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平安・鎌倉期。スペア金将がなぜ作られたのか(長さん)

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒には、将棋の出土駒の大き
さに関する、測定情報が載っている。平安時代最末期の、
岩手県西磐井郡平泉町の中尊寺境内遺跡出土駒を見ると、
この時代には、駒の種類により大きさや形の差を、積極的
には付けなかった事等が判る。ただし、体裁からだろうか。

歩兵駒の大きさが、他の駒種に比べて、わずかだが小さい。

駒木地のうち、小さくロットブレしたものを、寄せ集めて
歩兵を作ったとも想像される程度の、大きさの差がある。
 ところが、統計を取ろうとすると、前記成書、
”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”の中尊寺境内遺跡出土
駒の番号で、歩兵駒のうちで、

137番が大きく、歩兵を小さく作ったという仮説を棄却

させてしまう。
 この駒は、前に述べた神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮境内
遺跡出土駒の、”5番”と恐らくは同じく、
中尊寺境内遺跡出土歩兵駒の中で唯一の、

二文字”金将”に成る歩兵

である。
 前に、本ブログでは、この種の二文字金将成り歩兵駒を、
歩兵駒の紛失による、予備の金将駒からの作り変えと解釈
する説を述べた。今回は、それの続きになるのだが、

ではなぜ、現代のように”と金成り歩兵”駒を、余分に作
らずに、平安・鎌倉期等には不成りの金将駒を、多少余分
に作って、駒が紛失したときの予備に無理やりしたのか

を論題とする。
 結論をいつものように先に書く。

大理国から伝来した立体駒では、歩兵と”と金”が、物体
として、別々だったという記憶が、まだ残っている時代の
アイディアの伝承だった

からだとみられる。
 では、以下に説明を加える。
 本ブログの仮説によれば、日本の将棋は、ほぼたった
1セットの

金・銀・ネフライト玉、肉桂の彫り物、桂の木の将棋盤、
成り金の駒20個程度をセットする、輝く小さな”控え選
手の棚”等で構成される、後一条天皇所有の立体駒将棋具
の宝玉

だったと見ている。それが、経帙牌に金将、銀将、玉将、
馬、車、立体駒材質は未知の、兵と書く事に置き換えられ
たが、兵等の駒と、成りの金将と同じ立体駒の”と金”等
とが、元々は、敵陣三段目に達したときに、兵の立体駒と、
黄金製の成り表現専用金将像とを取り替える手法で、ゲー
ムが進むのを、経帙牌の裏表に、元駒”兵”と成り駒”と
金(当時は”金也”)”の名前を書き、駒をひっくり返す
事で置き換えるという手法で、ゲームの着手表現が、置き
換えられたと考えられる。この記憶は、五角形の書き駒が、
将棋駒の主流になると省みられなくなった。しかしながら、

この置き換えの記憶は、少なくとも、不成り金将駒が、統
計的に有意に多く出土する奈良県の興福寺遺跡出土駒の時
代や、岩手県平泉町の中尊寺境内遺跡の将棋駒の作成の
時代には、まだ薄く、記憶として残っていたのではないか

と疑われる。
 そして、実際には平安小将棋を黄金将棋具で指す際に、
成り金の金将像立体駒は、全部、置き場棚から出されて、
使われるほどには、平安小将棋では、成り金将が、ゲーム
の最中に発生しない場合が多かった。ので、

予備駒のイメージで語られる事が多かった

のであろう。その記憶から、

不成り金将駒を、成りとして2文字で楷書だと不便なはず

なのに、それを敢えて無理押しして

予備駒(スペア駒)として使う習慣が、ひょっとしたら

自然に出てきた

のではあるまいか。
 だから、少なくとも鎌倉市の鶴岡八幡宮境内遺跡の時代、
すなわち鎌倉時代の中~末頃までは、持ち駒ルールはさほ
ど普及していなかったために、金将駒を他の駒に作り変え
る事が可能という条件の元で、無地駒を駒箱に予備に置い
ておくのではなくて、

現在の、余分に1~2個入った歩兵駒の代わりを、1~2
個余分に入った、裏無地”金将”駒が、果たしていた

のではないのか。
 もしそうだとすれば、
なんでもないような、使いづらい、成り二文字金将歩兵駒
だが、伝来した将棋駒具が、書き駒ではなくて、成りが自
明には表せない、立体駒だったという、

重大な情報

を、金将駒を、小将棋駒セットの、部分紛失時の予備に、
相当昔は使ったという習慣の記録は、

淡くだが、隠しているのかもしれない

と、私には疑われるという事になるのである。(2019/02/13)

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