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鳥羽上皇の覆物占いの”将棋駒”は、シャンチーの駒ではないか(長さん)

前回の大宰府「桂馬、香車、歩兵」木簡の年代を、webで調査していた最中、
福岡県大宰府市の広報のPDFで、源師時の日記「長秋記」、西暦1129年
5月2日の、鳥羽上皇の「将棋駒12枚を使用した覆物占い」関連の記載があ
るのを、その時発見した。それによると、長秋記の、この日の分から、恐らく
少し置いた、日記の別の部分に、

占いの方法は、中国人の作成した書籍の内容を、大宰府経由で入手して、
真似たもの

との、記載があるそうである。上記は原典を当たって居無いので、内容の真偽
を、まだ私は確かめては居無い。ただし、これが正しいとすると、

使われた将棋駒12枚というのは、中国シャンチーの駒が、それ以前に大陸
から朝廷への、贈答されており、その品の転用の可能性が強い

事になるのではないかと私は思った。

中国人の作った占い方法が、日本の将棋駒を12枚、逆輸入して手法を作成し
たものという可能性は考えにくく、現地で指されている”将棋”道具を、使っ
ていると、ほぼ断定できる

からである。つまり覆占いのやり方を、日本の将棋駒に合うように、苦労して
工夫しなくても、”西暦1122年までには、北宋の首都開封に存在した”と
されている、シャンチーの盤駒の一組くらいは、日本の朝廷は、何らかの繋が
りで、西暦1129年までには、少なくともその数年間の差で、既に入手して
いて、それを使えばよかった、可能性が強いのではないかと、私は考えるので
ある。
 そもそも占いの駒は、占いにしばしば使われる、トランプを見ても明らかな
ように、均一な形大きさで、札の種類がいろいろある方が、使いやすい、はず
である。日本将棋の駒は、駒の種類によって、大きさに若干の差がある場合が
多いため、覆物占いで、インチキが可能な、危険性が有ると私は思う。その点、
駒の種類によって形が差が無い、シャンチーの方が適性が高い。また、円形な
らば、置いた角度に、なんらかの意味づけをする事も、可能であろう。だから、
左右対称なだけの、五角形駒の日本将棋よりも、シャンチーの駒の方が、占い
の道具として適しているのは、明らかなように、私には思える。加えて仏滅大
安の迷信から見ても明らかなように、駒の意味は、占う当事者には、余り鮮明
で無い方が、神秘性があるのではないか。つまり、玉将、金将、銀将と言った、
なじみの深い駒名よりも、帥、将、仕、相と言った、普段聞き慣れない駒の、
数とか順番とか、置いた角度とか、場所とかで占った方が、占いの意味づけは、
威厳があるような気もする。
 思えば他の方のブログで、かつて私は、この

鳥羽上皇の12枚の将棋駒占いについては、平安小将棋の駒であろう

という考えで、書き込みをした事があった。そのため今回、自分のブログで、
以前の考えを変えるのは、冒頭でのべた占い方法の情報を、知らなかったとは
いえ、心苦しい事ではある。しかし、恐らく9×9升目36枚制標準的平安小
将棋が成立し、平安大将棋もひょっとすると存在していた、西暦1129年頃
に、今が”旬”の中国シャンチーが日本の朝廷には、いち早く輸入されていて
も、平安小将棋が、京都で流行っていれば、新参者の中国シャンチーには、
置き換わらないであろう。だから朝廷で、占いの駒としてだけ、シャンチーの
駒が使われていたとしても、さほどの不自然さは、ないのではないかと、私に
は、大宰府市の広報のPDF情報を得て、思えるようになったのである。なお、
鳥羽上皇の時代になると、中国からやってきた僧侶等は、しばしばシャンチー
を指していただろうし、日本人の中にも、将棋ゲームそのものに、深い興味を
持つ者であれば、幾らかは、中国シャンチーも指せる人間が、出てきていたの
かもしれないとも、思える。
 ただし平安小将棋のこの時代の駒が、京都で多少の枚数出土するほどには、
シャンチーは、わが国では以降も振るわなかったのであろう。以上の考えから、
大宰府市の広報の記事に、間違いが無い限り、今後は、

源師時の日記「長秋記」の鳥羽上皇の将棋占いは、恐らく朝廷がたまたまその
時点で所持していた、円形の中国シャンチー駒を、12枚使ったもの

との説を、私は取る事にきめた。なお話題は変わるが、上記の大宰府市の広報
によると、「桂馬、香車、歩兵」木簡は、11世紀の終わりから、12世紀の
初めの頃とみられる、ゴミ捨て場から発見されたもの、という事である。また
将棋駒名以外の、字の内容は、2~3度書きの落書きの類のとの事である。
「桂馬、香車、歩兵」木簡が、1036年成立説はこの情報により少し弱まっ
たが、木簡の方も依然、おおいに注目すべき内容のものだと、私は考えている。
(2017/10/11)

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大宰府条坊遺跡「桂馬、香車、歩兵木簡」は、本当に1090年代の遺物か(長さん)

成書、「将棋の歴史」増川宏一著(2013年)に、表題の大宰府条坊遺跡
「桂馬、香車、歩兵木簡」に対する言及がある。それによると、この木簡は、
”兵庫県深田遺跡の「歩兵駒」と、同時代の、西暦1094年~1096年の
間の頃”と読める。では、大宰府の木簡に関して、上記年代で良いとする根
拠となる事柄は、はたしてあるのだろうか。実際には発掘者の原論文を、
現時点で私は当たって居無い。ので、私は今時点では、

興福寺出土駒より、大宰府「桂馬、香車、歩兵木簡」が新しいというのは、
本当にそうだろうか、と主観的に疑っているだけ

である。とりあえず今回は、論文を読む前に出土木簡を、自分でよく見て、
考えてみようと思ったので、以下暫定結果を報告しておく。結論を書くと、

裏面に、西暦1036年と書いてある可能性が、微かに在る、

と私は思う。なお、この木簡で、①桂馬、②香車、③歩兵以外で、はっきり
読める字は、その面の最下段の”④一”と、裏面上段の”⑤相違”、以上、
5つだけだと私は考える。よって、普通に読んだら、

年代に関する情報は、有るというのが厳しい

状態である。何せ、興福寺出土駒と違い、年代の確定に繋がる別の木簡は、
無く、これ一枚だけらしいからである。では、何が根拠なのかだが、裏面の
”⑤相違”の下に、圦とも読める、不明の文字があるのだが、

その下の字が”仇”にも読めるのである。

ただし、”⑤相違”の、ふたつ下の字を”仇”と読んでは、年号にならない。

ばらして、ツクリが”九”であるとし、更にその下の字の、ツクリに見える
部分を”生”のようにも見えるが、”年”と、むりやり読んでみる

のである。なおそのとき、元号は、木簡で右に切れた部分に書いてあり、この
木簡自体が、割かれていて、元号部分が消失していると、考える事にして見る。
すると、元号が不明だが、九年と書かれている事になり、11世紀で、九年が
ある元号を探すと、

長元九年だけが、西暦1036年になる事が判る。

 つまり、この時代は平安末期の政情不安な時代なので、改元が、比較的頻繁
なので、9年のある元号は一つだけなのである。
 なお、次に9年のある元号は、後鳥羽上皇の鎌倉時代初期、西暦1198年
の”建久”まで無いように、私は理解している。10世紀という事も無いと
すれば、以上の木簡観察が、万が一正しいとすると、「桂馬、香車、歩兵木簡」
の字は、興福寺出土駒より、実は22年位古く、1036年頃に書かれていた
ことになる。

何れにしても以降、「桂馬、香車、歩兵木簡」年代が、地理的に相当に離れた、
兵庫県深田遺跡の「歩兵駒」関連という説が、仮に有るとすれば、それに関して
は、不自然なため個人的には、信憑性に関して少し注意をしたい

と、木簡の写真を良く見て、今回私は思った所である。(2017/10/10)

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藤原頼長は源師仲に、どのような手で尤もらしく”負けた”のか(長さん)

前に、台記1142年9月12日で藤原頼長は崇徳上皇の前で御前将棋を
指し、源師仲に手を緩めて負けただろうと、このブログで私は推定した。
しかし、そのゲーム種が平安大将棋で間違いないとして、一見尤もらしい
が、引き分けにならずに、そこそこの手数でうまく勝負がついたように、
本当に指せるものなのであろうか。本ブログは大将棋がメインの話題であり、
以上の点はブログの根幹に近いものなので、その後より丁寧に、

藤原頼長の使った”手”を推定してみた。

その結果、しょせん以下一例であって、実証は極めて困難であるが、
原始平安小将棋の戦術を、ほぼそのまま、平安大将棋に写し替えた手を、
藤原頼長が指し、それに対して、源師仲が平安大将棋に最適の戦略をとると、

かなりの大差で、”無事”勝負がつくことが判った。

具体的には、藤原頼長が、香車、奔車、桂馬、銀将、銅将一枚を使った、
両端の攻め、源師仲が、横行、銅将、注人、歩兵、桂馬を主に使った、
中央突破の攻めを取ると、

盤が広いために、攻め合いが尤もらしく、両方の陣内で展開されるが、寄せ
に手数がより余計にかかる、藤原頼長の負けになる

という事になるようだ。
実際に、両者その戦略で、一局を進行させると、藤原頼長の玉に詰めろが
掛かり、藤原頼長が、その局面で投了するとみられる棋譜の一例は、下の
画像のようになると見られる。
藤原頼長.GIF
なお、画像で、下が藤原頼長陣、上が源師仲の陣と、推定されるものである。
画像のように、頼長陣は、以下△4十二横行(成らないと見られる)
▲同横行△同成金▲同鉄将△8十二と金で詰み、それを防ぐ手段は無い。
そうなってしまったのも、棋譜の全体形から明らかなように、藤原頼長が、
端筋から攻めて、成り金をたとえば4枚、相手陣内の端筋の方に作ったのに
対し、源師仲が、横行を積極的に繰り出しながら、中央筋から攻めたために、
源師仲の方が、寄せが速かったためである。
 むろん、藤原頼長も、平安大将棋の最適戦略が、中央筋から攻める事であ
る事位は、当然知っていただろう。しかし、崇徳上皇の御前試合では、攻め
合いながら、尤もらしく負ける図を作るために、両者が最適な中央攻めをす
れば消耗して、小駒残りのスローな終盤展開になる事を予め予想して、
比較的良く知られていた、平安小将棋の戦略を、そのまま持ち込んだような、

端から攻めの将棋を、藤原頼長側は、わざと指したのかもしれない。

 以上は単なる一例であるが、ある程度、平安大将棋を知っている人間なら
ば、上のように細工して、この将棋に、終盤走り駒不足による、鈍い展開
が起こらないかのように、この将棋を指す事は、一応可能だったように、
私には推定されるという事である。(2017/10/09)

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崇徳上皇の御前で指した藤原頼長と源師仲の大将棋、なぜ勝負がついたのか(長さん)

 西暦1142年の平安時代末に、その時代の藤原長者で保元の乱で知られる
藤原頼長と、源朝臣師仲が、”崇徳上皇の御前で大将棋を指し、源朝臣師仲に、
藤原頼長が負けた”と、藤原頼長の日記、台記に記載されている。これは、
大将棋という語句が、日記に出てくる珍しい例であるため、大将棋が指された
証拠として、通例引用される。
 ところで、13×13升目68枚制の二中歴記載の、平安大将棋の、これが
通説のようにその事だとして、走り駒が少なく、終盤の局面進行が、極めて
スローとみられる平安大将棋が、皇族の御前試合で、無事に勝負がついたとし
たら、かなり不思議である。そこで、どうして勝負がついたのかというのが、
今回の議題である。回答を先に書くと、

藤原頼長が手を緩めて、わざと勝負を付けたのだ

と私は考える。つまり、もともとこの日の対局は、

平安大将棋が、ゲームとして問題が無い事を、藤原頼長がアピールする、デモ
ンストレーションの意味合いのある。御前対局だった

と、私は推定するのである。
ただしその前に、平安大将棋に、走り駒の割合が少なすぎて、簡単には勝負が
付かないのが確かとして、1142年に崇徳上皇の御前で指したのが、本当に、
13×13升目68枚制の平安大将棋だったのかという、問題もあるかと
は思う。二中歴はその数十年後に、編集が完了した史料だからである。手がか
りは少ないので、以下は、とても確定証拠とは言えないが、

藤原頼長の大将棋が二中歴の大将棋のようであるという証拠としては、大将棋
が、どちらも”大將棊”と、同じ字体で表されている

事を、例えば挙げる事ができると思う。二中歴で、将棋の升目数が、8升目か
9升目か、どっちつかずに書いてあること。大将棋をそもそも説明している事、
玉将の表現で、玉駒が統一されている事からみて、藤原摂関に、比較的好意的
な執筆者が、この部分を記したと私は推定している。したがって、その中で、
字体を藤原頼長と一致させ、大象棋等と表現しない所をみると、同じゲームを
指している、可能性がかなり高いと、私は思う。
 では13升目68枚制の将棋で、御前将棋は、日記の書き方から見て、
1局だけ指したと見られるが、なぜ無事、終局したのだろうか。これは、
そうなりにくい将棋で、勝った方が細工するとは考えにくいので、

負けたほうの藤原頼長が、自玉が詰むように、それとなく旨く指した

としか、考えにくいというのが私の観測である。しかし、単に上皇や皇族の
御前で、既存の将棋の一つを楽しんでみせるのが目的なら、

藤原頼長が、平安大将棋は勝ったり負けたりの楽しいゲームである

と、自ら進んでアピールする必要は無いとみられる。なお”平安大将棋は勝負を
付けるのが困難だ”という点は、明月記の藤原定家が、建保元年4月27日の日
記で、”四位の葉室(?)仲房が、恐らく大将棋を指して一局も終わらないのが、
彼の死期の近いの根拠なのかどうか、内心自分には疑問に思うが、少なくとも彼
の言(云)い分では”と、私に言わせると意図的に言(云)の字を、ダブル挿入
して、それとなく藤原一族の一部も、認めている事柄だと私は見ている。ところ
が、実際にはゲームとして不完全なはずの平安大将棋を、藤原長者が旨く指して、

そのゲームデザイナーをかばい、どうにかして勝負を付けてみせるという事は、
この将棋を皇族の御前で指す、標準将棋にしようという意図が、藤原貴族の長
である長者の、藤原頼長にはもともとある証拠。

つまり、平安大将棋は、単に貴族も指したゲームではなくて、その成立に摂関
家が深く、関与したゲームではないかと、私が従来より考えている、有力な根拠
でもあるという訳なのである。(2017/10/08)

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水無瀬兼成の将棋部類抄摩訶大大将棋口伝及び行然写し部に羅刹の無い理由(長さん)

水無瀬兼成の将棋部類抄の最終部分に、摩訶大大象戯口伝という、曼殊院将棋
図よりの写しがあり、摩訶大大将棋で普通の、歩駒、2踊り駒、走り駒では無
い、特徴的な駒のルールの説明集が付いている。なお、同じく将棋部類抄に、
泰将棋の初期配列図があり、その後に、水無瀬兼成が行然和尚から借りて写し
た、図(実際には表に近い)という部分があり、そのうち、鉤行の説明から、
”玉将成自在王”までの説明は、摩訶大大象戯口伝と内容がいっしょと、私は
理解している。恐らく、行然和尚が摩訶大大象戯口伝の、防忘録を自分で作成
したのだろう。将棋部類抄の以上の二箇所には、行然和尚”図”4行目に在る
ように、確かに摩訶大大将棋で普通の、歩駒、2踊り駒、走り駒では無い、こ
の将棋に特徴的な駒のルールの説明が、

羅刹を除いて網羅されている。

では、なぜ羅刹の斜め前動きを、”力士金剛羅刹は、3目踊る。そのうち、
1目2目は踊らず。上記3種類は皆駒を跳び越える。が、鳳凰の単純跳び越え
とは、違う動きである。”等、

力士、金剛の説明の所に、羅刹を加えなかったのは何故なのか、

が、今回の課題である。なお蛇足だが、行然和尚写し部の、3行目~5行目で、
本来最後尾に来るはずの、”其の内1目2目~鳳凰の如くには非ず”の部分を、
中央部に、写本等する間に、誤って挿入していると、私は理解する。行然和尚
写し部の内容が、摩訶大大将棋口伝部の内容と、以上のように訂正すると、
ぴったり合うからである。
 そこで、次に今回の問題に対する回答だが、

将棋部類抄の曼殊院将棋図の”摩訶大大将棋口伝”及び”行然写し部”は、
大大将棋が成立した頃に、成立したルールが記載されていて、それよりも、
かなり前に、摩訶大大将棋が、成立していたことを、この事は示している

と、私は考える。ようするに、羅刹が、5つ踊りの鳩槃に、”摩訶大大将棋口
伝”及び”行然写し部”の時代には、置き換わった直後で目新しく印象的と、
認識されており、

上記部分の曼殊院内部の作者は、古い時代の駒である、羅刹のルールの由来に
ついては、その当時の常識と違っていて自信が無いので、敢えて言及しなか
った

と私は考えると、合うと言う事である。前にのべた、夜叉のルールと関連する
のだが、羅刹も、摩訶大大将棋では、程よい踊り数になるように、動きが適切
に調節された駒だったろうと、私は見る。しかし、大大将棋では、夜叉も対応
する鳩槃も、5踊りに変わっていた。つまり、

摩訶大大将棋の成立時点に於いて、ほどよい踊り数に、夜叉、羅刹のルールが
調節されている事が、忘れさられる程度の時間差が、曼殊院将棋図の”摩訶大
大将棋口伝”及び”行然写し部”の、成立までの間に、恐らく有った

のであろう。
 曼殊院の将棋図自体が、水無瀬兼成の”行然写し部”の追加に見られるよう
に、著作権でいう、オリジナルとの同一性の保存が、安土桃山時代には守られ
ていなかった。そのため、嘉吉年間版が、どの部分までなのかについては、
謎があると、個人的に私は疑ってはいる。ただし、上記の事から、

摩訶大大将棋の方が、大大将棋よりは、どうやらかなり古そうだ

という事は、恐らく確かなのではないかとだけは、私は思っているのである。
(2017/10/07)

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どうして将棋部類抄の摩訶大大将棋の夜叉は、斜め2歩前に1歩なのか(長さん)

大阪電気通信大学の摩訶大将棋のブログの中に、摩訶大将棋の夜叉の動きを
変更する話のページが、彼らのブログページの114付近のどこかに、あっ
たはずである。それによると、”以前は、夜叉の動きとして、斜めに2歩
(正確には踊り)で、前に1歩としていたが、前に行けない金将と、横に
3歩(正確には3踊り)の動きを足したものとする。”という、内容になっ
ていたと記憶する。理由を執筆者に、きちんと確かめた事が私にはないので、
現時点で以下、憶測であるが、

水無瀬兼成の将棋部類抄、島本町教育委員会発行(2014年版)冊子”象
戯図”内の、摩訶大大将棋の夜叉の動かし方の、ルールを示した部分の、
理由づけに関して、高見研究室においては、その時点で失敗したため

であると考えている。なお、何故摩訶大大将棋の夜叉が、斜め2歩、前1歩
なのかについては、泰将棋の作者(私見だが、水無瀬兼成)にも、判らなか
ったのだろう。羅刹の、前に行けない金将の動きに、斜め前に3歩を加えた
動きと類似の、上記の大阪電気通信大学新方式と同じく、前に行けない金将
と横に3歩の動きを足したものに、夜叉のルールを代えていると、将棋部類
抄から見て取れる。
 では、この水無瀬兼成の将棋部類抄、島本町教育委員会発行(2014年
版)冊子”象戯図”内の、摩訶大大将棋の夜叉の動かし方のルールは、本当
に、理由づけが不可能な、間違ったルールなのであろうか。最初に私見を書
くと、

理由づけは、可能

だと私は考える。つまり、

夜叉を斜め2歩前1歩にしたのは、叉の字から来ており、一画目のフの形を
ノに置き換えた図形で、メ型の交差点に、駒を持ってきたときの形に、動か
し方ルール図が、見えるようにしたもの

と、私は推定するのである。そもそも、摩訶大大将棋の踊りルールは、
高見研究室の推定するように、自駒も跳び越せる、相手駒途中喰いの、跳び
ルールだったのであろう。従って、狛犬、夜叉、羅刹、金剛、力士は、3踊
り程度で、前方か斜め前方には、少なくとも踊れるルールに、作者は調整し
たはずである。羅刹の対駒が夜叉であるが、上記の攻撃力条件でかつ、夜叉
が羅刹の、対にふさわしい動かし方ルールは、一見すると考えづらかっただ
ろう。

しかし、たまたま摩訶大大将棋の作者は、夜叉の叉の字を象ったような、動
きのルールにすると、夜叉のルールとしてすわりが良いのに、賢明にも気が
ついた

のだろうと私は見る。その結果、水無瀬兼成の将棋図の摩訶大大将棋に、
書いて有るとおりに、夜叉のルールは、最初から作られたと、私は考えるの
である。つまり、将棋部類抄録、島本町教育委員会発行(2014年版)冊
子版の摩訶大大将棋の、夜叉のルールの点打ちは、少なくともでたらめでは
無いと私は見ると、言う事である。ただ、不幸にして、この作者のアイディ
アに、その後気がつく者は少なく、”羅刹と対の駒のルールにしては、

夜叉のルールは不自然”と、後世の方々には、概ね誤解されてしまった

のではないか。そのため、摩訶大大将棋の駒も、取り入れて作成されたと
みられる、(水無瀬兼成作が、一部で疑われている)泰将棋の夜叉が、
羅刹と類似の、大阪電気通信大学新方式の夜叉の動きに、変更されてしまっ
たのだろう。なお、摩訶大大将棋と泰将棋の夜叉の動きを比べると、

摩訶大大将棋の夜叉としては、オリジナルが勝っている

と私は私見している。替えると、夜叉が主としてディフェンス駒になり、
ディフェンスが強すぎると、私は思うからである。泰将棋のケースは、
駒数が摩訶大大将棋より多く、攻め駒も多いので、夜叉の動きを変更して
も泰将棋に関しては、影響が無かったのだろう。従って、以上の推定は、
私には、現時点で充分に、もっともらしく思えるので、

摩訶大将棋連盟が作成した、摩訶大将棋のルールブックの古いページで、
夜叉の紹介は現行のままで良く、新しい高見研究室の説に、とり替える
必要は、無い

のではないだろうかと、私は考えるという事になる。(2017/10/06)

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水無瀬兼成の将棋部類抄には、なぜ泰将棋の成りの図が無いのか(長さん)

安土桃山時代の将棋駒の作成で知られる水無瀬兼成の、駒数多数将棋の情報
元本である、将棋部類抄には、自明な日本将棋を除いて、泰将棋以外の、
各将棋の成り駒の詳細が、図で示されている。大大将棋も、図面が左右逆に
なっているが、成りの駒の詳細が、きちんと示されていて貴重である。なお、
成りの図は水無瀬兼成によると、その元史料の曼殊院の、室町時代1443年
の将棋図に載っているから、写したことになっている。ただし、泰将棋の図
は、曼殊院の将棋図には無く、水無瀬兼成が、別のところから持ってきたと
されるものである。そして泰将棋については、駒の表面の初期配列図が書い
てあるが、対応する成り駒の図が無い。これは、何故なのかと言うのが、
今回の問いかけである。答えを最初に書くことにすると、水無瀬の将棋部類
抄には、オリジナルにもとから、泰将棋の成りの図は、無く、

水無瀬兼成自身が、情報として、泰将棋の駒の成りについて、自らが発信し
たく無かったので、意図的に作らなかった

のだと、私は考える。理由は、そう考えられる動機が、水無瀬兼成にあるか
らである。そもそも、駒数多数将棋の道具の現物のうち、駒の多い部類は、
史料で根拠は示せないが、現代の成書のどこかで示唆が有るように、権力者
の居間等の、飾り物の可能性が強いと私も考える。はっきり言うと、たとえ
ば豊臣秀次は、自身の客間等に、水無瀬兼成作の将棋具を贈答された際、
飾ったのは、最も駒数の多い、

泰将棋の盤駒一式だけだったのではないか

と、私には容易に推定できる。権力の象徴として、大いに目立つからである。
ところで水無瀬兼成が、時の最高権力者等に、自身作の将棋具を贈答する際、
一式贈ったであろうが、権力者の所まで行って、たとえば、泰将棋を居間に
並べて飾る作業までは、しなかったにちがいない。その仕事は、たとえば
豊臣秀次自身がするとは考えられないので、秀次の付き人の、役目だったの
であろう。
 しかし、最高権力者の付き人が、いかに優秀であっても、354枚制の、
泰将棋の駒を、さいしょから、正しく並べるのは、かなり困難な作業だった
に違いない。その際、水無瀬が特に嫌気がさしたのは、

付き人が、駒の表裏を間違えたために、駒に過不足が最初から有ったように
考えて、文句を言われる事

だったのではないだろうか。たとえば泰将棋の、変狸の成り駒の鳩槃と、
元の駒の鳩槃を間違えて、初期配列の鳩槃の位置に、成り変狸を置いている
のに、付き人が気がつかないために、「変狸が無くて、鳩槃が余っている」
と、クレームを言って来るようなケースである。まじめに、泰将棋の表裏を
作成すると、以上のような文句に、いちいち対応しなければならないため、

水無瀬兼成としては極力、泰将棋の駒に、成りを作りたくなかったのではな
いか

と私は予想する。そのため、

水無瀬兼成が、たとえば豊臣秀次に献上した泰将棋の駒で成るのは、歩兵と
提婆、無明だけ程度だった可能性がある

と、私は思う。特に、その駒の裏面が、初期配列として別に存在するような、
成りの字を、水無瀬は書きたくなかったのではないか。たとえば、泰将棋に
も酔象がある。だが、この酔象も作成した水無瀬駒では、不成りだったのか
もしれないと、私は推測する。そしてもともと、

水無瀬兼成としては、泰将棋の成りのルールの議論そのものに、参加したく
なかったので、将棋部類抄に、泰将棋の成り面の図を意図的に作らなかった

と、私は考えるのである。そもそも、泰将棋自体、水無瀬兼成の作であり、
彼がそれを作ったのは、権力者からの「異制庭訓往来の『多い将棋』の内容
を、具体的に表現してほしい」との、水無瀬への無理な注文だったのかもし
れない。だから泰将棋を、水無瀬兼成が、たとえば豊臣秀次に献上した際、
その説明書きとして、泰将棋の配列図を作り、付き人で、その将棋を秀次の
部屋に並べて飾る役割の人間へも、パンフレットして、渡した可能性が強い
のだろう。水無瀬兼成の将棋部類抄の、泰将棋図は実質、もともと自分で書
いたパンフレットを再度、自分で、書き写したものではないのだろうか。
 そもそも、付き人に、成りの図まで渡すと、付き人は慣れずに混乱して、
設置するとき、駒の配置をますます間違える恐れもあるため、成りがほとん
ど無い、泰将棋の駒を敢えて水無瀬は作り、表面の配列図を書いた、パンフ
レットをだけを付けて、権力者に贈答したのではないかと、私は思う。
 従って、現在解明されている泰将棋のルールは”それより下位の将棋にあ
る駒は、同じに成る”と、後世勝手に仮定したまでの事であって、作成者、
水無瀬の泰将棋を、本当に指すのならば、水無瀬兼成の、以上で示した立場
を察して、我々は、それとは少し違うルールで、指すべきなのかもしれない。
 提婆や無明の初期配列位置からみて、駒を取ると成るという、成り条件は
動かないのだろう。が、ようするに毒蛇、古鵄、東夷が、鉤行、天狗、獅子
に成る事が無いため、初期配列の鉤行や天狗、摩羯が終盤までは確率的に残
りにくい事を更に加味すると、

終盤は、成り無明の法性だけが、自在王に対する有力な、攻め駒になってし
まう、千日手模様の泰将棋を、我々は本当は、指さなければならなかった、

という事かもしれないと、私は以上の事から察するようになったのである。
(2017/10/05)

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広将棋の荻生徂徠。象が角行の動きであるのを、どうして知っていたのか(長さん)

荻生徂徠の作と伝わる、19×19囲碁盤路180枚制広将棋(和製)を
実際にプレイしてみると、射る駒に挟まり、象が角行の動きなのに、気が
つく。象には成りが無いのも、力士と共に特徴的だが、角行の動きから、
西洋チェスのビショップとの関連が、ただちに連想できる。ところが、
荻生徂徠の時代、西暦1700年前後は鎖国であり、日本にチェスは、
ほぼ知られていなかったようである。なお象が角行の動きというのは、
それ以外では、四人制チャトランガの時代の、11世紀より以前のインド・
チャトランガの象が、恐らく角行動きである事と、私の独説であるが、
西暦1015年に日本に、大理国から、その宮廷の将棋が輸入された時点
で、ひょっとして、”切り落とされた象駒”が存在し、かつ、その動きが、
角行の動きの可能性がある、という程度で、希少である。ちなみに、西暦
1700年頃には、西洋チェスのビショップはビショップであり、元駒が
象であるというのも、その時点で欧州でも全域で、広く知られていた話では、
なかったと、増川宏一著(2003)の、ものと人間の文化史110
”チェス”で読んだ記憶が在る。
 では、荻生徂徠は、象が11世紀以前のインドチャトランガ等で、斜め
走りの角行の動きであったのを、何処で知ったのであろうか。
 残念ながら、これについては、

 安土桃山時代の南蛮文化の流入が盛んだった頃の、西洋チェスの詳しい
歴史の記録知識の残存の可能性と、興福寺の11世紀の酔象のルールを、
どうやってか、荻生徂徠が知っていた可能性と、たまたま角行にした
可能性が、1/3づつ位

だと、私は思う。ただし67%位、現代人でも知らない、

ビショップは象で、かつ象も、もともと大昔も角行の動き

というのを、荻生が、相当の勉強家で、知っていた可能性がある事を、
広将棋という、彼の作成した無形文化財は物語っているのだと、私は思う。
現代でも、web上では、”象駒と言えば酔象であり、それは、後退でき
ない玉将の動きである”と、説明されているのが、せきのやまである事を
知れば、荻生の文献の読破量等、勉強量の恐るべき多さが、少しだが、判
った様な気に、私もなってきたような、気がしてきた所である。(2017/10/04)

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摩訶大大将棋の駒を、碁石にタックシールを貼り付けて作ってみた(長さん)

既に述べたように、ディスカウントショップで購入した、囲碁の道具であれば、
紛失、破損はさほど痛くないため、囲碁盤が19路である事を利用して、摩訶
大大将棋の道具を、碁石に、摩訶大大将棋の駒名を書いた紙(タックシール)
を貼り付ける事により、作成してみた。以下の写真は、初期配列に並べた、
全体図である。

摩訶大大将棋.gif

駒の字が小さすぎるので、前に広将棋で紹介したのと同じく、部分拡大写真も
載せる。

摩訶大拡大.gif
なお、今回作成したのは、麒麟が獅子に、鳳凰が奔王に成る、摩訶大将棋と現行
通称されるバージョンである。ただし、

麒麟の成りのタックシールを獅子から大龍に、鳳凰の成りのタックシールを奔王
から、金翅に変えれば、摩訶大大将棋のバージョンに、簡単に変えられる。

写真のように、広将棋が駒数180枚、摩訶大大将棋が駒数192枚なので、
通常の囲碁のセットだと、碁石が不足する。そこで、歩兵だけ、別の廉価な小型
の碁石で補っていて、少し形が不揃いには、なってしまった。
 作成は広将棋よりは30分位少なく、2時間半位で出来た。個人的には、こ
ちらのゲームの方が、広将棋よりは、よく知っている。よって、完成して写真に
撮ったら、碁石はただちに片付けた。将棋駒と盤の摩訶大大将棋の方が、駒を
持ちやすい分、当然使いやすいが、やや小型になり、それ以上の利点として、
駒の若干の紛失も、気にしなくて扱えると言うのは、大きな利点と感じる。
(2017/10/03)

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大大将棋の”古時鳥”と”盲猿”の謎(長さん)

大大将棋に古時鳥と、盲猿という駒がある。古時鳥は老鼠の成りである。
そして大大将棋を更に大きくしたとの、意味の名前のついている、
摩訶大大将棋で、老鼠の成りが蝙蝠に変化し、盲猿が無くなって、盲熊
と、古猿という駒が、新たに発生している。なお、大大将棋の盲猿と
摩訶大大将棋の古猿は、同じ山母に成るので、関連は明らかである。
なお、以下の議論で必要になるので、山母と、大大将棋の古時鳥の動き
について、比較する。これらは互いに、

上下をひっくり返すと、同じ動きになっている。

山母は前に一歩、斜めと後ろに走りだが、大大将棋の古時鳥は、概ね、
後ろに一歩、斜めと前に走りとされる事が多い。
 以上の事は、何を意味しているのであろうか。最初に結論を書くと、

歴史的に摩訶大大将棋の成立が、大大将棋よりも早いことを隠す、
偽装工作の存在を示唆している

のように、私には見える。しかも、大大将棋の成立した時代に、摩訶大
大将棋の改変が、大大将棋の作者の作成した、今には残らない、文書や
パンフレットのようになもので、なされ、実際にはその時代には、ほぼ
中将棋しか、駒数多数将棋は指されていなかったため、先発の摩訶大大
将棋の改変に、簡単に成功したことも示していると思う。なお私見だが、

摩訶大大将棋の太子が王子なのも、それが成立した少し後の、こうした
改変のたぐい

だと私は思う。
 まず、古時鳥についてだが、ずばり、改変前は、古時鳥の動きは、
現在の蝙蝠の動き、つまり、前と斜め後ろに走りであって、

実は、古時鳥は摩訶大大将棋の駒、蝙蝠が大大将棋の駒

だったと私は思う。山母の動きの図を書くと、走りを線で現すと、はり
つけにされた、人間の形のようだが、それをひっくり返すと、岩の天井
から人間か何かが、ロープで逆さづりになっているような形になる。
だから、大大将棋の現在の

古時鳥は本来、蝙蝠という名前を付けた方が、適切な動き

である。最初は恐らく、そう名前をつけたのではないか。
次に、現在の摩訶大大将棋の蝙蝠は、淮鶏の成りである仙鶴と、合体さ
せると、奔王の動きになっている。だから、

現在の摩訶大大将棋の蝙蝠は、本来は古時鳥だった

のではないか。何故なら、古時鳥と仙鶴の元駒である、淮鶏とは、どち
らも、

中国の故事にちなんでいる

という点で、共通性があるからである。古時鳥は”古蜀の王様、望帝杜宇
(ぼうていとう)が泰の国に滅ぼされて魂が故郷に帰れずに、ホトトギス
の姿になって鳴く”という話に出てくる、”古蜀の時鳥”の事であろう。
また淮鶏は、”淮南の国の劉 安(りゅう あん)の飼っていた鶏が、主人
が術を得て、出世した事により、空を飛べるようになった”という話に
出てくる鶏の事であって、そのため成りを、”仙人の鶴”にしたのであろ
う。つまり、本来

古時鳥と、淮鶏とは、どちらも特定の同じ将棋種に並存すべき駒

だと私は見る。
 ところが、実際には、これらが、一方の古時鳥は大大将棋に、淮鶏は、
摩訶大大将棋に在る、というわけだから、どこかで、蝙蝠と古時鳥は、
すりかえられたとしか、私には思えない。

古時鳥という字が正式に書くと特殊であるため、改良後の摩訶大大将棋
の方に、蝙蝠を移して、摩訶大大将棋の方が、後作のため、こざっぱり
しているように、見せかけたが、実際には古時鳥と淮鶏が、ばらばらに
なってしまい、深く考えると、不自然に見えるようになってしまった

という事なのではないのだろうか。その結果更には、蝙蝠は、動きが
古時鳥のようになり、古時鳥が蝙蝠っぽい動きに、結果としてなって
しまったような感じが、私には、しなくもないのである。
 次に盲猿と古猿等であるが、

盲猿は、摩訶大大将棋の盲熊と古猿が、大大将棋の盲猿から発生したか
のように、見せかけるために大大将棋の作者が作成

した駒だと、私は思う。盲猿より古猿や盲熊の方が、本当は、早くから
有ったのではないか。理由は、

盲猿は、名前からして、どうみても戦いの戦力にならないので、そのよ
うな駒名自体が、将棋一般として、不自然なネーミングの駒

だからである。つまり、つじつまを合わせるため、盲熊と古猿を合体さ
せて、”祖先”を作り出したつもりだったが、そんな祖先自体が存在が、
不自然だったという事なのであろう。
 以上の事から、大大将棋よりも、摩訶大大将棋の方が、升目は多いも
のの、先発のような気が、私には、してならない。なお水無瀬兼成は、
摩訶大大将棋と表現しているが、古文書によっては、摩訶大大将棋を、
摩訶大将棋としているものもあるようである。(2017/10/02)

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