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嗔猪の後退動きは、いつ消失または変化したのか(長さん)

 本ブログでは、西暦1290年の普通唱導集で大将棋が
唄われる直前に、

嗔猪は縦横四方歩みだった

考えている。根拠は本ブログモデルの13升目普通唱導集
大将棋の第2段目に、前後非対称の駒動きルールの駒が、
見当たらないためである。
 他方、現代の後期大将棋のルールは、将棋天国社の世界
の将棋に基づく、wikipediaの情報が普及し、
上記と同じルールと見る傾向が強い。が、嗔猪は、

安土桃山時代成立の水無瀬兼成の将棋纂図部類抄では、
後退する動きを除いた、3方向歩みルールを取る事で有名

だ。事実近年でも、大阪電気通信大学では、3方向歩みの
嗔猪が、最新は違うが、かつては摩訶大将棋のルールとし
て推薦されていたと聞く。
 ここでは、安土桃山時代から現代までの、嗔猪ルールの
変化は、松浦大六氏所蔵の象戯図式の著者等が江戸時代に、
西暦1290年頃の嗔猪ルールを、たまたま、何らかの事
情で、記憶していたためだと推定し、深く議論し無い事に
する。
 すなわち、西暦1290年から西暦1590年までの、

約300年の間で、4方歩みから、後退を除く3方歩みに
どこでどう、切り替わったのか

を今回の論題とする。 
 最初に結論を書いて、ついで説明を加える。今回の結論
は、多少複雑だ。

1)1310年頃に、4方向歩みから3方向歩みに切替え。
2)1360年頃に、3方向歩みから4方向歩みに戻り。
3)1400年過に、4方向歩みから3方向歩みに再切替。

以上のようだと考えられる。
 では、次に内容を説明する。
 嗔猪の後退ルールの件については、中将棋連盟の発行し
た冊子に、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の嗔猪が、後退し
ないルールであると、今世紀初め頃に問題提起されたのが、
研究の黎明期だったと、私は認識する。
 当時、その指摘に対する反応が、有ったとは聞かない。

だから、大将棋は復元するのは難しい

という議論に留まった。先行研究で、私が知るのは以上な
ので、以下には本ブログの見解説明を始める。
まず、1)1320年頃に、4方向歩みから3方向歩みに
切替えの根拠だが、これについては、以前述べた。

普通唱導集の大将棋の唱導唄自体が、チャンギの戦法に、
嗔猪の部分が類似しており、嗔猪をチャンギの卒とみなし
て、後退動きが、唱導集成立の10年程度後に消滅した

というものである。
つまり、
西暦1290年:大将棋は普通唱導集大将棋嗔猪は4方歩。
西暦1320年:大将棋は普通唱導集大将棋嗔猪は3方歩。

と結論される。
ところで、普通唱導集大将棋で、仲人と嗔猪が腹を合わせ
られるのは、以下のような配列になっており、

嗔猪が竪行の列に居るから

である。
普通唱導集大将棋の右辺(麟鳳は左麒麟と右鳳凰)
5段目:口口、口口、口口、仲人、口口、口口、口口
4段目:歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
3段目:奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
2段目:酔象、麟鳳、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車
1段目:玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車

 ところがその前後から、普通唱導集大将棋は定跡の行過
ぎた明確化のため衰退し、しばらくして、中将棋が発生し
て、それに取って代わると共に、15升目の大将棋へ、
進化が始まったと、本ブログでは考えている。今の所、
江戸時代後期の将棋書、中将棋絹篩の中将棋の由緒説明や、
新安沖沈没船出土、15升目将棋盤(?)の史料等は、こ
の本ブログの推定と、矛盾していない。ようするに、
普通唱導集大将棋の猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍配列は、中国
南部の闘獣棋を生んだ文化、すなわち”36禽の獣の列位
を象り”との、虎関師錬の、異制庭訓往来の思想に従って、
鬼門警護型から、獣の列位順に、15升目化に伴い入れ替
えられたとみられる。その結果、以下の15升目4段自陣
型の、中間大将棋が成立したと、本ブログは推定する。

自陣4段中間大将棋の中央から右辺(西暦1360年頃か?)
5段目:口口、口口、口口、仲人、口口、口口、口口、口口
4段目:歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
3段目:奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
2段目:酔象、麟鳳、盲虎、猛豹、悪狼、嗔猪、猛牛、反車
1段目:玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車

 ここで重要なのは、

獣の列位型にしたために、嗔猪が、竪行列から袖に1列移
動して、横行列に変化したと考えられる

と言う事だ。その結果、

後退する動きを削除する理由がはっきりしなくなり、縦横
4方向歩みに一旦戻るようにルール変化する原因が出来た

という点である。

実際、そのような事が起こった

のではないかとの予想から、嗔猪の3方向動きは普通唱導
集大将棋が、実質的に消滅した西暦1350年の10年後、
西暦1360年頃に、キャンセルされたのではないかと思
われる。

西暦1290年:大将棋は普通唱導集大将棋嗔猪は4方歩。
西暦1320年:大将棋は普通唱導集大将棋嗔猪は3方歩。
西暦1360年:大将棋は4段陣中間大将棋嗔猪は4方歩。

もう一度書くと、
自陣4段中間大将棋の中央から右辺(西暦1360年頃か?)
5段目:口口、口口、口口、仲人、口口、口口、口口、口口
4段目:歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
3段目:奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
2段目:酔象、麟鳳、盲虎、猛豹、悪狼、嗔猪、猛牛、反車
1段目:玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車
となり、

そもそも、上記の配列で悪狼の5方向歩み、猛牛の4方向
踊りに挟まれた嗔猪に、3方向歩みに、しなければならな
い理由が無い。4方向歩みの記憶が蘇り、動きの対称性が
増しただろうと考えるのが、むしろ自然なように思える。
 ちなみにこの状態で、自陣5段配列に膨らんだとみる。
獅子があり、獅子に関する特別な規則もある中将棋は、15
升目化が始まる時点で既に有り、大将棋に獅子が加わったの
は、5段目と同時に、当然の如くにと私は見る。
 このとき嗔猪はまだ、竪行ではなくて、横行の列に居た
はずで、状況変化は無い。4方向歩みの中興時代は、しば
らく続いたはずだ。

自陣5段中間大将棋の中央から右辺(西暦1380年頃か?)
6段目:口口、口口、口口、仲人、口口、口口、口口、口口
5段目:歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
4段目:奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
3段目:獅子、麟鳳、口口、口口、悪狼、口口、猛牛、口口
2段目:酔象、盲虎、口口、猛豹、口口、嗔猪、口口、反車
1段目:玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車

”盲虎波、斤くへ行くが、上わゆけぬ”と、紛失して今は
無い、神奈川県鎌倉市御成町の今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡中将棋木札で記載されたのは、はっきりしないがこの
少し前の頃、遊学往来の成立とほぼ同じ、

西暦1370年前後の事、かもしれないと考える。

 この後、悪狼が2升目内側に寄り、猫叉が悪狼位置に、
一旦入りついで猫叉と嗔猪が場所チェンジして後期大将棋
になったと、本ブログでは考えた。

後期大将棋の中央から右辺(西暦1400年頃か?)
6段目:口口、口口、口口、仲人、口口、口口、口口、口口
5段目:歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
4段目:奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
3段目:獅子、麟鳳、悪狼、口口、嗔猪、口口、猛牛、口口
2段目:酔象、盲虎、口口、猛豹、口口、猫叉、口口、反車
1段目:玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車

この時点で、嗔猪が竪行の筋配列が元々だから、やはり、
3方向歩みであるという、記憶の方が、こんどは蘇った
のではなかろうか。すなわち、

西暦1290年:大将棋は普通唱導集大将棋嗔猪は4方歩。
西暦1320年:大将棋は普通唱導集大将棋嗔猪は3方歩。
西暦1360年:大将棋は4段陣中間大将棋嗔猪は4方歩。
西暦1380年:大将棋は5段陣中間大将棋嗔猪は4方歩。
西暦1400年:大将棋は後期大将棋。嗔猪は3方歩。

となって、これが曼殊院の将棋図に残ったので水無瀬兼成
は、それを写して、将棋纂図部類抄の嗔猪は3方歩になっ
たのではないか。
 以上は、史料がほとんど無く、仮説提出の初期段階の話
ではある。
 一般に、仮説は、

オッカムのかみそりの原理に従い、知られた事実が少ない
ときには、できるだけ単純な物を、先ずは仮定すべき

だと言われてはいる。その理屈から考えると、行きつ戻り
つの本ブログの独自論は、かなり邪道と取られるかもしれ
ない。そうかもしれないが、

嗔猪が竪行の列に有る時代に、3升目歩みへ移行する作用
を受ける

という点で統一性があり、

見通しの悪い仮説とは特に言えない

のではないかと、私は思う。むろん後期大将棋の嗔猪は、
後退できない悪狼との、横升目のつながりで、後退の動き
が、無くなったという可能性も、否定できないとみるが。
 なお、冒頭の摩訶大将棋のケースは、将棋種が違うが、
根本原理は同じで、嗔猪は相手右角筋に対して、後期大将
棋、普通唱導集大将棋(本ブログ13升目108枚制)の、
横行格の駒、横飛列に居るので、現行は4方向歩み復活で
ある。
 よって暫定的に、本ブログとしては、以上の見解を取る。

2017年型の普通唱導集大将棋の後継では、問題なけれ
ば西暦1290年ルールに準拠する

という理由で、
西暦1260年:大将棋はプレ普通唱導集大将棋嗔猪発生。
西暦1290年:大将棋は普通唱導集大将棋嗔猪は4方歩。
西暦1320年:大将棋は普通唱導集大将棋嗔猪は3方歩。
西暦1360年:大将棋は4段陣中間大将棋嗔猪は4方歩。
西暦1380年:大将棋は5段陣中間大将棋嗔猪は4方歩。
西暦1400年:大将棋は後期大将棋。嗔猪は3方歩。
西暦1590年:大将棋は後期大将棋。嗔猪は3方歩。
江戸時代:大将棋は中将棋成り後期大将棋。嗔猪は4方歩。
西暦2017年:大将棋は改善普通唱導集大将棋型が良い。

嗔猪は無い。が将来、何らかの事情で作ったとして4方歩。

但し、
13升改善普通唱導集大将棋の右辺(麟鳳は左麒麟右鳳凰)
5段目:口口、口口、口口、仲人、口口、口口、口口
4段目:歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
3段目:奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、飛龍、飛車
2段目:酔象、麟鳳、猛虎、横行、方行、猛牛、反車
1段目:玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
同成りの右辺(獅奔は、左獅子と右奔王):
5段目:口口、口口、口口、金将、口口、口口、口口
4段目:金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
3段目:不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
2段目:太子、獅奔、不成、不成、不成、不成、金将
1段目:玉将、不成、金将、金将、金将、金将、金将
(仲人、歩兵は金将成り。1段目玉将、金将以外金将へ成。)
となっているを、本ブログでは提案したい。(2019/02/08)

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将棋六種之図式と大将棋絹篩とは、なぜ内容が同じか(長さん)

古事類苑30の遊戯部の”将棊”を読んでいて、常々私は、
表題の件が疑問に思えていた。古事類苑では、大将棋絹篩
で、内容が転載されているのだが、書いてある事が、国会
図書館所蔵の電子化図書、雑芸叢書の中の将棋六種之図式
と、まるでいっしょなのである。最近まで、

大将棋絹篩は、将棋六種之図式のコピー

ではないかと思っていたが、

それは間違いだった。

”大局将棋を指しましょう まとめWIKI研究資料一覧”
というwebサイトによると”国会図書館の蔵書目録では、

雑芸叢書の将棋六種之図式を、雑芸叢書の大将棋絹篩

と表現している”という間違いがあるとの事。古事類苑の
第30巻と、国会図書館の蔵書目録とは、同じ間違いを
しているという点で、一ククリの存在と取れる。すなわち、
どうやら、

古事類苑30の引用は、表現が間違いらしく、大将棋絹篩
と書いてあるのは、大将棋絹篩の内容では実際には無くて、
将棋六種之図式に書いてある内容

のようだ。ちなみに国会図書館の、電子書籍の雑芸叢書の
序文には、”将棋六種之図式は、天保年間まで存命だった、
鷄峰戊申が著者で、鷄峰には他に幾つも著作が有るが、他
将棋史では中将棋絹篩や、大将棋絹篩の著作でも知られる。”
との旨書いてあるのに、ようやく私も最近気がついた。
 逆に”ここで載せたように”という一句が、雑芸叢書の
序文に、注意書きとしては、特に記載が無い。だから、
国会図書館の蔵書目録の話も、古事類苑30の引用内容も、
雑芸叢書の序文の内容との間に、確かにつじつまが合わな
いところがある。大将棋絹篩の実体は私には目下不明だが、

古事類苑30には、大将棋絹篩の内容は、記載して無い

と見なすしか、今の所無さそうだ。

国会図書館の電子図書の将棋六種之図式の記載だけ、議論
の元史料として使うしか無い

と言う意味である。
 たぶんだが、大将棋絹篩は、正確には同じ著者の書で、
将棋六種之図式と類似の内容の記載も、部分的に有るには
有るのだろうとは想像される。今でも大将棋絹篩自体は、
古書として、幾らかは残っているらしい。webには、入
手した、中将棋の研究家の書き込みが見受けられる。結局

両者は古事類苑30では混同されているが、別なのだろう。

 この件、知っている人には当たり前だったのだろうが。
雑芸叢書の序文をちゃんと読んでから、人に話すパターン
になって、恥をかく事にならずに済んで良かったと思った。
(2019/02/07)

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信貴山縁起絵巻に平安小小将棋状模様シートの乗った机(長さん)

奈良県の生駒山中に、国宝の絵巻物を持つ、信貴山朝護孫子寺
という寺がある。その寺の宝物の信貴山縁起絵巻の、3巻ある
うちの真ん中の巻である、延喜加持の巻の最後の方に、主人公
の命蓮という坊さんの、勉強机かとも思われる、台の上に、

6×6升目の遊戯盤の一方の側に、6個の五角形の駒を置いて
いるようにも見える、

半紙か、シート状のようなものが描かれた場面があるのに、最
近私は気がついた。

信貴山縁起.gif

場面は、小学館の信貴山縁起絵巻で京都国立博物館(当時)の
泉武夫氏の解説(2004)によると、主人公の命蓮が、醍醐
天皇の病を、祈祷で治したことに対して、従者が提案している
褒美を辞退する場面だと言う事である。
 上の写真のように、横線は不明確であり、升目になっている
のかどうかについては、やや疑問が残るが、

手紙にしては奇妙な、縦線の通し模様

が、多分紙に書いてあるのである。見ようによっては、

6×6升目12枚制の遊戯具が置かれている、勉強机

のようにも見える。ただし前に本ブログで提案した、1・2段

歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
桂馬銀将玉将金将酔象香車

という配列の、平安小小将棋は24枚制だし、上下両方に、駒
列が無ければならないが、写真の向こう側の、こちら側と同じ
なら6枚あるはずの駒の表現は、不明確である。手前の物体は、

将棋駒ではなくて、文鎮なのかもしれないが、全体の形は変だ。

 盤全体に、この模様があるとすれば、ほぼ昔の囲碁盤型の遊
戯盤だが。左の方に下地が赤い部分が、2筋分程度ある事、
第3巻、”尼公の巻”の最後の方でも、デザインが少し違うが、
類似の台が出てきて、こちらの方は、手紙が乗っている。ので、

たぶん台自体は、遊戯盤ではなくて、勉強机には間違いない

ようには思える。
 なおこの絵が成立したのは、二中歴の成立より少し前の、
12世紀半ば過ぎの頃の事だという。
 本ブログによれば、酔象を温存するために、
平安小小将棋は、西暦1120年頃から、西暦1250年頃ま
での130年間存在しなければならないから、西暦1150年
から1180年位なら、その中に入る。
 ちなみに画題の中において、この机状文具の持ち主の命蓮は、
天台密教の僧とされ、

信貴山朝護孫子寺の戒律は、当時は厳しかったとされるため、
”囲棋”の類は禁止であったはず

だ。将棋ゲームをデザインしている最中に、醍醐天皇の従者が
訪れたという設定は、その点でチグハグだが。絵師がなぜ、
普通の手紙風の紙切れを、机の上に置かなかったのだろうかと
いう疑念は、この絵巻に関しては残ると思う。(2019/02/06)

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六博は盤双六系ゲームとの説に基づく、ゲームのチェック(長さん)

今回は、表題のように六博は盤双六系ゲームとの通説に基
づいて、具体的にゲーム内容を推定し、そのチェックをし
てみた。ゲームが”約2000年前の、原始的なものだ”
との印象に合うと言う意味をも含めて、

結果から見ると、やはり通説が正しい

ように、私も思える。さてさっそく、それでは本題に入る。
 web上で、六博のルールは”今ではさっぱり判らない”
との旨の書き込みが多いと認識される。しかし、遊戯史研
究者が、”この程度の悪条件で過去、ゲーム内容の暗号解
読を諦めた”と、私には到底考えられない。今の所、ゲー
ム・ルールの解明に関する、論文情報を個人的には所持し
ないので、仔細は私には判らないのだが。
 そもそも遊戯史家が、”六博は盤双六のようなものであ
ろうと推定”したからには当然だが、解読しようとした結
果、カテゴリーとしては、その類との見解に落ち着いたか
らに違いない。

”ゲームのルール詳細に付いては、手がかりとなる古記録
が、今では全く残って居無い”と表現した方が、”ゲーム
のルールに付いては、今ではさっぱり判らない”と、広報

するよりは、適切だろうと私は思う。
 ところでこのゲームのルールに関する先行研究としては、
”盤の線と線の隙間の部分に、駒の置き場とも想定できる、
名前が付いた古文書が残っている”
という話が著名だ。しかし、そう考えてしまうと、

隙間同士が、かなりの場合に連結していて、置き場と置き
場の境目が、厳密には、はっきりしない

という事実が、全く説明できない。従来遊戯史家は六博を
解析するとき、しばしば”盤の、所どころにある名称を、

六博盤の駒を置く場所と決め付ける説”に惑わされていた

とは考えられないだろうか。つまりこれらの文字は、将棋
の盤の、外側にしばしば書かれる、123456789と、
一ニ三四五六七八九の数字・漢字と、ほぼ同じ働きをして
いる、棋譜表現のためのものなのではないかと、疑われる
と言う事である。
 そこで本ブログでは、前回の冒頭に述べたように、駒は、

”駒を置く名前の付いた場所”に置くのではなくて、線模
様で、一つの線分とみなせる部分2本に、長方形の元々細
長い駒を、必ず線分の数は、2つに限定して跨らせておき、
そうなっていれば、いわゆる”駒の置き場”の文字の場所
と、完全合致しなくても良い

と見てみた。名前は、着手を表現するのに使ったものだと、
考えたのである。そして、”隣の地点に移動する”とは、
”接している線分の、かならず一方は同じにして、他方を
隣接する別の線分に変えるように、長方形駒を中心をやや
ズラしながら、回転させる事”と、解釈した。
 なお、盤双六とは違い、同じ状態、すなわち盤双六で言
えば同じ升目に、複数の駒は、六博盤では置けない。一状
態1つの駒限定の、パウリの排他律型のゲームと見られる。
 そうすると、長方形駒の六博盤の模様上の位置と移動は、

囲碁の碁石のような円形の駒と、隣への移動を、隣接盤上
地点同士を、囲碁盤のように目と目同士を線で結んだ形と
して表した、ゲーム盤と等価に表される

事になった。この変換で見通しは、とても良くなり、双六
の駒型を12個、円変換して想定すると共に、前記の、
等価囲碁状盤(数学的に言うと、グラフを書いた盤)を
用いる事で、ゲーム内容を割り出そうとした訳である。
 そこで以下の議論は、あくまで以上の”TLV盤を解析
するためにした変換仮説”が正しいとしたときに、限定は
される。
 これも前に示したが、次に、四隅の二辺だけ見えるV型
正方形模様と、本当の盤では存在する、中央の四角形領域
と、連結しようとしているが、途中で切れている”線分”
とで作る、2線分に乗った形に初期配列で駒が有ると仮定
すると、四隅V字形1つについて2個、合計で8個の駒が
置ける。また、TLV盤のL部分には、長方形駒が、Lが
2つの線分からなっているので1個づつ初期配列で置けて、
合計4個置ける。

 六博の名から、敵味方で合計12個の駒があるはずだか
ら、初期配列は、以上の2種類の場所に駒を置けば足りる。

 そうすると、もしこれが盤双六ゲームだとすれば、

中央の四角領域が、上がりを表現すると見るのはほぼ自明

だ。そこで、前述べた文言を繰り返すと”そもそも、この
盤が、普通にサイコロを使う、盤双六盤だという象棋関連
説とは別の、学会では定説と、私が認識する見方で見ると、

二重丸の所に、双六の駒を置いて、中央近くの黒い目を目
指し、黒の目から1か4のサイコロの目が出たときに、
個別の駒が上がれる。が、この黒い目では必ず止まるよう
に、出目時の駒の移動を調整してから、次の自分の番か、
1回以上止まってから、上がらなければならない。また途
中路で駒を動かすときに、同じ線は1回しか通過できない。

以上のルールで指す、6升目しか無い、簡易的な双六ゲー
ムと、等価に近いゲームと、ほぼ自明に推定できるように、
本ブログの、独自の見方としてはする”という事になるの
である。なおこの場合は、他の駒を途中で、飛び越せない
とする。また黒い王手の目は、元の六博盤で表現すると、
中央の方形の、角の一つを小さな三角形に切る形に、
長方形駒を置いた状態の、その長方形駒の状況に、対応す
る事になる。
 そこで、これで、はたしてゲームとして成立するのかど
うか、最近実際に、テストしてみたので、以下にゲーム上、
難点は生じないのかと、サイコロをどの程度振るゲームに
なるのかを、紹介しよう。
結論から述べる。

ゲームとして、成立している。ただし、スチールメイトの
補助ルールが必要。

難点は逆転の確率が低い事。

サイコロは十数回互いに振る程度で、短時間で勝負がつく。

以上のようになった。
 次に簡単にだが、補足説明しよう。
 実際のゲームでは、道具として”普通のサイコロ1個”
が、双六駒12個の他に要る。ただし中国漢代に、現在の
サイコロ駒か、それと等価で1~6の目の有る、サイコロ
の機能を持つ遊戯具が、あったのかどうかは、まだ精査
していない。少なくとも、私の作成した、六博等価囲碁型
盤(数学的グラフ盤)では、サイコロに7以上の目は出な
い方が、手が指せない事が多くなりすぎるため、好ましい。
出土品の14面体とか18面体の、中国古代のサイコロは、
後期の六博用のバージョン用か、6まで出る目が2面とか
3面づつ有ったと仮定しての、以下話となる。大きな目数
の敢えて必要なゲームが、実在するのかと言う点で、単純
にその面数までの、数の目が、中国古代サイコロに有ると
いう仮定は、むしろ不自然だろう。
 つまり、サイコロの目だけどれかの駒を、等価囲碁路で
動かし、同じ路は2回以上繰り返せないで、6目までなら
特に、ルール上問題になるケースは、余り無さそうである。
ただし、そうであっても、

動かせる手の無い、スチールメイトは、喫した方の負け

との、補助的ルールは必要なようだ。ゲームの進行上、
注意点は、その程度だ。
 このゲームは、上がり直前の目に、初期配列から、3~
6が出ただけで、いっきに到達できる。そして相手の駒を、
袋小路上のエリアの中に、閉じ込めてしまえば有利なので、

上がり直前の点を占拠するという、戦術以上の戦法は無い。

しかも、袋小路に閉じ込められてしまうと、相手の残り
の5つの駒が上がってしまうまで、

相手は戦略上、閉じ込めた駒の牢屋番的な駒は温存

すれば有利なため、1か4の目が出ても上がらず、他の駒
を動かすという方法で、固定してしまう事が多い。その為、

不利な方から見て、上がれない残り駒が、こちら側が2個
で、相手が1個になるケースが、かなりの確率で高い。

しかも、この状態で不利な側が勝てるのは、

相手が1か4の目が出ないために、しかたなくよそに、
牢屋の駒番を移動させた隙に、味方が2枚共、上がれるケー
スだけであり、逆転の可能性は、よって比較的低いゲーム

である。従って、

終盤の発散が、取り捨て将棋と持ち駒将棋の比較といっ
しょで、前者のように少なく、漢の時代には残っても、
三国鼎立の時代になると、飽きられて消滅したという説
は、至極尤もらしい。

なお史料として残っている、串焼きの串のような物体と、
6面体ではないサイコロ。さらには小さな30個の方形
の駒等は、流行の末期に、ゲーム・ルールを複雑化して、
基本型のゲームの、性能上の難点を克服しようとして、
結局は失敗した遺物であろうと見て、間違いないように
私には思える。
 最後に、サイコロの1度振りで、”王手”の点まで到達
できる程度の、盤構造のゲームと見られるため、トータル
の手数は、どうがんばっても、50手にはならない。
 比較した双六盤の升目数、駒の数等から予想されるよう
に、サイコロは1個であって、2個では無いものの、
盤双六の1/4位の総手数で終わる。比較してより劣位と
記録した古文書があると聞くが、

囲碁に比べて、全く簡便なゲームかつ、運がほぼ決める
ゲーム

である。なお、先手が有利と言う事は、特には無さそうだ。

つまり玄怪録の”小人の戦争”の、宝応”将棋”の局後評

に近い。むろん、TLV盤に関する、本ブログの解析が正
しいとしてという、条件つきの結論だが。もしかすると、
玄怪録の、”小人の戦争”の作者の(伝)牛僧儒は、宝応
将棋のルールは知っているものの、それを自分では熱心に、
のめり込んで、指すほどには興味がやはり無く、物語り中
で、”金象将軍を、岑順が褒める場面のセリフ”は単に、

将棋のレベルは六博といっしょとの仮定に基づいて、彼も
知っていた一般的な六博の一局のゲーム内容の評で、将棋
の場合を代用

しただけのかもしれないと私には想像された。(2019/02/05)

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六博盤を象棋盤状に変換しルール解析後象棋化不能を証明(長さん)

六博が中国象棋等、チャトランガ類の先祖で無い事は自明
だと私は思ってきたが、現時点でwebのサイトを眺めて
みると、そう考えられては居無いとの印象だ。”六博が進
化して象棋・将棋になった”とか、”六博は盤双六と将棋
の両方の性質がある”等を指摘するサイトが、結構目に付
く。そこで今回は、

六博のゲーム・ルールを、より正確に把握する事により、
それらのサイトの間違いを指摘する

事にしよう。
 結論から書くと、

どう似せても六博ゲームには、直進して相手陣に到達する
兵駒が作れないので、象棋に連続的には進化できない

という事になる。
 では例によって次に、詳しく説明しよう。
 まずは、いわゆる六博のTLV盤(VはYが正しい)を、
中国シャンチーの象棋盤流になおして、

長方形駒を、円形駒に置き換えても、等価なゲームになる

ようにした。
 考え方とやり方は、次の通りである。
 まず、長方形六博の駒が、何ゆえに長方形なのかについ
て、次のように本ブログでは解釈する。

TLV盤の線分2本の少なくとも一部に、必ず同時に接触
させて、六博の駒は置くルールだから

である。ここで、”TLV盤の線分”は、通常の数学的な
線分とは異なり、

分岐点をも端点とみなし、分岐点が1つある線分模様は、
2本の線分を、角度180°で繋げたものと考える

という事である。なお各六博駒は、別の六博駒とは、必ず
跨ぐ線分の、どちらか一方を別の線分にしなければ、なら
ない、量子論の、パウリの排他率のようなルールとする。

これは、シャンチーの1交点には1つの駒しか置けないの
と、かっこつけて言わなければ、いっしょという事である。

 そして、象棋盤にある”線”は、駒の跨いでいる、一方
の盤線分を、他の線分に変えるように動かしたときに、到
達する、駒状態形に対応する交点を、隣と定義し、結びつ
けた、いわゆる数学的グラフとする。
 すると、六博のTLV盤は、駒を置く交点に小さな○を
つけて、より判りやすくすると、中国シャンチー流の象棋
盤流に表現して、以下のような模様の盤と等価になる。

囲碁式六博盤.gif

 次に、中国シャンチーに六博ゲームができるだけ似るよ
うに、出土史料を、

好意的に解釈

するとしよう。すなわち、

1)サイコロと、棒のような30本の物品は、使用しない
ゲームバージョンも有ると仮定する。象棋・将棋系ゲーム
では使用しないが、サイコロは、6面体の簡易型と使い方
が等価で単純なものも、かつては有ったのだろう。
2)六博の駒の、駒の名前は元々有ったが、たまたま名無
しの道具が出土してしまった。

 シャンチーでは、まず盤に敵味方の領域区別がある。
 上の写真では、斜めになってしまったが、右下が味方の
領域、左上が相手の領域というふうに、

尤もらしい、象棋の初期配列が作りやすいように、最大限
好意的に仮定

した。
 次に六博の六は、駒の数から来るとみられるが、もっと
もらしいのは、図の二重丸の所に、駒を置いた場合である。
ただし、これではシャンチーへは進化しにくい。
駒の数が、この場合は68目になるとみられる、盤升目数
に比べて

少なすぎる

のである。これでは中国チャンチーの先祖にしては、最初
から終盤の駒枯れ状態だ。
 そこで恐らく、出土品の小さい駒30枚のうち、20枚
を追加で使う、ゲームバージョンも有ったと、

更に好意的に解釈する。

並べる位置は、竪横のそれぞれの袋小路陣の、漢字の”日”
の形の中段と下の段部分に、計8個で兵駒相当、斜めの各
4つの袋小路部分のそれぞれに、既に大きな駒の置いた、
後ろの目に、帥/将相当と士/仕相当の副官駒を並べると
いうパターンの初期配列が、例示できる。
なお大駒は、適宜、象、馬、車を2枚ずつ割り当てれば、
駒数と、盤升目数のバランスは、駒総数32枚なので、

64升目が68なら僅差であるから、インドの
二人制チャトランガ類とほぼ同じ

だ。
 ただし、問題は、

個別の駒の動かし方のルールの割り当て時に発生

する。理由は、

単純には、普通のチャトランガ系ゲームのように、六博盤
を上記のように、象棋升目盤に変換した時に、縦横の規則
正しい盤升目になっていない

からである。象と馬の

斜めの動きは、表現不可能

だ。そこで、象・馬・車は、暫定的に次の動かし方で動く
と、象棋類には、なるべくなるように仮定してみよう。

象:やり方に制限無く2目動く。ただし途中の他駒を飛び
越せない。
馬:やり方に制限無く3目動く。途中の他駒を飛び越せる。
車:やり方に制限無く1~4目動く。ただし途中の他駒を
飛び越せない。
 ただし、象・馬・車共に、同じ線を一回の動きで、複数
回通過してはならないとする。

 車駒が、車と命名されるのかどうか謎だが、これなら、
多少は象棋らしいであろう。
しかし、六博盤には、次の象棋盤には無い、深刻な問題が、
TLV模様に起因して発生する。すなわち、

け高い山脈状の”方”と名づけられた領域が中央にあり、
相手陣へは、左右の端列からしか突入できない

のである。そのため、
前段前列に整列していて、指し始め以降、相手陣に向かっ
て歩んでゆく兵駒という駒自体を、駒数で言って、仲人の
2枚程度以上は作れないという、チャトランガ・シャンチー・
チェス・将棋類の仲間に入れるにしては、

致命的な問題

が発生するのである。ようするに、このケースには、

”互いに戦争などしないで、険しい山脈の両側に別れて、
それぞれ平和に暮らしなさい”と言わんばかりの、地形の
ゲーム盤で、わざわざ戦争ゲームをするという、不可解さ

が有るという意味だ。ようするに六博のゲームの盤の
デザインが、

”こんなゲームの無い国の方が、象棋ゲームが、むしろ発
生し易いのでは無いか”と、懸念されるほどの性質である

と言う事である。
 そのため具体的には、

六博盤では、兵駒と帥/将駒、士/仕駒との動きに区別は
付けられず、中央上段に置かれた兵駒には、後退できる
ルールがないと、敵陣間近の大山脈の行き止まりで、立ち
往生となる恐れも発生する

のである。
 だから、本ブログの管理人に言わせると、
最初にチャス・象棋・将棋型ゲームを発明したゲームデザ
イナーが、六博を指せた可能性は否定できないが、
六博から、チャス・象棋・将棋型ゲームが出来た可能性は、
兵駒を発明すると共に、そう考えるのが当たり前だが、
直交座標のような囲碁型の盤へ、六博の気高い中央山脈の
ある路構造に変換される遊戯盤は、取り替えないと駄目だ
と気がつかないと、発明できない。だから、六博から象棋
への移行が、仮に有ったとしても、

別種のゲームへの移行と、明らかに見なせる

と、結論できるように考えるのである。
 そもそも、この盤が、普通にサイコロを使う、盤双六盤
だという別の、学会では定説と私が認識する見方で見ると、
二重丸の所に、双六の駒を置いて、中央近くの黒い目を目
指し、黒丸の目から1か4のサイコロの目が出たときに、
個別の駒が上がれる。が、この黒い目では必ず止まるよう
に、出目時の駒の移動を調整してから、次の自分の番か、
1回以上止まってから、上がらなければならない。また途
中路で駒を動かすときに、同じ線は1回しか通過できない。
以上のルールで指す、6升目しか無い、簡易的な双六ゲー
ムと、等価に近いゲームと、ほぼ自明に推定できるように、
本ブログの、独自の見方としてはする。なお双六ゲームと
しての内容の議論は、ごちゃごゃになるのを避けるために、
このページでは、この位にしておこう。
 以上のように、”六博→囲碁等価盤”を作成して、象棋
ゲームとして、考察した結果、

やはり六博は、中央部に行き止まりのある形式の盤である
がために、使用駒種類が、象棋に比べて異形かつ作れる種
類が限られ、従って、そのような発明を飛び越して、自然
に連続的に、象棋に進化したものではない

と考えられた。
 以上の考察以降”六博は象棋の先祖”だとか、”六博に
は象棋の要素が有る”と主張する、webサイトには、
遊戯史の研究者によるものとみなせる、文献研究の出典が
示されて居無いケースでは特に、その主張内容の真実性に
関して、充分に疑って掛かる必要があると、私は個人的に
は考えるようになったのである。(2019/02/04)

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赤旗”中国文物の権威は大将棋進化を遅延”説は大理説に合う(長さん)

昨年の後半の事だったが、

増川宏一氏が、政党新聞の赤旗の金曜特集に、大将棋の進化と、
将棋の伝来元を結びつける、平安時代の記憶が中世に残存

という視点での、最新の彼の説を発表している旨、本ブログで
も取り上げた。”マルクスもレーニンも、将棋を指す”という、うわ
さ話を書いた短歌が有るらしいが、中国人では無いので、この
説は、外国の共産主義思想とは、関係が無い。中国共産党よりも
日本共産党の方がレベルが上(私は論の実在と真偽未確認)と
いう風説(?)とは、一応つながるらしいが。
ようするに、この政党新聞の、この記事のこの部分の狙いは、

将棋伝来元が、中国中原ではなくて、東南アジアであるとの
増川宏一氏の持論や、大内延介氏の説等を、補強するのが狙い

とみられた。
 表題のように、平安小将棋の伝来バージョンが仮に、中国中
原の物であるとすれば、平安時代の日本の知識人には権威があ
り、改変を阻害して

平安大将棋の発生や、その変化を遅らせるはずのため、
中国中原起源ではなくて、東南アジアとみるのが妥当との主旨

であった。今の所、本ブログで前に述べたように

陰陽五行説を、日本の伝来将棋の権威に、更に優先させたと考
えれば、大将棋の変化挙動は、平安時代の伝来元の記憶を残す
とは、必ずしも言えない

という点は間違いないと、私は個人的にみる。そのため、

他説を完全否定できるわけではないが、将棋伝来元の中国中原、
東南アジア、そして本ブログの言う”大理国(雲南)起源”と
3つ並べて、順位をつければ、”大理国(雲南)起源”が一位
で、他2説が2位になるという、相対的な程度に関する差位は、
実は付くのではないか

という予測について、以下述べる。

 理由を結論的に最初に述べる。
中国中原についての推論は、増川氏の思考に一理ある。が、
東南アジアの文物だとすれば、陰陽五行説という中国の文化と
の整合性は、最初から、日本の中世のゲーム・デザイナーには
中国に対して、整合無理な圏外文化圏の物と認識されてしまい、

初めから諦められてしまうので、改善そのものが、なされない

のではないか。その為に実際に行われた、大将棋の陰陽五行説
とのマッチング進化が、東南アジア起源としていまうと、むし
ろ、やや起こりにくくなるのではないか、とも考えられるから
である。
 では、以下に説明を加える。
 赤旗の昨年の”将棋の歩み”に関する、増川氏の中世の大将
棋の発生進化に関する、以上の論を読んだ時点で、私には、

彼の東南アジア説を補強するための、”勝負手”を繰り出した

ように見えた。中国伝来説への攻撃材料としては、筋が細いと、
平安小将棋と五行との不完全な対応から、そのように思えたか
らである。平安小将棋の最下段の駒名が、5宝という考えは、
本ブログも指摘したように、根拠となる文献が、伝来時期と大
きく違う等、不可解な点がある。そもそも、馬や車の仲間が、
どうして将の類と横並びなのか。
 つまり、伝来最初の将棋は、陰陽五行説物としてはイビツな構
造なため、正しい陰陽五行説に沿う、平安大将棋を作成して、

より、中国文物としての権威を、日本で新たに持たせるという
プロセスは、どこから将棋が伝来したにしても、自明に近いほ
ど自然

と、私には感じられたからである。
 東南アジア説からの、中国起源説への攻撃アイテムとして、
さほどの力が出るとは、昨年の時点では、少なくとも本ブログ
には感じられなかった。
 しかしながら、今にして思うと、

中国の物だから、難が有っても手直ししないで置こうという動
きや、作用が、完全にゼロと言うわけでもなかった

と、私も考えるようになった。

そう考えた文化人も、鎌倉時代に皆無と証明はできない

だろう。つまり、大将棋の進化にとって、伝来将棋が中国起源
であるという事は、余りプラスにならない事は、増川氏の言う
ように確かだ。
 他方今度は、日本の将棋の伝来元が、東南アジアだとしよう。
そうしたときに、大将棋類の進化にとって、増川氏のイメージ
したように、プラスなのかと言うと、

増川氏の言うようには、東南アジア伝来元説にとっても有利に
はならない要素も有る

と、私には思えてきた。結論に述べたように、
鎌倉時代の将棋のデザイナーは、中国とは全く無関係な文化圏
から、日本の将棋が伝来したとすると、中国文化への同化は、

最初から中国文化に近くする事は諦め、”これはこれで、元々
そういう物だ”という感覚で、処理してしまう

恐れがあるのではないかと、私には思えてきたからである。
 無論、それでも当時中国文化圏の一部であった日本の将棋な
らば、”日月星辰の動きに則り、陰陽五行の理に適った、ゲー
ムで無ければならない”と考えるゲームデザイナーが、全く無
いとまでは、私も言わない。しかし、

最初からの諦めムードは、有る程度予想されるだけに、中国
文化圏から来た文物に比べて、実際起こった大将棋の変化挙動
を、より説明し辛くなる事は確か

なのではないか。
 だから、結論で述べたように、中国でも東南アジアでもなく、

中国文化圏の隣接地帯から、日本の将棋がやって来たとした場
合が、実際の大将棋の変化を説明する際には、どちらかと言え
ば一番有利

になるのではないかと、私は最近考えるようになったのである。
 なお、近年の説では、日本の将棋の伝来元については、イン
ド以東については、日本自体も含めて種々あるが、時期につい
ては、北宋時代との説が、いまでは基準点になった。そこで、
その時点で

中国人にとっては異民族の、元王朝は除く、中国の王朝が適宜
最大版図であったときに、時に領土内に含まれていた周辺地域

が、中国では無いが、中国文化圏である周辺地域であると見な
すのが、判りやすく妥当だろう。
 具体的には、余り強くなかった北宋王朝時代を、基準にする
ならば、

遼、西夏、大理、李朝ベトナムの4箇所のどれかという、
表現で、陰陽五行が支配する、中国文化の周辺地域と見て良い

のではないか。なお、朝鮮半島は中国伝来説に重なるし、チャ
ンギが固定化してから、日本の将棋になると言うのは、前世紀
の将棋Ⅰの増川推論から、大いに無理である。
 そこでこの中で、今も銀将駒の銀を連想させる、銀細工師が
居るという点が観光地として著名である。また11世紀の伝来
なら、航海術に長けた中国の交易商人による、大鏡流の表現で、
”藤原貴族の喜ぶ、誰も知らないような”異文化文物の長距離
伝来も可能と考えられる。そうであるならば、途中地域が跳ん
でも矛盾がないと、少なくとも本ブログは独自の視点で見るた
め、大理国を、日本の将棋の伝来元の候補の一つに挙げると言
うのは、ほぼ自明であろうと、私には考えられるという結論に、
やはりなったという訳なのである。(2019/02/03)

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猛豹、悪狼、猫叉。最後に大将棋に加わったのは、どれか(長さん)

本ブログでは、二中歴の大将棋の記載から、いわゆる
後期大将棋の袖の動物小駒については、まず二中歴より、
1)盲虎、飛龍が最も早く平安末期。ただし、南北朝時代
までに、猛虎を盲虎へ変更。(今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡中将棋木札が根拠。)
 ついで、普通唱導集の大将棋の唱導唄の内容から、
2)嗔猪が導入。
 そして、鬼門の信仰から来る配列を入れるためには、
3)猛牛が必要
との論、すなわち特に3)を、何回か指摘・主張してきた。
 つまり、残りの猛豹、悪狼、猫叉という3種類の駒は、
後期大将棋に有っても、上の駒より後の、鎌倉末期から、
南北朝時代にかけて成立した後期大将棋用小駒という意味
である。これら3者と、石将が3)の時点で、大将棋には
無かったと考えると、袖の無駄小駒は減少し、大駒の全体
の割合が増加するので、

普通唱導集大将棋は、後期大将棋より優れた将棋である

という、復権するのにはたいへん都合の良い事になる。
少なくとも嗔猪を更に、大大将棋の方行と取り替えると、
現行の獅子に関する特別な規則が強力な、中将棋並の、
バランスのとれた将棋になるはずだ。
 ところで、普通唱導集大将棋から中将棋への小型化は、
嗔猪、猛牛、飛龍、桂馬を取り去り、鉄将を猛豹に変えた
後、一旦横14升目化してから、角行列を角行を下げて無
くして12升目化し、獅子を最初から居るようにして、
飛車、堅行、横行を入れ替える等すると、中将棋の形に
なったとみられる。
 ただし、中将棋が成立したのちに、3の倍数の盤升目の
将棋が、3が小将棋、4が中将棋として成立していたので、
5の15升目の後期大将棋化、すなわち大型化が、

しばらくして実質平行して行われたと、本ブログでは独自

に見る。
 飛龍と、そのときまでには、対と考えられるように変化
した猛牛の列を、本ブログの言う普通唱導集大将棋に加え
て、5将に石将の第6将目を加えれば、15列化は出来た
が、走り駒の猛烈な消耗を防ぐために、現行の5段自陣型
ではなくて、それが、押しつぶされたような形の、

4段自陣配列型の中間的大将棋を作成したと考えている。

その際、そうするには、ここで論じている袖小駒が、飛龍
と猛牛を移動させた分

2種だけ足りなかった

と考えられる。ところで、現在残る後期大将棋は、
少なくとも本ブログの推定では、普通唱導集大将棋から、
後期大将棋への移行に於いて、押しつぶされた4段配列の、
普通唱導集大将棋から、後期大将棋へ向けての中間的進化
の時点では、2種だけの小駒の追加で充分であり、

3種類の小駒、すなわち表題の、猛豹、悪狼、猫叉が、
最終5段自陣化で加わった事は確かだが、中間では1種
ダブついている。

以前本ブログでは、一例として、悪狼が無い、15升目4
段中間大将棋を指摘した。普通唱導集大将棋からの移行を、
仲人、歩兵列は省略して下の方の中央から右辺だけ書くと、
以下のようになる。(右鳳凰、左麒麟は、以下では「麟鳳」
と略記する事にする。猛虎は進化初期に盲虎と名称と動き
が変更となる。)
スタート時点の普通唱導集大将棋(本ブログ型)
奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
酔象、麟鳳、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車
玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車

15升目へ移行させる、飛龍列作成による配置転換>
奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
酔象、麟鳳、盲虎、口口、嗔猪、口口、猛牛、反車
玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車

悪狼を除く、猛豹と猫叉の導入
奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
酔象、麟鳳、盲虎、猛豹、嗔猪、猫叉、猛牛、反車
玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車

ここから始めて5段自陣配列化が起こったと、少なくとも
本ブログでは考える。すなわち、5段化は、互い違いに空
の升目を入れ、盲虎だけ、中央に寄せ、ついで悪狼を入れ
ると形式的に完成する。

自陣5段配列への膨張
奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
口口、麟鳳、口口、口口、嗔猪、口口、猛牛、反車
酔象、口口、盲虎、猛豹、口口、猫叉、口口、反車
玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車

盲虎を中央に寄せる
奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
口口、麟鳳、口口、口口、嗔猪、口口、猛牛、反車
酔象、盲虎、口口、猛豹、口口、猫叉、口口、反車
玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車

 この段階から、更に中将棋に合わせて、後期大将棋でも
中央に、元から有る獅子を入れ、麒麟/鳳凰の隣に、悪狼
を加えると、後期大将棋の配列になるというわけである。

後期大将棋
奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
獅子、麟鳳、悪狼、口口、嗔猪、口口、猛牛、反車
酔象、盲虎、口口、猛豹、口口、猫叉、口口、反車
玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車

ただし、今までは、表題のように猛豹、悪狼、猫叉のうち
で、最初の2種類が、猛豹、猫叉、最後が悪狼としたのは、
単にそうした例を示しただけで、

根拠は無かった

のである。
 今回は、神奈川県鎌倉市御成の、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札の存在という
新たな情報の発生を受けて、

猛豹、悪狼、猫叉のうちの、最後はどれなのかを推定して
みる。

回答はずばり、

猫叉が最後

とみられる。根拠は、この木札を読むと、

猛豹は存在するが、中将棋では初期位置を、鉄将の前升目
から、後ろに一歩引くと書いてあるが、盲虎は推定猫叉の
動きから、現中将棋の盲虎の動きに代えなければならない

との意が書いてあるとみられるからである。猛豹は少し前
から有って、位置変えが必要、猛虎は、これから猫叉の動
きは止めにして、その結果、猫叉が作られると、木札を読
むと、そう自然に解釈できるわけである。つまり、猛豹は、
悪党から悪狼が作成された結果、猛将から連想された結果、
作る事の出来た、木札より少し前の作だが、

猫叉は、もともと洒落で作った駒でなく、妖怪として悪狼
の類である事を利用して、後期大将棋が5段化するときに、
盲虎が、寄ると1種類、駒種類が足らないのを補充するた
めに、猛虎の斜め四升目歩みから、前を除く7方向歩みに
変える事によって作られ導入出来た旧猛虎と同じ動きの駒

とみなせるからである。ようするに、猛豹と悪狼は、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札が作成された
よりも10~20年前の発明だが、猫叉は、この木札が作
られた頃か、あるいは木札よりせいぜい、2~3年前の作
というレベルであると、言う意味である。
 ちなみにそうすると、盲虎が自陣5段目化してから中央
に寄ったときに、配列は、以下のようだったと見られる。

猫叉が無い状態で、盲虎を中央に寄せる
奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
口口、麟鳳、口口、口口、悪狼、口口、猛牛、反車
酔象、盲虎、口口、猛豹、口口、嗔猪、口口、反車
玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車

実は、獅子が次に入るとして、だいぶん前に本ブログで
指摘したが、

悪狼から猫叉が連想で生まれると同時に、悪党という言葉
が、平安大将棋時代の、中央にあった横行と類似語である
事が利用されて、悪狼は中央に2歩寄るような移動をした
のではないか

と考えられる。つまり、次のようになったのだろう。

後期大将棋の一歩手前
奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
獅子、麟鳳、悪狼、口口、猫叉、口口、猛牛、反車
酔象、盲虎、口口、猛豹、口口、嗔猪、口口、反車
玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車

なお後期大将棋で、猫叉と嗔猪は、獣の列位から言うと、
元々の妖怪の力としては同格だが、猫のイメージからより
下位とみなされ、袖に寄せられる要素が有った。そして、
これも、本ブログで既に指摘したが、

相手の右角行の筋が猛牛に当たるので、後期大将棋では、
猛虎動きの駒が、猛牛の斜め下に居る方が、縦横歩みの
嗔猪が居るより、都合が良かった。

 そこで最終段階で、

猫叉と嗔猪は、前に本ブログで述べたように、位置がひっ
くり返された

のであろう。

後期大将棋
奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
獅子、麟鳳、悪狼、口口、嗔猪、口口、猛牛、反車
酔象、盲虎、口口、猛豹、口口、猫叉、口口、反車
玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車

このように考えると

猫叉が、後期大将棋の袖小駒の中では最も新しい駒

と考えて矛盾はない。以上のように結論できると、私は考
えるようになったのである。(2019/02/02)

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猫叉が普通唱導集の大将棋には無いと見られる理由のまとめ(長さん)

本ブログでは、悪狼は鎌倉末期の悪党の洒落で1300年頃
成立の普通唱導集の大将棋の駒には無く、猫叉は明月記の
記載から、同類妖怪として鎌倉末に発生した駒と見ている。
 結論から書いてしまうと、
1)猫叉は明月記の記載から、悪狼の狼と同類妖怪。つまり
犬の大きさで、夜間暗くて人間の視力が落ちるのを利用して、
人を襲う送り狼か山犬類似の妖怪として鎌倉末に発生したた
め、普通唱導集の大将棋に含まれているとは考えられない。
以上の点の他、
2)神奈川県鎌倉市御成町の今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡出土の、中将棋木札(よみがえる中世3 武士の都鎌倉
221ページ下写真としてのみ、現存。実物紛失)に、
”まう虎は近くへ行くが、上わゆけぬ”との旨書いてある所
から見て、鎌倉末期の直前まで、盲虎が、二中歴の大将棋の
猛虎の、斜め隣接升目動きだったため、

動きが重複してしまう猫叉は、
西暦1300年の普通唱導集の成立時には無かったと
推定される

という2番目の指摘を、これまでの所本ブログでは、書き落
としていると考えられた。
 以上が、結論としてのまとめであるが、それでは以下に、
詳しく説明を加える。
 今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の、中将棋木札を作
成したと推定される、
神奈川県鎌倉市御成町の今小路西御成小学校遺跡に、
鎌倉時代末期または、南北朝時代に存在したと見られ、碁石
や、”いかさまサイコロ”の出土でも知られたゲームセンター
の管理人は今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土中将棋木札
を作成する時点で、

それまでの猛虎の動きは、二中歴の猛虎の斜め隣接升目歩み

と認識されていたと見るのが、最も自然である。
 つまり、普通唱導集大将棋が仮に、後期大将棋と同じもの
であるとすると、後期大将棋の2段目の初期配列は、

反車口口猫叉口口猛豹口口盲虎酔象盲虎口口猛豹口口猫叉口口反車

であるから、盲虎または猛虎が、駒の動かし方ルールに於い
て、猫叉と重複してしまう。
 だから、
”まう虎は近くへ行くが、上わゆけぬ”と書いたときに、そ
れまでの”まう虎”が、二中歴の猛虎の動きと認識されてい
たとすると、

猫叉が入った後期大将棋を、西暦1300年の良季編書の
普通唱導集の大将棋として唄うのは、そもそもおかしい。

それに加えて後期大将棋の盲虎が、中将棋の盲虎以外の動き
だったという証拠も、少なくとも現時点では見つかって無い。
つまり、神奈川県鎌倉市御成町の今小路西御成小学校遺跡で、
鎌倉時代末期または、南北朝時代に存在したと見られる、
ゲームセンターで、中将棋木簡が書かれた時点より、少し前
に、盲虎の動きが、それまでとは違っていたという指摘は、

後期大将棋から中将棋が進化したとしたら出て起ようが無い

という事だとみられると、いう訳である。
 しかし、獅子の意味の師子の替わりに、狛犬の意味とみら
れる、白犬(志ろいぬ)を導入する、中将棋の仲間の、仲間
うちでしか通用しにくい専門用語(隠語)を使うルール記載
をした、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土中将棋木札に
関して、

奔車飛龍口口口口猛虎口口横行口口猛虎口口口口飛龍奔車

と、第2段目が初期配列される、平安大将棋ないし、その系
列の大将棋が、中将棋の先代型だとすれば、

この木簡の記載と本ブログの普通唱導集大将棋とは話が合う

と言う事である。たとえば、本ブログの普通唱導集大将棋は、
二中歴記載の、平安大将棋の第2段目に概ね駒を詰め込んで、

反車飛龍嗔猪猛牛猛虎麒麟酔象鳳凰猛虎猛牛嗔猪飛龍反車

にした、平安大将棋系の将棋だから、猫叉は無く、

これなら、話が合う

のである。当然上の本ブログの普通唱導集大将棋のルールは、
二中歴の上位互換で、猛虎は、斜め升目歩みと仮定されてい
る。
 ただし神奈川県鎌倉市御成町の今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡出土の中将棋木札には、”近くへ行くが、上わゆけぬ”
”まう虎”の、進化に関して前段階の、猛虎または盲虎が、
どのような駒の動かし方ルールであったのかまでは、明らか
にされて居無い。
 もしかすると、斜め升目歩みではなくて、和将棋の登猿や
大大将棋または、大局将棋の盲猿、大阪電気通信大学ルール
の盲熊の類の、別の動きだった可能性も、これだけでは完全
に否定は出来ない。
 今の所今小路西御成小学校遺跡ゲームセンターで鎌倉末期
または、南北朝時代にゲームを楽しんだ、駒数多数将棋の
棋士にとり、今日まで残る二中歴よりも、そのルールが正し
いと信じ込ませるような、社会に普及して、残る印象の強い
盲虎・猛虎のルールが、二中歴大将棋の記載とは別に、木札の
中将棋以前に有ったとは、一応信じられ無いと言う理由で、

”近くへ行くが、上わゆけぬ”まう虎の前は、
”四隅一目行き”のまう虎だったと、一応仮定しただけ

の話とは言える。そうだとすれば、後期大将棋が中将棋の親
では無いばかりでなく、
中将棋の親となる普通唱導集時代の大将棋には、”四隅一目
行き”としてしまうと、猛虎とルールが重複してしまう、

猫叉が無かった

と、木札の記載からも、推定できる事になると言う訳である。
 以上のような議論を結論から見ると、鎌倉市の市役所が
紛失した史料は、著しく大切な将棋ルールの木札であった。
本ブログに於いては、神奈川県鎌倉市の鎌倉市役所に、この、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札の現物が一日も
早く戻るよう、重ねて祈りたいと考える。(2019/02/01)

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