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経帙牌からの将棋駒発明者が、牌の上側を”前部分”と認識できた訳(長さん)

このブログで、私は日本人だと考えているのであるが、何れにしても、
たとえば金でできた将軍人形の立体駒を、色で区別するのではなくて、
主として形で敵味方駒を区別できるような、代用品を探すとすれば、
何処かに駒の名前の書ける、矢印ないし、それと同じ機能を持った、
小物体を、捜索する必要があったはずである。経帙牌には、上方と
我々が認識しやすい穴を空ける分、張り出させた部分に、矢印の機能
が確かに有る。しかし、良く考えてみると、矢印の矢の先に、なぞら
えられる部分を、”上”と認識する限り、将棋の駒に代用できる事に、
ただちに気がつくと言える程度には、当たり前ではない。経帙牌が、
矢印ではなくて、たんに吊り下げられたペンダントの類と、認識され
るにすぎないからである。しかし、実際には、日本の五角形駒の創始
者は、我々なら”上部”と判断しやすい穴を開けた部分を、

”前の部分”とただちに判断して、ほとんど私に言わせると、将棋の
ルールを知見したその日のうちに、将棋の駒として立体黄金駒の代用
とした

と、考えられる。では彼は、

なぜ経帙牌の上の部分を、前の部分と自明に認識する事ができたので
あろうか。

以上が今回の論題である。結論を書くと、
経帙牌は、ネームプレートのように下に垂らす使い方になっておらず、
巻物をまとめた、す巻のような形の経文の束を束ねた経帙から、紐で
くくられた状態で、横置きのように寝かした形で付けられてた。すな
わち、経文の束を、多少太すぎるが竿柱になぞらえると、こいのぼり
の鯉ような形になる。そのため、

馬が、厩に繋がれたかっこうにも、使用していた者には、普段から
イメージされていた

とみられる。隠語で当時、経帙牌が”馬”と、呼ばれていたほどだった
のかもしれない。
 つまり経帙牌を、将棋の駒の代用にする事に気がついた者には、

一見すると素人の我々なら、経帙牌の上部と認識する部分が、彼によ
ると、馬の頭の部分になぞらえられるのは、当たり前に見えていた

と、考える事ができそうである。将棋の駒が、しばしば古文書で、
”馬”と表現されていたのも、恐らくそのためなのだろう。なお経帙牌
が経帙にくくられた写真が、たとえば、増川宏一氏の、ものと人間
の文化史、将棋Ⅰにも、

”神護寺の経帙牌”として載っており、上記の論の正しさをはっきり
と示す

ものになっている。なお、私は個人的には、増川宏一氏の将棋Ⅰの、
この写真で、上記のように理由に気がついた。つまり、普通の荷札の
ように、束ねるための紐に、穴を通して、ぶら下げるような使い方を、
仮にしていたとしたら、経帙牌は多数の経文を、マグロのように寝か
せたとき、下に垂れて厩に馬を繋いだ形には見えない。そのため、
日本の将棋駒の形は、今とは全く違ったものに、なっていたのかも
しれないと言う事に、たぶんなるのであろう。(2017/11/16)

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