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埼玉県越谷市増林字城ノ上付近に出土物(長さん)

 以前、徳川家康がらみの、鷹狩りの元の館跡があるとされる、
伝下河辺本家の遺跡の西方2km地点、埼玉県越谷市増林字城ノ
上の調査について述べた。町は整備され、田んぼの用水路は残っ
ているものの、遺物の出土は、期待薄との事だった。が、その後
西暦2017年2月5日11時すぎ、越谷市立城ノ上小学校の、
150m南、越谷市保健所前の舗装された路上の、歩道に
付設された花壇の中に、古銭のような金属製の物体を初めて発見
した。
この丸い硬貨上の物体は、表面が錆びて完全に、読めなくなって
いるが、以下の写真のように、原寸大のコインを紹介した書籍と
並べてみると、
1sen.gif
大きさおよび、実は重さも、概ね明治から大正時代の一銭銅貨と
ほぼ同じである。

ちなみに、個人的には私の場合、この時代の一銭銅貨は、母方祖
母から、オモチャとしてもらって、昔現物を所持していた事があ
り、劣化が少ない現物に触れた経験が有る。1銭銅貨は大きさが
二種あったと記憶するが、大きい方が、確かにこんな感じだった
ように思う。何れにしても、残念ながらこの、地面に直接転がっ
ていた物体は、近代の遺物である。
 よって、この遺物は、鎌倉時代どころか徳川家康の鷹狩りの江
戸時代にもとどかず、高々明治時代程度のものと見られる。更に
ここに、古銭が落ちていた理由もはっきりしないが、経験上は、
神社や寺で地蔵等の、賽銭受けを有する場所に、古い時代の、
ビタ銭の、おこぼれが見つかることがある事を、私は栃木県栃木
市星野の大応寺の境内で、前に経験している。落下地点は、何れ
の時代にしても、武家の屋敷跡を示しているのでは、残念ながら
無くて「神社・仏閣近くの、人が余り通らない所」である事を示
していると思う。
ちなみに、

この地点に最も近い、賽銭が普通に存在する、神社らしい神社は、
埼玉県越谷市の久伊豆神社であるとみられる。

 戦後、貨幣価値が暴落して、一銭銅貨が落ちていても、特に誰
も見向きもしなくなり、そのうち劣化して、いっけんすると何だ
か判らなくなったため、たまたま、越谷市の久伊豆神社から、ほ
ぼ東に約1.5キロ前後離れたこの地点に、風化したまま、
一銭銅貨が一枚転がっていたのかもしれない。
 周りは完全に都市化が進んだ風景で、もう100mほど東北東
に移動しないと、田んぼが出てこない市街のヘリである。なお近
くに、越谷市の保険所の建物がデンと建っており、”遺跡”とい
うイメージは、ほぼ無い所である。また道路に自動車がひっきり
無しに通っているが、普段人通りが、さぼど激しくない所のよう
である。そのため、このようなケースはお金の一種が、地面に露
出した状態で、長い年月転がっている事が、21世紀の、現在の
街中でも、充分に有り得る事なのであろう。以上の事から、現時
点でも、埼玉県越谷市増林の城ノ上遺跡の遺物を、私は見たと結
論しない。つまり、

埼玉県越谷市の久伊豆神社の周りには、恐らく江戸時代から民家
があって、よって明治時代頃にもヒトが居り、武蔵武士の野与党
に関連するとも言われる、久伊豆神社の近傍で、近世から近代の
遺物が、時に発見される事が、実際にも有るらしい

と、今の所私は、この古銭らしい物体の発見を、解釈しているだ
けである。(2017/02/08)

出土駒等の酔象について(長さん)

 現在の主流の考えは、酔象の出土駒について、すべて朝倉小将棋
の駒に同定させるという事だと、私は認識している。が、以下の理
由で、私はこの考えには賛成していない。

不成り酔象駒および木簡は、未知の将棋種用の駒とみなすべきだと
思っているからである。

最も違いが際立つのは、言うまでも無く、西暦1098年ころのも
のと聞いている、不成り酔象駒であって、私はこれが、(朝倉)小
将棋の駒とは考えない。根拠は、

太子成りではなくて不成りなので、朝倉小将棋には使用できないと
考えるから

である。なお、朝倉小将棋の酔象が太子成りなのは、朝倉小将棋の
詰み将棋の記録があり、解法の途中で太子成りに言及している点が、
例えば、証拠として挙げられると了解する。
他方、①興福寺出土駒と②木簡、計2例の”酔象”以外に関しては、

③京都府の上久世の内遺跡(1300年~1400年)の酔象が成
 り不明。
④福井県の朝倉氏遺跡(9次発掘・戦国時代)の酔象が太子成り。
⑤江戸本郷元町遺跡(江戸時代)の酔象が太子成り。

と認識している。従って、③~⑤について、私は
③はそもそも判断不明、④が朝倉小将棋、⑤が中将棋、と解釈して
いる。
 結局の所、興福寺出土の①と②の酔象が、未知の将棋種の存在を、
証明しているという解釈するのが、私の独自の解釈である。そして、

不成り酔象は、朝倉小将棋には使いづらいため、①・②の不成り酔
象が、朝倉小将棋の可能性は、ほぼ無いと、私は独自に思っている。

なお、この考えは、朝倉小将棋で酔象不成りの変種について言及し
た古文書が、仮に将来発掘されれば、私は当然変えるつもりでいる。
 そして、以下が全くの私見であるが、私は酔象という名の駒に対
し、webでは多数発見される、”異形感”が実はほとんど無い。
シャンチーにも、チャンギにも、シャトランジにも、チャトランガ
にも、”象”系の駒が有るからである。つまり、はっきり言うと、

 将駒が玉・金・銀と3種もあるのを、不思議がるのに比べて、
象駒の存在を不思議がる方が、将棋史研究家としては、実は筋悪な
着想だったと、

追々の将棋史研究家からは、振り返られる可能性が、かなり高いと、
私は個人的に予想している。9×9升目36枚制の平安小将棋にし
ても、朝鮮半島に隣接する国の、チェス・シャンチー・将棋型ゲー
ムとしては、銀将の代わりに、その位置に酔象が、初期配列で置か
れていた方が、むしろ自然というのが、私の個人的な考えである。
 従って、恐らく全く、わが国では広まらなかったのであろうが、
シャンチーの”相や象”の動きをし、後ろにも動けるため、桂馬や
香車と違って、成る必要が無いため、成らない酔象を銀将の代わり
に導入し、その点だけが、平安小将棋とは実質異なる、9×9、
8×8等の盤升目の小将棋の変種が、西暦1050年~1100年
頃の間、興福寺の主として中国・朝鮮半島からの帰化僧の間で、
一時的に指されていたといても、特に大きな不思議は無いと、私は
考えている。(2017/02/07)

大阪電気通信大学 高見先生のブログが動いています(長さん)

だいぶん休止状態が続いていましたが、大阪電気通信大学の
高見友幸先生のブログのうち、摩訶大大将棋に関する部分に
動きがあります。

摩訶大大将棋の定義に関する、高見先生の、初めてと思われ
る見解が書き込まれました。升目が19升目であっても、駒
の数が、水無瀬兼成の将棋図の普通の摩訶大大将棋、敵味方
総数192枚の、半分程度でも「摩訶大将棋に含む」でよけ
れば、このアローワンス(偏差に対する許容範囲)に初めて
言及された、「高見研究室の摩訶大将棋の定義」では、私と
19×19升目の日本の将棋の、初見の年代に関する意見が、
ほぼいっしょになりえる事が、初めて明らかになりました。

また、成立年代の新旧に関し、平安将棋を引き合いに出した
にも係わらず、なぜか平安大将棋をスルーされています。そ
の点に関しては、本ブログのメインテーマからすると、少し
残念ですが、そのうち、「摩訶大大将棋と平安大将棋の新旧
に関する御言及」も、改めてはっきりとあるのでしょう。尚
高見先生は、摩訶大大将棋の方が、平安(小)将棋より、早
いとされています。この点に関しては、平安(小)将棋を、
どう定義するかによって、個人的には、先生の反対側に回っ
たり、賛成側に回ったり、私はしそうです。平安小将棋の源
を、私は基本的に外来種と見ており、それは発生年次が早い
と見ているからです。
 しかし当面、この議論については、本ブログの趣旨に外れ
ますから、必要なら別にブログを作る等して、私は行いたい
と思います。なお、

基本的に”19×19升目の日本最初期将棋ゲームの方が、
13×13升目とみられる平安大将棋よりも先”との立場、
を私は取ります。

北宋のシャンチーの変形ゲーム、広象棋の情報が、出来てか
ら数十年以内に、日本に入ってくる事は確実。また入って来
れば、陰陽道・陰陽五行説が、既に盛んな状態の日本で、
そのコンセプトを、まねないはずは無いと、私は見るという
のが、19×19升目の将棋は直ぐ発生するという根拠です。
 なお19×19升目の日本最初期将棋ゲームの年代は、
高見先生の、遅いほうの説と同じ、西暦1100年頃です。
江戸時代に、荻生徂徠作とも言われる、北宋の晁補之の98
枚制といわれる広将棋と同名で、使用する盤器具が碁盤と全
く同じ、広将棋が作成され、中国の、広将棋のキャッチアッ
プゲームの例が、別に有る事は既知であり、同じパターンの
キャッチアップが、中国で広象戯が造られた後に、日本に入
ってきて、直後の西暦1100年頃にも、日本でまねが、行
われたと考えるのが自然だと、私には思えるからです。つま
り当時は、中国(北宋・南宋・金)が日本に対して先進でし
たから、日本の人々は、晁補之の広象戯を知ってから、
19升目の日本の将棋に、改めて関心を向けるだろうと、私
が考えていると言う事です。ともわれ何れにしても、
高見研究室のブログのうち、”摩訶大将棋のパート”が、
今後も活発化するように、大いに期待する所です。
(2017/02/06)

島本町教育委員会編「冊子象戯図」で将棋部類抄を、ざっと全体として見渡す(長さん)

幾つかの既存のブログ等で、水無瀬兼成の将棋部類抄は既に紹介
されており、精細な議論も行われている。以下は個々の議論には
触れず、この古文書を一気読みしたとして、マクロに気がつく事
について、骨の部分について触れてみる。結論をまず書くと、

著者は駒の動かし方のルールを、どの将棋種についてもきちんと
記載はしているが、大大将棋には力点が無く、泰将棋は「人から
借りた図である」と記載されているように別格である。

つまり将棋の辞書物であるので、網羅的には書いてあるが、
著者自身は、日本将棋と中将棋、大将棋、摩訶大大将棋に、関心
が有りそうである。根拠は箇条書きで挙げると、
①序文の最初と末尾の数行は、摩訶大大将棋の実質、紹介や編集
経緯についてのみ記している。また、中間部分は将棋一般につい
て述べているが、出てくる駒種は、日本将棋の桂馬と香車、およ
び、中将棋の獣駒を示唆しているのみである。
②大大将棋に力点が無いのは、初期配列の駒と、成り駒の図が、
他の将棋と違い、左右逆転している事に象徴される。このような
表記方法も、無いとは言えないのだろうが、何か別の所から取っ
てきて、入れ込んだ、コピペ物のような印象を受ける。
③写本の際の欠落なのかもしれないが、大将棋と大大将棋、およ
び、摩訶大大将棋の初期配列の方に、いわゆる「聖目」が入って
いない。あるいは、成りの規則が、大将棋や大大将棋では、他と
は違う事を示唆しているのかもしれないが。②の事とあわせて
考えてみると、大大将棋の影が、妙に薄く見える。
④摩訶大大将棋の初期配列および、成り、および、駒を並べると
きの配列の覚え方の後に、摩訶大大将棋口伝があり、摩訶大大将
棋の方が、少なくとも大大将棋よりは、将棋部類抄では、情報量
が多くなっている。
以上の事から”小将棋、中将棋、大将棋、摩訶大大将棋の4種が、
少なくとも水無瀬兼成には、日本の将棋の主要な将棋種”と、彼
自身の心の中では思われているような、書き方に、私には見えて
ならない。以上の事からあるいは、いわゆる後期大将棋と
摩訶大大将棋については、曼殊院本以外にも、水無瀬兼成には、
「比較的継続的に、発生してから少なくとも記録は、受け継がれ
たゲームである」という根拠が、示そうと思えば別途示せる、
彼にはメジャーに見えるゲーム種、という事なのかもしれない。
(2017/02/05)

日光「香車堂」と徳川家治(長さん)

前回「栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡の裏金一文字角行駒は、
小山市の現廃寺、青蓮寺の寺の関係者により、江戸宝暦~
天明期に製作されたものであり、時の将軍で将棋の高段者、
徳川家治の観覧を狙ったものである疑いがある」との旨を
のべた。とすれば、徳川家治が、徳川家康・家光の霊廟を
訪れた西暦1776年の際、観覧可能なような、小山市の
青蓮寺と類似の宗教施設が更にあったとしたら、家治の影
響説は、更に有力になるだろう。実は、小山市神鳥谷曲輪
の角行駒よりも、日光東照宮の参拝に関連して、更に有名
な”将棋の駒”は、以前から良く知られている。栃木県
日光市の日光東照宮に至近の、滝尾神社の参道付近に今も
存在する、香車駒群を有する

香車堂である。

徳川家治の将棋好きは有名であるから、東照宮自体に付設
された、この宗教施設”香車堂(観音堂)”に関心が全く
無いとは、到底考えにくい。
 現在香車堂は、”産の宮”と言われ、出産期の女性に
信仰されているものである。すなわち、安産祈願のため、
「前に”直”すぐに、香車の動きと同じく進む”子”」の
出産を願って、かなり大型の、香車駒のモニュメントを、
日光の観音堂の前に立てておくという習慣があるとされる。
 私も一度だけ、実際に現場を訪れた事があるが、輪王寺、
東照宮、日光二荒山神社からは別筋の、滝尾神社に付設
されて、香車堂は置かれているという点に、まず基本的な
特徴がある。
 また置かれた香車駒は、差し渡しが、普通の香車駒に比
べて一桁大きい、木製だが特注品である。現在はたぶんに
観光用に脚色されて、このような景色になっているので
あろう。ただし、江戸時代の頃には実際の、その当時の
将棋駒が、ここに置かれていた可能性も、充分にあるかも
しれないと、私は期待する。なお現地は、今も、静かな
”林”内の、落ち”葉”の散乱する場所にたたずむ。
 今の東照宮全体から見ると、滝尾神社自体が、素朴な
信仰の場所という、雰囲気である。たぶん家康の霊廟が
できる前には、より西方に位置する、二荒山神社が滝尾
神社の所に有り、徳川家康の霊廟ができると同時に、
二荒山神社自体が、位置を西に約1km程度、シフトした
ように私には見える。その根拠は、二荒山神社・滝尾神社
共に、神殿等の形式について、それぞれに、神社らしい
形を整えている点は良いとしても、
二荒山神社には”二荒霊泉”、滝尾神社には”酒の泉”
と、両方に全く同じ、酒蔵用の水源を、神社一般に、かな
らず無ければならないと、いうほどのものでは無いものが、
それぞれに不自然に持つ等、”同じ施設を壊さずに、移し
変えた”感が、ありありと見える2つの神社である、とい
う点が挙げられると私は思っている。

つまり、滝尾神社は安土桃山時代までの、日光二荒山神社
だったらしいと、言う事である。

 なお恐らくだが、滝尾神社を、二荒山神社の位置に、
シフトさせたのは、南光坊天海だろうと私見する。シフト
させた原因は、男体山が、滝尾神社からは、女峰山より
も遠いために、やや低く見えるという景色が、徳川家康を
男体山になぞらえて眺めたときに、天海には気に入らな
かったからだとみて、間違いないだろうと、私は思ってい
る。なお天海が、景観を気にする人間である事は、彼が、
”明智平”を命名している点からみて、明らかである。
 さて、宇都宮市市内と、日光市の二荒山神社は、ともに、
鎌倉時代から、神官出の武家の豪族、宇都宮氏の所有であ
った。つまり、現在の日光二荒山神社よりも、滝尾神社
の方が、中世の豪族、宇都宮氏にちなんだ遺物が、残され
ていると期待して、良いという事だと思う。そこで、いろ
いろな意味を持つ、滝尾神社近くの香車堂の、観音なの
だろうが。恐らく日光にも力を有した、中世の小山氏によ
って、室町時代ころに、寒川尼の元仏との意味も付与され、
さらに、前回のべた”合戦の参謀を務めるには、形勢判断
が、将棋棋士のように大事”の将棋ゲームの常識から、
それに精通した徳川家治の治世の頃、”将棋の女流棋士
タイプの、合戦の参謀に適した女性”を象徴させて、更に
女性の芳しさをイメージして、芳しい~お香~香車と連想
させて、観音堂に香車駒が置くという、習慣が始まったの
であろう。また、ほぼそれと同時に、寒河尼~姫様~女性
~お産とも連想されて産の宮になり、こちらの方が、判り
やすさからメジャーになり、こんにちも、産ノ宮として、
観音菩薩の香車堂が伝わっているのであろう。
 なお、現在のように、栃木県日光市の日光滝尾神社に、
きちんと香車駒が奉納されるようになったのは、小山市
神鳥谷曲輪の江戸天明期には存在した、小山市の青蓮寺に、
裏一文字金角行駒が置かれていたのと、ほとんど理由が
いっしょなのではないかと、私は疑う。
つまり、これらはすべて老中で、徳川家治の法事担当の、

田沼意次に示唆されて、作成されたものかもしれない、

という事である。その証拠に、小山市の青蓮寺の裏一文字
金角行駒の、嫁入り道具持ち主の尼、ひょっとして、
小山よし姫は、音が一緒なら、字を当てる習慣が始まった、
恐らく江戸時代より、香車の香の字の芳しさを連想させる、
”芳姫”の字が、現在のように、しばしば当てられるよう
に、なっている。
 以上のように、第十代将軍徳川家治は、先だたれた、
妻および下の娘、万寿姫の遺品、嫁入り三面の将棋具を、
思い浮かべつつ、徳川家康の霊廟に参拝に赴き、その際に、
栃木県小山市で角行駒を、栃木県日光市で、複数の香車駒
を見学し、時の老中田沼意次等の、法事のプロモーション
能力のおかげで、当時入れ込んでいたといわれる、趣味の
心も同時にある程度満足させ、一応上機嫌で江戸城に帰る
事が、できたのではないかと私は想像する。(2017/02/04)

栃木県小山市神鳥谷曲輪「裏一文字金角行駒」と将棋将軍徳川家治(長さん)

以前、栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡で発掘された、水無瀬兼成の
将棋部類抄の摩訶大大将棋駒とすると矛盾の無い、「裏一文字金
角行駒」は、江戸時代に元尼寺で、当時新義真言宗の寺の末寺で
あった、青蓮寺の住職等が、寺の由緒を公知させるために、開基
者とも想定される、尼さんの副葬品を展示するというような意味
合いのもので、基本的には、

江戸時代に作成された、当時でも古めかしい雰囲気をかもし出す
遺品風の駒であろう

と、私はのべた。むろん、何らかの記録が当時寺に有って、それ
に基づいて、作成したのではあろうが、駒自体が異制庭訓往来の、
南北朝時代に、本当に使われた将棋駒とは、考えにくいと私はし
た。根拠は駒の五角形の形自体は、鎌倉時代から戦国時代風であ
るものの、”金”の書体の崩しが弱く、安土桃山時代の水無瀬兼
成の将棋部類抄に近いという点が、この駒については挙げられる
と考える。
 ところで、この一見すると「尼さんの遺品」としては唐突な
将棋駒に、どんな展示の効果があると、青蓮寺の住職等は考えた
のであろうか。一般の旅人が、この将棋駒を仮に、寺の由緒書き
の、建て看板とともに突然見せられたとして、何か寺にとっての
利益が、実際あるのかどうかと言う事である。以下私見だが、

小山市の旧尼寺現在廃寺の青蓮寺の住職にとって、この将棋駒に
目を留めてほしいのは、政治的な力が特に無い、一般の旅人では
とりたててなくて、ひょっとして、江戸の将軍様や、幕閣だった
のではないかと、

私は推測する。将棋駒に目を留めそうな、寺の住職にとってター
ゲットになる将軍としては、歴代の将軍の中ではたった一人、
第10代将軍の徳川家治以外に、私には考えられない。
この将棋駒の作成年代は、従って、江戸時代の宝暦から天明にか
けての、ころかとも考えられる。

また徳川家治と栃木県小山市の、この末寺との接点は、徳川家治
が、初代将軍徳川家康や第3代将軍徳川家光の霊廟のある、日光
東照宮への参拝時、たまたまここが、通過点になるから以外には
これもまた考えられない。記録によると、徳川家治の祖父で、
第8代将軍の徳川吉宗は、小山市の青蓮寺の親寺である、小山市
の持宝寺に、参拝の途中で休憩のため、足を止めたとされる。
元々小山市付近には、小山御殿と称する、徳川家康等の日光霊廟
の参拝のための、最初の頃の、歴代の将軍の休憩所があったの
だが。時代と共に老朽化して、第8代将軍の頃には使用できなく
なり、取り壊されて消失していたため、休憩地として、地元の寺
である、小山市現宮本町の持宝寺の、境内等をたまたま利用した
事が有るという話のようである。
 実際には、徳川家治の時代に、日光参拝の手配をしたとされる、
当時の老中の、田沼意次は、検討の結果、徳川家治の休憩所とし
て、小山市の持宝寺は使用せずに、臨時の茶屋の陣を小山市市内
に作ったと聞いている。なお、それも含めて、もろもろの費用を、
当時の栃木県の宇都宮藩が捻出したため、宇都宮藩の財政は、
そうとう逼迫したらしい。
 結局小山市市内の寺は、時の将軍、徳川家治には使用されなか
ったらしいが、それに関して、将軍側の重臣と、小山市の持宝寺
や、末寺の青蓮寺との間には、当然事前に接触があったのかもし
れない。そしてその際将棋の好きだった、徳川家治の注意を引い
て、できるだけ招き入れようと、青蓮寺の住職が「青蓮寺の開基
者の尼さんのものだ」と称して、摩訶大大将棋の駒を置き、
将棋史に興味を持つことを示すことによって、将軍側との友好な
雰囲気を、作り出そうと考えても、私には特におかしくはないと
思える。ちなみに、どうして将棋の駒を尼寺に置くと、徳川家治
が興味を持つと考えられるのかは、狙いは正確には判らないが、
一応、次のような事が考えられる。
 第十代将軍徳川家治には、二人の実の娘があり、二人ともに、
夭折してしまっているのであるが、妹の方はかろうじて、当時
尾張徳川藩の城主になる目前だった、徳川治休(とくがわはるよ
し)の所に嫁ぐため、婚約までは行ったらしい。当然、将棋の好
きな徳川家治なら「武家の地方大名に嫁ぐ姫君は、合戦で、夫が
不在で、鎌倉時代草創期の小山政光の妻の、寒川尼のように
代わりに、家来を率いて出陣するとき、合戦参謀としての能力が、
要求される事になり、徳川太平の江戸時代とはいえ、尾張徳川藩
に自分の娘を嫁にやるとなれば、将棋道具を含む三面の用意が
必要」と意識していたに、違いなく、その南北朝時代版とも言え
る将棋の駒を、青蓮寺に手回し良く展示してみせれば、「武家の
妻の心得の嫁入り道具の起源」といった、シキタリのルーツの
うんちくに絡んで、徳川家治なら、小山市の青蓮寺の由緒に、
一応目を向けてくれるかもしれないと、期待したのであろう。
 ちなみに、徳川家治は、将棋の相手として、当時宇都宮藩の藩
主であった、戸田と同じ苗字の当時の将棋女流棋士、戸田おくら
をも大奥から招集していた。それでよりいっそう、鎌倉時代の
小山氏や乃木ノ宮の戦いの歴史と関連する、小山市の青蓮寺で
眠る合戦参謀、「宇都宮家から来た女性」には、当然興味を示す
だろうと、青蓮寺の住職等は考えたのかもしれない。
つまり、将棋史研究家と疑われる、当時の小山市の青蓮寺の住職
等の狙いは、

将棋に絡んで徳川家治の娘の、徳川万寿姫。戸田おくら、寒河尼、
おそらく小山よし姫の4人を、合戦時の参謀に適した人材である
”女流棋士風の女性”という意味に於いて、ニヤリー・イコール
で結びつける事によって、
第10代江戸将棋将軍徳川家治の関心を引き、更に法事を担当す
る、時の権力者、老中田沼意次等の幕閣要人との繋がりや、
加護を、できるだけ引き出そうという、何処でもやっていたと
見られる、政治的な算段だったという事である。

 以上の事から、寺の開基の尼さんの副葬品として、履いていた
とされたとみられる下駄とクシだけでなく、この場合は、南北朝
時代風の将棋の駒を置くという、いっけんすると異形な組み合わ
せは、実は特定時代の徳川江戸将軍、第10代徳川家治が、たま
たま将棋好きであったための、江戸時代の将軍からみの現象であ
る可能性も、にわかには否定できないように、私には思えるので
ある。(2017/02/03)

水無瀬兼成は平安大将棋(二中歴大将棋)を知らなかったのか(長さん)

  ”大将棋の進化"と表現すると、一けん生物の進化のように、
その時代以前の生き物は滅びて、その時代には、その時代だけ
の将棋しか、生き残れていないようにイメージされるが、実際
には、記録さえ残っていれば、指して、その時代の人間が、満
足出来るかどうかは謎だとしても、古典芸能として生きること
は可能である。たとえば鎌倉時代早期の二中歴が、安土桃山時
代にも、その存在と、内容がある程度知られていたとしたら、
たとえば、その時代の将棋の研究家が、”鎌倉時代に指された
将棋”として、二中歴に書かれた将棋を”別のゲーム”として
紹介する事は、充分に出来たと考えられる。
 私見では、水無瀬兼成は、二中歴に大将棋や小将棋が紹介さ
れている事を、充分に知っていたと思う。理由は、彼は生涯、
将棋に係わっている権威者であり、人生のどこかで、当時は
ある程度出回っていた、二中歴系統の古文書に、まったく出合
っていなかったとは、到底考えられないからだ。にも係わらず、
彼の今では残された唯一の文書”将棋部類抄”で、小将棋を日
本将棋、大将棋を後期大将棋としたのは、いったいどんな事情
があったのであろうか。この点は、これまで”進化”のイメー
ジから来る、錯覚があったのだろうか。余り問題にはされなか
ったが、考えてみる必要があるように思う。小将棋については、
実はより難しいと私は思っているため、可能なら別途述べる事
にし、ここでは、このブログの表題になっている、後期大将棋
の方についてだけ述べる。
少なくとも大将棋について、水無瀬兼成は、

二中歴の大将棋の記載は曖昧で、駒種がだいぶん欠落しており、
曼殊院文書のように、図がはっきり残っている文献が、唯一
その正しい姿を示していると、仮定したのだろう

と、私は考える。二中歴と曼殊院将棋図を、水無瀬兼成は、並
列に見てみて、後者を選択し、前者は知っていたが棄却したと
考えるということである。
たとえば二中歴では、一段目の配列について、駒が抜けていた
りするし、盤升目がどうなっているのか、単に13升目と書いてあ
るだけにすぎない。二中歴の平安大将棋と、後期大将棋とでは、
一段目の配列については、石将が加わっているだけで、これに
関してだけは、かなり近い。つまり升目は15を13と間違えたとし、
①石将は、二中歴では書き忘れたと、強弁する事も可能かもし
 れない。
更に2段目以上についても、一けん後期大将棋ではたくさんの
駒種が、新たに加わっているために、二中歴の平安大将棋の配
列図を、実際に書いてみると、まったく違うような印象を受け
るが、よく考えてみると、

二中歴では実際には後期大将棋には存在する駒種が、写本の際
に、書かれてい無い駒種については全部、欠落してしまったと
無理に仮定すると、どうにも説明できないのは、”横行”だけ

に見える。
つまり、平安大将棋について2段目の横行以外を考えてみると、
②盲虎は猛虎と誤記されて、位置も金将の上を、銀将の上に、
 位置が隣1目だけ、誤記された。
③飛龍は、2段目でも、後期大将棋のように4段目でも、桂馬
 の前の方の升目であるから、曼殊院の将棋図のように解釈し
 ても、まったくの的外れではない。
であり、さらにその他の駒種として、
④仲人は、角行の上を中央と書き間違えたのだと考える。

次に成りの規則は、”同じ大将棋だったが、(イ)金将の成り
の意味を後世精査したか、(ロ)ゲームの調整で、変更した。”
と、水無瀬兼成は、みなした。そして、
この程度の変更なら、おなじゲームであるから、名前は変えな
くて良い”と、水無瀬兼成は、考えた、とすると矛盾は無いの
である。
以上のように、平安大将棋と後期大将棋とで、ゲームを2種と
認識しなければならない、厳密な根拠としては、二中歴が文書
であって、図ではなく、また水無瀬兼成の時代からみても、
380年も経っていたため、少なくとも図版を重視した水無瀬
兼成にとっては、せいぜい

横行の位置が、全く違うという一点だけが、平安大将棋を独自
種として成立させる根拠

だったのかもしれないようである。なお、遊戯史研究家の増川
宏一氏は、ものと人間の文化史、将棋Ⅰ、法政大学出版局、
1977年にて、
⑤横行は、本来竪行や角行と対や、関連する語句ではなくて、
”悪人の横行”と言うときの、暴虐無尽の”横”の横行である
旨を、示唆している。
残念ながらこの根拠が、私にはわからないが個人的に、だとす
れば、

横行は、”奔行”とでも言えるような気が私にはする。

あるいは水無瀬兼成も、この”横行問題”については、このよ
うに、同義語として解釈したのであろうか?
奔王については、すでに徳島県の徳島市の郊外、川西遺跡から
奔横という、鎌倉時代中期ころの関連駒らしき遺物が出土して
いる。

こんご、奔王、奔横、横行に加えて更に前記「奔行」駒が、

どこかの遺跡等で、発掘されてしまうと、大将棋が単一ゲーム
と、歴代の将棋史研究家に認識されながら、明らかに変化して
行った理由が、よりはっきりするかもしれないと、この部分の
学術的な発展に、おおいに期待している所である。(2017/02/02)

埼玉県吉川市川藤字榎戸・須賀の環境(長さん)

前々回までの調査で、埼玉県吉川市の、現在の中川の西の張り
出した場所、川藤・須賀・川野のうち、川藤と須賀の境で西の
方に、主として土器と疑われる陶器の細かい破片が、多数散乱
している事が判ったと述べた。そこでこの領域が、全般として
どういう場所なのか、webの古文書の紹介サイト等で、更に
調査の上、現地の環境を更に調べた。
 この地域のうち、北40%の吉川市川藤の部分は、字名で
”榎戸”と言い、いっけんして川岸を連想させる場所のようで
ある。この場所での中心は、近世、川藤榎戸400番地にある、
宝性寺という、真言宗智山派の寺だったようだ。なお、宝性寺
という寺の名前では、栃木県足利市にある、青蓮山宝性寺とい
う、同じく真言宗豊山派の寺が、古くからある。”宝性寺”と
いう名前は、何れにしても、真言宗系の寺の名前なのであろう。
 ここの宝性寺は、社務所と倉庫の簡単な建物があるだけで、
現在は、さほど盛んな寺には見えない。ただし、昔はこの地域
のかなりの領域を占めていたようで、現在の中川沿いの吉川市
須賀にすこし入った所の”香取神社(三)”という町の鎮守を、
昔は支配していたとの事である。かなり屋敷の立派な農家も、
須賀の真ん中のあたりにはあるため、全域が寺の敷地では無い
にしても、東西に300m、南北に200m、2万坪前後の敷
地が、かつては有ったに違いない。事実、この地域の所々には、
御坊の跡を示すような、道端に墓石が2~3つ置かれた道しる
べに見えるものがある。
 その他の古い墓碑の散乱も地域内にはあり、その年号から、
近世には、真言宗の寺である宝性寺を中心に、川藤榎戸や須賀
に、住居が点在している領域だったと、ただちに推定できる。
ざっと見た限り、最も古い散乱墓碑は、驚くほど古いのに彫刻
が鮮明で、元禄時代のもののようである。なお宝性寺の境内が、
近世には、もっと広かったらしい別の証拠としては、近くの、
兼業農家か会社員が住むとみられる、近代的な住居の庭に、
2階家の高さほども有る、りっぱな十三重塔が建っている事も
挙げられる。恐らく先祖代々ここに住む、少なくとも寺の関係
者と、ある程度の血縁の有る方等は、寺から敷地を購入した後
も、元々は寺にあった施設は撤去せずに、ここでは、そのまま
残して住むという、土地柄なのであろう。
 ちなみに、ここに比べて、北隣の下河辺本家の住居跡の有力
候補、埼玉県松伏町下赤岩が、名刹の存在で、劣っている訳で
はない。松伏町下赤岩にも真言宗の寺院で、東陽寺という寺が
あり、現在の規模は、吉川市川藤榎戸の宝性寺よりも、むしろ
勝っている。なお、この寺の西にある松伏町下赤岩の香取神社
が、字”屋敷附”で下河辺氏本家の屋敷中心の有力候補である。
しかしこの、東陽寺と、松伏町下赤岩の方の香取神社との関係
は、私には良くわからない。また松伏町下赤岩には、現在の
中川の東岸に、蓮福寺、東泉寺という別の寺もあり、それぞれ
墓が多数ある。
 だが比較すると、焼物の遺物の散乱状態は、吉川市川藤榎戸
の西の方が、松伏町下赤岩屋敷附より、やや勝っているような
気がする。そのため、下河辺本家の屋敷が、埼玉県吉川市川藤
榎戸と、同須賀の境付近にあった可能性も、昔の利根川つまり、
古くの中川の跡、および、現在の新方川の合流地点でも
あるため、簡単には、否定できないように、私は考える。ひょ
っとすると、吉川市川藤榎戸や吉川市須賀の、民家の廃井戸を
掘ると、木製品が続々と可能性が、かなり強いのではないだろ
うか。(2017/02/01)