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滋賀県大津市坂本城遺跡2018年出土桂馬駒の成り(長さん)

滋賀県大津市の坂本城遺跡より2018年に出土した、桂馬駒に
関する続報が、web上に掲載された。

成りが、同じ滋賀県の、観音寺城下町遺跡の桂馬の出土駒の形に
類似の、楷書の一文字”金”であった

ようだ。その結果、坂本城遺跡から、左に最後の下段横棒が垂れ
下がる形の字が特徴の、成り金歩兵や、そもそも動かぬ証拠の、
飛車、角行が出土していないため、未だ不確定性は大きいが、

西暦1500年前後に、坂本城でも、西暦1550年少し後の、
一乗谷朝倉氏遺跡や、観音寺城下町遺跡同様、日本将棋や、朝倉
小将棋が指されている疑いが強くなった

と考えられるようである。
 ちなみに、具体的にサイトは、まず大津市のホームページを開
け、そこにはサイト内検索のカラムがあるので、”坂本城”とい
うキーワードを入力すると、今の所は、トップのPDFで、
gensetsu_sakamotojoというファイル名の、
現地説明会資料のPDFリンクの文字列が現われる。そして、そ
こをクリックして、pdfをダウンロードすると、その文書は、
パンフレットである事が判り、その中に裏面を含む、成り一文字
金桂馬駒の画像が載っている。
 裏面は、表面の桂馬の文字同様、ややカスれていて、金の字の
縦棒が良く判らない。しかしながら、全体的に現代の桂馬の成り
の崩し金の字のように、

ツブれて居無い

し、最下段棒に突き刺さる、Vの形の、金の習字の第6~7画目
も、きちんとVの字に見えていて、崩れた○に変形しているよう
には、私には見えない。草書であるという説を100%否定でき
るとまでは言えないが、

普通の楷書の一文字金である可能性が高い

ように私は見る。この駒は、一乗谷朝倉氏遺跡や、観音寺城下町
遺跡のように、駒の大きさと、歩兵の成りの書体の一文字金が、
最後の画が右下がりである事を使って、表の駒を、裏の金の書体
等から推定する、日本将棋等用の駒なのであろうと、私は考える。
 従来西暦1500年前後の将棋駒は、駒字のはっきり判る出土
の例が、不運にも少なかったため、この坂本城駒が出土するまで
は、石名田木舟F3・B2型が出るか、観音寺城下町型が出土す
るのか微妙だったように思える。結果は桂馬や、既に出土してい
る成り不明の香車の、全体的な形態から、

日本将棋が1500年頃には既に、有ったことはあった

との説が、強まるように作用する、将棋駒の出土だったという事
になろう。つまり滋賀県大津市坂本遺跡の遺物の発掘は、ちょう
ど、持ち駒有り平安小将棋と、日本将棋の境目に位置すると見ら
れる、価値のある将棋駒の出土を伴っていたという事だと、私は
考えるのである。(2018/12/02)

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興福寺”酔像木簡”。”玉”の字が見あたら無いのは何故か(長さん)

今回は、前世紀末に発掘された、興福寺遺跡出土駒(1058年物)
と共出土の、いわゆる酔像木簡について、議論する。ただし、従来
のように、酔像の文字だけではなくて、歩兵や金将も含めて、問題
の酔像木簡の酔像面に書かれた、全ての墨跡を問題にする。
 結論を先に述べると、この酔像墨跡面は、

酔像と歩兵と金将の、3種類の字で埋め尽くされている。

そしてそれは、当時の興福寺在住の将棋駒書き師のうちで、ランク
が下の者の、習字と結論できる。しかもこの、新米字書き師は、
駒木地師作成の、まっさらの駒の

第1面の字を担当していた

と推定される。ただし、重要な点は、先輩の親方の字書き師に、多
分止められていたのだろうが、新米字書き師は、

玉将の駒の作成を、恐らく許されては居なかった

と推定される。
 では、以上の結論につき、以下に説明を加える。
 まず問題の木簡には、私が知る限りは、酔像、歩兵、金将以外の
字が無いように見える。

 ”の”の字に見える習字が2~3箇所あるが、私見だが、歩の字
の草書の下側を、理由は謎だが練習した

のだと、私は思う。だから、これは歩兵ないし、歩駒の習字では無
いか。すると、この木簡には、将棋駒の種類のうち、どういうわけ
か、歩兵、金将、酔像の字だけが、選択的に書いてある事になる。
そして、これら該木簡に存在する、3種類の字に共通なのは、

まっさらの駒木地に、最初に書く面の文字である

とみられるいう点だと考えられる。つまり、玉将は後で説明するの
で、予め除くとして、残りの興福寺1058年駒、金将、銀将、桂
馬、香車、歩兵、酔像については、それぞれ字書き、第1回目には、
金将は金将、銀将は金、桂馬は金、香車は金、歩兵は歩兵、酔像は
酔像、それに予備駒に、金将と書いたと考えられる。
 予備駒の数は比較的多く、よって、金将の木簡習字に、それを含
める必要があったのだろう。しかも字書きは何人かで分業しており、

興福寺の将棋駒の書き駒の親方は、必ず第2面を担当

したにちがいない。なぜかと言うと、

せっかく親方の書いた駒を、下っ端が第2面に、第1面と別の駒名
を入れたとき失敗すると、より価値の高い親方の習字が無駄になる

からである。つまり、新米の書いた第1面は、親方によったチェッ
クされ、粗悪品が将棋場に出回らないようにした後に、第2面を親
方が書いて、完成させたという事である。よって、出土した木簡は、
新米の将棋駒の書き師によるものであると、ほぼ確定できる。

だから、この木簡には、酔像と歩兵と金将しか無いと考えられる

のである。
 そこで問題になるのは、

1回の字書きの書き込みで、完成するはずの玉将駒が抜けている点

である。これについては、玉将は中心駒で大事だったからとか、
駒木地が少し大きく別格だったからとか、他の別に書く理由も考え
られなくはない。ただし、駒木地については、興福寺出土駒
(1058年物)は、ほぼ、どの駒もいっしょの大きさであり、
木地師の作成した駒のうち、たまたま少し大きくブレたものを、
玉将にしただけのような印象を、私は前から持っている。
 よって、本来なら、

新米の駒の字書き師が、玉将駒も書いて良かったはず

だ。しかし、木簡に”玉”の字が無い所を見ると、西暦1058年
の時点で既に、

玉将は、中央の横棒を、少し下げて書く等、親方の字書き師にしか
書けない、何らかの訳があった

のではないかと、私には思えてくる。
 本ブログの推定だと、玉駒が王将で無ければならないと、大江匡
房が設定したのは、西暦1080年と、問題の木簡作成、
西暦1058頃より、少し後だったはずである。
 しかし平安小将棋の大江式標準化の年号は、あくまで想定である
から、誤差があってもおかしくはない。また、共出土した年号木簡
が、習字木簡と22年位なら、ズレている事が、全く無いとまでは
言えないだろう。年号木簡が、たまたま、22年古いものだったと
言う事である。だから恐らく興福寺の将棋場では、

玉駒として玉将を使う事が、駒の字書き師親方格の責任で行われた

という重大な情報を、この習字木簡は、”酔像の字の存在”という
著名な事実とは別に、持っている疑いがあるのではないか。何せ、
1000年近く前の貴重な情報が、現物として出土しているので
ある。我々後世の者は、ユメユメその解読で、その貴重な情報を、
一つたりとも、見落としてはならないのではないかと、私は肝に
銘じて思うのである。(2018/12/01)

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