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富山県で鎌倉時代の”成金は全”曲物底板出土か(長さん)

本ブログではこれまでの所、将棋のルールが
書かれた出土遺物の存在は、神奈川県鎌倉市
に限られていると見ていた。しかるに今回、
その他の地域からも遂に、

初の将棋ルール出土遺物らしき物を見出した

ので報告する。発掘地は、富山県高岡市の
手洗野赤浦遺跡で出土したのは西暦2000
年前後の事のようである。墨書が有るとの旨
の記載は、発掘報告書中に特に見当たらない。
曲げ物の底板の破片とされ、重要度に於いて
通常の出土遺物の一として、永らく眠ってい
たようだ。
 発掘報告書は、いつものように奈良文化財
研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。
写真の載っているpdfファイル名は、
以下の通りである。
13882_8_岩坪岡田島遺跡・手洗野赤浦遺跡・近世北陸道遺跡発掘調査報告.pdf
発掘報告書の表題は、以下の通りである。
富山県文化振興財団
埋蔵文化財発掘調査報告第35集
岩坪岡田島遺跡
手洗野赤浦遺跡発掘調査報告
近世北陸道遺跡第一分冊、
財団法人富山県文化振興財団埋蔵文化財
調査事務所、2007年。
その報告書の図版117のページの左上にあ
り、遺物番号は手洗野赤浦遺跡の第14番と
の旨で、ナンバリングされている。

手洗野赤浦遺跡成金書体.gif

どちらが曲げ物底板破片のオモテ・裏なのか、
私には良く判らないが。図の右の方の面の、
破片の右の方から、

”施(スナラバ、将棋ノ)馬ノ成名ニ於イテ
全(ハ)成金将(ノコト也)。”と書かれて
いる

と私が読んだ。

『成り金将の字としては、”と”や、”今”
の崩し字の”ケ”金ではなくて、”金”の
楷書に比較的近いもの、一文字で良い。』と
の意味

と私は考える。間違いないとしたなら

大発見だ。

これにより、偽書として麒麟抄が普及する少
し以前の鎌倉時代初期に、将棋の成りとして、
極崩しの金にするという習慣が、少なくとも

公式の話としては、無かった事を示している

と見られる。なおこの遺物が鎌倉時代前期で、
鶴岡八幡宮境内出土駒の”と金”成り歩兵よ
りも、少し前だと言う旨は、以下の分割され
た別のpdfファイルに記載がある。
13882_3_岩坪岡田島遺跡・手洗野赤浦遺跡・近世北陸道遺跡発掘調査報告.pdf
そこの”円形板”と書かれた項の直ぐ下に、
この遺物の説明が有る。成立年代は12世紀
末~13世紀中との事である。西暦1300
年前後とみられる、鶴岡八幡宮境内出土の、
成り”と金”歩兵よりは、少し早い。
 本ブログでは、大将棋系の角行・竪行・
横行の成りが金になったのは、小将棋の成り
が、南北朝時代直前の頃の麒麟抄の成立で、
”と金”になったため、駒道具の管理上紛ら
わしいので、不成りにしていたのを、そうし
なくても良くなった。その結果室町時代から
戦国時代まで、安土桃山時代に水無瀬兼成が
現れるより前には、大将棋の成り金は、楷書
に近い金で表現して、平安小将棋の駒と区別
し、こうしてルール上

金成りになるようにしていた

との解釈を取っていた。つまり、この論だと、
鎌倉時代には、小将棋(平安小将棋)の成り
金の金の字は、大きくは

崩さなかった

と仮定したのだが。そう仮定して良い

物的証拠の疑いの有る遺物が、1品出てきた

と言う事になる。
 書いてあるメディアが、食器であり、単な
る落書きなのは明らかである。字も特に”全”
が、かなり薄い。そこで詳細、これ以上の事
が言えないのだが。少なくともこの遺物は、
発掘報告書全般の墨書遺物の文字には、遊戯
史史料が眠っている疑いが有り得ると見て、
その類の遺物は残らずチェックし、内容を確
認するだけの価値が有る事を、

ほぼ100%示した。

以上のように、私は確信するようになった。
(2021/01/24)

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