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古利根川・埼玉県南東部部分は、鎌倉時代には無かったとの文献(長さん)

利根川の変遷については、きちんとした文献が15世紀以降からのもの
らしく、古い時代の状態については、仮説的な部分もあると聞いている。
本日、チェックしたところ、利根川の歴史に関する文献で、表題のよう
なものを発見した。幾つかの成書を比較してみると、かならずしも、こ
れと合っているものばかりではないようで、埼玉県北葛飾郡松伏町沿い
の、利根川の存在について有りと図で示した、表題とは矛盾する内容の、
書籍もあるようである。そこで少なくとも、ここで紹介した書籍の説で
はという事になるのだが、

松伏町沿いの”古利根川”が発生したのは、享徳の乱(15世紀)の際
という事になっていて、下河辺行光が、埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩付
近に、館を作っていた時代には、松伏町の松伏や赤岩付近に、大きな川
は、実は流れていなかったという事らしい。

では、この書籍で”利根川”が、鎌倉時代前期にどうなっていたのかと
言うと、”埼玉県北葛飾郡松伏町付近では、”

元荒川と利根川とは、じつは同じもので、今の元荒川に近い位置に、
鎌倉時代当時の利根川が有ったと言う事のようである。

ちなみにこの書籍には、元荒川の流路として、以下大事な点だが”埼玉
県北葛飾郡松伏町と越谷市付近の部分について、”大正時代と、同じ流
路の図が、第43図として載っていた。そこで、以下は私見だが、

鎌倉時代の元荒川は、”埼玉県北葛飾郡松伏町と埼玉県越谷市付近の流
れについては”、たぶん今の、新方川付近を中心として蛇行する、大正
時代とは、ぴたりとは合わない、標高の最も低い地点を、自然に流れる
恐らく今より、川幅の広い流れだったのだろうと思う。

根拠としては、埼玉県の遺跡の発掘分布を見ると、大正時代には畑台地
だったという、書籍の言うところの”鎌倉時代の利根川”の川岸・北岸
にあたるはずの、現在の埼玉県越谷市東越谷南域では、貝塚や古代の住
居跡等が、発見されているという話が、全く無いからである。ただし、
もっと南東部の、現在の中川にだいぶん接近する、越谷レイクタウン駅
北東の、埼玉県越谷市大成町8丁目付近で、古代の住居跡らしきものが
発見されていると、私は確認している。そして、埼玉県越谷市大成町8
丁目付近は、中川合流後の古利根川と、新方川と元荒川とが、もともと、
現在はすべて同士が合流地点に近くて、川同士が接近した場所なので、
今の元荒川を挟んで、現在の新方川沿い、鎌倉時代以前の利根川の地点
の遺跡と見ても余り、間違って、い無いということだと私は考える。
ちなみに、ここは現在は、造成が進んでいて、私が最近確認した限りで
は、遺物は、地表には散乱していない所と思っている。何れにしても、
館があるとすれば、どこかの台地の、どのくらいかは良くわからないが、
とにかく今よりは広大に広がった、鎌倉時代当時の利根川流域の、全体
としては、中州のような場所なのであろう。動き回りかつ、幅もはっき
りしない”川”ではなくて、それ自身は、そう大きくは変動しないと
期待される”台地”が、どうやら唯一の、館の目印のように私には思え
てきた。なお、”鎌倉時代の利根川は、武蔵と下総の国境”との事なの
で、現在の県境にあたるものが、鎌倉時代~室町時代初期については、
こんなにも、今となっては推定が不確実とは、何とも驚くべき事ではある。
(2017/03/11)

古利根川等、川筋の変遷のチェック(長さん)

前回、古利根川沿いの両岸調査を、ほぼ完了した趣旨の事を
このブログで記したが、念のため、古利根川の川筋自体が、
現在と中世とで、大きく変化して、い無いかどうかを、文献
でチェックした。

 言うまでも無く、元の利根川が古利根川になったという、
大変化はあるのだが、埼玉県の松伏町付近の川筋については、
余り大きな川自体の移動は、記録されていないようだった。

ただし、現在古利根川が合流した後の中川と交わる、元荒川
については、合流地点の比較的近所で、現在よりも大きく東
に、昭和の初期には蛇行しており、元荒川の川筋は、結局こ
の70年で大変化していたという、新情報を私は得た。
すなわち”埼玉県越谷市(丁目なしの)越ケ谷と、同越谷市
宮前は、現在では元荒川の東岸であるが、今からたった70
年前には、元荒川の西岸にあり、その周りをループ状に、
元荒川が流れていた”、との事である。すなわち、埼玉県
越谷市東大沢、同越谷市花田、同越谷市東越谷付近が、
第2次大戦、戦後まもなく、西暦1948年当時の航空写真
によると、元荒川の川中だったらしい。
 もっとも、恐らく中世には、(元)荒川は氾濫のたびに、
川筋が変わり、新方川付近の低地帯を中心に、蛇行して流れ
ていたのだろう。また古利根川の方も、”川筋を西に動かし
続けた”との情報が、webにも載っている位だから、今の
松伏町松伏~赤岩を中心とした、”台地”上に流れがあった
とは、考えにくく、今より西よりに300m程度づつ、やや
ズレて、すくなくとも流路の一部があったと、推定して良さ
そうな気がした。むろん、松伏町松伏”台地”の東側にも、
利根川は中世、複雑に自然な分流を、作っていたのかもしれ
ない。
 何れにしても、埼玉県越谷市東大沢、同越谷市花田、同
越谷市東越谷付近は、全体として中世には、広い地域が、
沼に近いような湿地だったのだろう。だから、ここに遺物が
あるとしても、これらの地域を中心に、広い範囲に自然拡散
した結果が、見えるだけのものであり、たとえば武蔵武士の
使った木製遺物の発見は、掘削したとしても相当に難しい、
”薄まった散乱物の捜索”と予想した方が良いように、私に
は思えたのであった。(2017/03/10)

吉川市須賀より南の中川の調査(長さん)

3月8日、これまで行ってきた、古利根川の埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩
を中心とする、伝下河辺行光館跡の推定地の調査のいっかんで、これまで、
調査しなかった、吉川市川藤榎戸・須賀より南の、古利根川に続く中川の
流域について、ざっと調査を行ってきた。結論を先に述べると、

埼玉県吉川市須賀より南の川の東岸は、開発が連続して進んでおり、地表
を探索しても、舗装が進んでいて、コンクリリートとアスファルトで地面が
概ね覆われており、手がかりを得るのは、かなり困難な地域が河口まで
続いていることが、判った。

すなわち今回、吉川市須賀のすぐ南の対岸、埼玉県越谷市中島より、吉川
橋を渡って中川の東岸へ出、以下中川に近い領域をチェックをした。
すなわち、
埼玉県吉川市吉川、同吉川市平沼、同吉川市保(ほ)、同吉川市木売、
同吉川市高富、同吉川市高久、同吉川市中曽根、同吉川市道庭、
埼玉県三郷市彦糸、同三郷市彦音、同三郷市彦成、同三郷市上彦名、
同三郷市彦川戸、同三郷市天神、同三郷市彦野、同三郷市彦倉、
同三郷市上口、同三郷市番匠免、同三郷市彦沢、同三郷市彦江、
と見た、吉川市吉川以南は、舗装道の両側にコンクリで地面を覆った状態
の、新興住宅が続いているような領域であった。恐らくこのあと、
埼玉県三郷市花和田、同三郷市谷口、同三郷市栄、同三郷市戸ゲ崎、
埼玉県八潮市大瀬、同八潮市古新田、と続いて東京堵葛飾区西水元に入る
わけであるが、コンクリで地面が固められた宅地が、東京湾まで切れる事
は、たぶん無いのではないかと、予想された。
なお、埼玉県三郷市彦江より、常磐自動車道に沿って共和橋を渡って中川
の西岸に入り、更にここからは中川の西岸の川に近い領域を、実際には更
に見てみた。
すなわち、
埼玉県八潮市木曽根、同八潮市二丁目(下)、同八潮市木曽根東飛び地、
同八潮市南川崎、同八潮市伊勢野根通りと見た。なお、こちらもここより
南に更に、
埼玉県八潮市大瀬(西側)、同八潮市古新田(西側)と続いて、東京都
足立区六木に入るわけであるが、コンクリに概ねここから南は海岸まで、
覆われているだろうと、予想された。
 なお、西側については、埼玉県越谷市中島から、今回は調査しなかった
中川の西岸を行くと、

埼玉県越谷市東町、埼玉県草加市柿木町、埼玉県八潮市八条・・となるが、
この3つの領域については、開発が進んでいない場所が、まだあると、み
られる。

 ただし、さらに中川に沿って、西岸の領域を行くと、
埼玉県八潮市八条から、埼玉県八潮市鶴ゲ曽根、同八潮市二丁目(上)を
へて、今回調査済みの、埼玉県八潮市木曽根に至るが、鶴ゲ曽根より南は、
やはり開発が進んでいて、余り期待が持て無い所と、私が以前これらの地
域を通った経験があるため、たぶんいえると考える。
何れにしても、北の埼玉県春日部市の当たりは、古利根川沿いは、”沼”
を連想させる地域が広がっているし、吉川市の市街中心より南は、開発さ
れていて、地面を見ただけでは、何も発見できない状態になっているので、
かつての下河辺荘の下河辺氏を調査できるエリアは、案外限られていると
の心象を、本日の調査で、私は得ることが出来たと思っている。(2017/03/09)

東京都港区愛宕下遺跡、裏二文字金将鉄将駒状木片と当時の大名屋敷の住人(長さん)

3月7日、先だって江戸時代の遺物の成書で読んだ、東京都港区愛宕
の、愛宕山下遺跡の出土駒状木片の出た、江戸時代の愛宕下大名屋敷
街の住人について、江戸時代の古地図帳で、関連する人物が居るかど
うか、念のためチェックしてみた。当時の地域名で愛宕下現地に、
大名屋敷は20軒位、大名屋敷自体は、もっと広範囲に付近にも広が
っており、もとより駒の持ち主は、厳密には特定しにくい。が、
怪しい屋敷名として、「長谷川為次郎」屋敷というのが、愛宕山(当
時標高26m)の、比較的近くに存在する事が判った。

静岡県焼津市の小川城遺跡の出土駒が、中将棋の駒である事が知られ、
その城の持ち主が、webの情報によると、長谷川平蔵等の先祖とさ
れるため、苗字が同じである”長谷川為次郎”には、一応の注意が、
必要だろう。

ただし、この港区愛宕の江戸時代の屋敷に住む”長谷川為次郎”と、
焼津の小川法長者や子孫といわれる、長谷川平蔵との関係は、良く
わからない。webを調べてみると、

岡山県の江戸時代末期のの小領主に、長谷川為次郎の名が見え、
ひょっとすると、この愛宕の江戸時代の屋敷の主と同一人物かも
しれないという点が、判る程度である。

現在の地名で東京都港区愛宕に当たる、江戸時代の愛宕下の大名屋敷
で、駒数多数将棋と、繋がりを感じさせる人物の名は、今の所、これ
だけのようで、新たな知見は残念ながら少ない。(2017/03/08)

横行の移動の原因(長さん)

両方に存在するだいたいの駒は、平安大将棋と後期大将棋で、ほぼ
似たような位置に初期配列される傾向があるのだが、同じ大将棋で
もその位置パターンが、大きく変化する駒がある。代表例は”横行”
である。つまり横行は、平安大将棋では中央中段に配列され目立つ
が、後期大将棋や中将棋では、端列の方の歩兵列下になる。しかも、
後期大将棋・中将棋ともに、竪行と対配列となり、更に後期大将棋
では、角行とも並ぶ。つまり、

横行人という意味の横行から、竪・横・斜めと3つの対からなる、
動く方向を示す語と対の、「行」の類の駒に変化すると同時に、
龍駒よりも弱いので、兵下列の端の方へ移動しているのである。

この事から「横行人」という言葉が、古代語の範疇のものであるた
め、中世の守護大名時代に指された後期大将棋の時代には、廃語に
近くなっており、言葉の古さが意味を変質させて、駒の配列を変え
たのであって、特に将棋を面白くしようとした意図ではない、と私
には予想された。
 実際にwebの情報を見る限り、世界大百科事典の「横行人」の
項から見ても、その解釈で間違ってい無いように思われる。すなわ
ち、

世界大百科事典によれば、「横行人」という言葉は、朝廷・荘園領
主が彼らの目線で使用した言語であり、それによって卑下されたの
は、中世には支配階級にのし上がった、御家人がつとめた荘官や、
悪党と言われた、のちに大名格にのし上がる者も居た、新興武家勢
力のことだった

という事のようだからである。つまり横行が、傍若無人な振る舞い
という意味もあるものの、そう批判した階層の社会的力が低下して、
言葉自体の社会的な使用頻度が低下すると、横行が「横へ行く」と
いう意味で、イメージされる傾向が強くなり、恐らく鎌倉時代中期
に角行と竪行も発明されると、その2種類の駒の類として、横行が
イメージされる傾向が、強くなったのであろう。
 つまり、古代の荘園領主が中世の守護・地頭に、主役が取って代
わられたのが、大将棋の横行の変化の原因であって、横行の位置を
変える事によって、ゲームを面白くしようという意図は無かったの
だろう。

そのため、平安大将棋が、鎌倉期に横行が角行・竪行と対になる別
の大将棋へ変化しても、より良い別のゲームを作成しているという
意識が、これによっても起こらず、ゲーム名を変える動機付けとは、
なり得なかったのかもしれないと、私には考えられるのである。
(2017/03/07)

古利根川沿いのリバーコーミングを試してみる(長さん)

 3月5日、webのリバーコーミングのやり方に関する情報等を
参考にし、今度は古利根川の川沿い護岸の内部の”遺物”の調査を、
ざっと行ってみた。場所は前回の平方三区と向畑の間の同じ区域、
今度は古利根川の川に、”近い地域”ではなくて、もろに川岸の、
護岸の内部の、川洲の部分を探して見た。しかも、古利根川のその
領域の、両岸をそれぞれ巡回した。
 つまり、埼玉県北葛飾郡松伏町松伏から同松伏町大川戸、埼玉県
春日部市赤沼(南端)へ行政区を越えて川を遡り、ついで古利根橋
を渡り、埼玉県越谷市平方(南端)、同越谷市船渡、同越谷市大松、
同越谷市大杉、同越谷市北川崎、同越谷市向畑の、それぞれ古利根
川の護岸内川岸を探索した。結果しかしながら、

川の流れによる遺物の更新が早く、ごく最近の遺物以外、特に見当
たらないようである。

良い点は、私有地ではないため、捜索に気兼ねが要らないくらいだ
ろうか。
 仮に近くに遺跡があり、そこから川に剥がれ落ちた、中世近世の
遺物が岸辺にゴミとして留まっても、かなり短い期間のため、見つ
かる確率は、ごく小さいようで、川の中そのものに遺物を発見する
のは、難しそうであった。堅固な地表面に露出した状態で、遺物は
発見される確率の方が、残念ながら、むしろ多そうだとの心象を、
今回のチェックで結果としては得られた。(2017/03/06)

埼玉県越谷市船渡字屋敷前の調査(長さん)

2017年3月4日、先に述べた、埼玉県越谷市船渡にある
字名の屋敷X、正確には屋敷前の調査をした。

武道具の店・栄光武道具のある越谷市船渡2084番地付近
が、道路付きから見て、屋敷の跡のようにも見えるが、明確
に土塁と判るものは発見できず、それ以上の事は、良く判ら
なかった。

 今回は結局今まで未調査だった、埼玉県春日部市赤沼の南
端の、古利根川を渡って対岸西側である、埼玉県越谷市平方
のバス停、平方三区から、埼玉県越谷市向畑までを、つなぐ
ように調査した。すなわち、埼玉県越谷市平方、同越谷市
船渡、同越谷市大松、同越谷市大杉、同越谷市北川崎と、
それらのそれぞれの、古利根川沿いを見て回った。結果を
言うと、以下の通り、この地域に、特に土器片の散乱は見ら
れない。ただし、船渡香取神社は、江戸時代からあるようで、
石仏のあるものに宝暦年間の年号が刻まれ、近世からは、人
の住む場所であるとの印象であった。この神社から、近くに
ある武道具の店までの一帯は、少なくとも近世からの集落で
あるという雰囲気が、充分にある所である。
 察するに、新方の郷村周辺の、江戸時代の年貢米の取立て
のための代官所が、武道具店のあたりにあり、その関係で
「屋敷前」の字地名が、あると感じられるところである。
よって、この事から、

埼玉県越谷市船渡字屋敷前あたりも、旧家の庭先の古井戸を
発掘すると、少なくとも近世以降の木製遺品が出土したり、
また旧家自体の襖その他に、裏紙として江戸時代の古文書が
残っているという事などは、かなり起りうるのではないかと
の、印象を受けた。

よって、
埼玉県吉川市川藤榎戸、同松伏町上赤岩、同松伏町大川戸
八幡神社につづいて、埼玉県越谷市船渡屋敷前も、木製遺物
存在の要注意リストに、加えておいて良いように思われる。
(2017/03/05)

埼玉県南東部広域洪水ハザードマップ(長さん)

 最近、埼玉県南東部広域洪水ハザードマップ作成協議会が作成し
た、その地域の「洪水ハザードマップ」を入手した。これには、関
東南東部を流れる利根川、江戸川、中川等が氾濫したと想定した
ケースの、水没地域の予想や、水深等が地図に表示されている。

言うまでも無い事だが、これは、中世の武家等の屋敷の位置を絞り
込むのに、有用な情報である。

すなわち、現在では河川の氾濫は、よほどの事が無いと起こらない
ので、広い範囲に住宅が広がっているのであるが、中世のように、
堤防がいまより、ずっと軟弱に時代には、水没しにくい高台に、
武家の屋敷があったと、容易に推定できるからである。
 さらに、地図を入れた冊子には、水没地点だけでなくて、各地の
標高も示された、図が載っている。これをみると、埼玉県南東部の
場合、最も標高の低い地域が、新方川を中心に、谷間を形成してい
る事が良くわかる。

この谷間は、鎌倉時代や南北朝時代には、農耕に適さない、湿地で、
人そのものが、ほとんど住居を作っていなかっただろうと、想像で
きる。

つまり、新方川を挟んで、西側を有名な武蔵七党等の武蔵武士が、
東側を下河辺氏等、小山氏の関連一族や、のちには、金沢北条氏が
勢力圏内としており、東側にたとえば下河辺行光も、屋敷や仮陣屋
等を、作っていればそこの中の、比較的高台の場所だろうと、容易
に推定できるという事である。
 そこで今度は、洪水マップを見てみると、埼玉県北葛飾郡松伏町
の、現在の中心部、”松伏”は、比較的水没しにくい高台である事
が判る。従って、土砂を運んで、近年に高台にしたので無ければ、
この辺りが、下河辺行光の屋敷の候補としては、最も有力なように、
私には見える。また、屋敷位置定説での松伏町下赤岩、私の注目し
ている、吉川市須賀や川藤榎戸も、少し、ましな場所である。更に、
松伏町松伏より、古利根川の上流に向かって、少し高台の地域が続
いており、松伏町大川戸も、他の地域より少し洪水しにくい事が判
る。
 さて、この洪水マップで、オリジナルとみられる埼玉県南東部の
洪水予想の示されている広域地図には、どういうわけか、昔の字名
も載っていて、遺跡位置を推定しようとしている者には、すこぶる
ありがたい。たとえば、松伏町下赤岩の所には、なんと「屋敷附」
と、太く明確に書かれている。
 そしてそのおかげで私は、次の重大な事に気がついた。

この界隈には、もう一箇所、字「屋敷」があり、私はそこの調査を
していなかった。つまりその場所とは、埼玉県越谷市船渡で、埼玉
県北葛飾郡松伏町大川戸と、古利根川を挟んで隣り合っているのだ
が、ここも比較的高台なのである。

古利根川の西側は、既に述べたように、船渡より少し下流・南側の
埼玉県越谷市向畑からしか見たことは無かった。そこで、埼玉県
越谷市船渡の字屋敷付近も何れ、チェックしてみるべきであると、
防災地図を見て、初めて私は気がついたのである。(2017/03/04)

将棋駒の漂流物(長さん)

 海岸に打ち上げられた、ゴミのコレクターが書いた本が、何冊か
出版されており、最近その中に、将棋駒に言及したものが無いかど
うか、調査してみた事が有る。将棋史の研究で特徴的な点は、「何
処で誰」という情報が、

道具がワンセット揃っていさえすれば、さほど重要ではない

という点があげられる。たとえば大将棋に関して、今最も知りたい
点は、

平安大将棋、後期大将棋という、形容詞は遊戯史研究家が、勝手に
付けたに過ぎない、大将棋と称される将棋種が、まぎらわしさにも
係わらず、複数有るのは何故なのか

であるが、証拠が鎌倉時代以降の遺跡なら、何時の、何処で出ても
特に価値に差が無いのである。つまり、

極端な話、どこから来たのか、誰のものかもわからなくても、価値
は、ほとんど同じ

である。どうしてかというと、以上の謎の回答を知っている人間の
使った証拠品が、出土しさえすれば、その人間が鎌倉時代から今ま
での、何時の時代の、何者でも特にかまわないからである。ただし、

だから逆に言うと、その遺物が、どんなルールのゲームなのかが、
出土物だけから判る事の方が、出所よりよほど重要

である。この点で使った人物や、場所、時代背景を重視する、通常
の考古学と遊戯史とには、大きく異る問題意識があるように、私に
は思える。
 そこで、遺物でも漂流物の遺物の場合、出所がわからなければ、
史料としての価値はほとんど無いと見て、通常考古学では、そう
した”獲物”を狙わないのであるが、将棋史については、そうした
遺物も内容によって、大変重要になる可能性がある、という所が、
大きく違うところである。
 ただし、洋上・船舶で余興で指されるゲームは、大荷物が嫌われ
るため、えてして大将棋よりは小将棋の遺物が発見される、偏りが
出るだろうとは懸念される。
 以上の予備知識をもって、漂流物マニア本で、私も探してみると、

江戸時代の難破船とみられる、荷物入れの中に将棋の駒が有るのが、
福岡県の確か、宗像市で発見された例がある

そうである。残念ながら「将棋駒」と無造作に書いてあるので、遊
戯史的には、情報の乏しい文献である。無造作な書き方なのだから、
時代も、1769年ころ沈んだ船のようなので、日本将棋の駒だろ
うと、私などは、勝手に想像するしかない状況である。誰に言った
らよいのか、編集した書籍の性質上、余りはっきりしないのだが、
残念な事だと思う。もしかすると、成書を書くほどだから、この業
界では権威者で、時代考証をされている位なので、通常の考古学に
も心得のある方が、監修されているのかもしれない。たまたま、共
出土した別の物品に、主な興味が行っていて、将棋は軽かったのか
もしれない。が、名も無い漂流物マニアの方が、画像で、チャンギ
の駒をブログで紹介していて、駒の種類や形のわかる記事を見ると、
その、名も無い方の情報の方が、場合によってはずっと、価値が高
いと私は感じる。なお、

文献を探したところでは、漂流物の中に将棋道具が有ったと、称す
るのは、今の所その一件だけのようである。

水中にあれば木片も腐らないだろうから、稀ではあろうが、このよ
うな方法で、将棋史を組み立てるのに重要な史料が、川から流れ出
て、海岸に打ち寄せ、将来発見される可能性も、全くゼロではない
ように、調査してみて私には思えた。(2017/03/03)

東埼玉テクノポリス付近の調査(長さん)

最近になって知ったのだが、埼玉県吉川市上内川と近くの旭に、
かなり前から「東埼玉テクノポリス」という、工業団地が建設さ
れており、ここへは、最寄駅、武蔵野線の吉川駅や、武蔵野線の
南越谷駅から頻繁にバスが通っているとの事だった。そこで、既
に直ぐ近くの、吉川市下内川は、日がな一日気づかず歩きで調査
済みであったが、3月1日にそこからは、もうあまり遠くない、
1.5km程度北の吉川市上内川へ、再度今度はバスで調査に向
かった。
 工業団地の周辺は、田んぼが続いており、江戸川沿いに民家が
点在している点は、下内川と一緒であった。ざっと見ただけでは、
ここも余り、有力では無いようにいっけん見える。土器片等の散
乱は、上内川周辺に関しても、下内川といっしょで余りない。
ただし、この信じられないように良い場所が終点の、バス便はか
なり強力で、このへんの調査には、至極便利に使えそうだ。
 たとえば中世の遺跡ではないが、吉川市上内川から2km弱北
の、埼玉県北葛飾郡松伏町築比地には、貝塚がある事が前から知
られている。今の所中世とは繋がらないので、ここの調査の予定
は私は無いが、行こうと思えば、吉川市上内川までバスを使えば、
松伏町の北東の外れの此処へは、直ぐにいけそうで便利である。
ここの工業団地の企業が、運悪く将来倒産して撤退したら、埼玉
県吉川市は、遺跡の里観光で売り出したら良いのでは、ないだろ
うか。なお吉川市史で、上・下内川は、下河辺荘赤岩郷の荘園の
一部として、外川(河)に当たるという、現在の上・下赤岩とと
もに明解に紹介されている。(2017/03/02)