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文禄本幸若(舞)信太の朝倉小将棋。玉将周りの囲いを解く理由(長さん)

かなり前に述べたが、15世紀頃の、小将棋のある物に太子が有る事
を確定する重要な将棋史料に、表題の謡曲とみられる表題の、
文禄本幸若(舞)信太記載の”将棋”がある。
 小学館の日本国語大辞典の、幾つかの将棋駒の項に、使用例として
記載され、概訳を再掲すると以下の内容と見られる。

別の物にたとえて言うのならば、「天台しゆうの戦(いくさ)」に於
いて、まず歩兵が先陣を切って攻めかかると、ついで玉行と角行が、
相まみえる事になる。ついで金将、銀将、桂馬が攻めかかると、ほど
なくして太子も、それに加わる事になる。以上は戦いの兵法を、
将棋盤の上に作ったものであるけれども、ああ、これに勝る(シミュ
レーションモデルの)例が、はたして有る物なのであろうか。

なお、「天台しゆうの戦(いくさ)」が”天竺衆の戦”になったり、
玉行ではなくて、王行または横行との説もあるらしい。
 前に、この将棋が室町時代から戦国時代にかけての朝倉小将棋で
あり、表題のように、本来の守り駒を、次々に攻め駒として繰り出し
ているとの内容から見て、取り捨て型の朝倉小将棋であろうと、本ブ
ログの見解を述べた。
 では、勝負を付けるために、本能寺に居る織田信長のように、武装
勢力を次々に、敵陣に繰り出すのは良いが、

なぜ玉将も繰り出して、全軍が体当たりするような、勝負を決するた
めには自然で、普通の戦法を取らないのか

を、今回は論題にする。
 回答を書いて、その後で説明する。
 すなわち、この文禄本幸若(舞)信太の朝倉小将棋は、

盤面の相手陣方向を、天空つまり上部とみなし、釈迦が悟りを啓いて
往生するという局面を表現する、勝負を度外視する儀式的将棋だった

と見られる。
 では、以下に説明を加える。
 少なくとも本ブログでは、問題の将棋が発生した時点で、

平安小将棋に持ち駒ルールの類は、有った

と考える。にもかかわらず、文禄本幸若(舞)信太の朝倉小将棋では、

明らかに、取り捨てルールで小将棋を指している。

なお、本家の西暦1560年頃の、一乗谷朝倉氏遺跡で指された、
朝倉小将棋は、日本将棋の駒と共出土している所からみて、

持ち駒ルール有りの、朝倉小将棋だった可能性が高い。

 つまり、文禄本幸若(舞)信太の朝倉小将棋は、一乗谷朝倉氏遺跡
で指された朝倉小将棋よりも前のものであるが、その時代には既に、
平安小将棋には、持ち駒ルールが存在したと見られる。
 では朝倉小将棋も何故、最初から持ち駒ルールにしないのかが、
問題だろう。なぜなら、

朝倉小将棋の持ち駒有り型は、朝倉小将棋の持ち駒無し型より、ゲー
ム性は”まし”だからである。

 従って、この事から、

文禄本幸若(舞)信太の朝倉小将棋は、ゲームをして楽しむ事が目的
で開発されたのではなく、仏教教義の普及の為に作られた疑いが強い

と言う事であろうと、想像できる。ようするに、将棋の盤の自陣が手
前、相手陣が向こうと認識せずに、将棋の盤の自陣が下、相手陣が上
と見るのであろう。そうすると、走り駒、小駒、酔象の順序で駒を繰
り出すのは、走り駒までは、普通の取り捨て将棋と同じとして、

小駒、酔象を繰り出し、相手陣で酔象を太子に成らせるのは、仏教の
成仏を表しているのではないか

と、予想が付く。小駒、酔象、玉将を、全部じわじわと上げてゆくの
が、取り捨て型将棋で、走り駒を相討ちにした後の、一般的指し方で
あり、文禄本幸若(舞)信太の戦法は、

いっけん尤もらしいが、取り捨て将棋としては邪道

である。しかし、往生思想を大衆に理解させるために、元々朝倉小将
棋を僧侶が作ったとすれば、教える側が僧侶で、教わる側が檀家な
らば、この頃は、神仏習合の時代なので、龍神信仰も取り混ぜられ、

邪道な戦法を、儀式的に指すように教わるだろう

とは、今の所ぼんやりとはしているが、予想可能ではある。特にこの

儀式的将棋では、酔象が相手陣で太子に成って、成仏する事を表すの
が、クライマックス・シーン

だったのかもしれない。その唱導が、運よく謡曲に残ったのではない
か。
 そう考えると、平安小将棋よりもゲーム性で、ディフェンスが強す
ぎるために劣ると見られる朝倉小将棋が、なぜ室町時代末期から戦国
時代初期の、すさんだ、大衆宗教が隆盛を極めた時代に発生したのか
が、じょじょに明らかになってくるような気がする。すなわち、この
小学館の日本国語大辞典でしか、余り見かけない史料を読むと、現在
の日本将棋の発生の要因が、少しずつ見えてくるような気が、私には
するのである。(2018/12/12)

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日本最古の将棋の棋譜。本因坊算砂の終盤106手目の悪手の謎(長さん)

最近、日本将棋の江戸時代の棋譜にを見る機会があり、日本最古
の棋譜が、西暦1607年のもので、桂馬が7七の位置から、先
手▲6五桂馬と、63手目に大橋宗桂(初代)が指しているのが、

現行の桂馬のルールと、昔のルールに差が無い

ことの、一番古い証拠である事が判った。将棋六種之図式の桂馬
のルールの表記は、図式書の正確な成立年代は不明なものの、西
暦1607年よりは後である事が、間違いなく、よって将棋六種
之図式の桂馬の、動かし方ルールは、略式のために、鳳凰の跳ぶ
動きと同じに、たまたま表現されていると私には理解できた。

高見友幸氏の”中世以前の桂馬の駒の動かし方ルールが、今とは
異なる”との説には、弱いところがやはりありそうだ。

 更に、日本最古の棋譜を見た所、終盤、本因坊算砂が、受けで
悪手を106手目に打ち、初代大橋宗桂に負けている事も判った。
 今回は後者の方の、本因坊算砂が、106手目に指してしまっ
た悪手から、何が推定できるのかを論題とする。
 いつものように、結論から先に書いて、後で説明を加える。

本因坊算砂が日本将棋を習いたての、西暦1960年代後半、
持駒ルールの細則の、二歩の禁手と、打ち歩詰めの禁手が、その
時点でまだ、ローカルルールに過ぎなかったと推定

できる。
 では、以上について以下に説明を加える。
 この日本で最初の日本将棋の棋譜は、例えば次の成書で詳しい
内容と、解説がある。

日本将棋大系1 初代大橋宗桂・二代大橋宗古 勝浦修著
筑摩書房(1979)

それによるとこの棋譜は、133手で大橋宗桂が、本因坊算砂を
下した、西暦1607年の将棋に関するもので、恐らく関西方面
で指されたが、日は不詳と言う。
 終盤、競り合って寄せ合いになり、比較的堅い陣を守っていた、
後手の本因坊算砂に、先手の大橋宗桂が攻めで打った、105手
目の▲6四香車の王手に対して、

合駒の歩兵を、(2)6三の位置に打つべき所を(1)6二の位
置に、打って負けてしまった

と、将棋棋士で名高い、勝浦修氏の解説がある。誠に判りやすい
解説で、さすがだと感心させられる。

最古棋譜.gif

 日本将棋の現行のルールからすると、通常は、この手は単なる
ミスなのであろう。
 が、仮に正しく△6三歩兵打ちと、持ち駒歩兵を打ったとして、
この将棋に、二歩の禁手が仮に無かったら、日本将棋の結果とは、
違ってくるのではないか。即ち107手目▲6二歩に対し、以下
△7一玉と逃げれば▲8二銀△同金▲同金で、詰みだから、たぶ
ん107手目▲6二歩(2歩)には後手は△同金と、金を動かす
しかないだろう。すると、▲同桂△同角▲6三香不成になるから
9七の地点に、先手の馬が利いて、詰めろになっていた原因のは
ずの、後手の飛車打ちが出来なくなる。だから、二歩が禁手であ
る普通の場合と、そうで無い場合とは、後者の方が、先手にとっ
て有利になるように、状況が大きく変わってくるに違いない。
 ひょっとしたら、本因坊算砂が日本将棋を習った、彼が7歳
の西暦1566年に、二歩の禁手はローカルルールだったとして、
彼が二歩の禁手の将棋を指したのは、西暦1570年代になって
からだったとしたら、

本因坊算砂には、二歩指しに対応する癖が、幾分か残っていた

という事は、ひょっとして無いのだろうか。
 そのため、問題の局面では、後手が106手目に指すはずだっ
た、△6三歩をうっかり止めて、子供の頃のルールと錯覚して、
△6二歩と、香車の合い駒の歩兵を、自玉の直ぐ前に打ってしまっ
たのではないだろうか。

そうだとすれば、この将棋には、持ち駒ルールの変遷の歴史が
刻まれて居る事になり、たいへん貴重だ。

 なお、解説した勝浦氏は、そもそもその前の先手の▲6四香車
自体も、△6三歩を見落として打った手の可能性があると、指摘
している。ちなみに、初代大橋宗桂の方が、本因坊算砂より、更
に少し年上だ。
 という訳で、仮に持ち駒ルールが発生したのが、西暦1300
年頃と古かったとしても、禁手という細則に関して、一本化に
長い年月がかかり、そのため持ち駒ルール自体が、余り記録に
残されなかったとしたら、実際と比較的、残存している史料の
傾向が、合っていないだろうか。そもそも、普通唱導集の小将棋
の第2節の記載も、

平安小将棋の持ち駒ルールバージョンにしては、銀・桂交換で、
銀を失った側が、酷く落胆しているという、不自然さがある点

を、前に本ブログでは指摘した事があった。
 つまり持ち駒ルールは、

発生したのが西暦1300年より少し前でも、細則がほぼ一本化
されたのは、西暦1570年前後という事は、ひょっとして無い
のだろうか。

 たとえば、一乗谷朝倉氏遺跡では、西暦1560年代に、二歩
が、まだ出来る、持ち駒ルールで指されていたのかもしれないと
言う意味だ。
 そのような可能性に関する情報が、西暦1607年前後の、
江戸時代の日本将棋の棋譜に、かすかに残っている。その可能性
が、全く無いとも言えないような気が、この悪手に関して、私は
するとの印象を受けた。(2018/12/11)

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鎌倉市今小路西鎌倉福祉センター出土の中将棋木札は紛失!(長さん)

前に本ブログで大きく話題にした、表題の、鎌倉市文化財部に
本来保管されていたはずの、鎌倉市今小路西鎌倉福祉センター
出土の中将棋木札について、ここへ来て極めて、ショッキング
なニュースが入った。すなわち問題の、南北朝時代の中将棋の、
極めて貴重な、ルール情報が記載された疑いの高い出土木札を、
何と

鎌倉市は出土してから、かなり早期の段階で紛失していた

事が、最近判明したのだ!
 鎌倉市市役所の文化財部へ、問題の遺物の保管状況を、本ブ
ログの管理人が、少し前に問い合わせた所、上記の驚くべき、

公共財産の紛失の事実

が判明したのである。
 本遺物は、西暦1987年に出土したが、西暦1989年頃
に開催したという出土遺物の報告展示会で、存在が確認された
のを最後に、それ以降

鎌倉市役所では、行方がつかめて居無い

という事なのだ。
 常識的に見て、展示会の後片付けで、鎌倉市役所の係りによっ
て、正しく遺物が保管庫に、戻されなかったのではないかと疑
われる。だから、当時の展示会の関係者の責任が、今更ながら
ではあるものの、客観的に問われても仕方が無いのでは、なか
ろうか。
 将棋史の研究家が、こんなに大事な史料の存在に、発掘公開
から30年近くも経って、始めて気が付いたと言う事に対して、
ひょっとすると、我々にとっての”地底に棲む悪魔の加害者”
は、にんまりと笑っていそうだが。結局の所、これは、
鎌倉市の過去の行政が、一種の盗難事案を処理できなかった、
管理責任になると言う事に、間違い無いのだろうが。

全くひどい話も有ったものだと、私は深い憤りを感じる。

 以下は、裁判係争用の資料として、著作権は行使できないと
判断し、どの遺物かを明示するため写真で、本ブログの領域で
ある将棋史にとって、極めて重大な史料が、どれなのかをはっ
きりと示しておく事にする。つまり、窃盗に有った貴重品が
具体的にどれなのかを、

警察等に見届けさせるため

に特に、本ブログのこのページで、公開しているという意味だ。
盗難にあった、極めて貴重な出土品は、良く知られた成書、
”よみがえる中世(3)、武士の都鎌倉”平凡社 (1989)
の221ページの下にある、下の赤枠で囲った出土遺物である。

盗難木札.gif

 なお、話に聞いた、目撃された最後の展示会と、”よみがえ
る中世(3)、武士の都鎌倉”との出版が、同じ年なので、
鎌倉考古学研究所所員等を名乗る、執筆者のリストも、疑う訳
ではないが、以下に参考までに、本ブログでも、羅列しておく
ことにしよう。

大三輪龍彦(おおみわ たつひこ)鶴見大学教授(当時)
河野真知郎(かわの しんじろう)上智大学非常勤講師(当時)
斎木秀雄(さいき ひでお)鎌倉考古学研究所所員
手塚直樹(てづか なおき)鎌倉考古学研究所所員
原 廣志(はら ひろし)鎌倉考古学研究所所員
松尾宣方(まつお のりかた)鎌倉市教育委員会学芸員(当時)
馬淵和雄(まぶち かずお)鎌倉考古学研究所所員

 問題の遺物が、どうみても、南北朝時代から30年前の間に
盗難に合いそうな、金銭的価値の高い物品とも思えないので。
私物として、現在誤って返却を失念している、考古学に興味を
持っていたために、出来心でそうした御人が、もしどこかに居
るというのならば、速やかに、神奈川県鎌倉市の

鎌倉市役所文化財部に、上記史料は返却すべき

だ。(2018/12/10)

(付記)
鎌倉市役所の上記件の紛失発見担当者は、本ブログの公開から
10日以内に、同じ鎌倉市の文化財管理の責任者宛に、記録に
残る形で、紛失の確認と、その保管場所ないし、居所の変遷経緯を、
すみやかに届けるべきだ。でないと、文化財保護法ないし関連規則
の、有形文化財に関する保護の精神には、合致しないのは明らか
だからだ。(2018/12/11)

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鎌倉考古学研究所では現在、実質的研究が行われて居無いようだ(長さん)

成書、よみがえる中世(3)武士の都鎌倉で、前世紀の1989
年に、前に紹介した、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の、
中将棋木札を紹介した、鎌倉考古学研究所(神奈川県鎌倉市岩瀬)
に、最近木札関連の問い合わせをした。前記成書では、少なくと
も前世紀の当時、複数の研究員が所属していたと記載されている。
 しかしながら、問い合わせの返事をもらったので読んでみたが、
考古学上の

個人または団体に対して、(現在は)助成できない

との旨の内容が書かれていた。
 そして恐らく、過去の鎌倉考古学研究所の、過去の研究成果を
まとめたものと見られる、

書籍の案内だけが記載

されていた。webの鎌倉考古学研究所のホームページを見ても、
近々のものに関して、考古学的な発掘活動のニュースのようなも
のは、特に記載されてい無い。よって、

恐らく鎌倉考古学研究所では、新たに集積されるという意味での、
考古学研究所的な活動は、今世紀初で終息しており、過去の活動
を記載した書籍の自販部だけが、現在も残存

している状況なのではないかと見られる。なぜなら、そうでない
としたら、研究所の現活動自体の、宣伝をするのが普通だからだ。
 前に鎌倉市役所の文化財部から”鎌倉考古学研究所は、今も活
動している”という旨を聞いた事がある。が私宛に届いた、前世
紀に活躍した研究所員の、遺族の手紙のような内容から察すると、

鎌倉市役所からの情報は、たぶん間違っているのではないか

と、少なくとも国内の遠方から見ると、そう見えた。
 とりあえず鎌倉考古学研究所とは、前世紀に盛んに活動し、一
例として冒頭の成書を出した団体と、私は把握して置く事にした。
(2018/12/09)

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今小路西鎌倉福祉センター中将棋木札。何故バージョン特定可能(長さん)

今の所本ブログの見解によれば、表題の神奈川県鎌倉市出土
の鎌倉~南北朝時代の、木製遺物、今小路西鎌倉市福祉セン
ター出土木簡は、推定南北朝時代に、いわゆる後鳥羽上皇の
時代から在る、今小路のゲームセンターでプレーする、中将
棋のバージョン情報を記載したものと言う事になっている。
 しかし、中将棋のルールを知っている者なら、狛犬、猛豹
が有って、”もうこ”が盲虎の駒の動かし方ルールであって、
猛虎では無いという記載だけからでは、余りに指定項目が
少なすぎて、これで中将棋のバージョンが特定できるという
事自身に関する、疑問がわいて来るに違いない。これなら、
現行の中将棋が、

獅子が有って、居喰いができ、特別の規則があると言う事と、
猛豹が有って、もうこが盲虎であるから、前升目を除く、隣
接7方向歩みという、3つの事項だけから、駒数多数将棋の
中から、現行の中将棋が特定できる

と言うのに、等しいからである。
 そこで今回は、以上のべたように、3項目という少ない要
素で、南北朝時代の駒数多数将棋の棋士が、今小路西の将棋
場で指されている将棋種を、特定できると考えられる理由を、
論題とする。回答を先に書いて、後で説明を加える。

中将棋の前駆体が、13升目108枚制の本ブログの言う、
普通唱導集大将棋であるから、それと比較するとこれで済む

と、考えられる。つまり

中将棋は15升目130枚制の後期大将棋から生まれたもの
ではない

と、いう証拠になり得る史料ではないかと言う事である。
 では、以上の結論について、以下に説明を加える。
本ブログの普通唱導集大将棋は、繰り返すと、5段目という
の中将棋でも同じ自陣段数の、仲人の段から下を書くと、
5段目を退ければ、以下のトランプの七並べのパターンで
52枚、それに2枚の仲人を入れて、以下54枚の駒が並ぶ。

口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行竪行横行飛車
反車飛龍嗔猪猛牛猛虎麒麟酔象鳳凰猛虎猛牛嗔猪飛龍反車
香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

なお、玉将は、安土桃山時代に、双玉が水無瀬兼成等により
推薦されたと見られるが、鎌倉時代に親王将軍に転移した、
西暦1350年代から後は、しばらく王将と玉将一枚づつ
だったとみられる。
 既に述べたように、13升目が12升目になり、南北朝時
代に中将棋化が始まったとき、桂馬が消え、角行が下がった。
 そのとき、以下の平安大将棋の2段目を参照して、猛牛と
嗔猪も、二中歴の大将棋に無い駒と考えられて、取り除かれ
たと考えられる。

口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
奔車飛龍口口口口猛虎口口横行口口猛虎口口口口飛龍奔車
香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

普通唱導集時代の大将棋の13升目が12升目になり、桂馬
が消え、角行が下がった図は、よって以下の通りである。

口口口口口口仲人口口口口口口口口仲人口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車横行堅行龍馬龍王獅子奔王龍王龍馬竪行横行飛車
反車飛龍角行口口猛虎麒麟鳳凰猛虎口口角行飛龍反車
香車鉄将銅将銀将金将玉将酔象金将銀将銅将鉄将香車

なお、この時点で成りは、水無瀬兼成が安土桃山時代の、
将棋纂図部類抄で書いているように、麒麟、酔象、鳳凰が
それぞれ獅子、太子、奔王。それにもしかすると、歩兵が、
金将だったとみられる。

鎌倉市鶴岡八幡宮出土の、鳳凰や香車、歩兵で指せる形だ。

 実は、上記の配列を、飛車と角行の動きが、縦横と斜めで
対応している事から、竪行、横行、飛車を入れ替えて、猛虎
を盲虎に変えた

次の配列が、南北朝時代の、当時の将棋棋士には、
中将棋の標準形に見えたはず

口口口口口口仲人口口口口口口口口仲人口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
横行堅行飛車龍馬龍王獅子奔王龍王龍馬飛車竪行横行
反車飛龍角行口口盲虎麒麟鳳凰盲虎口口角行飛龍反車
香車鉄将銅将銀将金将玉将酔象金将銀将銅将鉄将香車

なのである。
なお、飛車の位置を入れ替えるのは、龍馬・角行筋が横行に
当たらないようにするためだったと見られる。つまり、獅子
や狛犬の有る中将棋では、駒の価値が、横行≧角行≧竪行で、
横行の価値が、守りの力が強いために、高いからである。
 以上は、

南北朝時代の中将棋の棋士には、ここまでは概ね、あるべき
姿としてのコンセンサスが、取れていた

と、考えられる。
 この形を頭に入れた上で、今小路西鎌倉福祉センター出土
中将棋木札の内容を考えると、そこでの中将棋のルールが、

1.獅子を狛犬に入れ替えること。
2.平安大将棋のように飛龍を使わず、猛豹にする事。
3.盲虎は、七方歩みである事を徹底する事。

以上の3点で、ゲームのパージョンが特定できることは、明
らかだと言う事である。
 逆に言うと、当時の中将棋棋士には、上記の形が標準形に
見えていたと言う事は、中将棋の元が130枚制の後期大将棋で
はなくて、本ブログの言う、平安大将棋により近いような、
13升目108枚制の、普通唱導集大将棋だったと言う事を
示していると考えられる。特に、後期大将棋と96枚制の、
古中将棋とで、2.で特定されるはずの猛豹は、どちらにも
有って、しかも位置が相似的な、2段目で似通っているため、
ゲーム・バージョンを特定するための、問題の木札に、”ま
うひゃう”の文字が出てくるはずは無いと考えられるのであ
る。そこで、少し前の、鎌倉時代後期の西暦1300年頃の
駒数多数将棋が、以下の15升目の後期大将棋ではなくて、

口口口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車飛龍横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行竪行横行飛龍飛車
口口猛牛口口嗔猪口口悪狼麒麟獅子鳳凰悪狼口口嗔猪口口猛牛口口
反車口口猫叉口口猛豹口口盲虎酔象盲虎口口猛豹口口猫叉口口反車
香車桂馬石将鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将石将桂馬香車

13升目108枚制の普通唱導集大将棋(本ブログ版)であ
るという事の、証拠という点で、

普通唱導集の大将棋の第2節で、仲人段が桂馬で支えられる
ように、5段目になければならない事

に加えて、事実上、新たな証拠が加わったという事になる。
だから、大将棋の歴史を考える上でも、極めて重大な結論が、
この新たに解読された木札の記載内容から、間接的に導かれ
ると、言う事になるのである。(2018/12/08)

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中将棋の最下段配列。誤写二中歴記載の大将棋と類似の理由(長さん)

良く知られているように、江戸時代の加賀前田藩筆者の二中歴の
大将棋の配列には、銀将がダブっていて、桂馬が抜けているとい
う、誤写がある。ただし、飛龍の位置の説明で、桂馬が基準位置
を示す駒として記載されているため、平安大将棋のルールの推定
に、影響が無いという見かたが一般的だ。
 ところで、この桂馬が無いパターンは、中将棋の初期配列の最
下段に、桂馬が無いのと共通している。今回は、これが偶然かど
うか、何か関連があるとすれば、何故なのかを論題とする。
 回答を先に書き、説明を後で書く。

かなりの率で、中将棋が成立する前に問題の誤写が発生し、関連
性が発生していると考える。

 すなわち、たまたまの誤りが、中将棋の最下段配列に、桂馬が
無くても良いという、一つの口実を与えた。その結果、大将棋か
ら中将棋への転換が、よりスピーディに起こった。結果として、
現在の駒数多数将棋は、余分なら、桂馬を除いてよいという理由
付けが発生したために、誤記した配列と、デザインされた中将棋
の形が近似し、

駒数多数将棋の代表は、現在専ら中将棋の状態になった

と考えられる。
 では、以下に説明を加える。
 12升目の駒数多数将棋が発生した、ゲーム性の観点からの原
因は、本ブログで前に述べたとおり、龍馬角行筋を、左右で筋違
いにし、相手陣の攻撃点が、集中しないようにするためと見られ
る。その際、中国の易経の九星占いの図に対応するように、将棋
盤を、等間隔に3つに区切り、4升目ごとに聖目を付けて、12
升目の12が一年の月の数や、12支の数と同じな事をも主張し
ながら、ゲーム形としての、標準的な文化との同一性を、主張し
たと見られる。
 しかし、駒の配列は、普通唱導集時代の大将棋に、近似させた
方が、普及からは有利なため、そのようにしたと見られる。その
とき、13升目の平安大将棋や、普通唱導集時代の大将棋から、
12升目に転換させるためには、最下段に関して、桂馬ないし、
香車を抜いてから酔象を入れ、2段目の猛牛と嗔猪は抜いてから、
三段目歩兵下の段の角行を、2段目に落とせば、獅子が余分に入
るようになって、だいたい今の中将棋の形になるのは明らかだっ
た。だから桂馬を抜く事は、普通唱導集大将棋の第2節の定跡を
やめさせる結果にもなるため、最初から中将棋のデザイナーは、
そうするのが当然のように、考えていた事だったに違いない。
 が、普通唱導集時代の、

大将棋を温存しようとしている、保守的なゲーマーを説得するに
は、二中歴の大将棋に誤写が有れば、ゲーム性からの改善の理由
付けとは別に、絶好の正当化の口実となる

のは、明らかだったように、少なくとも私は考える。
 結果として、たまたま

中将棋が成立する前の鎌倉時代に、二中歴の大将棋の初期配列の
最下段の説明で、桂馬を落とす誤写があった

おかげで、

南北朝時代の12升目化への転換は、スムーズに行ったのではな
かろうか。

 そう考えると、たとえば前に紹介している、今小路西鎌倉福祉
センター出土の、中将棋のバージョンを指定する木札に、指す中
将棋に桂馬が無い事が、何処にも書いていない事をも、すんなり
説明できるように思える。二中歴が正しいという信仰を逆手に取
り、最下段は、玉や太子駒、金将、銀将、銅将、鉄将、香車と、
桂馬を除いて並ぶのが、正調の平安時代の大将棋だと、言いくる
める事が、中将棋の成立時、一応できた。そのため、桂馬の有無
を、バージョンを特定するときには、言及していないのであろう。
 だから、振り返れば、単なる幸運という事に過ぎないのだが。

中将棋が今の配列なのと、二中歴の大将棋の記載に間違いがある
のとは、結果として制圧したゲーム種が、中将棋だった理由とい
う意味で、大いに関係が有るのではないか。

以上のように、少なくとも今の所、その可能性は完全には否定で
きないとの疑いを、私は持っているという事である。(2018/12/07)

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今小路西鎌倉福祉センター出土木札。なぜ文字がひらがな書きか(長さん)

今小路西の鎌倉市福祉センターまたは、鎌倉市の”社会福祉センター”
の地面から出土した、南北朝時代のものとみられる、中将棋の変種
のバージョンを表記したように見える木札は、変体仮名まじりのひ
らがな書きだったとみられる。それと、左右に分かれた木札が、運
悪く、上下に接着されてしまったために、解読が遅れ、木簡自体の
存在が、広く社会に成書で公開されてから、30年も経った今、よ
うやく解読不能と考えない、本ブログの管理人が出現するに至った。
 ではそもそも、なぜ遊技場の、中将棋ゲームを仕切っていたとみ
られる、鎌倉時代の今小路の遊戯場の管理者は、

志ろいぬ。もうひょう。もうこ波、(近)くへ行が、上わゆけ無い。

等とは問題の木札には書かずに、

白犬。猛豹。盲虎波、(近)くへ行が、上わゆけ無い。

等と、後世の木簡研究者等が間違えないようには、書かなかったの
だろうか。以上を今回の論題とする。
 答えを先に書いて、後で説明を加える。

広い遊戯場(ゲームセンター)の部屋の隅からも、読めるように
ひらがなで書いたと見られる。

 では以下に、説明を加える。
 まず、この中将棋には、飛鹿、飛牛、奔猪、飛鷲、角鷹、白駒、
鯨鯢等の、現在の中将棋に有る大部分の成り駒は、まだ無かった
とみられる。しかしながら、それでも駒種類は玉将、金将、銀将、
銅将、鉄将、酔象、香車、麒麟、鳳凰、猛豹、反車、獅子、狛犬、
奔王、龍王、龍馬、飛車、角行、堅行、横行、歩兵、仲人、太子
と23種類程度有り、平安小将棋の6種類の4倍弱に達したと考え
られる。なお狛犬と鉄将は、後に中将棋からは消えた。だから元々、

漢字が読めないゲーマーには、ゲームができるとは考えにくい。

よって、”ひらがな”しか読めない人間のために、わざわざ仮名を
多くした”中将棋の、ゲームバージョン情報案内の看板”を、ゲー
ムセンターの管理人が立てたとは、このケースに関しては、とても
考えにくい。
 他方、当時の今小路西の遊戯場(ゲームセンター)は、今の施設
に比べて、かなり狭かったとは考えられる。が、裕福な武家の屋敷
を間借りするなどし、将棋や囲碁、盤双六、サイコロ賭博等が、盛
大に行われていたのではないか。従って、中将棋を指すコーナーは、
たたみ10畳ないし、それ以上のそれなりの広さの所で、何面かの
中将棋盤を置いて、行われていたのではないかと当然考えられる。
 恐らく、競技する中将棋の問題の、バージョン情報案内版として
の木札は、壁の少し高い所に、棚を作って置くなどしていたに違い
ない。その際、棚から遠い方の、中将棋盤のゲーマーからも、記載
内容が判るように、字画の少ないひらがなで、内容を書いたのでは
ないのだろうか。
 すなわち、漢字で書いてしまうと、特に猛豹が、猛豹だか猛牛だ
か、猛狼だか、少し離れて見ると、何だか判らなくなってしまった。
そこで、判読できないために、木札を置いただけ無駄だったという
結果を防ぐために、猛豹は”もう(ー)ひょ(や)う”と書いたのだろう。
 もしかすると、もう一つ理由があって、用意された中将棋の将棋
駒に、古いタイプのものが混じっていて、盲虎が、盲虎表記だけで
なく、猛虎の古い表記の遊戯駒があったのかもしれない。そこで、
盲虎と書かずに、”も(ま)うこ”と書いて、”用意した将棋駒が
盲虎の場合も猛虎の場合も、この遊戯場(ゲームセンター)では、
七方歩みの動きですよ”と表現し、間違いや、ゲーマー同士の喧嘩
が起きないように、しようとしたのかもしれない。
 公平に見れば、”ひらがな”なら字画が少ないので、遠くからも
目立つという、最初に述べた理由が最も確からしいとは思うのだが。
 現物がイメージ通りで、小型の木札だとしたら、以上の解釈で、
ほぼ間違いないのではないかと、私は思うのだがどうだろうか。
(2018/12/06)

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歩兵の歩の少の部分の、3画目が外側にある書体の正体は何か(長さん)

前に将棋出土駒の歩兵の、歩の字の少の部分の、第3画目が有る
のは、平安時代には今と同じになった、新書体であるとの話を、
諸橋徹次の大漢和辞典を参照して、本ブログで論じた事があった。
 出土駒は概してカスレていて、はっきりしないものが多いが、
その他の書体としては、表題のように、歩の第3画目が、右に
大きくはみ出した書体もあり、今は見かけないため、比較的目立っ
ている。
 成書に良く出てくる例では、興福寺出土木板の、五角形で囲わ
れて居無い面の方の歩兵の字の歩がある。その他、天童の将棋駒
と全国遺跡出土駒には、大宰府より出土した、桂馬・香車・歩兵
木簡の歩兵の歩の字とか、岩手県平泉町の、柳之御所遺跡の歩兵
の歩の字とか、全国に散らばって、少の部分の第3画が右に出た
歩兵駒が出土している。書名を忘れてしまったが、

増川宏一氏が彼の成書で、この、今とは違う歩の書体を問題提起
された事があった

と記憶する。彼の見解ははっきりとは、書いていなかったと思う。
 そこで今回は、この歩の変形書体に見える、出土駒独特の字が、
何なのかを論題にする。
 答えを最初に書くと、
成書、”文字と古代日本5 文字表現の獲得”吉川弘文館
2006年、平川南他編書、深津行徳(執筆)によると、

6世紀前後に成立の、”正倉院蔵の新羅村落文書”の中の歩の字
と、字体がほぼいっしょの、古代正式文書の楷書の歩の字

であるとの事である。
 紹介した新羅村落文書の内容からみて、荘園の荘官等が、記録
文書に使う、長さや面積の単位に出てくる歩の字を、歩兵駒の字
書き師が見て、写したと考えられる。よって、

古代末期の、地方役人にも将棋を指す者がおり、そうした階層と
係わりのある駒師が、各地の将棋場に居て、字体を真似た

と考えられる。
 では以上につき、多少補足説明する。
 まずこの書体は、日本でも平安時代10世紀頃には、新撰字鏡
の”少”の部分の有る漢字に出てくる等、歩の字の表現としても

公式文書に使われる、歩の形の一種

だったようだ。だから、将棋駒だけに使われる、独特の歩の字で
は無いようである。この書体は、冒頭で述べたように、古代末期
の遺跡よりの出土将棋駒の歩兵で、幾らか見かける書体であるが、

時代が下っても幾分か使われ、例えば一乗谷朝倉氏遺跡の歩兵駒
にも、このタイプが2~3枚出土

している。従って古代から有る書体なので、たまたま、この歩の
書体を知っている将棋駒の駒師が、全国アトランダムに居て、
部分的に、この書体で歩兵の字を書いたという、ほぼそれだけの
事のように、少なくとも私には見える。
 ただし、個別の駒師の情報源は、近くの荘園の年貢記録の文書
とか、そのような類なのであろう。だから、既に11世紀には、

興福寺のような寺院や、大宰府のような武者の詰め所だけでなく
て、地方の荘官クラスの居る城館の、将棋場でも将棋が指された

事を、間接的に示しているのかもしれない。
 何れにしても問題の”歩”は、妙な書体ではなくて、朝鮮半島
では、チャトランガがインドで成立した頃の古代から、正式文書
に使われた、計量単位の”歩”の字等が起源の、その模倣と見ら
れる、字の形のようである。(2018/12/05)

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豊臣秀吉は、何を考えて玉将/王将を大将に変えようとしたのか(長さん)

豊臣秀吉と将棋との関係と言えば、日本将棋の変種である、
大閣将棋と、表題の”玉/王駒を大将に変えろ”との発言で
有名である。水無瀬兼成が、豊臣秀次が助成して、玉駒が
双玉将の、将棋纂図部類抄を著作した、西暦1592年頃か
ら約3年たった、西暦1595年宣明暦5月5日の、朝廷の
女官の日記、”御湯殿上日記”に、秀吉の大将駒の提案に関
する、朝廷への報告の記録が載っているのが、元史料である。

なお変更前の駒”わうしやう”は、玉将ではなくて、王将

であると見られる。
 これ以上の事が、少なくとも私には判らないが、安土桃山
時代までの、京都からの出土駒に今の所、玉将が無い所をみ
ると、大坂府島本町付近に在住していたとみられる、水無瀬
兼成の将棋纂図部類抄の玉駒表現が、全部玉将であるという
事に関して、”王将で無いのは何故か”というニュアンスで
の朝廷からの問い合わせが、水無瀬兼成の監督者と見られて
いた、豊臣秀次等宛てに有ったのだろう。そのためその返事
を親分格の、

豊臣秀吉が、京都の朝廷へ使いを出して、回答を伝えたとい
うような、感じの日記の記載

のように思える。
 では、豊臣秀吉は、玉将・王将以外で、何かネーミングを
する必要があったと見られる、将棋の玉駒を

大将がよいであろうと豊臣秀吉名で述べたとされるのはなぜ

であろうか。以上を、今回の論題とする。
 回答を先に書いて、説明を後でする。
 恐らく、豊臣秀吉は

大坂に幕府を開く事を、真剣に考えていたので、大坂の将の
洒落で、大将という名称を考え出したのではないか

と、本ブログでは考える。では、以下に説明を加える。
 少なくとも、朝廷へ豊臣秀吉が、将棋の玉駒に関して、考
えを述べる、使いを出している事実が、御湯殿上日記に記載
されているという点は、史料として

たいへん貴重なものと言わざるを得ない

と私は考える。
 なぜなら現実、京都府から王将駒以外の将棋の玉駒は、未
だ全く、出土していない。だからその謎を解くための、少な
いヒントの一つとみられるからだ。
 他方、後奈良天皇が詔で”酔象を除いて日本将棋を指せ”
との命令を出している事は、複数の江戸時代の文献に記載が
あり、また一乗谷朝倉氏遺跡の酔象駒の出土が有る以上、事
実の可能性が極めて高いとみられる。つまり、少なくとも、

日本将棋の周辺の、小型の将棋のルールのうち特に、構成駒
の内容に関して、戦国時代には、朝廷が介入する事があった

とは、言えるのではないかと私は考える。豊臣秀吉の大将発
言は、配下の大名を集めた宴会等で、余興で出しているもの
ではなく、朝廷へ報告しているというスタンスのものである。
だから、

将棋のルールは、安土桃山時代の時点でも、朝廷に、形式上
かもしれないが、管理の権限があった

と考えるのが、自然なのではないか。
 そして朝廷は、将棋のルールの詔関連の記録が、今では行
方不明となって、経緯に関する証拠が、全く無いのが、甚だ
残念だが

それまで、玉駒は王将一本であるべき

との立場を、恐らく貫いていたのではなかろうか。それが、
豊臣秀吉の家の秀次の、お抱え貴族である、藤原氏流水無瀬
家の、水無瀬兼成によって、公然と双玉が推薦され、水無瀬
作の将棋駒も、京都市中へ出回るようになり、朝廷内でも、
近衛信伊や雅朝親王等が購入し、後陽成天皇自体も目にする
までに、なってきたのだろう。そのため、力関係では、
武家の豊臣にはその時代は、とてもかなわないとはいえ、
対面上、双玉推薦に関する見解の問い合わせを、天皇の名で、
豊臣秀次等へ一応したのであろう。
 そして豊臣家では、秀頼が水無瀬駒を多数購買していたが、
豊臣秀吉が、水無瀬兼成駒を購入したり、兼成を直接抱えて
いるわけでもなかった。また、将棋に関する秀吉の興味度に
ついても、秀吉自体、大閣将棋の事実上の下手を持って、将
棋家の者と、たまに将棋を指す程度の、低い棋力だったので、

豊臣秀吉は、公平な第三者の立場に近いと評価されるだろう
と、豊臣家では考えたのだろう。

”それなら王将でも玉将でもなく、第3の大将が良いではな
いか”と、第三者としての私見を京都の朝廷に、秀次からで
はなくて、秀吉の方から伝えたのだろう。なおこの時点で、
豊臣秀次が切腹する、2か月ほど前の事であった。豊臣秀吉
は、大坂に幕府を開く事を、この頃真剣に考えていたのであ
ろう。

 しかも、唐突ではなく、秀吉の回答の発進地は、その大の
付く地名、大坂からであった。

 合戦を模したゲームの、玉駒が征夷大将軍であるのは自然
で、自分が征夷大将軍格。その自分は大坂に居るから、大坂
の将で、大将ではどうですかと、

豊臣秀吉としては、自分の野望もこめて、朝廷にはさらりと
返事をしたつもり

といった所なのではなかろうかと、私には思える。つまり、
大江匡房による標準平安小将棋の設定を発端とする、朝廷と
藤原家との間の古代、西暦1080年からの軋轢等に、豊臣
秀吉は、西暦1595年の時点で加わるつもりは当然無く、
恐らく仲裁するつもりで述べた、私見が伝わっているのであ
ろう。なお事の発端の、将棋史の内容については、秀吉は一
例として、水無瀬兼成本人の家伝にあるのを、人づて等で、
本人から聞き取ったと見られる。
 大将は武家専門の言葉であるから、主張してみた所で、
京都の公家の間で流行るのかどうかは、謎であるのだが、

豊臣秀吉は、彼なりに良く考えて、”そこそこ”の答えを
発している

と、私は個人的には、この答え方を一応評価している。
 つまり大坂幕府というのが、もしこのあと成立していたら、
日本将棋の玉駒は、玉将、王将の他に、大将のケースが在り、

天竺大将棋の攻め駒の大将は、別の名称にしなければならな
かった

のかもしれないと言う事であろうと、私は考えるのである。
(2018/11/04)

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将棋の駒の飛の字の草書。いつも”十九”の縦続け字なのは何故(長さん)

出土駒を見始めた2年位前には、岩手県平泉町の志羅山遺跡の
両面飛龍駒の草書を、簡単にそう読んだ、木簡の字の解読の専
門家に関心したものだった。しかし、出土駒を見慣れてくると、
草書体に慣れていなくても、出土駒の字に見慣れていれば、こ
の駒の字は、簡単に読めるのが当たり前だと、思うようになっ
た。元々、飛龍の飛の字も、龍の字も、飛車と龍王・龍馬に有
るという事は、そうなのだが。実は、表題に書いたように、

草書の飛という字には、いろいろな字体があるにも係わらず、
将棋の駒では、ほぼ似たような形でいつも、書かれている

という事実があるのである。ここでは、”縦に十九と続けた形”
と、仮に将棋駒書体”飛”を、表現しておく。だから、書道で
草書を知っている本物の専門家には、余り見かけない、将棋駒
の飛の字の解読は、かえって困難だったかもしれないのである。
 今回は、場所や時代や、将棋駒に草書体で飛が使われる頻度
に関係なく、飛の字の将棋の駒の草書が、いつも”十九”の、
縦続け字なのは、何故なのかを論題とする。結論から書いて、
説明を後でする。

”縦続けの十九の飛”が、古代~中世の日本人には、兵器とし
て、強そうに見えたから

だと考えられる。ただし、今の日本人の我々に、現実にその感
覚が判らないため、

注意した方が良い、将棋駒の字体

だとも考える。特に、平泉町志羅山遺跡の

両面飛龍駒は、その時代の駒でも楷書が普通と考えられるため、
他の十九飛の字駒との関連性が薄いと見られるだけに、要注意

と私は見る。
 では、以下に説明を加える。
 所詮日本は、国土が狭いため、将棋駒の字体に関する情報は、
数十年という時間のオーダーで、何れ全国に行き渡ると見るの
が自然だと考えられる。だから、

1.平安時代末期に、岩手県で飛龍駒の飛が縦十九の続け字型。
2.15世紀末頃に、静岡県で飛鹿駒の飛が縦十九の続け字型。
3.16世紀半ばに、福井県で飛車駒の飛が縦十九の続け字型。

なのだが、お互いに情報が伝播できない時間ズレの量では無い。
なお、静岡県の例とは、焼津市の小川城跡の中将棋駒、福井県
の例というのは、一乗谷朝倉氏遺跡のオモテ面が草書の飛車駒
の事である。
 特に、2の静岡県の例は、公家の能筆家が、飛鹿や飛鷲の書
体を、縦十九の続け字の飛で書いているので、3の朝倉館の書
き駒師が、その情報の伝播によって、飛車の字を、普通は楷書
なのに、ほんの一部だが、草書で書いたときに、同じ字体にマ
ネしそうである。そもそも、全国的に歩兵の字を書くとき、歩
の最後の画と、兵の最初の画を続けてしまうという特徴が、地
域に無関係に存在する。この書き方は、興福寺出土駒から、一
乗谷朝倉氏遺跡駒まで、連続的に存在する。この事から見ても、
日本程度の狭い国土では、字体が、体裁が良いと見られるよう
になると、全国的に同じ字体になるのは、当たり前である事を
示しているように思える。
 ただし、問題の縦に続ける十九の飛が、平泉町の志羅山遺跡
の駒が起源とは、どうみても考えられない。京都の雰囲気を真
似て、気まぐれに草書の飛龍駒を、平泉では少数作成した秘蔵
駒のようにしか、見えないからである。つまり、特定の将棋種、
たとえば平安大将棋の駒は、全部両面草書で書いたという説は、
絶対無いとは言えないものの、古代末期の小将棋の遺物に、そ
の類例が見当たらないため、今の所考えにくいと言う事である。
 残りの2つの史料については、焼津駒の字書き師が、戦国時
代の京都の公家の書体を真似たのが、起源だろう。たまたま、
縦に続く十九の飛は、将棋駒に相応しい書体に、戦国時代には
見えたのだろうと、想像される。
 だから、種類のたくさんある飛の草書から、平泉町の飛龍駒
の書体が選ばれるとすれば、

我々草書で字を書く習慣がほとんど、無くなってしまった現代
人には、全くピンと来ないのだが、縦に続く十九の書体の飛は、
他の飛の書体に比べて、兵器としてよほど強そうに、古代末期
から中世までの日本人全てには見えるらしい

と仮定する事によってしか、1と2~3との間の、良く似た書
体の性質は、説明できないような気がする。実は、志羅山遺跡
出土の飛龍は、12世紀ではなくて、16世紀だったと極端に
遅く変えたら、その頃には縦に続く十九の書体の飛を、いつも
使っていたと考えれば、矛盾は消えるのかもしれないが。
 従って今の所は、飛の書体が、産地や年代に余りよらずに、
縦に続く十九の書体の飛であるのは、戦争駒のイメージに相応
しい書体であるだろうからであり、

そうでないとしたら、何らかの重大な情報を含んでいる

との、警戒心を持ちながら認識しておく必要があると、今の所
は私は、考えている。そんな状況なのである。(2018/12/03)

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