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なぜ唐代伝奇集くらやみ碁、日本王子は短手(長さん)

東洋文庫16唐代伝奇集に、囲碁話が2編
あり、どちらも唐代9世紀の成立とみられる。
今回は、表題のように、

9世紀中国の囲碁は、今の囲碁と同じなのか

を問題にする。理由はどちらも物語の中で、
34手~36手で勝負が付いたとの旨が記載
され、たまたま大差の勝負なら別として、
200手以上掛かる、今の囲碁に比べて、
余りにも手数が少ないからである。回答から
書く。

少なくとも今の日本の囲碁に近いものである。

ただし、死活の判定で今より、慣用的にスコ
アが決まるケースが更に多く、そもそも少な
い手数で、

最終スコアが判断ができる事が、唐代の当時、
名人の条件とみられていた

と推定される。
 では論を開始する。
 少なくとも、日本の王子を読む限り、唐代
には、中国人一般の常識としては、日本と中
国とで同じ囲碁が打たれていたと認識された
と推定できる。

日本の皇太子の持参した碁盤碁石等で、勝負
をしているように、敢えて記載しているから

である。なお、この話が怪奇なのは、北アメ
リカ大陸のカリフォルニア半島を当時の中国
人も、日本人も知っていて、そこの白と黒の
石が取れる池(?)から、碁石を日本で生産
しているという、千里眼話が入っているから
のようである。
 次に、くらやみの碁と日本の王子で、それ
ぞれの囲碁が、どのような結果であったかを、
再確認する。
 ”くらやみの碁”は、821年~848年
の間の河南省にての成立で、薛用弱が作者で
あり集異記に載っている。この物語上の囲碁
は、36手で先手の9目勝ちだとされ、”

9目勝ちになる筋道を考えても、誰にも判ら
なかった”との旨が、物語上記載されている。

 4手ほど、途中の着手が記載されている
ようだが、原文の中国語を判断しないと、
よく判らないようだ。前野直彬氏の訳を読む
限り、ヘリ近くに着手していないが、私には
意味はつかめない。ともあれ。
 日本の今の碁と同じく、合意により終了し、
大差で先手が勝ったが、

名人級(超人級)には、何目差かまで読めた

との意味のようだと、囲碁を打たない私には
読み取れるようだ。少なくともだから当時の
中国の囲碁も、今の日本のように、双方の合
意により終局していたのだろう。ただし、

スコア判断が、今の日本棋院のルールより
更に場合訳けの規則が多く複雑で、目差を
判定できる事自体が名人

だったのであろう。しかも、架空の物語であ
るから、通常なら3桁になるはずの、必要
着手数を36手まで減らして、空想上の棋士
の棋力が絶大で、遠い先の結果が読めるとい
う点を強調して、物語り上の効果を醸し出し
ているという事のようだ。
 次いで、日本の王子は、876年~886
年程度の頃の成立で、作者は陝西省の蘇鶚。
杜陽雑編に載っている。
 34手で後手の大差の勝ちとの話になって
いる。34手目は絶妙手だとの旨が、記載さ
れているようだ。
 先手に読み抜けが有ったようには読めない
ので、小型囲碁盤の囲碁も連想されるが、
この一局が、これほどの短手数になった理由
は、余りはっきりしない話である。ある
いは互先置石制だが、置く石の数が2×2で
はなく、韓国型でもっと多いのかもしれない。
今の所、

碁盤は日本のだから19路で、投げた先手の、
結果読みのそれなりの力をも強調していると
取り、勝負が付くまでの着手数が、その為に
少ないと言う解釈を仮に取る

事に本ブログに於いては致したい。
 以上の2つの物語の結果から、情報が少な
くはっきりしないが、

唐代当時の中国の囲碁は、今の囲碁に近い
道具とルールだが、終局が合意制であり、
スコア判定が、今ほど厳密化されていないと
いう点で、今とは少し違う程度の物

という論を、否定できるだけの情報が、唐代
伝奇集に、特にあるわけでもなさそうだとい
う結論になると考える。
 少なくとも、スコア判定と言う、今の囲碁
内部にもフレのある部分でさえも、今とかな
り異なり、目数の差ではなくて盤上に置ける
石数差判定になるという程度の、

大きな差が見え始めるのは、遅くとも中国の
南北朝時代以前なのではないか。

以上のように、この時代の囲碁の描写の状況
から見て、ざっとだが推定されるように、私
には思われた。

囲碁は歴史が長いだけに、将棋より格段に、
ルール史の推定は難しそう

である。(2020/02/29)

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なぜシッキム囲碁盤は19路にならなかったのか(長さん)

チベットとインドの境の小国シッキム国では、
その国の伝統的な囲碁ゲームであるミマンが、
17路盤で打たれていると聞く。星の位置に
最大の特徴があり、3線目であり、インドの
現在グローバルに使用されている弧度法が、
中国式円周分割方法と異なっていた為と、
本ブログでは以前説明した。ところで、19
路盤は本ブログによると、こぐま座アルファー
星の歳差による、赤緯85°線越えで、赤緯
90°線が、少なくとも五代十国時代までに
は絶対に必要になるための、実際には隋唐代
の2線追加の結果との事であった。
 囲碁盤は中国で前漢の時代までに17路方
式が確立し、それは半天恒星図が元の意味だっ
たと考えられる。碁盤は星図を模したもので、
着目する天体位置を把握する技術と、中国の
星座方式下では考えられたために、囲碁の棋
士は準天文博士の地位が、中国歴代王朝によっ
て、与えられて保護される構造になっていた。
そのため、それを証拠付けているメルカトル
図法の星図から、碁盤の路数が乖離する事が、
棋士の側で能動的に避けられたと、本ブログ
では説明したのである。
 以上の事情は、吐蕃国でもシッキム国でも
差が無いはずなのに、なぜシッキム国では、
中国の隋唐代に起こった、囲碁盤線数の変換
が起こらなかったのかを今回は論題とする。
 最初に本ブログの見解を書く。

弧度法の赤緯90°は点なのに、線と言い包
む論理が、インド文化圏内のシッキム国では、
理解できないためである。

では、以下に説明を開始する。
 本ブログでは、古代

中国人は、囲碁盤の19線への転換の理屈が
判らない周辺民族は、迫害するのではなくて
放置する

と予測する。web上では、中国とシッキム
が交流すると

無理やり従わされる論が結構強いと認識する
が、本ブログはこれに反対する。

今述べたような中国式が理解不能だったよう
なケースは、古代中国人に言わせると、
”未開の周辺民族は、自分達よりレベルが劣
るので、理屈が判らないのである。なので、
中国人の自分達とは、利害上無関係ない事柄
なら、そのまま捨てて置けばよい。”と考え
るはずだと私は思う。繰り返すと中国人に限
らず、

利害に関係ないのに、文物習慣について苦労
して実力で、他民族を合わさせるはずは無い

と私は思うのである。だからweb上では有
力な、交流が有るなら今述べた19路盤の使
用を、周辺少数民族にも強要させる論等が、
もし有るとすれば、私はそれには反対する。

他方、シッキム国人には中国人は理解できた、
19路盤の理屈が理解できない理由が有った

という事があるとみる。それはズバリ、

弧度法では、天の極が完全に点の90°

であるからだと考える。それに対し、中国式
円弧の角度の表現方法では、天の極点は、
約91°.31408になり、90中国°は、
弧度法の約88°.7048であって、

天の極からの離角が、1°.2952程度
有った

とみられる。つまり、赤緯±90中国°は、

古代中国式では小さな円になる

のである。だから、中国弧度だと赤緯±90
中国°線は、無限に引き伸ばされた訳ではな
くなるのである。ところがシッキム国のよう
に、インド・イスラム式の、現在我々が使用
している弧度法だと、赤緯90°は完全に点
であり、メルカトル図法に直すと、点を線分
に無限に引き伸ばした事になるのである。
他方、

インドに近いシッキムでは、点は線だとい
う式の”思想”が、日本人などとは違い、
信じ込ませるのは、かなり困難だった

と考えられる。少なくともイスラム系カズニ
国に攻撃されるまで、”馬は惑星だ”という、
将棋纂図部類抄式の”思想”も、インド文化
圏には無かったと、本ブログでは推定してい
る位なのである。そのため、メルカトル図法
的な19路盤の”90°線”の意味が、今の
日本人とは異なり、シッキムでは承服できな
かったと考えられる。ので囲碁盤を19路盤
にしなかったに、違いないと私は考えるので
ある。
 なお宣明暦の使用が長かった、わが国では
当時、恒星年が、真値と僅かにズレていたの
かも知れないが。天の極は±91°.31408
の中国式に近い、何れにしても±90°より、
僅かに大きい方式を、取っていたとみられる。
 さてそもそも中国では、インド・イスラム
弧度法を使う気が余り無かったので、異国の
ゲームの盤形式は、自分達に完全に無関係と
見て、同じ物の強要には、極消極的だったの
ではなかろうか。
 以上の事から、チベット=吐蕃国と、ほぼ
同じ頃に、円周分割に関して弧度法が導入さ
れたとみられるシッキム国では、60°に円
周の1/6という意味があると見ていたため、
聖目の位置を、3線目の赤緯±60°線に4
線目から変えると共に、赤緯±90°線(弧
度法)の概念が、点を無限に引き伸ばして線
分にするという発想が、

抽象的で理解出来なかったので採用せず、
そのまま17路囲碁盤を使うようになった

と考えても、少なくとも矛盾は無いと考える。
 よって”中国の影響から弧立していたので、
今に至るまで17路盤だった”という事情は、
古代の中国や昔の日本と違い、シッキム国の
発想は、むしろ今の我々の弧度法に近かった
ので、中国19路の転換ができずに、19路
囲碁盤にしなかったという事である。なので、
中国・シッキム間の交流は、囲碁の伝播の時
代以降も有ったという立場でも、17路盤の
存在が説明できるため、太古の記録説には

大きな抜け穴が有る

のではないか。だから冒頭で結論したように、
実際には北インド等が囲碁文化の発祥の地の
可能性は残るものの。碁盤の構造が、その痕
跡の証拠とまでは確定しては、言えないので
はないか。以上のような疑いを、本ブログは
持っているという事なのである。(2020/02/28)

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イガラシ=マナブ氏検定サイトの中将棋・大将棋(長さん)

東京都の渋谷区に有るとみられる、スマートホン
のソフトウェアー製作会社のサイトに、
ケンテイゴッコというページがあり、作者は不明
だが、表題の中将棋・大将棋の検定の項目があっ
たので、最近チェックした。
 回答してみたら、次のページのようになった。

https://kentei.cc/t/14pnow/

更に以下のような画像の、認定表が入手できた。

検定.gif

内容についてだが、後期大将棋の成りが、現代版
になっている。この点は

当然だろう。

しかし答えを1つにしてしまう事自体に、少し問
題が有るようだ。
中将棋に成りを準拠するのは現代流だが袖小駒を、

金将成りと決め付けている

からである。悪狼、嗔猪、飛”竜”、猛牛、猫刃
は”現代流”の後期大将棋では、
”不成り、または金成りとも”ではないかと私は
疑っている。
 この点に関して本ブログでは、日本将棋の桂馬
を後期大将棋に転用したかった為そうなったと考
えた。
 つまり明治時代に、”勢い”で、上記の中段袖
小駒も、金将成りとしたという経緯だろうと過去、
解釈してきた。
 それが徹底しないで、不成りも残っているのは、
”動物駒は後退も横動きも出来ず、盤奥で固まる
事が無ければ、本来は成らない”という記憶が、
今も淡く、残存する為だと、個人的には見ている。
何れにしても21世紀

現時点で、どうなっているのかを再認識できる

ので、答えさせられた事自体、良いアイディアの
サイトだと、関心させられた。(2020/02/27)

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小澤・増田PDFの平安時代囲碁大会記録リスト(長さん)

今回は、以前に引き続いて、大坂商業大学
アミューズメント産業研究所の小澤一徳氏・
増田忠彦氏による、日本古代の囲碁史に
関わる文献リスト(雑誌名不明、277ペー
ジから315ページ)を紹介する。今回は、
集計項目として、同じ平安時代だが、日記
等の記録ではなく、今で言う囲碁大会記録
に相当するとみられる、
”囲碁の賭物・碁手銭・儀式の碁盤”の
集計結果を記載する。このリストは上記
PDF文献の、300ページから310ペー
ジに載っているようである。
 結果から書くと、以下のようになり、

西暦1050年~1099年は、やはり少
ない。

800年~849年:5件
850年~900年:3件
900年~949年:24件
950年~999年:14件
1000年~1049年:15件
1050年~1099年:3件
1100年~1139年:8件
1140年~1149年:記載無し
 なお1140年以降は、政情不安により、
大きな囲碁大会が、無くなったのであろう。
1140年以降は1件も無いようだ。
 なお、1050~1099年の3件は、
1050年ちょうどのイベント1件と、
天皇家儀式の文献集が、完成したため発生
したとみられる記録1件、

白河天皇が主催した囲碁大会(1087年
宣明暦2月5日)の記事の1件

の、合計3件である。また、1100年か
ら、1139年の方にカウントされたが、

大江匡房の主催した大会が1件、大会の運
営方法に関する大江匡房の考察記事1件が、

おなじ、1100年ちょうどに有るそうだ。
 以上の事から、ひょっとして、その時代
の藤原長者の藤原師通は、囲碁を打たなかっ
たのかもしれないが。
院政に関係の深い、白河上皇と大江匡房は、
恐らく実際に存在した西暦1050年~
1100年頃の囲碁の低迷期に、確かに
囲碁復活に尽力したようだと判る。
 内裏内ではこの2人位しか、囲碁に熱心
では、なかったようだ。なお大江匡房は、
囲碁の怪奇話が出てくる、
吉備真備の入唐伝説でも、紹介者として
よく知られている。
 また本ブログでは従来より、

いわゆる平安小将棋(標準型の9升目タイ
プ)は白河天皇と一例大江匡房の作である

と見ている。
 他方、ゲームで名人を決めるというカテ
ゴリーのボードゲーム総体が、集計から見
て天体の位置観測からの、社会の遠ざかり
により囲碁が衰退し、その影響で、その類
そのものが、11世紀後半宮中では

白河天皇と大江匡房という、特定の人物だ
けの関心事になるまで、後退した可能性

が、どうやら有るようである。
 ただし言うまでもなく少なくとも興福寺
では、小将棋でかつ、本ブログの推定では
8升目型がたいへん盛んだったとみる。そ
して他方、摂関藤原氏自体には、名人位を
争うというパターンの、ボードゲーム自体
が低調なため、一時期将棋も誰にも指され
なかった疑いがある。そのため当時の将棋
界は、ひょっとすると、

朝廷と興福寺等の博打師との間の、小将棋
の標準化の主導権争い

の様相を、あるいは本当に、呈していたの
かもしれないと、疑われるようになって来
たという事になるようだ。(2020/02/26)

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小澤・増田PDF論文に宮廷囲碁記録リスト(長さん)

以前、西暦1094年12月11日の中右記に、
白河天皇からの伝言として、大江匡房から、
最近囲碁が打たれなくなったのを嘆くとの旨の
記事があると述べた。その後、webも調査した
所、”月次祭の食事会の後で、宮廷で囲碁会が行
われるしきたりが、途絶えた”との旨である事が
判った。ともあれ、日本の囲碁が西暦1000
年から1140年にかけて、後退した証拠らしい
と、本ブログでは論じた。ところで、論文なのだ
が、掲載されている雑誌が不明のPDFが、
web上にあり、

日本の宮廷での、皇族や貴族が囲碁を打った記録
のリストが、載っている。

論文の題名は”日本古代の囲碁史に関する文献
資料リスト”となっており著者は、小澤一徳・
増田忠彦(大阪商業大学アミューズメント産業
研究所)となっている。雑誌や号数は不明だが、
277ページから315ページまでであり、

”宮中及び貴族の囲碁話を記す資料”西暦833
~1067年は、その294ページから299
ページにまで載っている。

なおファイルは、
学術機関リポジトリデータベース(IRDB)
中に有るようだが、検索キーワードで、
”日本古代の囲碁史に関する文献資料リスト”
と入れた方が早い。ただちにダウンロードする
サイトに飛ぶようだ。
 所で、その論文の、
”宮中及び貴族の囲碁話を記す資料”で、だいた
い50年単位で記事数を集計すると、次のように
なる。ただし、1094年の中右記の記載は、
囲碁をやらなくなったという内容なので、この
記事だけカウントしないことにした。
800年~849年:6件
850年~900年:3件
900年~949年:24件
950年~999年:6件
1000年~1039年:6件
1040年~1049年:0件
1050年~1099年:0件
1100年~1139年:5件
1140年~1149年:3件
 最後の方は、少し細かくしてみたが、

西暦1040年から1100年までが0件である。

傾向としては、以前の認識でざっとは合っていた。
 ただし、1104年2月16日に、庚申の碁会
の記事が為房卿記にあるので、1100年から
1140年までについては、囲碁が本当に低調だっ
たかどうか、少し怪しい事が判ってきた。
 囲碁が好調だと、平安大将棋が持たないと見て
いる本ブログにとっては、今述べた点に関する
事実認識は、とても大切だと見なしている。
(2020/02/25)

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西暦1018年藤原隆家子より藤原道長へ玉帯返礼(長さん)

本ブログでは早くから、将棋が伝来したとみる
西暦1015年当時、藤原隆家等は将棋の玉将
を藤原長者の藤原道長に準えていると見ている。
これに関して証拠を最近発見したので紹介する。
 藤原隆家の嫡男の、藤原経輔が、自身の元服
の儀のときに、藤原道長に貰った、馬の返礼と
して、

玉帯一柄と釼二腰を贈呈した

と、御堂関白記の寛仁2年(西暦1018年
~19年)12月6日に書かれているようだ。
 では、論を開始する。
本ブログでは、伝来時点での原始平安小将棋は、

最下段が非対称配列で、将駒の配列が藤原摂関
期の集団指導体制を表している

とみて来た。香車、桂馬、銀将、玉将、金将、
銀将、桂馬、香車となっていて金一枚であって、
8升目タイプであるという推定である。最も大
事な駒は、今と変わらず玉将であり、本ブログ
では、

西暦1015年に黄金の後一条天皇用原始平安
小将棋具(オモチャ)の、購入責任者となった
藤原隆家は、博多の写経所の僧等が発明した、
双玉タイプの五角形駒を使用して、それ以来、
刀伊の入寇まで断続的に、将棋を指していたと
推定

しているのである。息子の藤原経輔が、それを
知っていたのは自明であるし、そのような状況
であると、にすれば、

玉将を西暦1018年暮れに藤原道長に準えた
から、返礼は武具と”玉帯”だったという訳

だと考えられる。
 なお真偽は私には判断できないが、平安中期、
西暦1024~28年頃成立とされている
”栄花物語”正編の、第12巻の前の方に、
西暦1014年年末の”藤原隆家の太宰府帥
着任決定に関して、藤原道長が好きだった
囲碁と盤双六の相手を、藤原隆家が、常日頃
から丁寧に対応して居た為に、比較的スムーズ
に確定した”との旨の記載が有るようである。
 なお、御堂関白記の1006年8月19日と、
1012年9月10日に、囲碁については指す
趣味があると取れる記載があり、更には
藤原行成の権記の1002年8月13日に、
藤原道長が、実際に囲碁を指した旨の記事が、
あるようである。藤原隆家との関連についての
確たる証拠は、今の所私は持たない。
 話を西暦1018~9年の12月に戻すと。

ようするに返礼品は2種類共に武具であるし、
付けている人物を玉将とするという発想は、
将棋の駒の準えとしてドンピシャ

なのではないか。道長の贈った物品も、馬であ
るから、武具にするという返礼品を決める動機
としても、自然なものであろう。
 今まで全く係わりが不明だった、
西暦1010年代の藤原道長と将棋との係わり
に関し、どうやら一筋の光が差し込んできたよ
うだ。(2020/02/24)

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なぜマークルックとシャッツロンの兵駒は貝と魚か(長さん)

 各国で主に指されている将棋・象棋駒の、
固有の駒名称について、以下に考える。
現在行き渡っている説は、木村義徳氏の、
”余り有益な情報を含まない、その地に固有
のそれだけのもの”説である。本ブログは、
日本将棋の

金将は”南詔国建国の英雄”の意味が元々

であるという説をとるから、木村義徳説には

基本的に反対

である。
 今回は、一般にはたまたま”それだけのも
の”説の、良い例とされているように、
私に感じられる、タイマークルックの貝、
カンボジアのシャッツロンの魚の、発生理由
について考える。
 回答から書く。

特産品で貨幣への兌換効果が高い、代表的な
比較的小物のイメージで、両者は決定された

と、本ブログでは考える。では、以下に論を
進める。
 本ブログでは前に、タイのマークルックの
大臣駒と象駒の、いわゆる種や根の類への置
き換えは、

金将と銀将のダミー化

だとの旨述べた。貝が金将に成って喜ぶよう
では、上位座仏教徒とは言えないという批判
を、棋士が土地の高僧から浴びたための変更
だというのが、本ブログの見方である。
 以下のように、とりあえず仮定する。

タイとカンボジアでは、タイの方が中国雲南
に近いから、問題は先に発生して、表題のよ
うに兵が貝になったりした。

 カンボジアではタイと同様、上座部仏教だ
から、信者が銭の亡者というイメージでは、
大乗仏教との対抗上、都合が悪い事には、差
がなかったとみられる。ただし、国家体制が、
タイとカンボジアでは別だから、駒の名前を
すっかり真似はできなかったのであろう。
タイ族の難民も少なかったので、大臣駒は、
金将に変化せず、持ちこたえられたようだ。
 ところで話は前後するが、タイで兵駒が貝
になったのは、上記の金銀の消失とは少し矛
盾するが、小銭なら良いという意味での

中国の影響

だと私は思う。中国の北宋・南宋代に、シャ
ンチー駒は、穴を空けられて、貨幣に準えら
れた。これも、本ブログによれば、大理国の
影響であり、将棋駒は蓄財の象徴であったた
めと考えている。それを見てタイ人は、大臣
と象という兵器系を、農業産物系の名前に変
えたマークルックでは兵駒も、食材産物に変
えた方が、つりあいが取れると考えただろう。
 貝は、中国の小銭貨幣に繋がるし、貨幣へ
の兌換効果が高い、タイ南部の特産品とみら
れたのだろう。

そこで、兵は貝がちょうど良いとタイ人の棋
士総体が判断して、そうなった

のではないのだろうか。
 そこで、元に戻るが、カンボジアでは国家
体制が別なので、貝は使いたくなく、ただし、
同じ海洋特産品で、小魚の捕獲量が多かった。
ので、シャッツロンでは、貝に変えて、魚に
したように、私には推測される。

何れにしても、国単位で指されるほど流行っ
たゲームの場合、デタラメに特定の人間が
ゲーム駒名を決めても、国中で徹底されるよ
うには、私には思えない。

だから、以上のように木村説は、時と場合で
あり、特に、広域で行われているゲームの場
合は、

成立しない疑いが濃く、駒の名前はやはり議
論する上で、大切な情報を含むのではないか。

以上のように、今の所私は考えているという
訳である。(2020/02/23)

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契丹(遼王朝)でも囲碁は打たれた(長さん)

昨年2019年の11月21日のことであるが、
モンゴルにチェス文化が遅れたのは、北元まで、
全部囲碁文化圏内だったためだと述べた。
 しかし、突厥国→
ウイグル国→遼(=契丹)国→金王朝→
モンゴル帝国→北元国→オイラート国
と、カラコルム付近の、支配国家の推移を述べ
たときに、遼(=契丹)国の囲碁の証拠だけ
見当たらないと述べた。突厥国とウィグル国も、
著名な美人画がどちらの所属なかなのも、実は
謎ではある。遼代に囲碁が有った事については、
次のキーワードで検索hitするサイトの
PDFの208ページと223ページの2枚に、
碁盤の壁画が書いてある事が、さいきん判った。

”遼代壁画資料”

なおサイト名は、アクセスするとただちに、
PDFのダウンロードの可否が、指示される
パターンのwebサイトなので、私には良く判
らない。恐らくだが、徳島大学のサイト内の、
何処かにあるものとみられる。
コンテンツ名は、”徳島大学総合科学部 
人間社会文化研究 第14巻(2007)133-
231”の中の208ページと223ページの
2枚の壁画図だが、
論文の題名は”遼代壁画資料”、東潮氏著とな
っている。
 具体的な壁画名は、208ページの壁画図は

法庫葉茂台兼義墓(墓門右壁)

のようで、”考古1989-5より”とある。

223ページの壁画図は、

宣化下八里7号張文藻墓(通道門)

のようで、”文物1996-6”の注がある。
”碁遊庵”という囲碁史のサイトの次のurlで、
後者に関して”13路の碁盤”と書いてあるよう
だ。が碁盤の線が何本あるのかは、紹介した徳島
大学のpdfファイルを見ても、暗くて私には、
良く判らない。
 以下碁遊庵の、宣化下八里7号張文藻墓の説明
のあるサイト名は
エイチティティピー:
//goyukai.aquifer.jp/miscs/topics/topic05.html
である。ともあれ。
 徳島大学の紹介したpdfの本文中の説明から、
どちらも遼代の、囲碁盤の絵だとみられているよ
うである。
 なお、遼王朝で、シャンチーが指されたかどう
かは、依然として私には良く判らない。(2020/02/22)

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タイブリラムマークルッククン・コン駒はイスラム(長さん)

今回は、清水康二氏の2017明治大学学位
請求論文の、マークルックの史料に関して、
ブリラム駒はたいへん貴重であり、タイ族が
モンゴルに圧迫される前の、モン族・クメー
ル族が優勢の時期には、

マークルック駒は、
イスラム教諸国駒に似ていた事を示している

との旨を述べる。では、論を開始する。
 問題のブリラム駒は、清水論文に17個前
後、紹介されている。本ブログの主張を明確
にするため、典型的な以下の写真の、2個の
み問題にする。他の15個を加えても、矛盾
は発生しないと、本ブログでは考える。
 単刀直入に言うと。
以下はイスラムシャトランジの王の形に似た
駒だと、私は考える。

ブリラム君駒.gif

次に以下は、イスラムシャトランジの象の形
に似た駒だと、私は考える。

ブリラム根駒.gif

よって、これらの駒は残りの15枚も含めて、
タイのマークルックや、カンボジアの
シャッツロンの駒と言うよりは、
イスラムシャトランジや、インドネシアの
チャトルのゲーム駒の形に近いように思う。
 つまり、一例としてマークルックで言えば、
この駒の作られた時代には、タイの仏教にお
いて、仏塔という具体的造形物を崇拝する習
慣が、まだ完全には確立されていなかったた
めに、現在のマークルック駒のような仏塔型
のクン駒やコン駒にしなかったように見える。
次が本ブログ、独自の論だが、

仏教駒の要素は、ずばり中国の雲南省に居て、
大理国の仏教に溶け込んでいた、タイ族が、
この直後に持ち込んだもの

と考える。つまり、駒の形としてもイスラム
駒に、大理駒の要素を溶け込ませたのが、
今のタイのマークルック駒の姿であり、

タイのブリラム県の古マークルック駒は、
モンゴル帝国の圧迫により、タイ族が大量移
民する直前の、12世紀初から13世紀前半
のタイの駒だったので、イスラム駒の面影を
強く残している

と、私は考えるのである。(2020/02/21)

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1006年おおかみ座超新星。安倍吉昌宣伝は無い(長さん)

以前に、朝廷内の天文道や暦道担当は、西暦
1000年から西暦1140年頃まで業務の
世襲化を狙って、注目すべき天体の位置観測
情報を隠蔽し、京都市内等の世間に対し広報
を、あまりしなかったとの旨を、本ブログで
述べた。
 西暦1006年ユリウス暦(以下同)5月、
中国と、日本の安倍吉昌が発見し、著しい
現象となった、おおかみ座1006年超新星
も”西暦1200年過ぎに、藤原定家の日記
に現われるのが初見”という指摘を、少なく
とも本ブログでは過去にした。がこれは、
誤りだったというのが、今回の論である。
ようするに、ずっと後ではなくても、その時
代の

藤原道長の、御堂関白記にも書いてある

ようだ。しかし、安倍吉昌の報告内容(密奏)
のコピーが、道長の日記に書かれているので
はなく、曖昧である。

興福寺の僧の、京都への押しかけ強訴に関連
して、超新星についての勘文の内容が、御盆
の過ぎ頃にチェックされ、今後の対応が検討
された事(宣明暦:寛弘3年(西暦1006
年)7月13日)、

客星の件について、占い師に吉凶を、同年の
ユリウス暦8月満月後に判断させた事(宣明
暦:寛弘3年(西暦1006年)7月19日)。

以上の記載と、”しぶしぶ”だったようだが、

一条天皇に、仕事をさっさとするように催促
されたので、客星の出現が原因で決定された、
特赦の人選に、藤原道長がOKサインを出し
たという、同9月の記事
(宣明暦:寛弘3年(西暦1006年)8月
26日)

の3箇所である。従来は客星が、同時に2個
以上表れる確率も、ゼロとは言えないので、
御堂関白記の記載は、天文史学からスルー
されたのだろう。が当然だろうが、興福寺
方向に超新星が見えるので、興福寺の強訴と
京都から見て南の空低くに現われる超新星は
関連するのであり、更にはその意味を占い師
に占わせたのだろう。以上の事から興福寺の
強訴の、約1週間後に道長が占わせた客星が、
当時京都市内から見て南天低い宵空の”客星”
であるのに間違いはあるまい。だからこれは、

ほぼ、”おおかみ座超新星1006”の事と
特定できる

と私も思う。なお、御堂関白記には、問題
の客星が、興福寺僧兵軍団が押し寄せたとき
に、突然記載が現われるという、大きな特徴
も示している。日食予想が5月1日昼間に出
ていた旨を書いており。天文現象一般に関し
て、日記に記載をしない訳もなさそうである。
つまり実際には、超新星が既に見つかってい
る期間なのに、藤原道長は、日食については
日記に書いても、超新星については伏せてい
たと疑われる。
 興福寺は京都市内の南の、近鉄奈良線の
奈良駅のすぐそばであり、”奈良の御光さま”
として

強訴のときに、僧侶が超新星を、演出効果と
して使用したのは明らか

であろう。だから強訴の約1週間後に、遅れ
ばせながら藤原道長が、意味を占い師に占わ
せたとしか、少なくとも私には思えない。
 なお変な話だが、探しても今述べた事実に
ついて、述べている先行文献が、私にはなか
なか発見できない。”超新星は、藤原定家の
日記初見”のきめ付け、ないし”理科離れで、
この件自体に日本人の関心が誰にも無い”が、
21世紀の現在、すっかり定着し、他民族に
は、日本の記録を、元々探す事も少ないのだ
ろう。そのために、

”日本の超新星記録と言えば藤原定家の日記”

という以上のような認識が、今やすっかり、
グローバルに、広がってしまっているようだ。
なお、ロバートバーナムJrの星百科大事典
(地人書館)に、出典不明で上記のうち、
宣明暦:寛弘3年(西暦1006年)7月
13日の記事の内容とみられるものが、載っ
ているようだ。研究者は気が付いて居ないの
ではなく、識別する事について、特に天文学
的意味を余り感じて居ないので、区分けした
議論が、恐らく無いままなのだろう。
 所で、おおかみ座超新星を、強訴のときに、
興福寺軍団の錦の旗印にするには、おおかみ
座が見ごろの頃強訴する方が良い。おおかみ
座の宵の見ごろは、言うまでもなく

梅雨時

だ。厳密に言うと、歳差の補正をすると、
12~13日程度、今より見ごろは早くなる。
 所が、お盆現8月の満月の少し前頃になっ
て、実際には強訴している。お盆の頃の前の
夏休み入の頃は、その準備で1000年前の、
興福寺の11世紀の僧も、忙しかったのかも
しれないが。また、午後から超新星の光の点
が、青空の中に有って、それなりに現8月満
月直前頃は、説得性は有ったのだろうが。事
おおかみ座に関する限り、史実として興福寺

強訴は、見ごろの盛りを、少し過ぎた頃

の御盆直前に起こっている。ちなみに興福寺
の要求は、どうやら道長のやり方の改善では
なくて、大和国国司を解任し、奈良における
興福寺権力の確立を目指す為という内容のよ
うである。だから時期を前倒ししても、余り
”支障”は無いと判る。なお見えている期間
が新星に比べて長い超新星は、その年の初冬、
また明け方に現われたという事に、なったと
聞く。
 何れにしても、

梅雨のすぐ前の6月の頭か、夏休みに入った
ばかりの頃が強訴には、夜半前南の低い空か
ら、京都市内を睨みつけるように輝く、おお
かみ座超新星を利用するというのなら、より
時期が良いはず

なのに遅れて使われたと見なせる事は確かだ。
なお、12~3夜の月明かりも、厳密には無
い方が、良いかもしれない。
 実際には、おおかみ座超新星は繰り返すが、
5月の頭に見つかっているから、現代社会な
ら、6月頭頃には、フィーバーだっただろう。
 しかし、実際には強訴は現8月の満月過ぎ
であるから1~2ヶ月半遅い。これはやはり、

安倍吉昌が発見してから、皆が気が付いて、
何が起こったのか理解するまで、1ヶ月近く
かかった証拠

のように私には思える。つまり京都から見て
真南の寺、興福寺の強訴が現6月や現7月で
はなくて、超新星が輝くのが夕方少しの時間
しか無くなる現在の8月だったのは、

陰陽道担当者が、超新星の宣伝を、能動的に
はしていなかった、やはり証拠

なのではないかと、私には疑える。何れにし
ても、ボディーブローのようにそれが利いて、
囲碁が衰えるのは、その90年ほど先にはなっ
たようだが。(2020/02/20)

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