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小山市神鳥谷曲輪出土裏一文字金角行駒は誰が棋士である事を示すのか(長さん)

 あくまで私見であるが、神鳥谷曲輪にあった、戦国時代に尼寺
で、江戸時代に真義真言宗関連の寺で、今は天神を残して廃寺の、
小山市の青蓮寺の、多分に伝説的な創始者の尼さんは、嫁入り道
具として、実際には三面を、彼女の嫁入りのさいには小山義政の
家に、持って来ては居なかった可能性も、大いにあるのではない
かと私は思う。
 すなわちこの駒が、江戸時代の後付で作成されていた、レプリ
カだとすれば、当時の徳川幕府親藩諸国の、嫁入りに、嫁の家か
ら、三面が持ち込まれた例等を参考に、それを小山の殿様義政妻
の嫁入り等に置き換えて、その一部部品とみたて、寺に将棋駒を、
作成して置いたと、考えられると言う事である。たとえば、
尾張徳川家の遺品を所蔵する、徳川美術館には、三代将軍
徳川家光の娘、千代姫が、尾張徳川家に嫁ぐときに、尾張藩へ持
っていった、三面や将棋駒があり、文化財として現在でも特に有
名である。また、名古屋の徳川美術館には、その他の三面として、
田安徳川を継いだ徳川斉匡の娘である、楢姫(ゆかひめ)が、
徳川家斉の時代に、尾張藩に嫁いだときの、三面と見られる品々
も所蔵している。恐らく、江戸時代の小山市の青蓮寺の住職等も、
江戸時代に、有力大名家に姫様が嫁ぐときには、合戦時、参謀の
代理役も可能な有力武家の惣領(殿様)の嫁のたしなみとして、
将棋ができる事等を示すため、双六、囲碁の道具といっしょに、
将棋の道具を嫁入り先に持って行った事を、江戸時代の人間なら、
当然知っていた事だろう。

 だからこのケースも、”南北朝時代版の三面の一片”のつもり
で、小山義政の妻でも有る創始者の尼さん、すなわち一例として
小山よし姫の遺品として、角行駒を、小山市の青蓮寺に陳列させ
たのだろうと考えて、特に大きな矛盾は出まい。
 ところで以前、私はこの出土駒は、姓としては藤原が使用した
駒として出土した、と分類した。このため、奥州藤原の拠点から
出た平泉両面飛龍駒と共に、藤原氏使用駒に分類し、源氏系
小笠原氏等の徳島川西奔横駒、平氏系北条氏の鶴岡八幡宮不成り
香車駒(等)をあわせて「藤原氏50%」とまとめたのであった。
 以上の事から、以下のように問題が、2つある事が判る。
 まずこの駒自体、単なる江戸時代のレプリカであるという事
になるので、南北朝時代には、実際には、誰も小山市の遺跡関連
地では、駒数多数将棋など、指していない疑いが強いのである。
 これについては、反論として、小山義政のたとえば妻が、武家
の妻らしいのは確かとして、なぜ嫁入り道具のうち三面を持って
来た事が、その寺では特に注視されたのかという点を、見落とし
ていると指摘する事が容易にできる。尼さんのいろいろな性質の
うち、三面付属の、特に三種のゲームの中でも、特別に将棋の道
具を、なぜ日光参拝の旅人に選択的に披露して、注目させようと
しているのかという、住職の「心」を読み落としていると言う事
である。従ってこの遺物の出土には、少なくとも次のような事が
有ると考えないと、出てくる事自体が説明できない。

 少なくとも小山市の青蓮寺の住職には、その寺の創始者の尼の
実家の家系は、駒数多数系将棋の道具を保持するのに、相応しい
姓ないし氏と主観されたと考えられる

と言う事である。「不幸にして亡くなった尼さんを、追悼するの
に、摩訶大大将棋の角行駒を置く」とは、そうでないならば、ひ
どく唐突に写る。なお江戸時代も、第十代将軍の、徳川家治の
時代になると、戸田おくら等、女性の強い将棋指しの個別人名等
が、わが国でも記録され、個別の女流棋士が、ようやく注目され
るようになって、江戸から日光への旅人等の中に、
”クシ、下駄、将棋駒”を見ると、”女流棋士風のお姫様”の
イメージ”が発生しうるように、なって来ているという点にも、
注意が必要である。
 更に第2に以下の問題がある。
 ところが、今の説明では駒が、藤原秀郷子孫の小山義政ではな
くて、たとえば小山義政の妻の、「小山よし姫の、嫁入り三面の
パーツの角行駒」と言う事になる。ので、小山よし姫の実家の姓
が藤原でないと、計算値50%の元が、狂ってくることになるの
である。しかし幸運だが、氏が判らないにもかかわらず、

小山よし姫は、姓が藤原である事が、
埼玉県の東鷲宮駅近傍にある有名な神社、鷲宮神社の棟札の記載
から、既に判っている。

 そこで、上記の2/4の計算は、この駒が小山義政のものでは
なくても、小山よし姫の父親が、駒数多数系の将棋の棋士等で
あるに、相応しい事を示していると仮にすれば、このケースには
幸運にも狂わない。
 ただし、小山市の青蓮寺の江戸時代の住職が「藤原姓を駒数多
数将棋を、選択的に保持する姓」と考えたとすれば、その思考過
程は、実の所良く判らない。以下、最悪のケースを、私が言わん
とする事を、わかり易くするために、誇張して書くと、

「小山の青蓮寺の住職は、平泉遺跡から、奥州藤原氏が使用して
いたと見られる平安大将棋の駒が、しばしば出土する事や、藤原
頼長が大将棋を指したと台記で書いている事等を、研究熱心であ
るがゆえに良く知っていて、藤原姓一族が、駒数多数将棋を指す、
姓であると当然推定し、そのため小山よし姫の陳列遺品の一つに、
どこかの藤原姓の親から、嫁入りのとき持たされたと称する、摩
訶大大将棋の駒を加えた」

以上の恐れが依然残る、という事になる。つまり、積算の根拠に
なっている事項同士が、互いに独立しているかどうかも、実の所、
まだ不明と言う、なさけない状況という事である。以上のように
このケースは、尼さんが誰なのか、正確には判らないだけでなく、
住職が、何を考えているのかが判らないのも、議論に大きな影響
を及ぼしている。なお小山市の寺の名「青蓮寺」は、奈良県
の日張山の、中将姫の青蓮寺を連想させる。奈良県と言えば、近
代になってからの、興福寺の出土駒の発見が知られるが、あるい
は奈良の興福寺で、平安時代等に、小将棋が指されていた事まで、
小山市の方の青蓮寺の住職が、江戸時代にも知っていたという、
現代遊戯史研究者にとっては驚嘆すべき、特殊な事情が、あるい
は有ったのかもしれない。それは、実は彼自身が、奈良県関連の
中世の武家の一族の子孫で、そのため、江戸時代には、一般には
知りえないはずの特殊な将棋史の情報を、戦国時代以前の祖先が
奈良県に在住し、地元民で有ったために知りえたという、特殊な
事情が、あるいはあるのかもしれないと言う事である。
「興福寺の将棋駒出土は、藤原貴族の、将棋の歴史との長くて深
いかかわりの象徴である」という、なんとなく、有り得そうな事
象は、今でさえ、興福寺の出土駒が、地中から全部出尽くしたの
かも不明なため、全貌が明らかになっているとは言えないと思う
のだが、あるいは小山市に於ける出土駒と関連するのかもしれな
い。
従って、興福寺の「不成り酔象」駒の分は、姓分類の統計カウン
トからは”小山駒の所でカウントした”と見なして、私はとりあ
えずカウントからは外す事にした。

なお、創始者の尼さんの有力候補、小山よし姫の出自だが。

 以下私見だが、小山よし姫の父親は、小山氏政と同世代で、京
都の烏丸四条に有った宇都宮氏の、対室町幕府対策のための屋敷、
京都宇都宮下屋敷に住んでいた、宇都宮義綱(南北朝時代で、
宇都宮元綱の父親。伊予の守代理とみられ、宇都宮貞泰の愛媛県
ではなくて京都府分の財産の後継者。)だと私は考えている。そ
の為、以前このブログでは、この駒の元来の持ち主を、
宇都宮義綱(南北朝時代でかつ、伊予宇都宮氏系とされる方の)
と仮定し、

前にカウントした表では、(下野)宇都宮氏扱い(私見)

としている。最後に述べた”仮説”については、南北朝時代の
宇都宮義綱が、実際にはWEBの情報のように福岡県ではなくて、
最近の下野宇都宮氏と豊前宇都宮氏(城井氏)との関連に関する
”関連性が薄かった”とする研究のように、京都に住んで居たと
しても、駒数多数将棋を、土地柄指したかどうかは、京都なら有
りそうではあるが、将来証明される見込みは謎である。もともと、
小山よし姫の出自の、上の私の仮説が大きく間違っていても、
小山よし姫が藤原姓で有りさえすれば、今後のこのブログでの
議論には、大きく影響するものではないと見ている。が、
必要なら折を見て、以上の私の小山よし姫の出自に関する仮説に
ついても、別途中身をのべてみたいと思っている。(2017/01/11)

大江匡房は何をしたのか(長さん)

近代以降は定説としての言及が少ないが、平安後期の貴族、
「大江匡房(1041-1111)が、日本将棋を作った」と
いう話がある。
 「大将棋を記載した日記」、台記で有名な藤原頼長よりも、
少し前の人物なため、私見で私は、”大将棋が進展する、要因
を作った時代の人物”と目している。ちなみに、彼の伝説は前
回、江戸時代の将棋古文書の評価で述べた、「後奈良天皇の、
酔象取り除き」の話と、かなり似た話で曖昧に伝わっていると、
了解している。別のブログで空想で、私見で、その「酔象入り
将棋」の推定型を、私は述べた事がある。が、証拠が「大江匡
房が排除した酔象を使った将棋も、取り捨て将棋としては、面
白いはず」という点しか、述べられなかったので、その他人の
ブログでの評判は、ひどく悪かった。
 ちなみに、これで大切なのは、排除された将棋の中身ではな
くて、”その結果、日本の将棋がどうなったのか”である。な
ので、ここでは、その酔象入り小将棋の自説を、蒸し返しする
ことは、特にし無い事にしたい。興福寺の遺跡から最近出土し
た、不成り酔象の使い方に関する古文書が、将来、奇跡的に
出土でもしないと、どのみち何を言っても白黒は、付かないと
私は思う。さて、

ずばり大江匡房の時代以降、日本の朝廷では、今の日本将棋
から、飛車・角を取り除いた形で開始する、
駒数36枚で9×9升目制の取り捨ての将棋、現在平安将棋と
定説で言われているゲームだけが、公式には指されるように
なったのだ

と、私は考える。
 つまり、取り捨てルールで、飛車・角が無い点を除くと、初
期配列が、今の日本将棋とそっくりな、いわゆる標準タイプの
平安小将棋が、朝廷では儀式で採用されるように、大江匡房の
時代の何者かが、朝廷の上層部に働きかけ、その活動が実を結
んで、その時代にその通りになったのだと、私は推定するので
ある。

理由は、そう考えると、大将棋が記録に現れるタイミングと、
抜群に合うという事だ。

つまり、大江匡房時代の何者かの、上記の政策が、とんでもな
い誤りだったために、朝廷将棋会は、

しばしば演者が、着手し辛い、行き詰まり局面を生み出し、
見苦しい所を、天皇・上皇等、お偉方の前で見せるようになっ
たために、その原因に気がついた藤原頼長等により、大将棋が
ほどなくして、研究されるようになったと考える

と、話のつじつまが、ばっちり合うのである。
 個人的に本人には、濡れ衣のシロだったとしたら誠に申し訳
ないが、覚えやすいので主語はそのままにして、今後積極的に
遊戯史書等で、

「以下伝説で信憑性謎であるが、
『大江匡房が西暦1100年頃に、今の日本将棋に近い飛車角
だけ無い、他は同じ初期配列の、駒数36枚で9×9升目制の
小将棋を日本の将棋と決め、それ以前の別の種類の配列の将棋
等を排除して、日本の将棋を統一する働きをした。』とされる」

と、表現してみてはどうかと、考えている。こう表現すると、
大江が、日本将棋の父であるかのように、一時的に見え、更に
将棋史をある程度学べば、ちょっと違うと気づくという事が、
初学の者の頭の中で起こり、道理の理解が進むと思うので、お
おいによろしいのではないかと私は思う。つまりこの一件は、

優れたゲームに、見てくれが似ているゲームが、必ずしも、
優れたゲームに、なるとは限らない

という、教訓をもたらす典型例だと私は思う。
そのため、時代が下るに従い、だんだん将棋の形は、異国の
将棋から、現代のわが国の将棋に、見てくれが似ては来たのだ
が、その中間型が、実はゲームとして粗悪品であったために、
その山を超えようと、よりにもよって、日本の特に中枢部が、
大勢で長時間、もがいて手間を掛けている隙に、大将棋、
中将棋という、日本将棋(小将棋族)とは、かなり質が違う
ゲームを、なんと当の日本の中枢部が中心になり、別に生んで
しまったのだ

と私には、現時点でもかなり自信を持って、推定できる。
少し前に述べたように、少なくとも鎌倉時代終焉期の、新安沖
出土駒を見ても、持ち駒ルールは、西暦1300年時点でも、
安定しては居ないほど、その発生が遅かったとみられるほどの
「もたつき」があったのではないかという事である。それは当
然、その改善がしょせん、上流階級の、見栄え感覚の問題でし
か無い所から来る、改善行為自体の社会的広がりの無さという、
悪条件があったからというのが、根本にあると、私は見る。た
とえば庶民にとっては、平安将棋が8×8升目でも、9×9升
目でも、はたまた「外国風の将棋」でも、何でも特に構わな
かったはずなのである。

当時の日本の代表である朝廷で「指す将棋を統一する」という
のなら、提案者自身が、持ち駒ルールを最初から発明して導入
しておく位でないと、その提案者に、「日本の将棋の祖」の
イメージを持つのは困難である事

に気がつけば、我々の後継者の、将棋史の研究者としての腕が
かなり上がっていて、上記伝説の、真偽の研究自体の進展も含
めて、今後大いに将棋史の発展が楽しみになったと、当然言え
るのではないかと、私は考えるのである。(2017/01/10)

増川宏一著書の中の象戯図式、天竺大将棋「奔鷲」の動き(長さん)


 だいぶん古い版なので、新版と内容が変化しているかも
しれないのであるが、私の所持している増川宏一氏著書の、
法政大学出版局、ものと人間の文化史23-Ⅰ、「将棋Ⅰ」

1977年11月 初版1刷

の、103ページから120ページまでに、江戸時代中期
発行と聞く、「象戯図式」の複写が載っている。が、その
うちの110ページから111ページに亘っている、天竺
大将棋(基)のページで、増川本では、111ページの、
上段、左中央付近に書かれている、

奔鷲の動かし方のルールの記載パターンに、私は以前から
注目していた。

中身は、図ではなくて、一文で示された、説明書きの方で
ある。つまり、

如奔王又猫刃再度歩兼行

と書いてある。なお、天竺大将棋には「奔鷲」が元から、
右側中央列3段目に有り、また、奔王も成って、この駒に
なる。ちなみに「象戯図式」自体は、水無瀬兼成の将棋部
類抄よりは新しく、後者を参照していると、言われる。が、
江戸時代の将棋書としては、古い方(3番手と、私は認識)
である。また、「後奈良天皇の命令で、日野郷士臣貞孝な
どが(朝倉)小将棋から、成り太子酔象を取り除いた」と、
朝倉小将棋がらみの話を、類似書に比べてより詳しく報じ
ている(版が存在する)と私は聞いている。そこで「大将
棋が廃れた時代」のころに関する情報、つまり駒数多数将
棋に関する情報が、より詳しく残存している事が、他の江
戸時代の将棋書よりは、少し期待できると私は考えている。

 言うまでもなく、上の奔鷲の動きの説明で注目すべきは、
猫刃のジグザク動きで2歩ルールという、他の書や駒で、
類例を聞かない記載である。

これは、まさしく私が13×13升目104枚制普通唱導
集大将棋で述べた、麒麟の原始的な、踊りのルールである。
恐らく、こう記載した、この書の著者か、天竺大将棋の作
者のどちらかに、「猫又を2回繰り返す動き」というルー
ルの記憶があるので、奔鷲の動かし方のルールとして、こ
のようなものが、考え出せたのであろう。
 この事から明らかに、私が提案した、鎌倉時代末期の麒
麟の動かし方というのは、単なる空想ではなくて、少なく
とも江戸時代の中期までは、その現実の存在が辿れるので
ある。

 ~の駒の動きを2回繰り返す動き、というのは、「~」
を玉将にしたケースは、獅子の原始的なルールを恐らく
生み出し、大将棋から中将棋が発生する、曙となった発明
であった。よって安土桃山時代に、後期大将棋が記載され
たときにも、麒麟が獅子に成るという規則と、それとは対
で、鳳凰が奔王に成るという規則は、後期大将棋の成り則
として、水無瀬兼成によって固定されたのであろう。ちな
みに、同時に後期大将棋の数少ない成りである、太子に成


酔象の成りルールは、「象」駒を、本来居るべき銀将の隣
接する袖の位置から、中央列に移動させる、口実を作るた
めのものであろう。そしてそれは、鎌倉時代中期、横行を
2段目中央から、3段目端から2列目へ、移動させた直後
に発生した、川西遺跡型の大将棋から、私が仮説で述べた
普通唱導集大将棋へ移行する途中での、恐らく仏教に信心
深い大将棋指しによる、新たな作成ルールだったのだろう
と、私は今の所、仮説として想定している。

後期大将棋では、こうして結果的に、酔象、麒麟、鳳凰が
中央に集まっていてかつ、この3枚だけが”成りの有る駒”
になったので、かっことしても、体裁がとれた。そこで、
水無瀬兼成等により、駒数130枚の15×15升目制
後期大将棋「大将棋」の「限定された3つの成りの有る駒」
として、紹介される経緯になったのだろうと、私は考えて
いる。(2017/01/09)

小山市神鳥谷曲輪角行駒の形の謎(長さん)

前回、表題の駒が”裏一文字金角行”駒なのは、恣意的な
選択であるとして、駒種の特定の選択のケースについては、
説明できる事を述べた。実は、現物の実在するこの駒につ
いては、もう一つ情報が有る。駒の形が、現代の太い五角
形ではなくて、新安沖沈没船出土駒から朝倉駒までの、南
北朝~戦国時代にかけての、細長型であるという点である。
 もし、この駒を現在とはほとんど違わない外見の将棋駒
を使用していた、江戸時代に作成したものであるとすれば、

わざと、当時から見ても、昔風の将棋駒を注意深く作成

した事になる。つまり、
何らかの方法で、廃尼寺・小山市の青蓮寺の、江戸時代の
真言宗系の男の住職等は、戦国時代以前の将棋駒の形に
関する知識を、持って居なければならない事になる。
ただし「将棋駒が仏典の貸し出し札起源」であると
して、仏教関係者で江戸時代の人間なら、それを知ってお
り、更には手元の仏典の貸し出し札が、その形であるとす
れば、それをそのまま、江戸時代に小山でも材料にしたと
いう事も、当然ながら考えられうる。
 あるいは、小山市市街を現在は覆う、小山城自体は、戦
国時代までは機能し、江戸時代の草創期まで、ずっと小山
市は、宿場町というよりは城下町であったから、大阪城遺
跡から、将棋駒が出土するのといっしょで、戦国時代の、
日本将棋の遺物や、朝倉小将棋の遺物が、江戸時代初期に
は、栃木県小山市では、主として当時も、城の跡となって
いた領域に散乱するなり、当時の旧家に保管されている等
していたのかもしれない。そのため、土地の知識人には、
戦国期の将棋駒の遺物の知識が、あるとも考えられる。
 いずれにしても小山駒が作り物だとすると、日光参拝等
の旅人を納得させるために、将棋の駒を作るにしても、ど
の程度の数の旅人が、開運なんでも鑑定団の中村誠之助や、
将棋駒研究家の鵜川善郷なみに、”偽物”を見破れるのか
が、判らないにもかかわらず、形まで懸命に、戦国時代以
前のパターンに、合わせた事にはなる。よって、

小山角行駒については、同時産品(クシの破片と女物の下
駄)の「作り物臭さ」とは対照的に、その全体的作りが、
結構現実手が込んでいて、そのために謎を残している

という点に、遺物駒を見る我々は、今後も充分に注意して
観察すべき謎が残っている事も、確かな事だろうとは思う。
(2017/01/08)

小山駒はなぜ”裏一文字金の角行駒”なのか(長さん)

 私の解釈では少なくとも、栃木県小山市神鳥谷曲輪の
出土駒は、なんらかの元情報があるにしても、江戸時代
の、その地の寺、小山の廃寺・青蓮寺の関係者が、思考
により作成したものという事だった。だとすれば「裏を
成り金にする事によって、この駒が摩訶大大将棋の駒の
雰囲気を出し、異制庭訓往来の将棋の説明内容と韻を踏
ませ、南北朝時代の関連物らしさをかもし出している」
のは良いとして、何故もっと、摩訶大大将棋らしい駒を、
選択しないのだろうかという疑問も、あるいは出るかも
しれない。
 たとえば、大阪電気通信大学の高見友幸先生のブログ
のうち、「摩訶大将棋」のコーナーでは、摩訶大大将棋
をアピールするのに以前、夜叉か金剛の駒あたりを、
使っていたように記憶する。

 つまり角行では、少なくとも表面の駒は、日本将棋に
も有るポピュラー駒なので、ありきたりすぎるのでは、
ないかと言う事である。

 仏教五枚組を、寺の本堂に飾っておいても、寺の備品
の名前を書いて、何かの印にでもしているのだろうと、
旅人から間違えられるかもしれないので、狛犬、夜叉、
金剛、力士、羅刹の駒名は、あるいは使用しなかったの
かもしれない。がどうせ作るなら、角行で無ければなら
ない理由があったのだろうかという事である。たとえば、

最も摩訶大大将棋の駒らしい、裏自在王の玉将を、寺の
創始者のメモリアルマテリアルとして、祭壇の中央に飾
っておいたら、もっと摩訶大大将棋の駒らくなり、創始
者が南北朝時代の人物だと、はっきり判った事は確かだ。

 以上の批判に答えられなければ、出土品の江戸時代作
成説は、一応考え直す必要があるだろう。そこで私には、
想像の域を脱する事は当然できず、以下もたぶんに、
当てずっぽうだが、

成りが”金”というのが、ヒントかもしれないと思う。

成りが金の駒しか、飾れない、何らかの理由を考え出せ
れば、謎が解けるのではないかという事だ。恐らく、

 寺には1380年~1382年の小山義政の乱の経緯
に関する、言い伝えも残っていて、戦国時代以前尼寺の、
小山の青蓮寺の寺の創建者の尼さんも、小山義政に関連
しており、かつ、乱の原因が「カネつまり経済的な争い」
だった事を、裏の金の字で、示唆しているのだと私は考
える。

 なお現在の所、小山義政の乱の発端となった第一次の
宇都宮基綱と小山義政の争いの原因は、荘園や公領の、
その当時は、豪族にとって、普通に主な収入源であった、
年貢の請負に関する争いというような、何か経済的な
原因を考える説が、最有力である。よってこの考えは、
特におかしくないと、自己評価している。

 では次になぜ、青蓮寺の住職等は、飛車や竪行、横行
等々ではなくて、金に成る摩訶大大将棋の駒として、
特に、角行を選んだのだろうか。

この点についても、答えに全く窮するようなら、やはり
「作り物説」は、もう一度考え直すべきかもしれない。
 この点についても、小山義政との関連を、指摘できる
かもしれない。実は彼は、名誉的な役職名で「左馬の介」
と呼ばれていたのである。ひな祭りのひな段で言えば、
武官の左大臣をイメージすると、彼のイメージは判りや
すいかもしれない。

 角行は、日本将棋では左側に居て、左大臣のようなイ
メージであるから、小山義政の名誉職名と、雰囲気が
一番良く合っているのである。

なお、小山義政は、戦乱を勃発させる少し前、京都の室
町幕府に対し、名誉的役職上の「日本の宮中の御馬番の
長」を連想させるかのように、馬を他の豪族よりも多く、
献上し、対幕府関係の強化を図っていた事も判っている。
つまり、角行を選ぶと言う事は、それが作成されたとき
には、江戸時代中期で、日本将棋が、普通に指されてい
たのだと、私は疑う。
 以上のように、他の説明が無いというのではなくて、
なんらかの説明が、まがりなりにも存在し得るのである
から、”駒の種類からは、小山市神鳥谷曲輪の角行駒は、
江戸時代作のメモリアル遺物の疑いが強い”との考えを、
完全否定するのは、今の所難しいのではないかと、私は
やはり思っている。(2017/01/07)

2017年1月3日晩~4日明け方日本で四分儀座流星群(長さん)

 以下このブログの表題とは別の話題ですが、3日前に、少し
触れた、りゅう座イオタ流星群、別称、四分儀座流星群の2017
年の状況について述べます。このブログに、この別カテゴリーの
記事も載せる気分になったのは、実際の観測結果情報が、なぜか、
余りにも少ないからです。
 啓蒙するだけで、結果が無い変なサイトが、余りにもWeb上
では、私には目に付きます。IMOの観測結果や、電波観測の結果
も、グラフとして情報がネットに流れていますが、読み取る力が、
発信者にはひょっとすると無いのでしょうか? ちなみに今年は、
日本では条件が悪くて、観測啓蒙が形だったという状況ではありま
せん。
 以下本文に述べましたが、今年の観測も、空の条件が月明かりが
無く、日本の観測は、特に大切な年でありました(以下も、気分で
「です・ます」調に、この記事だけ、調子を変えて記載します。)
 さて、電波観測で、ほぼ正確な結果がネットに流れていますが、
2017年1月3/4日日本の明け方(JST)で、5時20分~
55分の時点では、典型的な「四分儀は極大が過ぎて、坂を下って
収束しつつある」という出現パターンでありました。2013年や
2001年、1985年、1973年のように、「下りの途中で、
肩のような副ピークが出」ない年のパターンです。「ようするに、
自然界の力によって、全身に冷水を浴びせられたように感じた、
あの、1977年の四分儀の出方と同じ」と表現すると、個人的に
はピンとくるので、とても懐かしい限りです。

☆2017年の四分儀座流星群(1月4日明け方日本)
自宅で観測しました。(埼玉県K市某所)
 DATE 2017.Ⅰ.03/04
 TIME04d05h20m~05h55m(JST)
 観測総数2個 都立U高等学校OBラムカ内 1個 判定×
        四分儀群 最近の出方(長さんのまとめ)
   2017 |           ×
   2016 |
   2015 |
   2014 |       △~◎(日本平均◎)
   2013 |           △>P(電波)
   2012 |
   2011 |
   2010 |        ×
   2009 |            ×
   2008 |×
   2007 |   ×~△
   2006 |       △~◎(日本平均△)
   2005 |         ×->×
   2004 |△
   2003 |     △
   2002 |         △
   2001 |         ×->P
   2000 | ×
   1999 |     △
   1998 |        ×~△
   1997 │      ◎->×
   1996 | △        ×
   1995 |    ×~△
   1994 |        ◎
   1993 |         ×->×
   1992 | △
   1991 |     △
   1990 |         ◎
   1989 |           ◎->×
   1988 |
   1987 |       ◎
   1986 |           ◎
   1985 |           ×->P
   1984 |  ×            ×
   1983 |      ×
   1982 |           ◎
   1981 |           ×->×
   1980 |   △
   1979 |      △~◎
   1978 |           ◎
   1977 |            ◎->×
   1976 |
   1975 |       ◎
   1974 |           ◎
   1973 |           △->P(薮保男氏指摘)
        └───────────────────────────
   日本での日付け
         1月 4   4   4   4   5
   太陽黄経
     (1950)272.2  .45   .7   .95   273.2
   記号:◎:旧ZHR60以上 △:旧ZHR約50 ×:旧ZHR約20
      P:未確認ピークあり。


 事前にはWEBでも、極大は2017年1月3日23時(JST)
等と流れていたようなので、私もそうでしたが、それを信じた方は
がっかりするという事は無かったのでしょう。ただし、今から12
年後の、2029年1月4日明け方は、1973年のような事が、
当然予想されるので、今の日本流星研究会のwebに出ている標準
的極大時刻予想体系は、この年や、警戒して2025年のケースは、
信じないようにしたいものだと、私は今から心を引き締めています。
恐らく、木星の公転周期の11分の5倍で公転する、しばらく木星
に接近しないように軌道要素がふらつく、2003年EH1起源の、
塵の吹き溜まりの、内側部分への地球軌道への軽い接触が、
1足す13分の1年周期で、平均近点角で等間隔に5箇所四分儀の
母天体よりは、幾分小さな軌道長半径の軌道に存在するというのが、
この「藪保男の肩」という怪現象の、正体なのでしょう。(四分儀
ダストトレイルサブクラス「5葉の帯」)
 以上のように今年は、「藪保男の肩が出ない、西暦を4で割り1
余りの年」であるという事を確認するのが、四分儀群の観測の、主
目的でありましたが、幸い、その予想は間違っていなかったように、
私には見えました。
 逆に言うと、上で話題にした、四分儀群の藪保男の肩を作り出す、
木星公転周期の11分の5の四分儀サブクラスとは別の、盛んな出
現を作り出す、主なサブクラス帯、木星の公転周期の9分の4の、
四分儀サブクラス帯(4葉の帯)の状況についても、予想はたぶん
外れないだろうと、少なくとも私には確信できるようになりました。
このダストトレイル群と地球は、現在西暦を4で割って2余る年の、
1月4日の日本の明け方、つまり4年に一度、世界時で1月3日の
21時付近で、動径が0.98天文単位に近くて地球に良く当たる、
極大時刻地球軌道交差の、四分儀内の公転周期のたぶん最も短い、
地球の観測者にとっての、メインベルト帯です。この四分儀ダスト
トレイルの、観測者にとっての中心的サブクラスの挙動についても、
2018年1月4日の日本での明け方を含む、2026年頃までの、
今後の残念な「日本での盛んな出現予想の空振り」が、恐らく確信
させられたような気が、私にはなりました。
 むろん、四分儀には、母天体から放出されて100年位という、
もっと出現数の多い、濃いダストトレイルがあります。「出たばか
りの帯」です。3年前の2014年1月4日明け方の、やや多い出
現は、2003年のEH1が、たまたま近日点近くに回帰していた
ために、母天体に近い部分の、ダストの束が当たって、最近すっか
り慣れっこになった「9分の4帯の、切れ切れ隙間の穴を、4年毎
の日本が当たり年のはずの、西暦を4で割り2余る年の1月4日に、
地球が通過したための空振り」とは違う現象が、1回だけ、たまた
ま起こったで、合っていたように思います。
 それにしても1恒星年が、365日6時間9分10秒と聞いてい
る私は、その端数、9分10秒の効果が、何時になったら現れるの
だろうかと、この43年間待ち続けて来ました。1974年から
43年で、6時間以上、パターンがズレるはずなのですが、今の所、
効果は、ほとんどゼロに近いような印象です。
 つまり四分儀群の流星物質は、平均して太陽黄経で0.3度位、
値が小さくなるような、長い周期の軌道全体ミソ摺り回転型の摂動
を、主として木星から受けたのだと、察せられます。もしこの効果
が無ければ、今年あたりが、極大になるとき日本で、1月4日の夜
明け5~6時頃になっているはずです。ので、前記、木星の公転周
期の、9分の4の軌道の大きさがあり、かつ平均近点角の数値で、
等間隔に4つ組の吹き溜まりの間隔が、約1.318年で並んだ四
葉帯の、葉の間隔(降交点通過日の間隔)の、日本の観測者に対す
る、3倍が4.00に近いという自然の意地悪からは、別の年に極
大の分布点を見る、という状況になるため、回避できたはずなので
す。なおこの意地悪は、木星の公転周期が12年弱で4年の倍数に
近く、「歳星」と言われる事から、根本的には来るのですが。
 実際には西暦年を4で割って2余り年が、日本での4日夜明けの
極大状態であるというのが、四分儀群の、年率で地球の移動時間分
9分10秒分の黄経方向への後退移動のために、当分変化しないよ
うだと、外国(ハワイ?)へ行って、四分儀を見ないと、威勢の良
い極大には当たらない、という状況が、あと少なくとも12年、
西暦2020年代の終わりまでは、続きそうだという事に、なって
しまいそうです。1975年、1987年、はたまた2014年の
ように、母天体2003年EH1近傍の塵が、西暦を4で割って、
2か、その前後の年に地球に接触するのを、残りは期待するしかな
さそうですが、8年後の2025年はどうなるでしょうか。私はま
だ、母小惑星の軌道を、チェックはしてませんが、日本は極大時刻
後になり、見た目に華やかにはならないような気がします。更に、
2026年は、2014年と木星の直近摂動の条件がいっしょで
すが、そもそも、「出たばかりの帯」を木星が、1975年や、
1987年回帰部のようには、大きな動径減少の摂動を及ぼしては、
いないように見え、期待薄の計算結果予感もします。(2017/01/06)

二中歴小将棋と小将棋、公式小将棋(長さん)

 以上のべた事から、察せられると思うのだが、いわゆる
「定説の36枚制9×9升目1段目直線配列平安小将棋」
というのは、かなり特異的に、できの悪い小将棋である。

つまり、9×9升目のままでも、ちょっと手直しすれば、
容易に難点が回避できるほどなのだ。

従って「寺の隅等、社会の片隅で、単に道楽でゲームを
行って、楽しめば良い」と言うのなら、平安時代院政期に
も、できあいの、今は100円ショップで買える将棋の道
具から、飛車と角行を取り除いたものを使って、自分達で、
適当に配列を変えて、将棋ゲームを楽しめば良いだけであ
り、「定説の36枚制9×9升目1段目直線配列平安小将
棋」以外に、庶民は、いろいろな将棋をして楽しんだ、と
いう事でも、余りおかしくも無いように、私は見ている。

つまり、
「定説の36枚制9×9升目1段目直線配列平安小将棋
に難があるので、8×8升目の将棋盤を、地面にしろ、何
にしろ、わざわざ別に作成して、1升目小さな平安小将棋
だけを、わざわざ平安時代の末に指した」
という説は、もはや西暦1000年から150年も過ぎた、
その時代の将棋の姿としては、かなり不自然なのではないか

と言うことである。
実際、「玉列が直線でなければならない」と言うのなら、
以下のように、取り捨てルールのまま、駒を配列して、
1段目と9段目が、上下だけがつながった、「円環将棋」
を指せば、「互いの桂馬8段差問題」も、「互いの歩兵列
4段差問題」も、解決してしまうのである。
無題.gif
この事から、
単に「定説の36枚制9×9升目1段目直線配列平安小将
棋」に難が有っても、「持ち駒ルール」を小将棋指しが、
思いつく前に、多量の仏典の貸し出し札に接している下級
坊主等が、
隙を見て、鎌倉時代草創期以降に、大将棋を伸張させると
いうのは、よほどの事情があり、容易ならざる事

だと、私には予感させられる。
遊戯史学会では「二中歴小将棋は、現代日本将棋の類似物」
と決め込んでいる(定説になっている)状態だからと言っ
て、大将棋研究者は、その雰囲気の”ぬるま湯”に浸かっ
て、”大将棋の伸張には、もう、謎が無い”とタカを、く
くって、安閑としていてはいけないのだと、私は考えるの
で、ブログはそういう意味合いの題名にしてある。そして
この難問題を解決するヒントは、大将棋は宮廷貴族しか、
恐らく平安時代末には、指さなかっただろうと見て、問題
が少ないだろうと思われる事である。

つまり、

「定説の36枚制9×9升目1段目直線配列平安小将棋」
という、最低の出来損ない将棋が、宮廷貴族にとっては、
公の場で、儀式として指すよう、強いられ許されていた
唯一の小将棋類であったのだろう、と仮定できる。

そのため、

8升目から9升目の将棋以外の将棋を、
上流階級が主催者となり、公の儀式のイベント等で、途中
で頓挫しない晴れ舞台に相応しい、観覧用ゲームとして指
すための需要が、大将棋にはできたと、考える事が出来る。

ここで、恐らく公の披露される場所で、「定説の36枚制
9×9升目1段目直線配列平安小将棋」が無理強いされた
のは、左右対称で官製に則っている事、正方形盤で歪がな
い賛美的感覚、一段目が直線である事の配列の美しさや、
中国から伝来した各種美意識との整合性や、将棋が将、副、
象、馬、車と隣国のゲームで並んでいることとの対抗上の
合理性等、初期配列のみてくれの、東洋的美感覚だったと、
私には想像される。むろん、その時代の人間には、860
年後の現在、その36枚制将棋に飛車角を加えて、
40枚制で、”普通の将棋”が、指されている事は、知る
由が無いはずである。

 以上のように「定説の36枚制9×9升目1段目直線配
列平安小将棋」には、「もっともらしく帝の前で
将棋を指してみせるためには、初期配列も見た目に美しい
という条件も満たした代替が必要だった」というの
が、大将棋の出発点であると考えないと、出来の悪さの回
避方法が、小将棋のままでも幾らでも有る為、大将棋の、
世界に類を見ない、鎌倉時代の伸張は、全く説明が出来な
いように私は思う。

むろん、平安時代後期には、大将棋は宮廷の中だけの需要
だったのだろうが。鎌倉時代になると、それをスライドし
た形で、メモリアルな施設、寺院や神社でも、大将棋が
指されるようになったのだろう。特に駒の数が多いと、
道具を所持できるのは、セレブに限られた。そこで
栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡のように、南北朝時代の
下野の国の守護の館跡等から、大将棋系の駒が出土
したり、という現象の、原因になったのだろうと私は考え
ている。(2017/01/06)

駒数36枚9×9升目制小将棋の問題は、歩兵か桂馬か(長さん)

 以前紹介したように、私論として私は、9×9升目制
小将棋の発生が、取り捨て制小将棋の一時衰退の原因に
なったと見ている。それ以前の将棋は、私によると、
駒数32枚8×8升目制原始小将棋だったはずである。
平安将棋を記載した、二中歴については、9行将棋か、
8行将棋かで、2説有り、8行将棋説は少数意見だが、
木村義徳九段の「持駒使用の謎」で、旦代晃一氏の説と
して、「歩を、まね将棋として突きあうと、手詰まりに
なるので、駒数32枚で8×8升目の将棋(私が、この
ブログで”原始平安小将棋”と言っている方)が、
二中歴の小将棋である」と言っているという話が、紹介
されている。なお、私の方は、”8×8と9×9が、
両方ある状態で、二中歴が記載されているので、わざ
と(小)将棋の記載では、詳しい配列を、書いてない”
との、まだ賛成者は、見当たらない独自の説を、とって
いる。

 ちなみに私は、駒の数36枚9×9升目制の平安小将
棋で、行き詰まるのは「歩兵が4段目で睨み合って、硬
直状態になるからだ。」と思って、い無い。

桂馬の敵味方の行の差が、仮に8行の差で無ければ、手
詰まりにはならないのではないかと、前から疑っている。
つまり、私に言わせると、二中歴時代に於いて、新式で
”出来の悪い”駒の数36枚9×9升目制平安小将棋も、
桂馬が最下段に配列されずに、下図のように2段目に、
配列されていれば、桂馬敵味方行の差は、8行ではなく
て、6行になって、互いアタリしなくなるので、手詰ま
り将棋にならず、出来は飛車角抜き日本将棋配列と表現
すれば判りやすい、”定説の一段目直線並び”型36枚
9×9升目制平安小将棋よりは、かなり改善されると、
旦代晃一氏とは異なり、認識しているのだ。
無題.gif
たとえば、上図の「改善新式(36枚9×9)平安小将
棋」では、銀を歩越に繰り出して、歩を相討ちにして、
局面を打開すると、改善前の新式36枚9×9升目制
平安小将棋と違って、桂馬同士が当たらないため、
改善前のように、局所戦で終わらずに、桂馬も歩越しで
繰り出されたり、更には桂馬が敵陣に攻め入ったりし、
駒の捌き合いが続いて、行き詰まりにならないと、私は
認識しているのである。確かに歩は、両者公平に突き合
って、9×9升目の場合は何れも平衡に近くは、なるの
だろうが、桂馬の、互いにすれ違いになる、敵陣攻め込
みが効く分”悪いことの相乗効果で、どうにもならない
手詰まり将棋”には、なりにくいと私見する。
 蛇足だが、二中歴の成立した鎌倉草創期に、ここで紹
介した、駒数36枚9×9升目桂馬段違い平安小将棋も、
一度位は指された事もあったのだろう。だから、二中歴
では、将棋の配列を省略したのかもしれない。ただし、
この仮想の将棋は、シャンチーで最下段に、馬が将・師
に並んで配列されている事を見た、京都の知識人には、
”先進国の標準に合致していない”という理由で、人気
が無くなって、一度きりで、あるいは指されなくなった
のかもしれないと、想像(空想)する。
 従って、私の言うところの新式(36枚9×9升目制)
平安小将棋で、マズかったのは、主として、歩兵の間の
行間数が、3段(行)だったからではなく、桂馬が、同
じ升目に効くため睨み合い配列になる、8行違いだった
からだと思う。
 持ち駒将棋と異なり、取り捨て将棋は、ほとんど指さ
れていないため、100円ショップに、将棋の盤駒が、
売られているほど、道具は普及しているにも係わらず、
以上に関連する議論は、少なくともweb上で、行われ
た例を、私は余り知らない。

 どうか、皆さん以上の私の考えが納得できないような
ら、100円ショップの将棋盤と飛車角を除いた将棋駒
を使って、”取り捨て将棋”を、試しにして、上の事を
確かめてみてください

と、この際ここで、一応アピールして置く事にしたい。
(2017/01/05)

大将棋の遺物は何処に?(長さん)

現時点で、将棋の盤駒の遺物でも、大将棋関連の
ものと思われる駒は、私に認識される所によると、
全国にわずかに5枚しか、発見されていない。

①平泉遺跡で両面飛龍駒、
②徳島市近郊の川西遺跡で不成り奔横駒、
③小山市神鳥谷曲輪で、裏金一文字角行駒
④鶴岡八幡宮で、成り奔王鳳凰駒
⑤同じく鶴岡八幡宮で不成り香車駒、

以上5枚である。
この他、興福寺の不成り酔象駒が古いが、とにか
くこれを入れても

6枚と少ない。

もっと、たくさん見つかってほしい所である。
特に、京都近郊から、全く出ないのが、水無瀬兼
成の文書の出所、曼殊院の存在から見ても、素人
目に不思議である。
 これまでの将棋関連の遺物の出所を見ると、ゴ
ミ捨て場のような所から、廃物の一品として、将
棋駒等が出土する事が多い。ただし、ゴミ捨て場
でも、水脈が無いと、木が腐って駒が消滅してし
まうので、出土条件はすこぶるきついようである。
 個人的に心当たりはと言われると、私は遺跡の
専門家でも何でもないので少ないが、小山市神鳥
谷曲輪遺跡に関連する武将、小山義政が、第三次
小山義政の乱という、彼の最期になった戦闘で、
当初参謀本部にしていたと見られる、栃木県鹿沼
市中粕尾の、粕尾城跡に「井戸跡のような、ゴミ
捨て場が発見されていて、調査は一応されている」
という、話を以前聞いた事があるように思う。場
所は、中粕尾山中の森林の藪の中で、私が昨日の
べた、流星群の観測地にしている、栃木市星野か
ら、鹿沼市粟野方面に広がる、谷倉山という山を、
一つ超えた谷にある。
 蛇足だが2017年、りゅう座イオタ群は、日
本での観測適正時刻、1月4日明け方5時には、
明らかに盛りを過ぎていた。今年は、アラスカ方
面で、たくさん見えたのではないかと私は考える。
 さて、鹿沼市中粕尾の話に再び戻るが。
関連する場所で、将棋駒が出ているので、小山市
神鳥谷曲輪から、20km近く離れてはいるが、
この鹿沼の山奥のゴミ捨て場遺跡が、今でも水脈
に満たされているようで、本当に調べつくされて
はいないようなら、神鳥谷曲輪遺跡の発掘以前の
調査だったと思われるので、何れは再度、調べて
みるべきではないかと、私見はしている。
 何れにしても、興福寺の酔象駒の発掘以来、
多少時間が経過している。のでここらで、
2017年の今年の春あたりに、何かまた将棋の
遺物が発掘されればよいのだがと、期待している
今日この頃ではある。(2017/1/4)

人間は100万升目前後の、1兆枚制将棋でも指せる(長さん)

 一昨日の年頭の文章で、私は「100万×100万
升目で4000億枚制の超巨大将棋を、人間が指す
のは、無理だ」と述べたが、良く考えてみると、これ
は間違いだと、ようやく気が付いた。駒の名前を、
初期配列の座標とし、動かし方は、名前が示す数値か
ら、暗算で求められる程度に工夫しておけば、この
程度の将棋を、人間なら指せると思い直した。
 思えば昔、私は天文マニアであって、銀河系の星
(恒星)が、千億の数オーダーだと習ったし、星の名
前の最も効率的な付け方は、天球座標の数値を、その
まま星の名前にする、というやり方であるので、天文
学者が、星が多すぎて困ったという話が無いのを、繰
り返し聞いたものだった。
 むろん将棋の駒は、ゲームが始まると移動するので、
星の観測とは違うのだが、実はこの場合、私は次の点
に関して、勘違いしていたようだ。すなわち将棋では、
駒がどこへ移動したとしても、盤・駒を使って結果は
表示され、対局者が、配置の変化を忘れる事が、ルー
ル違反に、ならないゲームだったのだ。つまり、動か
し方のルールさえ間違えなければ、チェスや将棋では、
どう動いたかは、忘れてしまっても、答えを盤・駒で
見て、改めて認識して位置を確認して良い事になって
いたのを、私は、すっかり忘れていた。
 むろん、泰将棋や大局将棋以外は、駒を自陣にびっ
しりとは並べないので、名前が跳ぶ事はあるが、名前
跳びがあるなら、絶対困るということは、ありえない。
跳びが有っても、困らないように、その”関数”とし
ての、動かし方、成り先、成り先の駒の動かし方を、
工夫しておけば良いだけである。また、ランダムに近
いような、空隙を、初期配列では作らず、空き升目の
出方のパターンを、規則的にしさえすれば、駒が大量
でも、人間には原理的に並べ方が、理解し、記憶でき
ないという事も無い。
 具体的に名前によって決定される”動かし方””成
り先””成り駒の動かし方”各関数は、厳密にはこれ
から考えなければならない。が、無制限走り駒の種類
が、事実上24通り位であるから、変形して25進法
を使い、X軸値を25で割り、走りの種類等に割り当
て、Y軸値を、比較的簡単な形に制約して、小駒や、
跳び駒、走り駒・・と分けてゆけば良いらしい事は、
私には、およその察しが着く。
 以下はアバウトな一例で、まだどこかに穴が、有る
かもしれないが、例示してみよう。
座標原点は、中央列の最前列の歩兵列の1列下の駒を
両者で(0,0)とする。原点は二つあるが、それぞ
れ、自駒について名前を付けるときには、自分の方を
使用する。Y軸はそれより下段は負の数になるが、マ
イナス符号は、無視しえる。X軸は、中央から右辺が
プラス、左辺がマイナスの座標になるが、左右対称に、
駒を初期配列するので、この符号も無視できる。なお、
この変則座標は、棋譜を表記するときには使用しない。
棋譜の表示の時には、先手から見て、盤上端右端の盤
すぐ外仮想升目を、原点にする、普通のやり方でも良
いと思う。
 すると、絶対値の最大で、X座標の数字が50万前
後、Y座標の数値が49万9900前後となる駒名は、
(348579の230309)等で、表現できる。
 ついで、この座標数値と、元駒、成り駒の動かし方
を対応させる必要がある。はるかに簡単に決まる、
成り条件等、細則は、ここでは示さない。また、
(0,499900)程度の所に配列されるとみられ
る玉将、最前列の歩兵は、普通の動き、成りとし、仲
人や犬、「き犬」等は、この将棋では無い事にする。
その他の駒について、次の規則にしてみよう。まず、
X軸の下2桁は、
25~49のとき、前2升目先跳び、
50~74のとき、前3升目先跳び、
75~79のとき、前2と3升目先跳び、を修飾し、
座標を25で割った余りを2進で表して、下、斜め左
右下、横、斜め左右前、前を、それぞれ1の位、2の
位、4の位、8の位、16位に対応させて、1になっ
たときに、「その方向に行けない」を対応させる。
ただし余り24のケースだけは例外で、「前3方を行
けない」には、しないで「23と同じく、前以外には
行けないで、かつ、日本将棋の桂馬の動きもできる」
とする。こうすると、本来24進になり面倒なのを、
25進に変える事が出来る。
 たとえば上の例では、79であるから、前へ2~3
升目先に跳べ、横へ行けない(余り4)が付与される。
ついで、「行ける」の向きについて、その具体的動き
は、Y座標から計算する。
Y座標の各桁の数値を足し、10引いて(負の数なら
ごく小さな0に近い正の数に変える)から、その数値
で100を割った値を繰り上げて、前と斜め前の、走
りの最大歩数、20を割った値を切り上げて、横と斜
め後ろ、後ろの向きの最大走り歩数とする。ただし、
値が10を超えたら、無制限走りとする。
たとえば、
上の例では、230309の各桁を加えると、17に
なり、10を引くと7になるから、前3方向は無制限
走りになり、後ろ3方が3升目走りになる。
 そして、更に残った、X軸の残りの桁で、更に、動
きを修飾する。今度は斜め左右前を3桁目、横を4桁
目(千の位)、斜め左右後ろを5桁目(万の位)、後
ろを6桁目(10万の位)とし、今までの所までで、
この駒は、元の動きが、
「前3方走りかつ2~3升目へ跳び、横行けず、後ろ
3方3升目まで歩み」
になっているのに加えて、
その対応方向桁が
0のケースは、そのまま、
1~5までは、1歩から5歩までの走りを兼ねるとし、
6のケースは、2升目先に跳べるを加え、
7のケースは、2升目先に跳べるに加えて、隣接升目
へ歩めるとし、
8~9のケースは、7のケースよりも3~4升目まで
走る分動ける範囲が増す。
とする。この例では、X座標が348579であるか
ら、よって、
「前3方向走りかつ2~3升目へ跳び、横3升目先
まで走りで2升目先跳び、後ろ3升目先まで走り、
斜め後ろ4升目先まで走り」
の駒となる。実際に指す時には、駒の名前の表示を見
て、以上の程度の判断を、この将棋では暗算でしなけ
れば、事実上指せないが、前3方の動き方の計算が、
このゲームでは、飛び抜けて重要で有る事は、実際に
指してみれば判るだろうから、人間にとって、この
ゲームは、やりにくいゲームとまでは、言えないと考
える。
なお、ついで成り駒になったときの動かし方であるが、
元駒の走る歩数が、4升目以上なら、無制限走りに変
え、1升目歩みと2~3升目走りについては、前以外
の7方向は、そのままだが、前1方向のケースだけは
特別で、斜め前2升目が元駒4走り以上である場合は、
そのまま、前(元)が1~3升目で、左右斜め前2方
向も3升目以下の”元来前方不走り駒”の場合だけ、

前方だけ、
無制限走りに変えて、それに加えて、自駒相手駒共に、
玉以外はすべて飛び越せて、飛び越す時には、玉以外
の駒を取る事ができ、更に、飛び越した駒のうち、
相手駒は、自駒にオセロのように変更させて、さらに
その上で、変更させ自分の駒に変えた相手の駒は、
全部成らせる、というルール(大踊り、オセロ)で、

恐らく、ゲームとして成立するように思う。
上の例だと(348579の230309)という駒
は、
「前3方と斜め後ろ2方の計5方が、無制限走りとな
り、横と後ろの計3方向が3升目走りで、前に2~3
升目跳びで、横へは、2升目先に跳ぶ」という駒に、
成る事が判る。
以上は一例だが、このように駒の名前と、成っている
かどうかの表示を見れば、駒個々の動かし方のルール
は、盤升目100万×100万か、それより少し上、
駒数で9999億枚や1兆枚程度までの将棋は、人間
が指せそうだと、読者にも、なんとなくは、判ったこ
とだろう。
よって、以上の事から工夫次第によって、

 人間には駒数1兆枚程度の将棋でも、原理的に指せ
そうだという事なり得るので、「人間は終わるんです
よ」という話は、日本将棋への、こだわりから、一旦
開放されてしまうと、かなり怪しいのではないかと、
私にはだんだん思えるように、なってきたのである。

 話は飛ぶが、今夜はりゅう座イオタ流星群という、
流れ星がたくさん飛ぶ日である。この流星の束の、
太陽系空間内での分布は、天体の会合がリズミカルな
ために、煙と違って拡散が特異で、顕著な群としては、
最大の理解困難系(規則が有りそうで、無さそうで)
になっていると、私見している。
複雑系になると概して物事、思わぬ新たな認識障害が
現れる事に、流星群の空間分布に、その昔興味を持っ
ていて、充分に私は慣れているので、「無限大将棋が
人間に指せるという事は、コンピュータの将棋界への
進撃には、なんらかの耐えうる方法が、必ず有る」と
いうのと、ほぼ同じ事のように、私には感覚される。
(2017/1/3)