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猫叉が普通唱導集の大将棋には無いと見られる理由のまとめ(長さん)

本ブログでは、悪狼は鎌倉末期の悪党の洒落で1300年頃
成立の普通唱導集の大将棋の駒には無く、猫叉は明月記の
記載から、同類妖怪として鎌倉末に発生した駒と見ている。
 結論から書いてしまうと、
1)猫叉は明月記の記載から、悪狼の狼と同類妖怪。つまり
犬の大きさで、夜間暗くて人間の視力が落ちるのを利用して、
人を襲う送り狼か山犬類似の妖怪として鎌倉末に発生したた
め、普通唱導集の大将棋に含まれているとは考えられない。
以上の点の他、
2)神奈川県鎌倉市御成町の今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡出土の、中将棋木札(よみがえる中世3 武士の都鎌倉
221ページ下写真としてのみ、現存。実物紛失)に、
”まう虎は近くへ行くが、上わゆけぬ”との旨書いてある所
から見て、鎌倉末期の直前まで、盲虎が、二中歴の大将棋の
猛虎の、斜め隣接升目動きだったため、

動きが重複してしまう猫叉は、
西暦1300年の普通唱導集の成立時には無かったと
推定される

という2番目の指摘を、これまでの所本ブログでは、書き落
としていると考えられた。
 以上が、結論としてのまとめであるが、それでは以下に、
詳しく説明を加える。
 今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の、中将棋木札を作
成したと推定される、
神奈川県鎌倉市御成町の今小路西御成小学校遺跡に、
鎌倉時代末期または、南北朝時代に存在したと見られ、碁石
や、”いかさまサイコロ”の出土でも知られたゲームセンター
の管理人は今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土中将棋木札
を作成する時点で、

それまでの猛虎の動きは、二中歴の猛虎の斜め隣接升目歩み

と認識されていたと見るのが、最も自然である。
 つまり、普通唱導集大将棋が仮に、後期大将棋と同じもの
であるとすると、後期大将棋の2段目の初期配列は、

反車口口猫叉口口猛豹口口盲虎酔象盲虎口口猛豹口口猫叉口口反車

であるから、盲虎または猛虎が、駒の動かし方ルールに於い
て、猫叉と重複してしまう。
 だから、
”まう虎は近くへ行くが、上わゆけぬ”と書いたときに、そ
れまでの”まう虎”が、二中歴の猛虎の動きと認識されてい
たとすると、

猫叉が入った後期大将棋を、西暦1300年の良季編書の
普通唱導集の大将棋として唄うのは、そもそもおかしい。

それに加えて後期大将棋の盲虎が、中将棋の盲虎以外の動き
だったという証拠も、少なくとも現時点では見つかって無い。
つまり、神奈川県鎌倉市御成町の今小路西御成小学校遺跡で、
鎌倉時代末期または、南北朝時代に存在したと見られる、
ゲームセンターで、中将棋木簡が書かれた時点より、少し前
に、盲虎の動きが、それまでとは違っていたという指摘は、

後期大将棋から中将棋が進化したとしたら出て起ようが無い

という事だとみられると、いう訳である。
 しかし、獅子の意味の師子の替わりに、狛犬の意味とみら
れる、白犬(志ろいぬ)を導入する、中将棋の仲間の、仲間
うちでしか通用しにくい専門用語(隠語)を使うルール記載
をした、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土中将棋木札に
関して、

奔車飛龍口口口口猛虎口口横行口口猛虎口口口口飛龍奔車

と、第2段目が初期配列される、平安大将棋ないし、その系
列の大将棋が、中将棋の先代型だとすれば、

この木簡の記載と本ブログの普通唱導集大将棋とは話が合う

と言う事である。たとえば、本ブログの普通唱導集大将棋は、
二中歴記載の、平安大将棋の第2段目に概ね駒を詰め込んで、

反車飛龍嗔猪猛牛猛虎麒麟酔象鳳凰猛虎猛牛嗔猪飛龍反車

にした、平安大将棋系の将棋だから、猫叉は無く、

これなら、話が合う

のである。当然上の本ブログの普通唱導集大将棋のルールは、
二中歴の上位互換で、猛虎は、斜め升目歩みと仮定されてい
る。
 ただし神奈川県鎌倉市御成町の今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡出土の中将棋木札には、”近くへ行くが、上わゆけぬ”
”まう虎”の、進化に関して前段階の、猛虎または盲虎が、
どのような駒の動かし方ルールであったのかまでは、明らか
にされて居無い。
 もしかすると、斜め升目歩みではなくて、和将棋の登猿や
大大将棋または、大局将棋の盲猿、大阪電気通信大学ルール
の盲熊の類の、別の動きだった可能性も、これだけでは完全
に否定は出来ない。
 今の所今小路西御成小学校遺跡ゲームセンターで鎌倉末期
または、南北朝時代にゲームを楽しんだ、駒数多数将棋の
棋士にとり、今日まで残る二中歴よりも、そのルールが正し
いと信じ込ませるような、社会に普及して、残る印象の強い
盲虎・猛虎のルールが、二中歴大将棋の記載とは別に、木札の
中将棋以前に有ったとは、一応信じられ無いと言う理由で、

”近くへ行くが、上わゆけぬ”まう虎の前は、
”四隅一目行き”のまう虎だったと、一応仮定しただけ

の話とは言える。そうだとすれば、後期大将棋が中将棋の親
では無いばかりでなく、
中将棋の親となる普通唱導集時代の大将棋には、”四隅一目
行き”としてしまうと、猛虎とルールが重複してしまう、

猫叉が無かった

と、木札の記載からも、推定できる事になると言う訳である。
 以上のような議論を結論から見ると、鎌倉市の市役所が
紛失した史料は、著しく大切な将棋ルールの木札であった。
本ブログに於いては、神奈川県鎌倉市の鎌倉市役所に、この、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札の現物が一日も
早く戻るよう、重ねて祈りたいと考える。(2019/02/01)

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