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下をピンで留めたような、木簡状製品(長さん)

具体的にピン止めの部分が出土している訳でもな
いため、証明は困難だが。JR鎌倉駅東口出口付
近で、前世紀の、西暦1984年に発掘された、
木製品”搦・・口王馬馬仲”は、記載としては部
分的であるため、一例だが、扇子状の物品のうち
の、一枚かもしれないというのが、本ブログの推
定である。
 webを探してみると、字の有る木簡状製品と
して何点か、下をピンで止めて、扇状にしたよう
な、遺物が出土しているらしい。なぜ字が書いて
あるのかの、個別の説明の無いので良く判らない
ものもあるが、扇そのものと、解釈されているケー
スもあるようだ。
 例として下のは、新潟県村上市天神丘字大館の
新潟県村上市大館跡から出土した木簡状の遺物と
されるもので、私にはラベルも内容も、良く見え
ないが、扇子というラベルで紹介されているのか
もしれない、扇のようなものである。
 ただし、このケースは縮尺等は良く判らない。
なお、現物は新潟県新潟市秋葉区金津93番地1
の新潟県埋蔵文化財センターに、展示されている
ようである。

新潟県村上市大館跡木製品.gif

 もう一つは、奈良からの出土物のようで、こち
らも、祭事の札を束ねたように見えるが、同じよ
うに扇子型である。こっちの素性はよく判らない。

奈良市木製品.gif

なお、上の画像の遺物も、実物の大きさは、よく
判らない。
 何れにしても、昔の木簡のような墨書のある木
片が、長くて厚みの薄い札である場合には、それ
を何枚か束ねて、下をピン留めする事は、当たり
前だが可能であり、そのような遺物が実際出土し
た例が、ある事だけは確かなようだ。(2019/10/31)

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なぜ囲碁はイスラム諸国では流行らなかったのか(長さん)

本ブログによれば、中国シャンチーは、
イスラムシャトランジが元であり、それ
の中国人による、奇跡の改善だったと
過去論じてきた。
 では逆に、中国にて隆盛を極めた囲碁
が、シルクロードを逆に辿って、イスラム
諸国に入った形跡が無いのは何故なのか
を、今回は論題とする。
 回答を先に書く。囲碁は、

天文道の占いと関連するという事に関して、
イスラム諸国でもよく知られていて、
コーランの教えに反するので、ゲーム自体
が、反社会的なものとして、退けられた

と考えられる。
 では、以下に論を続ける。
 イスラム教の創始者であるマホメットが
科学好きで、古代ギリシャの科学を取り入
れ、その結果、

しばしば大型天文台が、イスラム圏で中世
建てられたが、星占いの巣窟になったとの
名目で、短い期間に取り壊されたという事
実は著名

である。
 従来は、天文台と囲碁とを関連つけるよ
うな議論は、余り無かった。が、本ブログ
のように、

新星、ほうき星、流れ星、掩蔽現象等から
いわゆる天文道の占いを行うときに、天球
上の恒星分布の、平時の把握が必要であり、
表現用語の供給が、囲碁からされていると
なれば、イスラム教の指導者から、否定的
に目を付けられるのは自明

であると、考えられる。
 中国や日本では、賭博に転用されたので、
囲碁の指しすぎは問題視されたのだが。

イスラム諸国では、ゲーム自体が、反社会的
なものとして、退けられるのは自然の流れ

だったと、当然だが考えられる。
 人間、やめろと言われれば、かえって、
隠れて、するものだったのかもしれないが。
そもそも、イスラム諸国にとっては、囲碁は
異国のゲームだったため、”ワル”もそこま
でして、他に楽しみや賭博のネタがあるのに、
始めようとは、思わなかったに違いない。
 なお、言うまでも無く、アラブにはかなり
具象的な西洋星座が、最初から入っていた。
ので、中世アラブの天文台の職員が、囲碁の
用語を必要としていたとしても、絶対とまで
は、行かなかったのも恐らく有るのだろう。
 以上の事から、これまで余り注意されて
こなかったが、

囲碁と天文道は、前者のゲームが成熟した
段階で、密接な関連性があったと仮定すると、
解ける謎が幾つもある

という点が、明らかなのである。(2019/10/30)

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雲南ハニ族の昔話に、暦法で一悶着有った話有り(長さん)

雲南省の季節感については、現地の気象を
調べれば一目瞭然だろうが。大理国の都
の大理市と、南の中国国境の真ん中のへんで、
昔どうだったのかを知りえる、雲南省ハニ族
の民話に、私は最近接した。

求龍堂(東京の千代田区紀尾井町)が、西暦
1998年に出版した
”中国少数民族のむかし話”(邱奎福氏編)
のハニ族の昔話、
”アロがカッコウを探す”である。

なお、アロとは架空の、中国雲南省少数民族
ハニ族の”とある”男性人物の名。カッコウ
は鳥だが、空を飛び回れる動く”時計ロボッ
ト、七十二候広報ロボット”のような、霊鳥
と、物語り中で表現されている。
 ちなみに、

”ハニ族はweb上に、日本人の祖先か”と
いう話が散見される、雲南と日本との関連性
が噂された民族

の事である。本ブログでは、前に述べたが、
この点につき、”倭人”が、漢人以外の人種
をさす用語というのが、元々の意味であり、
特別に、日本人と中国雲南のハニ族を、どち
らも指す事が多いために、混同があるという
説が存在する事を、紹介している。
 また、上の民話にも出てくるが、雲南省で
の民族分布は、人数の多い種族だけ、拾い上
げてみると、

北からイ族、ペー族、ハニ族、タイ族とイメー
ジすると判り易い

ようである。むろん、漢族は、もっと離れた
北東方向に居る。またこの昔話の中では、

タイ族の居住地には四季が無く常夏で、ハニ
族の居住地には、温暖ながらだろうが、四季
がある

ように描かれている。ハニ族は、秋の終わ
りの中国古暦10月に、収穫祭のような意味
で正月を祝い、2か月位準備してから古暦
12月、つまりグレゴリオ暦の1月から、
上記物語によると、真冬の粟の種まきをする
ように書いてある。四季が有るとはいえ、
現地はかなり温暖なようだ。
 以上の点を踏まえて、この昔話の内容を
以下に、要点だけ述べる。
①この話は民族によって、それぞれ別々に、
暦が存在するという観念に従って、展開さ
れている。
②暦を持っているのは、漢族だけで、ハニ
族には、暦が使わせてもらえないのか、漢暦
は使え無いとの認識で、話が進む。
③ハニ族の英雄の青年が、カレンダー情報広
報ロボットの”カッコウ鳥”を、農作業の民
のために探す話になっていて、結局最後には、
自分がカッコウ鳥に、身を犠牲にして変身し
て、ハニの人々を救うという、美談になって
いる。
④途中に挟まって、”熱帯なので、タイには
四季が無く、暦は無くてもすむ”事が指摘さ
れている。
 つまり、いにしえから中国の歴法を輸入し
て、使用するのが当たり前の日本人には、

理解が困難な、異国の昔話

である。
なお昔、雲南省で、中国唐の暦法で良いのか
どうか、少なくとも何か、一悶着あった形跡
がある事を示す、言い伝えのようにも、私に
は読める。

 近郊のイ族に独自暦法があるのと、何か関
連するのであろう。

雲南王に”唐の暦は唐のもの。南詔国の暦は
南詔国のもの”等と、ハニの民が予め刷り込
まれて居無いと、上の②のような、我々日本
人には、何を言っているのか、意味不明な主
張は、もともと理解できないものに違い無い。
 なお、更に注意深く読むと、陰陽暦の場合、
節気が、別に挙動する事に象徴されるように、
暦とは別に、立春、雨水・・を教えてくれる、
七十二候広報ロボットである”カッコウ”鳥
が必要であるという、太陰太陽暦の弱点をも、
示唆しているようだ。各月の初めに、前記ロ
ボットカッコウは”片言の人間の言葉”で、
”定まった七十二候に類似する文”を、広報
マイクのように、告げながら、雲南省を
飛び回るように、書いてあるからである。
 つまりグレゴリオ暦のように、節気や候が、
歴日に対して毎年ほとんど、ズレ無い暦が、
”カッコウ”鳥によって、もたらされたとい
う史実が、この昔話の裏には有るようだ。

ハニ族の先祖も、昔は南詔国の重臣の座を占
めており、太陽暦を選択した南詔王の政策を、
褒め称えていた疑いがある

事を、もとよりはっきりとはしないが、この
昔話りは、示唆はしているのかもしれない。
 雲南では唐王朝期から定朔を入れたために、
暦計算が複雑化して、嫌気が差して、月の
位置観測をしなくなったのだろう。その結果、
”天の漢帝国”を観測するための、星座の配
列表現ツールとしての囲碁を、ほぼしなくなっ
たと疑われる。以上のように、星座の形の把
握と囲碁とに関連し、かなり注意すべき民族
民話が、雲南には実際に存在するように、私
には読み取れた。(2019/10/29)

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本ブログで問題にする囲碁と恒星天文道との関係(長さん)

以下、中国古代の星座の認識を、
中国古代特有の恒星天文道とか恒星天文学等の
言い回しで表現する。今回は、本ブログでは、
囲碁と天文学との関係と言うときに、
碁盤を星占いに使用するといったカテゴリーの
内容を、

問題にしていない事

及び、

何と囲碁を関連付けているのかという事

と、

その理由

について以下解説する。
 後半の方の答えから先に書く。
 古代の中国の星座については、星の配列を、
囲碁の石の並びに関する、独特の囲碁用語を
転用すると、便利に表される。そのため、
少なくとも唐代頃には、囲碁の石の配列用語を
転用して、実際に中国星座の星配列は、把握・
表現されていたとみられる。そこで少なくとも
本ブログの解釈では、古代の日本や中国の

天文博士にとって、天文道の業務を遂行するた
めには、囲碁の石配列の表現に関する用語が、
全て理解できるというのが必須だった

と推定される。
だから、たとえば藤原京時代には事実上、

囲碁の棋士にしか、天文博士はなれなかったと
推定できる

という事になる。
 次に、前半の件だが、確かに漢代以前に、囲
碁が成立するとき、占いの道具である、碁盤を
囲碁に転用したいう事は、あったかもしれない。
しかし囲碁がゲームとして高度に確立されると、
占いとゲームとしての囲碁のお互いの間で、
必要な知識のカテゴリーに、さほどの共通性
が無くなったと、私には思える。
 だから、本ブログでは、占いとしての天文道
と、囲碁との関連は、かなり時代が下る将棋史
との関係に関連しては、余り問題にしなくて良
いと考えているのである。
 以上が結論だが、以下に論を続ける。
 本ブログの以上のような議論は、

残念ながら、隋唐時代の囲碁の史料等を使った
証拠として示せない。

日本の藤原京での囲碁の隆盛も、囲碁の石並び
の専門的な用語による表現が、月の位置を観測
するために、中国星座を把握しなければならず、
その能力の有る無しの証明になるため、人事評
価を上げるために、下級役人が都で囲碁を打っ
たのだろうとの旨、以前に本ブログで表明した。
がその証拠となる、日本の当時の史料が、特に
ある訳でもない。

全ては、もっともらしさが根拠なだけ

である。
 ただし傍証としては著名なものが、江戸時代
に下ると、わが国には存在する。幕府天文方の

渋川春海という個人の存在と、彼の作成した、
中国星図及びその拡張和星図

である。
 前世紀の天文学史の主流であった、渋川春海
という人物に関する、”囲碁棋士としての腕は、
さて置いて論”は、今では、増川宏一氏の著書、
”碁打ち将棋指しの江戸”で紹介された、江戸
時代の将棋家、大橋家の文書の発見で、文字通
り”こっぱ微塵に打ち砕かれ、覆された状態”
である。

渋川春海は、当時の囲碁界のトッププロ

だ。彼が幕府の天文方に抜擢されたのは、京都
の土御門家に、囲碁と天文道との関係に関して、
当時の中国星座の把握と、囲碁の局面石配列と
の関係が同じである旨の話が、私には

少なくとも、口伝として残っていたからだとし
か考えられない。

根拠としては、土御門家と渋川との関係は、暦
道の技術的な問題はさておいて、うまくつながっ
ていて、基本的な信頼関係がある点。および、
前段で述べたように、
碁石を並べたような、和製の中国星図を作って、
それがもはや江戸時代には形式的であるにせよ、

朝廷の御用学者である、土御門家にも、通用す
るような内容であった点。

以上の2点から見て明らかである。
 なお、渋川の星図が、囲碁の石の配列である
という点については、
天文学史家の間では、見れば一目瞭然のため、
恒星の対応付けという観点を除いて、真面目に
理由解明に取り組んだ先行研究例を、少なくと
も私は、余り聞かない。
 口頭での話でよければ、かつて”星空を守る
会の総会”で、変光星の観測者として著名な、
神奈川県の佐久間精一氏が、

”これじゃ、変光星の研究には、ほとんど役立
たないのだが”と、ため息を漏らした例がある

だけのように、私には認識される。
 前世紀の当時は、とっくに囲碁界から去った
渋川春海が、なぜ

未練がましく、それまでの中国の伝統星図の
方式よりも、更に環を掛けた形で、囲碁の碁石
を並べたような星図を作成したのかという点に
関しては、全く謎に包まれていた

ように、私には記憶される。
 ちなみに中国に、ギリシャの天文学者のヒッ
パルコス作とみられる、恒星の等級システムが、
イスラム世界から伝来したのは、遅くとも日本
の、南北朝時代以前である。西暦1384年成
立の明訳天文書に、30個の恒星の、ヒッパル
コス流(プトレマイオス転記の)星の等級表が、
中国には有るからだ。
 また、渋川春海が貞享の改暦に成功したのは、
実際には、彼には洋学の知識が有り、藤原京
時代の人間よりは現代人に近く、回帰年と
近点年とが、別物である事を知っていたから
だと、少なくとも私は理解している。
 しかし今や、
遊戯史自体が、当時とは比べ物にならないほど
進んだので、囲碁が藤原京時代に打たれた動機
という観点や、逆に晩唐の頃に、中国雲南省の
イ族の国家、南詔国では打たれなかった理由と
関連付けて、ずばり

囲碁の石を並べた形の、渋川星図の意図が、
次第に判るようになってきた

という事である。
 以上をまとめると。少なくとも、囲碁が発生
した経緯ではなくて、良く打たれる理由として
は、中国星座の抽象的な配列と、囲碁の石の配
列の独特の表現方法とが近似していると、ほぼ
断定可能であるという点が、

とても大事

だと見る事が出来る。なお、個別月の位置の観
測についてだけは、隋王朝時代に歩天歌が出来、
それ以来それも使えた。日本の藤原京時代より
は、少し前の事である。厳密には、星座の中の
サブドメインが、具体的にどう並んでいるのか
を、囲碁の石の配列の表現方法を借りて表した、
”専門家用の知識”だったのであろう。
 よって、囲碁の発生よりも後発の、日本の
将棋の発生要因を問題にしている本ブログでは、
議論が沸騰している囲碁前史の、天文占いとの
関連ではなくて、中国古代の星座の形の特徴に
関連する、中国古代の恒星天文学と、具体的な
囲碁ゲームの使用用語の特徴との関連が、論題
になっていると、いう事になるのである。
(2019/10/28)

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南詔国の王族の民族、雲南イ族は太陽暦使用(長さん)

中国華南民族史の研究家である、(故)白鳥芳郎
氏によれば、南詔国と六詔国のうちの5国の王族
の出身は、(現)イ族とされる。この中国の少数
民族は、民族暦として、太陽暦を”古くから”使
用していたという事である。1年を、10カ月に
分ける方式と、18カ月に分ける方式が有るとい
う内容の説明が、以下の成書に載っている。

岡田芳朗編”暦の大事典”、朝倉書店(2014)

以下の別の成書を見た限り、現地では、10カ月
分解方式の方が、いくぶん有名なようだ。

張松泉他著”雲嶺之華”、㈱新評論(1997)

この暦法から察するに、結論から書くと、

南詔国が唐代に、”唐王朝の恒星天文学を、意識
的に使わなかった”という、本のブロクの仮説の
別の根拠

になるのではないかと疑われる。そこでその議論
を、以下更に続ける事にする。
 ただし残念ながら、この

イ族の固有の暦法の成立年代が、良く判らない。

 しかしながら、太陽暦採用の時代以降に、わざ
わざ別の太陽暦を、少数民族が、国家中央とは別
に使い始める根拠が有るとは、少なくとも私には
思えない。中国の歴代王朝で、言うまでも無く
太陰太陽暦を使っていた時代に、イ族がよりシン
プルな、太陽暦を使っていたという話の方が、よ
ほど尤もらしい事だけは、確かだと私は思う。
 次に内容だが、このイ族太陽暦は、レベルが

古代エジプト暦とほぼ同じ

である。つまり、極く原始的だ。

本格的な太陰太陽暦の作成・使用が、めんどうだ
から、別に太陽暦を作った位にしか、私には作成
の理由が思いつけない程度のものである。

なお今では、1年10カ月暦の一月が、36日に
なっているとの事だが。大方、唐代程度まで遡る
と最初は30日にしておいて、2月強休みという、
四大文明方式だったのだろう。
 その日の何時何分に、形を見るのか明らかでな
い為詳しい事は良く判らないが、イ族も季節を知
る目安にしていると言う北斗七星が、雲南で周極
星だった時代には、中国中原の暦に、何とかつい
ていったのだろう。が定朔の暦にする等の目的で、
中国古代の、中国王朝モデルの恒星天文学を取り
入れ、月の位置観測をし無ければならなくなった、
唐暦への中国中原での改暦あたりで、南詔と六詔
国中の五国は、太陰太陽暦の

中国方式から、離脱したと考えると、よく合う話

のように、私には思える。
 なお今日のイ族の10カ月方式太陽暦は、月名
を5行、日名を12支を使って表す、”もっとも
らしい方式”として、完成しているとの事である。
なお一年が366日の閏年には、夏に閏日を入れ
るらしい。回帰一年の長さはユリウス暦とおなじ
にしているようだ。
 何れにしてもつまりは、中国古代イ族の先祖は、

”そこまでして、月の満ち欠けに合せる事は無い”

と考えたのだろうという事を、本ブログのこのペー
ジでは指摘しているのである。
 よって、以上の事から
イ族(ロロ族)が王だったという、六詔国のうち
の5国と南詔国は、六朝から唐代に、ハニ族(倭
を当てる場合の、雲南の民)や極東の倭国とは違っ
て、囲碁、盤双六、中国式サイコロ賭博等につい
ては、

特にそれと関連する、囲碁について、唐代に、
中国恒星天文学に関心が薄れたために、しなくなっ
ていったと考えても、さほどおかしくない。

以上のように推論できる根拠の一つように、この
情報は、読み取れると、私は考えているのである。
(2019/10/27)

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佐伯真一氏の普通唱導集大将棋第2節配列の確認(長さん)

三元社が2002年に発行した、”日本文化
としての将棋”等に出ている、佐伯真一氏の、
普通唱導集の大将棋の唱導唄第2節は、後期
大将棋への以下説明の形への駒組であると
見た場合の、当否について、実際に一局試し
に、書いてある通りの作戦をしてみた。そし
てこれが、先手の幻惑戦法であり、純粋守り
の陣では無い旨を確認した。
 つまり、本ブログによれば、
後期大将棋に佐伯氏が記載したような駒組を
した場合には、支えの陣になるのではなくて、

力を入れれば、壊れてしまう拠点を、わざと
相手に、仰々しく攻めさせて、相手の斜め走
り駒を消耗させ、

それに対して、自分の斜め走り駒は、敵陣の
急所に使って、使い方の有効度の差で、勝ち
に結びつけるという作戦であるとの旨を、
確認するという、以下は趣旨である。
 では、以下に説明を続ける。
 以下の棋譜は、15升目130枚制の、
後期大将棋の序盤の局面であり、先手下側が、
佐伯真一氏の図の通りに、中間に問題の、
”意味ありげな囮拠点”を作ったところである。

後期大将棋佐伯駒組.gif

それに対して、後手は、”まんまと引っかかっ
て”、斜め走り駒を5枚とも繰り出して、この
ケースは、先手左横行に向かって、猛攻をかけ
ようとしている訳である。
 この将棋は、一例では以下のように変化する。

後期大将棋佐伯駒替.gif

いっけんすると、後手の攻めが成功したように
見える。が、斜め走り駒は1枚になってしまっ
ている。そのため、更に進むと、以下のように
なった。

後期大将棋佐伯変化.gif

後手は、麒麟が流れ弾攻めされて、左翼に逃げた
のもマズかったが、先手に成り麒麟の獅子を、
先に作られた。しかし、陣を見てみると判るが、
先手陣は、玉周りの駒組が健在なので、後手に
先に獅子が出来たとしても、容易に先手の玉は
寄らない。
 それに対して、先手は温存した、斜め走り駒
等で、後手の玉周りの陣を崩したので、上の局
面では、麒麟の位置に係わらず、この後期大将
棋は後手が、はっきりと悪く敗勢である。
 先手は、歩兵を進めて”と金”を作る等して、
地道に更に、後手陣を崩し続け、結局以下の局
面で、後手の玉が詰んだ。

後期大将棋佐伯指終.gif

以上の事から、先手のいっけん意味ありげな、
佐伯真一配列に相手が引っかかって、斜め走り
駒を序盤で消耗させてしまうと、場合によって
は、後期大将棋の場合、

騙されて、先に斜め走り駒を無駄使いした方が
負けてしまう

傾向がある事が判る。
 よって、

佐伯真一氏が西暦1993年に発表した、
普通唱導集大将棋の唱導唄の第2節の解釈の
陣形は、後期大将棋の作戦として、しばしば
有効なケースがある

と見られるのだが。”真面目に『支える』の
を、本来目的にしていない”という点で、
普通唱導集の大将棋の唱導唄の内容とは、ズレ
がある、と言う事になるという訳である。
(2019/10/25)

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興福寺酔像木簡の”の”のような字は何(長さん)

西暦1058年物とみられる、興福寺出土の
習字木簡には、定説では、酔像、歩兵、金将
が書かれている事になっている。ごちゃごちゃ
に字が書いてあるので、薄い字まで解読する
のは、当然困難で、本ブログでは、過去、
酔象らしきものも確認している。ごちゃごちゃ
な字の塊の木片の話なので、その他にも先行
研究として、幾つかの別の字の話が有る。
 ここでは、きりが無いので、紹介や検証は
中断して、以下のスケッチに関して今回は、
緑の矢印で示した、”の”の字のように見え
る墨跡が、

少の字の崩し字では無いかと言う話だけする。

木簡興福寺少.gif

では、論を続ける。
 まず、この字が”の”では無いのは、縦線
が真っ直ぐに伸びているので、明らかだと考
えられる。
 将棋の駒とは、全く関係ない字が混じって
居るはずがない無いという主張は当然無理だ。
しかし、歩兵や金将や酔像と、関係のある字
であるという仮説は、この木簡が、ほとんど
歩兵の字であるため、一応尤もらしい。
 個人的に、この奇妙な①の崩し字は、下の

草書の”少”とも、やや似ているように思う。

草書少.gif

問題の木簡で、最後が下に延びて居無いのは、
その下に”兵”と書くスペースを、確保した
いときに書く、歩の下半分だと考えると、す
くなくとも私には、一応納得できる。
 つまり、

興福寺では発掘されていないが、歩兵駒に、
草書で歩と書いた駒も、もしかすると存在し
たのであろう。

歩の字で、下のくるっと丸く、少と書く部分
の、草書の調子を練習するため、だいたい
2つ位”の”のような、墨跡が、有るのでは
なかろうか。
 個人的にだが、私にはこの他に、この木簡
に字の種類が、発見できていない。
 自己満足の世界だが。これで興福寺105
8年物習字木簡の将棋面は、内容がほぼ、全
て解読できたような”つもり”になって、良
い気分で今、いる所である。(2019/10/25)

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佐伯真一氏普通唱導集大将棋第2節陣は深謀遠慮(長さん)

普通唱導集の唱導唄のうち、大将棋の第2節の
”守り陣”については、本ブログの自陣4段
モデルより前に、最初の注目者の佐伯真一氏に
よる、後期大将棋の陣を前提とした、駒組図が
知られている。
歩兵、空升
竪行、桂馬
嗔猪、仲人
空升、歩兵、歩兵(5段目)
という主旨である。

今回は、この説に対する、本ブログの見解を
述べる。

なお、上記配列は、2018年度に解散した
遊戯史学会の会報”遊戯史研究”の第5号
西暦1993年や、三元社が2002年に発行
した、”日本文化としての将棋”等に出ている。
ちなみに本ブログの論では、麒麟側でなくて、
鳳凰側に陣を作るので、この鏡像となる。
 見解に対する答を書く。
 この陣形を、15升目自陣5段配列の後期大
将棋で、鳳凰側に作るとすれば、わざと相手の
斜め走り駒を、消耗させるのが狙いの深謀遠慮
の陣となる。よって、
”仲人嗔猪が腹を合わせ桂馬を昇せて支え得る”
のではなくて、
”仲人嗔猪が腹を合わせ桂馬を昇せて

騙し得る(撹乱する事が出来る)”

と、唱導唄は表現されるはずで、やはり

合って居無い。

 では、論を続ける。
 この陣の特徴は、この将棋が後期大将棋だと
すると、攻め側相手陣反対側の左辺から、龍馬
が筋代えしなくても、袖攻撃が出来るように、

いっけん、相手のお手伝いをしている

という点に、特徴がある。
 そして龍馬2枚を、桂馬と竪行と交換すると、
守り側は仲人を上げざるを得ず、

角行で、素抜きになると考えられる

からである。だから、

元々、この手数の多い中間陣は、守ろうとして
いるのではなくて、相手にわざと攻めさせて、

斜め走り駒を、消耗させようとしている

と、取れるのである。
 そもそも、
後期大将棋では、こうして横行頭を破って、成
麒麟を突入させても、銅将、猛豹の作る”柱状
の陣”等、玉周りの囲いが初期配列で強すぎて、
相手陣は破れない。
 だから、そうした作戦は考えられないのだが、

わざと、お手伝いして、無駄な攻撃を相手に誘
う”囮の陣形”

と取る事が一応出来ると、私は考える。
守り側は、守り切った後で、温存した龍馬、角
行を、相手の玉将周りの守り駒を倒すのに使い、
なんとか、引き分けではなくて、己の勝ちとし
ようという、気持ちの見える作戦と言える。
 だから、これで”支え得る”のが目的では無
くて、むしろ

”騙し消耗させる陣立て”と、言うべきではな
いか。

 よって、佐伯氏の本ブログに先行する、普通
唱導集大将棋の唱導唄、”大将棋”第2節
”仲人嗔猪が腹を合わせ桂馬を昇せて支え得る”
と、佐伯真一氏の西暦1993年の布陣とは、

合って居無い

のではないかと、私は疑うのである。
 ”これだけの情報から、正確な所を推測する
のは難しい”との、現在の将棋史会の空気は、
いっけん尤もらしいが。普通唱導集という

史料に合わせるのは、意外に難しく、ゲーム内
容が、実際にはかなり絞り込める情報が、たま
たまだったのだろうが、普通唱導集には記載さ
れている

と言うのが、私の今の心象である。(2019/10/24)

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雲南王室。金銀食器の使用は南詔国の時代から(長さん)

本ブログでは、中国のweb上の電子百科の情報
から、表題の件をこれまで、大理国の時代として
来た。今回は古文書の情報から、南詔国の時代か
ら、王宮での身の回り品は、金・銀等の貴金属製
であった疑いが、極めて強い事を述べる。

情報源は唐代文書”蛮書”の第8章”蛮夷風俗”

である。この書は、加筆が有り、問題の王宮の食
器の材質の部分が、原本に有るのかどうか謎であ
る。しかし、一応成立が、唐王朝の時代であって、
王室は南詔であるから、大理国の王室だけでなく、
雲南の王室は、その前の時代から、揚子江の上流
で取れる、砂金等で作成したと疑われる、贅沢な
貴金属製の日常品が、使われていたと見るのが、
かなり自然なように、私には思えた。
 やはり、

食器が金銀なら、王宮の遊戯具も金銀というのは
自然

なのではないだろうか、という事になる。
 今回言いたいことは以上だが。雲南の古王国の
鉱山国家らしさは、”蛮書”の他の所にも紹介が
あるようだ。
西暦1985年に六興出版から出た、

白鳥芳郎氏の”華南文化史研究”に、南詔国軍の
”金帯の将”についての、蛮書の内容紹介

が、日本語で載っている。
 それによると、兵士を100人束ねる小隊長は、

雲南では皆、金帯を付けていた

そうである。”金カ”の入った帯は、実戦でなく
て、式典等で着用したのであろうが。隊長で無い
部下は、犀の皮の帯を付けていたと記載され、

下級兵士を表している

との旨の事らしい。
 南詔国軍が仮に全部で10万人くらいだったと
すれば、

王室は金帯を1000本用意しなければならない

という事になろう。よほどの軍功があった兵士に、
国で数十人程度の規模で、金帯帯を配布するのが
普通かと、少なくとも本ブログの管理人はイメー
ジしていたので、

これには驚いた。

雲南にはよほど”金に余裕が有った”のであろう。
 これなら、ずばりの史料が出てこないと、証明
は困難だが、常識的に見て王室で使うものは、

何もかも、つまり遊戯具も金銀なのが、雲南王室
では当たり前という感じが少なくとも私にはする。

なお、六興出版の1985年の前記著書の中で、
白鳥芳郎氏は、雲南の昆明市付近で大量に発掘さ
れた、青銅製の造形物について、あとがきで、

テン国の時代~ジャン国・六詔期の、ある程度の
巾のある成立年代を示唆する記載をしている

ようである。ここでジャン国とは、中国の六朝期
に有った、白鳥氏によれば、白族系の国家の事ら
しい。テンは漢代、六詔は隋王朝の頃だから、
おしまいの方は六詔と重なっていて、南詔国に、
玄宗皇帝の時代に、滅ぼされたという国だが、テ
ンと六詔の間の、空白期の国という事らしい。
六詔の頃にはジャン国は、大理市や昆明市よりも、
南だけを支配していたらしい。ただし、雲南の

青銅期文化が、南詔まで下るとは、白鳥氏もさす
がに言って居無い。

そもそも馬に乗った金の将は、金帯の南詔国の軍
隊の隊長とは少し違うのかもしれないが、イメー
ジでかつ、帯だけでは目立たないので、造形物で
は、全身金にして概念をデフォルメして、表現し
たものかもしれない。そしてジャン国の時代にも、
歴代の中国王朝をマネて、金帯を締めた大将軍と
いう概念は、雲南では考えられていたのかもしれ
ないように、私には思える。

だから、青銅時代にも、雲南に”金将”が居るの
であろう。

 ピュー国からインド発、ペグー等で自陣3段目
に変更された将棋が、西暦775年位に雲南に
入ってきたときに、

隊長をイメージして、王駒を金将に、大臣を、
ちょっとレベルを落として金銅製で作って、銀将
に名称変更した

のではないかと、私は想像する。
 小隊長へ、手柄を立てれば比較的容易に兵士が
なれたので、南詔王室の感覚では、3歩前進の
相手陣3段目で、金銅製駒へ交換(成り)で、
ちょうど良い感じに、8升目将棋では見えたので
あろう。

こうして、(伝)牛僧儒が玄怪録で記載した、
”宝応将棋”が、ほぼ出来上がった

のでは、やはりなかろうか。
 なお、私は前記の白鳥氏の、1985年の著書
を古本で入手した。webの情報によると、白鳥
氏はその後、”自己批判”して、

ジャン国や大理国の王を、白衣蛮と特定するのを
止め

たらしい。つまりペー族と白衣蛮(タイ系種族)
とを、西暦1990年までには、別の種族と見る
ようになったという。私の入手した白鳥氏の著書
は彼の転向前の作だったそうで、定価に比べると

激安で入手でき、ラッキー

だった。なお大理国の王の段一族が、白衣蛮だと、

日本の将棋は、”タイ人”が伝来元

になる。また当時のペーの王様が白衣蛮と別なら

日本の将棋は、”奥地の中国人”が伝来元

になると表現されるのかもしれない。なお、南詔
国の王は、今のチベット・ビルマ系のイ族である、
ロロ族である。
 現在のweb上の日本人作とみられる、著者名
記載の無い某情報(パワーポイントの断片)を読
む限り、中国の大学にも席の有った

白鳥氏の”転向”は、中国共産党の指示の疑い

が、一部で持たれているようである。つまり、
”ジャン国や大理国が、中国人の国ではなくて、
タイ人の国とは、けしからん”と言う事であろう。

個人的には、”将棋の伝来元は雲南である”と言っ
てしまえば、人種は何でも良い

感じであるが。世の中には微妙な、政治的な話が
学術世界にまで絡む事がある物だと、この話を、
聞き、妙に興味をそそられた。(2019/10/23)

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中国雲南の豪族名の猛は”ムアン”の充て漢字(長さん)

本ブログでは、雲南の豪族(土司)の名の一文字
の猛は、水田地帯の現地の牛と合わせて、大将棋
の猛牛の起源という事になっている。しかし、少
なくとも本ブログで、猛の字の意味について、こ
れまで述べて来なかった。最近以下の成り書に、
タイの原始国家の”ムアン”に漢字を充てたもの
であるという旨、記載されていたのを確認した。

柿崎一郎著。物語タイの歴史(中公新書1913)
 中央公論新社(西暦2007年)

この著書には、正確にはムアンのあて字は猛か、
”孟へんの力”と書いてある。
 この著書は、個人的には前にもチェックしてい
る。問題の部分は、単純な私の読み飛ばしであっ
たようだ。

ムアンという語は、タイ(白衣蛮)の小国家とい
う意味で有る事は、言うまでも無く、良く知られ
ている。

スペインの闘牛を知っている我々と違い、中世の
日本人には、猛牛という熟語は、一般には無い、
造語的な言い回しである。

闘牛のイメージの牛ではなくて、将棋の伝来元の
”牛の国”を、闘える牛と引っ掛けたのであろう。

 結局大将棋の構成駒で、嗔猪と猛牛が、悪狼、
猛豹、猫叉よりも古いと見破れなくては、判らな
い事ではあったのだが。
 日本の将棋が何処から来たのかを、大将棋の駒
名を知る人間にだけ、ヒントとしてやはり、はっ
きりと提示していたと言う事になろう。情報源は、
”降伏させるべき敵国”である、モンゴル帝国で
あったはずだから。この帝国の政治と情報経済の
分離政策には、今更ながら驚くばかりである。
(2019/10/22)

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