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(コラム)小山義政ゆかり北葛飾郡松伏町上赤岩で八角形木片を取得(長さん)

栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡で、2007年春発掘された、摩訶大将棋に
有る、裏一文字金角行駒に関連すると見られる、南北朝時代の武将の
小山義政が、西暦1382年の小山義政の乱まで、荘園の年貢請負権等を
所持していたと見られ、乱以後、”鎌倉府の問注所の某武士が、鎌倉公方、
足利氏満より、その地の利権を拝領して継承した”との旨の記録が残る、
小山義政の関連地の一つ、現在の地名で、
埼玉県北葛飾郡松伏町上赤岩、南北朝時代の地名で、下河辺荘新方郷赤岩
を今年の3月3日に漫然とだが、遺物を探しながら歩行した。その通過中、
午後ちょうど3時ごろ、コンクリ舗装道路の歩道上で、下の写真のような、

裏が一面ベタ赤で、表に”8”の字の白いマークの入った、形から

朝鮮チャンギの駒を思わせる、八角形の木片を、私が発見した。

真新しく、現代の積み木や、ある種のボードゲームの駒ようにも見えるが、

何なのかは、今の所私には判らない。

上赤岩物体.gif

 ”8”というマークが、形と対応しており、小中学校の算数の副教材を、
私には連想させる。ほかに、”4”との数字の書かれた四角形の木片や、
”3”と書かれた、正三角形の木片が、ひょっとすると実在するのかもし
れない。

これでチャンギが出来るとも思われないので、多分チャンギの駒では無い

のであろう。なお、数字”8”の向きは、辺に対して垂直になっており、
チャンギの標準的な駒と、同じである。なお、大きさは差し渡しが4cm
位であり、形は完全な正八角形ではなく、工業製品だとしても、廉価品で
ある。今も学校で使われている程度の、汚れ方であり、写真は特に洗浄し
ていない。

小学校の1~2年程度の児童が、学校から入学祝に貰う、副教材の一種

のようにも見える。取得した道路は、タロウバスというバス会社のバスが
通る、バス道になっており、近くに松伏町立第二中学校があるが、中学生
の数学の教材にしては、幼稚である。(2018/03/04)

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10世紀日本・五代十国~北宋に、象棋・将棋の明確な記録が無い訳(長さん)

木村義徳氏の持駒使用の謎を読むと、10世紀の、日本および五代十国~
北宋に、明解な形で、象棋・将棋の明確な記録が無い事を、将棋の伝来が
遅い根拠としている研究家に対し、強い攻撃が行われているというのは、
この学術領域では著名である。本ブログでは、その時代、五代十国~北宋
には確立されたゲームとして、イスラムシャトランジは有った、との立場
を基本的に取る。そこで、”中国語→日本語”の辞書等で、

記録が無いのは、漢民族の間では、宗教的な理由が無いため、イスラムシ
ャトランジが、中日辞書等に記載するほどには、流行っていなかったため

という基本的スタンスを取っている。そしてさいきんは、中国シャンチー
がこの時代に無いのは、

シャンチーは、作るのが難しかったため

という、説明をしている。
 しかし、その時代に厳密には、末期南詔国~草創期大理国には、象が
飛車、銀駒が無い程度の、四人制チャトランガ系・プレ原始平安小将棋
は有ったはずである。それも中国の辞書に無いのは、北宋と大理国との
間に、政府間の交流が無かったためとみる。そして日本にそれが来ない
のは、元々、これが王族の将棋であり、道具の絶対数が、限られていた
ことに加えて、大理国の大和城と、北宋の開封市との間の交通の便が、
もともとかなり悪かった事、北宋の都、開封の人間の目が、イスラム・
アッバース朝の、科学技術文化に目が奪われていて、中国の山岳地帯の
文化に関心が薄かったので、雲南の情報は日本へは、理由が無ければ、
伝わり難かったという事になる。
 ともあれ、本ブログでは、吉備真備が将棋を日本に持ち込んだとすれ
ば、ゲームは、イスラムシャトランジのはずだと推定するように、日本
人と接触する、10世紀以前の象棋型ゲームは、実質ほぼ、イスラム
シャトランジに限られるといえるほど、確率が大きいだろうと推定・
仮定している。
 ところで最近まで、個人的には、大理国の原始平安小将棋(酔象角行
型・取り捨て)と、イスラムシャトランジは、面白さでほぼ、同格だと
見ていた。しかし実際に最近になって、イスラムシャトランジを指して
みると、

イスラムシャトランジより、原始平安小将棋の方がましなのではないか

と、疑うようになってきた。
 イスラムシャトランジは、八方桂馬で、相手陣に多少のダメージを与
えたあとは、車で相手王を、追い掛け回すような将棋しか、私には指せ
なかったためである。これは、曲がりなりにも、序盤に銀~桂馬~香車
の連携で、相手の左袖を破ってゆく、原始平安小将棋の駒捌きのリズム
よりも、なまじ攻め駒が飛車駒2枚であるため、イスラムシャトランジ
の方が、かなり劣るとの印象を与える内容であった。なお、車が王駒よ
りも強いため、原始平安小将棋(取り捨て)とは異なり、イスラムシャ
トランジでは、”裸玉で終局”にもなかなかならず、だらだらとゲーム
が続く。この点でも、平安小将棋の方がましである。
 この事より、特に10世紀の日本人には、

イスラムシャトランジは、知ったとしても、相当につまらないゲームと
見られた疑いが、実はあるのではないか

と、ごく最近になって、私は疑うようになってきた。”モハメットが有
能な武将であるために、イスラム教徒は、上は国王から下は平民に至る
まで、面白かろうが面白くなかろうが、武芸の一部である、イスラム
シャトランジを指しているのである。だから仏教徒である我々日本人が、
そのゲームが面白く無いと感じるなら、特に真似なくてよいのではない
か”という世論が、10世紀の日本の京都当たりでは、ほぼ定着してい
たのではないか。だとすれば、誰かがイスラムシャトランジ用の、地味
な駒を持ってきたとしても、日本では相手にしてもらえない空気に、
なりえるのではないか。以上のように私は、以前に増して考えるように
なったのである。
 つまり日本では、やはり10世紀に将棋は無く、理由は、

相当につまらない部類の、イスラムシャトランジだけが、外国との接点
である大宰府等には、中国から伝来する確率がその時代かなり高かった。
その結果、イスラムシャトランジが、将棋の代表とされ、実際日本人は
指してみてつまらないと感じた。だから”将棋というゲームを認知する
必要が無い”という世論が10世紀までに、日本国内では定着していた

ためではないかと、私は最近では疑うようになって来ている。(2018/03/04)

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