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栃木県小山市の神鳥谷曲輪の裏金一文字角行駒の”金”の書体(長さん)

先だって、藤田麻衣子女流プロ棋士に、佐藤敬商店中将棋の
歩兵の裏金の字の崩し方を指摘されて、出土駒の成り金の崩
しについて、気が付いた事がある。表題の、南北朝時代の
故人の遺品を、象ったと私見する、小山市神鳥谷曲輪遺跡か
ら、2007年春に出土した、裏金一文字角行駒の、成り金
の字の崩し方である。そもそも、この駒が南北朝時代のもの
ではなくて、その記録に基づいて、恐らく江戸元禄時代あた
りに作成されたものと、推定されるのだが、その証拠に、
「金」が草書ではなくて、桂馬かもしかすると銀将の裏金程
度の崩し方なのである。
南北朝時代のものなら、麒麟抄に従い、香車の裏の「金」の
字程度に、崩されていなければならない。実際に作られた時
代は不明だが、聆涛閣(れいとうかく)集古帖
に、「摩訶大将棋図」というのがあり、それによると、角行
の成りの金の字も、香車の裏の金の字の書体になっている。
なお、上記書では、第6段の歩兵も香車の成り金、さらに、
竪行、横行、飛車等、角行を配置する、第5段部分も、成り
は香車の裏の金である。ネットにも画像が出ているので、ど
なたにも確認できるはずである。ちなみに、水無瀬兼成の、
将棋図部類抄でも、中将棋の歩兵の裏は、香車の裏の金になっ
ている。この事から、佐藤敬商店の中将棋駒の歩兵の裏のと
金の崩し方は、将棋図部類抄等、複数の古文書の歩兵が、
たぶんオリジナルであろうと推定される。
 ちなみに、聆涛閣(れいとうかく)集古帖では、
「摩訶大将棋」の、4段目以下の成りの字の崩し方の規則は、
なかなか複雑である。すなわち4段目で金に成る駒は、
「今金」になっている。詳細謎だが、日本将棋の駒の書体の
影響により、桂馬が4段目に有るので、それに合わせた物の
ようにも見える。更に2段目の反車と1段目の香車の成りは、
日本将棋の桂馬の成りになっている。崩し方で、余ったもの
を当てはめた、という感じもする。この事から、小山市出土
の角行駒は、その整ったな書体から、将棋駒を書く専門の
書家によって、作成された一品の可能性が濃いが、麒麟抄と、
聆涛閣集古帖を参照していない可能性が高い。
実は、私が知る限り、この小山市神鳥谷曲輪から出土した、
角行駒のように、桂馬の裏の金の字程度の、弱い崩し方を
する角行駒の記録は、前記の

水無瀬兼成の将棋図部類抄の摩訶大大将棋の角行しか有り得
ない

水無瀬兼成の将棋図部類抄では、中将棋で金に成る駒の成り
の書体を全部、日本将棋の香車の裏の金のような、草書体で
書き、摩訶大大将棋(鳳凰の成りは奔王)の図では、これと
は異なり、成りが金となっている駒を、全部桂馬の裏の金の
字のように記載する。すなわち水無瀬兼成が記載した、摩訶
大大将棋の角行の成り駒は、桂馬の裏の金の書体になってい
るのである。恐らく、水無瀬兼成は、持ち駒ルールの無い、
駒数多数将棋では、将棋の種類によってのみ、成りの金の字
の書体を変えるよう、意図しているように私には見える。
 この事から、元禄時代頃の、小山市の元尼寺、青蓮寺の住
職は「南北朝時代の、寺の開基者の尼さんの遺品」を再現す
るにあたり、安土桃山時代の

水無瀬兼成の将棋図部類抄を参照して、レプリカを作成した
疑いが、かなり強いように私見する。

駒を見る限り、この角行は、摩訶大大将棋のものとも、泰将
棋の駒とも区別が付かないが、水無瀬兼成の将棋図部類抄に
は、泰将棋の成りが図示されていないので、

青蓮寺の関係者が、上記角行駒を摩訶大大将棋の駒と意図
している

可能性も、かなり高いように思われる。恐らく、その当時に
は教科書として入手できた、異制庭訓往来の将棋の記載、

将棋は合戦を模したもので、・・「多い将棋」は360前後
の一年の日にちの数に則っている

の文句も、小山市の青蓮寺(当時)の住職は、水無瀬の将棋
図と同時に、たぶんだが、知っていたのであろう。なお、こ
の場合の360は、通説のように駒の数ではなくて、盤の
升目が、囲碁の交点数の19×19と同じで、升目数として
361升目になる事を、同時に言っている可能性があると、
私は個人的には考えている。そこで、小山市の尼寺(南北朝
時代から戦国時代まで)の青蓮寺を、南北朝時代に開基した、
尼さんの遺影に、摩訶大大将棋の角行駒を、異制庭訓往来の
将棋の記載が、南北朝時代だという事で、当てたのだと
考えられる。
 以上の事から、水無瀬兼成の将棋図部類抄も、恐らく
元禄時代の、小山市神鳥谷と天神町の境付近にあった青蓮
寺(当時は、普通の男の住職が居て、真言宗系)には、
保管されていた可能性が結構高い事も、推定できる。
 水無瀬兼成の将棋図部類抄は、今でも残っているから、
江戸時代の初期なら、入手は、さほど困難とは思えない。
が、京都から離れた、栃木県(下野)で所持されていたと
いうのは、結構珍しい事かもしれない。
 ただ、これはこの青蓮寺が、小山市天神町の地名にも
あるように、恐らく安土桃山時代程度からは、有ったとみら
れる、現存の栃木県小山市の天満宮を支配していた事から、
北野天満宮とも繋がりがあり、その北野天満宮の宮司も
兼ねていた、京都の曼殊院とも、繋がっていたため、その
ルートで将棋図部類抄を入手したと考えれば、つじつまが
合いそうである。なぜなら、曼殊院所蔵の将棋図が、水無
瀬兼成の将棋図部類抄の、種元文書であり、曼殊院と
水無瀬兼成は、繋がっているからである。何れにしても、

「小山市神鳥谷曲輪出土の角行駒は、水無瀬兼成の
将棋図部類抄の、摩訶大大将棋の成りの図とだけ、
裏の成りをあらわす『金』の字の崩し方が同じ」

と職業柄気が付かれた、
藤田麻衣子女流プロ棋士には、将棋や遊戯の歴史の研究
上も、今更だが、何とお礼を言っても、言い切れないものが
あるように思える。(2016/12//22)
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df233285

水無瀬兼成の将棋の古文書の名前が間違っていました(長さん)

水無瀬兼成の「将棋部類抄」
(古文書内の表題名称:象棊纂圖部類抄)が、本文中で、
全部、
「将棋図部類抄」に間違ってタイプされていました。。
つつしんでお詫びし、訂正いたします。
by df233285 (2016-12-23 19:52) 

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