溝口和彦さんの訃報(長さん)
神奈川県にお住まいの将棋史研究家、溝口和彦さんが、今年(2017
年)の1月16日に亡くなられた事が、御自身のブログで明らかにされた。
享年65歳であった。溝口さんは、亡くなる間近まで、自身のブログにて、
彼の将棋史の研究結果を、公表され続けていた。興味分野の近い、大きな
仲間を失ったという悲しみが、真っ先に私を襲った。
溝口さんには、一度”摩訶大大将棋連盟の集会”で、お会いした事が
あったが、普段は私の、彼のブログへの、調子のおかしい書き込みに対し、
辛抱強いコメントを頂戴するというのが定番で、御迷惑を多々おかけした。
寛容のある方で、巡り合った後は、終生私のような者に対しても、気さく
に御相手をしてくださっていた。誠にありがたいことであった。
さて、溝口氏の将棋史への業績として、
15×15升目114枚制普通唱導集大将棋の発表。
これだけは落とさず、今以降いつまでも記憶して置く必要がある。
これは従来の「普通唱導集の大将棋に現れる駒種から、既存の13×
13升目68枚制の平安大将棋、15×15升目130枚制の後期大将棋
からの2択で、この唱導集の内容は、後期大将棋の説明である」とする説
に、溝口氏は飽き足らず、彼の言い分によれば、「強い駒に関する記載が
無い」とのその内容から、「飛車駒を最も強い駒とする、第3の大将棋に
ついての言及である」と結論した、歴代3種以上の大将棋の存在を、初め
てはっきり示唆した、エポックメイキングとなった考え方であった。
また、この事は、比較的短い普通唱導集の大将棋の記載には、それが、
どんなルール、特に、初期配列をとった将棋種なのか、よく読めば、それ
さえ、かなり推定できる、巧みな表現である事を、我々研究家に気づかさ
せ、この唱導集の大将棋部分の記載が、以降研究家に精査されるようにな
った、きっかけとも言うべき提案であった。
ちなみに、上に全体図を示したが、一方の棋士の分を拡大すると、以下
のようになり、溝口氏によって、普通唱導集の大将棋の駒の初期配列は、
以下のようであるだろうと、当時提案された。
彼の普通唱導集大将棋の特徴は、既に述べたように飛車より強い、獅子、
奔王、龍王、龍馬等が無いという点と、平安大将棋に有る駒は、同系統の
駒が、全部普通唱導集には有るが、後期大将棋に有って、彼の普通唱導集
大将棋には、無い駒が有るという特徴がある。
つまり、彼の普通唱導集大将棋は、平安大将棋と、後期大将棋の、
中間型のような形をしている。この事は、平安大将棋の記録が西暦
1200年頃、後期大将棋の初期配列の初出が、どう早く見積もっても、
成文化されたとされる間接記録で、西暦1400年以前には遡れず、
そして、普通唱導集の大将棋の記録自体が、西暦1300年程度である事
を考えると、少なくとも直感的理屈としては、言われてしまえは、至極
有り得る様な、もっともな説となっていた。
そして、実にそれ以降の
大将棋の研究の隆盛は、基本的に彼の、この提案のおかげと言ってよい。
すなわち従来、後期大将棋と平安大将棋が、足の軽い、特に8段型平安小
将棋と、双璧をなしたゲームの割には、妙に軽快さが無い、のろまな流れ
の将棋になる事は、将棋史研究家なら、恐らく誰も、内心不思議に思われ
てきた。そしてそのうさん臭さから、大将棋の研究へ、立ち向かわせるこ
とを暗に避けさせる、根本原因になってきた。溝口さんの提案は、
黄金時代の大将棋の中間種の方が、ひょっとすると絶滅期の大将棋である、
後期大将棋よりも、足の軽いタッチのゲームが出来うるルールに、なって
いたのかもしれないという、可能性を考えさせるきっかけを作ったのであ
り、結局その壁を打ち破ぶる、礎となってくれたものだったのである。
よって、
溝口和彦氏を”大将棋研究の父”と呼んでも、あながち全く無謀とまでは、
到底言えまい。
なお、溝口氏の業績もろもろについては、更に折を見て今後も触れ続ける。
残された場末な者である私としては、今は謹んで彼の御冥福を、ただただ
お祈り致したいと、表明できるのみで、多くを語る気力も起きない。(2017/02/09)
年)の1月16日に亡くなられた事が、御自身のブログで明らかにされた。
享年65歳であった。溝口さんは、亡くなる間近まで、自身のブログにて、
彼の将棋史の研究結果を、公表され続けていた。興味分野の近い、大きな
仲間を失ったという悲しみが、真っ先に私を襲った。
溝口さんには、一度”摩訶大大将棋連盟の集会”で、お会いした事が
あったが、普段は私の、彼のブログへの、調子のおかしい書き込みに対し、
辛抱強いコメントを頂戴するというのが定番で、御迷惑を多々おかけした。
寛容のある方で、巡り合った後は、終生私のような者に対しても、気さく
に御相手をしてくださっていた。誠にありがたいことであった。
さて、溝口氏の将棋史への業績として、
15×15升目114枚制普通唱導集大将棋の発表。
これだけは落とさず、今以降いつまでも記憶して置く必要がある。
これは従来の「普通唱導集の大将棋に現れる駒種から、既存の13×
13升目68枚制の平安大将棋、15×15升目130枚制の後期大将棋
からの2択で、この唱導集の内容は、後期大将棋の説明である」とする説
に、溝口氏は飽き足らず、彼の言い分によれば、「強い駒に関する記載が
無い」とのその内容から、「飛車駒を最も強い駒とする、第3の大将棋に
ついての言及である」と結論した、歴代3種以上の大将棋の存在を、初め
てはっきり示唆した、エポックメイキングとなった考え方であった。
また、この事は、比較的短い普通唱導集の大将棋の記載には、それが、
どんなルール、特に、初期配列をとった将棋種なのか、よく読めば、それ
さえ、かなり推定できる、巧みな表現である事を、我々研究家に気づかさ
せ、この唱導集の大将棋部分の記載が、以降研究家に精査されるようにな
った、きっかけとも言うべき提案であった。
ちなみに、上に全体図を示したが、一方の棋士の分を拡大すると、以下
のようになり、溝口氏によって、普通唱導集の大将棋の駒の初期配列は、
以下のようであるだろうと、当時提案された。
彼の普通唱導集大将棋の特徴は、既に述べたように飛車より強い、獅子、
奔王、龍王、龍馬等が無いという点と、平安大将棋に有る駒は、同系統の
駒が、全部普通唱導集には有るが、後期大将棋に有って、彼の普通唱導集
大将棋には、無い駒が有るという特徴がある。
つまり、彼の普通唱導集大将棋は、平安大将棋と、後期大将棋の、
中間型のような形をしている。この事は、平安大将棋の記録が西暦
1200年頃、後期大将棋の初期配列の初出が、どう早く見積もっても、
成文化されたとされる間接記録で、西暦1400年以前には遡れず、
そして、普通唱導集の大将棋の記録自体が、西暦1300年程度である事
を考えると、少なくとも直感的理屈としては、言われてしまえは、至極
有り得る様な、もっともな説となっていた。
そして、実にそれ以降の
大将棋の研究の隆盛は、基本的に彼の、この提案のおかげと言ってよい。
すなわち従来、後期大将棋と平安大将棋が、足の軽い、特に8段型平安小
将棋と、双璧をなしたゲームの割には、妙に軽快さが無い、のろまな流れ
の将棋になる事は、将棋史研究家なら、恐らく誰も、内心不思議に思われ
てきた。そしてそのうさん臭さから、大将棋の研究へ、立ち向かわせるこ
とを暗に避けさせる、根本原因になってきた。溝口さんの提案は、
黄金時代の大将棋の中間種の方が、ひょっとすると絶滅期の大将棋である、
後期大将棋よりも、足の軽いタッチのゲームが出来うるルールに、なって
いたのかもしれないという、可能性を考えさせるきっかけを作ったのであ
り、結局その壁を打ち破ぶる、礎となってくれたものだったのである。
よって、
溝口和彦氏を”大将棋研究の父”と呼んでも、あながち全く無謀とまでは、
到底言えまい。
なお、溝口氏の業績もろもろについては、更に折を見て今後も触れ続ける。
残された場末な者である私としては、今は謹んで彼の御冥福を、ただただ
お祈り致したいと、表明できるのみで、多くを語る気力も起きない。(2017/02/09)
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