、同じように船に荷を積む水路
だという点で、海のシルクロードを使った
伝来に、近いものだと見て良いと思われる。
よって、中国北宋商人の(一例)周文裔は、

船で中国北宋から大理へ将棋具を買い付けに
行き、それを買って、その船に積んで定番の
水路、次いで海のシルクロードの通常航路を
使って、博多に来たと見て、ほぼ間違い無い

ように私には、かなりはっきりと見えるよう
になって来た。以上のように、冒頭の成書の
事典を読んでからは、感じられるようになっ
たのである。(2019/09/30)

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2010年頃出土の松江城下町遺跡将棋駒情報(長さん)

島根県松江市に西暦2011年にオープンした
松江歴史館は、松江城下町遺跡の中の堀尾氏
時代の家老、佐々氏の屋敷内の少し西にあり、
そのたぶん東側の、現在敷地内とみられる地点
から、歴史館が建設される、直前の発掘調査で、
将棋駒が少なくとも4枚出土している。
 一部、そのうちの2枚が、web上、
松江歴史館のページで、展示物検索をすると、
見る事が出来るようである。

飛車(1)、成り特殊書体”金”銀将(1)、
成り未発表の香車(2)の構成

となっている。
これらの遺物は順に、成り未発表飛車に松江市
27、成り特殊書体金銀将に松江市28、
細長の成り未発表香車に松江市11、
通常形成り未発表香車に松江市16との番号が
付いているとの情報が、web上に別に有る。
成立は、西暦1634年~1637年の江戸時
代前期と、同松江市歴史館では発表しているが、

少なくとも数十年、あるいはそれ以上、前の駒
に見えるという点に特徴が有る。

香車が細長で、江戸時代風では無いからだ。
 また、webの該当ページを見てもらえれば、
判ると思うが、銀将の字が左に偏っており、
また裏の金の書体も独特で、

比較的達筆の地方の書家が、江戸や京都や大坂
の当時の大都市の規格の決まった将棋駒など
無視して、自分の知っている将棋駒を、それな
りにカッコよく作った

という感じである点に、大きな特徴が感じられ
る。仙台城の出土駒も、歩兵が兵だったりして、
当時は、将棋駒の全国規格など、都市部でしか、
通用しなかった事が、よく判る将棋駒の別の例
である。
 特に、web上でも紹介されている、細長い
香車は、成りが”と”なのか、”ケ”なのか、
”金”なのか、定かでないが、今の駒に近い
香車からは、相当に形が外れ、

細長い江戸時代の香車が、出土する事自体、
珍しい

事である。松江市27の飛車、松江市16の香
車が、松江市歴史館のページでは落ちているの
が残念である。が、このwebのページの特に、

松江市11の香車には、チェックしてみる価値
が有る

と感じられた。佐々氏にとっては都会の流行よ
りも、戦国時代からの、先祖伝来の習慣の心の
方が、当時は恐らく大切だったのであろう。
(2019/09/29)

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将棋文献”大局将棋駒”のコピー大阪商業大学に有(長さん)

大局将棋の唯一の文献、江戸将棋家の大橋家
の古文書は、関西将棋会館から大阪商業大学に
移管されるはずが、現物が無く”見れなくなっ
ている(増川宏一氏私信)”事が知られている。
 文書の造りや、一字一句までの内容が同じで
なくても、内容のコピーが残っていれば、あり
がたい所である。
 さいきん2004年放映の、トリビアの泉の
大局将棋の対局紹介放映画像の動画を見ていて、

大阪商業大学で、紛失前に文書をコピーしてい
たようだとの証拠を得た。

 以下に、もう少し詳しく述べる。
 放送で流された画像で、以下のように、
”古文書”とされるものが、紹介されている。

大局将棋駒.gif

上の画像のワンショットで重要な点は、右上に
私が赤い丸で囲った、

ホチキスの針に、類似のものが写っている

事である。つまり、この画像は、

本物の大局将棋駒では無くて、大阪商業大学
作成の大局将棋駒の記録文書ではないか

と、かなり疑われる。
 つまり、西暦2004年の時点で、

大阪商業大学は、本物の古文書が無くなる以前
に、研究のための、記録のコピーを取っていた
可能性がかなり高い

と言う事だろう。
本ブログでは、具体的に古文書、大局将棋駒に
ついては、

鳩槃の動きについて問題にし、鳩盤のルールに
片一方だけ注釈を付ける等して、左右でルール
を変え、無理やり鳩槃にしているという事実が、
本当に有るのかどうか、

を問題にしてきた。すなわち、
 鳩槃の斜めの、線や丸印等では表現し辛い動
きが、何故世界の将棋の梅林勲氏に、かつては
掴めたのか。鳩槃を鳩盤よりもだいぶん強めて、
金翅、獅子、狛犬の強さに近くし、東西南北の
蛮族の成りを、大大将棋駒で、無理に統一しよ
うとしたのは何故だったのか。今述べた類の疑
問は、大橋文書の大局将棋駒が紛失しても、
大阪商業大学作成の、そのコピーが有れば、幸
い今でも、何とか判る可能性が高いと、言う事
なのだろう。
 前に何度か別の例で述べたが、

日本の大学の所有情報というものは、一般には
なかなか掴みにくい面が、現行有る。

 しかし、テレビの画面でも良いから、とにか
く念入りに、問題の大学の学術紹介のシーンを
調べる事により、幸運にも彼らの持つ表に出に
くい情報のヒントが、稀に現われているという
事も、有る事なのかもしれないと期待されよう。
(2019/09/28)

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成駒打含持駒使用大理国原始平安小将棋のチェック(長さん)

以前に述べた通り、大理国原始平安小将棋は
本ブログの見解で、右銀将を酔象に取り替えた
日本へ伝来した8升目型平安小将棋であり、
初期配列
3段目:歩兵×8
2段目:空き升目
1段目:香車、桂馬、銀将、玉将、金将、酔象、桂馬、香車
という配列である。現地では、酔象は象、桂馬
は馬、香車は車、歩兵は兵だったとみられる。
2文字目は、歩兵以外は、日本人作であろう。
これらを、動きの等価な日本の将棋の駒に変え
ると、
3段目:歩兵×8
2段目:空き升目
1段目:香車、桂馬、銀将、玉将、金将、角行、桂馬、香車
であり、以下の駒に、相手陣3段目に達すると、
成ったと見られる。
3段目:金将×8
2段目:空き升目
1段目:金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将
 元々は取捨てルールとみられるが、
 以前に、立体駒使用のまま、表題に示したよ
うに、

日本将棋と異なり、成駒を捕獲した場合は、
元の駒に戻さないで、盤面に打てる、ある種の
持駒ルールのゲーム

としても、成立可能ではないかと論じた。
 ここでは、そうした特殊な持駒使用ルールの
将棋が

バランスの取れたゲームに、なるのかどうか、
実際にチェックした結果

を示す。テストした結果は以下の通り。

オフェンスが少し強いようである。日本将棋に
比べて、寄せが、やや易しい。

では、以下に論を続ける。
 繰り返しになるが、初期配列は以下のような、
大理国がモンゴル帝国に滅ぼされずに残る、
パラレルワールドの世界のゲームとなる。

大理原始平安小立体持駒初期.gif

今回は、ルールを以下のように仮定した。
①持駒ルールは、成駒については、そのまま打
つルールに変える。ただし、元駒で取った場合
は、日本将棋と、扱いが同じである。
つまり、
②行き所の無い場所への打ち駒は禁手とする。
③2歩及び、打ち歩詰めは、禁手とする。
また、成りの条件則を、日本将棋とは変えた。
日本将棋では、相手陣内移動毎も成れるが、
④相手陣3段目に入ったときだけ成りとし、
そこで成らないと、最奥段で行き止まりになる
とした。存続した仮想の大理国の棋士が、元々
は④だろうと見られるルールは、保持したと仮
定したのである。
 以上の条件で指すと、一例として指し終わり
は、以下のような局面になる。

大理原始平安小立体持駒指終.gif

 結果は後手の並べ詰み負けで、将棋の寄せとして
は易しい。金将が持駒にたくさんあるので、
日本将棋に比べて、寄せの手筋がかなり簡単で、

以上のルールでは、オフェンスが強すぎる将棋

になるようである。
 なお、この調整は比較的難しい。この欠点は、
簡単には良くならないと言う、意味である。
 ただし、単純な取捨て将棋よりは、はるかに
面白い。
 材質を黄金等のままにして、敵味方を立体駒
同士で区別しない道具があったら、そのハンデ
を理解したうえでルールを変えるだけで、今で
も楽しめるゲームである事だけは確かだ。
 ちなみに本ブログでは、木村義徳氏には逆らっ
て、持駒使用の謎に記載されているように、
西暦1994年頃出土した興福寺出土駒(西暦
1058年物)が、元駒銀、桂、香、歩ごとに
成り金書体を変えているという見解を、

取って居無い。

”実際の状況は不規則で、木村義徳氏の言うよ
うな機能は、興福寺出土駒(1058年物)に
は無い”としているのである。
 しかしながら、今回述べた将棋は、

ある種の持駒使用将棋だが、成り金の書体から
元駒は、推測する必要の無い持駒使用ゲーム

である。だから、今回述べた持駒使用将棋は、

興福寺駒(西暦1058年物)でほぼ間に合う。

ただし、対局相手が横を向いた隙に、床に置い
た持駒の裏表を、ひっくり返すようなイカサマ
を、たちの悪いイカサマ棋士がしないかどうか、
皆で見張る必要が有る。だから五角形駒は、立
体駒に比べて、このケースは逆に機能が劣る。
 何れにしても今回の考察結果には、よって

道具が出土しただけで、ゲームのルールの詳細
が特定できるわけでもない

という戒めが、同時に含まれるとも、取る事が
出来そうである。(2019/09/27)

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大理国の滅亡が無いなら大理国小将棋はどうなった(長さん)

本ブログによれば、日本の将棋は西暦1015年
まで中国雲南省の人間、それ以降、日本人によっ
て改良され、完成したものとされている。
 これにより”伝来前に日本人が、ゲームを調整
したかに見える”という矛盾が一応回避される。
つまり最近まで、これが全部、日本人によるもの
と誤解され、遅い伝来説の事実上のパラドックス
と考えられてきたというのが、ここでの考え方だ。
 繰り返すと、モンゴル帝国によって大理国の王
宮に居た貴族将棋棋士は没落させられ、西暦
1253年頃に、”日本の将棋を指す階層が、
日本人だけ”になって、大理国原始平安小将棋は、
立ち消えになったと見るのである。ここでは、
モンゴル帝国が存在せず、南宋の次ぎは明で、
清王朝も雲南は放置したとしたら、現代の
”人民共和国時代”の大理国を発掘すると、どん
な大理国王宮将棋が出土したはずなのかを、推定
してみる。結論から述べると、

持駒使用に進化したもしれない

と考えられる。
 では、更に論を続ける。
 8升目32枚制の大理国原始平安小将棋は、右
銀将が角行動きの象だったと、ここでは推定する。
が、それでも、終盤は詰むのに手間が掛かりすぎ
る事には、平安小将棋で8升目型のものと大差無
い。
 この欠点を除去する尤も良いとみられる方法は、
大理国で使用していたと推定される黄金の立体駒
にも、敵味方の区別が基本的に無い事を利用して、

持駒ルールを導入する事

だろう。
 ただし、大理国の将棋は升目置きだが、日本の
将棋と違い、玉・金・銀の塊を散りばめた、宝玉
・黄金”立体駒”将棋であるという点は、変えら
れないはずである。つまり、持駒ルールにしたと
きに、

オモテ駒と成り駒とを、同時に処理しにくい。

言うまでも無く、裏に字で成り駒名を書いたから、
日本将棋では、この弱点が無かったのである。
 そこで、大理国の将棋で、もし持駒ルールを導
入するとして、どうするかであるが、

取った駒を、そのまま打つ将棋にする

のではないかと、私は推測する。
 つまり、取った駒が元駒なら、日本将棋の持駒
ルールと同じになるが、

既に成った駒を取った場合は、オモテに戻さずに
そのまま成り金を打つような、特殊な持駒ルール
にすれば、立体駒で対応しにくい弱点は、一応回
避できる

と考えるのである。
 つまり、成ってしまうと元駒が何であっても構
わない、現行の日本将棋とは違う、別の持駒ルー
ルにすれば、立体駒で持駒ルールの将棋は、一応
可能なのではないか。
 この将棋は、取り捨ての大理国原始平安小将棋
と比べて、終盤、取って、ミニチュアコンテナに
返却しなかった、相手の成り金を、どんどん盤面
に打てるので、

華やかさと言う点で、日本に伝来した、
後一条天皇用の玩具の、原始平安小将棋(推定8
升目32枚制、金将1枚)と比べても、ひときわ
目立つゲーム

になっていたことだろう。
 考古学研究者によって、近世まで存在した仮想
の大理国王宮が発掘され、二中暦の標準的解釈と
しての9升目平安小将棋と、8升目である点等を
除いて、内容が近似している事が、明らかになっ
ていたとすれば、今と違って、

日本の将棋の伝来元が、大理国である事は、将棋
史家にとっては当たり前。

 以上のように、状況は大きく変化していただろ
うと、私は思うのである。(2019/09/26)

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1012年9月御堂関白日記の周文裔博多来着記事(長さん)

講談社現代新書2196(西暦2013発行)
倉本一宏氏著”藤原道長の日常生活”に記載の
西暦1012年9月22日(宣明暦)御堂関白
日記等の記載について、以下話題とする。
 藤原道長の日記である御堂関白日記のうち、
ここで問題にするのは、将棋史に関連して、
北宋交易商人、周文裔の博多来着記事に関する
部分である。内容で大事な点を最初に書いてし
まうと、

周文裔は規則を守らず博多に着たが、このとき
には、三条天皇の即位直後だったため、恩赦さ
れて、大宰府を介して日本と取引ができた

らしいという事である。
 では、以下論を続ける。
 上記成書によると、藤原道長の西暦1012
年9月22日(宣明暦)御堂関白日記には、
周文裔の博多来着に関して、次のような内容が
記載されているという。元日記を紹介する成書
も出ているが、私は個人的にだが、そちらをじ
かに、確認はして居無い。以前に見たことも
有るが、読み飛ばしたようだ。

 9月22日(宣明暦)の陣定では、周文裔は
廻却すべきではあるが、三条天皇の代替わりが
あったので安置する事とし、唐物使は路次の国
の愁いがあるので取りやめ、大宰府を介して、
然るべき物を召し上げる事とした。

 なお、然るべき物の中に、三条天皇が頒賜
または下賜した、錦、綾、丁子、麝香、紺青、
甘松、茶碗、蘇芳があると言う。
 周文裔は、交易の仕方に問題があるらしく、
藤原一族の手で廻却されそうになったようであ
る。例えて言うなら

藤原道長は、周文裔を、うざったい訪問販売員
のように見ている

事が判る。
 この後、本ブログの推定では
1015年1月、そして論文があるが、
西暦1020年に、この交易商人周文裔は、
着来しているようである。
 聞くところによればだが、この頃特定の外国
商人の入国を、例えば10年に1度というよう
に頻度に制限を加えていたはずである。つまり、

周文裔は来着が余りに頻繁なので嫌われていた

ようだと判る。また、”特別に許されて、交易
が認められたとき”には、大宰府の国軍との間
で取引がなされて、唐物が立て替える形と見ら
れるが、国軍の長の責任で購入され、倉本一宏
著”藤原道長の日常生活”の記載によりこの後、
”大宰府が和市(合意の上で購入)した唐物は、
朝廷の三条天皇に進上され『唐物御覧』が、
天皇や摂関、関係貴族によって行われた。その
後、このケースは三条天皇が、唐物を頒賜また
は下賜する形で、貴族が入手する事になった”
のだと言う。
 つまり、

一旦所有者になっているのだから、大宰府の
その時点の長官は、天皇に周文裔が何を売った
のかは、知ってて当然

という事が判る。
 西暦1012年の周文裔の来着のときには、
藤原隆家の更に前任者で兄、隆家と極めて関係
の深い藤原伊周が、大宰府の長官だったようだ。
だから、倉本一宏著”藤原道長の日常生活”の、
問題の西暦1012年の、周文裔の来着の経緯
と、藤原隆家とは直接には繋がらない。
 しかし、本ブログで推定する、西暦1015
年の、内裏の火事の翌年明けの、周文裔が
”孔雀や鵞鳥も持参した”とみられる来着の有っ
たときには、西暦1014年に大宰府の長官に
なっている

藤原隆家が、責任者として周文裔の持ってきた
唐物を、大宰府が一旦、買い取っていたのは、
明らか

だ。
 西暦1019年の刀伊の入寇の直後、京都の
何処かで、後一条天皇と藤原頼道、藤原実資の
御前で、藤原隆家は、後一条天皇の所持品の
はずの黄金将棋具で、使えるのが当然の様子で
将棋を指していたと、本ブログでは推定して来
た。
 藤原隆家が、他人の物であるはずの将棋具で、
まるで、自分の物であるかのように、使う事が
出来、御前でそれを誰も、おかしく思わないの
は、黄金の将棋盤を一旦、藤原隆家の責任で
周文裔等から買い取った形に、なっていたから
らしいと、御堂関白日記のこれに関連する記載
からは、推定できそうである。(2010/09/25)

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南詔国貴族棋士イスラム発第3波不採用はキマグレ(長さん)

以前に述べたように、現在の日本将棋の金将が近王
で桂馬-香車形が、インド二人制古チャトランガ型
なのは、特に桂馬-香車型については表題のように、
本ブログ見解では南詔国の貴族棋士による、標準形
としての、イスラムシャトランジの不採用、つまり
本ブログで言うアラブイスラム発の第3波の不採用、
持駒使用の謎で言う、”インド発第2波”の不採用
が、理由とみられる。では、この南詔国の貴族棋士
の行動には、何か相当の訳があったのだろうかとい
うのが、今回の論題である。
 回答は、表題の通りであるが、

どちらでも良かったが、たまたま採用しなかった

と、本ブログでは考える。
 理由は、特に後者について、象-車ルールの
反転を以下、ビールーニ型反転と、仮に呼ぶことに
して、

ビールーニ型反転を行わないまま、原始平安小将棋
化しても、実際の反転した原始平安小将棋と、ゲー
ムの良し悪しに関して大差がない

とみられるからである。
 結論と理由付けは以上の通りだが、もう少し説明
を続ける。
 以下に、ビールーニ反転をして到達するとみられ
る、仮想の8升目制原始平安小将棋を示す。もし、
西暦825年より少し後に、南詔国が、持駒使用の
謎記載の第3波(”インド発”第2波。実際にはイ
スラムシャトランジ化が、実質的意味)を受け入れ
ると、以下の将棋が、南詔の後継である大理国から
西暦1015年に、日本に伝来すると見られる。

平安小将棋ビールーニ反転初期.gif

この初期配列から、だいたい先後手同形で指し進め
ると、以下の局面を経由して、

平安小将棋ビールーニ反転途中.gif

最後に以下のような指了図局面に達して、引き分け
になると見られる。

平安小将棋ビールーニ反転指終.gif

最後の局面から見て、この変更による効果と言う点
で、ビールーニ反転の無い、普通の原始平安と、ほ
ぼ同じだ。
 つまり、
持駒使用の謎記載の第3波(”インド発”第2波。
実際にはイスラムシャトランジ化が、実質的意味)
を、南詔国の貴族棋士が、実際の経過とは違って、
受け入れて、象駒と車駒を入れ替えても、

端の象が銀将に進化しさえすれば、それほど結果
に大差が無かった

と言う事である。
 だから彼らの選択は、歴史の痕跡を残してくれた
という点で、ありがたかっただけのものであり、

そうしてくれても、してくれなくても、日本将棋
の性能には、さほどの影響が残らなかったもの

と考えて良さそうだ。
 だから、

変えるのが単に、おっくうだったから、そのまま
だった。

以上のように、実際の進化を表現するのが、やは
り無難なのではないかと、私は思う。
 つまり、何でも中国に良く合わせた、平安時代
初期の日本人とは、日本の原始的な将棋を進化
させた人種の思考は、少なくとも南詔国の時代に
ついては、ぜんぜん別だったのではないかと、疑
われると言う事である。(2019/09/24)

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JR鎌倉駅東口出土搦口王馬馬口木札なぜ断面歪(長さん)

成書”よみがえる中世3武士の都鎌倉”の
執筆者で、P221、文字のある生活の
”白犬。猛豹。猛虎は近くへ行く。上わ
ゆけぬ。”木札すなわち、神奈川県鎌倉市の、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札
の紹介者で知られる、河野真知郎(真は眞)
氏より、表題の”集成鎌倉の墨書”木製品
No.301の、”搦口王馬馬口”木札に
関する、新たな情報が、本ブログの管理人
宛てに、さいきん寄せられた。

河野眞知郎氏には、改めて誠に感謝致したい

と考える。
 情報の内容は、

断面の形状から扇やせんすでは無いと見られる

というものである。
 結論から述べると、
本ブログの管理人の以下は推定だが、

文字が擦れないため、裏の半分を削り、空間
を作っている

ように見える。
 では、以下に説明を続ける。
 河野氏からは、”扇にしてはおかしい断面
である”という、彼の論に関する根拠の説明
が、私の所へ来てい無い。

何を指すのか、今の所私には不明である。

 しかしながら、集成鎌倉の墨書の問題の
遺物のスケッチ図を見ると、以下のように
なっていて

搦奔王馬馬仲人断面.gif

明らかに、裏面の左側に膨らみがある。

上の図では出さなかったが、出っ張っている
部分が、

先に行くほど細くなっている点に特徴がある。

つまり、私の補い読みの、”搦角行角行奔王
馬馬仲人横行反車”等が仮に、棒状の木片に
一行で書いてあり、”反車香車之破耳・・”等
の次のフレーズを、後ろの文が、下になるよう
に重ねた形で収納している形状だと、仮に仮定
すると”搦角行角行奔王馬馬仲人横行反車”の
裏面の木部は、”反車香車破耳・・”のオモテ
面と、

本来は現物の倍程度の面積で、接触し、収納時、
取り出し時に、互いに擦れ合い

”反車香車破耳・・”の字が擦れてしまう、
危険性があるような構造に、なっているように、
見えるという事である。
 だからこの木片は、数片の束が、下部でビス
止めされていて、そのビスも、膨らみ側に空い
た穴で通されていて、重ねた状態でしまわれる
ような、構造だとすると、

オモテ面から見て、左側が収納された状態で、
浮いたようになっている

はずである。なお、それでも半分が接触して
いるのは、閉めた状態で、上部が浮かないよう
に、止めを作る目的だろう。
 このような扇やせんすは、それらだとしたら

河野氏等、発掘者がたぶん懸念するように、
行きすぎた、あまり仰々しい工夫である。

 ちなみに、そもそもこの遺物は、いわゆる
定型の扇遺物とは、大きさの規格が合っておら
ず、普通の扇遺物の破片等よりは、だいぶん
大きい。
 だから、そもそも開いて書いてある字を読ま
せる事が目的であって、扇として使うのが
目的ではなく、かつ扇にしては大振りで、扇と
して用をなすように作っては居無い、本遺物が
モニュメントの類で、あるとするならば、

文字がしばらく使っているうちに、収納と使用
のための開閉時に、直前の棒面の裏面と擦れて
オモテ面の字の一部が消えるのを、接触断面積
を小さく工夫して防ぐという、特殊な工夫を、
する必要があるような物品

ようにも、私には見えると言うことである。
 または、このような”凸凹”裏面に作ると、

反対向きには、開けにくい

という利点も、あるのかもしれない。
 そもそも、文字列の左線が直線的に切れ、か
つ、文字がちょうど、真ん中に入っているよう
な遺物なため、
板が字が残りやすいように、ちょうど良く切れ
たにしては不自然との理由で、本ブログでは、
棒状木片の束存在仮説を取っただけであった。
 だから、

別に板の一部が残っていたとしても、内容が
将棋なら形状は何でも良く、このケースは形状
に、余り大きなヒントが有るとは考えて居無い。

将棋遺物だと、本ブログの管理人が強く感じ出
したのは、前に述べたが、この遺物と同じ、
JR鎌倉駅東口で出土したとみられる
共出土墨書遺物の字や絵の内容が、

ようするに”飲む打つ買う”系の店

の中に有った物だと感じたからである。すなわ
ち、自堕落な中世の将棋場のイメージに、ほぼ
ぴったりだったからに、他ならない。
 よって、内容が将棋であれば、問題の遺物
の元形態は、元々問わないのてはあるが、本ブ
ログでは今の所、

断面がおかしいのは、遺物の前ページの裏面と、
擦れて消えにくくするよう、断面積を小さく
押さえる為か、及びまたは反対方向に開きにく
くする為などの、形状の工夫である

との見解を、出しておきたいと考えている。
(2019/09/23)

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木棒先端墨書”五角形駒歩兵成り歩兵”は失敗作か(長さん)

以下は、西暦1994年頃出土の興福寺西暦
1058年物将棋具出土物に関する話題であ
る。そもそも1994年の発掘で、将棋駒が
15枚出ている。他に酔像木簡と、年代木簡、
それと今回問題にする、木棒の先端に墨書で
オモテに歩兵、裏に五角形の将棋駒型の中に
歩兵と書かれた、”半製品”と呼ばれている、
将棋駒関連遺物があると言う訳である。
 増川宏一氏の、将棋の歴史(平凡社)
西暦2013年によると、木簡研究1994
年11月号に”歩兵の駒なら、裏は『金』で
なければならない”と記載されているという。
その為増川氏は、”この遺物は将棋駒の半製
品で、失敗して遺構である井戸に廃棄された”
との旨同書で記載している。むろん、これだ
けの情報で

真相を特定するのは困難だろう。

ここでは、この解釈以外に

何か無いのかどうか

を論題とする。答えから入る。

有る。

余興で普通唱導集の小将棋の唱導唄の第1節
に類似の唄を、

酔っ払って、宴会場などで踊りながら唄う時

に、使うアイテムとして、作成したものなの
かもしれない。
 では、以下に説明を続ける。
目を付けなければ、ならないポイントは、

将棋の駒型の中に歩兵と書かれた図は、本当
に単なる歩兵の意味なのか

という事であろう。
 個人的に私は、”五角形駒型歩兵”の図で、
あて字的に、当時”金将”と読んでみせたの
ではないかと、

木簡研究1994年11の見解を疑っている。

将棋駒型の部分が曲者で、昔は、漢字の金の

シルエットとも見ていた

のではないかと、個人的に、思い始めている
からである。
 本ブログでは、将棋駒の五角形は、元々は
経帙牌で、願掛け、権威、五行等を同時に表
した、絶妙の選択ゆえの、定番化意匠だと解
釈している。そして、今まで述べたように、
原始平安小将棋の、ゲームとしての出来が
今ひとつであっても、日本でだけは流行った
のは、金に成る歩兵を、願望としての己の
なりたい姿と見て、その将棋を熱心に指した、
(やんごとなき)武者でもあるという階層の
棋士が、日本にある程度居たからだと見てい
る。つまり、

金将に成る将棋の駒の中でも、歩兵の金成り
には、各自の思い入れが特に強かった

と見られると言う事である。将棋と言えば、
”歩兵がアレに成るゲーム”というイメージ
が、当時は有ったのではないか。
 ようするに、

五角形駒型歩兵という図形は、歩兵と書いて
あっても、金のシルエット型で囲まれている
ので”歩兵の成った、かの偉大なる金の将”
の意味と読む

のであろう。
 だから、問題の棒は、オモテが歩兵、裏が
実質正しく、成り金と書いてあるに等しいよ
うにも私には見える。そして、柄が付いてい
るのは、旗印のように振るアイテムだからだ
と思う。つまり特定の唄を、唄いながら振り
かざすアイテムだとすれば、普通唱導集の、
小将棋の唱導唄の第一節を唄いながら、旗の
代わりに、オモテと裏を、ダンシング・ユー
チューバーのように、カメラならぬその場の
聴衆に向かって、出したり引っ込めたりして、
強調して見せるような、使い方が考えられる
のではないのか。
 確かに将棋具と、共出土した事も確かだが。
将棋を指しながら、興福寺の賭博場では酒盛
りもしたのだろう。だから、そのうち宴会が
始まって、普通唱導集小将棋の唱導唄と類似
のパフォーマンスを、酒の勢いでしてみせる
棋士も居り、その際問題の、”失敗作”だと
考えられた、棒切れのような、歩兵成り金の
旗印を振って、宴会を盛り上げて、みせるよ
うな者も、全く無かったとまでは、言い切れ
ないのではないかと、私は疑う。
 よって、確かにこれだけの遺物情報から、
問題の遺物の正体を特定するのは困難だが。

歩兵が複数書いてある、木簡類には、日本の
原始的な将棋が、何故日本でだけ流行ったの
かという、ゲーム史上の背景情報が隠されて
いる可能性がある。

以上のような警戒だけは、怠らないように
したいものだと、私は考えているのである。
(2019/09/22)

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宝応将棋の兵卒。ポーンは行き詰まり歩兵は良好(長さん)

前に述べたが、本ブログでは、これまで西暦
825年時点の、”中国山奥の将棋”である、
(伝)牛僧儒が玄怪録岑順(小人の戦争)に
記載の、宝応将棋の一段目配列は、以下の通
りと見てきた。
一段目配列駒名(現地、西暦825年):
輜車、天馬、上将、金将、銀将、上将、天馬、輜車。
これと、動きが等価な日本の将棋駒名は、以
下の通りである。ゲームの出来のチェックに
は、便宜上、こちらで表現するものとする。
一段目等価駒名:
香車、桂馬、飛車、玉将、金将、飛車、桂馬、香車。
2段目は空き。3段目に配列駒名で、兵卒が
配置され、

等価駒は、西洋チェスのポーンだとしてきた。

なお、成り条件則は、相手陣3段目突入の
一発成り。兵卒、輜車、天馬が、初期配列駒
名の銀将、動きとしての等価駒で言えば、
金将に成るとした。この将棋に持駒ルールは
無く、取り捨てである。
また、この将棋は8×8升目で、金銅の立体
駒を少なくとも一部に用い、よって升目置き
とみられる。
 結論から述べると、

この将棋は、仕掛ようとしている時点で、後
手が先手のマネ将棋を指すと、行き詰まる

事がありそうだ。

だから、兵卒がポーンではだめであり、

第4波のポーンの歩兵化は、早期に起こりそ
うだという事が、実際にゲームをチェックし
て判った。
 結論は以上だが、論を続ける。
 以下は、上に述べた、この将棋の初期配列
である。

宝応将棋ポーン初期.gif

 指し始めから以下のように、駒を先手後手
で同形に組むと、以下の仕掛局面で

先手に有効な攻めの手が、恐らく無い。

宝応将棋ポーン駒組.gif

 日本の将棋で、9×9升目の標準型平安
小将棋で、マネ将棋の仕掛直前局面で起こっ
た、旦代の難点と、

効果が類似の物

である。
 この原因は、桂馬が相手陣2段目突入で成
れるようになったため、行き止まり駒で無く
なり、高飛びを許せなくなった効果が大きい。
桂馬の高飛びを許さないようにするためには
言うまでも無いが、高く飛んだ桂馬を”餌食”
にする

”歩兵”が必要だ。

だから、ポーンでは駄目なのである。
 試しに、ポーンを全部、日本の将棋の歩兵
に交換すると、この問題は

たちまち消える。

よって、前に本ブログで紹介した、

宝応将棋のモデルは間違い

であり、たとえ最初に、”中国山奥”の将棋
の兵がポーンで有ったとしても、

第4波である、兵卒のポーン→歩兵化は、
早期に起こった

と、考えざるを得なくなった。
 尤も、本ブログの論が、元々間違いで、
木村義徳氏の持駒使用の謎に書いてあるよう
に、第4波が、歩兵→ポーンであって、
中国山奥では、それが無かったと考えれば、
問題は、最初から無かったのではないかと言
うと、その通りである。
 以上の結果から、恐らく西暦825年時点
でも、中国ではまだ、シャンチーが無かった
ので、第4の波の、発生源にすらならなかっ
たとして、

別の第4波は”中国山奥”では、将棋ゲーム
の微調整の必要性から、その約200年前に
発生し、その”中国山奥”だけで、”弧立波
として留まった”

と考えざるを得なくなったと思われる。
 本ブログでは冒頭で書いた等価駒名:
ポーン×8
(空き)
香車、桂馬、飛車、玉将、金将、飛車、桂馬、香車。
の宝応将棋が、海端なら”海の家”のはずで
あるから、山荘という表現なら、山奥に違い
ない場所で、
歩兵×8
(空き)
香車、桂馬、銀将、玉将、金将、銀将、桂馬、香車。
と変性して、西暦1015年推定1月に日本
に伝来し、五角形の木片群に置き換える事に
よって、原始平安小将棋になったと、当然
見ている。
 よって、日本の将棋にとっての、第4波は、
西暦825年にほど近い頃に、中国の山奥で
発生し、ただちに”自己到達”したから、
切り替わったと、今後は見なす必要が、当然
の事ながら、有る事になったのである。
(2019/09/21)

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