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平安小将棋がタイ人の象棋である仮説をチェックする(長さん)

少し前に、日本の将棋が中国シャンチーの、北宋初期の源流、11筋×10段
32枚制北宋象棋起源であるとは、仮定できない主な根拠として、
1.砲の存在と、それが原因の兵数の半減、兵の4段目への初期位置前進、河の
  存在
2.イスラム・シャトランジの影響による、金将駒の差と、敵味方駒の色による
  塗りわけ
の2点を実質挙げた。だが、他の外国の将棋全てについて、この程度の差がある
として、それでも日本の将棋が外国起源だと言うには、この差が、近縁種として
名高いたとえば、タイのマークルックに比べて、相当大きい事を示さないと、
”がまんできない差”にされてしまうだろう。そこで、今回は同じパターンで、
タイのマークルックについて、平安小将棋との差を考えてみる。
 まずマークルックについては、砲の問題は無いので、考えなくて良い。その点
だけでも、差は甚大だ。更にマークルックでは、8×8升目32枚制の原始
平安小将棋と、駒の数、および初期配列に配置された、駒の類別が、それぞれ
32枚とも位置、およびその種族全部について、原始平安小将棋と完全に一致し
ている。そのため少なくとも、ゲームのルールに関して、

砲の問題に匹敵するような差は、シャンチーと平安小将棋との間の関係と違い、
マークルックと日本将棋の間では、存在し得ない。

むしろ、日本将棋と原始平安小将棋の差を知らないと、タイのマークルック史研
究家の方が、飛車と角行の存在を見て、”我々の象将棋と違う”と早合点し、
誤った結論を出す心配があるという、我々にとって、常識的な日本国内の将棋史
の情報に関して、むしろ我々の側に発信の責任があるという、関係にさえなって
いる。
 更に2について、以下私見だが、

マークルックと原始平安小将棋の2に関する差は、概ねタイ領内に先住していた
モン族の成立させた、東南アジアの中世王朝に原因を着せれば、解決する差

だと私は思う。もともとタイ付近で王朝を立てていた、タイ族から見れば先住の
モン族の王朝にも、シャトランジを指すイスラム教徒のアラブ人が、中国の唐の
時代以降の適当な時期には、存在したと推定される。たとえばペグー=エーヤー
ワディー王国は、交易が盛んな国家だとされるため、その例だと思われる。
そのため、現在のタイのマークルックの副官・金将駒は、シャトランジの動き、
象・銀将駒は、玉駒類似の、銀将の動きと言うように、モン流、タイ流で、まぜ
こぜになっているのだと私は思う。
 なおタイのマークルックは現在、比較的リアルな形が、残存している馬駒を除
いて、大理国の三塔主塔や、埼玉県児玉郡美里町で発掘された事で知られる、
仏塔を象った駒を使っているという。たたしその、仏塔駒が抽象化し、前後が、
その立体駒を見ただけでは、判らない形になってはいるらしい。そのため、中国
シャンチーや西洋チェス同様、タイのマークルックの駒も、敵味方を区別するの
に、本来なら色分けした方が、良い状況にはなっているようだ。しかし、このよ
うな

抽象化も、モン族の王朝国家内で指された”8×8升目32枚制シャトランジ型
原始片割れマークルック”でだけ、起こった現象

なのではないか。つまり、タイ族を支配していた王朝の、大理国で指されていた
”8×8升目32枚歩兵3段目配列制原始平安小将棋型マークルック”では、
国王が仏教徒として極めて厳格であって、異教徒は住みにくかっただろうから、
イスラム教徒のアラブ人が、大理国の首都現大理市付近で、シャトランジを指す
事は、ほとんど無かったのではないかと私は思う。そのため、駒の形の抽象化は、
大理国起源の片割れにまで遡ると、ほぼ消えてしまい、極めてリアルな細かい細
工を施した形の駒に、変わってしまうのではないかと、私は予想するのである。
 以上の事から、2のマークルックの金将と駒の色の問題は、タイ国内に住んで
いた先住民族のモン族王朝のイスラム教徒に対する、大理国に無い寛容な性質に、
原因を着せれば、解決するのではないかと、私は考える。
 なお、これ以上になると、シャンチーと平安小将棋にも存在する、その他の微
小な差を、タイの将棋についてだけ議論する事になる。が一応、成り駒の構成差
と、馬駒、車駒の、マークルックと原始平安小将棋間のルールの差について、考
えてみる。以下、あくまで私見だが、

大理国の将棋に、馬が八方桂と桂馬、車が飛車と香車の、それぞれについて、
複数のローカル変種が存在した可能性もある

のかもしれないと思う。また、成りについても、歩兵(とひょっとすると銀も)
だけ、相手陣3段目で成るのと、玉と金将以外が相手陣3段目で成るのと、2種
類の系統が、あった可能性もあるのではないか。おおかた、銀・馬・車も成る、
大理国象棋は、馬が桂馬、車が香車、歩兵だけしか成らない大理国象棋は、馬が
八方桂、車が飛車で、全体として着手空間が、互いにほぼ等しくなって、ゲーム
の質は、どっこいどっこいで拮抗していたのかもしれない。何れにしても、マー
クルックから、日本の8升目制原始平安小将棋へ、進化するのは極めて容易であ
るばかりでなく、いくつか存在した可能性のある、

ローカルルールの変種のうちの一つが、ゲームとして全く同じ物であった可能性
を、否定できない

と考える。この点、中国シャンチーとは、対照的な状況であると理解する。恐ら
く、”8×8升目32枚歩兵3段目配列制原始平安小将棋型マークルック”の変
種と、8×8升目32枚制原始平安小将棋との差は、大理市三塔主塔出土遺跡の
遺跡史料からみて、極めて精細でリアルな立体象棋駒で、それをゲームしたのか、
五角形の木製駒でゲームしたかの、差でしか無いのではないか。であるとすれば、
両者は実質的に全く同じものであって、単に日本人の棋士には、大理市三塔主塔
の遺物のようにリアルで高価な駒が、多くの場合金が無くて、入手できなかった
だけだと、考えざるを得ないように、私には思われるのである。(2017/07/11)

シャンチーやチャンギでは、何故成りを駒を裏返して表さないのか(長さん)

目下、駒を裏返して成りを表す、チェス・将棋・象棋型ゲームは、日本の
将棋と、タイのマークルックだけである。中国のシャンチーや、朝鮮半島で
指されているチャンギは、駒の形が、厚みの有るコインや、それを八角形に
少し変更したものなので、本来なら成りを裏返して表現する事も、原理的
には可能である。しかし、そういう例は、タイのマークルックの兵駒である
”貝”以外には無い。これは何故なのか。
以下回答となる私見を、まずは何時ものように書く。
 たとえ、厚みの有るコイン型であっても、中国のシャンチーは、本質的に
”具象的な立体駒と同じ物体または人である”と見なされているためである。

つまり、駒を裏返すと”昇格した”というよりは、”攻撃されてその駒は死
んだ”と、中国人等には、今もイメージされるのであろう。
それに対して、日本の将棋の五角形駒は、元々本来それがあるべき道具の、
単なる代用品だったという本質的性格が有るため、その中国人の感覚が無い

からだと私は考える。本来日本の将棋駒は、具象的な菩薩立像のような姿の、
玉、純金、銀でできた玉将、金将、銀将だった。しかし、”木の五角形駒を、
大多数の指し手には金が無くて、そんな高価な代物は入手できないので、
しかたなく使用している”という意識が、西暦1000年頃の将棋棋士に
は有った。その”常識的意識”が存続した為、代用品ならルールの表現が、
できる事が第一なので、ひっくり返しても死では無くて、昇格を表すとして
よいという感覚として、今も我々日本の将棋文化には、残っているという事
である。従って、この日本人の持つ将棋駒感覚は、将棋が伝来した頃の記憶
を留める、重要な情報の残影と、私は当然見る。
 それに対して、特に中国のシャンチーでは、デフォルメされていても、シ
ャンチーの駒は、実際の人物・兵器を指している。そのため、ひっくり返せ
ば降参が、ただちにイメージされるのであろう。よって、我々の将棋に有っ
て、中国や朝鮮半島の象棋に無い”ひっくり返して成りを表す”という習慣
は、日本の将棋駒は本来実は、絢爛豪華な立体駒だったという情報を、淡く
残しているのではないかと思う。この考えは現在の遊戯史界で、私以外が主
張している例を知らない。が万が一正しいとしたら、表題の成りの表現方法
は、世界にほとんど類例の無い、相当に驚くべき遊戯の歴史の痕跡だと、私
には思える。
 なお、前にも述べたが、タイのマークルックの兵駒の表現は、恐らく戦国
時代末に、日本人街で指された日本将棋を、タイ人が見て、模倣したのだと、
私は考える。つまり、その時代までには、タイのマークルックの兵駒は、貝
になっていたのだろう。貝なら兵隊と違い、ひっくり返したとしても、やっ
つけられて、死んだとのイメージが、起こりにくかった。そのため便利さを、
タイ人は感じて、まねたのではないだろうか。なおタイ人が、日本の戦国時
代の時点で、マークルックのルールの多くが、自分達の先祖の大部分が、日
本の平安時代後期に住んで居た、中国雲南省の大理国から来たと、思ってい
た可能性はあるのかもしれない。が戦国時代に、日本の将棋が大理国から来
た事を、タイの日本人街の日本人の何者かが知っていて、その事をタイ人と
の間で、話題にした事があったのかどうかについては、今の所定かではない。
なお原始平安小将棋と実質一緒の、大理国将棋に於ける成り表現は、立体駒
の、回り将棋方式の交換だったと、今の所私は考えている。

つまり、今の所、”歩兵のと金”表現と、”ピアのピアガイ”表現の一致は、
”偶然の合流一体化”だった可能性が高いと、考えるしか無い。

 以上まとめると、中国人や韓国人が、日本の将棋駒の成りの表現方法を、
真似ないのは、本来の立体駒と五角形駒に、中間型の恐らく一切存在しない、
日本の将棋駒とは違って、彼らのゲームの駒が、本来の立体駒から、連続的
に抽象的な形に変化した事を、裏付けているのだと私は思う。(2017/07/10)

日本の将棋の金将は、なぜ動かし方ルールが玉将に近いのか(長さん)

日本の将棋の金将・銀将が、前後に非対称的な動きである点を指摘する意見
がある。それも、もっともだと私は思う。しかし、そもそも金将については、
現在の世界の大方の将棋は、対応する駒が、平安大将棋の猛虎か、チェスの
ように、奔王の動きであって、特定方向について、玉将と同じく1升目歩み
が、6方向について一致する将棋は、見当たらない。唯一の例外は、四人制
に移行しつつあった時代の、インド古代将棋のチャトランガが、玉駒と副官
駒で、ほぼ同じルールだったと推定されるだけである。そもそも、二中歴の
将棋の駒の動かし方のルールでも、金将や銀将が、玉将と対比してルールが
述べられているが、同じように説明できる、外国のチェス・将棋・象棋型ゲー
ムは、存在しないのではないかと、私は疑っている。この問題は、大将棋の
銅将、鉄将へも拡張して考える事ができるため、このブログと、全く無関係
とまでは言えない。そこで今回は、金将の動きの原因について考えてみる。
 実は、もう答えを言ってしまったも同然であるが、まずは私見を何時もの
ように書く。

日本の将棋は外国のチェス・将棋・象棋型ゲームと違い、チャトランガから
直接に変化し、アラブのシャトランジの影響の無いゲームだから

だと私は思う。
 それに対して、外国のチェス・将棋・象棋型ゲームは、西方アラブのシャ
トランジの洗礼を、少なくとも部分的には、受けているため、日本の将棋と
は性質に差があると考える。以上の差が、金将のルールになって、現われて
いるというのが、私の見方である。ここで、

日本将棋がシャトランジを経由して進化していないのは、インドと日本の間
にアラブ諸国が地理的に存在しないので、当たり前

という点が、重要である。つまり、中国・朝鮮半島のシャンチー、チャンギ
の士駒が、シャトランジの洗礼を受けている点が、むしろ不思議なのである。
 ただこの点については、最近私はこのブログで、何度もヒントを書いてし
まっていると認識している。

唐の時代の長安が国際都市で、アラブ人がシャトランジを指していた

のが、原因だと私は思う。中国人は、アラブ人が熱心にチェス・象棋型ゲー
ムを、中国の当時の都で指さなかったなら、よほどそれが、ゲームとしての
性能が良ければ別だが、インドから来たゲームを、流行らせる気持ちは、
もともとあまり無かったと私は見る。つまり、あくまで以下私見だが、

原始チャトランガと原始シャトランジは、チェス・将棋・象棋型ゲームとし
ては、出来の悪い部類

だと私は考える。インドで発生したチャトランガは、幾分変化しながら雲南
省までは来ていて、玄怪録に、それが示唆されたりもしていたのだが、いろ
いろな娯楽に慣れていた唐の時代の都の漢人は、他の娯楽を止めて、アラブ
人が長安の居住地で、ほぼ彼らの間だけで指しているシャトランジや、その
類を、漢人の間でも流行らせるほどには、性能が悪いために、しなかったの
ではないかと私は考える。すなわち中国で、シャンチーが成立したのは、

それでも懲りずに、アラブの帰化人達が、継続は力で、中国で兵器としての
”砲”が発明されるまでシャトランジを、中国の都で指し続けた結果

だと私は考えるという事である。では、アラブ・イスラム出身の中国の都の
居住人が、性能が悪くても、シャトランジを指し続けた理由であるが、
イスラム教の創始者

モハメットが宗教家であると同時に、帝国の創始者であり、武術に長けた、
武将でもあった

事が、武術の習得に関連すると、されていたとみられる、シャトランジを、
アラブ人が重視して指し続けた理由と考える。つまり同じ王侯出身者でも、
極東の人間にとって精神的支えであった釈迦が、武将としては、なかず
飛ばずだったため、心の奥底から合戦ゲームを、アラブ人のように中国民間
人は、する精神風土が無かったのだろうと私は見る。その点は、日本人も同
じであろう。そして、日本については、京都に平安時代後期、アラブ人が、
大勢は来なかったので、シャトランジから出発して、日本の遊戯ゲームが、
開発される事がなく、他方、イスラム教の戒律により、偶像崇拝が禁止され、
シャンチーの駒が、恐らくその影響で、抽象性の高い形に変化してしまった
ために、

北宋の交易商人にとって、その遊戯具が、藤原道長等への贈答品にするには、
余りに地味すぎた。

 そして逆に、インドからジワジワ東進した、娯楽の乏しい山岳鉱山地帯の、
大理国で指されていた将棋道具が、偶像崇拝そのものの形をしていて、派手
かつ絢爛豪華であったために、藤原摂関貴族に、交易の便宜を図って貰いた
い、中国交易商人からの贈答品として、適当なものであった。そこでその事
が、大理国のゲームを起源とする日本の将棋の副官駒、金将の性質を、結果
として決めてしまったのだと、私は以上のように、推定しているというわけ
なのである。(2017/07/09)

立体駒型原始平安小将棋は、駒の敵味方をどう表現していたのか(長さん)

少なくとも現在、五角形駒を用いている日本将棋では、シャンチーや
チャンギのように、字の向きで、駒の前後が区別できるだけでなく、駒の
前側の尖りでも、駒の前後がダブルで区別できる。そのため、シャンチー
やチャンギのように、色で駒の敵味方を区別する習慣が無い。他方立体駒
を使い、駒の形をリアルに表現すれば、その形で駒に、前後が見分けられ
るようになるため、形が具象的な立体駒を用いれば、駒の色を塗り分ける
必要がなくなると考えられる。しかしながら、立体駒でもチェス駒は、敵・
味方を色で区別している。これは、

チェスの駒が色分けされているのは、キング・クイーン・ビショップ・
ルーク・ポーンという、ナイトを除く駒は、前後ろが通常無い、立体駒と
は言え、抽象的な形

だからだと、私は認識している。
 他方前に述べたように、日本に入った原始平安小将棋の、大理国で使わ
れる駒は、チェスと同じ類の、立体駒に分類される、将棋用遊戯具だった
と私は推定している。そしてその、

立体駒型原始平安小将棋の駒には、敵味方で色の区別があるはずが無い

と私は考える。理由は、材質が宝玉・金・銀等であるのを、わざわざ色を
塗って判らなくしてしまうような、ばかげた事を西暦1000年頃、藤原
摂関への贈答用の、宝玉将棋具を製作した職人が、するはずが無いと、考
えているからである。光輝く金の駒で金将を表現したとして、それに白や
黒の塗料をわざわざ塗って、純金製である事が、判りにくくしてしまうよ
うな、愚かな者は、存在するはずが無いからである。では、たとえば北宋
の商人が、藤原道長用に、将棋具を持ってきたとして、その将棋道具に含
まれる立体的将棋駒では、敵味方は、どう表現したのであろうか。私は、

上記立体駒は、少なくともシャンチーの駒に比べて、充分に具象的な形だ
った

と推定する。つまり、前記、8×8升目32枚制原始平安小将棋用の、
更に成り金用に20個(注※)の、黄金駒を足して52個になる、宝玉・
財宝将棋具の駒には、人間を表す駒では全て、顔が精細に表現されていて、
駒の前後ろが見れば簡単にわかるような、超高級な代物だったと推定する。
 つまり、人形であると認識できるような駒を、正しい向きに置けば、
敵の駒か、味方の駒かは、間違えないと判断されたと言う事である。
なお、桂馬にはチェスのナイト駒のように、馬の顔が有っただろうし、
香車は、貴族を乗せる、人間一人で二輪車を曳く籠のような形であって、
引き手等が取り付けられていて、やはり、前後ろが判るように、精密に
造形されていたと、私は推定する。だから、駒の形がやや抽象化し、前後
を入れ替えるように、180°駒を回転させると、同じ図形になってしま
うため、五角形の駒レベルにさえ、前後ろがはっきりしないチェス駒と違っ
て、北宋商人が、藤原道長への贈答品として持ってきた、原始平安小将棋
具の駒は、駒を見れば、前後ろはただちに判る、具象形の形だったと
推定されるのである。そこで当然色は宝玉、金、銀、桂の木地の下地のま
まであり、敵味方で色分けは、特にされては居なかったと、私は思う。そ
して大宰府で、絢爛豪華な、それらの品々を見た国境警備役の武士等は、

一例としては形をリアルにする等、意匠の工夫で、駒の前後が判れば、
シャンチーのように、駒に色分けしなくても、駒の敵味方の区別が着く事

に、精密に顔まで彫刻された、超高級立体駒を見て、当然気がついただろ
うと私は考える。こうして、駒の形が抽象的ではなく、前後の区別がつく
リアルな立体将棋が、わが国では最初に輸入されたために、他国のチェス
型ゲームとは違って、

形の特徴から、向きで敵味方を区別する事が出来る駒を、意匠を工夫して
使うことが、わが国では最初から、当たり前と思われた

のだと、私は結論する。つまり、最初に輸入された将棋道具の細工が、桁
違いに精密でリアルであった事が、わが国の将棋には、色で敵味方の駒を
区別する習慣が無い事の、根本原因だったのだと、私は推定しているとい
うわけである。

※歩兵が成るまでに、どちらかは退かれてしまう性質から、成り金将分の
金将駒は、28個より8個、少なくして良い事に最近気が付きました。
そのため、今回より”成り金”表現用の金将駒は20個(形は同じな、元
々配置される金将を、2個入れると合計22個)と推定し、本文のように
表現しました。

(2017/07/08)

日本の将棋が、中国の中原起源で無い根拠(長さん)

前回、将棋・象棋・チェス型ゲームが、中国で発明されたとしても、それは
後発発明であり、それ以前に、インドにチャトランガが存在したと、述べた。
そこで、今回はそれと切り離して、日本の将棋が、中国の中心部、”中原”
で指されたと、出土駒から推定される、シャンチー起源で無い根拠について
考えてみる。
 この問題を考える際の重要な事実は、倭名類聚鈔に、将棋の記載が無い事
である。つまり西暦930頃には、日本に将棋が存在しないという点である。
それに対して中国では、当時シャンチーが成立しつつあった時代だったよう
で、930年と1070年程度の中をとって、西暦1000年頃には、岡野
伸さんの「世界の主な将棋」の、チャンチーの歴史部分を読む限り、伝来し
たとすれば、中国の象棋は、次のようになっていたようである。

1.河があり、兵が川を渡ると、歩兵の動きから、後期大将棋の鉄将の動き
に、変化した。兵の初期配列は、もともとその当時から4段目であった。

2.駒が円筒形の抽象的な形に変化しており、日本の将棋のように、先尖り
の奇数角形ではなくて、水平断面が円である円筒形であるため、敵味方を、
ただちに正しく見分けるのに、色分けが必要な状況になって来ていた。

という事のようである。また日本に、将棋が伝来した時点で、シャンチーは、
3.線の交点置きが、既に変化して、大勢だったのかもしれず、

従って、
4.九宮ルールについては、日本に伝来からほどなくして、完全に成立した
ように、読み取れる。

更に、個人的には以下も、重要と思われる。すなわち、
5.兵器として発明された時代が、唐末である点から考えて、砲駒は、伝来
時前に導入されていて、升目ないし交点が、11筋10~11段升目または、
路になっていた。

また、
6.砲駒が存在する必然的結果として、兵駒が1筋おき配列になり、今の
シャンチーより一個多く、片方に6個有ったが、日本の将棋流に11個では
なかった

と言う事のようである。この事から、日本へ伝来して、わが国の将棋となっ
たゲームが、以上のような中国の、西暦1000年頃の、中原で指されたプレ・
シャンチー的な象棋で無い事は、

特に2の円筒駒が使われない事、5の砲駒の非存在、6の兵の列筋一つおき
配列ではない事、1の河ルールの存在と歩兵の位置が高い事

から、確かだと私は考える。なお、増川宏一氏は、2013年版の「将棋の
歴史」で、3の交点置き、4の九宮ルールも強調され、5の砲駒と6の兵の
一つおき配列については、省略されている。確かに、中国のシャンチーは、
上の項目では、4の九宮ルールと5の砲駒の加入で、ゲームの性能が大きく
改善されるが、岡野伸さんの「世界の主な将棋」で紹介されている、「中国
象棋史叢考」(朱南鉄氏著書)を参照する限り、それほどまでの、
西暦1000年時点での、シャンチーの特徴的進化は、期待できないように、
私には、”岡野伸著書”からの又聞き程度の、収集では読み取れた。そして、
他方上のように1.2.5.6.の4点だけの違いが有れば、日本の将棋へ
の進化とはかなり相容れない特徴が、有ったと思う。つまり日本に入ったと
して、名づけるなら「原始シャンチー型11筋10段32枚制小将棋」と、
するとして、

この原始シャンチー型11筋10段32枚制小将棋から、9×9升目36枚
制標準平安小将棋へ進化する事は、ほぼ絶望的な差があった

と私は考える。特に、このプレ・シャンチーは、砲を大駒にしているため、
平安小将棋へ変化すれば、退化であり、飛龍が大駒の平安大将棋とは、進化
の方向が違う。なお、砲駒の存在に気がついた後世のデザイナーは、恐らく
15世紀以降に、天竺大将棋を作成しているから、”砲”駒が、日本人には
理解できないので、取り除くとも推定できない。
 他方増山宏一氏の”将棋の歴史”に書かれている批判のうち、

3の交点おきや、4の九宮ルールは、”まだ、そうなっていなかったのだ”
という反論が、中国伝来派には許されると、私は今の所考えている。

 ちなみに、2の円筒形の駒という性質は、色分けをしさえすればよい訳で、
色分けできない理由を、強いて考えでもしない限り、五角形に変える理由が
無い。つまり、正八角形にアレンジしたとは言え、朝鮮半島で成立したチャ
ンギは、偶数正角形駒型かつ色分けで、明らかにシャンチーを継承している。
以上の点から見て、この2の円筒形への進化という、シャンチーの性質は、
私に言わせると”砲”が有るよりは、”打撃”が少ないが、ここから日本の
将棋が生まれるとすれば、これも不自然な改変とは言えると思う。また、1
の河だが、これは兵駒を少なくしたために、十字走りの車駒は、兵を動かさ
なくても前出しできるようになり、結果兵を動かす確率が減ってしまって、
面白くなくなる弱点を、兵の敵陣突入までの手数を減らす事によって、補う
調整だと思う。つまり砲駒が存在する事が、回りまわって、それに付随して、
必要になった調整のように、私には見えるという事である。
 以上から総合的に判断すれば、日本の将棋は、やはり中国中原起源のゲー
ムでは無いと、私はほぼ断定して良いのではないかと思う。(2017/07/07)

将棋・象棋・チェス型ゲームが中国起源ではない根拠は何か(長さん)

表題は、本ブログの趣旨からは、かなり外れるのであるが、2013年版の
増川宏一氏の「将棋の歴史」平凡社を読んで、最も気になった部分が、表題
だったので、コメントする。表題の件は、日本将棋が何処から来たのかという
問題と、しばしば、対で論じられる事があるように、私は個人的に認識して
いる。以下、あくまで私見だが、しかし

将棋・象棋・チェス型ゲームが中国起源であるかどうかと、日本将棋が中国
から来たのかどうかという事には、ほとんど相関性が無い

と私は思う。つまり、”誰が将棋・象棋・チェス型ゲームを発明したのか”と
いう問いに関する答えは、”日本の将棋は、外国が出所として、どこから将棋
が入ったのか”という問いに対する答えとは、設問が全く別なので、当然違う
だけでなくて、どちらも中国になったり、どちらも中国では無くなったりする
ような、いわゆる相関関係が、原理的にほとんど無いと私は思っている。今回
はよって、前者についてだけ考えている。
 そこで、以下まずは私見を書くが、

中国で将棋は発明されたとしても、独立な後発の発明である。根拠は隋王朝の
時代に、中国で象棋類の存在を示す、確かな情報が無い事

だと考える。なお中国には六博というゲームがあったとされる。がこれは象棋
の類では無いと私は、盤を見て思う。根拠は、中国で出土した六博の盤には、
升目ないし、メッシュの線が見当たら無いからである。六博は、一定の規則で
駒を、何がしかの場所から、どこかへ移動させるゲームのように、私には見え
る。が、特定の種類の駒それぞれについて、駒の動かし方に関する、規則的な
ルールが存在しそうな、遊戯盤を、用いている形跡が感じられないと、私は思
う。なぜなら、駒の停止場所の規則性が無さすぎであり、駒種個々に、動かし
方のルールを、作らなければゲームが、面白くならないようには到底思えない。
停止場所が、いろいろランダムに配置されていることに、恐らく特長のある、
ゲームなのではないのだろうか。従って、六博は将棋・象棋・チェス型ゲーム
では、恐らく無いのではないか。

他方私は、2人制チャトランガは、西暦600年頃に北インドには存在したと、
認識している。

従って、将棋・象棋・チェス型ゲームが中国で、新規なゲームとして、人為的
な取り決めであるにしても、誰かに初めて考え出されたとしたら、隋の時代の
文献に玄怪録のような、象棋の存在を匂わせる証拠が、出て来なければなら
ないと私見する。
 そもそも、以前述べたが、唐の時代には中東アッパース朝には、チャトラン
ガの玉駒と副官駒との関係をやや進化させた、千夜一夜物語にもある、
シャトランジは存在したのではないだろうか。また長安には、中東の人間の街
が、出来ていたと私は認識する。そのため、中国・唐王朝の都、長安で、当時
の中東の将棋が、指されていないとしたら、相当に不自然な話だと考えている。

何れにしても、国際都市長安でシャトランジを、中東・イスラム教徒が指して
いるときに、玄怪録を書いても、その著者が将棋・象棋・チェス型ゲームの
発明者とは、当然言えないと、よって私は断定する。

何故なら、その象棋の中国での発明は、チャトランガのインドでの発明よりも
遅いからである。せいぜい有っても、独立にチャトランガ的なゲームを、その
発生よりも、かなり遅れるものの、中国でも独立に考え出された可能性は、
依然残るという事なのではあるまいか。
 以上の事から、隋王朝以前の時代の、象棋の情報が、少なくとも日本には、
余り入ってこないため、日本の遊戯史の研究者には、将棋・象棋・チェス型
ゲームが中国起源であるとは、余り思われない要因が、偏見ではなくて、
根拠をある程度持って、きちんと存在する事だけは確かなのではないかと、
現在の所私は考えているのである。(2017/07/06)

大将棋・小将棋が記載された普通唱導集の広がり(長さん)

鎌倉時代後期、だいたい西暦1300年前後の成立とされる、普通唱導集は、
特に大将棋に関して、未だ知られて、い無い大将棋の類の存在を、示唆して
いる可能性がある。が、その文献の当時の広がりが、例えば畿内に限定されて
いるものであれば、普通唱導集の大将棋は、ローカルな物であって、日本全体
として、さらに将棋種の分布に関して、複雑なモデルを考えなければならない、
恐れがあるかもしれない。そこでここでは、普通唱導集の編集者で、鎌倉
時代の僧である、良季の居所や活動範囲について、判る範囲のため曖昧さが
依然大きく残るとみられるものの、一応webの情報を集めてみた。その結果、
唱導集教団と称する仏教僧集団があり、良季はそれに属していることが判った。
そしてその、唱導集教団の活動領域は概ね、

鎌倉と京都、およびそれら2つの都市を結ぶラインの領域、近畿、北陸、
関東である

事が判った。よって九州および東北に、13×13升目108枚制仮説普通
唱導集大将棋が存在したという、厳密な証拠にはならないようではあるものの、
”当時の大将棋に、端攻めの明快すぎる定跡がある”という欠点が存在する
という情報は、良季らによって、日本の主要部には充分に行き渡らされたと、
見なして良いように、私にはイメージされた。この事はほぼ、関東から関西
までの日本の主要部には、もともと普通唱導集大将棋は存在していたと、
見なされるという事であろう。
 なおもともと、普通唱導集は昭和時代の初期に、奈良の東大寺で、発見さ
れた古文書との事である。従ってそれだけではやはり、普通唱導集の大将棋
の世界は、畿内に限られる、という恐れが有ったのである。つまり、

たとえば栃木県の武将である、小山義政が西暦1370年のほぼ二十歳の頃
に、そこに唄われた将棋を知っていたとは、奈良県からは遠いため、自明で
ない。

が、良季のグループの活動が、少し前の鎌倉時代に、幕府のある鎌倉に及んで
いたとすれば、同じ関東圏である栃木県の小山氏の一族は、13×13升目
で、煩悩の数だけびっしり108枚、4段までに駒の詰まった、私の示した
仮説の普通唱導集大将棋を、義政より少し前の代伝来の、道具を所持している
等の理由で、知っていたから、良季はその”定跡の唄”を、鎌倉まで広げたと、
いう事になると考えて良いように思える。なお小山義政自体は、奈良の西大寺
と、繋がりが有る事が判っている。そのため同じく奈良の東大寺に、古文書が
残ったような情報は、鎌倉に届いていなくても、奈良県とのもともとの繋がり
により、個別には知りえる可能性が、かなり高いようではある。
 以上の事から、普通唱導集大将棋自体は、そのような将棋が有るとすれば、
日本の各地に伝来していて、その局在性は、余り心配しなくても良いような
性質のものだとして良いように、私にはイメージされた。
(2017/07/05)

猪俣の百八燈は仮説普通唱導集大将棋の駒数百八枚と関連するか(長さん)

前に、埼玉県児玉郡美里町で、五色宝塔が発見された話をこのブログでした
際、近くで武蔵武士の一党、猪俣党にちなんだ、猪俣の百八燈という行事が
行われている事を指摘した。これはwebで簡単に調べられるが、百八の燈
を、現在では月遅れのお盆に、一定の決まった場所に、まずその数の塚を作
り、そしてそれに立てて、先祖供養をするものである。そして燈が百八ある
のは、除夜の鐘の数と同じく、煩悩の数を表しているとされる。
 そこで、同じく除夜の鐘の数にちなむと、私が指摘した、私の13×13
升目108枚制の普通唱導集大将棋と、この室町時代から600年余り続く
と伝わる、猪俣の百八燈とが、実際には関連があるかどうかと、いう事にな
るかと思う。
 前に指摘した通り、美里町とその近くの本庄市は、児玉党、猪俣党という、
南北朝時代には、武蔵北白幡一揆に所属し、関東管領、上杉憲方の号令で、
西暦1381年に、小山義政を攻めて勝利した、武蔵武士の主な居住地区で
ある事が知られている。そこで、五色宝塔の所で、私が想定したように、
”小山義政から教わった、14世紀初期型の大将棋の将駒の数にちなんで、
5色の宝塔を作成”し、更には、”小山義政に教わった、大将棋の駒の数
108に基づいて、先祖を祭る、法事を行ったのが、猪俣百八燈の起源”
という理屈を、考える事も一応はできるかと思う。
 その線で、猪俣百八燈に関する、108という数字が、将棋の駒の数を
匂わせる、その他の証拠について、今回は一応の調査は行った。結果を書く
と、現代の「数の事典」の類を、いくつか紐解くと、108が除夜の鐘の数
である点については、大概の辞書にあった。そして、108という数字につ
いて、詳しく書いてある辞書を、寄せ集めてチェックすると、「仏教の
108煩悩」が、大半は何れも元であって、百八炬火の項目の中に、個別例
として猪俣の百八燈があり、一般に百八炬火も、108は煩悩の数が元にな
るとされていた。そして、

百八炬火は、埼玉県だけでなくて、中部・関東・東海の所々で、盆の時期に
行う。

と書かれたものがあった。だから、残念ながら、埼玉県美里町の猪俣の百八
が、小山義政からの情報が元だとしても、他の中部・東海地方等の、盆の時
期の百八炬火が、何を根拠に、何時誰から教わった数なのかを、別途説明す
る必要が、ありそうであった。
 つまり、室町時代からの約600年という事のため、猪俣百八燈は、
小山義政の乱起源と仮定して、時代としては、だいたい合いそうなのだが、

別地方の南北朝時代の百八炬火を、埼玉県美里町の猪俣党の当時の一族が、
108であるという点で模倣しただけ

の可能性を、完全に否定するのは難しいという事だと、いう事になった。で、
普通は、これで行き詰まって、調査は終わりとなるところなのであろうが。
 実は個人的に、私は以下のように、面白いことを知っている。
 すなわち、神鳥谷曲輪駒が出土した、栃木県小山市神鳥谷と天神町の境か
ら3~400m位北の所に、小野塚記念館という、煙突の立った建物が、
残っている。元々醤油屋さんだった旧家が、跡取りが無く、廃屋になった後
に作られた、小山市の施設である。が、その庭のど真ん中に、

10年ほど前まで、屋敷稲荷が置かれていた。

現物は、私も拝見させて頂いた事が有る。今は撤去されて、記念館庭には存
在しない。
稲荷.gif
撤去された詳しい経緯は、このブログには、ほとんど関係しないので省略する
が、この稲荷を撤去しようとした所、小野塚家の家屋全体の保存を目的とする
市民団体”小山市のまちづくりを考える会”の、代表を名乗る、

猪俣党の支族で有名で、埼玉県児玉郡美里町にも大字地名として残っている、
某苗字の方から、なぜか猛烈な文句が市宛に送られた

と、当時の地方新聞で私は読んだ。なお、私は一度だけ、埼玉県ではなくて、
だいぶん以前から、御家族ともども、栃木県小山市に御住まいの、その代表
の方と、小山市立博物館にてお会いした事があった。御本人の苗字が、埼玉
県美里町の大字地名に有る訳ついては、残念ながら聞きそびれたが、小野塚
家の大正時代の、元小山町町長の服の特徴について、御話されていた。なお、
武蔵武士、猪俣党は横山党と互いに親族で、本姓は”小野”。他方一般的に
”塚”の着く苗字は、代々一族の墓を守る惣領家の意味であると、聞いてい
る。ここで、

屋敷稲荷の土台部分は通常”塚”の意味であるから、猪俣の百八燈の灯火台
と、ほぼ同じ意味

であり、美里町に苗字と同じの地名の有る方の、稲荷を撤去した事に対する、
尋常でない怒り方は、記念館の300m南の、小山義政関連の将棋駒遺跡と、
”小山市のまちづくりを考える会”等の方々の御先祖との間の、なんらかの
繋がりを、示唆するものなのかもしれないと、私は推定している。
 なお当の小野塚記念館では、しばしば小山義政の乱を含む、中世の下野の
歴史に関連した講演会等が、行われている場所のようで、いまも因縁めいて
いる。
 上記のように結局私は聞きそびれてしまったが、記念館を建てる元となる

小野塚旧家の保存活動をされた方々から、稲荷を撤去した怒りの、本当の訳
を聞き取れれば、

猪俣百八燈に関しては、百八の数字が、小山義政よりの情報起源である事を、
あるいは証明する手がかりが、ひょっとすると期待できる可能性も、全く無
いとは言えないのではないかと、一応期待はしているのである。(2017/07/04)

大大将棋の成立年代(長さん)

前回、鎌倉時代末期に以下の情報が、日本に入ってきたと述べた。つまり17路
の囲碁盤が、それよりずっと前の中国にあり、将棋盤は、それに合わせて、升目
模様に関して、端から、等間隔で聖目の星を打つのが正調であると、朝鮮半島の
人間が、当時考えている、という旨の情報である。そして、その影響で日本に、
17升目の大大将棋も、ひょっとしたら、発生したのかもしれないと述べた。
 特に大大将棋の成立時期が、室町時代の初期の頃までだと、その大陸からの
情報が、日本の後期大将棋の升目数について、影響を及ぼした可能性が、更に強
く示唆され、このブログに対する影響が、大きいのかもしれない。今の所、
新安沖沈没船出土の、碁石を置いて使うと見られる16路かと思われる遊戯盤が、
鎌倉時代最末期の品であるというのが、唯一の証拠だからである。なお先に述べ
たが、古代の17升目の囲碁盤は、端から4升目模様ごとに、3つ聖目の星を打
つ囲碁盤。新安沖沈没船遊戯盤は、端から5升目模様ごとに、2つ聖目の星を打
つ遊戯盤、というように、模様の具体的な形は、数値と数は異なっている。そし
て、後者は前回述べたように、五目並べかとも、現代の成書では推定されている。
 そこで再度、そのような視点で、大大将棋の配列を良く見直してみた。結果、

大大将棋は日本将棋の成立時期、すなわち西暦1500年程度の、戦国時代の頃
の作である、疑いも残念ながら残る

と私見された。理由は、

龍王、龍馬、飛車、角行が、一方に1枚しか無い将棋は、朝倉小将棋以前には、
知られてい無い

からである。なお、大大将棋の成立時期が15世紀の中期より後だと、水無瀬
兼成の将棋部類生抄の元文献である、曼殊院の将棋文書のうち、大大将棋に、
後での書き加えが、ある事にはなる。よって、学会では全くの少数意見となるが、

大大将棋に関しては、曼殊院のオリジナルの将棋文書の第1版とでも言うべき
古文書には、もともとは無かった疑いを、一応想定した方が良い

と当方は私見する。なお曼殊院の文書の将棋の、他の将棋種の加筆については、
前に、摩訶大大将棋で、「王子のオリジナルは太子であり、西暦1532年の
天文錯乱、奈良県への一向一揆侵入の際に、書き換えた疑いあり」との旨を書い
た。
 その他については、私は敢えて疑いを表明しないが、何れにしても、これ以上
は、本ブログの本題からは外れるので、ここでは書かない事にしたい。ちなみに
後期大将棋が西暦1443年に存在しても、普通唱導集の西暦1300年より
後なので、ここでは問題にはならない。
 なお、大大将棋については、角行が、朝倉小将棋等と同様、端から2列目に
配列される事、曼殊院の将棋には無い泰将棋と、全体としての駒の配列が、1枚
駒を左右に分散させると、比較的似ている点、後者については特に走車が、飛車
といっしょで、端列に片方2枚づつ無い点で、泰将棋に近い将棋を、分散させて
作った結果のけはいがある等、比較的後の時代に、出来た事を示唆する点が、
他にも所々にあると私は思う。
 以上の事から、よって大大将棋の存在は、

安土桃山時代までには、昔中国では囲碁が17升目制だったという話が、入って
きていたという事を、証明するに過ぎない

と、私は考える。恐らく駒数で異制庭訓往来の多い将棋と、つじつまを合わせよ
うとして、水無瀬兼成自身が泰将棋を作成した時期に、余り遠くない時点で、
何者かが、中国の古代の囲碁盤筋数と、同じ升目数の駒数多数将棋を作成して、
いわば駒数多数将棋類体系の、体裁を整える意味で、大大将棋が作られた疑いが、
有ると言う事ではないかと、少なくとも現時点で私は、思っているという事であ
る。(2017/07/03)

新安沖沈没船出土”遊戯盤”15升目制大将棋の原因か?(長さん)

前回、後期大将棋が15升目なのは、本質的には囲碁盤の歴史と、関連する物であ
り、(朝鮮)広将棋が大将棋と江戸時代に混同されるのは、囲碁盤のその歴史伝説
の出所が、朝鮮半島であった事からの、混同ではないかとの旨を述べた。
 その際そう考えられる根拠を、私は特に述べなかったが、その後、明らかな物的
証拠が、有るのに私は気がついた。

メッシュが、碁石を置いてちょうど良い程度の2cm間隔ではないかと、私が推定
した表題の、写真写りから、一見すると後期大将棋盤であるかのように見える、
新安沖沈没船出土”遊戯盤”の存在である。

 確かにこの遊戯盤は、将棋駒がメッシュが細かすぎて置けないと、私は思うのだ
が、その形が”あるべき大将棋盤”と見なされたという考えを、完全には否定でき
ないように、思えてきたのである。つまり、新安沖沈没船で、平安小将棋の類を指
していたとみられる日本人の船員は、「囲碁盤は、もともとは17升目盤である」
と教わった上で、この”16路型か21路型のどちらかが疑われる、成書では五目
並べ用の碁石盤”を、船内で、見せられた可能性が高いという事である。ようする
に、鎌倉時代最末期の、

新安沖沈没船の碁石を置く遊戯盤がまさに、後期大将棋が15升目型である原因の
可能性すらある

と言うことであろう。むろん、この鎌倉時代最末期の船一艘にだけ、五目並べ盤が
有ったとも思えないので、日本人は、かなりしばしば”聖目が、盤の升目に対して、
常に5、5、5、とか5、5、5、5とか、等間隔に、また聖目の有る線番号で言
うと、6、11とか、6、11、16線に、星の付いている”五目並べ盤”を、
高麗か、李氏朝鮮の人間等から、見せられたのかもしれない。その際、そのような
囲碁類盤を、朝鮮半島の人間が、たとえば五目並べに使用している理由として、

囲碁盤も、昔は17路で、盤の升目模様に対して、4、4、4、4、と聖目が有り、
また線番号で言うと、5、9、13線に、星が付いていた

と、教わったのかもしれない。
 その情報が伝わり「囲碁盤はもともと19路ではなくて、17路だから、交点数
は、暦の1年の日数に類似の、361地点ではなくて、289地点にすぎない。だ
から、囲碁と暦道との関連は、日本では飛鳥時代末期に、事情が有ったとは言うも
のの、中国では古代にまで遡るということは、格別には無い。よって『将棋のうち
駒数の多いものは、暦道に則る』との旨、南北朝時代・その時点の、異制庭訓往来
には確かに書いてあるが、陰陽師・暦道師にべったりの、普通唱導集時代の13升
目制大将棋を、だからどうしても、指さなければならないという、強い根拠が、格
別有る訳でもない」と、少なくとも南北朝時代、西暦1330年年代から、室町時
代にかけての将棋の棋士には、徐々に認識されるようになったのかもしれない。
 なお、別の機会に述べたいが、陣に敵味方の区別が無く、相手駒を取ると取った
自駒が成るという規則の、大大将棋は、盤升目が17×17升目、陣が概ね6段に
配列され、聖目位置とは合わないものの、古代の囲碁盤の交点数と、盤目の数に
ついては少なくとも同じ数である。このタイプの将棋の存在も、中国古代の囲碁が
17路制であったという情報の流入の影響を、あるいは示唆しているのではないか。

従って、大陸から、中国古代の17路の囲碁盤情報が、新安沖沈没船出土遊戯盤
時代に日本に入ってきて、その後の、駒数の多い将棋に影響した可能性

は、以上のように、淡いが思考過程を示すことができる。よって朝鮮半島の人間よ
り、日本の将棋棋士や、ゲームデザイナーの聞いたと推定される、囲碁17路盤伝
説話が、15升目後期大将棋発生の原因だったという説は、新安沖沈没船から、5
つ升目模様ごとに、星が打たれた聖目盤が、現実に出土しているため、やはり完全
には否定できないのではないかと、私は考えるようになったのである。(2017/07/02)