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吉備真備は、元々兵法学者(長さん)

遊戯史研究では、吉備真備は囲碁に強く関連し、
将棋は伝来させていないが定説である。つまり、
ゲームに関連性のある人物ではある。他方本ブ
ログでは、暦学者と、陰陽道師と、遊戯史学者
の3人力と紹介した。専門の人物解説書かつ
入門書的な成書で、次の宮田俊彦氏の著書
(吉川弘文館、1961年)に、”兵法が特に
強かった”との証拠が書かれている。

人物叢書”吉備真備”。

よって、

将棋が有れば、強い関心を抱くような人物

だったと結論できる。
 では、紹介を始める。
 最初の遣唐使としての彼の入唐の際に、書物
を除いて持ち帰った物品のリストが、前記成書
には書いてある。
①測影鉄尺(天体観測器具)
②銅律管(楽器類)
③鉄如方響(楽器類)
④写律管声十二条(楽器類)
⑤弦巻漆角弓(武器)
⑥馬上飲水漆角弓(武器)
⑦露面漆四節角弓(武器)
⑧射甲箭20隻(武器)
⑨平射箭10隻(武器)
なおこの後、宮田俊彦氏は”吉備の職階が上がっ
たとき、大概は軍事的な手柄であった”との旨
を、前記成書で述べている。
 遣唐使として、現物のサンプルを持ち帰った
物品のうち、武器が半分を越え、

吉備真備が、元来兵法に詳しかった

と推定できるだろう。なお、①の測影鉄尺から、
当時から、回帰年の長さの精密な測定が、絶え
ず必要だという事が判る程度に、吉備が暦に詳
しかった事も判る。
 以上の事から、囲碁と将棋が並んで置いてあ
って、強いてどちらか一方を取れと言われたら、

吉備真備は、従来の大江匡房の紹介イメージと
はかなり異なり、将棋を取るような性格の人物

と、言えるのではないかと、私は疑う。
 やはり、

『吉備は兵法関連で、イスラムシャトランジを
持ち帰ったが、それは今の将棋では無い』とも
とれる本朝俗諺誌の”俗説”は、本当の話

なのではないのだろうか。
 藤原仲麻呂の為に左遷された吉備真備は
960年頃、藤原仲麻呂指示で、幻の新羅征伐
の準備を進めていたらしい。が、左遷の割りに、
兵法の知識人として、ずいぶんと活躍したよう
に、上記成書には書いてある。

適材適所起用であって、通説の左遷では無い

のかもしれない。
 何れにしても、吉備真備は絵巻物を見ると、
平安貴族風だが。元来は兵法学者のような、
ごっつい顔をしていたと、少なくとも上の成書
からは読み取れる。(2020/01/31)

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webアニメサイトに”宇都宮芳姫”氏出現(長さん)

たぶん、アニメ作家の”小山芳姫@宇都宮芳姫
は幼少芳姫?”氏と同一人物かとみられるが、
西暦2020年01月27日頃より、作者が
上記で【宇都宮芳姫さんに喋ってもらいました?】
という動画が、配信されるようになった。
 内容から、

新発見の史料は存在せず、小山芳姫(よし姫)
は、宇都宮城の宇都宮氏ないし結城氏の出自

と主張しているようだ。声は声優の藤咲あかね
氏のようだが、藤咲あかね氏は絡んでいまい。
 ところで”宇都宮芳姫氏”の主張の根拠は、

小山芳姫の亡くなった、栃木県栃木市星野町の
谷倉山から、宇都宮城と結城城が近い事

との事のようである。なお下野宇都宮氏の先祖
は藤原道兼、結城氏の先祖は藤原秀郷であり、
埼玉県久喜市の鷲宮神社の棟札とは、整合する。
 また本ブログでは、

栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡、裏一文字金角行
出土駒と共出土した、火鉢の破片、櫛、女物下
駄等は、小山よし姫への追悼物品を疑っている。

今回は、宇都宮芳姫氏の見解が、正しいのかど
うかを論題にする。
 結論から書く。
 今後の研究に期待したい。”小山芳姫”は、
宇都宮城ではなくて、京都市烏丸四条の宇都宮
氏下屋敷等、栃木県栃木市星野町よりはかなり
遠方の京都府から、南北朝時代に下駄を履いて、
歩いて嫁入りした、

京都府出身者の可能性も有る

と考える。つまり、

栃木県栃木市星野町からの距離は、実家の位置
の根拠にはならない

と疑う。
 では論を開始する。
 そもそも、小山よし姫または、小山芳姫が、

宇都宮・寒河尼の親戚または子孫なら、本ブロ
グにとって都合は良い

という事がある。栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡
の裏一文字金角行駒が、下野小山氏の代々の遺
品であって、宇都宮氏や結城氏の家宝や、持ち
物でなく、嫁入り時の持参品ではないとしても、
小山芳姫が宇都宮・寒河尼の親戚または子孫な
ら、旧姓

”宇都宮(等)芳姫”は、小山義政の時代、
嫁ぎ先の将棋具一式の管理者にうってつけだ。

なぜなら、栃木県小山市の市役所のホームペー
ジ等によると、夫の小山義政は11代目当主だ
が、初代の当主の小山政光の妻が、2代目宇都
宮氏当主の宇都宮宗綱の娘とも、3代目当主の
宇都宮朝綱の娘とも言われ、本ブログの見解で
は、結城朝光だけの母である宇都宮・寒河の尼
であるからである。
 つまり宇都宮・寒河尼は、夫の小山政光が、
京都公家の警護役(大番役)で留守のときに、
野木宮の戦いで、小山の家来を合戦で動かす、

将棋棋士の準えである合戦参謀役を、小山朝政
と宇都宮・寒河尼の二人でした

と考えるのが、自明だからである。よって、
宇都宮・寒河尼の子孫ないし、親類の娘が
小山義政の嫁の小山芳姫である場合、

宇都宮・寒河尼に準えられて、将棋具一式が、
嫁入りしてから、管理者として、嫁入り前実家
は小山では無くても、持たされる可能性が高い。

だから、小山芳姫が、宇都宮氏か結城氏か、は
たまた小田氏等である方が、そもそも本ブログ
にとっては、神鳥谷曲輪遺跡8号井戸等の
出土品パターンを、それ以外の、藤原氏子孫の
場合に比べて、説明がより容易になるのである。

小山芳姫は寒河の尼と同率だから、義政に何か
有った場合の代理として、合戦参謀あるいは
将棋の棋士のごとくに、小山氏南北朝時代家宝
の、将棋具一式を使用してもおかしくない

という事になる。よって他の女物と、角行駒が
いっしょの所有者・管理者にされた結果、共出
土しても、おかしくなくなるのである。
 なお、個人的な見解だが。網戸神社の伝説等
によれば、宇都宮・寒河の尼が亡くなってから、
網戸郷や寒河郷を、小山氏ないし長沼氏が分割
相続した形跡が無い。ので、

小山義政が宇都宮寒河尼の子孫という事は無い

と、本ブログでは独自に考えている。なお先行
研究として、江田郁夫氏の文献調査がある。
 何れにしても小山芳姫の宇都宮氏出自説には、

大賛成

したい所だ。が神鳥谷曲輪遺跡8号井戸出土の

下駄が説明できない

と思う。

だから”実家は亡くなった所から、近いだろう”

等との説には、納得できない。谷倉山の

小山よし姫の墓のある場所の地名が、寒沢

だという理屈の方がむしろわかりやすいと思う。
 沢も集まれば河になるので、寒河も寒沢も、

類似だ。

なので、小山芳姫と寒河尼が類似化して見られ、
そのような地名が、発生したのではないのか。
 それに、そもそも宇都宮・寒河尼は、京都で
源頼朝の子守女や、近衛天皇の女官をしていた
人物だ。
 だから小山芳姫の実家が、宇都宮城に有るよ
りも、京都の烏丸四条の一等地に有った、愛媛
県の知事の為と見られる、宇都宮氏下屋敷
(南北朝)から来た方が、更に都合は良い。
 なお、栃木県に居座っていて、京都には余り、
出所しなかったが、宇都宮氏の当時の当主、
宇都宮氏綱は、当時の”伊予の守”である。
 実は、小山芳姫@宇都宮芳姫は幼少芳姫?氏
は見落としたのかもしれないが、彼が調査した
とみられる、

小山芳姫の父親の、宇都宮義綱(南北朝時代)
は、宇都宮氏系図の2箇所に載っている。
エイチティティピー://keizusoko.yukihotaru.com/
keizu/fujiwara/fujiwara_hoku/fujiwara_hoku41.html

小山芳姫.gif

 上図で緑のイコールの、端の両方の赤い四角
の枠内が、”義綱”になっている。だから、
宇都宮氏系図等の宇都宮氏綱の兄弟の一人ならば、
栃木県の宇都宮城に、小山芳姫は実家が有り
そうだが。伊予や豊前に関連する、宇都宮分家
の宇都宮貞泰の次男も宇都宮義綱であり、芳姫
はその子であって、実は本ブログの私見では、
京都下屋敷の跡取りである宇都宮元綱の、姉な
いし妹である孫娘と見ている。また本ブログの
見解では、これら

2箇所記載のの宇都宮義綱は、同一人物である

と見る。なお”元綱”は、宇都宮氏綱の嫡男の、
宇都宮基綱と音がいっしょである。宇都宮氏綱
は遺言を口頭でしたのであろう。本ブログでは、
宇都宮元綱は、京都下屋敷の相続少し前まで、
宇都宮氏家と名乗っていたと今の所見ている。
何れにしても、もしそうであるなら、小山芳
(よし)姫は、不動産として価値の高い、

京都の宇都宮氏の下屋敷が、実家のはずである。

なお、web上では豊前宇都宮(城井宇都宮)
氏について、宇都宮家綱と宇都宮元綱の話が、
錯綜している。宇都宮家綱(南北朝時代)は、
2人居るという説も、九州の歴史家の間では、
特に有力と聞く。ややこしいが、更に
宇都宮家綱(足利持氏時代)という人物もおり、
”出自は不明”とされている。が以下あくまで、
本ブログの見解だが。前記、宇都宮元綱の孫程
度である疑いが有る。宇都宮等綱よりもむしろ、
嫡男流に近かったので、鎌倉公方の足利持氏に、
担ぎ出されたと言う意味である。なお塩谷綱家=
宇都宮家綱説が、web上に有る。宇都宮満綱
から塩谷綱家への血筋は遠くこの説では、足利
持氏が何を考えて、塩谷綱家を担ぎ上げたのか
が、謎として残ると私見する。
 なおweb上では、宇都宮氏綱の3人兄弟の
うち、義綱と家綱の片方が、省略されたりもし
ていて現ネット情報は複雑な様相を呈している。
以上の混乱点は、今後の研究を待ちたい所だ。
 ともかく下駄が出るし、寒河尼が、近衛天皇
の女官等をしているので、

同族だと見られた小山芳姫は、京都から輿入れ

した方が、出土事実を更に説明しやすくなると
私は見るので、冒頭の結論になるのである。
(2020/01/30)

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長元4年7月15日の暦チョンボは暦注では無い(長さん)

以前、藤原実資の日記に天文道師の安倍時親
(晴明を初代として3代目)等がやってきて、
証昭という宿曜師と賀茂道平(保憲のひ孫)
が、どちらも新米の時代に、共同で作成した
七曜暦の、月の位置が実際には、みずがめ座
α星であるべきを、”やぎ座θ付近”と計算
間違いしたと、報告した事が書かれている旨
を述べた。長元4年、
西暦1031年7月15日月食の翌日日記、
小右記の記事である。
 日本人の計算能力が、その頃にも落ちてき
た事の証明と述べたので、七曜暦ではなくて、
元々計算が雑な宣明暦の暦注の”28宿”と、
藤原実資が、勘違いしていないかどうか、こ
んかいチェックした。その結果驚いたことに、
この場合だけ、たまたまらしいが、

宣明暦の迷信占いの暦注では、月がこの日、
みずがめ座αにあると書いてあったらしい。

だから、天下の天体暦が間違っていたのであ
り、イカガワしい、迷信の記事が合っていて、
後者を前者と取り違えたのでは無いらしい。
 では、以下に報告する。
 成書の”暦のすべて”渡邊敏夫著、雄山閣、
西暦1980年によると、宣明暦時代の、
占い暦注の”28宿”は、11世紀の当時、
次のように計算したそうである。旧暦日付で、
1月1日が必ず”室”。以下同様で、1日は、
2月が奎、3月が胃、4月が畢、5月が参、
6月が鬼、7月が張、8月が角、9月が氏、
10月が心、11月が斗、12月が虚、閏月
は、元の月と同じにする。直ぐ次に解説する
が、こうすると、閏月直前の、黄経の行きつ
戻りつが実は起こり、悩ましいが、大局的に
みて正しいとして、我慢するしか無いらしい。
なお最後の点については、改善は試みられよ
うだが、統一的な解決には、至らなかったら
しい(江戸近世暦、紀伊国屋書店、2018)。
 つまり日づけがすすむにつれて、28宿は
尤もらしく、東周りに1つづつ進む。ただし、
やぎ座β星を西端とする、牛宿(牛座)は、
インド名で、アブヒジト座になるらしいが、
削除して27星座だけ使う。恒星月が、
27.32日位なので、28よりも近い事は
近い。
 特定の星座牛宿を除いたのは、インド流で
は28宿の黄緯が、0°から、ほど遠い星座
のケースがあり、このアブヒジト座は、大き
く北にズレていたためである。何処にあるの
かと言えば、インドでは牛座は、中国流の、
やぎ座β星付近ではなくて、まぎらわしいが、

牛は牽牛でもなくて織女星の星座、こと座の
事である。

このように黄道から遠く離れていて、28宿
へ入れる事自体、怪しいから、特にこの星座
を除いたらしい。
 この宿曜経方式を、二十七宿の古式と言い、
弘法大師が、日本に伝来させたものである。
なお占い暦注の28宿類には、他に中国式が
ある。こちらは3年で、だいたい37回有る
はずの朔望月が、およそ36回にしか、なら
ないので月の視位置をぜんぜん表して居ない。
 改暦や予告しないで、両者を切り替える事
があり”暦占いは迷信だ”と主張する勢力に、
かなりの活力を与えている。宣明暦から
貞享暦に改暦したときの転換や、西暦
2020年に、神奈川県藤沢市の時宗の寺、
遊行寺発行の暦の、28宿の計算方式が急に
変わった等の例がある。なお宿曜経方式は、
10世記から江戸時代の初まで、宣明暦では、
使われていた。
 とにかくそこで、7月1日は”張”なので、
順に”日”を書くのを略すと、
2は翼、3は軫、4は角、5は亢、6は氏、
7は房、8は心、9は尾、10は蓑、
11は斗、12は女、13は帰、14は虚、
15が危となるが、危宿は、みずがめ座α星
付近であり実際の西暦1031年7月15日
の月の位置と、

何と合っていた

ようなのである。
 なお、上記の規則だが、

春分の旧暦2月15日頃に、太陽が婁(ろう)
宿にいるといっているのと、だいたい同じ

である。この星座は、おひつじ座β星付近であ
る。そこで、日本天文学界、観測用星図の
黄道星図から、おひつじ座β星の、西暦
1950年時点の黄経を求めると、32°位
になる。この事から、宿曜経方式は、

西暦-300年の頃の星空を反映している

事が判る。
 どうしてこれで、西暦1031年の星空を
計算して、月の位置について答えが合ったの
かだが。そもそも太陰太陽暦は黄経がフラつ
くし、上に述べたように近点月27.32日
の0.32日の端数の補正も不規則である。
そもそも月の運動も、単純な等速円運動が、
仮定されている。
 更には、各一日日の月が居る星座の1カ月
ごとの間隔は、相当ばらついている状態で、
ステップも26.999を27に近似した上
で、12で割った2.25に近いように、
2ずらし、だったり3ずらし、だったりする。
ので、以上の様々な効果が重なってフレが大
きくなり、歳差の誤差を相殺してしまい

たまたま、まぐれで、合っただけだった

ようである。そのため、
西暦1031年分の具注暦等の宣明暦に書い
てあったはずの、二十八宿という、迷信占い
の項目の方が、この月だけだったのかもしれ
ないが、計算の間違った、権威ある天体暦、

(七曜暦)よりも、むしろ正しかった。

以上の事が、起こっていたようである。
 つまり後一条天皇に配るのが主たる目的の、

天下の天体暦のミスが、このケースに限って
は、そのため際立って問題になった

との顛末だったとの事である。(2020/01/29)

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数学力低下の平安理科離れ。囲碁の谷間よりも深刻(長さん)

以前、囲碁のブームは11世紀から1140年程度
まで落ちたと仮定できると、本ブログでは述べた。
本ブログ説では、天文道の世襲化が要因であり、会
合現象と超新星の位置観測の隠匿によるものであり、
逆に平安大将棋の成立には、追い風になったとした。
出来の悪さに、気がつかないでくれたからという
事である。今回は、この論が弧立したものではなく、

西暦2010年発行の成書に、関連すると疑われる
現象が記載されている

との旨紹介する。

 数学が9世記から12世紀まで落ち込んだという
もので、”平安の理科離れ”というセクション題を
付けられた上で、以下の成書に記載されている。

”理科で歴史を読みなおす”、伊達宗行著、ちくま
新書、西暦2010年。

更に、伊達宗行氏は、”数の日本史”でも論じてい
るらしいが、私は、そちらは確認して居ない。
 ”遣唐使の廃止が西暦895年に有って以来、
『文化の倦怠期』に入り、算博士は世襲化、大衆
への教育意欲が失われ大衆が割り算出来なくなる等、

平安時代後期に数学力、計算能力が低下

した”とある。以前に本ブログでも、月食時の月位
置の計算を、宿曜師が間違えたとみられる話をした。
 天文道、位置観測に対する広報機会の低下は、
西暦1000年から1140年、計算力低下は、
西暦900年から1390年程度と見込まれ、

天体位置観測や囲碁の一時的落ち込みよりも、
”平安の理科離れ”と伊達氏が表現する、数学の
落ち込みの方がひどくて長い

ようである。伊達氏はまた”銅の精錬術力の低下が、
数学の傾向と一致する”との旨前記彼の成書で述べ
ている。なおプロの天文道師の天体位置観測能力の
落ち込みは、山下克明氏の”平安時代陰陽道史研究”
思文閣出版、2015記載の、斉藤国治氏の集計に
よれば、鎌倉時代・室町時代初期の1200年~
1450年が精度の谷間とされて、後半部分程度に
当っている。
 何れにしても、

本ブログが指摘した、囲碁ブーム後退と、天文デー
タの一部の、一時的記録数低下は、弧立した現象で
はない。

幾つかの、関連現象が既に、先行研究として指摘さ
れている。そしてそのきっかけは、

全体とした、”平安時代の文化の倦怠によるもの”

であるらしい。ただし遊び事については、元来気楽
なので、険しい学術分野のように、少しの低下で
そのままペチャンコになる事は幸いなく、指導者が
やる気になりさえすれば、しばらくすると復活して
元に戻ってきたと、いう事なのであろう。(2020/01/28)

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キトラ古墳の星図は1320でなく2100年前(長さん)

以前、キトラ古墳の天文図の黄道のありえな
い回転を説明したときに、この星図は赤道の
位置から、西暦700年程度の星空の表現だ
との旨を本ブログで述べたが、これは

間違いだった。

1年ちょっと前に、星図の分点に関する解析
結果の成書が、出版されていた。
”古代の星空を読み解く”中村士、西暦20
18年、東京大学出版会である。それには、
”星図の分点の解析結果が、紀元前123年
から紀元前39年の間だ”と書いてある。平
均すると、紀元-80年だ。
問題は、本ブログが間違えた原因だが、中村
士氏の論文を私が読まなかったからではなく、

成書の星図読み取り図から、春分点と秋分点
の位置を、真面目にチェックしなかった

からである。しし座が北に、やぎ座とみずが
め座が南に寄っているので、キトラ古墳自体
の成立の西暦700年頃だろうと言ったが、

こんな雑な見方に間違いの原因が有った。

中村士氏の方法は、論文を読まなくては納得
が困難だ。が他方、前記の、中村士氏が多少
手直しした、文化庁発表の、キトラ古墳星図
の読み取り結果を記載した、複数の

成書ないしwebのサイトの同じ図で見ると、
春分点はうお座のοの西1°、
秋分点はおとめ座αの東2°に明らかにある。

ところで、日本天文学界の”観測用星図”、
恒星社、西暦1965年の黄道星図を見ると、
上記の春分点は1950年分点で、黄経26°、
秋分点は同じく1950年分点で黄経206°、
黄緯はどちらも、だいたい0°である。つま
り、問題のキトラ古墳時代は、1950年の
それに対し、

どちらもだいたい26°東にズレている。

そうなるには、26/360×25800(年)
で、約1863年かかる。西暦1950年を
基準にとると、1950-1863=87で、

西暦87年

である。つまり、中村士氏の主張する-80
年の方が、前に私が、同じデータを、ぼんや
りと見て、ここに書いた+700年よりは、

ずっと+87年に近い。

他方、中村士氏も記載する、石氏星経の、紀
元-53年頃成立とは、+87年は140年
ずれている。ので、私はキトラ古墳の星図は
ずばり、石氏星経の絵画化だとまでは、まだ、
完全には結論しない。が、本ブログに前に書
いた、キトラ古墳の天文図は、キトラの成立
時のときの星空だという見解は、

完全に間違いであり撤回する。

そして同じと見られるものを、他でも複数回
見かけている成書の、キトラ古墳の星図の読
み取り結果図を、私が良く見なかった事に対
し、皆さんに、

誠にお恥ずかしいことであり、

深くお詫びしたいと考える。(2020/01/27)

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17路の碁盤不知の日本。大大将棋は何故有る(長さん)

以前述べたように、キトラ古墳の天文図から、
日本人は碁盤の路の17路から19路への
変化議論の当事者で無い事になった。しかし、
だいぶん以前に述べたが、大大将棋の17升
目は、本ブログによれば、17路囲碁盤の
淡い記憶とされていたはずである。では、
西暦700年の日本人大衆が、歳差と碁盤
路の関連性を知らないのに、記憶の薄れた
後代の日本人が、それを知っているのは何故
なのかを、今回は論題とする。回答から書く。
ずばり、キトラ古墳時代から少したって

西暦735年前後に、吉備真備から経緯を
教わった

のである。
 では、論を開始する。
 吉備真備は、遣唐使として唐に西暦717
年にわたり、

囲碁一式と大衍暦書13巻も西暦735年に
持ち帰った

ので知られる。
 その後、儀鳳暦に変えて西暦764年から
大衍暦が日本にも導入されたが、

儀鳳暦は歳差を否定した、恐らく保守的な唐
代暦学者の李淳風、大衍暦は、歳差の存在を
支持した唐暦学者の祖沖之によって作られた

ものである。なお、以下の成書を読んで、私
なりに考えると、東晋時代には発見されてい
た歳差が、唐代にトラブルになったために、
李淳風によって、儀鳳暦では、採用が棚上げ
になったようである。具体的には、恒星の赤
経、赤緯の歳差変移が、本当に歳差と同じも
のかどうか、唐代にモメたという事が、有る
らしい。
 この場合は中国の天文観によれば、地球
は球ではなくて、タライをひっくり返した
ような形のはずなのに、本当にコマのように、
歳差運動するのかどうかが、4世記に中国で
独立発見されたその現象について、7世紀に
問題になったという事のようだ。成書は以下
のものである。
 ”日本史を学ぶための古代の暦入門”、
細井浩志、吉川弘文館、西暦2014。
 何れにしても吉備真備が、儀鳳暦を、せっ
かく自身が持ち帰った、大衍暦に変えさせる
ために、真面目に努力したとすれば、

囲碁の路が17から19になった事と、その
理由(こぐま座アルファー星の赤緯変化)の、
日本での広報に力を入れたと考えるのが自然

である。その結果日本の大衆はキトラ古墳の
西暦700年頃には、歳差や囲碁の昔の路数
について余り知らなかったが、西暦760年
頃になると、どちらも知り、その因果関係を、
理解するようになったと、考えられる。奈良
時代の日本人は、理数科が強かったようだ。
 また星辰マジナイ専門書でも、細井浩志氏
によると、北斗七星単独から、北斗七星+
北極星に、大陸では変化していたため、追従
するためにも、吉備の意見を聞き、歳差を理
解する必要が有ったようだ。また易とも関連
の深い大衍暦に変えた方が、奈良時代末期に
は都合が良かったので、結局は儀鳳暦から
大衍暦に変わったのだろう。
 以上の経緯で、吉備真備の、天文学者でも
あり、遊戯史学者でもあり、更には陰陽道にも
関係するという、一人二役、三役の果敢な
啓蒙活動も有って、

17路の碁盤の伝説が、うっすらだったとし
ても残った結果、安土桃山時代の17升目の
大大将棋の成立に繋がった

と、今の所私は考えるのである。(2020/01/26)

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IR*ゲーミング学会ニューズレター38に新史料(長さん)

webの以下のurlに、表題の学会の文献紹介
ページがhitし、その中にニューズレター38
(2019.6)がある。その中に”最近発見さ
れた摩訶大将棋に関する古文書”があり、大阪の
将棋家の田中賢一氏所蔵の、

江戸初期、寛文12年(西暦1672年)成立の
”摩訶大将棊の図”の一部分

の初紹介記事がある。

エイチティティピー://www.jirg.org/newsletter/

作者は、亮隆(基?)とも読めるようなサインが
恐らく文書末に、奥付として入っており、web
で調べると、宮城県の戦国時代武家の
”百々左京亮隆基”がhitするが、宮城県との
関連性等は、私には謎である。
 残念ながら、

断片しか残らなかったようだが、達筆であり、
将棋纂図部類抄に構成フォームを準拠させている。

 オモテ面初期配列の後に、将棋纂図部類抄形式
の注記部が将棋纂図部類抄同様にある。なお角行
前の歩兵の内側隅に、大きく聖目が書いてあり、
将棋纂図部類抄の摩訶大大象戯のように、聖目が
無いのとは対照的である。やはり、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄、摩訶大大象戯オモテ初期配列の
聖目落としは、豊臣秀頼用将棋具納入将棋盤業者
への連絡不徹底による、”聖目抜きトラブル”等
が原因か。
 更に”麒麟・鳳凰が中将棋程度の駒価値であっ
ても、ルールは中将棋の各々の駒と同じで無い”
旨が、明確に書いてある。つまり、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄の中将棋の鳳凰のルール、イコー
ル中将棋絹篩等の中将棋の鳳凰ルールと、問題の
新発見文書の鳳凰のルールとの間で、整合性が
取れてい無い事が、net上でも原文を見れば、
直ちに判る。

紹介者、大坂電気通信大学の高見友幸氏の解説

を含め、詳しくは、webで該当ページを確認さ
れたい。(2020/01/25)

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北宋初期天体暦を作成した中国にイスラム天文家(長さん)

以前本ブログで、北宋期に、プトレマイオス
著作のアルマゲストを象徴するイスラム科学
が中国王朝によってもてはやされ、それが、

中国シャンチーの基盤が、イスラムシャトラ
ンジになる原因となった

との旨述べた。根拠として実際に、惑星暦で
イスラム天文学を取り入れたのは有名だとも
述べた。ところが、この本ブログの主張は、
後でよく調べてみると、出典が不明で、実は
はっきりしない事が判った。

私の宋王朝と明王朝の読み違えが有った疑い

がある。そこで、今回はもっと正確に調べな
おした。ここでは、その後調べた内容を書く
事にする。
 以下の事が判った。すなわちwebに、
北宋の皇帝太祖が、王処訥が作った”応天暦”
の作成時の助手として、イスラム系の天文学
者、馬依澤を北宋国立天文台に雇った(日本
で言う、天文道の担当者になった)という。
馬依澤は、

アル・バッターニーの著書(元代の回回暦に
近いもので、惑星運動を除く部分の功績が、
大きいとみられる)を訳したともされる。

またたぶんだが馬依澤自身、惑星の公転周期
(地球との会合周期)の数値改良を、中国で
しているようである。惑星軌道(外惑星主円、
内惑星従円)は、北宋時代までは円軌道だろ
う。晩唐期”宣明暦等で、改善の努力はした
が成果は限定的だった”と聞いている。(暦
の大辞典、岡田芳朗他、暦の会、朝倉書店、
2014年の宣明暦の解説部。)従って、
たぶんだが、北宋時代の暦の惑星計算に、
惑星軌道に対して月軌道で言う、楕円に対応
する”中心差”を考えたかのように示唆した、

本ブログの記載は誤りだ。

 ただし以上の事から、北宋の太祖の時代に、
イスラム天文学が五代十国より優れていると、
北宋が思っていた事を示唆はしているのであ
ろう。ちなみに、北宋の用意した天文台は、
元王朝よりは貧弱で、北宋代の改暦一般に関
し、熟練作暦家の劉義曳は、後に疑問視もし
ていたという。この劉義曳の意見は正しいと、
今では考えられているらしい。(中国の天文
暦法。薮内清、西暦1969年、平凡社)
 当時の中国の暦には、太陽年が時間の数分
長すぎの問題があり、馬依澤の訳したアル・
バッターニーの著書には、逆に2分位短すぎ
の、当時から100年程度前の結果が載って
いたようだ。が、中国北宋には誤差が確認で
きず、イスラム天文家、晩唐時代のバッター
ニーの観測や主張は、北宋時代には採用され
なかったようだ。採用されたのは元代である。
 また回帰年と近点年とは違う事が、バッター
ニーの著書には書いてあったようだが、北宋
には無視された。ただし、月の軌道の朔望時
における、中心差+出差の変移振幅の基本数
値位は、馬依澤らが改善しただろう。なお、
バッターニーはスーパームーンを知っていた。
 また日月食の予想法が、五代十国の頃より、

北宋時代に、進歩したと言う話は無い。

以下しばらく脱線するが。
 日本では宣明暦に平行して、五代十国の
呉越国より符天暦を取り寄せて使い、陰陽道
家と宿曜道家が力を合わせ総力で、通常の暦
と、星占い用の七曜暦を作成して、宮中へ供
給していた時代であった。
 その際月食の計算で、しはしば陰陽師+
宿曜師が、中心差+出差の変移振幅の符号を
間違う単純ミスをしでかすらしく、藤原実資
が小右記に、”暦の月食位置に15°程度の
東西誤差があった。つまり今回のケースでは、
みずがめ座α星付近で起こった部分月食が、
『みずがめ座ε星付近で起こる』としたとい
う内容の、位置予想違いのミスが有った”と
の旨を西暦1031年7月15日の部分月食
について、その翌日日記に書いている。
 ちなみに宣明暦等の陰陽暦では今の太陽暦
とは異なり、同じ月日で地球の影が±15°、
年により東西にズレる。が、当時の春分点は、
うお座の紐の結び目の赤経現1時付近にあり、
11世紀には、陰陽暦7月15日に、西暦
2000年分点で赤経21時付近のみずかめ
座ε星や、やぎ座θ星付近方向に、地球の影
は伸びない。なお当時の陰陽暦7月15日は、
地球の遠日点通過後1/4年に近いが、その
均時差(軌道楕円項)の影響は角度で約2°、
時角で8分程度後退の程度だ。藤原実資も
天文道師の安倍時親(3代目当主で兄)等も、
宿曜師等の、この計算凡ミスには、さぞや、
あきれた事だろう。
 さすがに当時天動説だった西洋天文学の国
の馬依澤は、今述べた内容は、何がどうなっ
ているのか、図に描いて説明できるくらいに
理解しているだろうから、日本の暦担当者の
ようなミスは無かっただろう。すなわち、や
りかたは中国王朝流を、単に押し付けられて
いるとしても、イスラム教徒の天文学者の方
が、具体的な仕事の仕方で日本人や中国人よ
りも、たぶんに信頼感が有ったので、雇われ
たという事かもしれない。
 なお数学については、アル=バッターニー
の著書以降、三角関数を中国や日本でも使う
ようになったという話は聞かない。元代より
前の中国では、円周は相変わらず、恒星年の
日数だったはずである。イスラムやインドの、
0も有る数学も、中国では生かされなかった。
 ただし北宋宮廷内で、イスラム系の天文学
者が優待される傾向はその後も続き、馬依澤
の子孫はその後代々、北宋の国立天文台に、
雇われ続けたらしい。
 以上は天文学と数学だが、薬学や麻酔の技
術がイスラムから東洋に輸入された。造船技
術も、中国宋朝はイスラムから、多くを学ん
だという。
 よって中国シャンチーが成立した頃の中国
に、イスラム科学優位の世論が強かった事は、

ほぼ確か

だと考えられよう。(2020/01/24)

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ペルセウス座流星群の古記録は都合の良い時(長さん)

以前、流星雨として著名な、しし座流星群
について、陰陽道師が広報を積極的にした
との話をした。特赦等の政策に、寄与した
実績を作るためという事だった。その際、
流星雨が、テンペル=タトル彗星起源かど
うか、陰陽師には意識されていないとした。
だから、この時代の他の流星雨もあわせて
チェックする必要がある。回答を書くと、
東アジアで平安後期に観測された流星雨は、

しし座流星雨と、西暦1007年のペルセ
ウス座流星雨、それに並の出現とみられる、
西暦989年のペルセウス座流星群と、日
本の古代に記録の無い、こと座流星群の、
計4種

だけだったようである。結論から書いてし
まうと、

一条天皇の藤原摂関びいきの贅沢三昧政治
が、院政期~平安末期に批判され、西暦
1007年のペルセウス座流星雨と、西暦
989年のハレー彗星+ペルセウス座流星
群の記録で、更に引き立てられている

らしい。では、説明を開始する。
 回答に示したが、平安時代後期は、流星
雨はしし座流星雨の3回と、ペルセウス座
流星雨の1回、並のペルセウス座流星群の
記録の1回の5回が日本の記録である。
ペルセウス座流星群・雨の西暦989年と
西暦1007年の出現は、誠文堂新光社、
西暦1974年の流星観測ガイドブックの
中で、長谷川一郎氏の、”流星の古記録”
に出ている。
 しし座流星雨(1002年)と、今回示
したペルセウス座流星雨(1007年)、
ペルセウス座流星群(並み、989年)は、

全部、一条天皇の時代である。

だから、流星雨は藤原摂関政治のやり方を
天が批判しているように見えるという考え
方と矛盾していない。
 残念ながら、流星観測ガイドブックで
長谷川一郎氏は、ペルセウス座流星雨・群
について元史料が何なのかを示して居ない。

しかし、しし座流星雨以外のケースが少な
いのでペルセウス座流星群の並出現を除き

平安時代後期の陰陽師、例えば安倍家2代
目、安倍晴明の次男の安倍吉昌が観測した、
西暦1007年のペルセウス座流星雨を、
5代目泰長等が、しし座流星雨の1035
年等と共に、盛んに宣伝していると見ても、
見なくても結論はほぼ動かない。989年
の並出現については、隠れたその他の並出
現について議論する必要が有り、989年
は出したが、その他はどうしたのか区別が
必要だ。
 ちなみに、西暦1007年のペルセウス
座流星雨は、西暦1980年の準流星雨と、
雰囲気が似ている。1~2時間程度の、立
ち上がりでは無くて、放射点(輻射点)が
上昇してから夜明けまで、λ(1950年)
で135°の日に、1007年のケースは
概ね多かったのである。1007年の並ペ
ルセウス座流星群は、同時にかぶって出た
が、数倍以上の雨流星で隠されたのである。
 そこで一応、西暦1007年に、

ペルセウス座流星雨が現われた原因

を本ブログも天文学的に、解説してみる。
これはずばり、木星と土星のダブル引力に
よる、西暦1862年、1921年、
1980年系列の類の、分布変化によるも
のである。つまり、
木星の公転周期は11.862年、
土星の公転周期は29.532年、
であるが、木星の公転周期の5倍と、土星
の公転周期の2倍は59年に近い。
1980年の流星雨59年前の1921年、
その59年前の1862年に流星雨になる
のは、火星と地球の間にペルセウス座流星
雨帯が突き刺しているのだが、普段は見え
ない。しかし木星と土星が共同で引力を及
ぼすと、一時的に、内側に分布チューブが
ネジレ込んで、地球に濃い流星の塵のチュー
ブが接触し、問題のその年のペルセウス座
流星群の、極大日ちょっと前くらいだけに
流星雨になるのである。普段の、
λ1950年は、今は139°位であり、
西暦1007年にも余り動かない。
西暦2007年のペルセウス座流星雨はλ=
135°とされているのである。
 なお、この説明は1990年の頃私も良
くしたが、信じてもらえない事が多かった。
実は西暦1862年と1980年について
は、母天体のスイフト=タトル彗星が近い
効果が、これにプラスされるため、議論が
複雑化し混乱したのである。後に東京都の、
府中天文同好会の怪長氏が、表計算ソフト
のエクセルで計算して、私の言うのが正し
いと、言ってくれた記憶がある。
 蛇足だが、来22世紀初頭から、この状況
は、更に少しずつ変わる。このような挙動が
もし、平安時代末に理解できるとすれば、
理解出来る人間は、神仏など、ものとも
しない”剛の者”だけだっただろう。
 試しに1862-1007は855.0
だから木星の公転周期に72、土星の公転
周期に29を掛けると、
11.862×72≒854.1
29.532×29≒856.4
で近いので、ほぼ間違いないと見られる。
この流星雨は、スイフト=タトル彗星が、
近日点に回帰しておらず、太陽や地球から
母天体が遠くても、起こるものである。だ
から、

西暦1007年の記載は、ペルセウス座
流星群に関する、西暦1921年等の型の
流星雨に、ほぼ間違いあるまい。

 それに対して、西暦989年の記載は、
単なるペルセウス座流星群の平年出現だと、
かなり疑われる。
その後ただちに、改元の有った年だそうで
ある。永延の改元の理由も、長谷川一郎氏
は言及しなかったが、最近ではwebによ
ると、以前に述べた”ハレー彗星出現”と
されるそうである。恐らくこの、

西暦989年のペルセウス座流星群の観測
は、陰陽師の説を補強するためのオマケ

だろう。
 なお次の永祚の改元の理由は同じくweb
によると、台風によるものとの事である。
 私にはハレー彗星のオマケだと、はっき
り証明できないが、つまりペルセウス座
流星群は、西暦989年に限らず、その程
度に毎年出てるはずなのに、

この989年の出現だけ、妙に”噂が後代
まで残った”

という事実があるという事である。なお、
安倍家の989年時点での当主は、

言うまでも無く、初代の安部晴明

である。2代目の安倍吉昌は、駆け出しの
頃か。
 ようするに陰陽道の安倍家の、たとえば
安倍晴明は、ペルセウス座流星群が、騒げ
ば話題になる程度に、毎年出ている事は知っ
ていたが、普段は

大概は手柄にならないので、隠匿

していた。そして、ペルセウス座流星群に
ついては、改元等の実績に結びつきそうな
ときとか藤原摂関政治が批判されたときに、

小出しにして、子孫に家元の名誉になる改
元の政策に関与したとの話題を、提供する
等していた

疑いもあるという事かもしれない。
 確かに、西暦2007年にペルセウス座
流星雨はたまたま、本物の流星雨となり、

こちらは2代目の安倍吉昌が記録、

かつ、平安末期には、一条天皇時代の
藤原摂関政治が批判された等した頃公知
になったので、史料が残る程度に知られる
事になったが。西暦

989年のペルセウス座流星群の広報は、
一条天皇時代に、怪現象が多かった事を
証拠立てる為の、安倍晴明、泰長、泰親
等の情報操作が、著名化要因

の疑いもあると私は疑うという事である。
つまり事実としては、

並の年のペルセウス座流星群の出現情報は、
平安時代後期に、情報操作に利用された

とも疑われるという事である。恐らく他人
が流星群の観測技術の匠になる事によって、
陰陽道の職を、後発他者に取られるという
意味ではたぶんあるまい。よってこの場合、
狙いは、流星雨や大彗星の出現の、社会的
波及効果の強化策あろう。つまり989年
のペルセウス座流星群(並み)は、

”一条天皇とその一派はサロンを作って、
政治そっちのけ”の悪評世論を、ハレー
彗星に加えてペルセウス座流星群もを付け
加える事で、更に自説補強させる事を、狙っ
たための利用という事

であろう。
 なお、日本では記録に残らなかったが、
鳥羽院政の時代には、こと座流星群が、
定常的に春に出ていた。これについては
特に利用価値が無かったのか。こと座
流星群の定常的出現について、こちらは
日本では完全に無視隠匿されたようである。
 つまり経験的に、毎年1週間程度は、
はっきり目立つ感じで出るペルセウス座
流星群が存在するという事実は、33年毎
に固まって1~2回一晩だけ出るという、
しし座流星雨と違って、より発見は容易だっ
た。そのため、

平安時代後期に、安倍晴明等によって密か
に発見され、普段は情報プールされて隠匿
され、使えるときに使ったのかもしれない

と1点だけだが史料から疑われる。そもそ
も、西暦989年ペースで記録が残ったら、
ペルセウス座流星群の古記録は、梅雨が長
引く事が無いなら、毎年になるわけで、
1世紀に80~90件のペースになるはず
だからである。そのような事実は無いから、
隠し方が、月星の会合のパターンとは違う。
知っていても、極端な怪奇現象ではなかっ
たので、当時はスルーされる事が多かった
のだろう。利用して得な場合だけ、繰り返
すと、論の補強として使ったということで
ある。ただし、

利用方法が仲間内で論じられても、得が無
いと考えられて、天文学的法則性は特に、
追求されなかった

のであろう。流星雨のチューブは、古くなっ
た、別の発生年の分は、起源が同じスイフ
ト=タトル彗星放出であっても、流星雨の
部分よりも太く広がって普通のペルセウス
座流星群を、作り出して毎年出るのである。
 つまり、しし座流星雨の顕著な怪現象性
は、ペルセウス座流星群という、定常的に
夏等に出現する流星群の出現情報を、旨く
陰陽道師が小出しにして情報操作する事に
よって、天命の雰囲気を当時、さらに醸し
出されていた。その結果、
しし座流星雨の自然科学としての解明の道
は、むしろ、ペルセウス座流星群の存在に
よって、遠のいてしまったという事、なの
かもしれないと私は考える。(2020/01/23)

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キトラ古墳天文図の黄道、囲碁伝来は7世紀の証拠(長さん)

一般には隋王朝の西暦600年頃の国史記載
の倭国伝により、その頃日本で大いに囲碁が
盛んであったと考えられている。今回は、
星座図の遺跡として著名な、キトラ古墳の
星座絵に書き込まれた黄道の書き方から、日
本に17路碁盤時代の囲碁は無いと結論する。
 では論を開始する。キトラ古墳には、中国
星座が描かれているし、赤道も黄道も記入し
てあるとされている。このうち、赤道は西暦
700年分点程度のようである。しし座と
かに座が少し北、みずがめ座とやぎ座が少し
南に今(21世紀)より沈んでいる。問題は
黄道であり、

正しい黄道を赤道との角度、約23.4°を
変えないように注意しながら、約60°東に
移動させている

と見られている。つまり、

完全な架空の移動

である。原因は最初に答えを言ってしまうと、

歳差で春分点がズレる事を、不正確に絵描き
が理解しているから

である。本当は、言うまでも無く、黄道は、
ほとんどそのままで、

赤道の方が移動する

のである。絵描きのこの超現実的な絵を作成
した動機も私の意見を最初に書いてしまおう。

書いた太陽が、衰えつつうる秋の位置なのを、
ゴマカス為

である。キトラ古墳の星座絵を星座早見盤の
状態に準えると、書いた絵の星座早見盤状態
は、本来なら

春の宵の、観測者が南を向いた星座の姿

である。
 この形で四神を付けると、中国星座の東方、
南方、西方、北方の7座等という区分は、旨
く割り当てられるようになっているようだ。
所が、そうすると、宵であるから、太陽は西
に沈んだ所である。これは日本が、日出の国
のはずだからマズイ。そこで、しかたなく、
太陽を東(左側)へ西(右側)から移動した。
だがこれだと、秋深まる頃の、明け方の星座
の姿になってしまった。日本没落の図である。

そこで早見盤図に盛んな日本の感覚を出す為、
画面の右のおうし座の南、オリオン座π
1~6星付近に春分点が来るように、黄道を
架空移動した。

ので、キトラ古墳の星座絵の黄道の様子になっ
たのである。しかしながら、当然の事ながら、
西暦700年頃の春分点は、うお座の真ん中
位であり、おうし座とは60°ズレている。
なお秋の星座が、広めに延びて歪んでいて、
秋分点の方は80°位東にズレているようだ。
何れにしても、

そもそも、赤道を移動して合わせていないの
で、黄道がデタラメになっただけ

なのであった。キトラ古墳は、高貴な人間か、
暦編纂に絡んだ高官の墓であろうから、絵描
きが

知っててやったら、首が飛んだだろう。

しかし、絵描きは歳差で、天の赤道と黄道の
交点が移動する事を知っていても、移動する
のは黄道ではなくて主に赤道の方で有る事を、

本当に知らなかった

ので、こんな事が出来たのであろう。知らな
いと言うのは、恐ろしい事である。そして
太陽が、へび座(頭部)へ本来の、さそり座
の頭から移動し、盛夏、グレゴリオ暦8月の
頃のような、奇妙な天体図になったようであ
る。その結果、太陽の位置から月日を割り出
すという見方で見ると、太陽は立秋の、夏の
盛りの、日の出の位置に在るという

美術的な賛美性では、まあまあの構図

になっているとの、絵描きなりの主張らしい。
 ここで大切な事は、
囲碁が、こぐま座アルファー星の赤緯の85°
越えで、17路から19路になったという事
が、仮に西暦700年頃時点で著名だったら、

赤道をそのままにして、黄道を移動するとい
う間違った発想がそもそも出来ないと言う事

である。つまり、
囲碁の碁盤が17路から19路になったとい
う騒ぎは、中国の隋~唐代に、中国と周辺の
アジア大陸でだけの騒ぎであり、

日本へは、その時点で囲碁文化が、到達して
居なかったため、日本人にはその記憶が無い

と推定できるという事である。本ブログでは、
騒ぎは、東晋~唐代程度にあったと考えてい
る。つまり、

西暦600年の、隋王朝の国史に書かれた、
倭人に関する、囲碁打ちと”刺青”に関して、
日本の事では無く西南夷の文化を指している

と、かなり疑われるという事である。囲碁は
日本人は、やっと知った程度で、隋の国史が
成立した時点で、

盛んとまでは、行かなかったと疑われる

と私はキトラの星座絵が示唆していると思う。
 当然日本の暦担当者には、黄道歳差に比べ
て、赤道歳差の方が大きい事は常識で、天の
北極が移動する事も当たり前だったのだろう。
しかし日本では、

囲碁文化の当事者である、絵描きや一般大衆
にまで中国のようには広がっては居なかった。

だからこそ、キトラ古墳の天文図の絵描きは、

一般人より少し、天文に詳しいから担当した
のであろうが、歳差の理解を間違えた

のではなかろうか。
 よって以上の事から、キトラ古墳の星座絵
の奇妙な黄道線の移動は、日本人が囲碁盤の
路数の調整問題において、囲碁の伝来は従来
定説より、少し

遅い西暦600年を、少し過ぎたところである為、

もめた記憶を持つ当事者では、無かった事を、
ぼんやりとだが示唆している。以上のように、
私は考えるのである。(2020/01/22)

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