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栃木県小山市神鳥谷曲輪駒。108枚セット伝説(長さん)

栃木県小山市天神町に、同じく小山市神鳥谷
(北端)の廃尼寺、のちに男住職寺の青蓮寺
に関する伝説碑が近年建てられている。場所
は、旧青蓮寺が”別当”役で支配していたと
される小山市天神町の天満宮である。面倒な
ので以下は固有名詞を削除して、要部だけを
述べると、江戸時代の末期に水戸斉昭により

黒船打ち払い用の大砲を作る材料にするので、
拠出命令が出た寺門前の鐘を、戦争用の使
用を嫌って、江戸時代に男寺の小山市青蓮寺
(廃寺)の住職が一晩の内にたちまち隠した

との旨書かれた碑があるのである。話の出所
は、旧青蓮寺の親寺の、小山市宮本町持宝寺
の、昭和の時代の関係者とみられる。第二次
大戦のときに、弓削道教時代の孝謙天皇の名
の入った小山市の持宝寺の鐘を、同様に大砲
の原料として拠出するように、旧日本軍から
命令されたが、天皇名のお陰で鐘の拠出を免
れたという話と、対で語られていたらしい。
 以上は本ブログで、2019年5月23日
にも述べた事があった。今回はこの旧青蓮寺
において、

これほどまでに江戸末期、鐘が潰されるのを
嫌がられていたのは、弔われている死者の碑
であるとみられたからだと仮定し、何人分な
のかを論題にする。

答えは見えているが、回答から書く。
寺の鐘は、除夜の鐘で知られるだけに、当然

108人

だろうと考えられる。なお弔われているのは、
南北朝時代の死者で、第一次小山義政の乱の、
小山方の、戦死した武者であろうと疑われる。
 では、論を開始する。
 カラクリを解くポイントは、
第一次小山義政の乱と、一回目の小山若犬丸
の乱との時間差が、1380年、1386年
の、どちらも5月下旬であり、

ほぼぴたりと、6年差だという事

である。
 本ブログでは、今述べた青蓮寺向けに、
栃木県小山市神鳥谷曲輪”裏一文字金角行駒”
を含む、普通唱導集大将棋(本ブログバージョ
ン)で、南北朝時代の成り金の多いタイプが、

南北朝時代に宝物として預けられた

と見ている。その伝説が、遅くとも江戸時代
の中頃までには有り、出土駒を作り出したと
考えているのである。
 問題は、”誰が”預けただが。

西暦1386年5月時点の話であり、時の持
ち主は、小山若犬丸だったと見るのが自然

だ。なぜなら、本ブログでは、西暦1340
年代に、伝説の源の将棋セットは、近衛経忠→
小山朝氏へと渡り、代々小山の殿様が相続し、
小山朝氏から小山氏政、小山義政、小山若犬
丸と所有が移ったと、疑っているからである。
 ところで、小山若犬丸は一時期とは言え、
配下の武将200余名を死傷させた、第1次
小山義政の乱の、まる6年目に小山城に居た。
だから、武将達の

7回忌に立ち会える

はずである。つまり、法事が出来たと考える
のが自然だ。他方将棋駒は、当時は家来の武
将の化身であり、家来を率いる戦略を練るた
めの殿様の道具であるというのが、南北朝時
代の異制庭訓往来頃の常識だった。そのため、

弔いのときに、神鳥谷青蓮寺等に預けて、武
将の化身の見立てで供養したと見るのが自然

だと思う。その将棋駒の枚数と、除夜に使う

鐘の突き数が、たまたま108で同じ

だったとすると、

第1次小山義政の乱で亡くなった武者の魂は
栃木県小山市廃寺青蓮寺の鐘にも宿っている

と考えるのが、中世・近世には普通ではない
かと、私は疑う。
 その伝説は、判りやすいので、江戸時代の
末まで、当時健在の小山の青蓮寺に残ってい
たというのも、充分に有り得る話なのではな
いか。
 だから、寺の物品を戦争に使用するのは、
気持ちよくないのは一般論だが。108騎の
合戦で亡くなった、無念の死を遂げた霊が
宿っていそうな青蓮寺の鐘は、いっそう黒船
を打ち払うのに、使用したくなかった可能性
が高いと私には疑われる。
 よって、鐘の突き数で著名な108という
数字が、小山氏の乱で失ってしまった家来の
数という見立てで、

小山若犬丸が手放してしまって、寺の持ち物
に変わってしまったと見られる、普通唱導集
大将棋類の道具の駒の数と、関連している

疑いが有る。
 以上のように、私には疑われるのである。
(2019/12/31)

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滋賀県長浜市塩津港遺跡新出土王将駒裏”備品”(長さん)

一部webに出ているが、本ブログでも
2019年8月8日に紹介した表題の
滋賀県長浜市塩津港遺跡の2018年新
出土王将駒は裏に墨跡があるようである。
 ”読めなかった”というのが、滋賀県の
発掘担当者の、結論のようである。
 そこで本ブログでも読みに挑戦してみ
た。

不鮮明だが”備品”と書いてあるように
も読める

ようである。この出土遺物は、成立が
共出土の墨書遺物に書かれた年代から、
1137年~1192年の間だという。
どういう場所かは、私には依然不明。
神社の堰か掘だという情報もある。
なお、ざっと見た所では、今の所二巻物
の色葉字類抄に、”備品”の字は見当た
らない。だから、このページの情報は、
まだ不確実だ。
 ちなみに裏の墨跡のスケッチが、前か
ら検索でhitしていたが、元データが
削除されているらしく、ファイル自体が
みつからなかった。そのため滋賀県内の
出土王将駒の話である事は、判っていた
がそれ以上つかめず、塩津港遺跡の王将
の駒の裏にも墨跡がある話である事自体
も、ここに来てようやく判った。
 王将が備品に成るという例は、今まで
知られて居ない。宿場の宿の主人が、金持
ちの息子か、都の役人の子で、客としてよく
来る道楽息子をもてなすために、宿に置
いている”備品”のようにも見えるが、
今の所、詳しい事は判らない。平信範日記
の1164年5月8日の裏紙の、寺の
”備品”をも、連想させる。(2019/12/30)

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インド四人制チャトランガ西暦850年頃成立説(長さん)

現在の国際的チェス史学会では、インド
四人制チャトランガの成立は事実上、西暦
1031年頃である。”アル・ビールーニ
の記録より以前に、史料が無い”との認識
が広く行き渡っていて、萎縮気味である。
 ここでは、気配程度でよいから、もっと
以前に遡れる要因が無いのかどうかを論題
とする。結論から書く。

イスラムシャトランジの大臣が猫叉動きで
あるから、現在成立説の180年後位なら、
兵駒がポーンなら、存在する疑いも有る。

では、論を開始する。本ブログでは、イス
ラムシャトランジの成立は、インド二人制
古チャトランガで①構成駒を上下対称にし
たのと、②王手象取りを喰わない様に、戦
車と象を反対にしたという内容と把握する。
①については、馬が八方桂であるのが顕著
だが、元々飛龍と飛車動きで対称的だった
新象駒と新車駒は別として、

大臣を近王の金将ないし酔象動きから、
斜め一歩の猫叉にしたのが特徴的だった

と見ている。
次が大切だが、たまたまだったのだろうが、
この猫叉の動きは、

ポーンで相手の駒を取るときに、斜めに行
くが、前方だけでなく後方も加えると、出
来る動き

である。四人制シャトランガをやってみる
と判るが、やっている途中で、

ポーンで斜め後ろの横のプレーヤー駒も取
りたくなる衝動に駆られる事が多い。

方向が判らなくなるためである。実際に、
2人制のチャトランガから4人制は、

この衝動に気がついて作られた

のではないか。つまり、一部のローカルルー
ルだったのかもしれないが、

兵駒を、ボーンではなくて、相手駒を取る
ときに、猫叉動きが出来るとした、四人制
チャトランガが有った疑いがある

という意味である。
 プトレマイオスのアルマゲストに感心し
て、イスラムシャトランジのゲームデザイ
ナーは、前後左右だけでなく、なるべく、
前後対称になるように、駒の動かし方ルー
ルを変更させて、ゲームを完成させたのだ
ろう。が、イスラム帝国では、ペルシャや
マレーシア、インドネシアとは違って、シャ
トランジ象棋の兵の成り先を、大臣に固定
した。すると、四人制チャトランガをたま
たま試作した、恐らく現パキスタンのゲー
ムデザイナーには、兵が生駒の状態で、別
プレーヤーの駒を取るとき猫叉動きになる
パターンに、一致したので、至極、軽快な
感じがして、四人制チャトランガの完成を、
祝したに違いない。なお四人制チャトラン
ガをインドではなくてパキスタン発に、こ
こではしたのは、モヘンジョダロ・
ハラッパーのサイコロの方が、ガンジス川
のサイコロより、有名だと私は思うからで
ある。ともあれ、

前後左右に対称駒の多いチェス型ゲームは、
四人制にしやすい

という事である。だから、少なくとも

イスラムシャトランジの成立が四人制イン
ド・パキスタンチャトランガの成立を促進
する方向に挙動する

と私は思う。特に、イスラムシャトランジ
の大臣、猫叉駒のデザインが良かったので
はなかろうか。兵はたくさん有るので、
猫叉取りルールにすると、四人制ゲームは
快適である。猫叉動きの猛虎の枚数が少な
い平安大将棋では、猛虎が筋違いに動けな
い事ばかりが目立つので、日本の南北朝時
代の鎌倉市今小路西御成小学校遺跡にあっ
たとみられるゲームセンター出土木札が示
唆するように、”近くへ行く。上はゆけぬ”
の盲虎動きに、変更したくなるのだろうが。
 なお四人制チャトランガがパキスタンで
成立したのは、イスラムアッバース朝内で
帝国の分裂が始まり、逆にインドの、
ラージプート時代の諸侯が一時期盛り返し
て、イスラムシャトランジを指す兵隊を、
捕虜にするなどして、ゲーム内容を聞き出
す事等が出来た西暦850年前後が、尤も
らしいように私は思う。ビールーニが、
カナウジ付近を訪れたとされる、

定説の180年程度前

である。
 逆に四人制チャトランガが成立して、兵
で相手駒を取るとき、斜め動きは4方向に
出来るという、少なくともローカルルール
が発生すると、イスラムシャトランジの大
臣駒の猫叉ルールは、より強固になってい
ったに違いない。
 すなわち、それまでは大臣は猫叉だけで
はなく、嗔猪のバリアントも有り、この方
が、逆ビールーニ型時代のときに、王手象
取りを掛けてきた、相手の八方桂を、大臣
で取り返せるので、むしろマシだったのだ
が、その選択枝は無くなって、大臣は猫叉、
象が飛龍、馬が八方桂、車が飛車でイスラ
ムシャトランジは固定になったのであろう。
 以上の事から、四人制インドチャトラン
ガと、イスラムシャトランジは、大臣のルー
ルで、相補的に繋がっているようでもあり、

西暦1031年以前に4人制チャトランガ
は、絶対に成立し得ない

とまでは言えないように、私には思われる
のである。(2019/12/29)

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インドに”インドの第2波”が到達したのは何時(長さん)

以下に、イスラムシャトランジの象・馬・車
ルールがインドの二人制チャトランガに取り
入れられて、インドの今に残る二人制チャト
ランガに近いルール(イスラムシャトランジ
型象・馬・車)になったのは、何時なのかを
推定する。
 以前に、東南アジアの西暦1000年時点
での象棋は、海岸国では、兵駒が前進し高成
りとなった、イスラムシャトランジだと述べ
た。盲点は、インドだけはビールーニの言う
ように、”日本型”なので、

インド直伝来をチェックする必要がある。

これについては以前、最下段配列が飛龍、馬、
角行、玉、近王、角行、馬、飛龍の二枚角将
棋は、日本では、馬が桂馬でも八方桂でも、

性能の悪いものとして、弾かれる

との本ブログの予想を述べている。そのとき、
ミャンマーのパゴーとタトンに、イスラムシャ
トランジが伝来して、ミャンマーでインドの
第2波ないし、ビールーニ反転が起こるのは、

西暦800年より前だ

と本ブログでは述べている。(西暦2019年
11月10日の本ブログ。)ただし、さいき
ん考えるに、

西暦800年が西暦950年になっても、そ
の程度なら、日本の将棋に対する効果は同じ

だ。なぜなら、日本の将棋と異なり、東南ア
ジアの将棋は、成るのが兵駒だけであり、桂
馬の成りが問題にならないから、桂馬の高跳
びは、気にならないのである。つまり、イン
ドで将棋が生まれたのが、西暦600年代前
半として、玄怪録の成立は800年代前半だ
から200年後にインド古チャトランガ系が、
インドから中国に伝播。だから、イスラムを
750年頃出発したシャトランジは、東南ア
ジアに200年後の950年に到達するとい
う計算になるという事である。よって以降は
余り”ミャンマー・タイ・カンボジアでの、
インド第2波ないし、ビールーニ反転の年代
が、西暦800年より前”には、こだわらな
いように、議論が自説に甘くならないように
注意したい。
 すなわち、少なくとも西暦1031年の時
点で、

インドへはインドの第2波または、ビールー
ニ反転が起こって居ない

というのが、アル・ビールーニの記録という
名の史料の内容である。つまり、イスラムシャ
トランジと、四人制チャトランガの象と車は、

西暦1031年に逆だから、逆だと、アル・
ビールーニは言った

のである。ここから、東南アジアよりも
むしろ、イスラム圏に近いのに、インドへの
インドの第2波の到達が遅い理由と、到達し
て転換し、今に残る2人制チャトランガの、
象・馬・車、銀将・八方桂馬・飛車ルールに
変わったのは何時なのかを、議論する必要が
有ると言う事になる。回答を書く。

カナウジとカルカッタ(タムルクまたは、
タームラリプティ近郊)を分けて考える必要

がある。カナウジは12世紀末。カルカッタ
は東南アジアと同じと本ブログでは見る。
つまり、

カルカッタ付近では、西暦800年までに、
イスラムシャトランジ系へ転換していた

可能性がある。では、論を続ける。
 今の所だが、本ブログでは、
イスラムシャトランジのミャンマー・タトン
への伝来は、スリランカで寄港するパターン
の海路と見る。この航路は、カルカッタ付近
を通る。だから、カズナ・トルコ帝国内でも
指されていたとみられる、イスラムシャトラ
ンジは、

海岸沿いのインドの街には、発生後直ちに
伝来

したと、今の所本ブログでは見る。
 なお、西暦650年頃から西暦1200年
頃までインドはラージプート時代の戦乱期で、
王国無しで諸侯が跋扈した時代と、本ブログ
では認識する。カルカッタはインドバーラ国
の支配地かもしれないが、統制は取れておら
ず、貿易港で外国文化が往来していただけだ
と、今の所みなす事にしたい。
 次に、カナウジについて説明する。
そもそも、インドの四人制チャトランガに関
して、アル・ビールーニが記録したのは、

カナウジでの状況

とみなして、議論に影響は無いと思う。当時
カナウジは全体で20年位、

イスラム系のカズナ朝イスラム国の占領下

の真ん中の時代だった。イスラム系の国であ
るカズニー朝が、インドの諸侯、プラハーラ
国を西暦1019年に滅亡させたと、高校の
歴史の世界史図表(西暦1969年、
第一学習社)にある。支配は西暦1040年
頃までのようだ。
 アル・ビールーニがインドで将棋史の調査
が出来たのはイスラム系国家が、カナウジ等
のガンジス川沿いの西側を、一時占領したか
らだと考えられる。この時点ではインド文化
の将棋が指されていたという情態が、知識人
のビールーニに記録されたのだろう。
 その後ガンジス川流域は、西暦1200年
前後に、イスラム系の国家である、ゴール朝
イスラム国に全域占領された。ので、そうな
るとイスラムの国王が、

インドでイスラムシャトランジを指した

のではないかとみられる。だから、銀将の
ルールが象と置き換わった程度の、

”今に残る2人制チャトランガ”(シャトラ
ンジ的チャトランガ)が西暦1200年頃に
インドに発生して、象と車を反転させた

と見るのが、自然だと私は思う。統制が取れ
て居ない地域だが、イスラム化は望んで居な
い12世紀までの時代には、イスラムシャト
ランジは、

敵対国のゲームなので、紛争地域のインド
ガンジス川上流域では、西暦1200年まで
指されなかった

のであろう。よって以上のように今の所だが。
アル・ビールーニのインド将棋の観察は、
インドのガンジス川上流の、深インド域で
行われたもの。それに対して、同じインドで
も、交易港であるインド沿岸都市のたとえば
カルカッタ近郊では、早くから、イスラムシャ
トランジ化して、東南アジアに、象・馬・車
が、飛龍、八方桂、飛車の象棋を、転送させ
ていた。よって少なくとも

西暦1031年頃の時点で、カルカッタは、
イスラムシャトランジ型。カナウジはインド
古2人制古チャトランガ型と、インドに統一
国が無いので、分かれていた

のではないか。また、インドという国家が無
い時代だったので、特に東南アジア諸国では、

西暦800年から西暦1000年まで”イン
ドに合わせる”という発想も、余り無かった。

以上のように今の所、本ブログでは、推定す
るという事である。(2019/12/28)

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タトン、アユタヤ、アンコールワットの象棋の差(長さん)

ここでは、ミャンマー南部ヤンゴン東方の
パゴーやタトン、タイのバンコク北の古都
アユタヤ、カンボジア内陸の遺跡、アンコー
ルトム、アンコールワットにおける、
西暦1000年前後の、チェスゲームの差を
論じる。どれも、日本将棋に繋がらないと
見ているので、その準備として、話の整理が
必要である。問題点は、
西暦1000年頃は、上記の地名の所属国で、
ミャンマーとタイがモン族でいっしょで、
カンボジアがクメール族で別にもかかわらず、
現在は、ミャンマーだけシットゥインで、
タイとカンボジアがマークルックでいっしょ
であり、ややこしいという事である。
 結論から述べると、

タトンとアユタヤとは、シッケ成りの有無だ
け差があると思う。アンコールワット付近は、
ひとまずアユタヤとイコールと仮定するしか
無い

となる。ただ、アユタヤとアンコールワット
は、途中で分岐して、また合流して、両方
マークルックになるという、手の混んだ事が
起こったと考える。
 では、論を開始する。
 今までの本ブログの見解では、
 ミャンマー南部のパコー・タトンの象棋は、
西暦1000年付近の段階で、

今のシットゥインとは、①副官の個数に制限
が無いのと②初期配列で、1段袖象馬車配列
の他国ルールと同じ定型型だったという点だ
け違う

という事になっている。恐らくだが、

シッケチューの有るゲーム盤は、ローカル

だろう。つまり今のタイ、バンコク近辺の、
西暦1000年当時、風前の灯のドヴァーラ
ヴァティー国のアユタヤには、格子升目盤し
か無かったとみられると言う事である。ので、

3段目で単純に成れるルールという点だけが、
パコー・タトン象棋(西暦1000年)とは
違っていた

はずだと思う。そして、その時代はアユタヤ
は、ほとんどカンボジア領内同然だったろう。
 だから、西暦1000年頃は、とりあえず
だが、

現タイのアユタヤルールと、現カンボジアの
アンコールトム・アンコールワットの象棋の
ルールは、同じとみるしか無い

と私は思う。
 その後、ミャンマーのパコー・タトンは、
ミャンマー化して、今のシットゥインに静か
に移行したと、ひとまず見て置く事にする。
 よって、以上のように、初期条件的に仮
に推定すると、

アユタヤのゲームも、アンコールワットの
ゲームも、イスラムシャトランジ型に、
象と車が反転した後なので、日本の将棋の元
では無い事になる。

 反転には、ミャンマーで数十年、タイと
カンボジアでも100年しか掛からず、西暦
850年前後だと、今の所は推定しておく。
中国でも玄怪録の成立した同時代には、とぼ
けて”山奥の将棋のルール”が後に残る文書
の文字としては残ったが、それは”とぼけ話”
であり、都会の人間は当時、将棋からはイス
ラムシャトランジを連想していたはずというの
が、本ブログの説である。
 次に、同じ①副官の個数に制限が無いのと
②初期配列で、1段袖象馬車配列の他国ルー
ルと同じ定型型、③成りが恐らく相手陣3段
目である点だけシットゥインとは違う、
逆に、④歩兵が右の4枚だけ1歩進んでいる
点だけマークルックと違う、タイのアユタヤ
とカンボジアのアンコールワットの象棋が、
それぞれどのように、マークルックになった
のかを、推定する。
 大切な点は、少なくとも本ブログでは、

12世紀初に中国シャンチーが成立したとき
に、カンボジア・アンコールワットの象棋だ
け、交点置きになったと、従来仮定している

点である。それを今仮に、西暦1150年と
しておく。
 1150年以降、タイ・アユタヤの象棋は、
そのままだったが、現カンボジア、アンコー
ルワットの象将棋は、9×9路化して⑤副官
駒が2枚化、⑥兵駒が、4段目に直線配置、
⑦相手陣4段目成りに変化したと推定される。
つまり、カンボジア・アンコールワット象棋
は、タイのマークルックと3点のルール差、
タイ・アユタヤの象棋は、恐らくだが、1点
のルール差だったと考えられる。
 この状態は、西暦1250年前後に、モン
ゴル帝国が伸延し、タイ領内にタイ人が多数
逃避移住して、旧大理国の習慣が流れ込むと、
現行のマークルックに近づくように、変動し
たと、従来より本ブログでは考えられている。

つまり、兵列が3段目一直線配列、成り3段
目ルールで升目置き象棋のマークルックとな
り、ゲームの雰囲気が日本の将棋に近似した

という事である。なお、言わなかったが、大
理国の将棋が銀将化したのは、西暦950年
頃であり、インドへの伝来は100年以上
後の、西暦1050年以降だったのかもしれ
ない。がミャンマー、タイ、カンボジアへは
より早かったはずである。このページでだけ
は、東南アジアからの、日本の将棋の伝来説
に有利なように、西暦1000年の船出には、
この3国の何処が出発点でも、銀将は間に合っ
たと仮定してみよう。つまり草創期大理国か
ら、インド、ミャンマー、タイ、カンボジア
へ、銀細工の銀将駒が、茶馬の道伝いに伝来
したインパクトが、10世期過ぎに象駒が、
イスラムシャトランジ型から日本型へ転換し
た原因だと本ブログでは考えているのである。
銀将が共通である効果は、多少だとして、す
ると将棋に関しては、

歩兵の3段目一直線配列こそが大理国の記憶

だというのが、本ブログの論と言う事になる。

 桂馬が左右共に、初期配列からは出せない
事が、ようするに日本将棋臭さをかもし出し
ている

と見ているという意味である。
 なお、以前に述べた幻化したシャッツロン
が、いくぶん残っているとすると、今の所、
カンボジアの象将棋は、タイのマークルック
と、少し違うバージョンがあるのかもしれな
いし、(仮説)西暦1150年から西暦12
50年までの交点置き時代に、兵駒がポーン
ではなく、歩兵のルールだったのかもしれな
いという事になる。
 以上で、以後議論が紛れない程度のマトメ
は出来たように思う。
 増川宏一氏は、従来よりアンコールトム・
アンコールワット遺跡の文明の高さ等を根拠
に、日本の将棋がカンボジア等から来たと、
力説されてきた。

本ブログは、この考えに反対

である。以上のようにまとめると、増川説の
当否を考えるには、思考の上で、
西暦1000年時点の、本ブログの大理国将
棋、つまり8升目で一段目、香車、桂馬、
銀将、玉将、金将、象、桂馬、香車という、
車が弱く、象が実は、角行で飛車系列である、
”インドの第2波”ないし”ビールーニ反転
”を拒否した将棋と、今述べたカンボジア・
アンコールワット象棋を、入れ替えて置いて、
おかしくないかどうかを、考えればよい事が
判る。そして、

それはおかしいのである。

なぜなら、大理国でだけ、ゲームが違うのは、

山奥なので、情報の伝わりが悪いため

と、ただちに察しが付くのだが。
現行イスラムシャトランジ型のシュリーウィ
ジャヤのマレーシア・インドネシアの対岸の
アンコールワットのカンボジアが、ゲームの
形としてここでだけ弧立しているというのは、

どうみても不自然

だからである。(2019/12/27)

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”カンボジア・シャッツロン”は誤情報の疑い(長さん)

本ブログでは過去、”世界の将棋”に記載の
カンボジアの象棋系統のチェスバリアントを、
シャッツロンという名称で紹介した。が、
西暦2010年頃に、欧州のゲーム研究者に
よって、誤情報である強い疑いが、出されて
いたようだ。情報元は、英文の
wikipedia”Ouk-Khmer
(Hill’s version)”に有る。
 ”世界の将棋の記載は、誤った情報のコピー
であり、タイのマークルックと同じゲームを、
誤って改変して、別のゲーム種があるかのよ
うに、表現しただけ”との欧州ゲーム収集家
の主張があるという事である。

正しいとすれば歩兵の有るマークルックは幻

だったのかもしれない。
 現時点で見ると、八方桂が近王型駒へ成れ
ない限り、ポーンを歩兵に変える有力な動機
は余り見あたら無い。
 よって、本ブログで過去論じたときには、

中国シャンチーの兵卒駒へ、合わせただけ

と結論してきた。
 なお、欧州のゲーム研究家には、あるいは
ピンと来ないのかもしれないが、

カンボジアの象棋に、交点置きのものが過去
本当に無かったのかどうかについては、更に
研究が必要

だろう。
 また英語版のwikipediaの前記項
目によると、少なくとも象の近王動きルール
は、カンボジアの現地言語から英訳する際の
単純な誤訳だったと言う事である。行き所と、
相手駒を取れるときの動きが一致しない副官
と象というルールも、存在は怪しいようだ。
なお私は勝手に変えたが、幻シャッツロンの
兵駒は、

王に成るルールであると、本当に情報の出所
に記載されてあって大臣とは書いてなかった

という事である。最後の点に関して私は、
梅林勲、岡野伸両氏に、この場を借りて、深
くお詫びしておきたい。(2019/12/26)

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おおしょうぎに高段者の接戦という意味は有るか(長さん)

本ブログの表題が、”だい将棋”になっていて、
大将棋になって居ない理由を今回は話題にする。
 当初の理由は私の耳に、”大将棋”と書いて、
”おおしょうぎ”と読む場合『高段者の対局で
接戦の、熱のこもった日本将棋の事を指す』事
があり、それと区別する必要があると考えた為
であった。つまり、同じ将棋史でも、全く時代
の違うカテゴリーのブログであると、情報の
捜索者が誤らないようにするための、処置の
つもりであった。
 なお、本ブログでは、大将棋という日本語は、
多くの中型・大型国語辞書レベルでの通常の意
味で現存しない。専門的な大型事典でようやく、
”だいしょうぎ”の読み説と、一部の中型辞書
で”おおしょうぎ”の読み説とが、私の確認で
は1冊づつある。更に百科辞典様の国語辞典に、
”どちらも可”と書かれている物が有ると見る。
 具体的には、以下の通りである。つまり、
広辞苑では大将棋は、”だいしょうぎ”と読む。
新編大言海の大将棋は”おおしョうぎ”と読む。
また、小学館の日本国語大辞典には『大将棋
には”だいしょうぎ”の読みと”おおしょうぎ”
の読みが、それぞれ両方ある』書かれている。

以上から、どちらでも良いとの見方をしている。

 プロの日本将棋の棋士が、接戦で白熱した良
い将棋を指しているという意味で、大将棋を
”おおしょうぎ”と表現しているので、どちら
でも良い、古代~中世の駒数多数将棋の一種の
大将棋と書かれるゲームに関して、読みが2つ
有る。そして一方は、近代の用語と同じだが、
他方が、日本将棋の観戦記用語とみられるもの
と読み方が、たまたま違う事を利用して、

区別のために、大将棋を表題でだけ”だい将棋”
と記載している

という事情である。
 だが、主として日本将棋連盟棋士の指す、特
定の将棋一局について”おおしょうぎを指した”
等の記載は、最近少ないようで、

空耳の疑いがある。

そこで今回、web上でチェックしてみた。
以下の所に有るとの事のようである。

西暦1982年夏発行、将棋天国No.14
の中の記事で、”特別企画大山康晴十五世名人
に聞く”の中の、後半宮崎氏の発言部分。

確かに、最近の情報はヒットしないので、既に
日本将棋連盟等から観戦記者へ『おおしょうぎ
という読みでの大将棋という表記表現は”横綱
将棋”とか”大勝負”との言い方が適切なので、
使わないように』との旨等の、通達等が出てい
るとすれば無用の懸念となる。よってそうした
通達の情報が確認されたら、本ブログの表題も
”大将棋”表記へ変更しようと考えている。
 また、”とても神業とは思えない、てんじく
おおしょうぎを指し・・”と言った表現は確認
出来ない。ので以上はゲーム種として、大将棋
だけの問題だと私は考える。
 最後に蛇足だが、大将棋と大将とでは、その
熟語の要部の”将棋”と”将”が、”ゲーム”
と”人間”とで別概念なため、本ブログでは、

大将の読みから、大将棋の読みが類推できると
いう便法は取らない。

なお、大将については、本ブログで前に述べた
通り、豊臣秀吉は、後陽成天皇の問いに答える
ときには、”大坂の征夷大将軍”の意味で、
”おおしょう”と読んでいるという説を採る。
しかしながら日葡辞書作成時、ポルトガル人に
大将の読み方を教えた日本人は、”おおしょう”
でも”たいしょう”でもなくて、”だいしょう”
と読んでいたと、同辞書で確認している。

つまり”大将”については、安土桃山時代から
江戸時代草創期にかけて、読みが混乱していた

というのが実体と、私は認識する。(2019/12/25)

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川西不明駒横行確認の後期大将棋成立説への効果(長さん)

今回は、木村義徳氏の説である、後期大将棋の
成立が、西暦1150年±50年説(持駒使用の
謎、236ページ)にとって、川西不明駒の特定
が及ぼした影響について論じる。答えから書くと、
木村説で起こる現象の統計的確率を、

一桁台に後退させる効果が有った。

具体的には、11.6985%が、9.217%
に変わった。では論を始める。
 先行文献として、持駒使用の謎があり、二中暦
大将棋は西暦1150年までしか指されなかった
が、西暦1200年頃成立の二中暦に、大将棋の
代表として、結論的には記載されたとの旨が書い
てある。本ブログでは川西大将棋は二中暦大将棋
と近似であり、記載から外しても、文化を消失さ
せてしまう懸念は無いとして、過去木村説に対し
反対を、本ブログで表明している。
 ここでは、平泉両面飛龍から、京都上久我裏不
明酔象まで、木村氏の説によれば、後期大将棋時
代の駒だったと仮定して、その説自体を棄却検定
する。
 史料を、事実として挙げると次の通り。
A.出土駒について。
1.平泉両面飛龍。
2.川西遺跡不成り奔横。
3.川西遺跡不成り(?)横行。
4.堅田B不成り(?)龍馬。
5.鎌倉鶴岡八幡宮奔王成り鳳凰。
6.小山一文字金成り角行。
7.京都上久世成り不明酔(?)象。
B.文献史料について。
8.普通唱導集大将棋第1節”反車”。
9.普通唱導集大将棋第1節”飛車”。
10.普通唱導集大将棋第2節”嗔猪”。
 つぎに、検定の方法だが、後期大将棋の2~4
段目駒について、

不成り獅子、悪狼、猛豹、猫叉以外が、選択試行
で全て現われる確率

を考える。試行をN回として、
計算式は、(26/33)のN乗で%表示である。
以下のようになる。
試行が9回の場合:11.6985%。

試行が10回の場合:9.217%。

つまり、9回から10回の1回増加の間で、2桁
から、

1桁の確率へと木村説が転落した

ことが判る。たまたまだったが、徳島県徳島市郊
外の川西遺跡出土の将棋駒のうち、4枚の中に一
枚有った従来不明駒とされたものが、上のリスト
の3に有るように、本ブログの見立てにより
横行だと見られるようになった。その事が、

南北朝時代より以前、後期大将棋は無いとの本ブ
ログ持論が、木村氏の早い出現論よりも、むしろ
優位に立つという、新たな時代への幕開け

になったように、見えるという事になるのである。
(2019/12/24)

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何故沖縄に東南アジア系の古将棋が侵入できない(長さん)

以前に本ブログでは、シャンジーが沖縄に
存在する理由として、明王朝の強いテコ入れ
と、たまたま中将棋優勢の時期に入った為の、
将棋具準備の煩雑性、複雑化による習得の
困難化が原因で、中国シャンチー系が優位化
した為と説明した。これは、日本の室町時代
の事であるが、奈良時代に、沖縄に東南アジ
ア系、すなわちイスラムシャトランジが侵入
しない理由にはなっていない。日本と違って、
沖縄には麟徳暦を習得するように、下級官吏
に対して働きかける王朝が、7世紀~8世記
に存在した形跡は無い。だから、

15~16世記にあった、優勢な沖縄の囲碁
文化が、7世紀~8世記にも有ったとは考え
にくい

のである。そのため、仮に南海から、
イスラムシャトランジ系のゲームが漂着すれ
ば、日本人と違い、沖縄県の当時の人間は、

出来が悪いゲームであるのに気が付かない

はずである。にも係わらず、中国人のように、
傍観者として、イスラムシャトランジは知っ
ていても、沖縄でも受け流したように見える
のは何故なのか。イスラムシャトランジ系の
ゲームが西暦800年頃に、沖縄本島等に、
存在した形跡が無い理由が何なのかを、今回
は論題にする。回答から書く。
 アイヌ文化と同じパターンで、

文字文化が無かったので、漂着した象棋文化
は立ち消えになったと見られる。

では、論を続ける。
 本ブログでは、北海道のアイヌの間で、
平安小将棋等が定着しなかったのは、文字記
録が出来ないために、ルールが文字でしか長
い世代間では伝承力にならない、将棋文化の
長期間継続の致命傷になったと説明してきた。
 ところで、琉球文化は、12世紀まで縄文
時代にあたる、貝塚文化時代、文字の使用は、

西暦1333年のグスクの建築資材に刻まれ
た漢字が初出

であるとされている。つまり、
無文字文化が、将棋文化の継続にとって致命
傷となった、

アイヌ文化と、西暦1333年までの、沖縄
は同一条件

であるとみられる。文字が出来てからは、
日本や中国と同一状況だったとみられ、明王
朝成立により、中国の影響力の増大が、近世
の終わりまで続いた。しかし結局、中国シャ
ンチーが成立した以降の、文字文化成立だっ
たので、将棋類文化の状況は、

挙動が、第二次世界大戦までは、中国とほぼ
イコールだった

ようである。なお、明王朝のてこ入れ以後、

特に15世紀から16世紀末まで、沖縄では
囲碁文化が極めて盛んで、名人が輩出した。

平行して暦文化は中国の元、明暦がそのまま
使用される程度まで、中国天文・暦文化圏に
飲み込まれた。そして明治以後は、日本の最
終太陰太陽暦である天保暦も、今の本土より
もむしろ強く、残留しているのが現状とされ
るほどである。
 しかしながら、中国シャンチーが成立した
時代どころか、鎌倉末期の新安沖沈没船出土
駒の時代より更に遅くなって、沖縄では文字
文化が成立したため、冒頭で述べたように、

イスラムシャトランジ系の東南アジア起源の
古将棋は、長期に継続できずに残らなかった

と考えて、どうやら良さそうである。
(2019/12/23)

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挟み将棋、回り将棋はいつ、何処から来たのか(長さん)

ものと人間の文化史23、将棋Ⅰ、増川宏一
西暦1977年の、202~203ページに
書かれているが、”子供の遊び”とされる、
挟み将棋、回り将棋は、起源も伝来元も謎と
されている。今回はずばりいつどこで発生し、
どこから日本に来たのかを、論題にする。

江戸時代文化・文政期より少し前に、ロシア
人を含む、日本の華族の子息への教育者等に、
結果としてなった来日欧州人が考案し、日本
の上流階級の子息へ伝播した内容が普及した

ものと推定される。
 では、論を開始する。先行文献は、冒頭に
述べた増川宏一氏の、言及がある。なお、
これらの、児童用ゲーム内容について紹介し
たものは、ローカルルールの仔細紹介を含め
て、多数ある。ただし上記の2つのゲームに
限れば、出所を特定する議論の文献は、余り
無い。
 ヒントは、ロシアの4人制チャトランガの
将棋紀元説を取る、ユーリー・アウエルバク
が、四人制チャトランガの前段として、
ペティアとターヤムを、西暦1990年代に、
組で論じている点である。
 欧州では、この組で論じる遊戯史理論が、
西暦1790年にウィリアム・ジョーンズの
研究が発表されると、恐らくほぼ同時に、自
明の事として、確立したのではなかろうか。
 そのため、西暦1830年頃に、チェスの
歴史に関心が有って、18世記末の、
ウイリアム・ジョーンズのチェス起源論を知
る日本来日の、結果として日本の華族の子息
等の教育に貢献した、ロシア人等の欧州の外
国人が、日本の上流階級の子供なら日本将棋
よりもレベル・ダウンした遊戯が、お似合い
だと推定して、ペティアに似た挟み将棋と、
ターヤムに類似した回り将棋をセットで、

少人数で考案して子供にさせたのが広まった

のが、現在の将棋駒を使う挟み将棋と、端で
成ったり、戦闘も有る回り将棋の起源なので
はないだろうか。理由は個人的に、

挟み将棋と、回り将棋のどちらかだけ知って
いて、他は知らないという、地方が有るとい
う話を余り聞かない

からである。
 増川宏一氏は、挟み将棋が南北朝時代から
有る疑いがあるとの旨を、異性庭訓往来等と
関連付けて、将棋Ⅰの202ページに書いて
いる。
 が私は、このゲームの為にわざわざ、歩兵
の将棋駒を作るというのは、

へんな話だと思う。

南北朝時代には、碁石等を使ってペティア
類似の、別の挟み将棋型のゲームを、たぶん
したのではなかろうか。
 将棋駒と盤を使った子供ゲームは、象棋ゲー
ム盤に九宮が有る、中国や朝鮮半島から伝来
するはずはないだろう。そうならないのは、
発明者が、

日本に居たのだが形としては欧米起源だから

だと私は思う。ちなみに、幸田露伴以前に日
本人は、インドでの四人制チャトランガの存
在を知らない。
 だから、ウィリヤム・ジョーンスのチェス
起源論を知っていて、ペティアとターヤムを、
日本将棋のゲーム具と結びつけて、新ゲーム
を考案出来るのは、遊戯史に対する知識の有っ
た、江戸時代の文化・文政期の少し前に、

何らかの理由で、日本国内の何処かに居た、
ロシア人等の、欧米系外国人の、結果として
の上流階級の日本人子息に対する教育指導者
となった者としか考えにくい

のではないか。他方、西暦1830年成立の
嬉遊笑覧には”挟み象棋は碁石でする。回り
将棋は、日本将棋駒を使った、競争ゲームで
あり、18コマ分リードすると、もたもたし
た方が負けである。”との旨は書いてある。
が浮世絵等に、挟み将棋の姿や、回り将棋の
図が有ると言う話も、余り聞かない。また、
嬉遊笑覧の説明は、何故か、かなり雑である。
試作途中で、リークした内容なのではないか。
 よってこの事からも、冒頭の結論のように、
私は推論出来るのではないかと考えるのであ
る。つまり、21世紀の初頭の現在の、
”将棋は2人制チャトランガ起源”説とは異
なる、

18世紀末欧米の4人制チャトランガ先行説
に基づく、それの始原とされた古代ゲームを
改変した教育用のゲームが、今の挟み将棋と、
回り将棋の正体

なのではないかというのが、本ブログの現時
点での説という事になるのである。(2019/12/22) 

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