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和将棋は、持ち駒ルール有りとされている(長さん)

江戸時代に作られた将棋で、禽将棋が持ち駒ルール有りである事は
著名である。が、おなじ江戸の将棋である和将棋も、持ち駒ルール
であるとの説がある。唱えている古典将棋の識者の中に、私の知る
範囲だが、スティーブ=エバンスという名の、オーストラリア人が
含まれる事までは判っている。スティーブ=エバンスの業績の全貌
を私は知らないが、コンピュータ将棋ソフト、”将棋類”の作者で
ある事は知っている。その中に、”和将棋のコンピュータソフト”
が含まれ、持ち駒ルールでも、指せるように調整されているからで
ある。
 最近になり、スティーブ=エバンスが、何を根拠に、和将棋の持
ち駒ルール有りを割り出したのか、ようやく私にも判るようになっ
てきた。知る者の多い、増川宏一著書の、ものと人間の文化史23-
1将棋の、松浦大六氏所蔵の、象戯図式の、和将棋の、隠狐の動か
し方ルールに、横を除く六方向が2升目づつ動きで、

合駒が効かない

と書いてあるのである。当たり前だったが”合い駒”は、主に持駒
ルーのときに使う、持ち駒の打ち方の一種である。うかつだったが、
スティーブ=エバンスの、コンピュータ将棋ソフトに接してから、
上の以前から所持していた、成書の内容に気がつくまで、私の場合、
10年以上もかかってしまった。その間に、技術は進歩し、今紹介
した、32ビットコンピュータ上でしか、どうやっても動かない
コンピュータ将棋ソフトは、webのソフトライブラリーからは、
まともに動くものが、ほぼ完全に消滅してしまった。
 スティーブ=エバンスが、現在どうしているのかは、私には全く
判らない。江戸時代の将棋本に、”古時鳥とは仙鶴の事である”と
間違って書いてあるのを、漢文として彼は正確に読み、大大将棋の
老鼠の成りを、ソフトで仙鶴に変える等、彼自身が日本の古文書に
精通しているか、あるいは傍らに、精通した人間が居るとしか思え
ないような、古文書の解釈が正確なソフトの作成者であった。
 以上は、大将棋の話題とはかなり離れるが、和将棋に関する重要
な説が、たった20年程度の歳月で、パーソナルコンピュータの、
64ビット化により完全に、風化してしまったのを見て、敢えて一
ページ、今回保存のために、加えてみた次第である。(2017/12/11)

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室町時代1424~25年、四代将軍足利義持御前将棋の奔王出勝ち(長さん)

将棋の古文書の記録で、室町時代の花営三代記の1424年1月と
1425年2月の、奔王を相手方に出すことによって勝つ”将棋”の
記録は、割と有名である。時代は、中将棋が流行りだした頃であり、
この”奔王が相手方に向かって、出た方が勝った将棋”は、恐らく
中将棋の類であろうという考えが、有力であると私は認識する。
 しかし、前にも述べたが、中将棋の場合、奔王の状態と、相手玉が
詰むかどうかという点には、余りはっきりとした、相関は無いように
も思える。そもそも、”奔王を相手側に出して勝った”というのは、
どういう局面を指すのかも、これでは全くはっきりとしない。今回は、
前に”ローカルルール”であろうとは述べたが、上記のはっきりしな
い、この室町将軍足利義持時代の、お城将棋の正体について、

奔王を出して勝つとは何者で、何故そうしたか

を、論題にしてみた。
 そこで、まずは結論を、何時ものように、とっとと書くことにする。
奔王が相手陣に入り、かつ次の手で、相手が、攻め方の奔王を直ぐには
取れない状態を、奔王を出したと、言ったと見られる。次に、相手は
入ってきた、攻め方の奔王に駒を当てて、奔王取りを掛けた。すると、
攻め方が、奔王を相手陣の中に、保持できず、いったん引いた場合は、
ゲームを続行する。しかし、別の敵陣内の升目に移動できる場合は、
敵陣内を荒らしながら、逃げ回ることができる。その場合、守り方は、
相手の奔王が陣内に居る間は、奔王取りを掛け続けなければならない。
奔王取りが掛けられなくなったら、攻め方の”奔王出し(て安定)勝ち”
とする、というルールだったとみられる。つまり、相手陣の4段目に、
奔王を突入させ、自分の手の所で、更に動かさなくても、取られない
ようにできた、つまり静止できれば、それで勝ちである。中将棋の
奔王は不成りだが、仮に成れるとすれば、”奔王成って(安定)勝ち”
と、言えた所だろう。

つまり、ちょっとヒネッた、トライルールの一種と私には推定された。

ついで、それで勝ち負けを決めた理由は、

だらだらと将棋を指した挙句の果てに、引き分けになるのを防ぐため。
ほぼその一点にすぎない。

つまり必ずしも、先に奔王に入り込まれた方が、玉が薄いかと言うと、
完全にそうでも無く、審判が室町幕府でなかったなら、負けた方から、
しばしば不満が出るルールだっただろうと、思われる程度のものである。
ようするに形式上、単にそれで、勝ち負けを、たまたま決めるルールに
したのだろうという事である。
 中将棋で中盤になると、攻め合えば、どちらも陣が乱れて、相手駒が
侵入できそうな状態になるのであり、奔王が取られて居無いか、あるい
は、鳳凰が残っていさえすれば、中将棋ではそのうち自然に、相手陣
内に、奔王が入り込み、居座るようには、なれるとみられる。従って、
そのとき勝ちと、そのように決めておけば、中将棋の勝負は、中盤に入
れば、じきに勝負がつくはずである。ようするにお城将棋で、将軍等に
飽きがこない程度で、勝負が終わるようにするため、特別に決めていた
にすぎないように思う。実際に、奔王を大事にする中将棋を、試しに駒
を並べてチェックしてみて、以上が私の得た知見である。
 今回私の場合、これには、何かきっと裏があるのだろうといろいろ考
えて、幾ら考えてもわからないため、とりあえず駒を並べて、中将棋を
チェックしてみた。そして結局、こんなものだろうと言う事で終わった。
つまりこれは、単純に、途中で指し掛にする口実を作るための、特別な
ルールであり、棋士の将棋の寄せの巧みさを、将軍足利義持が特に、興味
を持っているわけでもなかったので、将軍等を不愉快にさせず、勝負を
適当な所で切り上げるためというだけ事ではないかと、私は思うように
なったのである。もっとも、最後は、守り方の奔王取りの手が、切れる
かどうかで、多少は座が盛り上がるだろうから、観客の見所は、多少は
あるようだ。
なお、

形勢有利な方が、先に”奔王を入れられて居座られ”を喫した中将棋
は、そのまま続けると、終盤意外にこじれることが多い

ような気もした。このローカルルールを考えた人間には、何か魂胆が
もともとあったので、そうしたのではなくて、何十年も中将棋を指して
いるうちに経験的に、こうすると勝負が、納得感が比較的残って、かつ
早くつき、1424年宣明暦1月2日のように、中将棋が、一日に11
ゲームも出来る事に、あるいは、永い年月かけた、純粋な経験に基づい
て、気がついたのかもしれないと、私には、この事からは思えるように
なってきた。なお、以前私が示した、この史料の訳で、「奔王を出して
勝ち」を、個別の対局の状態を指したもので、あるかのように書いたが、
多分誤訳だ。正しくは、

その日の対局のルール条件を、日毎に、書いている

のだと思う。なぜなら、11局のうち2局は、9勝側の勝者(貞彌)
ではないからだ。つまり、1424年1月2日と、1425年2月
7日の中将棋は”お城将棋が、奔王出し勝ちルールだった”という意味
だろう。
 それに対して、1424年1月3日の元行と貞彌の対局については、
説明がない。ひょっとすると、両人の前日1月2日の11局の指し掛け
早指し将棋が、「あっぱれ」と、足利義持にほめられ、特別に普通の
中将棋が、終局まで、指されたのかもしれないとも思われる。
(2017/12/10)

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将棋纂図部類抄”或説云・・也”部分は仲人が話題(主格)では無い(長さん)

以下は水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、中将棋の初期配置図の後にある、
水無瀬自身によるものと見られる、注釈の中で、その3段落目、大きな
字で”仲人”で始まる部分の、中段の右部分”或説云居喫師子許也”は、
何に関する話題なのか、という議論である。議論する理由は、私自身が、
半ば表形式になった、江戸時代の古文書は、上の一段目から順に、

右から左に読み

読み終わったら、二段目に移って、また右から左へ読むべきだと、最近
気がついたからで、後継者の万が一の”にのまい”を避けるためである。
 我々は横書きの文章は、上とは逆に左から右へ読むのに慣れている。
そこで、古文書の半ば表形式、つまり罫線の無い表のように書いてある
文章を読むときには、反射的に文科系の文書と認識し、

右の列を上から下へ読んでしまう癖があるのだが、この反射的判断は危
ない

と、私は最近ようやく気がついた。それに気がついた古文書は、水無瀬
兼成の上の文書ではなくて、江戸時代の将棋の本、松浦大六氏所蔵、
象戯図式の、大大将棋の駒のルール説明部分で、不成り駒が、表で書い
て有る所である。最近までこの表には、駒名がランダムに並んでいると、
私は信じ込んでいた。理由は上記の癖があったためである。しかし、先
だってこの表を見直して、表を上の段から順番に、各段について、駒名
を、右から左に読むと、規則的に並んでいるのに、ようやく気がついた
のだった。この事に気がつかないのは、今度は今述べたように、理系の
文書のように、

横書きの文を読むときに、少なくとも私は左から右に読むのが、習慣だ
ったため、古文書の反対向きの記載を横書き文書と、認識も出来ない為

である。そのため実際には、

古文書で、記載順序が右から左への横順序の、表形式フォームに出会う
と、今度は順番を、適当に誤魔化して読む習慣が、私の場合、知らない
うちに身についてしまっていた。

ようするに、

横順番表古文書の文書構成解読が、私の場合出来ていなかった

のである。
 ここでようやく本題に入るのだが、表題の水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
の、中将棋の初期配置図の後にある、注釈集のうちの第3段落目、おおきな
字で”仲人”で始まる部分の、三段組で二列の文は、この部分だけ、罫線
無し表形式の横順番構成になっているのである。
 その事自体は、最下段を見れば明らかに判る。だがそれが、なんとはなし
に頭に入っていても、

きちんと、上段右、上段左、中段右、中段左、下段右、下段左の順で、
文書を読んで、正確に私の頭が解釈しようとしていない、

のに、ここ数日のうちに気がついた。実は従来、上の6カラムの題材は、
内容以前に、何について書いてあるのかと言う点に関して、

上段右と左と中段右と左の4カラムが、仲人の話題(主格が仲人)、

下段右と左が、”鳳凰と仲人等”の話題(主格が鳳凰と仲人等)と、私は
考えていた。だが実際には、横順番文書の文書構成解読が、私の場合出来
ていなかったために、

それは間違いだ、

と少なくとも私は思うようになった。結論をだいぶん遅くなったが書くと、
上段右の文法としての主格は仲人。上段左の主格も仲人。だが、

中段右の主格は獅子、

中段左の主格は仲人。下段右の主格は鳳凰と仲人等。下段左の主格も鳳凰
と仲人等、だと見なすべきと、私は考える。つまり、表題に書いたように、

注釈部大きな字”仲人”段落を、上段右、上段左、中段右、中段左、
下段右、下段左の順に、正しく読んでゆくと、

中段右の主格(話題)は仲人に関するものではなくて、獅子に関するもの
と見るべき

だと、私はようやく気がついたのである。そして、そうとれる根拠だが、
中段左に、”仲人立聖目外”とは書いてあるのだが、”立聖目外”と書いて
ないからである。つまり、

中段右の”或説云居喫師子許也”の主格(何に関する話題なのか)が、
もし、仲人だとしたら、中段左の”仲人立聖目外”の”仲人”と言う
2文字が余計

だと、言う事である。ようするに、中段左の”仲人”と言う2文字は、

話題が一旦、仲人から獅子に、それたのを、再び仲人に戻さなければなら
ないため、2文字余分に記載が必要になったもの

だと言うわけである。正直、私はそれに気がつくまで、繰り返すが”大きな
字の仲人段落”の中段までの計4カラムは、全部仲人についての記載と、
信じて疑っていなかった。そのため、以下のアイディアは、或る中将棋の
愛好家が出したのだが、”或説云居喫師子許也”は”或説云付喫師子許也”
の誤記で、判りやすく書くと、”或説云仲人(ヲ)付喫師子許也”だという
説に、賛成した事もあったのである。
 しかし、何が書いてあるのかの内容以前に、この部分が

仲人には関係なく、獅子についての、何らかの動かし方のルール説明である

と、上記のような経緯で、考えるようになったので、最近、この部分を、
少し前に書いたように、ようするに、大将棋及び摩訶大大将棋の獅子のルー
ルの解説部分と、

以前とは全く別の、解釈をするようになった

のである。以上をまとめると、私のミスは、

江戸時代以前の人間が、罫線は無いが、表にも見える形式で文書を、判って
当たり前のように、しばしば突然、段ごとに、右から左へ読むように書く
習慣があるのに、私が個人的に、古文書の理解が不足で、今まで気がつかな
かった

事と、私は解釈している。なお今の所、私の周りでは、以上の点に気がつ
き、私の改良版の、”或説云居喫師子許也”の解釈に、賛成する意見は無い。
そこで、最後に多少言い訳をすると、私の周りの者がほぼ全て、古文書には、
上記で指摘した、今とは違う表現形式が有るとの点に、充分には注意を喚起
して居なかったので、私も同じように間違え、その間違いに、今まで私は
全く気がつかなかったという事情は、一応有るにはあるのである。
(2017/12/09)

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詰将棋は何故作物と言われ、中将棋等では流行らなかったのか(長さん)

増川宏一氏の古い著書、ものと人間の文化史23-1、将棋Ⅰに、
将棋のルールという、歴史とは切り離した一章があり、持駒ルール
の成立時期について”15世紀中旬に有り”と書いてある。これは、
現在の増川氏の考えとは、違う。私が知り得る限り、増川氏は、
16世紀初頭の厩図の僧侶の掌の、将棋駒を根拠に、今は、

1450年頃ではなくて、1500年頃が、持駒ルールの最初

と述べていると、理解している。では、以前の増川論が数十年早か
った根拠だが、次の文献に、「(小将棋の)作物」という記載が、
出てくるためである。文献名は、「新撰遊学往来」で、その中に、
小将棋の次に、現在は詰将棋と呼ばれる”作物”が記載され、
盤双六や、碁石を弾く遊びの後に、中将棋と大将棋が記載されてい
るとの旨が、将棋Ⅰには書いてある。つまり、

作物は記載場所から、平安小将棋の作物のであるとされる。

そこで将棋Ⅰにも紹介されているが、この事実から、「持駒使用の
謎」の著者、木村義徳氏は、”15世紀の中期には、持ち駒ルール
が有ったという証拠の文献”と指摘したとされる。元文献は、同じ
く将棋Ⅰによると、「将棋世界」38巻10号との事である。私は、

15世紀中旬に、平安小将棋に持駒ルールが有った、との上記、
木村説には基本的に賛成

である。14世紀初めの、普通唱導集の小将棋の記載は、持駒ルー
ルの存在を唄ったものであるから、それより後なら、持駒ルールが
存在して当然だと思っているからだ。
 他方、増川宏一氏の方は、「新撰遊学往来」のこの記載を、持駒
ルールの根拠には、挙げなくなってしまった。詳細は、私には確認
できないが、私が想像するに、中将棋が15世紀に流行らなくなる
と、増川氏が考えたとすれば、つじつまが一応は合っている。他方
私は、9×9升目36枚制標準型平安小将棋の旦代問題が、15世
紀には未解決なため、そのポテンシャルを乗り越える手間が無い中
将棋を、持駒ルール有りの平安小将棋は駆逐出来ないので”爆発的
流行”は起こらず、持駒ルールが合っても、中将棋は廃れないから、
問題ないと見ている。むしろ、9升目制標準平安小将棋持駒有型に、

旦代問題が残っているからこそ、詰将棋が、当時は文字通りの作り
物(バーチャル)、つまり”作物”と呼ばれた

のではないのだろうか。つまり、仕掛直前まで後手が、線対称真似
将棋をすると、9升目の平安小将棋は行き詰まってしまうのだが、
仮にそれを飛ばして局面を進めたとして、終盤、駒が初期配列とは、
かなり違う形になる局面を、人工的に作ったとして、その形から出
発して、終局までゲームをするという遊びが、作物という言葉の、
もともとの意味だったのではないか、という事である。ようするに、

初期配列とはかなり違う、終盤の棋譜を人工的に作るというのが、
作物に、”作”という字が付いている理由

なのかもしれないと、私は思う。そしてこう考えると、中将棋の作
物や、大将棋の作物が、マイナーだった原因は、

詰め将棋が作りにくいと言うよりは、初期配列の残骸が、取り捨て
ルールでは残るので、棋譜の形を自由には、変えづらいので、作物
とはちょっと違ってしまう

と言う事だったのかもしれない。つまり、

9升目の平安小将棋には、旦代の難点があったので、その詰め将棋
は、創作品と言う意味での作物と言うのに、もともと相応しかった

と言うことかもしれないと、私は考えるのである。そして、創作品
と言うには、やはり駒が多数残っていた方が、見栄えがしただろう。
だから、それが本格的に作られた頃、9升目の平安小将棋の中でも、

駒枯れで終盤になる、旦代の難点の無いリアルな終盤局面を持つ、
持ち駒無しの平安小将棋は、作物を作る対象には最初からならず、
主として、持ち駒ルールの有る平安小将棋についてだけ、文字通り、
バーチャルな”作物”が作成されたのではないか

と私は、やはり考えるのである。つまり作物を後世、二中歴持ち駒
無し平安小将棋の、裸王ルールに対応するために、”一手隙相手負
将棋”とは表現しないで、普通に玉を詰めるだけの、詰将棋で定義
が出来たというのも、結果的にそうなっただけだと言うのが、現時
点での、私の考えなのである。(2017/12/08)

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大局将棋の最終成立時期は、やはり幕末なのではないか(長さん)

以前私は、江戸時代の将棋の者の家、大橋家から発掘されたと聞く、
大局将棋の最終成立時期は、江戸時代に成立年号の有る、将棋の本、
松浦大六氏所蔵、象戯図式に記載されていても、それは明治以降の
加筆であり、最終成立時期は、幕末の頃であろうと述べた。
 大局将棋には、砲、弩、弓といった、七国将棋系の駒が存在する
ので、早くとも1750年以降、徳川家治の時代ないし、その後の
時代の成立は、間違いないと私は思う。将棋界の恩人と言うべき、
第十代徳川将軍の徳川家治は、大橋家の棋士に奥御用を授けて、
多額の謝礼金を銀貨で与えている。そこで、将軍の御傍に置かれた
との誉もあり、かつて豊臣秀次に気に入られた、水無瀬兼成になぞ
らえて、泰将棋の継続としての、大局将棋の製作を、徳川家治の
時代になって、少なくとも大橋家内部では、始めていたという話
は、充分有り得る事かもしれない。しかしながら、大橋文書、
大局将棋初期配列・駒のルール図として成文化される所まで、同時
期に出来たとは、必ずしも言えないのかもしれない。最初はせいぜ
いルール集のメモ程度の物を、後継者に残していたのではなかろう
か。
 というのは、将棋種類の中に、銅車の成りに、銅象という駒が、
存在するからである。銅象は、いうまでも無いが、銅像のシャレ
であろう。しかし、

銅像は明治時代になってから、現在の意味で、盛んに使われた単語
である。

なお、大局将棋の駒名をチェックしてみたが、江戸時代に成立する
かどうか、

怪しい駒名は、大局将棋については、”銅象”が唯一

のようである。比較的大きな現代語辞書によると、今使われている
銅像の意味で、銅像が使われるようになったのは、欧州に派遣され
た幕末の人間が、現地の銅像を見てからのようである。なお、web
には、その中の人間が、胸像を見て「晒し首のようだ」と、異文化
感を吐露しているとされる。

その前の近世までは、”銅ノ像”という意味で、銅製の仏像を表現
するときにだけ、銅像と書いてあるように、私の見た古文書が、私
には、今の所全部読める。

つまり銅像という単語が、少なくとも辞書で引用されている、近世
以前の古文書に、確かに存在するようには、私には見えないと言う
事で有る。ただし、1750年頃の、大局将棋の作者が、銅ノ像を、
銅像という名詞と解釈して、銅象という駒を、大局将棋の銅車の成
りとして、絶対に作らなかったとまでは、言えないのかもしれない。
 個人的には、金車、銀車、銅車、石車、木車・・・と、車駒を並
べて、その成りを観察してみると、銅車の成りは、西暦1750年
の頃には、別の、より意味を取るのが難しい、遊母鳥、鴻翼と、
歩振鳥、風鼈の間に来るのに、相応しい名前が有ったようにも見え
る。だがその名前が、余りにも難しすぎて、幕末には大橋家の子孫
にさえ失念され、単純に銅象に置き換えられたのかもしれないと、
一応本気で私は疑っているのである。なお蛇足だが、大局将棋では、
右車と左車に成り駒を作り、それぞれ右鉄車、左鉄車と名づけて
しまったので、鉄車という駒だけ無い。議論を元に戻すと、単純に、
明治時代からの言葉のように見える、

銅象という駒が有るのは、単にその一種だけ遅れて作られただけ

かもしれないのだが。以上の点を根拠に、私は大局将棋は、徳川
家治の時代から幕末までの間に、順次部分が作られ、ひょっとする
と幕末になって、ようやく完全成立したのではないかと、今の所
銅象たった一つが根拠だが、個人的には疑っていると言う事である。
(2017/12/07)

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(コラム)羽生善治氏、7冠永世を達成(長さん)

2017年12月5日の将棋竜王戦で、挑戦者の羽生善治棋聖が
竜王の渡辺明棋王に勝利し、日本将棋、人間の七タイトルについ
て、全て永世称号を得た。羽生善治氏は、
永世名人を2008年に、永世王位を1997年に、名誉王座を
1996年に、永世棋王を1995年に、永世王将を2007年
に、永世棋聖を1995年に達成し、最後となった永世竜王を、
通算7期で、今回達成したと、記録されている。なお、以下に、
当時の史料を示す。

羽生善治.gif
羽生善治氏は、将棋連盟内に於いては、これまで現役の花形棋士
として活躍してきた。しかし、今期で年齢が47歳に達し、棋士
一般としては、ピークを過ぎるころとなったようだ。様子から
私が察するに、現在は勝負一筋のようで、同世代の永世名人資格
保持者の、森内俊之九段等とは違い、直ぐには将棋連盟の運営に
係わる事に、興味は無さそうである。
 しかしながら、彼が将棋連盟組織の中核として、平成の次の年
号の時代に活躍する事は、私の認識として、巷の声無き声のよう
に思う。恐らく、江戸時代の囲碁の棋士の渋川春海のように、
将棋連盟組織の外にも広く顔の効く彼は、彼が元気で居る限りは、
周りに押し上げられて、自然に連盟の中心人物になってゆくので
はないかと、私は現時点で予言しておく。
 思えば彼は、コンピュータ将棋が、サイレントムービーの時代
の、最後の人間の花形将棋棋士となった。

コンピュータ将棋ソフトと、彼が、たまたま直接対決しないで、
どうやら終わりそうなのは、不思議だったが、めぐり合わせだっ
たのかもしれない。

そうではなくて、そのように仕向けさせた、将棋界の恩人の神様
が、天国には何人も居るのだとすれば、彼を無駄に消耗させ、命
を短くする事が無かったという点に、大いに感謝したい。

彼は、ソフト対決の局面では、これまでの所、ツマハジキにされ
た感じであったが、これが不運か幸運かは、まだ謎だろう。

つまり彼が更に、今後新設されるかもしれない、永世叡王を目指
して将棋を指し続け、叡王戦のスポンサーの意向で、彼が叡王に
なった時に、電王戦勝利ソフトとの直接対決が無いと、断言はで
きないからだ。何しろ未来は、基本的に知りえない世界である。
 何れにしても、彼には今後も体を壊すことなく、ソフトという
機械が、人間の上位に立つ世界に、否が応でも対応しなければな
らない、次の時代をより良い方向に導く、日本将棋界のリーダー
に、ゆっくりとで良いので、変貌していって、もらいたいものである。
(2017/12/07)

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摩訶大大将棋の奔成りには、なぜ例外が有るのか(長さん)

摩訶大大将棋に関する初心者が、ルールの教わりたてに感じると見られ
る疑問の一つに、1~3段目の小駒が、奔駒に成る駒で、概ね占められ
ているのは確かだが、全部そうしなかったのは、何故なのかという点が
有るのではないかと、私は自分の経験上考える。
 この点については、本ブログでは、まとまって居無いが、見解を既に、
個々の駒について述べている。
 ところで奔成りの例外となっているのは、具体的に仙鶴に成る淮鶏と、
蝙蝠に成る老鼠、山母に成る古猿、自在王に成る玉将、王子に成る酔象、
教王に成る提婆、法性に成る無明の七種である。このうち、玉将、酔象、
提婆、無明は、玉駒に近接して逆転を狙うための、特別な成りとして、
我慢する必要が有る。
 また、古猿が奔猿に成らないのは、奔猿が内容としておかしいからで
ある。雲に乗る孫悟空という例外は有るが、猿自体に、すばやく走ると
いうイメージが、無いからだ。そこで、もともと、その頃の大将棋系に、
妖怪駒が有るので、その中でまだ使用されて居無い、妖怪を持ってきて、
山母にしたのだろう。が、妖怪駒は、これで概ね、戦士になれるという
制約を考えると、種切れだったようだ。

問題は、奔鶏や奔鼠でも支障の無いはずの、淮鶏と老鼠の成りをどうし
たのかと言う事

である。これらの成りが奔駒になっていないのは、この2種の駒に限り、

摩訶大大将棋の作者が、中国の故事に対して知識があったために、特別
な成りになった

ようだ。すなわち主人が大成して、空を飛べるようになった淮南子の鶏、
古蜀のホトトギス(時鳥)のイメージに合う元駒としての、無精ひげを
はやし、しょぼくれた王様の姿の老鼠を、鶏と鼠として導入すれば良い
と、たまたま中国の故事に知識が有るため、摩訶大大将棋の作者が気が
ついた。そこで、それぞれ対応する故事に、ちなんで、淮鶏の成りを
(淮南子の)仙人の鶴、老鼠の成りを、古蜀の王様が化身した、ホトト
ギス(漢字で”時鳥”)に決めた。以上の経緯で、このような、元駒と、
成りの組み合わせになったというのが、本ブログの、これらの駒の例外
成りの、理由に関する従来からの見解である。
 なおそれとともに、安土桃山~江戸時代の古文書の記載と異なり、

大大将棋の老鼠の成りの、古(蜀の国の)時鳥が、摩訶大大将棋の元も
との、老鼠の成りであり、現時点で古文書に記録された、摩訶大大将棋
の”蝙蝠成り”は後に入れ替えられていると、本ブログにおいては見て
いる

点にも注意してもらいたい。
 つまり、むしろ大大将棋の老鼠の成りの名前が、動かし方の様子から
見て、本来”蝙蝠”であり、大大将棋が成立した時に、

大大将棋の老鼠の成りと、摩訶大大将棋の老鼠の成りは、前者の方が、
成立が先であるかのように、見せかけるために意図的に、名前だけ入れ
替えられ、改竄されている

と、前に経緯を述べたが、本ブログでは見ているのである。
 何れにしても、もともと摩訶大大将棋では、十二支駒を増やそうとし
たのだが、鼠と鶏は、そもそも戦力になりそうもなく、本来将棋の駒名
としては、加える事自体が、クエスチョンであったと見られる。そこで、
摩訶大大将棋の作者は、鼠と鶏を入れる口実を、主に見つけるために、
あれこれと考えた結果、中国の故事を持ち出したのであろうと、私は考
える。
 今回の議題は、いままでの本ブログの内容から、自明に導き出せ、
内容がやや軽いが、以上までとしておく。(2017/12/06)

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栃木県鹿沼市中粕尾・粕尾城の現状確認をした(長さん)

 栃木県小山市神鳥谷曲輪から、裏一文字金角行駒が2007年春に
出土している。簡単に言うと、小山義政がこの地点に、西暦1381
年冬に居住していた事が、駒が出土した原因と、このブログでは見る。
それが正しいとすると、小山義政が生前居住していた経歴のある場所
は、摩訶大大将棋の角行のようにも見える、このような駒が出土する
のではないかと、一応疑ってみる価値は有るのではないかと思えてく
る。小山義政は、鎌倉や京都、奈良の西大寺等に用が有るとき以外は、
小山市八幡町の龍ゲ岡城に、主閣の城の主として、居る事が多かった
ものと、私は個人的には予想している。そこは、現在栃木県小山市立
の某学校のグランドに現在なっており、小山市教育委員会が、開発さ
れないように土地を、押さえている模様である。
 さて、小山義政は小山義政の乱の最終段階で、表題の、栃木県現鹿
沼市、昔の粟野町中粕尾にある、粕尾城に居たものと、鎌倉府側の記
録等により、推定されている。それは西暦1382年の事である。
 以上の事から、栃木県鹿沼市中粕尾にある粕尾城は、小山義政関連
の出土物が出る可能性のある、場所のひとつである。そこで、個人的
には、ここには過去十回位行った事が有るのだが、2017年12月
頭にまた、現状のチェックに行ってみた。前と変わった点は、

大手門のあたりに、農業廃棄物が散乱していて、だいぶん荒れていた

事位であった。もともとここは訪れる者はわずかで、余り開発の動き
が無いと言う点では、以前と変わった所は、無いようだった。なお、
大手門付近に、少なくとも近年湧き水が出ており、ここに井戸跡が
有るとすれば、周囲の荒れ放題な姿は、木製遺物の一種、古将棋道具
の出土に期待する者としては、ちょっとがっかりである。ちなみに、
大手門の横に、少し前に、「見学者の休憩場所」というのが、たぶん
地元の方が私財で建てたのだろうが、いっけん盆踊りの屋台を小さく
したような形で存在していた。しかし余り使われなかっ為だろうか。
今回訪問すると、ほとんど朽ち果てていた。
 もっとも、城の西側にある”和田親水公園”の吾妻屋等も、使用頻
度が少なく、放置されていて、だいぶん痛んできている。だから、
公私で、インフラの痛みの放置度合いが違うという事は、粕尾城の
周辺の場合余り無いようだ。
 なお粕尾城は、建築物は、約635年経っているため全く無いが、
地形から一目で誰でもわかる、城らしい城である。つまり”土塁”等
の存在のために、城の痕跡の、極めてはっきりとした、城のイメージ
で正しく理解できる、規模の大きな中世の城である。これほどはっき
りとした遺跡なのだが、市街地からはだいぶん遠い山沿いなので、開
発で、失われる可能性が、少なくともこれまでは、ほぼ無いと考えら
れてきたのだと思われる。そのため本格的な発掘調査が、過去された
事があるとの話は、私は聞いた事がない。ここを掘ると、長沼氏の遺
跡のように、粕尾城からも少なくともカワラケの束くらいは、出そう
なものだと、私は思う。むろん過去何回見てもそうだったが、今回も、
地表を見た限りは、城の土塁や遺構の起伏以外には、私には何も見つ
からない。
 強いて今回気が付いた事は、ほぼ楕円形の形の、曲輪の広場のよう
な空間に入ると妙に落ち着いて、周りと一体感が持てた様な、安心感
を感じる事が出来るという点だった。恐らく南北朝時代の頃、戦いの
最中は、兵隊の戦意を高揚させる事よりも、恐怖から、仲間を裏切っ
て逃げ出す兵隊が出ない事の方が、むしろ大切だったのかもしれない。
そのため、曲輪の中は戦意がみなぎり、兵隊の交感神経が、ピリピリ
している状態を作り出すよりも、戦いが無い日には、リラックスでき、
周りの全てが、自分の仲間であるとの、やわらかな雰囲気を作り出す
事のほうが、むしろ大切だったのかもしれないと私は思う。そのため、
曲輪の空間の広さや形を、適度に工夫したり、内部空間を平らになら
す等、そこに居る兵隊の、精神的な面を重視した城の作りが、仏教や、
神道も盛んだったこの時代には、近代とは異なり、大切にされたのか
もしれないと、私には思えるようになってきた。(2017/12/05)

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12×12升目盤と、囲碁盤の大きさ(長さん)

以下は、中将棋が室町時代に流行った理由としては、幾分ぼんやりと
した話であるが。

中将棋の盤は、結果として囲碁盤とほぼ、同じ大きさになる

という話を、口頭で私は聞いている。私が聞いたのは、どうぶつしょう
ぎカフェいっぷくの、藤田麻衣子女流からである。藤田女流も、恐らく
人づてに誰かから、聞いた話なのであろう。ひょっとすると、天童駒等
を、取り扱っているので有名な、佐藤敬商店の技術者あたりからかもし
れない。佐藤敬商店の東京の営業所は、東京都墨田区本所なので、清澄
白河駅近の、どうぶつしょうぎカフェいっぷくからは、割と近い所に
ある。
 中将棋が15世紀に流行ったのは、主としてゲームの性能によるもの
なのだろうが、囲碁盤を転用しやすいのも、あるいは、一役かっている
のかもしれないと思う。そして当然だが、12と13は、近い数なので、

13升目の平安大将棋の将棋盤は、囲碁盤の表面の盤面の書き直しで、
恐らく転用できただろう

と、私は思う。本ブログでは、平安大将棋の13升目は、偶然の成り行
きとの立場を、今の所取る。藤原一族なら、多少の特注品は入手できた
だろうから、別の升目盤にしていたら、大将棋が停滞したという事も、
たぶんだが無いのかもしれない。しかし、囲碁盤の裏で大将棋をこっそ
り指す、寺院に居る僧侶の賭博師が居たとすれば、囲碁盤でカムフラー
ジュできたことは、鎌倉時代、大将棋を寺で指すには、都合がよかった
のかもしれない。ひょっとすると、禁止令が出て、寺院でも大将棋が
指された証拠が今に残る事に、関係するのかもしれないと思う。

本日は、本題は少なめで申し訳ないが、これくらいにしておく。

 さて以上の話題とは離れるが、高見研究室の「摩訶大将棋のブログ」
が、ここに来て少しずつ、動き出した。

たいへん喜ばしい事

である。この原稿を書いている時点で、「後期大将棋の詰め将棋」の記
事が、記載された所であった。私には、

後期大将棋を復刻すると、金将の成りが奔金、盲虎の成りが奔虎に成る
と書いて有るのを見て、初耳

だった。水無瀬兼成の将棋纂図部類抄では、後期大将棋の初期配列図の
後に、「成り駒は酔象・鳳凰・麒麟の三枚」と書いて有るので、せいぜ
いその他、歩兵が、と金に成る位で、他は、不成りと復刻されるのかと、
予想していたのだが、何処をどうすると奔駒が出るのだろうか。今の所、
ブログに書いて有る事でしか、事情は判らない。簡単にでも、そのうち
”奔駒へ成り”の説明が有ると、なおさら良いのだがと思う。なお
将棋纂図部類抄の、行然和尚まとめ表の、「大将棋駒数354枚」の部
分を、「大将棋駒数130枚」の水無瀬兼成による、意図的改ざんと見
て、「後期大将棋の成りは中将棋の駒の成りに準じる」と再解釈した、
江戸時代の文献も有ると、私は、今の所理解している。(2017/12/04)

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本ブログ「日本の駒の動きルールは水平線上下非対称が特徴」は誤り(長さん)

以下は、今回に限り「謎の解明」ではなくて、以前に書いたブログの内容
の訂正とお詫びである。前に、本ブログで「日本の将棋駒の動きルールの
中に、金将のように、水平線で折り返して、前後で非対称になる動きのルー
ルが、有るのは、日本の将棋の駒の動かし方ルールの特徴である」との旨
をこのブログで、書いたように思う。しかしながら、実際には、
タイのマークルックや、ミャンマーのシットゥイン、インドの現在の用語
で言う、チャトランガの象は、銀将と同じ動きのルールなので、日本の
金将、銀将駒と同じく、水平線で折り返して、上下の動きが、非対称に
なっている。また今度は、始原的な外国将棋について述べると、インドの
古代チャトランガは、11世紀の頃4人制が現われたが、その時代の馬は、
八方馬ではなくて、桂馬のルールとの説が、目下は有力である。言うまで
も無く、桂馬は水平線で折り返して、上下の動きが、非対称になっている。
また今の所、本ブログの見解に留まるが、イスラム時代にアラブで、シャ
トランジと天文が、結び付けられた形跡があり、その理由は、インドより
伝承の原始シャトランジが、もともと、馬が桂馬動きだった動きの悪さを
否定するための、思想導入という可能性もある。ようするにインドの古代
チャドンガには、もともと、上下で非対称な桂馬のルールの”馬”で、
出発した可能性もあると言うことである。以上のように、

つまり本ブログの、表題に書いた記載は、事実と反するものである。

少なくとも、インド・東南アジアの象棋類では、駒の動かし方のルールを
前後で完全に対称的にしようと言う意図が、もともとは有ったとの、明確
な証拠はない。
 以上の点は本ブログの、うかつな、間違った主張であったと、現時点で
明らかに見なし得、誠に心苦しい思いである。

まずは、以上の間違った主張を拡大させた点を、深くお詫びする。

そして、

前後非対称駒は、日本と、少し地理的には跳んで、東南アジアの象棋類に、
ゲームの種類によっては、開始時期がわかる場合も、わからない場合も
まちまちだが、普通に見られる特徴である

との旨で表現し、以降もろもろ誤った事実認識を、流布させないように
心がけたい。(2017/12/03)

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