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石名田木舟遺跡(富山県)の金将破壊(?)駒の意味を考える(長さん)

富山県福岡町の石名田木舟遺跡より、西暦1995年前後に、
将棋駒と見られる木製遺物が、7枚程度出土している。
王将または王駒が3枚、金将駒が2枚、銀将駒が2枚である。
飛車や角行は、出土記録は無い。このうち論題の、金将駒の一
枚が、墨跡が薄くはっきりしないが、割いて細長い駒の切れ端
にした、模式的に書くと以下のような、特異な形をしている。

石名田木舟.gif

 ”石名田木舟(B2)遺跡”の王、金将、銀将のうちの金将
駒と名がついた遺物である。今回は、この特異な形をした、
”将棋駒金将の改造物”の意味について論題とする。いつもの
ように最初に結論を書き、その後に説明を続ける事にする。
まず、結論を書く。
 持駒使用の謎の木村義徳氏とは、真っ向から対立するが、
室町時代になっても、銀将~歩兵の成りの金将を、駒種類に
よって崩し方を変えて表現していたとは

考えられない

事を示していると、本ブログでは見る。
 では、以下に順を追って、この事を説明しよう。
 この遺跡は、古墳時代末から近世に至るまで、比較的幅の広
い時代の、混合遺跡のようである。ただし遺物として15世紀
後半程度のものが有名だ。将棋駒を見ると、石名田木舟(SK・
SD)遺跡の金将駒は、近世のような形に見え、その他は、室
町時代のものに、見ようと思えば見える形である。以下、この
遺跡の将棋駒のうちの6枚は、15世紀後半程度のものと、仮
に仮定して論を進めてみる。
 なお、写真や模写図はいつものように、天童市将棋資料館が
2003年に発行した、”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”中
に記載されたものに基づき、議論する。
 まず、金将ではなくて、2枚の銀将を見ると、成りは一文字
金で、2枚ともほとんど崩れて居無い楷書のようである。しか
し、7枚有っても、この遺跡の歩兵~銀将駒は、銀将の2枚だ
けなので、他の種類の駒の成り金の書き方についての情報は、
基本的に無い。
 が、幸いだが、表題の金将の改造物は、模式図の解釈が正し
いなら、

細長く、香車ないし歩兵として再使用したとみられる形

をしている。実際には、金将駒を頭の右側から、やや左斜め下
に、駒の左筋と平行に真っ直ぐに切断し、ついで、頭の左側を
三角カットして、細長い”香車・歩兵駒型切れ端”に改造する
という、手の混んだやり方を採用しているようだ。むろん、私
が知る限り、このような将棋駒の改造品は、この遺跡のこの駒
だけである。
 では、どうしてこのような物を、作成したかだが、前に述べ
た、中尊寺境内金剛院遺跡の、裏2文字金将歩兵駒の類かもし
れないと、私は考える。 つまり、予備の金将駒を使って、
紛失した香車または、歩兵駒を補うための、工作だったのでは
ないかと、言う事である。金将の裏だと発掘者が思っている側
に、消えてしまったが、歩兵か香車と書かれていたのではない
かと、私は推定する。そして、これから言える事は、

駒を細長い形にする事によって、歩兵または香車が表されると
いう常識が、15世紀後半にも存在した

と言う事である。他の歩兵または香車が、この金将駒の破壊物
と、たぶん類似の形だったのであろう。しかし、作り直せば
良いものを、このような改造品の追加で、プレーが再開できる
と考えたと言う事から、次の事実が浮かび上がって来る。
つまり、金将の右側の一部が見えていれば、成りの金の表現と
して、それで、使用上は問題ないと、石名田木舟遺跡では15
世紀の後半には考えられていたという事である。
つまり、以下がたいへん重要だが、

香車と歩兵をが、正確に分けなければならない将棋を、指して
い無かった

という事ではないか。だからここで指された将棋は、恐らく
日本将棋ではなくて

15世紀後半でも、小将棋には飛車・角行は無く、平安小将棋
持ち駒有りタイプの将棋が指されていた。

だから、裏から歩兵と香車が区別可能なような、成りの書体の
厳密さは、前に新安沖沈没船出土駒の所で説明したが、つまり、
この遺跡の駒も、新安沖沈没船出土駒の類という事であって、
必要無かったと言う事であろう。この事から、かなりの精度で
日本将棋の発生時代を、特定できる可能性があり、たとえば、

応仁の乱の時点で、日本に日本将棋は発生していなかった

と証明できてしまうことを、示しているようにも私には見える。
 三条西実隆の実隆公記の西暦1506年7月9日分の”駒落
ちで飛車を落とす”とも読める記事に時代が近く、石名田木舟
(B2)の金将駒の改造物は、日本将棋の発生年代の上限と、
下限との差を、ひょっとすると20~30年程度までに、絞り
込むことを可能にするほど、興味深いものだろう。
 また、前に本ブログでは、室町時代の成り金書体の、駒種に
よる区別は、”史料が少なく判定困難”との旨を表明した。
 しかし、直接的ではないが、この石名田木舟の金将駒改造
遺物は、成り金書体の駒種による区別は、15世紀後半時点
では、少なくともまだ徹底はされておらず、成りが金将である
事がわかりさえすれば、金将の字の一部等でも良かった事を、
示していると見られる。よって、現代のように、銀将~歩兵の
駒について、

成り金の書き方を見ただけで、表駒がわかるようにしているの
は、戦国時代の一乗谷朝倉駒や滋賀県の観音寺城下町遺跡出土
駒が初出で、室町時代には無かった

と、結論されてしまうように思える。
 天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真では、不明瞭な、歩兵
~香車型の木片として写っている、富山県福岡町石名田木舟
(B2)遺跡の金将駒だが、その位置づけは、案外重いのかも
しれない。私には発掘者に、心より感謝したい気持ちにさせら
れる遺物だと思われる。(2018/09/22)

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