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天竺大将棋と大大将棋では、どちらが早く出現したのか(長さん)

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄には無いが、江戸初期の象戯図式等には、
天竺大将棋が記載されている。大阪商業大学アミューズメント研究所
の古作登氏によると、天竺大将棋は、後期大将棋と中将棋から作られ
たものとされる。この意見に、

本ブログも基本的に賛成

だ。しかし、天竺大将棋と大大将棋にも、水牛が中将棋と後期大将棋
には存在しないのに、これらの2種類の将棋には存在する事、天竺大
将棋には”犬”が、大大将棋には”口辺の奇犬”が存在する事から、

1.水牛はどちらかが、どちらかを真似て導入した
2.犬を真似て大大将棋に”口辺の奇犬”が入ったか、口辺の奇犬を
真似て、天竺大将棋に犬が入ったかの何れか

の、以上2つの接点が存在する事も、確かなのではないかと思う。
むろん、後に作られた方が1と2の点に関しては、先の方を真似た事
になる。そこで今回は、1.と2.を考察すると、前後はどちらにな
るのかを、論題としてみた。決定打ではないが、後先を決める材料と
みられる駒に、探りを入れてみようというわけである。
 そこで、何時ものように結論から先に書くと、

大大将棋が先で、天竺大将棋が後となる可能性が高い

との結果になった。
 では、以下に結論に至る経過を述べる。
 まず、1.の水牛であるが、元々は、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
にあるように、大大将棋の銀兎の動きだったが、天竺大将棋に取り入
れられたときに、奔猪の走りに前後に2升目の動きを、加えた形にな
ったと見られる。
 そう考えられる根拠は、
奔猪の走りに前後に2升目の動きを、加えた走りがもともとだとする
と、大大将棋の成りは、

走りが奔猪型から、成りの奔獏で飛牛型になり、おかしいから

である。それに対して、もともと銀兎で、前方に走れない、白象のよ
うな守り駒だったものが、奔獏に成るとすれば、斜め前に2歩の金将
の動きである小駒の馬麟が、奔王に成ったり、水無瀬兼成の将棋纂図
部類抄では、大局将棋のような動きである、前に2歩歩む酔象の動き
の、小駒である行鳥が、走りの奔鬼に成るのと、

釣り合いが取れていて自然

だからである。象棋図式のように、大大将棋の水牛の動きを、天竺大
将棋の水牛の動きに、してしまうからこそ、縦横ひっくり返りの、お
かしさが生じるのであり、元々の水牛が白象並みの弱い駒なら、大大
将棋での、元駒と成りの、つりあいの悪さが、生じなかったというわ
けである。つまり、天竺大将棋の水牛しか無い時代に、大大将棋の
奔獏が、水牛を奔獏の成りにしようとして、大大将棋のゲーム・デザ
イナーによって発明されたというのは、かなり不自然だと言う事であ
る。そうだとしたら行鳥と水牛は、天竺大将棋の水牛の方が先なら、
大大将棋では、現行とは逆パターンに、成りが、入れ替えられてしま
う可能性が高いと、私は思う。
 従って、天竺大将棋の火鬼の動きは、大大将棋の奔鬼を参考に、
それを強力化したときに、元駒を、行鳥ではなくて、たまたま水牛に
したために、水牛を大大将棋から取ってきたと同時に、動きを火鬼に
近くなるように、強力化したものであると見るのが自然だと、私は見
るようになった。
 次に、2.の犬が先か、口辺の奇犬が先かの問題であるが、理由を
結論から先に書くと、

口辺の奇犬は熟語としての意味がおかしいので、天竺大将棋のデザイ
ナーは、単純に、犬にしてしまったと見て、間違い無さそう

だ。ところで口辺の奇犬については、
この漢字そのものが、余り見かけないものであると言う点で、謎に包
まれている。そこで今回私は、諸橋漢和辞典を良く調べて、この漢字
の正体の解明から先に試みた。
 結果、

奇犬と書いても、実質良い

との結論になった。そこで以下、口辺の奇犬とは書かずに、”奇犬”
と表現する事にする。まず、

口辺の奇という漢字は、諸橋徹次の大漢和辞典(1958年)には
無い。

ちなみに、奇の大の部分は、象棋図式等では、立になっている。これ
は、俗字で、現在の奇の方が、むしろ正字とされているとの事だ。
そこで、上記に書いたように、口辺を略したケースは、奇犬と書いて
良いと思われた。
 次に口辺の奇の字の正体であるが、

恐らく畸犬(田辺の奇犬)の誤写

だろうという、調査結果になった。そして、畸(田辺の奇)と奇は、
意味がほぼいっしょで、

”おかしな姿をした”または”怖い姿をした”犬

と、表現するつもりのようであった。なお、歯辺に奇の犬(かみつく
いぬ)の可能性も、僅かにある。しかしながら、この畸(田辺の奇)
犬には”肢体が不自由な犬”の意味もあり、

戦争の戦力になりにくい駒名

であるように思われた。その他、”猗犬(獣辺の犬)”に通じる
可能性があり、猗犬(獣辺の犬)には”去勢された犬”の意味があり、
これも戦うには弱そうだ。
 以上のような難点は、天竺大将棋のデザイナーが、大大将棋の
畸犬を見たときにも、当然感じたのではないか。そのため、

おかしい駒名であると、天竺大将棋の作者は感じ、犬の方がマシ

だと考えるのが、自然だろうと私には思えた。つまり、

奇犬が犬になったのであり、一見するとそうかもしれないと思える
その逆では、このケースに限っては無さそう

だ。
 以上の2点の調査から、時代はさほど離れて居無いのかもしれない
が、

大大将棋が少なくとも西暦1600年以前には出来て、恐らく江戸
時代のごく初期に、天竺大将棋が、その後できたのだろう

と、私は今回の調査で、考えるようになったのである。(2018/06/10)

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禽将棋の鷹成りの鵰。象戯図式の泰将棋の朱雀に動きが似ている訳(長さん)

今回は、駒数の少ない日本の将棋であるが、駒の動かし方のルール
が駒数多数将棋と関連する、禽将棋の、特定の駒についてのみ話題
にする。
 禽将棋は西暦1790年前後に、将棋の者三家のうちの大橋分家
の当時の当主で、江戸時代将棋家の、第9代の名人と言われる大橋
宗英によって作られた将棋である。時代は、徳川家治から家斉に
かけてとみられる。ここで問題にするのは、前に述べたが、禽将棋
で、朝倉小将棋の酔象のような位置に配置されている、表題の鷹と
いう駒が、鵰(しゅう・くまたか)という、
斜め前と後ろに走り、上に一歩、斜め下に2歩(恐らく)制限され
た走り型および、隣接升目でも止まるルールで歩む、ここまでは、
松浦大六氏所蔵の象戯図式の朱雀と同じで、かつ、横にも一歩動け
ると、象戯図式の朱雀から、多少変化をつけた駒である点である。
つまり、

江戸初期作の将棋書、象棋図式の泰将棋の、朱雀の動きを含みかつ、
横にも一歩動けると、多少は、お愛想に変化をつけて意図をぼかし
ている

鵰のルールについてである。この点をなぜ問題にするのかと言えば、

ごく小型の将棋にしては妙に、複雑な動きの駒を入れているという
点で、明らかに不自然感がある

からである。特に、斜め後ろは狛犬型の踊りが、正調かもしれない
ので、問題が起きそうだ。
 ともあれ、なぜこんなルールにしたと考えられるのか、先に答え
を、いつものように、書いてしまおう。

禽将棋を作成した大橋宗英が実は、水無瀬兼成作成とここでは見る
泰将棋に関して、江戸初期に、象棋図式でそのルール整理を行った、
伊藤家宗主の伊藤宗看の仕事自体に、興味を持っていたから

と、本ブログは見る。更に、はっきり言うと、
泰将棋の拡張について、西暦1790年頃、大橋宗英は興味を持っ
ていた。ようするに、もっとはっきりいうと、

大局将棋の作成に、江戸期第9代名人の大橋宗英が、実は関与して
いた疑いが、かなり強い

と、私が疑っているという事である。今まで、私は以下の主張を、
将棋史家の誰かが、しているという話を、聞いた事が余り無いが、

新作将棋を作成するという点では、禽将棋も大局将棋もいっしょ

なのではないかと疑う。つまり、将棋将軍、徳川家治の時代の少し後
に、禽将棋を作成した大橋宗英は、新作将棋を作るという点で類似の、

大局将棋の作成との関与も、徳川家治トレードマークの七国将棋類似
駒が、大局将棋に入っている点等からみて、疑われて、そもそも当然

なのではないかと、私は考えるという事である。
 では、その疑いの目を持って、大橋宗英が作成した、駒数少数
将棋の構成駒なのに、踊るのではないかとさえ疑われる”鵰のルール”
と、将棋三家の伊藤宗看が作成した、象戯図式の泰将棋の朱雀のルー
ルについて、以下比較して考えてみる。
 もともと、水無瀬兼成は、
右前と左後ろに走る玉将のような朱雀を、将棋纂図部類抄の泰将棋の
図で書いていた。これでは、同じく水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、
玄武、白虎、青龍と類似の動きなのだが、大大将棋の白虎と、泰将棋
の白虎が、全く違う動きになり、かつ大大将棋の青龍と泰将棋の青龍
も、違う動きになってしまっていた。そこで江戸時代になると、駒の
種類が同じならば、将棋種が違っても、なるべく同じ動かし方のルー
ルが良いと考えたと見られる、将棋御三家の伊藤宗看は、自身が幕府
に献上したとされる、象戯図式の中で、泰将棋の白虎と青龍を、大大
将棋の白虎と青龍の動きと、同じにした。ところがそうすると、泰将
棋では、玄武が白虎と左右対称位置に配列され、おなじく朱雀が青龍
と左右対称位置に配列されているため、玄武と朱雀の動きが、白虎と
青龍の動きに対して、アンバランスになってしまう。そこで伊藤宗看
は更に、

水無瀬兼成の、泰将棋の玄武と朱雀の動きを、将棋纂図部類抄から、
自身作の象戯図式で大きく変え、その結果朱雀の動きは、横に動け
ない点を除いて、禽将棋の鷹成りの鵰と同じになった

のである。
 ところで、鵰は、”くまたか”だが、”おおわし”、”おおとり”、
”鵬”と類似の概念である。鵬は音読みが”ホウ”なので”鳳凰”の
”鳳”と音が同じであり、その結果、中国の神獣である”金翅鳥”、
さらには”孔雀”、”朱雀”が連想されるようになる。つまり、

熊鷹や鵰といった、鵬(おおとり・ホウ)の類の名前の、将棋駒の
ルールを考えようとしたときには、朱雀の駒の動かし方ルールが、
比較的イメージされやすい

とみられるという事である。つまり、鵰のルールを考えるときに、
伊藤宗看の象戯図式の中の、朱雀のルールが連想されるということは、

江戸中期の大橋宗英には、水無瀬兼成の泰将棋の改良というカテゴリー
の、江戸初期の伊藤宗看の仕事に関しては、もともと関心がある証拠

と私はほぼ、断定できると思う。
 前に述べたが、本ブログでは、大局将棋は、新作将棋の作成や、
既存の六将棋の、36×36升目盤でのプレーへの興味等ではなくて、
水無瀬兼成が豊臣秀次に献上したとみられるルールの、水無瀬の泰将
棋の作成の継続作業が動機とみている。水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
の泰将棋の駒の動かし方のルールと、大局将棋の駒の動かし方のルー
ルとが、等しくなるケースが、割合として多いからである。
 なお、大局将棋の玄武、白虎、青龍、朱雀は、結局水無瀬のオリジ
ナルに近い形で、走りの左右が尤もらしくなるように、整備された。
その他関連しそうな駒として、林の鬼類の、森鬼が、禽将棋の鵰と
類似の動きとして作成され、森鬼と対になる林鬼は、前走りで、
鵰とは少し違うが、その成りの名称が、禽将棋の鵰に近い、大局将棋
の右鵰(あるいは古鵰とも)になっている。禽将棋の”鵰”は、
大局将棋では、意識されているのである。
 ともあれ伊藤宗看の泰将棋のルール整備は、その動機に基づく、
大局将棋作成への、実質的な出発点であり、大橋宗英には

大局将棋を作成するというプロジェクトに興味が有ったため、全く別
の小型の禽将棋という新作ゲームを作成するとき、徳川家治時代の直
ぐ後の、大橋宗英の、その自身作の新作ゲームには、江戸時代初期の
伊藤宗看の泰将棋の、改善作業の駒ルールが、自然に入ってしまった
のではないか。

私は今、以上のように、疑っているというわけである。(2018/06/09)

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文字を持たないアイヌ。文字が無いと、何故象棋が伝わらないのか(長さん)

日本の周辺では、沖縄に琉球王国が形成されて、恐らく直ぐに、中国
シャンチーが伝来したとみられている。それ対して、日本列島の北の
縁に近いアイヌには、象棋やチェスの類の、特有の文化が有ったとい
う証拠は、今の所、まだ発見されていないようである。なお、アイヌ
民族は、元々文字を持たない文化であったと、私は聞いている。そこ
で、単純に想像されるのは、北海道が中国シャンチーと、日本の将棋
という、文字駒の将棋文化で囲まれているので、読めないので将棋が
無かったのではないかという疑いである。駒に書く文字が無いから、
象棋か将棋かを指すようには、ならなかったのだろうか。今回の論題
は、今述べた事が正しいかどうかとしよう。
 そこで回答を最初に書くと、ずばりそれは

間違いである

と私は思う。正しい回答は、

文字が無いと、書籍等の手段で”ゲームの指南書”が形成される可能
性が全く無くなるから

だと私は見る。根拠は、

立体駒でゲームをするチェス型の文化圏が、文字駒の文化圏に、押さ
れているという形跡が、ほとんど無い

からである。
たとえばモンゴルのシャタル等は、立体駒のままだし、カンボジアの
象棋(シャッツロン)も、一時期シャンチーに似た、9路配列に変わっ
たが、現在は8升目制に戻っている。なお、アイヌ文化と異なり、モ
ンゴルの場合は、モンゴル帝国の時代から、縦に線が一本入る漢字に
似た、独特の文字文化があったと聞いているし、カンボジアにも古く
から、ガンジス文明の流れで、クメール文字がある。両国とも立体
駒なのは、固有の文字が無いので、形で、駒種類を表現しているから
ではなくて、もともとの文化が、立体駒文化なだけである。つまり
自国に文字文化が無いと、伝来元のゲームが駒に書かれた、伝来元の
他国の文字が読みづらいので、真似られないため、当座”立体駒”で、
チェス型ゲームを、行いだしたとしても、文化としては永続しては、
生き残れない別の理由があるという事を、意味しているという訳であ
ろう。
 それが、回答のように”ゲームの指南書”であるという、さらにつ
っこんだ点に関する根拠を、次に示す。

アイヌには、ルールを忘れないように記載した、ルールブックが必要
な中将棋のようなゲームだけでなく、ルールとしては、より判りやす
い、囲碁も、伝わっているという話が無い

ためである。
 つまりこの事から、ルールブックを書いた”中将棋のルール”のよ
うな、文字を使った情報誌はもちろんだろうが、”囲碁の上達法”と
いった、ゲームの入門者に読まれるような、定跡が記載された、文字
情報ファイルが存在しないと、少なくとも数百年というオーダーで、
ゲームが生き残る可能性が、ほぼ無い事が、証明されるのではないか
と思う。

 つまり、入門者がそのゲームに、興味を持てる程度の内容の情報が、
文字媒体で存在し得ない所に、指し方や打ち方にコツが、ある程度あ
る囲碁や将棋やチェスが、長い年月に亘り、継続して文化として、残
るとは、かなり考えにくいと言う事

である。
 これは理由が、口伝だけでは、教師が死んでしまえば終わりだが、
文字で残っていれば、絶滅寸前だったとしても、蘇る事が可能なため
だと気がついてしまえば、直ぐに、判る事なのではないかと私は思う。
 恐らく北海道のアイヌについても、日本の中世、流れ着いた北元の
末裔から、シャタルを聞いて、自分で駒を作成し、巧みに指せる人間
が出現したという事が、あるいは有ったのかもしれない。しかし、何
人かのアイヌの仲間で、数十年かはシャタルが指されていたとしても、
その仲間がやがて年老い、亡くなってしまったために、その期間で、
シャタルを指す文化が、無くなってしまった。結局今では、アイヌに
は、チェス型のゲームを指す文化が、もともと全く無かったように、
見えているだけなのではないか。もし、一時的にモンゴル・シャタル
が旨く指せるようになったアイヌ名人が、アイヌに文字があって、
”シャタルの上達法”という内容の情報を、文字媒体として残すこと
が出来ていれば、北海道には、モンゴル・シャタルを指す文化が、
かつて有ったという事に、充分なったのであろうと、私は考えるとい
う事である。
 蛇足だが、北宋の時代にシャンチーは、北宋の北西隣の国の、西夏
国には伝来した事が、2008年に出土した遺物から判っているとい
う。ただし、北宋の北東隣の国である遼という国に、チェスやシャン
チー文化が入ってきた事が、あるのかどうかは、今の所判って居無い
ようだ。聞くところでは西夏には、西夏文字という、西夏国内で共通
の文字があると聞く。遼の方は契丹文字が標準だったが、少なくとも
女真族に征服されたりして、継続性を、やや欠いていたのであろう。
さらに、モンゴル帝国はアイヌの居住地にも攻めてきた事がある。が、
そのとき、モンゴル人と北海道に居たアイヌとの間に、文化的接触ま
であったかどうかは、私には良く判らない。
 更に別の証拠として、そもそもイスラム・シャトランジが、安定し
て古代アラブ諸国や、古代トルコ系帝国の中で指されていたのも、
ものと人間の文化史”チェス”(増川宏一著)によれば、実質的に
”イスラム・シャトランジの上達法”という内容の書籍が、統一言語
であるイスラム言語で、9世紀から、シャトランジの名人達によって、
出版され続けていたためと、書かれていたと私は記憶する。
 結局の所、チェス・将棋・象棋型ゲームというのは、民族の共通文
化として口伝でも盛んに伝承され、それも有って続いたのであろうが、

現実には、よもやの絶滅危機の氷河期に、文字で、ゲームのルールと、
指し方のコツの基本情報が残っていたのが、長い年月滅びなかった、
本当の理由だった

のではないかと、私はかなり疑っているのである。(2018/06/08)

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西暦1910年~30年。中将棋が”支那将棋”と言うのは定説か(長さん)

私も前に、どこかで聞いたような気がするし、岡野伸氏も”中国の諸
象棋”にも書いているのであるが、表題のように、明治時代の後期か
ら昭和時代の初期にかけて、日本の中将棋が”支那(中国の)将棊”
と言われていた時代があるとされている。上記の、岡野伸書、「中国
の象棋 改訂版」(2018)には、出典まで書いてあるので、あり
がたい。西暦1909年出版の「将棊定跡講義」と、西暦1931年
版の関根金次郎「将棋上達法」(誠文堂)が、その例だと言う事であ
る。特に後者によると「中将棋は、西暦1131年程度に、最初に
中国から伝来した将棋である」との旨が、書かれているとの事である。
 当然だが、象棋六種図式を含めて、江戸時代の、駒数多数将棋を紹
介した書籍の発行よりは、上記の2つの書籍の発行は、はるかに下る
ものである。よって、

大将棋、中将棋、小将棋と存在するうちで、中国で発明され、初めに
伝来したものが中将棋であるというのは、そもそも奇怪な説

である。なぜなら

この中では、3番目に出来たものである事が、ゲームの名前のつけか
たからして、ほぼ確実

だからだ。
 そこで、今回は、遊戯史研究者の内部で、上記の説は、約20年間
本当に定説と見られたのかどうかを、論題としてみた。
 先に回答を書くと、

日本将棋の棋士の団体内では、提唱者が日本将棋の権威等なため、
上記説も、いわば虎の威を借りるで強かった可能性もあるが、研究者、
特に明治時代に華族と言われた、諸芸の研究をしていた知識人には、
ほぼ無視されたとみられる説だった

のではないかと、私は推定している。理由は、説の出る少し前の
西暦1908年8月25日に、古事類苑の第30分冊「遊戯部」、
細川潤次郎他著が、神宮司廰から出版されているためである。この
著書を読めば、

日本将棋が小将棋の類である事と、中将棋のほかに大将棋が存在する
事。二中歴の将棋と大将棋が記載されているため、小将棋と大将棋し
か、西暦1200年頃には無い事が、ただちに判ってしまう

という訳である。なお、古事類苑の第30分冊「遊戯部」の二中歴の
記載は、小将棋と大将棋で、バラバラだったかもしれないが、二中歴
全体が、次のより古い成書では、まるまる載っている。西暦1903
年2月13日発行。近藤活版印刷・発行、著者:近藤瓶城、「改定
史籍集覧」。
 では何故、「将棊定跡講義」と「将棋上達法」の著者が、古事類苑
等を無視したのかと言えば、

無視したのではなくて、「将棊定跡講義」の著者が、古事類苑の遊戯
部を調べなかった

のだろうと、私は推定する。恐らく、増川宏一著書の将棋Ⅰの、文献
リストから察するに、寺島良安の「和(倭)漢三才図解」復刻版西暦
1902年発行だけを見て、

将棋には日本将棋と中将棋だけがあり、どちらも結局中国からの伝来物
だが、成立としては、中将棋の成立の方が早い

という情報だけから”中国で発明され、初めに伝来したものが中将棋
である”という説に、短絡してしてしまったのではないかと、私は推
定する。
 なお、「将棊定跡講義」の著者について、私の調査では、誰だか、
まだ判って居無い。宮崎県の都城市と、関連する人物だとすれば、
嘉永(かえい)6年(1853年)という、幕末に近い年に、島津藩の
島津斉彬(なりあきら)が、都城の自藩領地を巡見する際に、シャン
チーの駒が、出土した事で知られる、唐人町を見た記念に、鳳凰と、
麒麟の屏風を、島津城で作成している。これがもとで”中国将棋には、
元々は鳳凰駒と麒麟駒がある”という”ニセ情報”が、明治時代に、
どこかで生じていたのかもしれないとも、疑われる。そもそも、鳳凰
が、シャンチーの日本の江戸時代名である金鵬と似ている点も、この
屏風作りと、関連するのかもしれない。ただし鳳凰駒と麒麟駒が有る
のは、中将棋に限らず、実際には後期大将棋、摩訶大大将棋、普通唱
導集大将棋にも含まれるのだが。
 ともあれ何れにしても、古事類苑の第30分冊「遊戯部」は、西暦

1908年8月25日には発行されている

ので、諸芸に興味の有った、明治時代から大正時代にかけての華族は、
関根金次郎の将棋上達法の、将棋史部分を読んでも、中将棋は支那
(中国の)将棋だとは、思わなかったのではないかと思う。ただし、
華族の中から、将棋の名人は出なかったので、反論の書籍等も、殆ど、
1910年から1930年の間には、出版されなかったのだろう。
 従って、1910年から1930年までの20年間、日本人が、

中将棋を中国の将棋だと思っていたと言う事は、実質的に、一部を
除いてほぼ無かった

と、推定して良いように、私には結論された。むろん、関西を中心
に中将棋を指していた、当の中将棋の棋士は、将棋史に興味を持つ者
が、ほとんどだっただろうから、彼らの間には、

古事類苑第30分冊「遊戯部」将棋記載の系統的情報は、じきに
知れわたっていた

事だろう。
日本将棋の戦法の記載に注力して、普通に日本将棋本を書いていた
関根金次郎氏は、うっかりチェックを怠ったので、「将棋上達法」に
「将棊定跡講義」の内容を、

ほぼ丸写しにしてしまい、結果として失敗しただけだったと見るべき

だと私は考える。よって最初に述べた通り、
西暦1909年出版の「将棊定跡講義」と、ほぼ同じ頃出版された、
西暦1908年8月25日出版の、江戸時代以前の将棋歴史本を集
めて、編集された古事類苑の第30分冊「遊戯部」の存在のために、

初めに伝来した将棋が中将棋であるという奇怪な説は、日本将棋の
棋士の団体内では、提唱者が日本将棋の権威等なため、上記説も、
いわば虎の威を借りるで強かった可能性もあるが、研究者、特に
明治時代に華族と言われた、諸芸の研究をしていた知識人には、
ほぼ無視されたとみられる説だった

のではないかと、私は推定しているという事になる。(2018/06/07)

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摩訶大大将棋の玉将は何故成るのか(長さん)

日本将棋連盟が作成した日本将棋用語辞典にも書いてあるが、摩訶
大大将棋の特徴に、玉将が”自在王”に成るという点がある。今回
は単純に、その理由を論題にしてみた。
 先ずは何時ものように回答を先に書く。

小駒の成り駒が、小駒の字に奔を付けた駒という”系統付け”を
成りに対してしたために、玉将の成りが問題になってしまい、
摩訶大大将棋についてだけ、玉将の成りを考えざるを得なくなった

ためだと私は考える。なお、この点については、
仏教関連の駒が多い、摩訶大大将棋では、自在王も、さいしょから
仏教駒として導入されたとの意見も多い。先行研究例の一つとして、
大阪電気通信大学、高見友幸氏の摩訶大将棋のブログに、薬師如来
の分身の一柱である、自在王如来の説が載っている。が、さいきん

私は、良く考えてから、これらには反対の立場を取る事にした。

理由は、考えてみるに最初から

ダイレクトにその仏教の菩薩・天部等の仏神の名前にしない根拠が、
特にこれといって見当たらない

と思うからである。つまり、仏教としては同じなため、少なくとも
わが国の場合、特定の如来・菩薩・天部等が、ある宗派では神だが、
他の宗派では、悪魔とされるといった事は、基本的に無い。だから、

その仏教の神様の名前を、玉将の成りの名前にしたいのなら、その
通りの名前に、最初からすれば良いだけのはずだ

と、私は思うようになったからである。つまり自在王は自在王如来
等で、良かったのではないのか。
 なお、象棋六種図式では、自在王ではなくて、摩訶大大将棋の玉
将の成りは、自在天王とされている。シバ神の仏教式呼び名、大自
在天の別称(稀)である。
 しかし、シバ神は仏教では、形はあっても欲望の無い色界で、
三千世界のコントロール装置の一部の働きを、しているだけと、私
は聞いている。
 だから仏教では、シバ神には、活動するための”自身の活発な動
き”というイメージが余りなく、

自在天王には、経文用語で言う”大自在”の動きのイメージが無い。

だから、私には象棋六種図式の著者が、水無瀬兼成の将棋纂図部類
抄の中の、摩訶大大将棋の玉将の成りを、自在王から、自在天王に
変えたのは、間違いだと思っている。つまり、水無瀬兼成が正しく、
象棋六種図式の著者の考えは、間違いだと、ここでは考えていると
いう事である。恐らく、

摩訶大大将棋の作者は、玉将の成りは、本当に自在王にした

と、私は考える。これを、”自””在””王”という3つの漢字が
入っている、仏教の如来、ないし菩薩、ないし天部と、棋士等が考
えたのは、摩訶大大将棋の成立よりは、少なくとも後の時代なので
あろう。
 なぜなら、これが特定の如来、菩薩、天部と作者がしたいのなら、

自在王ではなくて、最初からたとえば世自在王にしても、玉将駒は、
多少大きめな造りなため、三文字でなく四文字駒でも五文字でも、
それでもOKのはず

だからである。
 そもそも摩訶大大将棋の成りが、小駒について、奔を付けると
成りになるようにしたのは、最初からそうだと私は思う。その結果、
玉将も小駒であるため、本来なら奔玉や奔王に成るべきと、棋士は
だれもが感じたのであろう。しかし、奔玉にしてしまうと、摩訶大
大将棋には、元駒としての走り駒、奔王が存在したので、奔王を、
玉駒扱いに、しなければならなくなるため、矛盾が生じた。その
結果、摩訶大大将棋の作者は、実は

さいしょ奔王と同じ動きで、取られたら負ける玉将の成り駒として、
奔王の言い換えのつもりで、自在王という名前を作った

のではあるまいか。しかし、自在が”超越”と同じく、束縛がなく
遠くへ行くという意味であるという概念が、室町時代の末には、無
くなって、しまったのだろう。そのため、盤面に行けない所が無い
と解釈されるようになり、現在の摩訶大大将棋の、自在王ルールが
できたのではないか。実際には駒枯れになってから、玉将が成ると、
盤面の大きな摩訶大大将棋では、奔王でも自在王でも、捕まえに
くいのは、ほぼいっしょなので、自在王のルールが、もともとの
奔王から、盤面行けない所の無い現在の自在王のルールに、その
うち、変わってしまったのだろう。
 また作者は、仏教駒を多く、摩訶大大将棋に導入している事や、
経典にしか、驢馬が当時無い事から、仏教関係者には違いないのだ
ろう。従って、自在王が世自在王、自在王如来、大自在天の別名と
して、稀に使われていたとされる、自在天王という、如来や天部の
何タイプかに近い名前で、語呂が良いので、自在王に、した事も、
確かかもしれない。
 そのため、実際に少し時代が下がると、自在王は、摩訶大大将棋
には最初から有る、提婆や夜叉等と同様、特定の仏教上の仏神と、
同一視も、されるようになったのだろう。
 しかし、作者は本当のところ、

元々は”奔”の類似語を探して”自在”にしただけ

だったのではあるまいか。そう考えないと、避ける理由の特に見当
たらない、特定の仏神の名前に、最初からしたいのならしない理由
が、どうしても説明できないように、私には思えるのである。
(2018/06/06)

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古猿の成り駒”山母”。初出は室町初期の謡曲”山姥”からか?(長さん)

日本の南北朝時代に成立の異制庭訓往来の”多い将棋”は一般に、
摩訶大大将棋か、研究者によっては、泰将棋を指すという意見が、
現在の定説のようである。 それに対して本ブログでは、泰将棋は
安土桃山時代末期の水無瀬兼成作、摩訶大大将棋は、後期大将棋と
形が類似であるため、室町時代初期の作であるとの意見である。
 しかし、本ブログが異制庭訓往来の”多い将棋”が指すと見てきた、
日本の平安時代院政期の晃補之の”19升目98枚制広象棋”は、
前回述べたようにゲームらしいゲームであって、歴日を連想させる
ような要素が、欠けるという問題が残っていた。
 そこで再度、定説に戻って、摩訶大大将棋が、19升目で総升目が
361目なため、”一年の日数にちなむ将棋”が、これを指すとして
矛盾が何処にあるのかと、私も考え直してみた。
 以前書いたように、後期大将棋との類似性のほか、疑わしい要素と
しては、私に言わせると以下の2点が、前から見えていた。ちなみに、
私は摩訶大大将棋の、酔象の成りの王子は、中世、特に室町時代前期
には若一王子信仰が、熊野詣等で各地で盛んであって、王子は、民間
では中世、ポピュラーな熟語であったとみている。そのため、増鏡等
に熟語として”王子”載って居無い等があるからといって、王子が中
世に廃れた、古代の熟語とは見て居無い。武蔵武士の豊島氏によって、
鎌倉時代末期に勧進された”王子”神が、地名の由来であるという、
東京都北区王子は、周辺の、東京都北区”豊島”1~6丁目とともに、
現在でも著名な地名である。

1.飛龍が4段目にあり、角行の動きがシャンチーの象/相のような、
2升目になってからの、新しい時代の将棋を強く示唆する。
2.猫叉が”猫また”と記載されたのが、鎌倉時代末期の吉田兼好の
徒然草からであり、比較的新しくできた駒名である。

ただし、2については、あまり欲張って、摩訶大大将棋の起源を早く
しなければ、南北朝時代には、間に合うのかもしれないと、これまで
は、私も見ていた。なお、鎌倉時代初期に藤原定家が、”猫股”とし
て、曖昧だが、同義語を記載している。
 しかし、最近になって、表題のように、摩訶大大将棋の早い成立説
にとって、更に都合が悪いのではないかという事実が、新たに見つかっ
た。すなわち、

3.古猿の成り”山母”は、南北朝時代にその概念が存在しなかった

というものである。そもそも山姥という語の初出が、”怪異の民俗学
5 天狗と山姥”折口信夫ほか著、河出書房新社、(2000)と
いう成書によれば、室町時代初期の謡曲”山姥”が初出だという、
やや不確かな情報が、まずあった。そこで、日本国語大辞典(小学館)
等を当たると、”山姥”の熟語の使用例として、

中楽談儀(西暦1430年)の”曲舞の音曲”が、最も早い例

として出ていた。

”由良の湊の曲舞、やまふば、百万、是らはみな名誉の曲舞共也”

と書かれた”やまふば”が、文献の山姥や山母の語句の初期の例との
事である。これだと、

摩訶大大将棋の成立は、曼殊院の将棋図が成立した西暦1443年の
少し前、

という、本ブログの今までの主張と、ほぼ合ってしまう。つまり南北
朝時代では、囲碁の路数と同じ、合計361升目の摩訶大大将棋が、
たまたま”山母”が含まれていたために、成立できなくなってしまう
のである。
 なお、山姥が山姥ではなくて、山母になっているのは、音で山姥は、
”サンボ”なのだが、訓読みの”やまうば”が定着したため、類似漢
字の”母(同じく音読みでは”ボ”)”をのちに当てて、将棋の駒名
が音読みになるように調整したためと、みられる。
 尤も、山母は成りであるから、摩訶大大将棋でも、成りは時代によ
り、多少変遷したと、仮定できないわけではないのかもしれない。た
とえば本ブログでは、

老鼠の成りが、大大将棋と摩訶大大将棋では、ひっくり返されており、

元々の摩訶大大将棋の老鼠の成りは、蝙蝠ではなくて、古時鳥であっ
たのではないかと、前から疑っている。もしかすると、南北朝時代に
摩訶大大将棋は存在したが、古猿の成りは、山母ではなくて、例えば
”悟空”では無かったとの、証拠も無いと言えば無いのかもしれない。
蛇足だが、悟空を孫悟空とすると、やはり室町時代になってしまう。
 とりあえず本ブログでは、異制庭訓往来の”多い将棋”は、今の所
晃補之の”19升目98枚制広象棋”との説をとるが、幾ら調べても

何を指すのかぴたりとは、はまらない、謎めいた古代教科書の唱和句

であることには、依然変わりが無いように思われる。(2018/06/05)

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岡野伸著「中国の諸象棋」の晁補之”広象棋”のルール情報(長さん)

前々回等に紹介した、将棋類のゲーム研究家の岡野伸氏による、
「改定 中国の諸象棋」(2018)には、本ブログでは、
異制庭訓往来”大きい将棋”に当たると見ている、晁補之(晁無咎)
の19×19升目98枚制広象棋の、より詳細な情報が載っている。
 ただし、内容は初期配列型に関する断片的なもので、駒の構成も
不明だ。
すなわち、最下段中央の先手では10の十九、後手では10の一の
位置を中心として、袖に向かって最下段は13枚(左右袖3目は空
きになる)、2段目は11枚、3段目は9枚・・と続いて、7段目
が中央の先手は10の十三、後手は10の七に、駒が一枚だけ並ぶ、

七国将棋の2国しか無いような、ピラミッド型の駒配列

になると、いう事である。その結果、双方に49枚づつの駒が、
存在する事になる。
図に描くと、以下の感じになる。
口口口口口口口口口駒口口口口口口口口口
口口口口口口口口駒駒駒口口口口口口口口
口口口口口口口駒駒駒駒駒口口口口口口口
口口口口口口駒駒駒駒駒駒駒口口口口口口
口口口口口駒駒駒駒駒駒駒駒駒口口口口口
口口口口駒駒駒駒駒駒駒駒駒駒駒口口口口
口口口駒駒駒駒駒駒駒駒駒駒駒駒駒口口口
 ただし、

駒の構成が全くわからないので、どんな駒が、どこに配置されるの
かは、さっぱり判らない

らしい。また、この情報が載っている、元文献も、岡野氏の著書に
は、はっきりとは載って居無い。本当に、西暦1080~1100年
前後に考えられた、オリジナルかどうかは、私には判断できない。
 なお、駒構成ははっきりしないのだが、これが少なくとも、まとも
なゲームだとすれば、

歩兵駒は無さそうだし、ピラミッド配列の外側に角行型の走り駒があり、
中央の背骨にあたるところに、飛車型の走り駒、最下段の中央に玉駒、
その左右に、侍従の小駒、玉のすぐ前に、ひょっとしたらシャンチー
の砲が、あるかもしれないという程度までは、確か

なように、私には思える。七国将棋で、八方桂馬型駒の騎、弓、刀は、
今述べたように、表面を構成する角行に、剣や牌は飛車に動きが変わっ
て、七国将棋がやや単純化した感じのゲームだろう。そうだとすれば、

陰陽道とか、惑星の動きとの関連といった、ある種の思想には、余り
関係なく、純粋にゲーム性のみを追及した象棋

とのイメージになるのかもしれない。つまり、

ピラミット配列にすれば、豊臣秀吉将棋のように、この場合は、走り
駒の角行類が、外にむき出しでも、直射しない。ただし局面が進むと、
内側の飛車走り駒も、順次露出してきて、走り駒同士の斬り合いが激
しく起こり、西洋チェスのように、速いテンポでゲームは進行する

ので面白くなるという工夫をした、チェス型のゲームという事になる。
 これが西暦1080年~1100年位に、本当に晁補之作かどうか
は別として、中国の北宋国内で作成されていたものとすれば、

チェス型ゲームで、優秀な物を作成する能力は、中国がイスラム諸国
を凌いでトップレベルだった

とは、少なくとも言えるだろうと、私は考える。発明が早いかより、
ゲーム性の高いゲームの作成能力が、有るか無いかの方が、より大切
なのだが、将棋型ゲームの、この点に関する近代における誤解は、少
なくとも20世紀の間は、相当に深刻だったようだ。
 ともあれ本ブログの推定では、この象棋の情報が、日本の南北朝時
代までには、わが国にはもたらされていて、異制庭訓往来の、駒の数
の多い将棋の、表現の元になったと現行みている。異制庭訓往来では、

盤升目が囲碁であるから、一年の日数と表現しただけ

のように思えるが、上に述べたようなゲームだとして、駒の名前が
暦風になっていないとすれば、あまり

暦がイメージされるゲームに、なっていない

ようである。

異制庭訓往来の”多い将棋”の特定に関して、本ブログの解釈は、
ひょっとしたら、間違っていて

再考を要するのかもしれないと、岡野氏の著作を見て、私はやや不安
を感じるようになった。(2018/06/04)

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幻将棋。25×25升目駒種88種360枚制前後大将棋は江戸期(長さん)

 web上では、”将棋ゲーム研究家の岡野伸氏しか知らない”とされ、
本ブログでも、そのように紹介した記憶が有る、三井文書に記載と
言われる、表題の泰将棋とおなじ将棋盤を使用する駒数多数の将棋に
ついて、岡野氏以外にも”他1名、知っている方が居る”との反論が
出ているという情報が、最近本ブログの管理人宛にあった。調べても、
その残りの一名の方の素性は、ここでは良く判らない。
 何れにしても、昔の武芸の秘伝の如くに、三井泰将棋とも言うべき、
幻の将棋の内容は、現行

少数の人間しか知らされずに、隠匿されている事は確か

なようにみられる。ので今の所、お詫びと訂正は、様子見という事で、
本ブログでは保留としておきたい。
 なおこの将棋は、江戸時代作で間違いが無さそうだ。よって、江戸
時代の将棋書に、しばしば見られる”痕跡情報”の存在が、その内容
の中には、当然だが期待されよう。
 また未完品らしく、25升目盤を使用する事は判っているが、初期
配列の記録が無いらしい。また、個別の駒種、88種類の内容が、少
なくとも一部については、残っているとの事である。つまり、

その個別の駒種88種類の内容が、日本で今の所、少なく見積もると
2名の人間だけに知りえた状態

との事らしい。
 なおwebの或るページに、その中に”不成り奔獏”が含まれると
いう情報があるが、正しいかどうか、私は確認していない。
 よって前後大将棋が、将棋のゲーム名だけでなく、ルールの内容に
ついて、一部だけだが現存している事は、どうやら確かなようである。
(2018/06/03)

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自費出版、岡野伸著書”中国の将棋”(2000年)に改定版(長さん)

今から一ヶ月前の2018年4月末、表題のように、将棋ゲーム類
の研究家として、1990年代には既に、盛んに活動されていた、
岡野伸氏が、自費出版書のうちで、”中国の将棋”との題であった
と見られる書の、改定版を出版されたようである。私には岡野氏自
体が、永らく消息不明であったが、これを読むと、最近も遊戯史の
研究を、少しずつだが継続されているようで、ありがたい事である。
改定版の名称は、”情報印刷㈱にて作成。 岡野伸著書
「中国の諸象棋改訂版」2018年4月30日発行”
となっていた。なお情報印刷㈱は、神奈川県川崎市に有る印刷会社
とのことである。
 改定前の版でも記載はされており、ゲームを説明する盤駒の写真
が、岡野伸氏の旧版著では曖昧だった模様だが、別の史料である
出土物の石製将棋盤から、漢代にも有ったシャンチーの変形ゲーム
かと、増川宏一著「将棋Ⅰ」(1977)に、ミステリアスに、記
載されていた、三国時代を模した三象棋または、三国象棋(三人制
中国シャンチー)が、はるかに時代が下って

南宋の時代に、盛んに指されていたもの

との情報が、文面で明解に記載されていた。私は知らなかったが、
南宋時代の晃公武の郡斎読書誌、同じく南宋時代の陳振孫の
直斎書録解題に、三象棋の盤を使用する、象棋が載っていたのが、
かなり前に、中国で発見されていたらしい。またこの書籍には、
清王朝の時代に、鄭普徳が発明した、三友象棋が、駒の構成が、
増川氏の指摘と違って、シャンチーと少し違うものの、同じ形の
象棋盤を使用するゲームであるとの旨が、将棋Ⅰの出土石版の
将棋盤の写真と、三友象棋の盤とが同じである事が、明確に判るよ
うに、岡野氏の上記著書の改訂版では、図が2枚載っていた。
 これらによって、

中国シャンチーが、北宋の時代にまで、開発のハードルの高さから、
完成がもつれ込んだ、唐の時代から世界的には存在した、イスラム・
シャトランジ、のみを母体とするゲームであるとの認識は、明白に
正しい

と、私には感じられた。優秀な書籍が、絶版状態であったようだ。
 何れにしても近年の、中国のゲーム史の研究家の努力にも、頭が
下がるし、相変わらず国内でゲーム史の研究に、かかわりを続けて
おられる岡野伸氏にも、彼の研究の継続に対し、大いに歓迎の意を
表したいと、考える次第である。(2018/06/02)

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雑芸叢書象棋六種之図式に”書駒奔獏は奔横と間違う”と指摘無し(長さん)

今回の論題は、大阪電気通信大学の高見研究室のwebページ「摩訶
大将棋」に、徳島県徳島市近くの川西遺跡出土の”奔横”駒が、実は
奔獏駒と書かれている”との、高見研究室の指摘について、検討する
という、内容である。
 ”象棋六種之図式に、奔獏が奔横と誤字で表現され事があると言う
点が、指摘されている”との、高見研究室の、webページの記載は、
象棋六種之図式の該当箇所の記載を、本ブログ管理人が調査した結果、

正確な表現ではない

という事になった。実際に読んでみると、

”大大将棋の初期配列図を書いた諸文献の中の一部に、
奔獏の箇所を、奔横と書き間違っている例がある”と象棋六種之図式
には、実質書いてある

と、ここでは読む。理由も先に書いてしまうと、象棋六種之図式では、

古鵄を右鵄と間違える例、老鼠の成りが実は仙鶴なのを、本ブログで
は古蜀時鳥の略であるとみる、古時鳥と、間違えて書く例と、合計で
3例を対にして、奔獏を奔横と間違える例を、記載していると読める

からである。つまり、象棋六種之図式の該当箇所には、”他の
将棋ルール本書籍で、大大将棋の初期配列を書いた図に、間違いが
多い”とは実質書いてあるが、

字書き駒を作成したときに、奔獏を奔横と間違う可能性について、
象棋六種之図式では、特に言及にしているようには、読み取れない

という事である。
 では、以上の内容について、以下に解説する事にしたい。
 そもそも問題の雑芸叢書の象棋六種之図式であるが、最近私も、
この書籍の内容が、

web上で閲覧できる事に、ようやく気がついた。

誠にお惚けであり、お恥ずかしい次第である。
国会図書館デジタルコレクション、雑芸叢書第Ⅰで検索すると出てき
て、webのページめくりのページ数で109ページから、雑芸叢書
では象棋六種之図式になっている。
 ただし、小将棋、中将棋が省略されているらしく、前書きの直ぐ後
が、少なくとも国会図書館のデジタルコレクションの内容では、

後期大将棋からになっている。

中将棋のルールについて、象棋六種之図式で、どう捕らえられている
のかについては、残念ながら、象棋六種之図式の、少なくとも
国会図書館デジタルコレクション本では、正確には判らない。後期大
将棋の成り規則が、この版の時点で、中将棋の成り規則と同じとする
と、序文の部分で、確かに記載されている。なお、小さい字で、後期
大将棋について、”中将棋に無い駒の成りは、大大将棋に、合わせる”
との旨、記載されている。つまり悪狼、嗔猪、鉄将、石将、猛牛は、
この書の該当版のケースでは、”不成り”、飛龍は龍王成り、猫刃は
龍馬成りになるようである。桂馬については、不明である。後期大将
棋の、上記悪狼以下の成りに関して、前例や他例の無い、妙な書だ。
ただし、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄著作の経緯が、この象棋六種之
図式には良く知られているように、確かに出ているから、象棋六種之
図式の著者が、将棋纂図部類抄の、後期大将棋の初期配列の直ぐ後に
書かれた、”酔象・麒麟・鳳凰の3駒のみ成り”の記載は、間違いな
く知っているはずである。初期配列図を正確に書かないで、成りルー
ルを説明しようとすると、概して旨く行かない一つの例かもしれない。
 何れにしても象棋六種之図式の後期大将棋の成り等の問題は、本ブ
ログでは、別のページで論じることにして、今回の論題の”奔獏を奔
横と間違える、他将棋書がある”との旨の象棋六種之図式の記載につ
いて、ここでは、問題にする。その記載は、あとがきに近い位置に、
確かに出ている。この部分で、私が、これを読むまで知らなかった点
を列記すると、

1.奔獏の誤記は、古鵄の誤記と対にして書かれているだけでなくて、
古時鳥が、本当は仙鶴の誤記であるという、比較的良く知られた、
象棋六種之図式の指摘とも対であり、3例対で、記載されている。
2.古時鳥が誤記とする根拠が、象棋六種之図式には、実際には詳細
に載っている。つまり”摩訶大大将棋で、古猿の位置と左右対称点配
列なのが、淮鶏であるのだから、大大将棋で、盲猿の位置と左右対称
点配列である、老鼠の成りは、淮鶏の成りである仙鶴であるべき”だ
という、やや無理な論理を展開している。

以上の2点が、実際に読んでみて明らかになった。2は無理な解釈だ
と思うので、取らなくて良いと思うが、今回の論題からは外れるので、
別の機会にでも論じたい。本ブログでは、秦の時代の蜀の王様が化身
した、ホトトギスなので、古蜀時鳥。略して古時鳥が、大大将棋の老
鼠の成りの、正しい駒名との説をとる。
 そして、上記1.の事から、指摘が全部、大大将棋の初期配列図に
関する事であり、

高見研究室の摩訶大将棋のブログのように、これを書き駒の誤字の問
題に結びつけるという論は、話のカテゴリーが違う事柄の混ぜ合わせ

と、本ブログでは考える。

”徳島県の川西遺跡の字書き駒が、奔横と書いてあるとしたら、奔獏
からの、誤字との可能性がある”とは、象棋六種之図式には、特に書
いていないのではないだろうか。

 なお、高見研究室の該当ページでは、”奔横と書いてあるが、本当
は誤字で、奔獏である”と主張しているのは、最初の方だけであり、
その後、この駒の字を、本当に奔獏と読もうとしているので、私には、
高見研究室の該当ページ論旨も、正確には理解できない。なお、この、
何とかいてあるのかという点については、

webの奔横駒の画像を見る限り、”奔横だぞ”と、動機付けられれ
ば、充分に”奔横”と読める程度に、字の墨自体は鮮明

だと思う。ただし、現物を直接見ても、充分に”奔横”と読めるのか
どうかは、私は現地へ行き、現物を見た事が無いので、なんとも言え
ない。よって、

奔横が、出土駒の正しい読みなのかどうかについては、少なくとも、
本ブログのこのページでは、棚上げ

としておきたい。
 むしろ、象棋六種之図式に、

大大将棋の初期配列図を、江戸時代の将棋関係者に書かせると、
将棋関係者の中に、奔獏の位置に奔横と書く人間が居た

という指摘があるのは、その人間の心の中に、”奔王の古形”の記憶
がまだ残っているのかもしれない事を、示唆しているようにも見える。
その点が、むしろ大切なのではないだろうか。なぜなら、象棋六種之
図式的言い回しをすると、

大大将棋では、奔王の位置と左右対称点配列の位置に、奔獏が配置さ
れる

からである。つまり、その大大将棋の初期配列を書いた、江戸時代の
将棋関係者は、ひょっとして奔王の古い意味での駒を、錯乱して右に
も書こうとして、奔横と書いてしまっているのではないか。だから、

ひょっとして、江戸時代中期頃まで、川西遺跡の”奔横”の記憶が、
薄っすらと残っていた事を、むしろ象棋六種之図式が示唆している

のではないか。そのようにも、象棋六種之図式の、この部分は読める
ように、私には思えたのである。(2018/06/01)

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