経帙牌状の名札が、古代より使用された証拠となる遺物(長さん)
将棋の駒は、一連の関連する経文を束ねて、布製の保護シート状物に
包んだ束につける名札である、将棋の五角形型の経帙牌が、もともと
の起源であろうと、1970年代に、将棋史研究家の増川宏一氏によっ
て提唱された。本ブログでも、その説を取っている。本ブログでは、
経帙牌には、用途によらず、名札としての機能があるという事を、日
本の将棋駒の原初の発明者は、当時も常識としてそう見ていたという、
仮定に基づいて論を進めている。しかし、平安時代以前に、「経帙牌
は経文の目印だけではなくて、一般的に名札に使える物」であるとい
う常識が、本当に有ったのかどうかは、ダメ押しのためには、できれ
ば史料として、示す必要があるだろう。一つには帙牌というものが、
一般に名札として使われていたとの証拠が、webにはあるようだ。
しかし、それが西暦1000年以前の例かどうかは、私には良く判ら
なかった。そこで、今回は、
西暦1000年以前に、帙牌状の札が有ったという史料を探してみた。
結論を書くと、平城京の左京三条にある遺跡で、下の写真のような、
”将棋駒状”とされる用途のはっきりしない、石製の牌
が出土しているとのページが、見出された。
奈良県教育委員会が発行した、平城京左京三條二坊六坪発掘調査概報
の1980年の報告書である。それによると、
将棋の駒型の牌で、ぶる下げる札として使用されていた事を示す遺物
として載っている。なお、西暦1980年は、冒頭で述べた増川氏の
”将棋駒経帙牌説”提唱後のことだ。よって、この報告書の作成者は、
この形の物体は、将棋駒と関連するという説を、知っていて”将棋駒
型”と遺物を表現する報告書を、書いていると見るべきである。なお
この発掘現場からは、西暦712年の年号を示す木簡も、共出土して
いるという。ただし、この牌は確かに
将棋駒状だが、明らかに将棋駒では無い。
もしそうであったとしたら、大発見なのだろうが。理由は、大きさが、
将棋の駒の7~8倍と大きい事だ。また、ぶる下げるための穴が、写
真のようにあるのも、将棋の駒とは違う。石製だという点も、将棋駒
の材質とは違う点である。
大きさから見て、お経を包む束に付ける、名札でも無い
事も確かだろう。なお、報告書を読む限り、両面とも何も書いてない
ので、用途が判らないようである。つまり、この平城京よりの出土遺
物は、
総合的に判断して、将棋駒というよりは、文字通り巨大な帙牌
である。
しかし、ぶる下げる穴とその跡が有ったという事は、現代でも通用
する習慣だが、
将棋の駒型の平たい物体には、何らかの名札として、少なくとも奈良
時代の初期には使われる習慣があった事は、この遺物から見て明らか
なように、私には思える。従って上記の奈良時代の遺物は、少なくと
も西暦1015年1月頃には、経帙牌型の物体には一般に、経文を整
理するためだけでなく、任意の用途の名札として使えるという認識は、
当時の日本人にとって、当たり前だったと仮定して、問題が無い証拠
となる、史料の一つなのではないかと、私には思われた。
なお、このような遺物を見ると、平城京から、もっと将棋駒が出土
しないのかと、期待したくなるのも本心であろう。もし10世紀以前
の将棋駒が、将来発掘されたら、それこそ、大騒ぎになるだろうが。
何れにしても今後も、奈良県の出土史料が増える事を、心より期待し
たいと考える。(2018/05/29)
包んだ束につける名札である、将棋の五角形型の経帙牌が、もともと
の起源であろうと、1970年代に、将棋史研究家の増川宏一氏によっ
て提唱された。本ブログでも、その説を取っている。本ブログでは、
経帙牌には、用途によらず、名札としての機能があるという事を、日
本の将棋駒の原初の発明者は、当時も常識としてそう見ていたという、
仮定に基づいて論を進めている。しかし、平安時代以前に、「経帙牌
は経文の目印だけではなくて、一般的に名札に使える物」であるとい
う常識が、本当に有ったのかどうかは、ダメ押しのためには、できれ
ば史料として、示す必要があるだろう。一つには帙牌というものが、
一般に名札として使われていたとの証拠が、webにはあるようだ。
しかし、それが西暦1000年以前の例かどうかは、私には良く判ら
なかった。そこで、今回は、
西暦1000年以前に、帙牌状の札が有ったという史料を探してみた。
結論を書くと、平城京の左京三条にある遺跡で、下の写真のような、
”将棋駒状”とされる用途のはっきりしない、石製の牌
が出土しているとのページが、見出された。
奈良県教育委員会が発行した、平城京左京三條二坊六坪発掘調査概報
の1980年の報告書である。それによると、
将棋の駒型の牌で、ぶる下げる札として使用されていた事を示す遺物
として載っている。なお、西暦1980年は、冒頭で述べた増川氏の
”将棋駒経帙牌説”提唱後のことだ。よって、この報告書の作成者は、
この形の物体は、将棋駒と関連するという説を、知っていて”将棋駒
型”と遺物を表現する報告書を、書いていると見るべきである。なお
この発掘現場からは、西暦712年の年号を示す木簡も、共出土して
いるという。ただし、この牌は確かに
将棋駒状だが、明らかに将棋駒では無い。
もしそうであったとしたら、大発見なのだろうが。理由は、大きさが、
将棋の駒の7~8倍と大きい事だ。また、ぶる下げるための穴が、写
真のようにあるのも、将棋の駒とは違う。石製だという点も、将棋駒
の材質とは違う点である。
大きさから見て、お経を包む束に付ける、名札でも無い
事も確かだろう。なお、報告書を読む限り、両面とも何も書いてない
ので、用途が判らないようである。つまり、この平城京よりの出土遺
物は、
総合的に判断して、将棋駒というよりは、文字通り巨大な帙牌
である。
しかし、ぶる下げる穴とその跡が有ったという事は、現代でも通用
する習慣だが、
将棋の駒型の平たい物体には、何らかの名札として、少なくとも奈良
時代の初期には使われる習慣があった事は、この遺物から見て明らか
なように、私には思える。従って上記の奈良時代の遺物は、少なくと
も西暦1015年1月頃には、経帙牌型の物体には一般に、経文を整
理するためだけでなく、任意の用途の名札として使えるという認識は、
当時の日本人にとって、当たり前だったと仮定して、問題が無い証拠
となる、史料の一つなのではないかと、私には思われた。
なお、このような遺物を見ると、平城京から、もっと将棋駒が出土
しないのかと、期待したくなるのも本心であろう。もし10世紀以前
の将棋駒が、将来発掘されたら、それこそ、大騒ぎになるだろうが。
何れにしても今後も、奈良県の出土史料が増える事を、心より期待し
たいと考える。(2018/05/29)
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