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西暦1018年藤原隆家子より藤原道長へ玉帯返礼(長さん)

本ブログでは早くから、将棋が伝来したとみる
西暦1015年当時、藤原隆家等は将棋の玉将
を藤原長者の藤原道長に準えていると見ている。
これに関して証拠を最近発見したので紹介する。
 藤原隆家の嫡男の、藤原経輔が、自身の元服
の儀のときに、藤原道長に貰った、馬の返礼と
して、

玉帯一柄と釼二腰を贈呈した

と、御堂関白記の寛仁2年(西暦1018年
~19年)12月6日に書かれているようだ。
 では、論を開始する。
本ブログでは、伝来時点での原始平安小将棋は、

最下段が非対称配列で、将駒の配列が藤原摂関
期の集団指導体制を表している

とみて来た。香車、桂馬、銀将、玉将、金将、
銀将、桂馬、香車となっていて金一枚であって、
8升目タイプであるという推定である。最も大
事な駒は、今と変わらず玉将であり、本ブログ
では、

西暦1015年に黄金の後一条天皇用原始平安
小将棋具(オモチャ)の、購入責任者となった
藤原隆家は、博多の写経所の僧等が発明した、
双玉タイプの五角形駒を使用して、それ以来、
刀伊の入寇まで断続的に、将棋を指していたと
推定

しているのである。息子の藤原経輔が、それを
知っていたのは自明であるし、そのような状況
であると、にすれば、

玉将を西暦1018年暮れに藤原道長に準えた
から、返礼は武具と”玉帯”だったという訳

だと考えられる。
 なお真偽は私には判断できないが、平安中期、
西暦1024~28年頃成立とされている
”栄花物語”正編の、第12巻の前の方に、
西暦1014年年末の”藤原隆家の太宰府帥
着任決定に関して、藤原道長が好きだった
囲碁と盤双六の相手を、藤原隆家が、常日頃
から丁寧に対応して居た為に、比較的スムーズ
に確定した”との旨の記載が有るようである。
 なお、御堂関白記の1006年8月19日と、
1012年9月10日に、囲碁については指す
趣味があると取れる記載があり、更には
藤原行成の権記の1002年8月13日に、
藤原道長が、実際に囲碁を指した旨の記事が、
あるようである。藤原隆家との関連についての
確たる証拠は、今の所私は持たない。
 話を西暦1018~9年の12月に戻すと。

ようするに返礼品は2種類共に武具であるし、
付けている人物を玉将とするという発想は、
将棋の駒の準えとしてドンピシャ

なのではないか。道長の贈った物品も、馬であ
るから、武具にするという返礼品を決める動機
としても、自然なものであろう。
 今まで全く係わりが不明だった、
西暦1010年代の藤原道長と将棋との係わり
に関し、どうやら一筋の光が差し込んできたよ
うだ。(2020/02/24)

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