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中国漢代に17路4星囲碁盤が出土するのは何故(長さん)

前世紀にはトピックだったが、中国で六朝時代
まで遡ると、17路囲碁盤が優勢になるという
のは、今では囲碁史の常識らしい。本ブログで
は、将棋史との関連から、

古代の恒星天文学が発達し、抽象星座を使って
いる所では、必ず囲碁が、盛んでなければなら
ない

という前提から出発し、
抽象星座を使っている所では、必ず調整の悪い
将棋類は、著名であっても囲碁で、出来の良い
ゲームに対する目が出来ているので、指されな
いという

”法則”を導入して、古代国際将棋史を展開

している。
 従って、古代囲碁のたとえば、盤の線数は、

メルカトル図法的な赤経、赤緯座標の作りで、
必ず説明出来なければならないという縛り

が発生する。所で、冒頭に述べたように、
十進法の国の話である事は、前提にする事にし
て、17路では赤緯+90°点と-90°の
点と、球の大円の線が抜けていた事に対応する。
 つまり、囲碁と恒星天文道とを対応させると、
赤経、赤緯について、17路囲碁盤では星空に
なぞらえた場合に、端の線が1本づつ足りない。

これは、おかしくないのか。どうして、不充分
な表現で、中国六朝時代までは、許されたのか。

なぜ19路囲碁盤の前に、17路囲碁盤が、
隋王朝程度よりも前で、囲碁は成熟していたと
みられる時期に有ったのかを今回は論題にする。
 回答を書く。

西暦紀元前100年から西暦800年まで、
赤緯で85°を越える輝星が無かったので、
+90°と-90°の線は、省略してよいと
考えられた

とみられる。では、説明を続ける。
 時角で18時線と6時線(時角6時、18時
線)、つまり縦の端線が無いのは、地平線近く
で、恒星が見えにくいので、1本づつ、囲碁盤
で縦の線を省略しても、恒星天文道との関係が
乱れたとは、考えられなかった為なのであろう。
それに対して、今なら北極星が、17路囲碁盤
上で表現できないので、横線の端線つまり赤緯
90°ポイントの、メルカトル図法での無限大
引き伸ばしでの縁線の省略は許し辛いであろう。
 しかし、たまたまだったが、西暦紀元前
100年から西暦700年頃は、こぐま座ベー
タ星も、赤緯が85°程度に落ちていたし、
今の北極星こぐま座アルファー星も、天の北極
から、5°以上離れていた。
 そのために、囲碁盤で赤経赤緯座標を模すと
したときに、90°線が無くても、輝星の落と
しが無かったと考えられる。
 だから、

西暦紀元前100年というように、六博より
だいぶん成立の遅い囲碁では、17×17路の
盤で、日月と全ての”星辰”の位置を、示せた
と考えられる

のである。しかしながら時代が下り、話が
厳密になってくると、点が線に無限に引き伸
ばされるという、メルカトル図法の不自然さは
有るとは言え、そうして出来る端線を省略す
るのは、おかしいと考えられたのであろう。
そのため、南北朝時代の南朝のころから、
19路盤への転換が、中国では、起こったと
見られる。そのうち、こぐま座アルファー星
つまり、今の

北極星の赤緯が、80°より、だいぶん90°
に近くなった、唐~宋頃になると、かなり、
19路囲碁ゲームの方が、強くなった

のではあるまいか。
 従って、恒星天文道と囲碁とは、囲碁の成熟
段階に於いて、相関するという論理と、

成熟してから、どうみても17→19路転換が
起こっているように見える点

とは以上のように、歳差による、北極星の出現
が要因の一つと考えると、矛盾はしていないと
私には思える。
 加えて表題の、中国での囲碁盤の5聖目化は、
中央聖目を、北極星と見立てた事を発端とする
との説がある。その頃北極に星は無かったので、
漢代の盤は、4聖目型にしたように見える、と
して説明可能であるという点も、根拠として
挙げる事が、できる。
 なお、この現象が中国発である事は、南極星
が紀元前150年頃には、みずへび座ベータ星
であったにも係わらず、それが問題視されてい
ない事からも、証明できる。つまり囲碁は、
赤道直下の国ではなくて、北半球の中緯度の国、
中国で中心的に行われ続けたゲームであるから、

もう一方の縁の破綻に、少なくとも古代には、
気がつき得なかった

という事が、盤の作りに現われているとして、
説明できると言う事である。
 以上のように、本ブログのように、抽象星座
を使っている所では、必ず調整の悪い将棋類は、
著名であっても指されないという”法則”を仮
定して、古代国際将棋史を展開するという点に
関して、中国の17路囲碁盤の存在は、少なく
とも論を破綻させる要因に、なり辛事は確かと
言えるように、私は思う。(2019/11/16)

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