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奈良文化財研究所”平城京墨書土器集成”に角口(長さん)

既に本ブログで述べたとおり、西暦1018年の
御堂関白記の記載から、藤原道長という特定人物
を”玉将”に準えたと疑い得る記事が、存在する
という内容の史料が、将棋の初出文献ではないか
と疑われる。そして以前に、わが国の記録には、
将棋が存在したという気配が、今の所見出せない。
しかしながらそれ以前の、例えば奈良平城京跡の
史料は調査する必要が、有り得るとみられる。そ
してそれは実際に、幾人もの研究者によって、現
に行われている。
 今回は表題のように、奈良文化財研究所西暦
2002年の報告書”平城京跡出土墨書土器集成
Ⅰ・第一分冊”遺物番号592番”に”角行”等
を疑わせる”角口”と記載の、8~9世紀成立の
土器が有るという話題について述べる。
 web上で、今述べた報告書は公開されており、
上記文書名で検索すると、ダウンロード可能な
サイトがhitするはずである。
奈良市埋蔵文化財調査センター資料No.3
”平城京跡出土墨書土器資料Ⅰ”(第一分冊)
2002年、奈良市教育委員会。
以上が、正式文書名である。
PDFfileの遺物番号592番には、以下の
ような旨が記載されている。 
遺構の性質:西二大・W(西の事か?)
土器の種類:須恵、器の種類:杯B
文字の記載位置:底部外函
文字:角口
塗布色材:漆か付着

成立年:8世紀後半

記載ページ第25ページ。
 残念ながら、写真は無いし、2文字目が、
行や鷹の雰囲気があるのかどうかも良く判らない。
 うる覚えだが、東京の葛飾区の帝釈天付近の
遺跡で、一文字”角”の墨書遺物が出たという
話が、どこかの成書に載っていたような記憶があ
る。2文字で”角”の字が先頭らしいのは、
平城京のこのケースが、たぶん始めてだろう。
 しかも、成立年代が700年代であり、将棋駒
名を書いたとすれば、冒頭で述べた年代よりも、
約250年程度遡る。
 本ブログでは、イスラムシャトランジ系統の
将棋が漂着したり、遣唐使が唐の大食人居住区で、
シャトランジを見聞きしたが日本へ持ち帰っても、
ゲーム性能に難があり、日本には、全く定着しな
かったのではないかと、見ていた時代である。
残念ながら上記情報は、第2文字目が不明なため、

全く曖昧な話である

と、本ブログでは結論する。
 なお、今紹介した報告資料には、

No.1052番に”大子”という墨書土器

が紹介されている。太子だとすれば、将棋名でも
太子はある。使用者が誰なのかを書くための物で
あって、遊びの将棋とは余り関係がなく、皇太子
用の器と言ったような意味の可能性の方が強いと
私は思う。
 なお、”大子”と記載の、土器が出土したのは
8世紀後半から9世紀にかけて成立した、古墳に
関連した場所からとのことらしい。”王子”と共
に、大子または太子は、9世紀には言葉として、
わが国に多分だが存在は、したようである。
 その他、将棋駒名とは関連無いが。リストには
No.760番に、フタの内面に”雪女”という
単語が書いてあったとの旨が載っている。web
によると、雪女という妖怪名は、室町時代の西暦
1450年以降の成立だとの旨が、記載されてい
るようである。そこでこれが万が一、同じ内容の
意味だと仮にすると、フタの成立は、当然ながら
奈良時代の西暦700年代との事なので、実に約
650年以上、”雪女”の初出が遡る事になって
しまうとの事になるようだ。(2020/03/27)

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