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”興福寺出土駒時代には香車が無かった”と言う事は有り得るのか(長さん)

5月8日より、奈良で興福寺出土駒(1098年分)関連の展示が
始まっている。産経新聞等によると、新たに公開されているのは、
酔象一枚と、歩兵7枚、桂馬1枚の計9枚と、出土年西暦1098年
を証拠づけるとされる、年号の入った木簡1枚と聞く。
 他方、興福寺の西暦1058年版の出土駒は、公表では、玉将3枚、
金将4枚、銀将1枚、桂馬1枚、香車0枚、歩兵5枚、不明1枚の、
計15枚と、両面歩兵木簡と、酔像、金将、歩兵文字入り、習字木簡
と認識する。私見では、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒記載の番号で、
7番の駒は、裏面と見られた面の下の、汚れと間違えられている模様
が本当は”馬”であって、よって、桂馬駒であるとする。これは、裏
の金将の字が、表面のように見えていると、考えたと言う事である。
このような事を、考えなければならなくなる理由は、8升目32枚制
の原始平安小将棋とすると、金が前世紀発掘分については、1枚弱し
か、平均すると、確率として出土しないはずなのに、実際には4枚と
出土枚数が多い理由を、説明するためには、このような解釈が、必要
だったのである。
 ともあれ結局、現時点での公表が、玉将3枚、金将4枚、銀将1枚、
桂馬2枚、香車0枚、歩兵12枚、不明1枚、酔象1枚の、計24枚
と、両面歩兵木簡と、酔像、金将、歩兵文字入り、習字木簡と言う事
に、1098年分を加えると、合計では、なったようだ。
 これにより金将の割合は減ったが、習字木簡にも金将の字があるの
で、それを考慮に入れると、金将が、やや多い傾向が残ることには、
変化がないと私は、依然注意している。
 また、金将の程度と、ほぼ同一程度のばらつきだと見られるが、
金将とは逆に、

香車が一枚も出土し無いのも、出土駒の数が増えたために、かえって
以前よりも目立ってきた

ように思われる。
 今の所、”平安小将棋系の将棋用にしては、香車が有意に少ない”
と言うには、あと3枚程度だけ、別の駒だけが興福寺で、出土する必
要があるように、私には認識される。なお、理由は何かを、本ブログ
流に論題にしたとしても、

今の所、原因は全く見当がつかない。

もっと出土したなら、香車駒も混じるような気が、個人的にはする
のだが。それこそ本当なら、日本の将棋は、外国のゲームのパターン
を余り気にせず、自国で作成され、その後、外国のパターンに多少近
づいたとでも考えるしか、しかたがなくなるだろう。(2018/05/11)

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後期大将棋に、悪狼、猛豹と共に、猫叉がある理由の調査(長さん)

後期大将棋には、妖怪駒として、悪狼と猫叉が入っている。妖怪駒の
日本将棋に於ける数は、さほど多くなく、摩訶大大将棋では、更に、
山母が入る程度である。その他には大大将棋の奔鬼や、天竺大将棋の
火鬼、泰将棋等にある、天狗も、妖怪の仲間かもしれない。しかし、
妖怪としては、少なくとも南北朝時代までには、狼や山犬、猫叉の他
に、狐、狸、鵺、天狗等、いろいろなものが、既に知られていたはず
である。しかし、比較的古い時代の将棋である、後期大将棋では、妖
怪の名前の駒は、悪党の洒落である悪狼と、恐らく同時に、猫叉だけ
が、将棋の駒名に選ばれた。現在の我々の感覚だと、送り狼や山犬と、
猫叉とが、類似の妖怪であるとは、考えにくい。だから加える妖怪
は、一見ランダムに選択されたように、私には今まで、見えて来たの
であった。しかし実体はどうなのか。一回きちんと、調査してみる事
にした。すると、結果を書くと意外にも、

安土桃山時代までは、山犬や送り狼と猫叉は、今より妖怪としては、
互いに似た物同士

だったようである。文献は笠間書院発行の、伊藤伸吾編、毛利恵太氏
執筆の「妖怪憑依擬人化の文化史」(2016年)、による。
 この著書の、該当部分「ネコマタとその尻尾の描写の変遷」によれ
ば、確かに”猫叉は、猫の高齢化した妖怪”との記載が、後期大将棋
の成立期の、少し前程度の年代とここでは見る、鎌倉時代末期の、
吉田兼好の徒然草の、第89段の冒頭に出てくる。しかしながら、

猫叉の言葉の意味は、本来”猫々”に近い意味であり、尻尾が二又に
なっている所から、ついた名称では無い

との事である。

その姿は、本来は不明で、犬の大きさ大の、化け物という事が判って
いる程度。暗闇の中で、人を襲って殺す事があるという点で、妖怪の
送り狼や、山犬に近い性質を持つ、

となっている。今我々がイメージする、尻尾が二股に分かれて、起立
して踊る、老いた猫としての猫叉は、江戸時代の絵画に基づくものに
すぎず、

鎌倉時代から、安土桃山時代までは、人を襲う狼の類にイメージが、
今よりずっと、近かった

ようである。なお、毛利恵太氏によれば、江戸時代からの猫叉のイメー
ジは、栃木県那須地方の妖怪、九尾の狐の古型とみて、まず間違い無
さそうだと、言う事である。絵師が、すこしショボイ、戦国時代頃の、
九尾の狐の姿を、猫叉に借用し、猫叉のイメージを作ったらしい。他
方、本家の九尾の狐の方は、もともと尾が、二股に分かれた姿だった
が、江戸時代になって、尾が9本に増えて、見た目の怖さがエスカレー
トして、より派手な姿で、描かれるようになったと言う事である。
 ところで江戸時代の将棋本では、しばしば猫叉が、結果として、
安土桃山時代の意味に近くなるとみられる、殺し屋の猫を意味する造
語である”猫刃”に、変えられている場合がある。現代版猫叉の成立
が、江戸中期以降の、西暦1700年頃からと言う事から、比較的早
い時代の将棋本では、原著者ではなくて書写する際に、水無瀬兼成、
将棋纂図部類抄から変更したとも、私には取れる。最近では猫刃への
変更は、少なくともweb上で、ありがた迷惑がられる事が多い。し
かし、”ねこまた”よりも、”みょうじん”の方が、明神と音が同じ
になり、神様っぽくなるのと、安土桃山時代以前の猫叉のイメージに
より近くなるため、書き換えた本人は、もともと親切心のつもりで、
そのような改変を、無造作にしたのかもしれない。
 以上の事から、中将棋が96枚制から、92枚制になって、完成
する前後に、中将棋と後期大将棋に導入されたと、ここでは見る、

猛将、悪党の洒落の、猛豹、悪狼の、後者に対する類似概念の形で、
猫叉が、数ある妖怪の中で人を襲い、合戦のときの軍隊同様、人間を
死なせるという点で狼と類似のために、選択的に後期大将棋に導入
された

とみて、かなり正しいように、私には思われてきた。すなわち、”悪党”
の活躍した時期から見ても、

猛豹、悪狼、猫叉の発明は、ほぼ同時期の、鎌倉時代最末期頃から南
北朝時代にかけてであり、それは、猛牛、嗔猪の発明の、蒙古来襲
真っ只中の頃よりは、幾分遅いと見るのが、より合理的

と、今回の調査で、私にははっきり、見えてきたような気がしたので
ある。(2018/05/10)

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木村義徳氏説”普通唱導集記載大将棋1150年頃出”を否定する(長さん)

 日本将棋連盟より西暦2001年に出版された、将棋棋士で、
関西将棋会館の元の将棋博物館の館長をされた、木村義徳氏の著書
「持駒使用の謎」には、普通唱導集に書かれた大将棋の設立年代を、
西暦1150年頃の、平安時代末とする説が書かれている。大将棋
の史家が少ないため、従来この説は、議論になる事は、ほぼ無かっ
たと認識している。しかし、本ブログは、その珍しい、大将棋史の
専門ブログであり、別の説を、過去幾度と無く記載しているので、
ここらで、なぜ木村説に比べて、本ブログの説の方が、正しいと見
られるのか、その根拠を、はっきりと示す必要があるのではないか
と、考えられるようになった。ちなみに、本ブログでは、西暦
1300年頃成立とされている、

普通唱導集に記載された大将棋の成立時期は、西暦1275年頃と
見ている。

木村説とは、だいたい125年位差があるわけである。では、何を
根拠に本ブログでは、木村義徳氏説を取らないのかを、最初に結論
から述べる。本ブログどは、

西暦1200年頃には、大将棋は依然、平安大将棋が主流だった

と、考えるからである。つまり、西暦1200年頃に、実際に存在
した大将棋が、平安大将棋だったため、本ブログで推定した、同じ
13升目でも、

108枚制ではなくて、68枚制のものが、二中歴西暦1200年
編集版として、固定されたとみた方が自然

と、本ブログでは考えているということである。
 つまり、このようなケースは、西暦1200年の時点で、木村義
徳氏が想定され、表明されている、彼の言うところの、その300
年前のゲームを、二中歴1200年編集版に載せて、おしまいにす
るというのは、彼の言うように、その時代に指された将棋が、
普通唱導集の大将棋だとすると、このケースについては特に、相当
に不自然だと、本ブログでは見ていると、言う事である。
 大事なのはその理由であるが、それは、

普通唱導集大将棋は、我々の見解によると、15升目130枚制
後期大将棋ではなく、質として、13升目68枚制平安大将棋の
モディファイ(拡張)版にすぎないから

である。つまり、15升目130枚制後期大将棋を、本来1200
年時点で、13升目68制平安大将棋の代わりに、記載しなければ
ならなかったとすれば、木村義徳氏の含意での、”とっくに廃れた
平安大将棋”を、後期大将棋の代わりに、彼の論である”情報の保
存のために書く”という事も、あるいは、有るのかもしれないと、
私も思うのだが。実際には、1200年時点で、”早くも”流行っ
ていたのが、13升目108枚制の普通唱導集大将棋だったとすれ
ば、それを、たとえば懐中歴旧版の、68枚制大将棋の代わりに
記載するのは、二中歴の編者にとって、さほどの手間や懸念材料も
無かったはずだからである。なぜなら、

普通唱導集時代の大将棋は本ブログの見解によれば、二中歴大将棋
(歩兵4段型)で、空き升目になっている部分に、実際には西暦
1200年頃から、1275年ころまでの75年間に加えたと、こ
こでは見る、40枚の駒の記載を、足せばよいに、ほぼ等しい将棋

だからである。
 たとえば、二中歴には1段目の配列と、ルールを説明した後、横
行の説明のすぐ後で、”猛虎が銀将の先っぽにあって、斜めに歩む”
との旨の説明を始める訳だが。もし、1200年に指されているの
が、普通唱導集大将棋であって、木村氏の言う、西暦1100年の
懐中歴初版の頃の、平安大将棋で無いと言うのなら、
”酔象が玉将の先っぽにあって、斜め2升目先で止まり、太子に成
り、玉将が無くても太子があれば足り、玉将と同じく8方に動き。
ついで、左の金将の先っぽに、麒麟が有って、猛虎の動きを2回繰
り返し、獅子に成り、獅子は玉将の動きを2回繰り返す。ついで、
右の金将の先っぽに、鳳凰が有って、八方行だが斜めには、2升目
先で止まり、奔王に成り。ついで、猛虎が銀将の先っぽにあって、
斜めに歩む”というように、新たに加わる、酔象と麒麟、鳳凰を、
横行を除いた上で、猛虎の前に加えるだけだ。
 これが後期大将棋になってしまうと、猛虎自体が、銀将の先っぽ
から、金将の先っぽに変化するし、そもそも升目の数が、13では
なくて、15升目であるから、、基本的な形が変化してしまう。の
で、たとえば懐中歴の1100年頃の版の平安大将棋の内容を、
二中歴1200年編集版にはそのまま載せ、実用には不便なのを、
防忘用携帯書籍のユーザーには、我慢してもらうしか、無かったと
言う事が、あるいはあったのかもしれないが。
 しかし、このケースに限っては、

二中歴大将棋と、普通唱導集大将棋は、初期配列の骨格がほぼ同じ

なため、改定しても、部分改定、すなわちマイナーチェンジの範囲
である。だから、木村氏が危惧を表明する、”西暦900年頃より、
西暦1100年頃まで続いた歴史的な形式”は、このケースは、替
えても保存される訳である。そのため、木村氏の危惧・指摘してい
るとみられる”古い時代の文物の、情報保存のための、書籍として
の機能が失われる”という、旧形式を保存する言い分が、このケー
スに限っては、個別に相当に通りにくいのである。
 よって、以上のように、持駒使用の謎の、普通唱導集時代の大将
棋成立年1150年の仮説とみられる記載は、二中歴1200年版
で予想される内容とは合わず、

早すぎる推定であり、本ブログでは容認できないという結果

になっている。
 なお、他には、西暦1200年から1300年の間、一時的に存
在したと、本ブログでは見なした、徳島県の川西遺跡出土の”奔横”
駒の説明が、増川宏一氏の説が正しく、理由が不明という点で、将
棋史には前例の無い、たんなる飾りと言う意味での

異字体としか、考えられなくなる

という、難点が発生する。
 木村氏の普通唱導集記載の大将棋、西暦1150土50年説につ
いては、だいたい以上の

二点以外には、厳密に根拠を示すという点では、目下の所、難点の
数をこれ以上、増やすことは困難

ではあろう。猛牛が西暦1253年より前にあったとは考えにくい
とか、竜駒、太子成り酔象駒、麒麟、鳳凰等が、蒙古来襲と関連す
るのではないかと示唆する等、木村説否定の材料は、更に有るには
あるのだが。
 ところで木村義徳氏の成書、持駒使用の謎については、小将棋の
伝来や、成立年に関する批判・議論が、将棋史界では増川宏一氏と
の間で、過去盛んに行われた。ただ、ここは大将棋のブログである
ので、木村義徳氏の、”ゲームの習熟時間”の分を、百年オーダー
で起点を推定する際に加える、ユニークな、各タイプの将棋の年代
史観については今後とも、”棋士”に棋力が有ったかどうかが謎だ
が、存在自体は目立つとみられる、大将棋関連の成立年代について
のみ限定して、本ブログでは批判を、必要に応じて発信させてゆく
つもりでいる。最後に蛇足だが、当の論敵の増川宏一氏は”二中歴
の大将棋の内容は、原版そのままの写しかもしれない”と、自書で
示唆しており、このケースに限っては、皮肉にも、上記、木村義徳氏の
平安大将棋の年代(~1150年頃)説には、比較的好意的である。
(2018/05/09)

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興福寺西暦1058年の木簡の歩兵。なぜ新字体の”歩”なのか(長さん)

今回は、国語が得意な方なら、どこかで、聞かれた事のある話だと
思われる。現在我々が普通に用いている、日本語の漢字は、太平洋
戦争の後、西暦1946~49年頃に、日本の政府により標準化さ
れたものである。従って、いわゆる昭和の戦後作成の現代駒を、問
題にする場合は別として、歴史的な考古学資料としての、出土将棋
駒の書体は、その時代の別書体の物と見られる。そのため、今の書
体とは、場合によっては異なると予想される。ところが、例外があ
り、歩兵の”歩”の字は、最古の将棋駒関連遺物、すなわち、

興福寺で前世紀に出土した、西暦1058年頃埋設の、木簡に歩兵
と書かれた駒名の”歩”の字が、現代の当用漢字表の歩の字と同じ

という例がある。そこで今回の論題は、なぜ、興福寺では、戦後の
当用漢字の字体で、歩兵という字を書いたのかという事にする。
 最初に、いつものように答えから書くと、

新字体の歩が、相当前から間違われていた”俗字”だから

だとみられる。なお、正しい字は、パソコンではなかなか出しづら
いが、

8画である”歩”の字の第7画目の、少の右の”ヽ”の無い字

である。ちなみに、問題の木簡は、2面に歩兵が書いてあり、一方
の面には、五角形の囲いのある、”有名な遺物”である。字体で問
題なのは、囲いが無い方の、いわば裏面の”歩兵”で、この歩兵の
歩は、まさに”歩”になっている。
 なお、言うまでも無いが、昔の出土駒の駒名の字は、多少崩して
あるケースが多く、また出土駒事体が、劣化もしているので、
はっきりしない場合も多々ある。従っていつも、歩を間違えている
とは限らないので、興福寺出土の歩兵が、当用漢字表の、歩に全て
なっているとは限らない。
 実は興福寺に限らず、他の、いろいろな時代の、歩兵駒の歩の字
は、実の所、ばらばらであって、正しい古字である場合も有るし、
崩していてはっきりしない場合も有るし、当用漢字表の元俗字の現
代版の歩でもあるというように、アトランダムに、いろいろな書体
が書いてあるのが実体と、今の所、私は認識している。特に、理由
が私には不明だが、七画目の点は、右の外に少し出すタイプが、
将棋駒では多いようだ。
 なお”歩”と言う字が当用漢字表に入ったときの、経緯について
は、株式会社新潮社発行の、佐藤隆信著書「新潮日本語漢字辞典」
(2007年)に、ざっと、経緯が載っていた。それによると、
”日本政府は、西暦1946年11月の当用漢字表では、第7画目
の無い方を選択した。しかし、1949年4月の当用漢字字体表で、
今の”歩”に字体整理された・・”となっている。
 つまり、諸橋徹次著書の大漢和辞典に書いてあるのだが、”中国
語としては、歩は誤字に近い”のだが、

旧字体も新字体も、実体は日本では、どちらも古来より使用されて
いて

日本の当時の文部省も、どちらにするかで、迷ったあげくに、たま
また、俗字の方になったというのが実体だと、言う事のようである。
ずいぶんと、権威の無い話も有ったものである。
 従って、残念ながら、

興福寺の出土木簡に、新字体で”歩兵”と書いてあっても、特に
目新しい情報は、そこには含まれない

という結果になった。この事は、

将棋の歴史よりも、漢字の方が大体は古く、字自体が、平安時代の
出土駒と、今の字とで違わなくても、その程度で驚いてはいけない

という教訓に、なる例なのかもしれないと、私には理解された。
 最後に、歩兵とは違う例で、竜王・竜馬について、報告する。
このケースは”今の当用漢字は竜だが、駒はだいたい龍だ”で、話
が通っている。たとえば、中央公論社の新書「将棋駒の世界」で、
著者の増山雅人氏は、龍王駒の説明で、その旨を記載している。
 だが詳しい漢和辞典、たとえば前出の、諸橋大漢和辞典を引くと、

龍が旧字体だとは、全く紹介されて居無い。

中国語流では、竜を含めて他の竜の字が、龍に統一されたように、
書いてあるのである。つまり、

竜は「新」字体ではなくて、龍の古字の一つ

である。そのため、竜という字は、新しくないので、

中部地方の一部の出土駒では、竜王と、竜馬という字が書かれた、
戦国時代の駒が実際に、出土している

のである。
具体的には、竜王は、江戸時代の火付け盗賊改めの頭で有名な、
長谷川平蔵の先祖である、静岡県焼津市の小川城遺跡の、中将棋の
駒の一つとされる、裏飛□(鷲か?)竜王駒、竜馬は、長野県上田
市の塩田城遺跡の、裏竜馬角行駒である。なお、両者は形が似てい
るし、駒の行き所の印点・線が入っているのも、一緒なので、竜と
いう字を使う文化に、共通のものが、長野~東海地方には、ひょっ
とするとあるのかもしれない。今の所、龍駒に竜の字を書いたのは、
私の知っている限り、この2枚だけだ。
 以上のように”新字体の出土駒”と接したときには総じて、かな
り前から、戦後の当用漢字が、わが国では知られているという事が、
往々にしてあるのではないかと、まずは、己に対してなされた、国
語教育の内容を、遺物を疑う前に、再調査してみる必要があると言
う点が、教訓として、浮かび上がって来るのである。(2018/05/08)

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奈良県興福寺の、”西暦1098年駒”の公開の続報(長さん)

数日前に、奈良県県庁のページからの情報として、”橿原考古学研究所
のホール(フリーゾーン)にて、5月第二週から13日(日曜日)まで
限定で、2013年出土の酔象駒を含む、奈良県興福寺の西暦1098
年駒9枚の公開が、期間限定である”との旨を、本ブログで紹介した。
なお、同研究所のホールは、月曜はやって居無いらしい。
その後さいきん、読売新聞にて、関連記事が紹介されている。結果、新
聞記事の内容から、

読売新聞のその記事には、酔象駒に対する言及が全く無く、遠方観覧者
は、展示が実際に始まってから、様子を聞いてから見に行くべき

と、本ブログでは、この展示の観覧についてはお勧めする事にした。す
なわち、奈良県県庁と読売新聞の記事の差から、西暦1098年の酔象
が、公開物品に含まれない可能性は、少ないとは見られるが、
橿原考古学研究所自体が、アピールの主眼点を置いているとの情報が、
今の所無いために、

酔象の成り等が、詳しく紹介されているかどうかが不明

だからである。
 なお読売新聞の最新記事によると、”橿原考古学研究所の学芸委員長
は、2013年頃発掘した駒の9枚の中に、と金が含まれる事を、訪れ
た将棋棋士の、加藤一二三氏にアピールした”との旨ある。

web上ではこれまで、興福寺の2013年の発掘将棋駒と言えば、
酔象が著名だったので、”と金が見所”とは、少なくとも私には初耳だ。

 本ブログでは上記の興福寺術度駒の”と金”の件について、これまで
紹介はした事が無い。岩手県の平泉近郊の、中尊寺境内遺跡の出土歩兵
駒が、”と金”のさいしょ位であろう、としていた。金と今とで、字は
違うが、今の崩し字である”と”の字一字でも、ひっくり返すと別の字
に見えるので、敵味方駒の識別能力があるとの、信用を獲得するまでに、
こちらも数十年あれば、足りたと言う事なのであろう。従って、

興味深い情報だが、1098年酔象が成らないよりは、情報の重みは少
ない

とみられる。
 その時点から見て、100年近く前の、平安中期の王朝絵巻の時代風
に、興福寺の将棋駒が作られているという事実が、内在される程度と、
ここではみる。さしずめ、院政時代に成立した、大鏡を見ているような
イメージで、興福寺の1098年頃の成り”と金”歩兵駒は、見るべき
ではないかと、私は考える。なお、史料は無いと思うが、”今”の
崩しとみられる、”と金”という書体は、藤原摂関全盛期の、王朝文学
の華やかしい頃に、女流文学家によって作られた字体とのイメージが、
少なくとも私にはある。
 また、歩兵の成りの金将が、”と”表示にされた理由は、本ブログの
見解では、

元駒が歩兵であるかどうかという点が、西暦1020年頃、原始平安
小将棋の対局中に、九州大宰府の武者によって、自分の姿として特に注
目されたため、香車・桂馬・銀将の成りと、区別する必要があったため

という事になっている。なお他には、日本将棋連盟が出版した、木村義
徳氏著の”持駒使用の謎”等に、

”当時から持ち駒ルールがあり、歩兵の成りである事を、香車・桂馬・
銀将のそれから区別する必要があったため”との説がある。

後者については、二中歴の将棋の記載に、はだか玉ルールが含まれる為、
疑問視、または、その点が指摘される場合が多いと、本ブログでは認識
する。
 将棋を指す方には、釈迦に説法だろうが、以下のような事であろう。
つまり興福寺の出土駒の段階の将棋が、取り捨てだと仮定すと、オフェ
ンスがディフェンスに比べて、平安小将棋系だとすると、ひ弱なために、
途中で玉を取り逃がすと、詰まないため勝負がつかなくなる。そこで勝
負を、それでもつけるには、駒を相討ちにして、最後に玉以外の駒が、
無くなった方を負けにするしかなく、はだか玉ルールの作成は、取り捨
てと仮定すると、一応合理的と見られるようだ。今回公開される、興福
寺今世紀発掘分の駒の、その約100年後に書かれた、二中歴の”将棋”
の、はだか玉ルールの記載は、よって平安小将棋が、取り捨てルールで
あった事を示すと見るのが、今の所定説だと、私は認識している。
 何れにしても、成金の書体については、なんらかの理由で、成りを見
ただけで、元駒が何かがわかるようにした、”優れた日本人による発明”
である事には、間違いない。
 が、と金の出土は”歩兵の成りが、と金である”という、後期大将棋
と大大将棋以外の日本の将棋では、既存の将棋種のルール用に、調整さ
れた駒が、西暦1098年にも存在した事を、示すのみであり、

酔象の成りは、太子か王子に決まっており、”不成りの酔象”という駒
は、既存の日本将棋では目下の所、全く知られて居無い

というほどまでのインパクトは、どうみても無い。
 なぜ奈良県の紹介とは違う事柄について、橿原考古学研究所が力点を
変え、読売新聞に、公開の見所を説明したのかは、私には謎である。が、
少なくとも奈良県県庁のホームページの内容とは、読売新聞記事は、事
実として整合しておらず、

”一週間の期間限定のフリースペースへの展示”で、何に力を置いて公
開されているのかについては、今の所、情報が錯綜しており、中身が謎

と、見ざるを得ないように、私には思われる。
 しかし奈良県民にとっては、奈良県行政の招待があるのであるから、

奈良県民の方は、ぜひこの機会に観覧された方が良い

と、本ブログでは表明しておきたい。前にコメントにも書いたが、問題
は、費用のかかる、遠方の見学者の場合であり、

旅客機や新幹線を使わないと、現地にたどり着けない程度に、遠方から
の方には、実際に展示の内容が、ふたが開いて、様子が明らかになって
から、酔象の成りまで、きちんと公開されていることを、御自分で確か
められた上で、しかる後にお出かけになる

ように、本ブログでは特に今回の件は、御薦めしておきたいと考えてい
る。(2018/05/07)

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本当に桂馬は将棋用の造語”中国香木の桂彫りの馬”の意か(長さん)

本ブログの見解によれば、桂馬と香車は、

普及した説のように、宝物の意味を冠した馬と車ではなくて、
本ブログの仮説の、伝来立体駒の馬と車が、中国の香木の桂で造ら
れた、両方香りのする彫刻物の立体駒だったため

についた、将棋駒専用の造語という事になっている。ただし、香車
は、熟語の”美しい車”のひっかけと、私も見る。なお歩兵は、動
かし方のルールに兵をつけたもので、各説間で、余り差や議論が無
いと認識する。
 しかしながらさいきん、同じく将棋用の造語と考えていた、平安
大将棋の”奔車”が、熟語で存在する事が判った。そこで表題のよ
うに、熟語として、基本的に存在しないと考えている”桂馬”とい
う語句については、再度漢和辞典で詳しく調べなおしをしてみた。
結果を先に書くと、依然

今の所、桂馬という熟語は、”将棋の駒名”以外には見出せない

ようだ。特に念入りに調べたのは、最近何回か名前の出てきた、大
修館書店発行、諸橋徹次著書の、大漢和辞典(1958年)である。
そこには、

桂馬は将棊の駒の事

との旨、一言出ているだけだった。
 なお、この事典には、桂のつく生物名として、桂魚、桂鮎が、ま
た、将棋の駒として存在する物品として、桂車(けいしゃ)が出て
いるという程度に、詳しい漢和辞典である。なお桂車は、”桂の木
でできた、りっぱな車”の意味との事である。車を桂にしなかった
のは、馬には香馬という単語が、なおさら存在し得ないためだろう。
 さて繰り返すが、将棋史本の何冊かに出ているように、香車は
”美しい車”の意味で、こちらは宝物の意味の、香の字の付いた駒
名だとの旨が、前世紀から定説として各著書で紹介されている。が、
諸橋徹次著書の大漢和辞典には、[1]美しい車とする他に、

香車を[2]貴婦人の乗る車

の旨とも紹介している。戦のための車からは、かなり遠い言葉で、
実際、日本に最初に伝来した、立体駒の将棋道具の

香車は、戦車というよりは、貴婦人の乗る人力車のような、華奢な
派手な飾りのついた、装飾車形に、彫られていた

のかもしれないと、私は個人的に想像するようになった。車の方は、
熟語の意味に近かったのだが、その熟語は、宝物の修飾詞のついた
物品というよりは、戦争にはややふさわしくない、なよなよとした
華奢な形の駒だった事を、記憶に留めるためのものだったのかもし
れないと、疑われ出したと言う事である。
 なお話はそれるが、熟語に存在しないと私は思っていた、香象は、
大漢和辞典には載っていた。”香象渡河”という四文字熟語で使う、
象の事らしい。白象に対して”青い彩色が微かにかかった、灰色の、
骨太のがっしりした体格の象の事”である。この象は、水よりも比
重が大きいので、兎と馬と一緒に川越えのときに、その象だけ川底
にしっかり立って、渡っていったらしい。そうした故事から、激し
い川の流れのような世論に、マスコミ等の論説のある一部が、押し
流されない様子に、たとえられた、と言う意味で使うらしい。なお
この辞書は、香のつく動物として、魚、鼠、猫が、他に挙がってい
る程度の詳しさだった。また物品では、車のほか、石が載っていた。
 以上の事から、少なくとも桂馬という語は、

”将棋をたしなんで兵法に強くなれば、藤原頼通や、後一条天皇の
御前で、桂馬が、中国語の意味での桂の木の香木で作られた、宝物
の将棋具が使えるような身分に、のしあがれるだろう。だから、皆
でしっかり原始平安小将棋を指しましょう”という、8升目32枚
制原始平安小将棋の、啓蒙の合い言葉として、九州大宰府の、やん
ごとなき将棋棋士仲間の間で、恐らく造られた、将棋駒専用の造語
である

という本ブログの説に、矛盾する客観的情報が、未だ発見できてい
ない状態で、あるとしてよいとの、結論になったという訳である。
(2018/05/06)

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二中暦大将棋後の”緩子立21352241131221”は何者(長さん)

天童市将棋資料館が2003年に発行した、「天童の将棋駒と全国遺跡
出土駒」には、将棋駒の出土史料の他、たとえば二中暦の、将棋・大将
棋の記載(加賀藩。前田家写本)が、原本のまま載っている。編集の関
係か、理由は不明だが、上記成書の、将棋・大将棋(二中暦。前田家写)
で記載されている、不明10文字文「如是一方如此行方準之」の後には、
それに続いて、むしろ私には、不明10文字文よりも、更に意味がわか
らなかった、表題の表現が、「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」には、
項目として二中暦の将棋・大将棋の内容の一部として、記載されている。
そこで今回は、最近入手の「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」の入手時
から謎だった、

”緩子立(改行)「2」1352241131221”とはいったい
何者なのかについて、大将棋との関係について、解明を試みた

ので、自分の個人ブログでのみ、結果を報告する。
 結論を述べると

”継子立”という数学パズルの説明なので、将棋や大将棋とは関係ない

事が判った。数学パズルに詳しい方が、「天童の将棋駒と全国遺跡出土
駒」の、この部分を読んでいたとしたら、ただちに解読できたと見られ
る。そのため、上の内容の紹介は、ブログのみで、充分と見られる。
 では、多少補足的に解説する。
 まず二中暦には、正確に言うと、表題のようには記載されて居無い。
”緩子立(改行)「2」1352241131221”ではなくて、
”緩子立(改行)「短い一」1352241131221”と、記載
されている。”二”が、前田家が書写した原本で、たまたま、第2画
が、切れていたものと、私には推定される。
 しかし広辞苑で、数学ゲームの”継子立”が引ければ、”「短い一」
1352241131221”は、本当は、

”黒2白1黒3白5黒2白2黒4白1黒1白3黒1白2黒2白1。その
後、最初の黒2の2子が、また来るように、円形に並べる。”

の意味である事は直ぐに判る。なお、この継子立(ままこだて)では、
頭の黒2の先頭の黒石から、それを含めて1、2、3・・・と数え、
10の所の石を取るという、10取りルールの場合のようである。広辞
苑の説明では”次いで取った次の石から、それ自身を含めて10まで数
え、10の所の石を取るを続けてゆくと、白石だけが排除されてゆき、
最後に黒石だけが、残る”とある。この継子算は江戸時代に、より一般
的な解が和算家によってもとめられ、特に知られるようになったという。
 なお、二中暦の字は、継子の継が、”緩”になっていて字が違う。

これについては、経緯は今の所、少なくとも私には、良く判らない。
”緩子”という熟語は、漢和辞典を引いても出ていない

と私は思う。
 よって継子立という数学パズルの説明と見られたが、緩子立という単
語が謎なために、

天童市将棋資料館の編者も、将棋の説明の所に、たぶん警戒して入れた

のだろう。
 よって二中暦の大将棋の説明は、不明10文字文「如是一方如此行方
準之」の所で、終わっていると見て良いようだ。
 追記。wikipediaを読んでいたら、継子立の初出は”鎌倉時
代末の徒然草”と、なっていた。しかし、二中暦は鎌倉時代草創の作な
ので、本ブログの記事が正しいとすれば、平安時代末には既に”継子算”
は、公家の教養知識だった事になる。(2018/05/05)

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近畿・中部・関東からしか「王将」駒は出土していない(長さん)

さいきん、天童の将棋駒と全国の遺跡出土駒(2003年)を見て
しみじみ思うことがある。事実がぱっと見で、判る程度のことであっ
ても、

学会に研究競争が皆無な学問領域では、こうも無視され続けている
事実が多いものなのか

という事である。表題の件もその一つで、この本を買って中身を読
んで、なぜなのかと考えると、すぐに誰にでも、

そうなってしまっている裏が、何なのか、簡単にわかりそうな内容

だ。事実が誰にでも把握できるというのは、近畿・中部・関東から
しか、「王将」駒は出土していないという結果を示す、”計数表”
まで、”天童の将棋駒と全国の遺跡出土駒”には、有るからである。
逆に言うと、この本で、「王将」は出土していないとの旨が、事実
上表現されているのは、東北、中国四国、九州、韓国沖という事に
なる。ただし、この成書の計数表で直ちに判る事は、平安時代から
江戸時代までの、全史の間の事であって、おなじく”天童の将棋駒
と全国の遺跡出土駒”にある、各遺跡の年代別一覧を、合わせて眺
めると初めて、

関東の全域と、近畿でも兵庫県は、中世の王将駒は出土して居無い

ことが判る。つまり、

平安時代~中世にかけてに限定すると、王将が出土するのは兵庫県
を除く近畿地方と、中部地方だけ

となる。それが

江戸時代になると王将駒は、主に東京都と、兵庫県に進出してくる

というのが、「事実」なのである。
 この事から、江戸時代に将棋家が、東京都に進出してきた、
王将の既成事実に基づいて、

なぜ王将と玉将が両方有るのかを説明した説を、示したところで、
初期の頃の事実には基づかないのであるから、何が起源なのかという
問いに対して、何の問題解明の答えにも、なっていない事は明らか

なのである。私が調査した限りでは、

前記、江戸時代の将棋家の口上以外を、紹介しているサイトは、
web上には見当たらないと、今の所認識

している。つまり、webに書いてある「なぜ王将と玉将が有るのか」
という記事の内容については、両方混ぜる時代に、書かれた記事に
ついてしか、総じて各サイトには紹介が無い。ので、どこかのサイトで、
任意の記事を一回読めば、現行充分という訳である。またそれに関して、

本来解明すべき内容とは、見当違いの答えが、書いて有るにすぎない

という事も、単なる近世の習慣を、”昔からこうだ”と、言いくる
めるスタンスの、江戸時代の識者の言い分しか、実際には紹介して
いない点から見て、明らかである。
 他方本ブログでは、

京都府と滋賀県では、玉将が今の所、中世以前の遺跡からは、全く
出土して居無い

事をも、すでに紹介している。つまり、平安時代中期~中世には、

京都近郊では、将棋は王将だけで指されていたとしか考えられないし、
東北、関東、中国、四国、九州では、玉将だけでしか指れて居無いと、
出土駒の事実だけからみると、目下の所考えざるを得ない状況、
というのが客観的事実

だと、言う事である。
 なお、混ぜ込んで指していたと、はっきり判る、最も早期の地域は、
戦国時代の中部地方福井県の、一乗谷朝倉氏遺跡である。そして、
繰り返すが江戸時代になると、江戸と大阪という大都市圏では、上手
が一枚王、下手が一枚玉で、将棋を指す習慣が、定着したように見え
る。なお東北地方で、王将が発見されないのは、仙台城の出土駒に、
王/玉駒が無いためで、発掘が進めば、将来、江戸時代の王将駒が、
近世の都市、東北地方の仙台からは、出るだろうと予想される。
 つまり、11世紀の末から12世紀の初めにかけて、将棋の駒の

王将は京都付近、すなわち朝廷で、元々玉将を押しのけて作られて、
その後徐々に、”初期の目論み”が希薄化しながら、広がった可能性
が、すこぶる高い

と、出土駒の分布から既に現時点で自明に言えるのである。さしずめ、

白河帝宮廷サロン王将発祥説の開陳

といった所だろうか。
 恐らく競争で研究が行われている、活発な学術領域であれば、今頃
上記の、とっくの定説の提唱者について、後先争いが起こっているよ
うなケースだったのだろう。しかし、将棋史領域は、今や学会の存在
自体すらもが、風前のともし火状態なのである。そのため、そうした
学問上の先陣争いの世界とは、無縁と言う事に、なってしまっている
のだろうと、私は現状を、理解しているという事になる。(2018/05/04)

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松浦大六氏「象戯図式」。各将棋盤の長さが升目数に比例しない訳(長さん)

私が、増川宏一著書の、ものと人間の文化史「将棋Ⅰ」(1977)を
購入してから20年位になるが、その中の松浦大六氏所蔵の「象戯図式」
について、ほぼ購入当時からずっと、疑問に思っていた事があった。
「象戯図式」には、まず各将棋の名称が題目としてあり、その後に升目
の一辺の数、駒の総数が書いてあって、恐らく、盤の大きさの事だろう
が、「長さ」と「幅」と書いてあって、長さの数値か2つ記載されてい
る。たとえば、小象戯については、長さが1尺2寸3分で、幅が1尺
1寸1分というふうにである。なおここで、

1尺は約30.3cm、1分が3.03cm程度であろう

とみられる。この数字が、将棋、中将棋、後期大将棋、天竺大将棋、
大大将棋、摩訶大大将棋、泰将棋、和将棋と並んでいるのだが、

升目の数よりも、大型化に伴う、寸法の増加が異常に緩やか

なのである。今回は、本ブログも佳境に入ったとみられるので、この
永年の不落の難問に、ここらで挑戦してみる事にしたた。すなわち論題
は、松浦大六氏所蔵の「象戯図式」の各将棋の盤実長は、何を根拠に決
めているのか、言い換えれば論題は、

松浦大六氏所蔵の「象戯図式」の各将棋の盤実長が、盤升目の数に、
単純には比例しないで、将棋が大型になるに従い、寸詰まりなのは何故

なのかである。
 そこで何時ものように、結論から書く。

元々、そこに記載された升目の大きさだと、日本将棋のケースは、かな
りスカスカである。そこで、中将棋では少し詰めて、玉将がやっと入る
程度にし、後期大将棋では、玉将や獅子等を、少し小型にする事を前提
に、寸法を決めた。それより大型の将棋については、数字は架空のもの

である。以上の結論になった。
 では以下に、上記の結論への経過について、詳細に説明する。
 まず事実として、象戯図式にどう書いてあるのかを示すと、以下のよ
うになる。

日本将棋、9升目。長さ1尺2寸3分。幅1尺1寸1分。
中将棋、12升目。長さ1尺3寸5分。幅1尺2寸4分。
後期大将棋、15升目。長さ1尺5寸。幅1尺4寸。
天竺大将棋、16升目。長さ1尺5寸2分。幅1尺4寸2分
大大将棋、17升目。長さ1尺5寸。幅1尺4寸4分
摩訶大大将棋、19升目。長さ1尺7寸7分。幅1尺6寸6分。
泰将棋、25升目。長さ2尺2寸。幅2尺。
和将棋、11升目。長さ1尺2寸8分。幅1尺1寸8分。

 上の数値を良く見てもらえれば判ると思うが、升目が日本将棋の9升
目から、泰将棋の25升目に向かうに従い、増えてはいるものの、
その増え方が、升目の数に比例しないで緩やかになっている。当初、こ
のままでは、

駒の大きさを、将棋種毎に変えなければならないはずだと、決め付けて
いたために、長い間、私には疑問に思われ続けていた

のである。なお、尺貫法で長さ把握するのが、メートル法に比べて、か
なりめんどうなため、

数値がどんな長さを意味しているのか、良く確かめなかったのも事実

だ。
 しかし、さいきん

日本将棋に関して、象戯図式の数値が本当だとすると、升目がユルユル

になるのに気がついた。尺貫法で書くと、日本将棋の将棋盤は、少なく
とも、今の玉将や飛車・角を置くのなら、長さ1尺0寸2分、幅9寸で、
なんとか足りるはずだ。
 もともと、日本将棋の盤がユルかったので、この寸法で、同じ駒の大
きさなら、

日本将棋と、中将棋の駒は、同じものでも使えるのに、私は気がついた

のだ。ただし、後期大将棋になると、玉将や獅子等の、大振りに作られ
た駒は、この後期大将棋の寸法では、駒が入りきらなくなると、思われ
る。恐らく、この寸法は、後期大将棋を指す、江戸時代に於いてもレアー
なケースには、後期大将棋については、全ての駒は特注して、その際、
その大将棋の大駒については、やや小ぶりに作る事を前提にして、決め
ているように、思われるようになった。
 ちなみに、象戯図式に書いてある、後期大将棋までの盤以外の、
盤の大きさの数値が、たとえば、水無瀬兼成が作成した、豊臣秀次への
献上品の駒を使うための、大大将棋以上の将棋盤等、実在する将棋盤の
寸法を根拠にしている可能性は、ほぼ無いと私は推定する。根拠は、

水無瀬兼成が、天竺大将棋の駒を彫ったという記録は、たぶん無いと
見られるのに、天竺大将棋の盤の寸法が、象戯図式には書いてある

からである。よって象戯図式の天竺大将棋、大大将棋、摩訶大大将棋、
泰将棋、和将棋の盤の寸法の実在性は、疑われるべきだと私は思う。
 また、この寸法が何らかの数式、たとえば、

寸法=定数×升目数^0.6(乗)、等から来ている可能性も少ない

とみる。理由は、たとえば上の数式では、

摩訶大大将棋や、大大将棋等で、かなりの誤差が出る

からである。つまり、この数値の群は、

何らかの式で、単純に表されるような挙動をしているようにも、私には
見えない

という事である。
 日本将棋の将棋盤の寸法が、なぜ江戸時代に、こうなっていたのかに
ついては、私には今の所良く判らない。しかし結論的には、この事から、

中将棋を指して、ちょうど良い盤になるように、江戸時代の初期頃には
将棋盤は作られる事が、しばしばあった

とは言えそうである。(2018/05/03)

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興福寺旧境内出土の将棋駒を特別に公開(長さん)

4~5日前の事だが、奈良県県庁のホームページに次のような内容の
発表があった。

特別陳列「興福寺旧境内出土の将棋駒」
6日間のみの展覧会。お見逃しなく!
発表日: 今年の4月末ころ。
奈良県地域振興部文化資源活用課

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館ホール(フリーゾーン)にて、
日本最古の将棋駒とともに、

保存処理前のため長期の公開が困難

な「酔(醉)象」駒など9枚を、1週間の期間限定で一同に展示。
日時
2018年5月8日(火)~5月13日(日)
場所
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 ホール(フリーゾーン)

この記事で初めて判ったことは、西暦1098年頃のものとみられる、

酔象等の駒をまだ、ポリエチレンゴリコール等で保存処理していない

と言う事である。よもやボロボロになっていないのかどうか、個人的
には心配だが。なお、ちょっと遠いので、私が行けるかどうかは不明。
確かこの初日に、奈良県の興福寺で、佐藤天彦将棋名人対、羽生善治
挑戦者の対局も、有ったように私は聞いている。たぶんそれに、合わ
せたのだろう。何れにしても酔象駒の発見について、webの適当な
ページで、記事を過去に読んでいて、経緯が全て、判ったつもりになっ
ている方たちのためにも、裏面に墨跡が無いと聞く、その

酔象が、観覧者に成りを含めて観察できるように、裏も見えるような
配置で、橿原考古学研究所で今回公開されることを、心より祈りたい

ものだと、私は願っている。(2018/05/02)

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