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中世の遊戯具出土分布。中世都市鎌倉に副中心が無いのは何故(長さん)

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、将棋駒の出土地点分布の全国集計
地図を見ると、平安時代後期の将棋駒の出土地点分布は、京都中心で
ある。これは京都の朝廷が、全国を政治支配していた時代なため、こ
れについては、当たり前だと言えるだろう。
 ところが良く考えてみると不思議な事なのだが、日本の中世出土駒
の分布は、京都に分布中心が依然有るのは当たり前にしても、

鎌倉に分布の副中心があっても良さそうなのに、そうなってはいない。

つまり、鎌倉時代に鎌倉からは将棋駒が出土し始めているのは確かな
のだが、中世を通して、鎌倉から枝分かれして、将棋駒等の出土する
地点が、幾つか存在するような、鎌倉が副中心になるような分布には、
ぜんぜんなっていないのである。
 実際の所、冒頭に述べた天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(天童市
将棋資料館・2003年)からも、良く見ると以上の事が判るのだが、
中世の前後期で二分しているのと、各県別に、吹き出しを付けて、
遺跡名のリスティングをしているために、中世の将棋駒の出土分布に
ついては、やや確認しづらい。むしろ、以下の成書の”遊戯具”の
出土品全国分布地図だと、以上の点が一目瞭然である。

東京大学出版会、小野正敏編、図解・日本の中世遺跡(2001)

ちなみに、中世の鎌倉時代の後期から南北朝時代にかけて、鎌倉は、
京都に並ぶ都市だったという話を、私は、中世史の研究者である
峰岸純夫氏から、”足利尊氏に関する講演会”等で、口頭で聞いて
いる。そこで今回は、この、

中世の将棋駒等、遊戯具の遺物の出土分布が、相変わらず京都一極
中心であって、鎌倉に、副中心があるようには見えない理由

について、論題としてみる。
 いつものように最初に結論から書く。

鎌倉は、衣食住に関連した、基本的な生産物を流通する経済拠点に
は中世なったが、文化がここから発進されることは、余り無かった

のではないかとみられる。根拠としては、上記で挙げた、図解・
日本の中世遺跡(2001)に、同じく大量一括埋蔵銭貨の出土分
布地図が載っているのだが、

中世の大量一括埋蔵金の出土分布については、関西と関東を2極と
として、出土品が二眼状に分布しているから

である。
 では、以上について少し補足する。
 そもそも、中世鎌倉が大都市だった事は、鎌倉幕府が開かれた事
もさる事ながら、室町幕府が鎌倉府を設置した事からみても、明ら
かとみられる。ただし、中世には戦国時代から安土桃山時代も入れ
るので、京都と鎌倉で双璧分布になるとまでは、元々期待できない。
ただし本来なら、鎌倉を中心に、京都とまでは行かなくとも、弱い
副分布中心が、有っても良いはずだ。しかし、実際に図解・日本の
中世遺跡の遊戯具の遺物の出土分布を見ても鎌倉は、京都から延び
る街道沿いの、人の賑わいのある町の、数珠状の出土プロットの、
比較的大きな”玉”の一つにしか見えない。なお、

街道沿いに分布が延びているのも、遊戯具の遺物の出土分布の別の
大きな特徴

である。遊戯具商人や、遊戯賭博師が、街道に沿って商売をして行
く様を、私は個人的に連想する。が、こちらについては、街道ぴっ
たりに遺物が出るのが、いつもとは限らないだろうから、街道と、
将棋駒等の出土が、いつも関係すると、断定する所までは無理のよ
うだ。
 以上の事から、中世の貨幣経済とは異なり、文化としての遊戯に
関しては、ゲーム・デザイナー等の文化の発信者が、鎌倉には、
余りいないとしか、私には考えようが無いように見る。京都のオリ
ジナルゲームを東国の中心都市、鎌倉で遊ぶうちに、新たな流れが
出来、たとえば

鎌倉から新しいゲームが発生して、ここから分岐して、遊戯が鎌倉
を中心に、ここから枝分かれして、南関東を中心に広がるという事
が、中世には現実として、余り無かった

に違いない。ゲームデザイナーのような人材が、鎌倉には余り居住
していなかったのではないか。ただし、経済的には栄えており、金
持ちは、鎌倉を中心として、中世多かったのだろう。前に埼玉県北
葛飾郡松伏町の埋蔵金出土の紹介をした事があったが、大量一括埋
蔵金の方は、南関東で発掘されるケースが、比較的多いようである。
 この事から、象徴的に考えられるのは、

落ちぶれた貴族が中世、関東までは余り来なかったのかもしれない

と、思われると言う事だろう。庶民化しつつあったが、遊戯のアイ
ディアのオリジナルは、中世、貴族が依然占めていたのかもしれな
い。あるいは、古代の遷都の影響で、近畿地方の寺院の分布が、比
較的京都に、一極化していなかったのに対し、関東の有力寺院が、
中世には都市鎌倉にのみ、集中して作られたため、

将棋を指す僧侶が、関東では鎌倉に限られていて分布が狭かった

のかもしれない。
 何れにしても今後関東では、将棋駒の出土に期待するには、

鎌倉からの距離よりも、中世の大きな街道に近いかどうかを頼りに
した方が、控えめに見ても少なくとも経験則のレベルで、より有望

なように、私には見えた。(2018/07/11)

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将棋駒の40枚制。理由が草場純氏と本ブログで違うのは何故(長さん)

日本の著名な遊戯史の研究家の草場純氏が、増川宏一氏の著書のひとつ
「将棋の駒は何故40枚か」の続論を、ゲーム性の観点から述べている。
web上にも、”ゲーム研究家・草場純(くさばじゅん)さんの研究を
収集するサイト”という名の、草場純氏の業績を紹介するブログに、
全文が載っている。
 彼の論では、

「ゲーム性で40枚の訳は説明できる」とするのだが、本ブログの結論
とは正反対である。

そこで、今回は正しいのがどちらかも然ることながら、そもそも結論の
差が、何処から現われたのかを論題にする。
 答えから、何時ものように書こう。

解析結果を数字で表現すると、草場氏と本ブログとで、33%~67%
(草場)と、47%~62%(本ブログ)が、ゲーム性のみ条件の際の
許容占有率となり、実は似たりよったりの値だった。しかし、本ブログ
では「ぴたりと、49%(40枚制)にならないと、ゲーム性によるも
のとは結論されない」と、解析の際、結果を解釈したので、草場氏の結
論とは、真逆になった

と考えられる。
 では、以上について、もう少し詳しく解説する。
 草場氏の文面では、シャンチーやマックルックのような、取り捨て型
のゲームも、持ち駒型の日本将棋に混ぜて、ダーウィンの自然淘汰の論
のように、今に生き残ったゲームは、ゲーム性が高いと解釈して、ゲー
ム性が高いゲームの占有率を、計算した事にしていると、私は認識する。
それに対して、本ブログの上記の数字は、36枚制の標準的な平安小将
棋と土台はいっしょとして、飛車角駒に当たる、室町~戦国時代追加駒
をいろいろ追加したときに、ゲーム性が保存される範囲を示している。
解析結果の数字が、ぴたりとしておらず、特に下限が草場氏の結論で低
いのは、数字の内容がもともと異なるためだ。
 しかし、その問題よりも、ここでは、

「ぴたりと、49%(40枚制)にならないと、答えたことにならない」
と考えるかどうかが、論の結論に影響している事は、余りにも明らか

である。長い間に生き残ったゲームや、最近作の評判の良いゲームの
「許容占有率平均が50%付近だから、日本将棋の枚数が40枚である」
との表現で、40枚が必然かという問いに、yes.と答えたことになる
とは、本ブログでは全く見て居無いのである。
38でもなく、42でもなく、日本将棋の枚数は40枚であって、

「偏差が生じる余地がほとんど無い」ようにも見える理由を解くのが課題

と、本ブログでは見ているからである。だから、論の結論が、草場氏と本
ブログとで全く逆なのは、当然である。
 以上で、今回は終わりでも良いが、内容がやや希薄なので、最後に蛇足
で解析結果の数字の差について、もう少し言及する。
 草場純氏の解析法で、最適占有率を出すところで彼が述べている、中国
シャンチー・朝鮮チャンギに対する解釈は、砲の効果に言及されていない
点を除けば、全くお見事である。ただし、マックルック(マークルック)
とシットゥインについては、長い間生き残ったゲームではあるが、最適占
有率より、少しアンダーな状態で、我慢して指していると私は思っている。
そもそも取り捨て将棋の、最適占有率の平均は、8の二乗の64升目や、
9の二乗の81升目条件のときには、50%よりも、かなり高くなると、
私は思っているのである。

全体として草場氏の方が本ブログより、数値が低めなのは、マックルック
(マークルック)とシットゥインについての認識の差が、最も効いている

と、少なくとも本ブログの認識とを比較すると、そうなると私は考えてい
る。
 更に最後に些細な追加をする。盤升目をどんどん大きくするとどうなる
というかについては、草場氏はほぼ言及されていない。私は敢えて、その
点をも考えると、最適占有率は盤升目にかなり強く依存するとみる。初期
配列での中間空隙段を、駒を大量に増やした場合にそのまま増大させると、

戦場が広すぎて、人間には面白いゲームと感じられなくなる

と、私が見るからである。つまり、もろもろのチェス・象棋・将棋型ゲー
ムの許容占有率の平均は、9×9升目盤では、33%~67%程度に間違
いないのかもしれないが、盤升目を大きくするに従い、漸近的に1に近づ
くだろうと、ここでは見ているという事である。(2018/07/10)

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西暦1260年型大将棋で角行/飛龍のルール衝突をどう工夫した(長さん)

前に、平安大将棋の飛龍の動きについて、二中歴の記載を、角行の動
き以外で解釈し、ただし2升目先跳び越えとは解釈しないような動き
を考える事の是非について、確か論じた事があった。答えは、最初だ
け跳び越せ、そのあと走るのではないかという、定説との折衷案を出
した事が有ったと思う。今回は、西暦1230年型大将棋から、西暦
1260年型大将棋に移るときに、角行が導入されたとここでは見る
が、平安大将棋のままだと、飛龍のルールと角行が同じになるのを、
何とかしようとしなかったのか。角行道入者は、何故平気で、飛龍と
同じ駒の動かし方になってしまう角行を、1260年型には導入した
のかを、再度考えてみる事にしたい。
 なお、西暦1230年型の大将棋と、西暦1260年型の大将棋は、
ここでは、それぞれ次のように仮定されている。

西暦1230年型大将棋

口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車飛龍口口口口口口口口奔横口口口口口口口口飛龍飛車
反車口口口口口口猛虎口口横行口口猛虎口口口口口口反車*
香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

*飛車の発明より間もなくであろうが、奔車が何時、反車になったの
か、正確な時期は謎である。
成りは、銀将~香車と反車、歩兵と注人が金将に成ったと見られる。
残りは不成りと考えられる。

西暦1260年型大将棋

口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛車
反車飛龍口口口口猛虎口口酔象口口猛虎口口口口飛龍反車
香車桂馬鉄将銅将銀将金将王将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

ただし”王将”は、奔横から奔王への名称変更の直前に、玉将/王将
1:1型になったと考える。
成りは、不明な点が多い。酔象は太子に成ったはずだが、この時代も、
銀将~香車と反車、歩兵と仲人が金将に成ったかどうかは不明である。
全体として、不成り駒がやや増加傾向であったように、ここでは見る。

 そこで以下、いつものように最初に結論から書く。その後私は、
いろいろ考えてみたが、次の考えが、最も座りが良いように思えた。

二中歴に記載されている、”飛龍・・行四隅超越”以外の表現で、
飛龍のルールが記載された事は一度も無かった。そこで西暦1260
年型大将棋の作者は、角行のルールについて”角行行四角不伝多少”
と決めた上で、飛龍の方の四隅超越を、”飛龍は走りであるが、1~
2升目に止まれないと同時に、その升目は空いて無いと、3升目以上
へは行けない。”と解釈しようとした。が結局、西暦1260年型
大将棋では、飛龍自体が、余り使われない、”奥の位置に押し込めら
れた駒”だったため、後世に、その考え自体が残らず、うやむや化
された

と結論した。では以上について、ここではもう少し詳しく説明する。
 西暦1200年頃の二中歴の、飛龍のルールである
”飛龍・・行四隅超越”は、西暦1260年時点では、升目数に係わ
らずに走れるに近い意味である事が、まだ読解できたと考えられる。
本ブログでは、

走りの動きだが、遠くへ行ってしまうの意味が元々だろう

と、考えているのである。西暦1260年型大将棋の製作者は、
二中歴大将棋へ、新規の駒を埋め込む方式で、西暦1260年型の
大将棋を作成しているわけだから、よりどころになる、飛龍の動きに
関するルールは、二中歴の大将棋の記載と、同じ物だけのはずである。
 だから、西暦1260年型の大将棋の作者が、飛龍と角行の動きが
類似になった事に関して、何とかしようとしたとすれば、”飛龍・・
行四隅超越”と”角行行四角不伝多少”とが、別の意味になるように、
文字解釈する以外に、方法は無いと考えられる。その方法は限られて
おり、

角行は升目の数が少なくても斜めに動けるが、飛龍は、遠くへ行くケー
スしか許されないと、やや無理に解釈する以外に方法が無い

ように、私には思えた。そこで、西暦1260年型の大将棋の、2段
目の配列を見ると、飛龍のほかに、酔象と猛虎が有る。本ブログでは、
猛虎は、斜めの隣接升目にのみ行ける小駒、そして、

酔象(西暦1260年~1290年型)は、中国シャンチーの象/相
と全く同じ動き

と見ている。つまり、猛虎は走りで1升目限定の物、酔象は走りで、
塞象眼が有り、2升目限定のものである。従って、同一段に並んでい
る飛龍は、西暦1260年型の大将棋に関しては、

飛龍は走りで3升目以上に行ける升目が限定され、1~2升目は空い
ていないと動けないが、止まれない升目

と切り分ければ、格好が付くことが分かる。以上のように考える事に
して、角行と飛龍のルールのバッティングは、当初回避しようとする
しか無いように、私には思えた。ところがそうすると、西暦1260
年型大将棋の初期配列を、良く見てもらうとわかるのだが、

飛龍は初期位置が、仲人下の、余り動かされる可能性の無い歩兵で、
この大将棋では、動きが抑えられてしまっている事が判る

のである。なお、隣接升目で止まれないので、飛龍は、このルールで
は鉄将や飛車の位置に、移動して走りの筋を変える事も出来ない。
 そのため、西暦1260年~90年型の大将棋では、飛龍はほとん
ど動かされないまま、終局になってしまう大将棋ばかりが、指される
ようになったと考えられる。結果として、飛龍を使う将棋を指す棋士
が、ほとんど居なかったために、

しばらくすると、飛龍と角行の駒の動かし方ルールが近いという問題
自体が、忘れ去られてしまい、初期のデザイナーが決定したルール自
体も、忘れられて、うやむやのまま、大将棋の衰退期に入ってしまっ
たのではないか

と、私には予想されるのである。
 以上のように、飛龍・・行四隅超越の四隅超越を、悠々と斜めの
遠くへ行くと、平安時代語で正しく、遠くへだけ行く事を強調すると
して、1260年の大将棋のデザイナーは二中歴の文面を理解した。
そのため、それが返って仇となって、飛龍は動けなくなり、余り使わ
れなくなった。そのため飛龍のルールの問題は、いったん忘れられ、
曼殊院の将棋図が作成された、西暦1430年ころになって、再び
後期大将棋に於いて、ルールの問題が、蒸し返される事になったの
ではないかと、私は予想しているという訳である。(2018/07/09)

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日本将棋脚。中国式膳型で無く切り立つ山裾状は理由が仏教卓越か(長さん)

今回は、将棋の駒ではなくて、将棋盤の、しかも脚について議論する。
中国の長春市に設立されている中国・東北師範大学の、日本人の客員
研究官の菊地真氏が、3年ほど前の2015年に、日本の将棋の歴史
に関して、大学の研究論文集に論文を発表されており、PDFの形で、
web上にも、ありがたい事に公開されている。表題は、
「棋と仏教説話」で、その中の最初の方の一章に、今回論題の、
将棋盤の脚の形についての、詳細な記載が有る。本論文の主要な論旨
に相当するもので、ずばり、

日本の将棋盤は、仏教の須弥山がモデルである

と主張するものである。また、こう結論する論の大きな柱は、今回本
ブログの表題に書いたように、

中国の囲碁やシャンチーの盤が、日本の旅館で、食事を出すときの
お膳に似た、須弥山が全く連想されない形である事

を指摘している。以上の事から、日本の将棋の例えば駒名が、全て
仏教の経典から取られて、成立したものではないかと推定していると、
私はこの論文を読んだが、

そうだとして、この論旨は正しいのだろうか

というのが、今回の論題である。何れにしても、それを論じるために、

駒に使われている漢字が出てくる経典を、丹念に拾われている事は、
将棋史研究者にとっては、その労苦から考えて、とてもありがたい事

である。
 そこで、残念だが、最初に結論を述べると、
日本で仏教が飛びぬけて盛んなために、将棋盤の脚が須弥山型になっ
たというのが、論文の主要論だとしたら、この結論は

正しくない

と本ブログではみる。本ブログでは、

日本での将棋成立時代に、東アジアの中で日本が飛び抜けて仏教の
盛んな国であったために、将棋盤の形が、須弥山型になるほど、影響
が強かったのでは無くて、

中国の後周~北宋初期にかけての、中国シャンチー揺籃期に、華北の
開封・北京・洛陽等で、仏教勢力が、さほど強くなかったのが、須弥
山を連想させないお膳型の象棋盤等の原因と、

逆に見る

のである。
 つまり、日本で仏教が強かったからではなくて、後周~北宋初期の
中国の都付近で、仏教が逆に低調だったのが、余り仏教らしくない盤
に、中国の囲碁・象棋の盤が、なってしまった原因と見ると言うこと
である。
 では以下に、上記について補足する。
 まず、日本の将棋盤が、須弥山を少なくともその一部は、引っ掛け
た形になっているという点については、

賛成である。須弥山が影響していると私も思う。

なお、本ブログでは、摩訶大大将棋の初期配列も、須弥山を連想させ
るものだと、考えている。
 しかし、中国の史書には、五代十国の時代には、特に華北で儒教
が、仏教哲学を圧倒するようになり、国の経済政策上から、後周ない
し、北宋の初代皇帝高祖の時代にかけて、仏教寺院が整理統合される
等、どちらかと言えば、廃仏的な政策が行われたと、記載されている。
従って、

日本がずば抜けて、平安時代後~末期に仏教が強いと言うよりも、
中国がずば抜けて、後周~北宋初期に、儒教等に仏教が圧倒された

と、考える事が出来るのではないのか。つまり、

普通に仏教が強ければ、その影響で、ゲーム盤も須弥山型になるはず
なのに、太陽のマウンダーミニマムのような、仏教の停滞が、華北で
は、たまたまシャンチーが成立した頃に、起こっていたために、

中国の囲碁将棋盤は、旅館の食事のお膳のような、須弥山を連想しな
い形になり、日本の囲碁将棋盤との間に、差が付いたのではないかと、
考えても、少なくともそのような論を、簡単には否定できない事は、
確かなのではないかと、私は考えるのである。
 なお、後周の廃仏した国王柴栄も、最後にはその事を後悔したと、
仏教文化辞典(1989年、佼成出版社、菅沼晃・田丸徳善著)等の
成書には書いてある。だから中国仏教も、五代十国時代には、呉越国
等で迫害をシノイでいたが、北宋の時代には、じょじょに華北にも、
禅宗の各宗派の形で、再浸透していったのだろう。
 ただし、中国シャンチーが成立しつつあったのは、たまたま谷間
だったので、シャンチー盤が、唐王朝期の中国囲碁盤から須弥山型に、
変化する事も無かったし、元がイスラム・シャトランジという

異教徒イスラム教国のゲームであっても、シャンチーの母体になった

のではないのか。それに対し日本では、摂関期から江戸時代まで、
廃仏運動は、平清盛や織田信長等のように、僧兵という武装集団を
抱えた寺院等に対して、武力攻撃や焼き討ちを加える者は居ても、
思想として、迫害する為政者が出現する事は一度もなかった。つまり、
明治初期の廃仏に並び立つ、仏教の受難の時代は、中国や李氏朝鮮に
は有っても、日本には無かったのだ。
 そのため、

貴族仏教の国であった、中国雲南の将棋が受け入れられ、別のゲーム
に、ナショナル将棋が置き換える事も、少なくとも日本では、誰もし
なかった

のではないか。なお、菊地真氏は、今回話題にした論文の中で、
”日本の将棋は、将棋具の発生と同時に出来たという説が、全ての
将棋史研究者の間で認められている”と述べている。彼は、仏教機具
として、将棋具が使用された後に、日本の将棋ルールが発生したと考
えているからで、その点が彼の独自な考えである。つまり、

菊地真氏説は、将棋具先・将棋ルール後派である。

彼によると、

日本の将棋史の主流は、将棋具将棋ルール同時派という認識である。

ちなみに本ブログは、少なくとも将棋の駒に関しては基本的に、

本ブログ説は、将棋具後・将棋ルール先派である。

本ブログへの言及は無いが、その他の点に付き認識自体は、菊地真氏
の主張する通りであろう。
 なお、本ブログでは、五角形の木製駒を使用する以前に、黄金の
立体駒で日本の将棋は、ほぼ同じ系統のルールで、大理国で指されて
いたとみる。ので、ゲームルールの方が、先にあると見ているので
ある。ルールのうち細則に例外が一つだけあり、具体的には

本ブログ流の解釈での、”玉の自殺手に対する相対的な”裸玉の勝ち
ルールだけ、将棋具と将棋ルールとで同時発生と見ている。

これは、歩兵が、歩兵の成りの金将と、五角形駒として合体したとき
に、原始平安小将棋(取り捨て型)が”玉・成り金取り合い局面”で、
大宰府の将棋場が、盛り上がるようにするための、ルール改善と、本
ブログが独自に見ているためである。このルールだけは、いかにも、
後からできた細則臭く、しかも五角形の、金将ルールの”金・(点)”
等に成る、歩兵将棋駒の出現と関連している為、
平安小将棋のメインルール部分よりは、ずっと後に、逆に言うと、

平安小将棋のメインルール部分は、五角形木製将棋駒の発生よりは
ずっと先に

出来た事を、示唆しているように、私には見えると言う事である。
 以上のように、五代十国時代の後周の王の、仏教を低調化させる
政策というのは、史実と実在する。ので、

中国シャンチーには、東アジアのゲームにしては、仏教の影響が
少ない等、逆に考える事が、充分可能ではないのかと言う、疑念を
払拭しない限り、”日本の将棋が飛びぬけて仏教寄りである”とい
う菊池真氏の論へは、現状は手離しでは賛成できない

ように、私には思えるのである。(2018/07/08)

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チャトランガが将棋族なら、4人制サイコロ平安小将棋は上出来か(長さん)

少し前に、インドの原始的な二人制チャトランガは、副官が近王型な
ため、日本将棋と同じく、将棋族に分類すべきとの旨を、本ブログで
述べた。ところで、インドの原始チャトランガは、原始平安小将棋が
日本に伝来する少し前の、10世紀の頃までに、4人制が出来、それ
はサイコロゲームであったと、現時点では学会から、定説として知ら
れるようになっている。とすれば、日本への伝来小将棋である、8升
目32枚制の原始平安小将棋(取り捨て)を、4人制として、サイコ
ロゲームにしたならば、象棋系の東南アジアのゲームや、チェスの4
人制・サイコロゲームよりは、面白くならなければ、分類として難が
ある、と言う事に、当然なるのではないかと考えた。
 そこで今回、8升目32枚制の原始平安小将棋(取り捨て、象駒は
銀将)を、4人制チャトランガのような、配列で並べ、簡易的に、サ
イコロの出目に対応して、2目香車、3目桂馬、4・6目銀将、1・
5目玉将か歩兵のルールで、ゲーム性を調べてみた。
 ようするに、今回調べたサイコロ4人制将棋ゲームの初期配列は、
次の形になると、言う事である。

香口歩口玉銀桂香
桂口歩口口口口口
銀口歩口歩歩歩歩
玉口歩口口口口口
口口口口口歩口玉
歩歩歩歩口歩口銀
口口口口口歩口桂
香桂銀玉口歩口香

 配列で、縦に駒が並んでいるプレーヤーの各駒は、四人制チャトラ
ンガ同様、駒が相手に向かい、下の写真のように、横を向いている。

サイコロ平安将棋.gif

ただし、チャトランガと異なり、反対側陣の3段目に入ると、日本の
平安小将棋同様、皆金将に成るルールとした。サイコロは、今回は1
個だけ使う、簡易型とし、反時計回りのプレーヤーが順番に振り、

1の目が出たとき、歩兵か玉将か、と金が動かせる。
2の目が出たとき、香車か成香が動かせる。
3の目が出たとき、桂馬か成桂が動かせる。
4の目が出たとき、銀将か成銀が動かせる。
5の目が出たとき、歩兵か玉将か、と金が動かせる。
6の目が出たとき、銀将か成銀が動かせる。

とした。また、チャトランガと異なり、玉が詰まれるにせよ、ただ取
るにせよ、他のプレーヤーの駒に取られたら、取ったプレーヤーが、
七国将棋のように、玉以外の駒を全部引き継ぎ、そのとき、ドン詰ま
りになる、桂馬、香車、歩兵は、所属が変わったときにも成るとした。
 なおともかく、3人のプレーヤーが玉を失い、盤上に特定のプレー
ヤーの玉だけになったら、残ったプレーヤーを覇者とした。
 以上のルールで、ゲームをチェックした所、後半に

成り金将が多数生じるために、勝負は意外に早くつき、オリジナルの
四人制チャトランガよりも、更に面白い

と、いう結果になった。四人制チャトランガが流行ったのは、5番目
の王と呼ばれる、各対面プレーヤーの玉隣で、象側ではない升目に達
した兵が、副官駒(近王の動きのルール)に成るために、勝負が意外
に早くつくという効果が、ある程度有ったためであろう。だから、三
段目で金将に成る、日本の将棋の4人制・サイコロゲームが面白いの
も、実際に、局面の推移を見る限り、同様の理由で、更に極端なため
のようであった。
 ちなみに、今回紹介した4人制サイコロ原始平安小将棋は、電気通
信大学の伊藤毅志研究室で作成した、2人制サイコロ5五将棋よりも、
明らかに面白いゲームである。理由は、2人制から4人制にしたため
である。すなわち、敵駒が多くなり、勝負が早くつくようになったた
めとみられる。たぶんサイコロ5五将棋も、うまく配列を調整して、
4人制にしないと、四人制チャトランガ並には、面白くはならないだ
ろうと私は思う。
 また、サイコロの目と、合法着手との関係については、

6の目が出たとき、銀将か成銀が動かせる。
は、
6の目が出たとき、歩兵か玉将か、と金が動かせる。

に変更した方が、更に良いかもしれない。各プレーヤーの銀将が、比
較的早く消耗しすぎであり、4と6の目が出たときの空振りが、多く
なりすぎ、また、玉将の只取りのケースは、もう少し少ないほうが、
4人制サイコロ原始平安将棋については、更に面白そうだからだ。
 何れにしても、4人制にしたとき平安小将棋はつまらなくはならな
いので、インドの原始将棋と、日本の将棋類とが、別の系統になると
いう兆候が、今の所見出せ無い事だけは確かである。(2018/07/07)

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タイのマークルック棋士。駒落としで、棋力の違う者と指さない訳(長さん)

岡野伸氏の世界の主な将棋、自費出版(1999)にも書いてある
のだが、タイのマークルック(マックルック)の棋士は、対局相手
を予め選択し、棋力がほぼ同じ者同士でしか、指さない習慣がある
との事である。世界の主な将棋には「駒落ちマークルックそのもの
が、無い」と書いてある。なお、言うまでも無く日本将棋には、
駒落ち戦があり、

後鳥羽上皇の御前で、平安小将棋も、歩兵落としと、桂馬落としで
指される場合がある事が、大日本史料の記録から分かっている。

言うまでも無く、平安小将棋は、日本将棋よりも、更にマークルッ
クに近いので、理由を考えてみる必要が、あるとみられる。そこで、
今回は、このマークルックに、駒落ちゲームが無い理由を、論題に
する。
 回答を書くと、駒落としをすると、

上手にハンデが付くと同時に、兵が斜め駒取りルールなため、局面
が激しくなる等で、平手のゲームと感じが違うのが、嫌われたから

だと、私は考える。以下に、もう少し詳しく説明する。
 まず、鎌倉時代初めの、隠岐に流された後鳥羽上皇御前の平安小
将棋に習い、兵と馬落としマークルックについて考えてみる。
兵を落とすと、平安小将棋の場合は、下手の歩兵が特定筋に残存す
るその筋の上手陣が、簡単に破られるという変化が生じる。だから、
特に、桂馬が合い当たりする、旦代の難点のある、標準平安小将棋
の下手は、圧倒的に有利になる。
 他方マークルックの場合は、歩兵が斜め取りのため、討ち死にの
確率が増加し、豊臣秀吉将棋化する感じになる。従って、上手はハ
ンデが付き、本来不利には違いないのだが、その兵落としマークルッ
クは、駒の消耗が早く、平手マークルックとは、流れの感じが変わっ
てしまう。
 次に、八方桂馬を上手が落としたマークルックや、根駒を片方落
としたマークルックでは、落とした側の上手の船駒の筋変えが、し
易くなる。その結果、

駒を落とした上手が、急戦に持ち込むと、八方桂馬や根が、一枚無
い割には、不利にならない。この場合も、急戦調になり、平手の
マークルックとは、ゲームの流れが、変わると見られる。

 以上のように、平安小将棋の場合と異なり、マークルックでは、
マークルックらしいゲームを、ハンデをつけるために上手が駒落と
しすると、余り都合が良くないのではないかと、私には疑われる。
 むろん、棋力に大差があり、船一枚落としのハンデで、ちょうど
良い相手の場合には、マークルックでも、駒落としゲームは、可能
なのかもしれないと、私は思う。標準平安小将棋で、上手攻め方右
桂馬落としと、マークルックで、右船落としは、同じくらいのハン
デなのであろう。しかし、これはマークルックを教育するための、
本当の対ビギナー用のゲームであって、

練習しても、余り旨くならない中間の棋力の相手と指す、ゲーム
では無い

のかもしれない。少なくとも、兵一枚落としのハンデにあたるゲー
ムで、面白くならなかったので、マークルックでは、駒落としが余
り行われず、駒落としゲーム時代が、廃れてしまったのではないか
と私は思う。従って、この事から、駒落としゲームの無い、象棋系
ゲームを見かけたときには、国民性を疑う前に、ゲームの内容に、
事情が無いかどうか、最初に、チェックした方が良さそうだとみら
れる。(2018/07/06)

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岡野伸氏紹介。韓国に大中小三種類の将棋が有ったと書かれた辞書(長さん)

岡野伸氏が1999年に自費出版された、「世界の主な将棋(旧版)」
の「チャンギ(朝鮮)」の歴史と現状についての部分で、2.広象戯
(朝鮮)の項目部分に、次のように書かれた”くだり”が有る。

”辞書で、朝鮮には大、中、小の3種類の将棋があったという話を
聞いたこともありますが、詳しいことは分かりません。”

 御恥ずかしながら、私は最近になって、ようやくその辞書らしい
ものを発見した。
 大阪外語大の塚本勲(当時)氏が編集した、「朝鮮語大辞典」
角川書店(1986年)の”将棋、将棊”の項目である。
韓国の辞書ではなくて、

日本人が作成した、韓日辞典に書かれていた

のであった。
 問題の箇所の記載は、次のようになっている。

”大将棋、中将棋、小将棋などの種類があり、現在一般的なのは
小将棋である。”

 言うまでも無いが、現実に今に残る記録として、

チャンギに、大チャンギや中チャンギなどは、無い。

小チャンギも無いし、現行チャンギはチャンギである。つまり、
この辞書には、文が、現在形で書いてあるから、これは明らかに、

日本の将棋とチャンギ(朝鮮)とを、混同しているのである。

この韓国語の辞書の日本の編集者は、韓国の文化の研究には深かっ
たが、恐らく日本の将棋の歴史には、余り関心が無かったのであろ
う。ハングル語のチェス・象棋・将棋ゲーム史の元本を、読み間違
えたようだ。
 他方、この辞書の説明のおおもとになった、韓国の遊戯史本の著
者の方は、日本の将棋の研究には、おおいに熱心であったに違いな
い。つまり韓国の遊戯史本には、”世界の主な将棋”と内容が類似
の、韓国人遊戯史研究家の著作のようなものが存在し、そこで

日本の大将棋、日本の中将棋、日本の平安小将棋のハングル訳を、
それぞれ作成してくれていた事が、これで判る。

 つまり、

中将棋、大将棋等は、韓国のキャンギ・ゲームではなくて、日本の
将棋・ゲームの事とこの辞書の、この部分の”時制”が、現在形で
ある以上、少なくとも今の所、そう取るべき

だと私は考える。
 なお、日本人編集の韓日辞典の”将棋”には、もっとすごいのが
ある。例文として、”飛車角落としの将棋”という用語のハングル
文字訳が、載っているものまであるのだ。つまり、ハングル文字で
書かれていても、朝鮮チャンギに関する事柄ではない事が、韓日辞
典の場合は、ままあるようである。これも、例文の原文は、韓国語
の”日本の将棋”という内容の書籍に、載っていたはずだ。韓国に
も日本将棋の棋書は、稀では無い事が判る。
 何れにしても、情報の出所がようやく分かり、これで、この件に
ついては、少なくとも何者かが分かり、すっきりしたような気がし
た。なお、岡野伸氏は”世界の主な将棋”についても、その後改訂
版を出しているので、新版ではこの記載は、本人もその後正体に気
がついて、削除している可能性が有る。(2018/07/05)

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将棋纂図部類抄”摩訶大大将棋口伝”。本当に”言い伝え”なのか(長さん)

水無瀬兼成の安土桃山時代の著作、将棋纂図部類抄には摩訶大大将棋
の初期配列図の後に、摩訶大大将棋の特殊駒の動かし方ルールや、提
婆、無明の特殊な、”なり代わりルール”の補足説明等を内容とする、
表題の”摩訶大大将棋口伝”と副題が付けられた、箇条書きの記載が
存在する。
 今回は、この摩訶大大将棋口伝とは、(Ⅰ)何者で、(Ⅱ)誰から
水無瀬兼成は、”口頭で”聞いた内容なのか、(Ⅲ)水無瀬兼成に、
それを伝えた者には、どのようなシステムで、伝承されているものな
のかを論題とする。
 最初にいつものように、回答を書いてしまおう。
 (Ⅰ)摩訶大大将棋口伝は、曼殊院に、曼殊院の将棋図とは関連す
るものの、それとは別の文書として、安土桃山時代には存在した文書
とみる。それは希少性ないしは、当時から、劣化による散乱が心配さ
れた状態の文書であった。そのため、水無瀬兼成が所望しても、
曼殊院から、水無瀬兼成へは、直接貸し出しされなかった、
摩訶大大将棋のルールの、細則等が記された、文書の内容である。
 (Ⅱ)摩訶大大将棋口伝をまとめようとしていた、水無瀬兼成へ内
容を伝えた者は、本ブログの見解では、ずばり行然和尚と断定する。
 (Ⅲ)行然和尚自体は、曼殊院に保管されていた、摩訶大大細則の
文書を、いったん記憶した後、水無瀬兼成に伝えただけで、行然和尚
の家や、曼殊院の僧侶が、代々それを次代の担当者へ、口頭で伝承し
ていたという性質のものでは、特に無い。
 以上である。従って、口伝えは、行然-水無瀬兼成間の一回だけで
あり、

”口伝”と表現するのは、本来適切では無い内容

と、本ブログでは断定する。”摩訶大大将棋細則解説部”の貸し出し
希望者が、将棋纂図部類抄を見てほかに発生し、曼殊院が将来、迷惑
しないようにするための、水無瀬兼成の配慮と見られる。
 そこで以下、以上の結論に至る経過を、説明する。
 口伝で無い事は、内容以前に、そのカテゴリーと、記す項目名自体
が、

”行然和尚により、借りて写した”と、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
に記された、泰将棋の初期配列図の直ぐ後の、文面と余りにも一致

する事から、推定できるのである。つまり”摩訶大大将棋の踊り駒が、
範囲ではなくて、一定升数の跳び越え、途中の相手駒取り型である”
事を説明するのに、夜叉と羅刹等、他に例が幾らでも、ありそうなも
のなのに、口伝と、行然まとめで一致して、特定の駒種、金剛と力士
を例にとり、説明している等、”行然和尚により、借りて写した”一
文とは、無関係な

口伝にしては、”元文書が無い”と言うのは本当なのかと疑われる位、
項目名の具体的パターンと、説明の言い回しに、共通性がありすぎる

という疑念が挙げられるのである。この事は、水無瀬兼成が曼殊院の
将棋図を、曼殊院から借りて写したときに、関連して存在した、
摩訶大大将棋細則の古文書については、行然和尚より
痛みが酷い文書に書かれていた内容なので、持ち出しは断られたが、
内容を、行然和尚経由で、寺で元文書を示されながら聞けたので、
水無瀬兼成には、自身の将棋纂図部類抄の摩訶大大将棋口伝の章が、
作成できたと考えれば、謎はすんなり解ける。つまり、泰将棋道具一
式等が、大坂城の殿様、豊臣秀次等へ献上されるという話が後に発生
したため、水無瀬兼成から、その献上話を聞かされて

驚いた行然和尚が、水無瀬に伝えたのと同じ内容を、自分で文書化
した上で、水無瀬兼成に、”殿様には、又聞きでは失礼なので、こち
らを、さし上げてくだされ。”と言って後に渡したのが、”行然和尚
より借りて写した”と注釈された、泰将棋の直ぐ後の一章の正体

だと言う事なのではあるまいか。
 従って、摩訶大大将棋に、水無瀬兼成/将棋纂図部類抄の摩訶大大
将棋口伝があるからと言って、どこかの家とか寺院で、摩訶大大将棋
が継続して、安土桃山時代の末期まで、指されていたと仮定する事は、
摩訶大大将棋口伝と、将棋纂図部類抄の行然まとめ部の、不可解な類
似性を、上記とは別に合理的に説明する、有力な説が出てこない限り

簡単には信じられない珍説

にすぎないと、私は少なくとも個人的には疑うのである。(2018/07/04)

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朝鮮半島で指されるチャンギは、なぜ将棋と書くようになったのか(長さん)

本ブログでは、ゲームの歴史を解明しやすいように、チェス・象棋・
将棋系ゲームは、クイーン駒が有るものを、チェス類、イスラム・
シャトランジ型の、猫叉副官のあるゲームと、それがゲーム性という
点で、砲駒を含んで高度化した類を象棋類、近王型の将駒の多いゲー
ムを、将棋類と表現している。従って、西洋チェスや、それをルー
ルに取り入れ、たとえば龍王動き型の副官の有る、モンゴルのナショ
ナルゲームはチェス類、中国シャンチー、朝鮮チャンギ、東南アジア
の、通常チェス系とされる、盤升目型のゲームは象棋類、日本将棋や、
恐らく宝応将棋は将棋の類と、独自に切り分けて表現している。なお
インドの原始的な二人制チャトランガは、将棋類に最も近いと、ここ
では考えている。また、タイのマークルック(マックルック)は象棋
だが、ゲームが進むと”猫叉駒”が出来やすい、黄金・金将ゲームの、
痕跡が、色濃く残った将棋関連ゲームと、ここでは見ている。
 ここで本ブログの全く独自な、イスラムシャトランジを象棋と見る
見方は、中国で、象棋と天文学が唐代に混合したのは、オリジナルが
イスラム・アッパース朝に起源があり、中国は単なる輸入先と、独自
に見ているからである。”象棋の駒の動きが、日月星辰に則る”と、
日本式には象棋の”象の心”が訳される、”中国の中華象棋思想”は、
確かに中国の方が後には盛んだった。が、イスラム・シャトランジが、
イスラム・アッパース朝等で、盛んに指されるようになる、少し前の
8世紀の後半に、プトレマイオス著のアルマゲストが、国王の陣頭指
揮で、アラビア語に翻訳されたのが、思想発生の発端だったというの
が、本ブログ独自の見方だ。従って、イスラム・シャトランジも象棋
類と、ここでは分類するのである。西洋チェスのナイトが、八方桂馬
動きなのは、”日月星辰の動きに則っ”て、イスラム・アッパース朝
の、ゲームデザイナーや棋士が、そのようなルールに、桂馬から変え
たためと、ここでは独自にみる。つまり本当はどちらかと言えば西洋、
オリエント地方起源の、象棋の駒=星辰の動き思想はそのため、地理
的に近い西洋チェスにも、その影響が今でも残っているのだが、H・
J・R・マレー等を除いて、余りに昔の話のため、最近では気が付く
者も少なくなったと、本ブログでは、独自に見ているという訳である。
 しかし何れにしても各国の将棋は、それぞれの国の中で、固有の事
情で、ゲームの名称や、ゲーム名称の文字での表現が、なされている。
本ブログの分類で、鋭く矛盾してしまうのが、表題の、朝鮮半島で指
される、

チャンギの漢字が、将棋である点

であろう。にもかかわらずここでは、朝鮮将棋は、将棋類ではなくて、
象棋類に分類し直している。すなわち、本ブログでの分類は、
朝鮮チャンギには、将という名称の駒が露には無く、士はイスラムシャ
トランジの副官または、大臣駒と、ルールが同じであり、それに包を
入れて、ゲーム性を高度化した、中国シャンチーの類とみるからであ
る。
 何れにしても今回は、そこでゲームのチャンギが、

チャンギと発音しその漢字が”将棋”である

点を論題にしよう。ただし今回に限り、以下には調査の結果の答えで
はなくて、調べる前の、本ブログの予想を書くことにする。
たぶん、チャンギを解説したハングル語のサイトに、理由が書いてあ
るはずだと思う。だが、とにかく何も見ないで、答えの予想だけ先に
すると、

象戯よりも、将棋の方が、つまり象より将の方が、漢字としては高級
感があると、李氏朝鮮時代、日本で言う安土桃山時代の頃に、考えら
れたので、象戯等から変更し、将棋に固定されたと予想

する。後でゲーム史のハングルサイト等を探して、答え合わせをして
みようと思う。
 こう、当て推量できるのは、ようするに

日本将棋が、日本象戯という字にならなかったのは、上の理由だから

である。象より将の方が日本語で言う、”ショウ”の音のあて字とし
て、高級感があったので、我々の国の将棋は、象戯では無くなったと
見られる。将駒の数が、隣国の類似ゲームに比べて、多かったので、
我々の国のゲームについては、偶然適切な選択であったようだ。その
ため明治時代以降には、それも引っ掛けられて、この字が、更に普及
したのであろう。そして、恐らくだが、朝鮮半島での”チャンギ”も、
象より将の方に、イメージとしての高級感があると見るのは、極東な
ら、日本でも朝鮮半島内でも、多分同じ感覚だったと予想する。
 そこで先ずは、”高級感”が原因と、表現してみた。手の空いたと
きに、チャンギの漢字である、将棋の字への確定の由緒について、実
際に詳しく、調べてみたいと思っている。(2018/07/03)

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普通唱導集の将棋と大将棋の字。なぜ”将基”なのか(長さん)

実は、表題の件は私が、元著書にあたった訳ではない。又聞きした
情報である。情報元の文献は、本ブログでも何度も出てきた、
大阪商業大学アミューズメント産業研究所が2014年に発行した、
松岡信行氏著書の「解明:将棋伝来の『謎』」である。
通常、将棋を将基と書くと、誤字である。が、普通唱導集の小将棋
と、恐らく大将棋では、将基になっているらしい。同著書によると、
鎌倉時代の新猿楽記の写本である、「康永本(1344年)」と
言うのと、時代は全く違うが、同じく新猿楽記の室町時代の写本で
ある「古鈔本」、江戸時代(1697年)の将棋本である、
「合類古今将基図彙」の他計3点以外、”基”の字を使うタイプの、

誤字の例は他には無い

と言う。初耳だったが、興味深い話だと思ったので、今回は、その
誤字使用の理由を論題にしたい。
 結論から書くと、

新猿楽記の、諸芸リストの元になった百科辞典本が、普通唱導集の
時代には存在しており、その項目名の将棋が、恐らく将基になって
いたのだろう

と見られる。なお、web上の溝口和彦氏の、普通唱導集の小将棋、
大将棋の紹介書きでも、普通唱導集では、各々の将棋が将棊等では
なくて、将基になっている。
 では、根拠等につき、以下少し補足する。
 普通唱導集は、元々は仏教の普及の為の、唱導の教科書である。
が、諸芸の本質に言及して、この著書自体への購読数の増加効果を、
計ったものであろう。中身が読まれなければ、物体として、書物が
存在するだけであり、著作する事自体に、余り意味が無くなるのに、
普通唱導集の著者は、最初から気がついていたのである。
 そこで、百科辞典の各項目に従って、仏教の唱導と同じような調
子で、その内容を紹介するような、唱導唄を作って見せたと考えら
れる。よってその題目のリストは、別に有った筈である。すなわち
諸芸に関する、何らかの百科辞典が、西暦1300年には存在して、
それは、新猿楽記の”第N番目の君の諸芸”でも使われたリストで
あったのであろう。そのため、その鎌倉時代の諸芸百科辞典本の字
を参照した、

新猿楽記の康永本(1344年)と古鈔本の将棋と、普通唱導集の
将棋の字は、将基になっていて同じ

なのでは、恐らくあるまいか。
むろん、新猿楽記は、平安時代の著作であるから、その諸芸百科辞
典本も、元本は平安時代の物だろう。平安時代には、将棋は将碁や
将棊だったろうから、諸芸百科辞典も、

鎌倉時代に書写された普及本だけが、将基なのであろう

と考えられる。
 そこで更にその理由となると、それについては謎であり、

たまたまなのかもしれないが、浄土系仏教が普及する等して、
鎌倉仏教は、それまでよりも更に盛んになり、仏塔を1基2基と
数えるのにツラレて、兵も1騎、2騎ではなくて、生きているの
に1基、2基と、特に坊さんの間では、死んだ人間のために作る、
仏塔の類と同じように、兵隊の数が数えられるように、その時代、
少なくとも裏社会ではなってしまっていた

のかもしれない。「兵隊さんはしばしば戦死するので、坊さんの、
お得意さん」と言う、ブラックであろうか。
 そもそも普通唱導集の著作者は、僧侶に間違いないから、碁や
棋や棊の字を使うよりも、仏塔や墓を数えるときの漢字である
”基”の方が、馴染みが良いのだろう。字の使い方に、間違いない
と彼らが見れば、将棋も、迷わず将基に、してしまったのかもしれ
ないとも、考えられる。
 何れにしても、普通唱導集の小将棋と大将棋のコンテンツの
バイト数は小さいから、話の種が、直ぐに尽きるのかと思えば、
そうとも限らないようだ。松岡信行氏からは、また、良い話を聞
かせて頂いたと、私は深く感謝している。(2018/07/02)

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