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2017年から埼玉県児玉郡美里町は猪俣百八燈で花火大会中止(長さん)

遅ればせながら、さいきんwebで知ったのだが、毎年8月15日に
行われ、本ブログで、

解明が極めて難航中の、普通唱導集時代の将棋に関連の疑いがあり

としている、将棋史にとっては、極めて重要な、636年程度続いて
いると、ここでは見ている民間行事、

猪俣百八燈の花火大会が、650年近くに来て、やや危機的

になっているらしい。災害の発生が直接的原因だったと、記憶するが、

2017年の埼玉県児玉郡美里町猪俣の8月15日の花火大会は、行
われなかった

ようだ。今年は、その翌年になるが、6月の時点で、美里町観光協会
のwebページで、中止が発表されていた。
 猪俣百八燈自体の伝統行事が、650年を目の前に消えたとなると、
一大事だが、以下の匿名の書き込みがweb上に、か細く残されてい
る。

投稿者「ミムリン」さん。投稿日2018-07-31
”美里夏祭り花火大会は中止ですが、猪俣の百八燈の行事は開催され
ます。 花火大会ではないけれど奉納花火の打上げがあります。”

関係者からの投稿なようなので、多分信憑性がある話だとみられる。
 ただし、

美里町役場が、”なぜ行っているのか、役人である我々には、わけが
わからない行事だ”

との”心”で、撤退しようとしているのが見えているのも確かだろう。
2017年と2018年とは年が違うから、”事情について”のカテ
ゴリー記載が、本来なら再度必要なはずだが。特にWEB上に、美里
町の見解は見当たらない。
 なお、美里町には、この行事の縁起というべき”事情が”が、判ら
ないはずだと、本ブログで推定する根拠は次の通りである。

埼玉県児玉郡美里町が発行した”美里町史”で、西暦1380~2年
の小山義政の乱や、西暦1386~97年の小山若犬丸の乱、小田氏
の乱等の項目が、すっぽり抜けている。なお美里町史の記載では、
観応の擾乱(”サッタ山体制”)の後に、美里町広木の大興寺の再興
の話等が挿入され、その直ぐ後が上杉禅秀の乱になっている

のである。
 峰岸純夫氏等複数の研究者が、南朝方について没落した、武蔵武士
の児玉党や猪俣党は、小山義政の乱の前後に、上杉憲方や足利氏満が
働きかけて、公方方に取り込まれながら、後期の白旗一揆に再編され、
小山氏の乱の、鎮圧等にかり出されていたとの旨の論文を、かなり前
に出しているのだが。

美里町の町史を編集した時に、編集者が、それらの論文を読み飛ばし
たらしく、埼玉県児玉郡美里町広木の大興(光)寺の再興の項目だけ
の、関連事象とみられる史実の記載だけで済ましている

のである。その結果、その教育を受けた美里町の町役場の役所職員は、

埼玉県民なら、栃木県小山市からかなり遠い、一例として埼玉県春日
部市の市史等にも書いてある、栃木県の小山義政、小山若犬丸の乱に
つき、全く教育されない

という事態に至ったものと、推定されるというわけだ。
 なお、美里町史には、”足利氏満が鎌倉公方だった時代には、比較
的平穏だった”との旨記載されているのだが、隣の本庄市の市史には、
”鎌倉公方が足利氏満の時代には、世情が安定しておらず、関東では
戦乱が多かった”との旨、美里町史とは、正反対の内容が書かれてい
る。私見だが、ずばり

この点については、正しいのは埼玉県本庄市の市史であって、埼玉県
児玉郡美里町の町史の記載では、無い

と私は考える。
 小山義政の乱では、当然、栃木県小山市に居住した武家に、最も
戦死者が多かったのは確かなのだろうが。その次に多い戦死者は、

戦勝者の軍人であった、美里町の猪俣党とか本庄市の児玉党の武士

だったはずだ。たいへんな戦いだったようで戦死者多数であったため、

数百年経っても、お盆に古風な弔いの仏事が行われているほどのもの

だったのだろう。他人とはいえ、同じ地で暮らした先達の弔いなの
であるから、本来ならば、町役場が支援を続けて当然と、私は見る
のだが。

たまたま、町の歴史書を編纂するときの、前記の運の悪いミスが原因

で、猪俣百八燈から、美里町役所が腰を引きつつある事だけは、残念
ながら現状、確かな事らしい。(2018/08/11)

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水無瀬兼成将棋馬日記2ページ。大大将棋と摩訶大大将棋順番の謎(長さん)

本ブログでは、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の内容を、いままで頻繁に
問題にしてきた。所で水無瀬兼成が残した文献には、その他、作成した
将棋具の発注記録とされる、”将棋馬日記”という文書がある。
西暦1590年から西暦1602年の水無瀬兼成筆の古文書である。
 発注者の中に徳川家康、豊臣秀頼等の最高権力者の武家が含まれる事
で、将棋馬日記は著名だ。がここでは、大将棋に関連する問題に絞り、
話題とする。すなわち表題の、第2ページの、大将棋系将棋種の、必要
駒総枚数等を記した部分の内容について問題にする。なおこの部分は、
駒字を書く手間賃の計算かあるいは、原材料である、駒木地発注用の
メモとみられるが、正確には何の用途で書いたのかが、少なくとも私に
は良く判らない記載である。なお書いた動機については、水無瀬兼成に
とり、駒数多数将棋の唯一の買い手として、大阪城から将棋具の注文が
来るのが、彼にとっては嬉しかったためと明解に取れる。
 さて、ここには具体的にはこう書いてある。

大将棋354枚 大大将棋192枚 摩訶大大将棋192枚 大将棋
130枚 以上868枚。

なお、354+192+192+130は、確かに=868である。
なお、将棋の棋は、”棊”だが、残りは上記の書体である。大将棋には
両方”大”であって、”太”は使って居無い。行然和尚の文書の改ざん
も、名称が同じを知っていて、わざと水無瀬は行ったのだろう。”別の
ものに同じ名前を付ける不自然さ”に関する、安土桃山時代の将棋史学
会等からの非難等は、時の最高権力者、豊臣秀次の権威が有れば、容易
に封じ込められると見ていた、この文書は証拠の一つと、私は考える。
実際には、水無瀬兼成等は業務用の言葉として、後期大将棋は130枚
の大将棋、泰将棋は354枚の大将棋と、裏では呼び分けていたのかも
しれない。正しく”130”という数値を書いたとみられる、行然和尚
には、気の毒な話である。
 そこで今述べた、これから述べようとしているのとは別の”大将棋の
だぶったネーミングの謎”については、以上で解決済みと、一応みなす
事にしたい。
 つまりここで問題にするのは、今述べた”大将棋のだぶったネーミン
グの謎”ではなくて、別の不自然さ、すなわち

摩訶大大将棋と大大将棋の順番が逆という問題

である。なぜ泰将棋、摩訶大大将棋、大大将棋、後期大将棋の順番で、
水無瀬は、大将棋系将棋駒の総数を計算するときに足して、い無いのだ
ろうかと言う事である。なお、私が今述べた順番は、言うまでも無く、
水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の順番の逆順であり、盤升目が多いものか
ら、少ないものへ、規則正しく並べたものである。
 よって今回は、この水無瀬が、豊臣秀頼(少年)を注文人とする、
大将棋系の駒セットを作成するときの、駒字を書く手間賃の計算か、
原材料駒木地総数を計算するため等とみられる、将棋駒日記(西暦15
90~1602年)第2ページに書かれた、駒総数の計算方法メモの、
計算方法についての不自然さ

つまり、”なぜ摩訶大大将棋と大大将棋の順番が逆なのか”とする。

 そこで、さっそく答えから書く。水無瀬兼成は、この記載によって

大大将棋の方が摩訶大大将棋よりも後、泰将棋を水無瀬が作る少し前に
出来た将棋である事を、うっかり自白している

と、本ブログでは見る。
 では以下に、上記の結論に至る根拠を述べる。
 将棋馬日記は、水無瀬兼成にとって、業務用の記録書であるから、将
棋駒作りの合間に書くものであり、自分が後で見るために書いたと見ら
れる。よって、業務で通常使う、ミスの出にくい効率の良い言葉を使っ
たのであろう。そして元々水無瀬兼成は心の中で、曼殊院に百年の桁の
昔から記録のあったと見られる、後期大将棋と摩訶大(大)将棋とは別
に、泰将棋を作るために、水無瀬グループでプレ製作された大大将棋と、
その結果完成された泰将棋で、大阪城御用達多枚数将棋はワンセットと、
概念的に、判りやすく把握していたものと考えられる。だから水無瀬は、
その心の中の彼の”駒数多数将棋の世界”を、その通りにメモに書いて、
実際に駒木地を868枚単位で、駒字を書く手間賃の計算のときか、
将棋駒の木地師へ発注するときに、計算を間違えないような書き方をし
たのであろう。
 その結果、対外的に発表するときの順番と、摩訶大大将棋と大大将棋
が入れ替わったのではないか。つまり対外的に、将棋纂図部類抄等では、
大大将棋を発展させて、摩訶大大将棋が作られたかのように書いて、大
大将棋が、それほど古くないのを誤魔化していたのだが。将棋馬日記で
は、計算間違いによる、自分自身のミスのトラブルを避けるため、水無
瀬が関連性の高い物同士と、本当は心の中では見ている順番で、

うっかり、正直に書いている

のではないかと、私には思えるのである。
 つまり、大大将棋は、泰将棋よりも、たとえ成立が少し前だったとし
ても、それは豊臣秀次の依頼で、水無瀬が泰将棋(延年大将棋)を作成
するための、足がかりに作った将棋種に実は過ぎなかったのではないか。
 なお、私は最近、大阪府の島本町教育委員会の久保直子氏が、該当部
分を執筆した成書、”戦国大名の遺宝”山川出版(2015)監修:
五味文彦を読み直して、やっと気がついたのだが、

”将棋纂図部類抄の奥書き”で、水無瀬兼成は、”大大将棋と泰将棋を
記すのに、関白である豊臣秀次の尽力が有った”事を感謝している

という事実がある。つまり、摩訶大大将棋が飛んでいるのである。
ようするに、この書き方は、

摩訶大大将棋は、曼殊院の将棋図に最初から、しっかり載っていたので、
関白豊臣秀次が将棋ゲームデザインを、実は当の水無瀬や、そのグルー
プへ、プッシュする必要が無かったものである

という事の、”物は言いよう”のようにも思えるという事である。摩訶
大大将棋は、形から見てもやはり、室町時代の初期から有ったと、本ブ
ログでは、それでも遅く推定している後期大将棋と関連性が高いもので、

水無瀬兼成も、それは昔から有って当然と、認識していたのではないか。

以上のように、私には、この将棋馬日記、第2ページ目の駒数総数計算
のメモ書きの、”足す順番の謎”は、やはり大大将棋の新しさを示して
いる一つの証拠と、推定せざるを得ないように、思えるのである。
(2018/08/10)

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16升目156枚制天竺大将棋はなぜ天竺大将棋という名称なのか(長さん)

増川宏一氏の成書、ものと人間の文化史 23-1 将棋Ⅰ(19
77)で、ゲームの”ネーミングの意図は、不明ないし特に無い”
との旨、記載されている事で著名な、天竺大将棋のゲーム名の
”天竺”の意味の解明を今回は以下、試みてみる。
 増川氏に続く、本論題に関するその後の研究例は、たぶん無いだ
ろうと、私は見ている。のでここでは特に、先行研究例については
言及せず、以下、早速結論から書く事にする。

江戸時代の日本人にとって、インド(天竺)は、最もポピュラーな
”熱帯の国”だった。ので火鬼という”隣接駒を焼く”、”暑いルー
ル”のある駒数多数将棋に、天竺国の名を付けた

のだと、本ブログでは考える。
 以下に、以上のように解明された経過を、簡単に述べ、ヒントが
書いてあった文書に記載された、その他の情報につき後半に触れる。
 このように推定される根拠は、以下の江戸時代の文書に、

”天竺は大熱国(領土の広い熱帯の国)である”と、書かれている

からである。

頭書訓蒙図彙・複写版(西暦1789年成立)原書編者:中村惕齋。
複写版作者:下河辺拾水。

なお上記の本は、西暦1666年成立の”訓蒙図彙”の模写本とさ
れる。インド(天竺)に関する説明は、第2章(第2冊/10冊)
の”人物”の章の最後の方に出ている。”暑い国なので、この国の
商人は、瑠璃の壷の中に(冷たい?)水を、蓄えている”との旨が、
記載されているようだ。つまり

少なくともインドの特徴が、熱帯に位置する事を表現した、天竺大
将棋の成立時代に近い、古文書が存在する事だけは確か

だと言えると思う。
 尤も実際には、インドは山岳部の気候が違うため、全土が熱帯な
のでは無いのだろう。しかし、中国元代の暦法を取り入れる時代に
なって、地球は丸く、南国は太陽の南中高度が高くて、熱帯である
事を知るようになった18世紀後半の日本人には、インドが赤道に
より近く、暑い領域の多い国である事は、常識になっていたようだ。
またインドが日本よりも広い事は、それ以前に当たり前だったので、
駒の数の多い将棋に、インド(天竺)の名を冠する事自体には、問
題は無かったと見られる。
 他方、天竺大将棋には火鬼という、移動した先の隣接升目の駒を、
”焼く”と通称して取り除くルールがあり、それがこのゲームの特
徴である事も、明らかであった。よって、

焼かれて暑いので、熱帯の大国と引っ掛けたのが、ネーミングのルー
ツである

と、説明できると本ブログでは、めでたく解明できたと考えるので
ある。
以上で、論題の説明は一応終わる。
 さて、冒頭に述べたように、以下に頭書訓蒙図彙から得られる、
その他の知見について述べる。
 この本には、摩訶大大将棋の余り知られて居無い

別称が載っている。”摩訶陀象戯”という名前である。

注意したい点は、将棋の項目が、第5分冊と第10分冊の2箇所に、
この文書ではダブって存在し、しかも、

内容が互いに整合していない。新規の情報があるのは第5分冊の、
項目名”象棊”の方である

という、複雑な事情だ。
第10分冊の項目名”将棊”には、”将棋は周の武帝が起源で・・”
と、当時としては当たり前の内容が、出だしに書いてある。

5と10で執筆者がバラバラで、第5分冊の”象棊”は、どこかの
寺から得た情報の写しのように、私には見える。

根拠は、第5分冊は”器用”の章であり、物品の説明が羅列される
が、将棋や囲碁や盤双六の内容が書かれている前が、寺の置物、
後が筆記具となっていて、”どこかのお寺に陳列されている物”風
だからである。つまり、

摩訶陀象戯というゲームを説明したオリジナル文書が、少なくとも
西暦1789年頃には、どこかの裕福で物持ちな寺に、存在した

事を、示唆しているようにも見える。それが曼殊院なのかもしれな
いし、京都や奈良あたりの、別の大きな寺なのかもしれないが。
 以上の事から、少なくとも曼殊院には将棋図が安土桃山時代には
存在して、特に摩訶大大将棋については、詳しく記載されていたよ
うではあるのだが、

京都の曼殊院だけに、摩訶大大将棋の情報があるだけとも限らない

ような気が、私にはしてきた。摩訶大大将棋にはその他、摩羯大将
棋等の別称も知られるが、”大が阿弥陀の陀であるケース”は、余
り聞いた事の無い将棋名なため、注意が必要な事は確かであろう。

曼殊院の将棋図では、摩訶大大将棋が、”摩訶弥陀将棋”になって
いたというような事が、絶対に無いとも言い切れない

のかもしれない。
なお頭書訓蒙図彙の第5章の象棋では、将棋の発明が”周公旦によ
り行われ、成王に報告された”となっていて、他の古文書と調子が、
多少異なっている。囲碁と混同しているようだ。その点からも、ど
こかの寺の、その時代の古文書を写したような調子である。なお、
第5分冊では、凧上げの凧を、”イカ昇り”と表現しているので、
関西人の執筆者だとわかる。そして、同じ著書の第10分冊(雑
芸/諸芸)では、将棊が”普通”に、”周の武帝・・”になって
いるのである。なお、第10分冊(雑芸/諸芸)の囲碁と将棋は、
同じ訓蒙図彙の系列とみられる、西暦1690年成立の、類書
”人倫訓蒙図彙”の囲碁・将棋と文面が良く似ている。
 良く見ないと、頭書訓蒙図彙は第10分冊だけ読んで、ユニーク
な第5分冊の情報を読み飛ばしそうだが、次の解説書に、索引が付
いているのが、とてもありがたい。

高橋幹夫・芙蓉書房出版(1998。江戸萬物辞典・普及版・
シリーズ「江戸」博物館。)「絵で知る江戸時代」。

 これは頭書訓蒙図彙の、現代文字書きの写し本であるが、この
巻末索引に、第5分冊、第10分冊の両方のページが載っていなかっ
たら、ユニークな第5分冊の内容は、うっかり見逃しそうだ。
(2018/08/09)

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溝口和彦氏指摘の前横斜後歩駒の欠如と布幣のネガイメージの関係(長さん)

溝口和彦氏の将棋史のブログに”左右対称型の歩み駒について、1パター
ンだけ、例の見かけない駒動かし方ルールが有る”との指摘が載っている。
具体的には表題のように、前と左右と斜め後ろの計5方向の何れかに、
歩む小駒である。前か斜め前には必ず行ける組合せで、小駒のルールを
作ると、2の5乗-2の3乗で、24通りの組合せがあるが、その中で、
今述べた組合せだけ1通りが、普通には見当たらないという指摘であった。
 実は最近になって、大阪電気通信大学の高見研究室の摩訶大将棋の
復刻作業の過程で、

溝口氏の認識が、誤りである事が発見された。

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄で、泰将棋だけ、臥龍がその動きなのである。
大阪電気通信大学の摩訶大将棋のブログによると、臥龍の動きは、摩訶大
大将棋では、淮鶏に取り入れ、臥龍の真後ろには退けない、この動きを採
用すべきという事である。詳細は、高見研究室のブログを参照されたい。
 しかし、例外は水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の泰将棋の臥龍だけであっ
て、たとえば将棋図式の泰将棋の臥龍は、将棋纂図部類抄の摩訶大大将棋
と同じく、後ろに後退できる。ので、

前、左、右、斜め左後ろ、斜め右後ろの5方向歩みの駒は、”ほとんど無
い”と表現を変えれば、溝口氏の指摘も依然正しい

事になる。
 ところで私はこの、前、横、斜め後ろへ点を打って、駒の動きを示した
図そのものが、美術デザインとして、中国古代の何かの遺物に、その形が
似ているのではないか、と前から思っていた。

遺物が何か聖なる物品なので、将棋駒ごときに転用できない権威があった

のが、この動きの駒が無い原因ではないかと、具体的な物品が思い出せぬ
まま、漠然と考えていたのである。
 しかし最近になって、この物品が、中国の貨幣の類であるという事に、
ふと気がついた。ずっと前に見かけた書籍の類が、何だったのかを、なん
となく、思い出したのである。
 そこで、早速調べてみると、

”布幣”の形であるのが、貨幣のカタログ本で、難なく直ぐに判った。

なお、私は知らなかったが布は、布切れの類の布ではなくて、農作業に使
う鋤の類を示しており、諸橋徹次氏の大漢和辞典を引くと、そもそも”布
という漢字自体に、貨幣の意味も有る”との事だった。
 ではこの布幣に、聖なる物品のイメージが有ったので、水無瀬の泰将棋
の臥龍以外では、この動かし方の駒が無いという理由付けで、はたして良
いのかどうかというのが、今回の論題である。結論を書くと、

明らかに今述べた、私の以前の認識は誤り

とみられる。
 では以下に、根拠となる調査経過等を述べる。
 そもそも、水無瀬兼成が自身の著書、将棋纂図部類抄の中で、この動き
を臥龍駒に当てて、摩訶大大将棋の臥龍から、後ろへ歩む動きを引いてい
るわけだから、水無瀬兼成以外の江戸時代の将棋史家には、再採用されな
かったが、”水無瀬の泰将棋の臥龍”の動きに、”忌避されるべき明解な、
故事”が無い事が、当然予想される。
 前、横、斜め後ろ歩み駒が無かったのは、摩訶大大将棋の臥龍、古猿、
蟠蛇、淮鶏の動きを、金将のひっくり返し、銀将のひっくり返し、
銅将のひっくり返し、前に行けない金将にしたら、動きがそれで足り、
前に行けない金将の動きの、更にひっくり返しである、問題の”前横斜め
後ろ歩み”のパターンが、特に必要無かったのが、主たる要因とみられる。
 他方水無瀬兼成が、その動きを泰将棋で書いたのは、水無瀬自身か、あ
るいは少なくとも支持した”泰将棋のゲームデザイナー”が、臥龍と蟠蛇
を、隣接して初期配列させたので、臥龍を表題の動きにして、蟠蛇を、
淮鶏と同じ動きのルールにすると、体裁が良かっただけの理由である。
つまり、

臥龍と蟠蛇が並んだら、臥龍の真後ろ動きは、止める事にしたくなると言
う程度の理由

で、前横斜め後ろ歩み駒は、作れる程度の存在だったのである。よって、
中国の古代貨幣の布幣に、私が空想していた”神聖性”などは、そもそも
無かったという、これは傍証だとみられる。
 更に直接的な理由は、

布幣は、古代中国の新王朝が、短期で滅んだ原因の象徴の形

と言う事が、遅ればせながら、私にも調べて判り、以上の仮説が正しい事
に納得させられたからであった。
 布幣は、前漢と後漢の間で15年しか続かなかった、新の皇帝、王莽が、
最終版として設定した物が有名な、変わった形の高額通貨である。そして、
新王朝自体の弱体化により、貨幣の流通が停滞して、経済までが混乱し、
また、使わない者をひどく罰するという、皇帝のタカ派政策が、更に裏目
に出て、王莽の処刑で新が後漢に変わる、主要因となった事で、有名な
通貨の形だと言うのである。なお、この王莽の布幣の、補助通貨だけは、
かなり流通したらしく、日本にもその出土例があるそうだ。つまり、

これは国家が滅ぶ縁起の悪い図柄

であって、前横斜め後ろ歩みの形は、いかにも危なそうな、駒の動きを
連想させると言う事に、なるらしい。そこで理由が無ければ、

無理に採用するような、駒の動かし方ルールでは無い

という事に、少なくとも平安時代頃の、日本の知識人の間ではなりそうだ。
なお安土桃山時代の”泰将棋のゲームデザイナー”は、作る駒の種類が多
かったので、上の故事を、うっかりとして忘れていたのだろう。
 私の考えていた、”前横斜め後ろ動き型の権威”は、実際には、ま逆だ
った。”布幣のような形は神聖で、他で真似のできない図形”という、私
の作ったガセネタは、私の頭の中で考えているだけで、人にその話をした
記憶が全く無いのが、せめてもの、幸いだったように感じる。(2018/08/08)

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中国シャンチー。初手”砲二進四”を後手が咎める手は有るのか(長さん)

前回述べたように、本ブログの見解によれば、中国シャンチーからそれ
とは別のルールの朝鮮チャンギが派生した原因は、表題に一例を示した、
最初から砲を繰り出して、急戦を先手が仕掛ける、初手”砲二進四”を
自明に咎める手が無かったために、朝鮮チャンギのゲームデザイナーに、
”中国シャンチーは、ゲームに難点有り”と見なされ、砲のルールを変
えたのが、始まりではないかと言う事であった。そこでとりあえず、
中国シャンチーを指す、棋力の後ろ盾は無いにしろ、私も実際に、シャ
ンチーの盤駒を並べて、砲をいきなり敵陣に繰り出すと、実際損なのか
どうか、今回ざっと、確かめてみた。結果を先に書く。

実質的に、初手”砲二進四”は有効な攻めでは無く、先手の1手損にな
るようである。しかしそれだけで、大きく形勢が傾くとは考えにくい

という結果になった。従って、

好みの問題で、シャンチーの砲は、チャンギの包のルールへ、移行する
可能性を、少なくとも完全には否定できないように、私には思えた。

以上であるが、以下に結論に至る経過を、いつものように述べる。
 以下の写真は、実際に、帥側が初手”砲二進四”を指した局で、どの
ように局面が進行するかを、後手が有利になりかけた、仕掛け付近の局
面で示したものである。

初手砲2進4.gif

 青丸の中の砲駒が、先手が初手に進4して繰り出した砲であり、仕掛
の局面では、後手から見て争点である、中央やや右辺からは、離れた所
で弧立し、この後の戦闘に直ぐには加わる状態に無い事が判る。つまり、

先手の初手の砲の繰り出しは、後手陣に先制攻撃を仕掛けるのに失敗

したのである。理由は、次の通りである。
 後手はそれ対し2手目に、普通に中央5筋の卒に、馬を上げて繋く
手を指したのである。ただし、2手目がこのように、制限されたという
点では、砲の先制攻撃には、効果が有ったといえる。ところが、その後
後手は、全体として、先手の左辺が薄くなると察知し、左辺の馬で中央
卒に紐を付けながら、右辺の馬は、攻め返しに使った。それに対し、危
機感を抱いた先手は、3筋の卒を1歩上げて、馬の進撃をかわそうと試
みたが、

後手には右象を使い、この相手先手の7筋の一歩上がった卒を、自分の
3筋の卒で捌く手を、巧みに指した

のであった。その結果、結局は最初の砲出しは、一手損に近く主客が
逆転して、後手の方が、中央から残った右砲と右馬を連携させて、先攻
めする展開になり、写真の局面になったのである。
 結果的に見ると、先手の初手”砲二進四”は、ほぼ無駄手であり、実
質的に、これで先後手が逆転したのに、近くなった。普通に先手が、陣
の整備をするような手を、初手に指していれば、先手が1手及ばないよ
うな展開にはならずに、先手がそもそもは、やや有利な、シャンチーの
普通の一局になったように、私には見える。
 以上の結果から、先手に初手から砲を4進されると、後手は初手に
5筋の卒取りが掛かるので、対応する必要があるが、それは普通にシャ
ンチーの序盤の手を、指しているだけである。だから、

後手にはだからと言って、先手の急戦の仕掛けを、明解に咎めるような
手が、指せていると言える訳でもない。

よって、そのような跳び駒としての砲があると言う、アキレス腱を突い
たような、シャンチーを無理に指そうと思えば、指せないという所まで
は行かないようだ。だから、外国産の輸入ゲームに、厳しい目を向けて
いた高麗や李氏朝鮮のゲームデザイナーが、シャンチーの砲を、それを
口実にして別のルールに変える動機付けには、絶対になり得無いと言う
わけでも無いのだろう。
 ざっとだが以上の結果、前回述べたとおりで、自己採点では、だいた
い解釈が合っているようだった。よってまずは、ひと安心した所である。
(2018/08/07)

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朝鮮半島で指されるチャンギは中国シャンチーの改良品なのか(長さん)

”将棋さしすせそ 世界の将棋のカラクリ 日本将棋のひみつ”
宮川亮(2013)というPDFの論文が、web上に掲載されて
いる。個人的に私の目を引くのは、中国シャンチーと朝鮮半島で
指されるチャンギの、性能比較が行われている事だ。私にそういう
発想が無かったからではなく、

優劣を決定する能力が無い

ので、いとも簡単に、それをやってのけている、この論文のその部
分を、羨望の眼差しで読んだ。結論とて宮川亮氏の判断だと、駒の
動きが朝鮮チャンギの方が中国シャンチーより”「有意に大きい」
と判断され、朝鮮チャンギは、中国シャンチーの改良品”と判定さ
れていると読める。この論文にはその他、日本の将棋史関連の問題
が、多数の切り口で論じられている大作である。
 しかし他の問題については、ほぼ本ブログで、すでに立場を表明
した項目ばかりのように見えた。むろん、宮川亮氏の判断に、賛成
の部分もあれば、反対の項目もあるのだが。その中で、今述べた象
棋の論が、本ブログではいままで、右とも左とも判定できていない、
宙ぶらりんな論題と認識され、そのためこの論文の中でひときわ私
には、

中国シャンチーと朝鮮チャンギとで、ゲーム性が高いのはどちらな
のか

という課題に注意が行ったのである。
 そこで、前置きが長かったが、今回はこの、”将棋さしすせそ・・”
の宮川亮氏の、現代の外国の象棋の性能比較の結論の正否を、論題
にし、改めてこの問題に白黒を付ける努力を、本ブログでも、して
みることを試みた。
結論をまず述べる。中国シャンチーと朝鮮チャンギの比較に関する

宮川亮氏に反対の立場を、本ブログでは取りたい。

中国シャンチーに比べて、朝鮮半島のチャンギの方が、やや攻めが
鈍くなっていて、総体としたゲーム性能は、シャンチーの方がやや
高い

と、私は考える。
 では、以下に結論に至る説明をする。
 宮川亮氏の論では、象の行き所の増加と、動かせる範囲の増加で、
チャンギの方が、攻め駒が全体的に強いと判断されている。がこの
判断に、私はそもそも

賛成できない。

シャンギの象は塞象眼の升目が多くなっているので、シャンチーの
象と、総合的性能に、大差はでき無いと私は思う。なお彼の指摘す
る、漢/楚、士駒の動きの増加は、ディフェンスを強くするので、
逆向きだ。
 それより大きな差は、

チャンギの包が、シャンチーの砲と違って、駒を跳び越えないと、
動かせないという点が、攻撃力の低下となってより大きく効く

のではないか。
 チャンギの包は、シャンチーの砲から見ると、行軍将棋の地雷の
ように余り動けず、動かすのに苦労する駒に、私には見える。つま
りチャンギの包は、普通に動くときにも、他の駒を飛び越さなけれ
はならないというルールの制約が、特に終盤にはかなり効くように、
私には思えるのである。
 つまり、攻撃するポイントまで、運搬するのに苦労する駒に、チャ
ンギの包の場合、しばしばなるのではないか。
 だから、

砲と包の差の一点で、チャンギの攻撃力はシャンチーより下がると
見る

のが、本ブログの予想である。全体として攻撃性が強く、勝負が
付きやすいのは、中国シャンチーの方ではないかと、本ブログでは
考えると言う事である。
 他方”将棋さしすせそ・・”で、これと異なる結論が出てくるの
は、包の動かす手間に関する要因を、特に数値化して配点に加えて
は居無い、点数の付け方に問題があると、私は考える。
 なお、宮川亮氏は、”将棋さしすせそ・・”の中で、朝鮮チャン
ギが中国シャンチーよりも優れる根拠として、有力な戦形の数が多
い点を述べている。しかしこれについても、その数が少ないからこ
そ、うまく守らないと、シャンチーの陣は、崩されてしまうという
事であり、防御(ディフェンス)に比べて、攻撃(オフェンス)が
優勢で、激しく面白いゲームになって居る事を、示している一つの
例なのかもしれないと、私は疑う。
 ところで、ではなぜ朝鮮半島では、相手駒を取らないときには、
飛車のように動く、中国シャンチーの砲駒のルールを、わざわざ変
えたのだろうか。この原因について、私にきちんと解く能力は無い。
そもそも、シャンチーのデザイナーは、シャンチーを創造するとき
に、自分自身の棋力を、非常な努力で高めながら、この点を、さん
ざん考えたに違いない、プロの仕事だからだろうからだ。
 ただ、ひょっとすると、朝鮮チャンギのデザイナーが、中国シャ
ンチーが朝鮮半島に伝来した時に、それをあっさりと、崩してしまっ
たのは、次のような理由かもしれないと考える。

朝鮮半島で中国シャンチーが伝来して、それを指したときに、中国
シャンチーの砲のルールだと、攻め急ぎの象棋が指されやすかった

のではないか。つまり、中国での中国シャンチーのように、序盤定
跡に則っての中国シャンチーは余り指されず、合法なら砲を最初か
ら繰り出してゆくような象棋が、朝鮮半島では、伝来初期に、指さ
れる傾向が強かったのかもしれない。つまり、たとえば砲を

いきなり4進させるような手

である。むろんこのような、定跡外れの手は、相手が正しく対応す
れば、指した方の不利になるのが、中国シャンチーのゲームデザイ
ナーの結論だったはずなのだが。しかし、外国から伝来したゲーム
だったので、しばしばこの結果、伝来先の朝鮮半島では、へんな形
で、中国シャンチーの局面が進行してしまったのかもしれない。
これを、

韓国人のゲーマーは、中国シャンチーの砲駒の駒の動かし方ルール
に、急戦戦法を誘導させやすいという欠陥があるからだ

と、取ったのかもしれない。そのため、砲は、相手駒を取らないと
きにも、何か他の駒を飛び越さなければならないように、あるいは
その為に

弱体化されてしまった

のではないか。その結果、駒の強さの全体バランスが崩れ、卒駒は、
中国シャンチーの成り卒の動きを、最初から取れる等に、ルール
改変が行われる等、複数の変化が起こり、今の朝鮮半島のチャンギ
に、もしかすると、なったのかもしれないと私は疑う。
 その結果、我慢できないほどの差ではないにしても、中国シャン
チーに比べると、朝鮮チャンギの方が、わずかに、駒の動きが緩慢
で、勝ち負けが付かず、引き分けとなる確率が、実際には少し増え
てしまっているのではないかという気が、私にはする。
 外国のゲームであり、私にも馴染みは薄いので、自信は絶対とま
では行かないが。本ブログでは、この論題に対しては、以上の見解
でしばらく、様子を見て見る事にしたいと考えている。(2018/08/06)

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9升目標準平安小将棋が同大将棋の横行・飛龍を取込まなかった訳(長さん)

本ブログの見解では、9×9升目36枚制の標準的な平安小将棋は、
院政初期の白河天皇の時代に大江匡房の提案で設定され、朝廷では
永らく後奈良天皇の時代まで、”日本の標準将棋”と、見なされて
きただろうと、してきた。従って、この将棋の進化は遅かったが、
たとえば平安大将棋が形成された時代に、その普及の勢いで、大将
棋の特徴の一部、すなわち飛龍と横行という走り駒等が、平安小将
棋に取り入れられて、ゲームが改善されると同時に、旦代の難点が、
克服されるというような事が、実際になぜ起こらなかったのかとい
う、疑念が有るにはあると思われた。つまり、例を挙げると以下の
ような初期配列の、9×9升目42枚制の、大将棋とのハイブリッ
ド型の小将棋が、例えばなぜ発生しなかったのかという疑問である。

三段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
二段目:口口飛龍口口口口横行口口口口飛龍口口
一段目:香車桂馬銀将金将王将金将銀将桂馬香車

 取り捨ての日本将棋型の初期配列の将棋の方が、飛龍が両方とも
にらみ合う事はないので、更にましだが、もともとの9升目標準平
安小将棋、すなわち本ブログの言う”(伝)大江匡房完成将棋”よ
りは、上記の方が、旦代の行き詰まりが起こりにくい分だけ、幾ら
かましな感じがするのである。そこで今回は、一時的な平安大将棋
の勃興に乗じて、西暦1110年前後に、平安小将棋が、幾らかま
しな形に改善された形跡も、特には無い理由についてを論題とする。
 最初にいつものように、回答を先に書く。

上記の配列の横行と飛龍は、元々の平安大将棋では、陰陽道の観点
から加えられていた。すなわちゲーム性の改善に関して、考察が、
なされた結果、発明された駒では、特になかった。そのために、た
またま平安小将棋のユーザーに、取り入れが検討され無かった

為だと私は考える。そこで以下に、以上の結論について、若干補足
する。
 そもそも、平安大将棋に飛龍、横行が加わったのは、ゲームを面
白くするためではなくて、陰陽道に従い、初期配列の状態から出発
して、これらの駒の動きの軌跡を足すと、五行の相克を表すペンタ
グラムの五芒星型になるためだという指摘を、以前本ブログではし
た。つまり、横行や飛龍のルールは、走り駒を導入すると、ゲーム
が面白くなる等という発想よりも、玉・金・銀・銅・鉄という

5色の将駒を平安大将棋に導入したのと、ワンセットだった

と考えられる。
 しかるに、同じ五行説が根底にあって、あるいは南詔国等におい
て、結果的にはそうなったのかもしれないが、小将棋には、玉・金・
銀の3色しかない。そのため、小将棋に

横行と飛龍を導入するのは、不釣合い

だとして、朝廷の拘束に批判的であった将棋棋士でさえ、平安小将
棋に、平安大将棋の走り駒を導入する事は、余り考えなかったのか
もしれないと、私は思う。
 以上の理由で平安大将棋の駒を、平安小将棋へ移籍するという事
は、少なくとも平安時代には、行われなかったのではないか。
 他方時代が鎌倉時代になると、徳島県徳島市上八万町川西で出土
している、奔横駒も発生した。この駒の含まれる”川西大将棋”は、
名実共に、”チムールチェス型に、平安小将棋と平安大将棋のゲー
ム性能を、改善した大将棋”の始まりだった。しかし、

奔横という名称も、横行が無ければ意味不明なので、このときにも
平安小将棋には、導入されなかったと見られる。

そのうち恐らく13世紀には、角行、堅行、飛車、龍王、龍馬・・
が、大将棋には発生し、更にゲーム性の優れたゲームとなったが、

こんどは、駒の種類が多すぎて、どれを小将棋に移籍するのか、
任意性が増えすぎた。

結局の所以上の経過で、小将棋の改善は困難となり、他方朝廷の小
将棋のルールに対する、統制が有る程度行われた結果、小将棋は、
かなり長い年月の間、36枚制の平安小将棋のままになったのでは
ないかと、疑われるような気が、私にはしているという訳なのであ
る。(2018/08/05)

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平安大将棋と後期大将棋と摩訶大大将棋。隣接駒数差が定数の理由(長さん)

前に、大阪電気通信大学高見研究室の摩訶大将棋のブログに出ていたが、
平安大将棋と後期大将棋は各々一方の駒数が、34枚と65枚で31枚差、
後期大将棋と摩訶大大将棋の、それは65枚と96枚で同じく31枚差で
ある。高見研究室の摩訶大将棋のブログでは、これを、進化の順番と
解釈した。摩訶大大将棋→後期大将棋→平安大将棋と進化した証拠だと
主張している。しかし本ブログでは、以前述べたように、

これに反対

である。

平安大将棋の方が、後期大将棋よりも成立が先

とみているからである。順番は、平安大将棋→後期大将棋≒摩訶大大将棋
と言うのが本ブログの見方

である。特に、後期大将棋と摩訶大大将棋の成立間隔は短く、平安大将棋
はずっと先と見るので、高見研究室の指摘する、2種の大将棋間の駒数差

”31枚ルール”は、たとえ、後期大将棋が3番目だったとしても、
後期大将棋が成立した頃には、考慮に入れられなかった疑いが強い

というのが、私の考えである。

 しからば、なぜ平安大将棋と後期大将棋と摩訶大大将棋の駒数差の
第一階差が31で定数なのかについて、本ブログの見解を述べるべきと
いうのが、今回の論点である。
 いつものように、最初に答えを書く。本ブログでは、
(1)平安大将棋がゲームデザインをする過程の初期に、11升目で
3段配列で駒が、隙間無く詰まった原案が存在したのが、こうなった主な
原因
とみる。そして、
(2)後期大将棋については、同じくゲームデザインの初期に、15升目
で4段配列で駒が、隙間無く詰まった中間種、普通唱導集大将棋を経由し
て、成立した。摩訶大大将棋の成立時には、後期大将棋の形成過程に関す
る記憶が残っており、摩訶大大将棋に関しては、同じくゲームデザインの
初期に、19升目で5段配列で駒が、隙間無く詰まった原案を経由して、
成立した。
(3)(2)と(1)から、平安大将棋と後期大将棋と摩訶大大将棋の
駒数差の第一階差は、27と35になるが、27と35という数には、
互いにさほど差が無く、微調整の過程で、31という定数になる可能性
が存在した。
(4)(3)に関して、実際には、大将棋が獅子・麒麟・鳳凰分の重なり
の増分で、階差を30と32に変化させ、摩訶大大将棋が、獅子・麒麟・
鳳凰・2枚の悪狼分の重なり5枚の増分と、飛龍と猛牛と桂馬の外隣接升
に空白を作った事による6枚の減分の相殺で、1枚分の減を生じさせた結
果、階差を30と31とするように作用した。またたまたま平安大将棋の
注人だけが元々一枚だけで2枚無かったので、階差は31で定数になった。
ようするに、(1)と(2)に述べたように、

プレ平安大将棋の 11×3段配列=33枚
プレ後期大将棋の 15×4段配列=60枚
プレ摩訶大大将棋の19×5段配列=95枚
というゲームデザインの過程での、中間試作種が、差をだいたい31枚に
してしまう主要因と、ここでは見ると言う事

である。
 では以下に若干の補足を加える。
 最も大きい原因は、西暦1110年頃に、9×9升目のいわゆるポピュ
ラーな、平安小将棋に対抗して、第2標準を作ろうとしたのが、平安大将
棋の正体だったという事になると本ブログでは考える。そのため、実際に
は結果的に13升目の平安大将棋が成立したとみられるが、本ブログでは

原案の段階では、平安小将棋よりも少し広い11升目の将棋が検討された

はずと見るのである。その将棋は、本ブログの見解では、駒はびっしり詰
まって、桂馬が2段目に有る等で難が有り、最終的には採用されなかった
と、前に本ブログで説明している。後期大将棋と平安大将棋との駒数が、
片側31枚と大きく、平安大将棋がスカスカなのは、その為であると言う
のが、本ブログの見方である。本ブログでは、平安大将棋の成立の動機が、
根幹中の根幹の議論なので、以上の論は本ブログでは、最重要である。
 なお、そのとき仮定された、11升目の将棋例は以下の通り。

四段目:口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口
三段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
二段目:奔車桂馬酔象飛龍猛虎横行猛虎飛龍酔象桂馬奔車
一段目:香車鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将香車

 次に、本ブログでは後期大将棋は、普通唱導集時代の、駒が13升目で、
4段までびっしり詰まった将棋の、15升目化が成立の正体だと見ている。
なお、本ブログの推定だが、13升目が15升目になったのは、中将棋盤
が4×3升目の12升目なので、5×3升目の15升目が、尤もらしいと、
南北朝時代の終わりごろまでには考えられたからである。
 従って、駒がびっしり詰まった将棋を経由しているという点で、平安大
将棋と同じだが、

そうなる動機に、平安大将棋と後期大将棋との間に、繋がりは全く無い

と見る。しかし結果として、どちらも駒びっしり型だったので、
11升目が15升目に、段が3段が4段に変わっただけで、関連性が、

たまたま出てしまった

とみる。そして、摩訶大大将棋は後期大将棋と、どちらが先であるにせよ、
同じパターンで作られたものなので、15升目が19升目に、段が4段が
5段に取り替えられて作られただけと見る。そこで、

全く偶然に升目が11、15、19、段が3、4、5と、どちらも直線に
乗る形になった

と、本ブログでは見るのである。しかし、これでは、注人、仲人を更に
1、2、2枚と入れる事にすると、片側駒の数は、

平安大将棋が34枚、後期大将棋が62枚、摩訶大大将棋が97枚で、
階差は28と35で、同じになるわけでもない。結局31で定数になった
のは、結論(4)で述べたように、後期大将棋と摩訶大大将棋では、
中央には駒を詰め込むような、ゲームデザインの微調整の過程での

偶然と言えば、偶然というだけの事であるというのが、本ブログの立場

である。なお、摩訶大大将棋と大大将棋の片側駒数が、どちらも

96枚なのは、本ブログの見解では、24節気+72候の数で同じを目指
したから

だからと、以前表明している。
 それはともかくとして、以上のように13升目で確定した平安大将棋が、
実は11升目ゲームを経由しているために、後期大将棋の中将棋よりも、
3升目づつ大きな15升目、摩訶大大将棋の囲碁盤に対応する19升目と
の階差4と同じ階差、一辺升目数の階差4に、平安大将棋と後期大将棋の
間で初期の段階でなっていたというのが、駒数の第一階差が31で同じに
なった、そもそもの主な原因だったと、ここでは考えているのである。
(2018/08/04)

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東京都文京区本郷元町の”太子成り酔象”。朝倉小将棋か中将棋か(長さん)

表題の旗本武家屋敷跡として知られる遺跡の出土駒を、以前このブログ
では、単純に中将棋の駒とみなした。しかし元々この出土駒は、単品一枚
しか出土していない。そこで、朝倉小将棋の酔象駒でない証拠を、一応示
す必要があったとみられる。
そこで、もしやと思い、水無瀬兼成駒の中将棋の成り太子酔象と、江戸時
代使用とされる、問題の出土駒を比較してみた。結論を先に書くと、

この酔象出土駒は、書体が水無瀬の中将棋駒の酔象のそれと、事実上同じ

である事が判った。つまり、

中将棋の駒であって、水無瀬兼成が作成した実績がないとみられる、
朝倉小将棋の駒では無い

らしい。
 以下に、結論に至る経過をざっと、説明する。
 天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に、水無瀬宮に残る、水無瀬兼成作の中
将棋駒の表面だけは載っている。”酔象”という字については、比較は、
上記書を使用するのが早い。酔象の書体は、水無瀬駒と、東京文京区

本郷元町の出土駒と、同じ

だと、私には見える。少なくとも、出土駒の字を書いた人物の手元には、
水無瀬兼成筆の酔象書が存在しており、その字を習字としての手本にして
いる事は、間違いないように見える。
 次に、裏面の”太子”については、前にも紹介した事のある、増山雅人
氏著、将棋駒の世界、中央新書、2006年に、カラー写真で水無瀬駒の
”太子”の文字が載っている。それを見ると、”子”の字の第一画目に、
短い”ノ”のような”開始線”を入れるのが水無瀬中将棋駒の特徴で、

本郷元町の出土駒は、この点でも水無瀬の中将棋駒と全く同じ

である。以上の事から、ここで江戸時代に、朝倉小将棋を指すために、
我流で、この酔象駒を作成した可能性は、かなり低そうだ。将棋駒は将棋
駒でも、水無瀬兼成作級のの高級な中将棋駒が、出土したと考えるべきで
あろう。

このような高級品の中将棋の駒セットが元々、東京都立工芸高校校舎の地下に
は眠っていて、現時点ではたまたま控え目に見ても”書写された酔象”
だけが、発掘されている

ように、私には見えた。
 将棋史研究上だけでなく、コレクションとしてもかなりの宝が、東京の
学校の地下には、未だに眠っている可能性があるようである。(2018/08/03)

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江戸時代大阪高槻城三の丸遺跡の中将棋の小型駒はどう使ったのか(長さん)

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(天童市将棋資料館、2003年)に、
大阪高槻城三の丸遺跡で、西暦1990年頃出土した、将棋駒と中将棋
駒が、記載されている。関西では、まとまって中将棋駒が出た遺跡は
ほかに無く、他に兵庫県の御着城遺跡の、成り飛鷲(?)龍王駒1枚と、
同じく兵庫県の宮内堀脇遺跡の、成り堅行銀将駒の一枚だけがある。
 それに対して、高槻城三の丸遺跡からは、中将棋の駒が20枚以上出
土し、そのうち駒名が判るものだけでも、10枚近くある。しかも、
この中将棋の駒は、普通の将棋駒が、長さ3cm程度なのに対して、

長さが2cm程度、幅が1.5cm程度と小ぶりで、薄い板を手作りで
切って作ったような駒

であるという、大きな特徴がある。このような小型駒は、少なくとも
中将棋に関しては、全国的にも例が無い。そこで今回は、この長さが
2cmの小さな駒が、存在する原因(1)と、何を意味するのか(2)
を論題にする。さっそく結論から、何時ものように書く。

(1)長さ2cm駒を作ったのは、囲碁盤で指すため

と本ブログでは考える。また、これの意味するところは、

(2)城でも中将棋は江戸時代には、レアーになりつつあり、その道具
は、比較的中将棋が盛んな関西に於いても、総じて不足していた

という事が言えると、本ブログでは考える。なお、(2)の点について
補足すると、

関西では、中将棋というゲームを保存しようと言う強い意志が、江戸時
代には、まだあったと感じられる

と私は見る。
 では、以上の点について以下補足説明する。
 まず、高槻城三の丸遺跡で出土した、中将棋の駒は、皆大きさが揃っ
ている。つまり劣化して、駒名が消えてしまった駒が、約12枚あり、
残りの9枚程度が、何の駒だか、わかる状態と認識する。内訳は、
成り”と”歩兵が4枚、成り飛牛堅行、成り奔猪横行、成り龍王飛車
成り獅子麒麟、成り不明の銀将、以上9枚である。そのうち、歩兵駒
とみられる4枚を除き、

残りの5枚の皆に、駒の動かし方ルールを示す線や打点が見られる。

この事から、これを”ひな壇”等に飾ったとは、考えにくい事が判る。
大きさは、最大の成り獅子麒麟でも、長さが2.2cm、幅が1.4
cmである。また、江戸時代の将棋駒と異なり、厚みはほぼ一定で
寸胴型なので、中世の駒のやや短い形で、箱庭の家型である。つまり、
頂角は典型的な将棋駒より、やや鋭角で、精巧な将棋駒の模型ではな
くて、”手作りの駒”の雰囲気が、良く出ている。
 そこでこの駒は、当然、普通の将棋盤より、升目の細かい遊戯盤で
指すためのものと、自明に推定される。この駒の大きさは明らかに、

通常の囲碁盤の升目(2.5cm×2cm程度)でちょうど良い。

また、聖目の内側の12升目だけを使えば、囲碁盤で中将棋が兼用
でき、天元の星は、余り気にならないだろうから、

囲碁盤の中央部に、出土駒を並べて指したというのが、最も可能性
が高い

と、私は思う。13路の囲碁の練習盤が、当時高槻城には無かったと
は断定できないが、数は囲碁の道具よりも少ないだろうし、聖目が、
升目で、3段目に打たれているだろうから、その盤では邪魔だろう。
 いっけんすると、急場凌ぎに、中将棋のマニアが小型駒を作り、
囲碁盤をかすめて中将棋を指したようにも見える。が、このケース
はそうではないと、私は考える。根拠は、
成り龍王の飛車駒の両面や、銀将に、駒の動かし方のルールを示す、
線と打点がある事である。

中将棋のマニアは、ほぼ100%日本将棋は指せると見られるので、
マニアの仕業なら、中将棋の飛車駒や銀将駒の表面に、ルールの打
点など、そもそも書き入れるはずもない

と私は思う。なお、高槻城からは日本将棋の駒が多数、共出土して
いるが、それらの駒に、駒の動かし方のルールを示す、打点等は無い。
 よって、この事から、

”中将棋の手習い講座”というのが、仰々しくその時代、高槻城に
存在して、そのとき使われた道具

にほぼ、ま違いないと思う。”中将棋の指し方講座”をするには、
日本将棋にも中将棋にもある、

飛車や銀将にも授業の進行上、動かし方ルールの打点を予めしてお
く必要がある

と、私は考えるからである。
 たまたま中将棋盤が無いから、このような遊戯具を、手作りで
作ったのであろうが。しかし、適当に手作りで中将棋盤を用意する手
間と、小型中将棋駒の駒木地を、手作りで作成するのとで、さほどの
手間の違いが、そもそも有るとは思えない。駒木地は日本将棋と同じ
なものを調達しておいて、中将棋盤を手作りした方が、むしろ中将棋
の指し方講座をするには、楽なはずだ。しかし、実際には、

何か理由があって、城にあった囲碁盤を、無理にでも中将棋では
使いたかったのだろう。

姫様が、持参した三面を使って子息達に、姫様の家では盛んだった、
中将棋を伝授する、イニシエーションでも行ったのだろうか。
今となっては良く判らないが、

三面等特定の機材を、授業の道具に、どうしても使いたかったので、
将棋駒の方を、それに合わせて作るという、何らかの事情が存在した

のであろう。今のは一例であって、はっきりとした理由は、不明で
ある。
 何れにしても、通常なら中将棋の普通の道具が、関西の大名の城
にはあって、それを使って、中将棋を指せば良いだけの話のはずだ。
 それはこの時点で、大阪府の高槻城では、たまたま出来なかった
ので、わざわざ小型の中将棋の駒は自作された。

全体としてみれば、関西の都市部でも、中将棋は衰退期に入って道
具は品薄であり、しかし熱意のある家柄の所では、教育が行われた

という事を、高槻城の例は、示しているのではあるまいか。
関西でも、宝物に近いため、廃棄されることのほとんど無い中将棋
道具は、江戸時代には生産されることも、かなり稀だった。したがっ
て、関西でもその程度だったため、ましてや、駒数多数将棋の勢力
の弱かった江戸では、加賀前田藩の屋敷跡から、成り太子酔象が一
枚出土する程度に、中将棋は次第に、寂れてきていたのであろう。
(2018/08/02)

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