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雲南・南詔国では何故囲碁が流行らなかったのか(長さん)

あくまで以下本ブログの見解であるが、中国雲南
の方が、実際に将棋類が指された時期は、中原よ
り早く9世紀、中国シャンチーや日本での将棋の
発生は、それより遅く中国が12世紀、日本が
11世紀としている。
 原因は、囲碁が盛んな国では、ゲームの性能に
関する評価がうるさく、

つまらないと見られると、指されないからだ

と見る。つまり遅いほど、ゲームの質に関して、
うるさい国だという意味である。もう少し判りや
すく言うと、現在では、どちらのゲームも盛んで
ある訳だから、囲碁をするので暇が無く、将棋等
を指さないという意味では無くて、

囲碁で目が肥えていると、ルールに難のあるゲー
ムは、流行らなくなる

と考えていると言う事である。
 逆に言うと、現在の中華人民共和国でも、雲南
省では9世紀頃、日本や中国の唐ほど、囲碁が盛
んでは無かったと推定されるという事になる。
 問題は民間ではなくて、暇をもてあましている
上流貴族に関してであり、モンゴル帝国に滅ぼさ
れてしまったので、記録は断片的であるが、仏教
は盛んだが、囲碁が雲南にあったという証拠は、
簡単には探せないようだ。
 そこで、とりあえずは、それが正しいとして、
南詔国なり大理国で囲碁は流行らず、つまらなく
ても、インドの将棋の”幾つもの波”が、そこま
では届いた理由、つまり囲碁文化に阻まれなかっ
た理由を、ここでは論題とする。
 結論を先に書く。

雲南大理市等の緯度が、北緯25°程度と、中国
中原の40°や日本の35°より低く、星空の
北天の周極星が少ない為、中国流の星座感が育た
なかったため

だと見られる。
 では、以下に説明を続ける。史実は以下の通り
である。
 すなわち中国で囲碁が何時から指されていたの
かは、私にはよく判らない。中国の南北朝時代の
小説に出てくるし、六博と比較した文書もあるか
ら、相当に前だ。日本に関しては、藤原京から、
7世紀の碁石が多量に出てくる事が判っている。
唐代伝奇集には、”日本の王子”という、囲碁を
題材とした小説があるし、倭人伝に、囲碁を好ん
でする民族との、紹介もある。
 最初に指されたのは、より前かもしれないが。
この点に関して本ブログでは、囲碁は藤原京頃の
時代から、日本では盛んになった事。原因は、最
も初期の暦法の、平朔式を定朔式に改める為の、
月の位置に対する恒星の配列に関する観察技術を、
宮勤めの役人が習得するよう、朝廷から強いられ
たときに、

中国星座や、囲碁に詳しい下級役人の、上役から
の評価が高かったため

ではないかとの旨の説明を、前にしている。
 ところで、中国の宋代までの星座観は、三垣と
言われる天球上の領域のうちの一つに、

”紫微垣”と称する、日本や中国中原での北天の
周極星の領域があり、それを天の王宮とみて、あ
の世の王国がある

という恒星天文学だったと、私は認識している。
平凡社(1969年発行)の薮内清氏著の、
中国の天文暦法”宋代の星宿”によると、王宮の
範囲は、北緯50°付近の、うしかい座λ星付近
が南限のようである。これは長安が、北緯40°
内外で有る事と、良くあっているようである。
 常識的に考えて、北斗七星とカシオペア座が、
概ね周極星に見える事が、中国古代の星空王国観
を信じられる、前提だったのだろう。そして、
こうした恒星天文学観は、当然だが、北天の周極
星領域が、中国の都の長安で見たのと、だいたい
同じ国でないと、成立しない。だから、日本の
近畿内を都としていた、大和朝廷では、唐代中国
の天文観を共有し、ツイタチを月齢1にするよう
な歴法に、唐王朝が変えれば、

天体観測を熱心にして、月の星座上の位置を良く
観測して、それに習うという事

を、単に”唐からそのうち、暦が届けばよい”と
いう程度以上に熱心にしたのであろう。なお、
推定だとみられるが、日本に関しては、その頃
百済国が滅亡して、暦の輸入が途絶えたと、考え
られているようである。
 しかしながら、現在は中華人民共和国の領土内
であるが、緯度が15°程度南の、北緯25°内
外の雲南では、北天の周極星領域が、長安での見
え方よりも狭く、天の王宮のイメージが、かなり
ヅレていた。そのため、

中国王朝の天文星座思想観を、余り真に受けては
い無かった

のではないかと、私には疑われる。中国で平朔か
ら定朔の暦になっても、南詔の王室は、下級役人
に星空の恒星の配置を熱心に記憶させたり、その
結果、囲碁を指す棋士に対する、評価を上げたり
はしなかったのではないか。
 雲南は稲作の発生地だと言われ、現在でも田が
あり、また陰陽道の風習が残り、仏教も盛ん等、
インドシナの人種と中国系の混血である日本人と
共通の点があると、古くから言われている。最近
では、夢枕獏氏等も、その説に賛成する成書を、
出しているようだ。
 しかし囲碁についてだけは、星空の違いの関係
で、両者に違いが有った疑いが、濃いように私に
は思える。すなわち以上のように、雲南では王室
の中でも、囲碁は、日本の朝廷ほどには熱心では
なく、非常に強い棋士が、雲南域に誕生する事も、
雲南では、南詔・大理の時代には、無かったの
ではないか。そのため、ゲームの出来に対する見
かたも、良い出来のゲームを具体的に、目の当た
りにする事が少なかった為に、あまり厳しくは、
なかったのではないかと、私には疑われる。
 以上の事から、途中から将棋盤の上に、銀製の
駒が並んで豪華であれば、飛車で、王を終盤追い
回すだけで、ゲーム性能が低い宝応将棋も、中国
中原の長安や開封とは違って、雲南の南詔国では、
受け入れられたのではないかと、考えられる。
 つまり、インド・マウカリ→・・・→ペグー→
バガン→ピュー→雲南の”インド原始将棋の波”
は、”囲碁によって肥えた目”に阻まれる事なく、
中国雲南省の、南詔・大理国までは到達し、たと
えば、その先の、中国南西→中国東北の間の矢印
の所で9~10世紀に、それに阻まれて、博多に
到達しなかったのではないかと、私には疑えると
言う事になるのである。(2019/09/15)

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