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米辰峰MiChenfeng氏ブログの元代将棋(長さん)

以前に述べたが、南宋期、元代草創期、明代
の中国シャンチーの情報は公知だが、元代真
ん中頃の、中国シャンチーの状況については、
存在は確実だが、情報が少ない。ただし、
web上、中国人の個人ブログに、元時代の
中国シャンチー駒を所持しているとの意味に
取れる記事が2~3件ヒットするようである。
 一例として表題のように、米辰峰氏の西暦
2014年頃の記事を挙げる。
米辰峰MiChenfeng氏ブログのurl
は、以下の通り。

エイチティティピー://michenfeng.blog.sohu.com/

記事は、以下のHTMLファイル名を、上記
の末端のスラッシュの後に付けた所にある。

304461232.html

駒の写真も有る。書体が特殊だが”元代成立
である”との根拠(本物なのか、ニセモノな
のか)は、私には不明である。
 オークションサイトが、全く別の人間の所
に有り、元代中国シャンチー駒一式32枚に、
180万元の値が付いている。だからよほど
少ないと、彼らには認識されているのだろう。
 何処から、どうして出たのか謎だが。オー
クションの”元代のシャンチー駒”の値段は、
元時代もシャンチーは有ったが少なかったと、
中国人が、考えているとみられる事の、根拠
の一つにはなりそうだ。(2019/11/30)

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1164年平信範日記裏紙の寺の将棋盤の将棋種(長さん)

平安時代の末期の、平信範日記の1164年
5月8日の裏紙に、”京都近傍の或る寺の、
52の雑具の中に、将基局1面と馬(駒)が
有る”との旨書かれ、文書としての将棋盤の
初出とされる。2番目が藤原定家のようだ。
今回は、この将棋盤の将棋種を論題にする。
回答を書く。

不明である。が、西暦1232年の海龍王寺
制規の大小将棋の禁から見て、平安大将棋の
盤と、原始平安小将棋の盤を、囲碁盤、占い
用地盤を加えて、4面セットにして置いた

寺が、かなり有ったのではないかと推定され
る。では、論を続ける。
 上記の史料は、平凡社新書(西暦2013
年)”将棋の歴史”増川宏一著に詳しい。
 この記事が、

神御寺再興、文覚上人の僧文覚起請文の、賭
博の禁止遊戯リスト、囲碁・双六・将棋・蹴
鞠の成立期、すなわち西暦1185年に近い
事が重要

だと私は考える。つまり、

平信範日記裏紙の寺でも、大小将棋は博打の
道具なので禁

だったはずだと言う事である。日記の裏紙で、
匿名寺なのは、引越しのときの実用性等から、
必要なので、

囲碁と将棋と将棋駒が有る事をメモった

ものの、本当は文字としては、残したくない
ような、内容だったという事だろう。
 だから、史料として残ったこの寺は別とし
て、将棋盤の存在は一般には何らかの方法で、

カムフラージュ

していたはずだ。前に本ブログでは、

仏像の台の表面を将棋盤にし、その上に布を
敷いて、覆い隠した上で、それらを仏像で押
さえるという方法

で、将棋盤が有る事が、わからないようにし
ていた例が、有るのではないかという指摘を、
した事が有った。将棋盤の逆蓮座脚の起源に
ついて、考察したときの事である。
 それも、やり方の一例なのだろうが。
 将棋盤が、それとしてはっきり購入されて
いる寺では、

別の手が必要だった

のかもしれないと、私は思う。
 妙な話だがその際、西暦1164年の頃は、

平安大将棋自陣3段配列型と原始平安小将棋
は、両方指されていた方が、都合が良かった

可能性があるような気がする。それと言うの
も、これも前に、本ブログで指摘した事が
有ったと思うが、路で数えると、原始平安小
将棋の盤は8升目なので9路、平安大将棋で
自陣3段目配列型版の路は13升目なので
14路、囲碁盤の路は、言うまでも無く19
路で、9、14、19で

等差数列になっているから

である。
 これに、4路の”9星占い盤(地盤)”を、
加えると、4、9、14、19で路数が、
全部等差数列になる。つまり、これらをまと
めて置いておけば、

全部、占い盤だと言って、昔の神仏混合寺な
ら、ゴマカセル

という意味である。
 囲碁と将棋は、駒の大きさが違うので、本
来ならメッシュが違ってしまうが、大は小を
兼ねるで、平安末期の寺の囲碁盤は、

碁石よりも大きくて、スカスカなのを使った

事も有ったのではないかと私は、源氏物語
絵巻の、囲碁盤の絵等を見て想像している。
8升目、すなわち9路の原始平安小将棋盤は、
9路の囲碁盤、13升目、すなわち14路の
平安大将棋自陣3段目型の大将棋盤は、15
路に近い、14路の囲碁を打つときにも、

転用する事も出来た

のであろう。ちなみに、中国の唐時代の14
路の囲碁盤が、中国の湖南省から出土して
いるとの話が、2017年の清水康二氏の、
明治大学学位論文に出ている。
 更に、3×3升目の4路占い盤も、占い用
の小物として使用するとすれば、メッシュは、
将棋盤類と、いっしょで良かったのであろう。
 寺の隅に、これら4面を重ねておき、ゲー
ムに無関心な来客には、占い用の器具が、
まとめて置いてあるように見せ掛け、バレ
バレだろうが、一応体裁上、

僧職が賭博をする寺との印象を、薄めた

のかもしれないと私は思う。
 なおその際、西暦1230年頃までは少な
くとも平安大将棋に2タイプあり、自陣3段
目型と自陣4段目型が、並存していたので、

自陣3段目型の盤を寺では置いたと見られる。

 どうしてかというと、原始平安小将棋盤、
平安大将棋盤、囲碁盤が3面について全部、

聖目が4線目になるので、類似性が、更に
尤もらしくなる

とみられるからである。元々4線の”本物の
9星占盤”には、聖目は無かっただろうが。
他は形が揃っていたという意味である。問わ
れたら、”19路の囲碁盤のように見える
物品は、当寺では占いに使います”と、強弁
したに違いない。
 以上のような”四器”が、それだけないし、
逆蓮座型の足を付加して有力な寺に、しばし
ば、4基ワンセットで存在したのではないか。
 以上の事から、大将棋類は総じてゲームと
して複雑だったので嫌われたという説が、現
在の将棋史界では強いのだが。実際には、
将棋盤のデザインが、占い盤、小将棋盤、
大将棋盤、囲碁盤と組み有わせると、全体と
して、鎌倉仏教高僧流の言ぐさであったろう、
”笑止千万にも、寺なんかでする賭博の道具”
のイメージが薄められた。その為、

大将棋のゲーム具自体の存在は、寺の下級僧
達には、存在するだけで案外、歓迎されてい
た可能性がある。

以上のように私には疑われるという事である。
(2019/11/29)

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金王朝期に使用された囲碁と象棋駒展示の博物館(長さん)

本ブログでは、南宋期の中国シャンチーは、
南宋王朝、金王朝共に、盛んと認識する。
また漢民族王朝である南宋では、引き続き
囲碁は、打たれたと考えられて当然だと思
うが、金王朝でも囲碁を打った証拠もある
と、過去述べてきた。
 さいきん中国の河北省の金王朝領域の海
岸傍とみられるが、海豊鎮遺跡博物館とい
う考古史料を集めた施設が、西暦2019
年11月21日前後にオープンし、そこに、
碁石と中国シャンチー駒が、展示されてい
るという話を、web上で見た。
 ライブドアー(Livedoor)ニュー
スの以下のurl.である。

https://news.livedoor.com/article/detail/17411305/

残念ながら、元王朝の中国シャンチー駒が、
提示されているとは書いていない。ただし
このシャンチー駒は、金王朝領域内であり、
清水康二氏の、学位論文にも、ざっと見た
限りでは

紹介して無い

遺物のようで貴重である。私が知っている
かぎりは、清水氏論文の黒龍江省の奥里米
の、金王朝駒に次いで2例目だ。
 海豊鎮遺跡博物館のシャンチー駒は、
2枚とも、”卒”駒であるように、私には
見える。材質は鋳物だろうか。
 他方少なくとも碁石の方は、中国暦法で
あった女真族支配の国、金王朝でも、はっ
きりと、

打たれている事を示しているので貴重

な情報だと私も思う。清水氏の論文からも、
この碁石情報も、シャンチー駒といっしょ
で落ちていて、その点でも貴重だ。
(2019/11/28)

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元王朝時代に中国シャンチーが有った証拠(長さん)

現在、南宋時代に関し、中国シャンチー
出土史料が複数あり、明王朝時代に、中国
にシャンチーが有った事は、日本広記の、
日本将棋に関する記載を読めば、逆に存在
は推定できる。
 では、もし無いとすれば、中国シャンチー
が、現に中国シャンチーは存在するので、
おかしいのではあるが、

真ん中の元王朝時代に、中国シャンチーが
存在した史料類は何か

を、今回は論題とする。
 回答を書く。

ざっと見ても、簡単には見つからない

ように見える。
 では、論を続ける。本ブログの、これま
での論によれば、

モンゴル帝国の時代、旧モンゴル人民共和
国内では、チェス系ゲームは全く無かった

と推定されている。現在の中国人民共和国
の領土内と、恐らくベトナム等で、

民間レベルで、中国シャンチー系のゲーム
が存在したとみるのが自然

である。本ブログでは、元王朝内では、
中国シャンチーは、戦争の相手のゲームと
見られたため、恐らく指さなかっただろう
と考える。
 それに反して暦学は、南宋の時代より元
代には大いに発展したので、囲碁は元王朝
宮廷内でも、大いに打たれたと予想する。
この時代の代表的著作物が、”玄玄碁経”
だと、私も認識する。
 つまり旧モンゴル人民共和国と、中華人
民共和国との間に、当時は実質的な国境線
が無いにもかかわらず、チェス系ゲームの

相が別だという珍しい現象が起こっていた

可能性が高いという事である。
 よって、

調査する事には、意味があると見られる。

 しかしながら、南宋までの出土史料は、
日本で多くの紹介例が有るが、それ以降の
ものは、

余り紹介例が無い。

 岡野伸氏の自費出版書”中国の諸将棋”
(改訂版 2018)でも、元王朝中期
時代に関する情報は、無いようである。
なお、南宋時代から元朝の草創期成立の
”事林広記”については、上記岡野氏の
著書でも記載されている。
 web上でも、総じて元王朝時代の
中国シャンチーの記録は、飛んでいる。
 間接的でよければ、
普通唱導集の大将棋の唱導唄の第2節最後
で、桂馬で仲人を支える手が、中国シャン
チー的であるから、西暦1300年より

少し前の元王朝初に、中国シャンチーが、
どこかに、存在したらしいとは、言える

のかもしれない。が、はっきりした話かど
うかという点で、疑問の解明には、ほど遠
い感じがする。
 元王朝期が、中国シャンチーにとって
後ろ向きな時代だとすると、日本へ、それ
が侵入して来る度合いに、当然影響が出る。
ので、日本の将棋史の解明にとっては必要
になる情報だが。どうも、挙動がはっきり
しないようなのが残念である。(2019/11/27)

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雲南省昆明市郊外遺跡の青銅造形物に遊戯盤?(長さん)

さいきんwebの画像で、中国雲南省昆明市
郊外の、青銅造形物が大量に出土する遺跡の
出土物の、村の光景を描いたような、立体
表現物の中に、

遊戯盤と疑われる形のものがある

のを、私は発見した。

テン国遊戯盤.gif

webの該当ページに、てん国時代の物と
あるようだが、詳しい内容は不明である。
 他にも有ると思うが、この遺跡から、大量
に出土する事で著名の、青銅製の造形物で、
村落ないし里の暮らしを表現したように見え
るものの中の一部に、

遊戯盤とも、食事の台ともよく判らない物品
を囲んで、2人ないし5人の人物が、取り囲
んでいるように見えるもの

が、あるようである。写真からは、方形の
造形物が、仮に遊戯盤であるにしても、

六博の盤、囲碁盤というふうに、特定できる
材料は無い

とみられる。なお、遊戯者(?)の向こう側
に、拝礼をしているようにも見える、3人程
度の人物が居るようだが。何を意味するのか、
私には不明である。もしかするとこの方形盤
は、遊戯盤ではなくて占い盤かもしれない。
そして村の人々は、占い師に、最敬礼してい
る姿なのであろうか。
 何れにしても本ブログでは、今の所テン国
や、後継のジャン国は、漢人の文化と、ほぼ
いっしょだったと、後のタイ系と中国とは
漢代頃同一、その後分岐との、白鳥芳郎氏と
同じ見方を仮定している。

ジャン国までは、後のタイ民族系だったので、
そこまでは囲碁は打っていた疑いがある史料
かもしれない。

という見方を、この遺物からは取りたいと、
本ブログでは見ている。(2019/11/26)

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サマルカンドは出土駒使用時中国唐王朝支配地(長さん)

現在の定説によると、中国で出土した最も
古い駒は、北宋末期の中国シャンチー駒と
されている。が、よく考えてみると、

これはおかしい

かもしれない。8世紀中頃遺物で、使用は
7世紀末ではないかとされる、サマルカン
ド出土駒が存在するからである。すなわち、
中華人民共和国の領土に限らずに、歴代中
国王朝の支配地内を、中国国内出土と言う
事にしてしまうと、

サマルカンド出土駒が唐朝支配時代に近い

という意味である。この点については、前
にどこかで、岡野伸氏も指摘しているのを、
読んだ記憶がある。
 確かに西突厥期の、ペルシャのシャトラ
ンジ駒のようであり、実際の使用時が

西突厥が、唐に敗れるより前であるという
論を、完全には否定できない。

 しかし、使用してから、廃棄されるまで
の間隔が、たとえば60年が30年だと、
唐時代になってしまうという話のパターン
では、唐支配の時代の駒であるという論を、

完全に否定した事には、到底なるまい。

 ちなみに、サマルカンドが唐に、占領さ
れていた時代の方が60年前。その後、
西突厥が、唐・イスラム間の戦いで破れる
まで少し盛り返していたので、第2次
西突厥時代が、30年前の方だという事だ。
更に成立年代よりも100年ほど前に、更
に辿ると、第1次西突厥時代になるようだ。
 何れにしても、少なくとも遠征した唐の
将軍が、約1250年経っても出土するほ
どの、ペルシャ将棋の話を、本国に持ち帰
らなかったとしたら

かなり不自然だ。

 更にはそもそも、シルクロード上の話だ
としたら、情報がその後もどんどん、唐の
都には”何処にでも居る”ソグド人から、
都に入ってきそうものだと、私は考えるが。
 以上の事から、やはり私は、吉備真備が、
唐でゲーム情報を入手する努力を幾らして
も、インドやペルシャやイスラムの”後に
日本の将棋には、ならなかった”象棋の類
の情報に、唐の都では当時

絶対にたどり着けないと言い切るのは、
かなり危険な事だというのは確か

ではないかと、考えるのである。(2019/11/25)

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オイラート国ではシャトランジが指された根拠(長さん)

以前に述べたが、本ブログでは昔のモンゴル
人民共和国で、写実的な駒で、チベット起源
イスラムシャトランジが指されたのは、起源
が古トルコ系民族支配の、オイラート国の期
間だけであるとしている。それ以前は、

古トルコ系でなければイスラムシャトランジ
は、囲碁文化にブロックされて指されない

と仮定している事になる。ここではしかし、
本当に、古トルコ系民族なら、イスラムシャト
ランジを指すはずだという根拠が、何処にあ
るのかを今回は論題とする。答えを先に書く。

成立8世紀、サマルカンド出土駒の時代、
現地は概ねだが、西突厥国が強かったとされ
るのが根拠

である。では、論を続ける。
 定説ではサマルカンドアフラシヤブ遺跡駒
は、今の所ササン朝ペルシャ時代様式の駒と
されている。
 ソグド人所有だが、成立年より様式が古い
と、みられているからである。
 発掘した地層の時代、サマルカンドは
イスラム・アッバース朝の国境線に近い領域
だったようだ。

使った時代と、捨てた時代が数十年程度ずれ
ている

という事のようである。が、イスラム・アッ
バース朝の時代の

その数十年前の西暦725年頃に、西突厥と
唐領域へイスラムウマイヤ朝が進出した場所

が、サマルカンドなのではないかと今の所、
私は認識する。
 私は詳しくないが、その当時、今のパキス
タンに、インド亜大陸系の国だと思うが、
ラーイ朝という国があって、イスラム帝国・
ウマイヤ朝は、更にその西までだったらしい。
つまり、サマルカンド出土駒が使われた当時、
余り厳密で無くても良ければ、

そこは西突厥という、古トルコ系の国の友好
国地帯だった

のだろう。ところで、突厥、西突厥、オイラー
ト国は、私の認識では、イスラム教を絶対に
信じるとまでは行かない、

だいたい同じ、古トルコ系体質民族でいっしょ

だと考える。webのwikipediaに
は、”オイラートはモンゴル族だが、元々は
『テェルク系』だったとみられる”と書かれ
ているからである。実際、居住した場所も、
突厥国のへんが中心点のように、私には見え
る。
 だから、冒頭に述べたように、
西突厥国ではペルシャの、現在のインドの
シャトランジの類が指されたわけだから、
オイラート国は、

チベットの写実的な・イスラムシャトランジ
が指されるような、非囲碁文化圏国である

と見て、矛盾は無いのではないかと、私は思
うのである。(2019/11/24)

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あい嚢鈔”玉・王溶け合い説明”は不整合文脈(長さん)

本ブログでは、表題のあい嚢鈔”玉・王溶け
合い説明”(西暦1446年成立)は、これ
まで

無視して来た。

今回は、無視して来た理由と、正当かを問題
にする。結論から書く。

正当とみられる。

無視したのは、国の概念が無いからとの増川
宏一氏の将棋Ⅰ(1977)によったからで
あるが、これは

失当だった

とみられる。では、論を開始する。先行文献
として、増川宏一氏の法制大学出版局、将棋
Ⅰは、以下のようになっている。

「両王イマサン事ヲ忌ミテ、必ず一方ヲ玉ト
書ク」(西暦1446年撰の「あい嚢鈔」)
とされていて、このいい伝えは「寝覚硯」
や「萩原随筆」にも引用されているが、実際
にはまぎらわしいので区別したと考えられる。
 江戸時代初期に将棋所がつくられて、上覧
の将棋の報告書は初代宗桂より四代目宗桂ま
では王将の駒は対局した双方ともに<玉将>
とされていたが、五代目大橋宗桂以降、まぎ
らわしいために一方を<王将>もう一方を
<玉将>としたのが真実であろうし、<国に
二王>あるを忌むという概念、というより
<国>そのものの概念が中世初期に一般に
あったかどうかは疑問である。

上記将棋Ⅰ(1977)であるが、鎌倉時代
の中期、モンゴル帝国来襲のときに、亀山天
皇が、敵国降伏という書を書いている。敵国
という単語を認識していたと言う事は、

国という概念が、有ったと考えられる。

だから、将棋Ⅰの説明は、正当でないと私は
思う。つまり”西暦1446年撰「あい嚢鈔」”
に、それより後世の加筆者が存在するとすれ
ば、その点でボロを出しては居無い。
 そこで、国会図書館のデジタル書籍を、最
近私も、チェックしてみた。すると、以下の
事実が明らかとなった。

あい嚢鈔の第2冊/15冊(西暦1646年)
の項目番号38の後に、字型の似た漢字を
ペアで書いた、色葉字類抄を思わせる、漢字
リストがある

ようである。なお「将棋駒に玉と王が有るの
はなぜか」は、

その直前の段落番号37に記載

されている。つまり、

少なくとも私には”あい嚢鈔”が”色葉字類抄
解説本”と、混合してしまっていて、意味の良
く判らない、漢字のリスト部に、記載が近い

と言う事である。
 そこで、その周辺をよく見てみると、次の
事が判った。
項目番号35、37、38以外は、”このよう
に言い回しが行われるのはなぜなのか”という
問い形式で、同類古文書の、塵袋調である。
それに対し、項目番号で第2分冊の

35は、漢字の使い方で、”充て字”とは何か。
37は、玉駒に点の有るのと、無いのがあるの
はなぜか。
38は、土と言う字に点を打つものと、打たな
いものが、あるのは何故か。
その後、棒が1つ有るか無いか等で、別の字に
なる等の漢字例が、書き方のスタイルに関して、
色葉字類抄を連想させるような、漢字のリスト
が多数示されている。
なお、第2分冊は、項目名38で終了する。
以上の事から、

以上、江戸初期本の第2冊/15の第2冊の
終末部分の、35、37、38の3項目は、

”塵袋に似た『あい嚢鈔』”というイメージ
から、ほど遠いと結論される。

 元々この部分は西暦1446年より後世の、
いわゆる代表的辞書類

”色葉字類抄”の、見方の理解のための凡例の
ような働きの、別の文書の内容が混入

しているのではないか。なお、尊経閣文庫蔵の
八木書店(西暦2000年)発行、二巻物の
色葉字類抄の1分冊/4冊の奥書にだけ、

大将基馬名と小将碁馬名将棋駒名リストがあり、

前者の玉駒が玉将、後者の玉駒が王将となって
いて違う点については、以前に本ブログでも述
べた。また、”中将棋駒名”だとみられる、
尊敬閣文庫蔵二巻物の、色葉字類抄の本文中、
”き(木)”の玉駒は、”玉将”とバラバラで
ある。そして、

これら3つの部分が西暦1565年成立である

というのが、本ブログの主張である。
 つまり、慶長書写本を作成するときに、将棋
の玉駒が、色葉字類抄でバラバラなのはどうなっ
ているのかと”あい嚢鈔”慶長本作成者が、他
人から、かつて問われた記憶が有った。そこで、
写書のときに、項目名2-37を新たに作り、
日本将棋の玉駒は、玉将と王将1枚づつである
べきだと予め決め付けた上で、事の次第を説明
をしたとも、解釈できる部分という意味である。
 だから、

 第2冊の段落番号35、37、38は、
西暦1446年より後の、後世加筆ではないか。

以上の点が、少なくとも私には疑われた。
つまり成立が新しいとすると、概ね

”将棋の王将と玉将とはなぜ1枚づつ有るのか”
の作文は、安土桃山時代から江戸時代にかけて
の、慶長年間程度に成立した疑いもある

と、以上の点から私は、個人的には考える。
 よって、理由は以前とは取り替えようと思う
が。王と玉の溶け合いの問題に関し、本ブログ
では以降も、”あい嚢鈔”の将棋の王将、玉将
説明は、参考にしないという考えで、行きたい
と思っている。(2019/11/23)

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何故チェス型ゲームは一国の中で分裂しない。(長さん)

チェス・象棋・将棋の類の史家は、ゲーム
が、どの国で指されたかを意識するときに、

囲碁や盤双六とは異なり、その国の里だけ
だとは通常考えない。

国境線以内で共通と、暗黙のうちに推定
している。その為、沖縄で中国象棋類が、
中世指されたという点が、将棋史では、
トピックになる。このような、厳密性は、
他のゲーム類では、奇異に見える習慣だと
思われる。今回は、この
チェス系ゲームに、国境線との相関性が強
い理由を論題にする。回答を書く。
今世紀に強くなった、軍事教練とチェスと
の関連性の強さの仮説が、やはり正しく、

チェスの駒の起源は、実際の戦争の、参謀
本部で使用していた駒の転用であるという
意識が、古代から有った為

だと、本ブログは考える。
 では、以下に議論を続ける。
チェス系ゲームは、他のゲーム種と違い、

遊戯具の駒の種類が、著しく多い。

そのために、

ゲームのバージョンが、夥しい数に分岐

する。しかも、個々のバージュンが指され
る地図上の領域の限界線が、国境線に相関
するという特徴がある。
 本来、人為的な取り決めであるため、や
はり分岐が著しい、

言語分布に見られない特徴

である。たとえば、チェス系ゲームには、

フラマン語とワロン語とドイツ語が、国家
を分断しているという、ベルギー王国のよ
うな例は余り無い。

日本ではかつて、大将棋と小将棋が2種類
指された事がある。しかし、どちらも、東
北より北には進出した形跡が無いし、奄美
以南に、どちらかが分布しているような事
も無い。
 前世紀には遊戯史の熱心な研究者に、当
時の勉強家が引きづられて、どのゲーム種
類も、似たような手法で取り扱われる事が
多かった。しかし今世紀には、どうやらそ
れでは、時代遅れになったようだ。
つまり、その強弱という点で、細かく捕ら
えると、

①賭博とのつながりは、サイコロ使用の盤
双六で最も大きい。また、お金が掛かって
いるせいか、ルールが極めて安定している。
②日月星辰の運行との関連度が最も大きい
のは、囲碁である。
③実際の戦争時の参謀本部の駒道具を、
遊びに流用したように見えるのは、将棋類
だけである。

という、①~③のような、遊戯史研究に
必要な要素に関する

意識が今より低かった。

将棋が盤双六系の、競争ゲーム盤を使用し
たものが、原初だという、四人制チャトラ
ンガ起源論が、比較的強かったからである。
 しかしながら、インドの彫刻に関する
見直しが大きかったと、本ブログでは見る
のだが、将棋が合戦を模したものであると
いう論が、今世紀に入って、世界的に強く
なったと、私は認識している。
 そのため、たまたま指された時代に、

敵国で指されているチェス系ゲームは、気
楽にそれで遊ぶのではなくて、神経を逆撫
でさせて、敵国情報を収集するような態度
で見た

であろうと考えるのが、自然になったとい
う事であると、少なくとも本ブログでは認
識する。
 従って、国境線の向こうでも、同じゲー
ムを気楽に指すとは、別のカテゴリーのゲー
ムと違い、チェス・象棋・将棋では、考え
られないのが実際だったのであろう。そこ
でそのゲーム種類が盛んに指された時代に、

その時代の国境線と強く相関して、特定の
チェス系ゲームが、指されたり、指されな
かったりするような現象

が、別のカテゴリーのゲームとは異なり、
チェス・象棋・将棋には存在するのではな
いかと、私は思う。たとえば、

現在日本でチャンギや中国シャンチーが指
されていないのは、西暦1200年時点で
も白村江の戦が、日本人の記憶に、はっき
り残っていたため

だと私は思う。またモンゴル国で、少し前
の、モンゴル人民共和国時代の国の範囲で、
中国シャンチーが指されていないのは、そ
の自然伝来がジンギスカンによる西域遠征
の頃であり、イスラム諸国も、少し後には
中国南宋も、敵国だったからに違いない。
 以上のように、普通の文化人類学の対象
とは異なり、軍事に関連する色彩を持つ
チェス系ゲームでは、その研究手法に、

国の中心地だけでなく、国境線という要素
を加味する必要がある

とみられる。そしてそれは、文化人類学全
体から見ると、かなり特殊な事情だと、私
には見えるのである。(2019/11/22)

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モンゴルシャタルは先駆体が何で何時成立か(長さん)

以前に述べたが、本ブログでは、モンゴル
で中国シャンチーが指されないのは、中国

シャンチーの母体がイスラムシャトランジ
であり、イスラム諸国を征服した経緯が
ある事から来る誇り

の為と見ている。ではモンゴルシャタルは、
世界のどのゲームが進化したもので、かつ
成立が何時なのかを、今回は論題にする。
回答から書く。
チベットのイスラムシャトランジ時代の

チャンドラキが起源であり、
成立は西暦1450年頃と、アジアの象棋・
将棋類の中では、最も遅い

と考えられる。
 では、論を続ける。
繰り返すが、本ブログでは、星座が中国式
で、暦法が唐王朝の定朔式、従って

囲碁を良く打つ所では、イスラムシャトラ
ンジは、ブロックされるとみている。

モンゴル人民共和国(以下、区別のため、
便宜的に旧国称を使用)は、イスラムシャ
トランジが成立した頃に、古トルコ系の
突厥国が衰微して、以後、
ウイグル国→遼(=契丹)国→金王朝→
モンゴル帝国→北元国→オイラート国と、
支配が推移した。
 このうち、本ブログの認識では、西暦
750年頃に成立したウイグル国から、
西暦1400年前後に滅んだ、北元国まで、

全部、唐王朝期成立の定朔の暦を用い、
少なくともウイグル国、金、モンゴル帝国
では、囲碁を打った史料・証拠がある

と見ている。だから、

上記期間に、モンゴル人民共和国領域で、
イスラムシャトランジは、知られていても
指されない

と考える。次に、以前述べたように、中国
では、中国シャンチーが、北宋時代の末に
成立し、ジンギスカンが西域を征服している
西暦1200年の少しすぎころ、モンゴル人民
共和国領域に、自然伝来したと見られる。
たが、少なくともモンゴル帝国と、北元国
では、

自分が、イスラム帝国より上だと見ている
誇りから、イスラムシャトランジの発展形
だと、彼らが知っていた、中国シャンチー
は、意識して指さなかっただろう

というのが、本ブログの従来からの見方だ。
 だから、モンゴル人民共和国では、突厥
国同様トルコ系とのweb情報がある、
オイラート国の時代になってから始めて、
元王朝時代に授時暦を作成した、暦担当役
人が四散して、下級役人や民に対し、囲碁
を打つように、うるさく言わなくなったと
考えている。その結果、ゲームの出来に対
する鋭い目が

失われて始めて、象棋が西暦1450年過
ぎから、象棋類が侵入した

と推定するのである。そして、そのときに
モンゴル人民共和国に流入したのは、
往年のイスラム・アッバース朝時代のイス
ラムシャトランジと、実はほとんどいっしょ
だったが、チベットの宗教集団小王国から
伝来した、ラマ教文化といっしょに入って
きた、チャンドラキという名の、イスラム
シャトランジだったと見られるのである。
なお、イスラムアッバース朝のイスラムシャ
トランジと、チベットのイスラムシャトラ
ンジとでは、

駒が前者では抽象形、後者が写実的だとい
う点が、異なっているだけだった

と考えられる。そのころ、本家のイスラム
のイスラムシャトランジは、言うまでも無
く、西洋チェス化しつつあった時代である。
 その後、中国の清朝の支配下に入ると、
囲碁文化圏に再び戻り、ゲームの出来に関
する目が生じて、イスラムシャトランジか
ら、モンゴル人民共和国領内で、西洋チェ
ス化が始まったのであろう。なおこの時代
に、ヒャーシャタルも成立したという説が、
今の所、将棋史界では主流のようだ。
 つまり本ブログでは、モンゴルシャタル
はチベット伝来であり、モンゴルシャタル

遅い伝来説を取る

という事である。
 チベットのチャンドラキは、前に述べた
ように、吐蕃が衰退した10世紀に、イス
ラムシャトランジが、その地域の無政府化
した土着の民にも定着して、成立したと、
本ブログでは見る。モンゴル人民共和国へ
の流入には、それから500年も掛かった。
がそれは、日本に西暦700年から、
西暦1015年まで、将棋が立ち上がらな
かったのと、全く同じ理由、すなわち、
遼(契丹)、金、モンゴル帝国、北元が、
囲碁文化圏であったため、モンゴルでも
ゲームの性能に対する目が、昔は肥えて
いた為と見ているのである。
 以上をまとめると、アッバース朝の
イスラムシャトランジを、西暦750年
から西暦1450年まで指さず、更には
イスラムシャトランジの後継が、中国シャ
ンチーであり、イスラム諸国をかつて、
モンゴル帝国の時代に、西暦1200年
のすぎ頃征服したという誇りから、西暦
1450年までそれにも習わなかったから、
チェス類の導入はアジアで最も遅い方になっ
たで、説明可能だと、今の所本ブログでは、
見ていると言う事になるのである。
 なお、結局モンゴル人民共和国内では、
チベット、チャンドラキを導入したものの、
それから、顕著に性能の良いゲームは
作成できなかったようだ。そのため統一
化が遅れ、幾つものバージョンが存在し、

少なくとも近年迄、上記のシャタル等の、
ナショナルゲームは、西洋チェスに、
かなり押され気味の状態であった

と私は認識している。(2019/11/21)

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