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酔象の成りは、何時から太子になったのか(長さん)

前回、京都府上久世城之内遺跡の酔象駒は、たぶん太子成りだった
のであろうと、私は述べた。では、逆に、興福寺出土駒で、不成り
の酔象が、太子になったのは、何時なのであろうか。
 そのまえに、そもそも太子が、何を指しているのかについて、現代
でも、未だ定説が無い事を、まず指摘しておかなければなるまい。

私は私説として、太子は釈迦の事だけを指すと考えるが、定説では
認められてはいない。

太子は「シッダールタ太子の太子と、用例が同じ」と、されている状況
と認識する。
 つまり、私に言わせると、酔象とくれば、釈迦を暗殺するために、
提婆が放った、酔象の事しか思い浮かばないので、成りは物語の相手の
キャラクターである、釈迦以外、可能性が無いと、思われるのであるが、
賛成する意見は、余り無いと言う事である。しかしながら、一旦太子は
釈迦の言い換えだと認めてしまうと、僧侶が作成したのではないかと、
将棋六種の図式(正しくは象棋六種之図式。以下同義)で疑われている、
摩訶大大将棋が、戦国時代仏教宗派が本山がどちらの寺なのかをめぐって、
武力闘争をしているゲームと、ありあり見えるために、人の死の痛みが
その宗教を、創造させる根源になった、釈迦には”殺し合いへの参加だ”
と嫌われ、一抜けされて、酔象の成りが、若一王子と交代してしまった
と考えれば、摩訶大大将棋の酔象の王子成りが、すんなり説明できる
とみる。だから個人的には、どう見ても酔象の裏の太子は、釈迦の教団
結成前の称号の事にしか、私には見えないのである。
 では、興福寺出土駒の平安時代後期に、酔象が太子に、特に成らなか
った理由であるが、ずばり

日蓮上人が、その時代にはまだ出現していなかったため、法華経でも言
及されている、”提婆の酔象を使った釈迦暗殺未遂事件”が、平安時代の
日本では、釈迦伝記を読んでいる識者が、かろうじて知っている程度で、
公に著名にはまだ、なっていなかったから、

だと私は思う。つまり絶対そうだと、ここでは敢えては言わないが、た
ぶん鎌倉中期に、酔象の成りが、釈迦を意味する太子に初めてなったと
私は考える。この事から、私の説を取ると仮にすれば本来、象駒に”酔”
という修飾詞を付加したのは、それより前の平安末期だから、法華経の
経典が元になったのでは、ないという事になる。では何故、日本の将棋
の象は、酔象なのかだが。それは元々日本では、将棋の駒を、心の中に
住む煩悩という魔物と見たため、将棋の駒の修飾詞には、仏教の戒律で
違反で、地獄に落ちるとも言われる原因となるような字を、しばしば
それとして用いる習慣が、比較的初期に出来上がったためだとみる。
つまりこのケースは、修行僧が酒を飲むという戒律違反に相当する
酔の字を、中国から”象”が輸入された直後に、その相/象駒に、修飾詞
として、たまたま用いたのが起源ではないかと、私は推定する。なお、
それ以前に、日本の将棋の駒の名前が、なぜ2文字なのかであるが。
私によると、

玉将、金将、銀将の3種類の駒の名前が、輸入された当時から、日本語
に訳すと、2文字になったからだと思う。

つまり残りの、馬、車、兵という、原始平安小将棋にも存在した駒は、
1文字で輸入されており、体裁を整えるため、それぞれ日本人、恐らく
大宰府の人間によって、桂、香、歩の修飾詞が考えられたと、私は見る。
少し遅れて輸入された酔象も、恐らく輸入された当時は、単なる”象”
で、体裁のため二文字化が必要だったと考えると言う事である。
 そして既に、平安時代後期には、将棋駒は、仏教徒の修行の邪魔をす
る魔物とみる、という考えがあったため、戒律違反の酒飲みによる”酔”
を、たまたま、象に当てたのではなかろうか。
 ところが、時代が進んで鎌倉中期になり、法華宗が隆盛すると、提婆
達多による、酔象を使った釈迦の暗殺未遂話が、知られた話から著名な
話へと、当時の日本の社会で変化していった。そこで鎌倉中期頃に、

加害者と被害者の関係で繋がるので、酔象の成りを釈迦の意味の太子に
した

のだと私は考えている。なお、仏教の戒律違反では、その他、怒る事を
意味する”嗔”の字も有名である。私は長らく、マイクロソフトの
IME辞書で手書き入力しないと書けない、この”嗔”の字が、猪駒の
修飾詞として何故使われたのか、不思議に思っていたのだが。仏教修行
を邪魔する煩悩に、将棋駒を関連付ける習慣があると判りさえすれば、
その謎が、即座に解けることに、ある日ふと気がついたのであった。
 さて、酔象に戻すが、その結果、中国象棋・シャトランジ等々では、
将駒より格下だった象駒は、仏教が盛んだった日本の将棋に於いて、
玉将に次ぐ駒に、成りが釈迦に決定された時点で、格上げされ、以降
日本の将棋では、酔象のある将棋種では、酔象は玉と同じく中央列か、
玉隣りに置かれ、動きも2歩歩み等から、7方向隣接一升目行きに、
少したってから変化したのだと思う。
 そこで逆に言うと、興福寺の酔象駒が不成りかつ、日蓮出現以前の
時代である事から、中近世とは全く違い、酔象は古代末期には、銀将
に近い位置に、初期配列されるような、まったく別の使われ方をして
いたのではないかと、私は想像もしているのである。
 なお私は、酔象平安末期削除、鎌倉中期復活を唱えている、増川
宏一説に、賛成である。理由は、

隣国で象駒は健在で使われ続けているので、復活できない根拠が無い

と、考えるからである。しかし、この考え方には、”酔”の字も含め
て、忘れ去られなかったのが何故なのかを、説明はしていないので、
その点からの、難点もあるかもしれない。むろん、興福寺出土駒の一部
が、平成の現代ではなくて、鎌倉時代にも出土しても良いわけだが。
しかし私は、19×19升目100枚前後制程度の極めて原始的な、

摩訶大大将棋が、平安時代後期に、その進化結果である、13升目制
の平安大将棋に先行して実は存在し、

その文書記録が、鎌倉時代中期には、比較的容易に入手できたためなの
ではないかと、想像している。つまり、

19×19升目100枚前後制極めて原始的な摩訶大大将棋の文書記
録が、日本の将棋駒種カタログとしての役目を、鎌倉時代に果たして
いた

と考える。上記原始的摩訶大大将棋では、最下段に五行説の影響で、
中央から両袖に向かって、右袖だけ表記すると、おおかた私によると、
玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、土将、木将、酔象、桂馬、香車と、
10枚組で、駒が並んでいたのではないかと思う。これが結局の所、
13升目制の平安大将棋になるのだが、重要な点は、

現実に存在する武具の使用頻度が両方高かったため、
銅将と鉄将を13升目制では、どちらも削除できなかったのであろう

という事である。
 そこで、土将と木将は5行説に則っていても、武具としての性能は
低いため、削除する事にしても、もう一種の袖位置の駒を、はずす必
要が生じたのであろう。その結果、原始的摩訶大大将棋に有っても、
平安小将棋標準型からは、ひょっとすると大江匡房の進言等によって、
少なくとも排除される等して、既に存在しなかった酔象が、13升目の
平安大将棋生成時に、結果として駒数多数将棋の類からも、削除され
一時ほぼ消えたのだと思う。しかし、原始摩訶大大将棋の文書記録が、
鎌倉中期程度までは残っていた。そのため、酔象の太子成りのアイディ
アが発生すると同時に、この駒が、中間期の大将棋に、中央駒として
再度取り入れられ、使われるようになったと言うのが、真相なのでは
ないかと私は考える。つまり、酔象が少なくとも約100年間、忘れ
去られなかったのは、19升目制の、原始的摩訶大大将棋が平安時代
から恐らく存在し、その記録が鎌倉中期までは残っていたためだと、
私は考えているのである。(2017/05/25)

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