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チャトランガは何故”小国”では指されたのか(長さん)

発見された古文書等の知識により、現在までのところ、チェス・シャン
チー・日本将棋等、もろもろのチャトランガ起源とみられるゲームは、
インドのカナウジを、西暦600~650年頃に支配していたとされる、
都市国家、マウカリ国の宮廷ゲームの、輸出の記述が初出である。
 つまり北インドでも、時代がずれるが、より大国のクプタ朝や、バル
ダナ朝、あるいはイラン人の国とされる、エフタル国起源という話は
無い。南アジア史の歴史に関する、日本の成書の事典類を読む限り、マ
ウカリ国は、カナウジを支配していたものの、バルダナ朝ほどの勢力
ではないし、クプタ国やエフタル王国よりも、小国に間違いなさそうで
ある。では、チャトランガは、クプタやバルダナやエフタルに、記録が
あるという話が、今の所無いのは何故だろうか。
 いつものように、回答を先に書くと、
チャトランガは、国家間戦争の戦略を研究するために作られたものでは
無く、

個別の戦闘の戦術のシミュレーションが、作成のそもそもの目的だった

ためだと私は考える。特定の戦闘だけで、国が倒れてしまうほどには
小さくない国では、少なくとも、

大国の宮廷にとっては、余り関心の無い、地方の将校に任せておけばよ
い事であった

という訳である。より判りやすく言うと、

特定の地域の戦闘で、兵隊の兵力の配分を研究するのが、チャトランガ
が必要になった、そもそもの理由

だったのではないだろうか。しかも、盤面に現されたのは、

特定の戦闘地点に、その兵力を配分したときに、相手の戦力が効率よく
削げるかどうかの、研究のため、一局一局がそれ自身、手作業のモンテ
カルロ法の一試行となるような、模擬シミュレーションとして考え出さ
れたもの

だったではないか。つまり、

重要拠点には、敵国よりも、少し兵力をたくさん置いて、相手の兵力の
削減効率を上げる研究をするため、その”少し多く”が具体的に、
どのくらいにすれば、よいのかを、実際に模擬的にランダム多数回対局
をして、”定数”の数値(倍率または差分人数)を決定する為のもの

というのが、チャトランガ誕生時の姿だったのではないかと、私は考え
ているのである。その証拠としては、

チャス系のゲームで、玉駒を王にしているのは過半数とまでは行かず、
日本将棋の玉将、シャンチーの将を初めとして、将を玉駒にしている

例が存在する事である。この事の中に、約1500年前の歴史の痕跡が
隠されているのだと私は思う。
 実は、そのように考えると、

地方の将の人心を、どう集めるかが問題であって、国土が広くて、
個別の戦闘は、優秀な地方の将軍に任せていた、中国の歴代王朝に
”シャンチーを王宮で指した”という記録が、余り見当たらない

のも、うまく説明が付くように、私には思われるのである。
 そこで、では何で、王駒に紛らわしい将駒が、玉駒としてチャトランガ
系ゲームに共通に有るのかが、問題になると見られるのだが。これにつ
いては、個別戦闘地点兵力変化シミュレーションモデルとしての、
チャトランガの、

欠点を隠蔽するための措置

と、私は見る。つまり初期に行われたと見られる、単に”駒枯れになっ
た方が負け”との、モンテカルロ・シミュレーション・ルールでは

消耗兵力に、大軍対小軍の戦いでも、大軍対大軍の戦いでも、この玉無し
チャトランガのやり方では、さほどの差が出ない

のである。これが実際と違うのは、

前後はさみ打ち作戦が、実際の戦争では有利

である事からも、明らかであろう。将棋のようなゲームでは、頭から
攻め合っても、前後で挟み撃ちにしても、減る駒数は、両軍で差は余り
出ない。しかし、実際の戦争では、はさみ討ちをした側が、勝つ場合が、
多いはずである。このチャトランガの持つ欠点は、真ん中へんに司令官
が居て、その駒が討ち取られたら、残存兵力に係わらず、討ち取られた
方の負けにすれば、一応もっともらしく解決する。こうすると、はさみ
討ち作戦は、実際の戦闘とゲームシミュレーションとで、大差が出にくく
なる。なぜなら、

はさむ方は、外側に司令官(将駒・玉駒)を、置いておけばよい

からである。
 以上の事情で、単にある砦をめぐる、個別の戦闘の戦術研究だった
チャトランガは、後に将駒がしばしば”王”に取り替えられ、国家間
戦闘の、シミュレーションのように、語られるようになったのだろう。
象・馬・車駒に、”整備”されたのも、その頃の後付けだったものと、
私は推定する。
 しかし、もともとは、このゲームの研究を必要としていたのは、
一回の関が原レベルの戦いで、国が浮きも沈みもするような、国土の
面積が、限られる小国に於いてであったに違いない。そのため、冒頭に
述べたように、インドでも、

クプタ朝や、バルダナ朝のような大国では、少なくとも王宮で、
チャトランガを指すような、習慣は発生しなかった

のではないかと、私は以上のように、考えるのである。(2018/01/11)

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日本将棋の盤に、酔象、猛豹の有る46枚制将棋は有ったのか(長さん)

日本将棋連盟編のテキストにも記載されていると、ものと人間の文化史
将棋Ⅰに記載されている、表題の小将棋類は、江戸時代の将棋御三家の
一つ伊藤家の伊藤看寿が、宝暦年間の1755年に作成した、将棋図巧
に、林信充が序で、記載していると聞く。定説では、平安大将棋の誤認
等で、存在しないという意見が強い。

香桂銀金玉金銀桂香
口飛口豹酔豹口角口
歩歩歩歩歩歩歩歩歩
口口口口口口口口口
口口口口口口口口口
口口口口口口口口口
歩歩歩歩歩歩歩歩歩
口角口豹酔豹口飛口
香桂銀金玉金銀桂香

本ブログでの立場は、上記の初期配列の、小将棋は取り捨てルールでも
良ければ、

誰かは指しそうなゲームである

である。つまり、猛豹は中将棋で最下段の、香車と銅将の間にある、ポ
ピュラーな駒だから、小将棋に導入しようと考えるのは、自然とみる。
だから、

表題の46枚制将棋も、持ち駒ルール無しで、試みられてはいた

のだろうと、ここでは独自に見るのである。
 以下断定はしないが、中将棋指しの感覚だと、猛豹は、金将の上に、
盲虎の代わりに置くというよりは、たとえば左桂馬を一枚除いて、代わ
りに不成りの猛豹を入れ、9×9升目36枚制平安小将棋(持駒有り型)
を、指すと言うアイディアの方が、先に浮かびそうな感じもする。この
将棋も、桂馬が合い当たりしないので、

9×9升目平安小将棋の、旦代の難点は存在しない。

以下の形で普通に、持ち駒有りの将棋が指せると、私は理解する。逆に
言うと、室町時代の初期の段階で、今述べた、

香桂銀金玉金銀豹香
口口口口口口口口口
歩歩歩歩歩歩歩歩歩
口口口口口口口口口
口口口口口口口口口
口口口口口口口口口
歩歩歩歩歩歩歩歩歩
口口口口口口口口口
香豹銀金玉金銀桂香

という初期配列の、小将棋は、中将棋が隆盛なら簡単に、思いつけたは
ずである。だから、不成り猛豹駒等が今の所、全く出土していないのも、
不思議と言えば、不思議と思うべき、なのではないかと私は考える。
 言い伝え的な記録では、西暦1080年頃に、大江匡房は、「酔象や
猛豹を取り除いて、”日本将棋を完成させた”」といい、他方、西暦
1530年頃に、後奈良天皇が、同じく「酔象を取り除いて、
日本将棋を完成させた、」とも伝えられる。
 ちなみにこの2つの言い伝えが似ているのは、誤伝による混同のせい
ではなくて、

「酔象や猛豹を取り除いて、”日本将棋(実は標準型の平安小将棋)を
完成”させろ、」という主張を、日本の皇族家が、西暦1080年頃~
1530年頃まで450年間、お決まりのように、何回も主張し続けて
きたが、それによる人的被害はほとんど無いので、単に記録が失われた
ためだけ

なのではないか、とするのが、本ブログの独自主張である。そこで、
本ブログの見解に従えば、どうみても幾らでも、上記のような将棋は
指されそうなのに、その割には、

指された傍証が無いという点が、逆にむしろ不思議

とみる。だから何らかの阻害要因を仮定した方が現象を、よりうまく
説明できるのではないかと、考える立場を今の所取るのである。すると
一例として以上のような、皇室による将棋ルールへの、絶え間ない介入
の史実が、今の所は仮説に留まるものの、一応浮かび上がって来ると、
いう事なのである。(2018/01/10)

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日本の駒数多数将棋で、大大将棋だけ麒麟が右、鳳凰が左なのはなぜ(長さん)

将棋纂図部類抄の、大大将棋の成り駒の図が、左右間違って作成されて
いるのは、良く知られている。通常は、元駒の初期配列図が正しく、成
り駒の配列図が、鏡像左右逆と見るのが普通だが。元駒の配列図の方が、
裏返しだったのではないかと、疑われる事も有るようだ。本ブログでは、
象戯図式等でも、”将棋纂図部類抄は成り駒左右逆”の解釈なため、今
の所は通常通りの解釈で行くことにする。鉤行が右、天狗が左に有るの
は、日本将棋と、同じパターンである。
 他方、大大将棋の初期配列が裏返しではないかと、疑われる根拠とし
て、表題の、麒麟と鳳凰の左右逆の問題がある。日本の将棋で、麒麟が
右に来るのは、私が知っている限り、大大将棋だけである。そこで今回
は、その理由について考えてみる。
 そこで、回答を最初に書くと、

大大将棋の作者が、金翅鳥と鳳凰を、似た者同士と見て、鳳凰の成りを、
たまたま大大将棋で、金翅にしたため

だと私は思う。大将棋系のゲーマーは、だいたい麒麟の位置に注視する
傾向がある。大大将棋は別だが、獅子に成る事が多いためである。しか
しながらたまたま、大大将棋の作者は麒麟よりも、鳳凰に関心があった
のではないかと、私は思う。中国の神鳥にゆかりの地に、大大将棋の作
者は、たまたま、住んでいたからかもしれない。鳳凰の成りは、大大将
棋の製作年が、悟られないように、最初から奔王から変えるつもり、で
はあったのだろうが。同じ神鳥の語呂の良さから、

大大将棋の作者は、鳳凰の成りの方を、麒麟の成りより先に考え付いた

に違いない。次に、大龍の駒のルールを、たまたまだろうが、金翅の、
ほぼ90°回転にする事を、思いついたのであろう。大龍は画像が、幅
広のイメージであるから、横走り駒にしたのだろう。その結果、金翅は
縦走りになったとみられる。後期大将棋の初期配列を参考に、元駒でも、
大龍と金翅を作り、中央列に置いてみた。
 そこで彼は、鳳凰と麒麟を比べたとき、成りが強い駒の方が、格上で
あり、全体としても大大将棋では、

鳳凰の方が麒麟よりも価値が上であるとみなし、結果、そのため日本の
習慣に従い、左に鳳凰を置くことにした

のではないかと私は思う。つまり大大将棋だけ、鳳凰を先に、左に
置いた結果

麒麟の位置が、他の将棋とは逆に右になってしまった

と私は考える。ただし鳳凰を、実際には大大将棋より先に成立したとみ
られる、摩訶大将棋の鳳凰の成りの、奔王の前升目に置き、成立時代が
新しい事を匂わせてしまったのは、うっかりミスだったのかもしれない。
 ちなみに、大大将棋の中央列は、下から玉将、近王、大龍、金翅、前
旗、歩兵と並んでいて、強い金翅が、大龍よりも前出しである。これは、
中央列はさておき、袖の方の、摩訶大大将棋等の、駒の配列とパターン
は、いっしょだ。
 ただし、考えてみると、それは後期大将棋の中央配列、玉将、酔象、
獅子、奔王、歩兵とは、有って居無い。奔王と獅子は、どちらかと言う
と獅子の方が上だが。走り駒を前列に出す傾向のある、大将棋では逆転
する。つまり、大大将棋と後期大将棋では、中央列の配置が、
大龍と金翅、獅子と奔王とで、強さという点では、逆になっている。
 そこで、話は大大将棋に関する事ではなく、後期大将棋に関する事な
のだが、

この後期大将棋の配列の歪は、獅子が普通唱導集時代の大将棋には、
そもそも元駒としては、存在しなかったことを、やはり示唆

しているのかもしれないと、私は思う。
 さて話を大大将棋に戻すと、麒麟に注意が行かず、鳳凰の方に、より
注視しているように見える、大大将棋の作者が、ヘビーゲーマーとは、
繋がりが薄い人物である事は、明らかだと思う。やはり、本ブログで既
に述べたように、大大将棋は、将棋を比較的良く、知ってはいるものの、
もともとは、習字の先生であるような人物が、作成した将棋の疑いが、
かなり強いのではないかと、私は、鳳凰と麒麟の配列からしても予想す
るのである。(2018/01/09)

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有限の手数で終わる玉駒一枚ずつの無限大×無限大升目将棋は可能か(長さん)

少し前に、縦段数が充分に多いが有限段で、横筋が無限大升目、玉駒が
最下段にある、無限大駒数の将棋の、先後手必勝or引き分け必然問題
について考えた。玉駒以外が、奔鉄駒優勢だと、引き分け必然の疑い
が濃いと、本ブログでは見解を述べている。
 ここでは、結果の”先後手必勝or引き分け必然”の問題はさておき、
まず、有限×無限升目盤ではなくて、無限×無限升目盤の将棋が、考え
られないのかについて、とりあえず今回は考える。ただし勝負は、有限
の手数で終わるとする。だから、無限大升目×無限大升目の将棋では、

玉駒は最下段には置けない。

勝負がつくまでに、無限に手数が必要だからである。これから、玉駒は、
充分に大きな数ではあるものの、有限の深さの中央筋に埋め込まれる
事になる。そのようなゲームは、成立するかどうかであるが、

簡単には成立しない、つまり表題の質問の回答はNo.だ

と私は見る。
 ほぼ玉の深さに等しい、盤中央升目から玉までの段数だけ、中央筋か
ら、離れた筋を通過する先頭駒を先駆けとして、相手は、玉駒に向かっ
て真っ直ぐに、斜めに、連続走り駒攻めをする手が、自明だからである。
前に、この攻めが成立しなかったのは、段数が多いなりに、有限だった
からである。そこで前回この攻めをすると、斜めに真っ直ぐに、攻め側
は切れ込みが入って、最下段で、攻めが途切れた。
 しかし今度は、盤升目が縦段数でも、無限大なため、切れ込みは、
幾らでも深くできるのである。一般に、この攻めを守り側が、面とし
て受けても、

カントールの意味で、相討ち駒には番号付けができるので、攻め側の
斜め直線の切れ込みは、玉段よりは、何倍・何十倍にも深くなるの
かもしれないが、守り方の玉駒守り駒は、枯渇するまで攻め続けられる

のである。だから、
無限大×無限大で、玉が中間に浮いている将棋は、遠方、玉深さ列だけ
離れた列からの、斜め走り駒攻めという、

自明の戦略が、相当に駒数・手数が多かろうとも、少なくとも人間には、
ほぼノータイムで、簡単に思いつける

のである。このやり方は戦火が、攻め側の玉回りには及びにくいので、
このタイプの将棋では、玉の深さに関係なく、それがどれだけであって
も、良い戦い方のはずだと、私は考える。
 では、今述べたこの、無限大升目盤ゲームの”いつも同じ前略”に、
なってしまうという欠点は、どう改善すれば良いのだろうか。
 実際にはいろいろ方法が、あるのかもしれないが。さしあたりは、
玉を埋めた深さの、ちょうど2倍の所に等間隔に、玉駒を(無限数)
配置して、”玉駒を1つでも、先に取られた方が負け”という、ルール
にするというのが、良さそうに、私の将棋型ゲーム一般の感覚からする
と思える。つまり、これは前回の、縦段数有限升目の代わりに、前回、
底だった所に、別の玉駒を置いて、攻め方が、極めて長い長さで、
半直線上に、自陣に切れ込みを入れる、連続斜め走り駒による

攻め戦略を単純にとると、自分の玉駒の一つが、先に手薄になるような、
初期配列に変える

という事である。
 なおこの方法だと、極めて遠い所で散漫に戦いが起き、ゲームが進行
しない懸念がある。そこで、中央部の玉の深さを1として、隣の玉は
1.1、その隣は、1.2と、少しずつ深さを変えて、袖の玉ほど深く
配置すると、更に良いかもしれない。その場合、中央玉と、脇玉の筋差は、
中央玉深さの2倍ではなくて、2.1倍、その隣の玉と、中央玉との
筋差は、4倍ではなくて、4.4倍になる。また左右とも、玉は端に
行くほど深くはなるが、玉数は無限のままである。
 以上述べた程度の工夫により、表題の、有限の手数で終わる、無限大×
無限大升目将棋は可能にはなったが、

これは、以前の無限大筋×有限段のゲーム同様、引き分け必然将棋であ
りゲームとしては、出来の悪い

状態である。つまり、今回述べた内容は、無限大×無限大升目の将棋盤を
使いこなす(?)には、いったいどうしたらよいのか、という設問に、
単に答えただけに、留まるものである。(2018/01/08)

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飛鷲と角鷹の斜め前と前。一歩で止まれるルールの頻度(長さん)

以下、中将棋と泰将棋に有って、大将棋等には無い駒なので、本ブログ
の主体からは、少し外れるが。駒数多数将棋のポピュラーな駒に、飛鷲
と角鷹がある。
 web上では、踊り型のこの駒の、隣接升目止まりを許すルールも、
有力に存在するようなのだが、”1目は踊らず”を示す、史料も多い。
中将棋の指し方(岡崎史明著・1970年)が、代表的であろう。
松浦大六氏所蔵の象戯図式でも、「隣接升目は付き抜くか、居喰いで戻
る」という表現になっていて、”1目は踊らず”の類のようにも見える。
水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、中将棋の図の後の注釈部にも、飛鷲と
角鷹の項目があるが、

”2目歩む”となっていて、自駒を飛び越せ無さそうである点が、示唆
されているが、1目目で止まれるかどうかは、踊りの説明ではないから
観点が違っていて謎

だとみる。中将棋連盟のページでは、1目止まりの記載が無いが、”出
来ない”との、注記も特に無い。全体的に見ると、

飛鷲・角鷹は、もともと、それぞれ斜め前と前に関して、2踊り+居喰い
のイメージで、ルールが作られた駒の疑いが強い

ようである。
 更に前出の、日本将棋の元棋士で、亡くなられた岡崎史明氏の書、
”中将棋の指し方”では、
飛鷲と角鷹のパターンに合わせて、判りやすくするためだろうか。

獅子も1歩で止まれない

という形式のルール説明になっている。ただし、これは、

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、狛犬のルール説明での獅子の駒の動かし
方の記載や、松浦大六氏所蔵の象戯図式の中将棋の獅子の、ルール説明
文の記載とは、明らかに合って居無い

と、私は認識している。獅子は、狛犬と同格であるために、”1目踊り
でも、要にて用いる事ができる”に、古文書ではなっているはずだと、
少なくとも私は、思っているという事である。ただし、獅子の1目止まり
がNGなら、

別の隣接升目を跳び越えてから、目的地の隣接升目に移動した事にすれば
良いだけなので、どちらのルールを取っても、実は問題が無い

のかもしれないと、私は思う。
 そこで話は戻るが、

飛鷲が斜め前の隣接升目で止まれなかったり、角鷹が前に一歩で止まれ
ないと、獅子とは違って、中将棋の詰め将棋を考えたときに、特に大きな
影響が出てくる

と思う。
たぶん、”1目踊りはNG”派が多数を占めていると、私は予想するのだ
が。和漢三才図会の中将棋の所等で、どうなっているのか後で、ゆっくり
調べてみて、違っていたらまた、本ブログで論じようと思う。
(2018/01/07)

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都立中央図書館蔵の将棋纂図部類抄。大将棋の仲人横点の削除理由(長さん)

少なくとも、私の手元には、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄について、2つ
の写本のコピーがあり、両者で、

内容が少し違っている。

目立つのは、中将棋の駒の動かし方ルールが、島本町教育委員会発行巻物
のコピーでは、書かれてないのに、都立中央図書館蔵の加賀藩書写の巻物
には、各駒種について、皆記入されている事である。しかしながら、この
点については、問題にされる事は、今の所無い。将棋纂図部類抄の研究者
の中で、問題にされる有名な差は、表題のように、

島本町教育委員会発行巻物の将棋纂図部類抄の大将棋の仲人が縦横歩み
なのに対して、
都立図書館蔵加賀藩書写巻物の将棋纂図部類抄の大将棋の仲人が縦歩み

である差である。大阪電気通信大学の摩訶大将棋のブログでは、
島本町教育委員会発行巻物の将棋纂図部類抄の大将棋の仲人が、正しい
書写とみなしている。ここでは、その当否ではなくて、ではいったい
加賀前田藩の将棋纂図部類抄の書写をした人間が、もともとは島本町教育
委員会発行巻物の将棋纂図部類抄の大将棋の仲人の、縦横動きの打点だっ
たはずの記載を、何を考えて

普通の中将棋の仲人の動きに変えてしまったのか、

その動機から、何か隠れた情報が無いのかどうかを、推理してみる。
 いつものように、結論を先に書くと、

加賀前田藩の将棋関係者が同じく書写した、二中歴の大将棋に関する記載
の末尾書写ミス10文字、”如是一方如此行方準之”が、”(注人)不行
傍。立聖目内成金将”と、同一意味である事を示唆している、

と、ずばり私は考える。

根拠は、どちらも前田藩にあった、2種類だけの将棋史料だと推定される

からである。つまり、加賀前田藩の、将棋纂図部類抄の書写者の元本には
確かに、島本町教育委員会発行巻物と同様、将棋纂図部類抄の大将棋の
仲人が縦横歩みになっていたと、私も推定する。ところが、加賀前田藩に
は、同じく書写した、二中歴の平安大将棋の記録が当然有ったと見られる。
そこで、
中将棋の常識と異なる、大将棋の仲人のルールに、出会った書写者は、二
中歴の注人の記載部として、現在では書写ミスで意味が取れない、前記
10文字、”如是一方如此行方準之”の部分を読んでみた、と私は推定す
るのである。重要な事は、誤写したのが前田藩なのかどうかは、謎なのだ
が、そのとき、

二中歴の大将棋の末備10文字に当たる部分は、前田藩の将棋纂図部類抄
の書写を、これからしようとしている人間には、この時代にはまだ、正し
く記載されていて、ひょっとして意味が取れる状態

だったのではないか。そのため、”如是一方如此行方準之”を、彼が、
たとえば水無瀬兼成が、中将棋の注釈部で仲人の説明として、書いている、

”(仲人)不行傍。立聖目内成酔象”の、仲人を注人に、酔象を金将に変
えた意味、すなわち”(注人)不行傍。立聖目内成金将”であると、見た

ならば、

水無瀬兼成の、将棋纂図部類抄の、後期大将棋の仲人の縦横打点を縦だけ
の打点にしてしまう

ように私は思うのである。なぜなら、
”(仲人)不行傍。”を、大阪電気通信大学の高見研究室の摩訶大将棋の
ブログのように、
”只或説云中将棋仲人行度如大象戯故。仲人不行傍。”とは解釈せず、
”二中歴云中将棋仲人行度如大象戯故。仲人不行傍。”と、将棋纂図部類抄
と、現在では書写ミスで意味が取れない、二中歴の記載の前田藩士による
解読結果の動きルールとの間の類似性から、大阪電気通信大学、高見友幸
研究室の、”摩訶大将棋のブログ”流の論から見ると、

”誤って解釈”してしまう

と、考えられるからである。だから、
確かに、前田藩の書写者の解釈は、高見研究室のブログの論からすると、
間違っているのかもしれないが。しかし今では、はっきりとは意味の取れ
ない、

二中歴、大将棋末尾10文字”如是一方如此行方準之”の意味のヒントが、
水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、大将棋の仲人の横打点を、前田藩では
取ってしまった、という行為自体に、示されている可能性が、ひょっとす
ると有る

のではないかと、私は疑うようになってきたのである。(2018/01/06)

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日本の桂馬は、なぜ塞馬脚ルールを導入せずに済んだのか(長さん)

良く知られているように、中国のシャンチーと、朝鮮半島のチャンギの
馬や象には、塞馬脚という、駒の動き等を制限するルールがある。確か
に日本の桂馬は、シャンチーの馬やチャンギの馬等とは異なり、2方向
動きであるため、この制限ルールは過酷である。従って、シュンチーの
馬のルールが、たとえば鎌倉時代の中期に、日本人に知らされても、
平安小将棋には、たまたま熟慮により導入しなかった可能性も、完全に
は否定できない。しかし当時、何でも大陸の模倣をしたはずの日本人が、
桂馬跳びに関しては、宋や元王朝の模倣ではなくて、チェスと同じく、
桂馬の自由跳びを、結局選択したのには、何か隠れた情報が、ひょっと
して、存在する事を示唆しているのではあるまいか。
 そこで先ずは、考えうる事を回答として書くと、

イスラムシャトランジの情報は、鎌倉時代の後期、元王朝との交易の時
代には、日本にも入っていた

のではないかと、推定されるという事がある。なお、イスラムシャトラ
ンジの、ナイト駒のルールは、モノと人間の文化史「チェス」、
増川宏一著によると、11世紀に、次のように表現されたと私は聞く。

「1つ跳んだ向こうの2つ目の升目の、直ぐ縦横に隣接する升目に跳ぶ」

つまり、二中歴の平安小将棋の、桂馬の動きの説明である、「前に一つ
前進した所から角へ、途中を1升目跳び越える。」は、中国シャンチー
流の表現であって、西洋チェス系のナイトのルールの表現形式ではない。
しかし、

以下の理由で日本人は、八方馬のルールが、チェスのナイト形式で表現
できる事を、元王朝の時代の頃に、大陸から学び得る可能性が、かなり
高いと考えられる。

理由は、イスラムシャトランジ時代の、チェスのナイト形式の、ルール
表現方法だと、「1つ跳んだ向こうの2つ目の升目」が、斜め進みだと、
実際には、ナイトの行き所は16箇所のようにも思えるのである。そし
て、朝鮮半島の現在のチャンギの象と、チャンギの馬を足すと、その
16箇所のポイントになるのである。つまり、朝鮮半島のゲームデザイ
ナーは、アラブシャトランジのナイトのルールの、

表現形式を知っていて、チャンギの確立者は、結果チャンギの象を、シャ
ンチーの象/相から、変化させる事ができた可能性が、相当に強い

と、言う事である。つまり、

朝鮮半島には、恐らく元王朝時代には、イスラム文化がかなり入ってき
ていて、朝鮮半島から日本にも、そのイスラム文化は、更に流れる可能
性が強かった

と、考えられるという事ではないだろうか。
 ようするに、平安末期から鎌倉初期の日本人と異なり、鎌倉時代末期
の日本人は、平安小将棋の桂馬のルールが、2通りで表現できる事や、

中国シャンチー等に塞馬脚ルールが有っても、桂馬の動きが合計2升目
のどちらかにしか、行けないルールの場合には、イスラムの将棋ゲーム
のように、塞馬脚ルールを敢えて選択しなくても良い事にも、容易に
考えつけた

と考えられるのである。そして、実際に、アラブシャトランジの馬の、
前方の2方向の動きに、結局、日本の桂馬のルールは固定される事に、
なったのであろう。ところで、アラブ・シャトランジの知見が、
日本にも、鎌倉時代末期の、日元貿易の盛んな頃に、入ってきていた
とすれば、

金将の動きが、猫叉の動きに変化する危険性もあった

とも、考えられる。しかし、日本にイスラム文化が幾らか入ってきた
にも係わらず、各種の平安小将棋(持ち駒有り・無し型)の金将は、
猫叉動きにはならなかった。これは、歩兵が金将に成るというルール
に、当時の日本人の将棋の棋士が、愛着を持っていたからではないか。
つまりこのケースは、

日本は島国なので、古い金将という近王型の駒文化が残ったというよ
りは、歩兵の金将成りルールに、日本ではたまたま人気があったので
大臣駒が、猫叉型に変化しなかった

という事情だったのかもしれない。以上のように最近になって私は、
以前の”文化人類学の純粋学術的な論”を、日元貿易の隆盛の話を聞き、
縄文時代等と中世との差から、むしろ個人的には疑問視するように、なっ
て来ているのである。(2018/01/05)

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麒麟と鳳凰の成りで、摩訶大将棋と摩訶大大将棋を分けるのは妥当か(長さん)

本日の表題は、今までの議論と大きく違い、

自分のしている事に対する反省

という内容である。個人的にであるが、私は摩訶大将棋と摩訶大大将棋を、
麒麟と鳳凰の成りがどうかで、名称を分ける事にしていた。

麒麟の成りが獅子なのか、大龍なのかで、ゲームの質が大きく違う

と、個人的に認識しているからである。すなわち今まで、私は、

盤升目、駒の数、初期配列がそれぞれ19升目、192枚、通常配列でも、

麒麟と鳳凰の成りが、獅子と奔王の場合は、摩訶大将棋、
麒麟と鳳凰の成りが、大龍と金翅の場合は、摩訶大大将棋と呼ぶのが良い

と、考えてきた。しかしこれでは、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の摩訶大
大将棋を議論するときには、不便である。

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄には、摩訶大々象戯と書いてあって、摩訶大
大将棋に近い

からである。しかたなく本ブログではさいきん、不覚にも、

ごちゃごちゃに、使うようになってまった。

 そもそも、摩訶大大将棋に、麒麟・鳳凰の成りが二パターンあるのは、
摩訶大大将棋の麒麟と鳳凰の成りは、大大将棋のその成りを、援用すれば
良いように、江戸時代の将棋書からは、読めたためだと考える。そのため、
オーストラリア人、スティーブ・エバンスの駒数多数将棋の、コンピュー
タソフト、”将棋類”の摩訶大大将棋等で、麒麟と鳳凰の成りが、大龍・
金翅のパターンになってしまったのである。そこでゲーマーの立場で、
見るとすれば、

上記”将棋類”には、摩訶大大将棋のソフトが有り、また、
将棋纂図部類抄に基づいて、ソフトを開発した、大阪電気通信大学・
高見研究室のソフトには、摩訶大将棋のソフトが有る、と、表現すると、
ちょうど良かった

のであった。なお高見研究室の、摩訶大将棋という表現は、聆濤閣古文書
のパターンとも良く合っている。以上の事から、将棋纂図部類抄の内容を、
記載するときに、問題が起こっているだけだと、まとめる事は一応できる。
従ってこの先は、試しに、

現代まで残ったというゲームとしての、摩訶大大将棋等を表現するときに
は、摩訶大大将棋とか摩訶大将棋と表現し、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
にある、記録上のゲームを表現するときには、原文通りの、摩訶大大象戯
と私は表現

してみようかとも、考えている所である。(2018/01/04)

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将棋纂図部類抄と松浦大六氏所蔵象戯図式。正しい大大将棋はどちら(長さん)

 安土桃山時代後期の水無瀬兼成の将棋纂図部類抄と、江戸時代作の
松浦大六氏所蔵の象戯図式の大大将棋を比べると、成り駒のルールが、
違うのが目立つ。前者では、21種類の駒に成りがあるが、後者では17
種類の駒にしか、成りが無い。では、この二つの文献で、大大将棋の成り
のルールとして、正統なのは、はたしてどちらなのであろうか。最初に
答えを書くと、この点に関しては、

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄が正しい

ようである。根拠は、

象戯図式の成りのルールは、将棋纂図部類抄で、著者が恐らくおかしい
と考えた4種類の駒の成りを、単に保留にして、言及せずにいるだけで、
不成りとも実は、断定していない

からである。なお、その4種類の駒とは、狛犬、毒蛇、飛龍、猫叉であ
る。このうち、飛龍と猫叉は、水無瀬の将棋纂図部類抄では、それぞれ
龍王と龍馬に成るとされる。ちなみに大大将棋の飛車と角行は、不成り
である。この二種類については、象戯図式の著者から、”異形である”
とされたと、容易に想像できる。ただし、大大将棋では、麒麟の成りを
大龍、鳳凰の成りを金翅にする等、下位の将棋種から成りのパターンを
変えて、私に言わせると、新しいのがバレ無いように、しているのだと
思う。だから、龍王と龍馬に成るのが、通常と違う駒でも、しかたがな
いのではないかと思う。
 次に、毒蛇は鉤行成りと、水無瀬の成り駒配列図で、きちんと書いて
ある。だが、水無瀬自身か、書写したときに、隣の大象の成りと、打点
を混同したようである。そのため、本来の鉤行の、駒の動かし方のルー
ルに、明らかになって居無い。これが謎だから、象戯図式の著者は、毒
蛇の成りのルールに、言及するのを止めたとみられるのだが、これは、
やり方として、行き過ぎだと私は思う。

毒蛇の成りは、大大将棋では鉤行と、するしかない

のではないか。
 さて、一番問題なのが、狛犬の成りと将棋纂図部類抄ではされる、

大象である。

狛犬の成りに、松浦大六氏所蔵の象戯図式の作者が、言及しないで、放
り出してしまったのは、将棋纂図部類抄の

大象の動かし方を示す、ルールの打点”+++”の解読に、失敗した
からだ

と私は見る。そこで江戸時代に象戯図式が、不明として解読を諦めてし
まった、安土桃山時代の将棋纂図部類抄の”+++”の意味の究明を、
彼らに代わって今回、私が試みてみた。結論を書くと、

1歩も2踊りも可能な3踊りと、走りを兼ねる動きを表す記号

だと結論された。根拠は、

摩訶大大将棋の教王の打点が、大象の6方向のこの記号と、同じ形になっ
ている

からである。よって、将棋纂図部類抄の大大将棋の狛犬の成りの大象は、
前と横と斜め後ろと後ろの6方向に、狛犬のように1歩も2踊りも可能
な3踊りができると同時に、4升目以降も、元の位置との間に、駒が無
ければ、単純走りの動きもできる。(動きを兼ねる。)また、斜め前の
計2方向には、踊り(隣接升目で止まれないと見られる。)の動きが出
来る、とのルールであろうと、見られるという事である。
 ちなみに、この将棋纂図部類抄の”+++”記号は、隣の成り毒蛇の
鉤行のは、間違って付けたものだが、他に教王、法性のほか、大大将棋
と、泰将棋の金翅でも使われている。なお、松浦大六氏所蔵の象戯図式
では、金翅については、”・・・”と、勝手に解釈、し直されてしまっ
たようである。また、更に江戸時代の後期に、

大局将棋の作者は、この”+++”記号を、”駒を3つ跳び越せる”と
別の解釈をしているが、これも私に言わせると、間違った解釈

だと思う。やはり金翅も、斜め前方には、狛犬のように1歩も2踊りも
可能な3踊りができると同時に、4升目以降も、元の位置との間に駒が
無ければ、単純走りの動きもできる(兼ねる。)、という意味なのでは
ないのだろうか。
 以上のように、松浦大六氏所蔵の象戯図式の大大将棋のルールブック
では、何か水無瀬兼成からの情報ではない、別の情報に基づいて、将棋
纂図部類抄とは、別の大大将棋の駒の成りルールが述べられている訳で
なく、

単に、将棋纂図部類抄で、彼らにとって理解できない部分を、スルーし
てしまっているだけ

なので、

正しく理解し直せたとするならば、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の方を
正しいとして、採用するべきではないか

と私は、以上のように考えるようになったのである。(2018/01/03)

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17世紀、大阪の商人の子供で、摩訶大将棋を指す人物がいたらしい(長さん)

定説ではいわゆる六将棋のうち、、大将棋以上の駒数の多い将棋は、
少なくとも近世以降は、余り指されなかったという事になっている。
しかし、今でもそうであるが、いわゆる中将棋を愛好している人々は、
大概、大将棋、天竺大将棋、大大将棋、摩訶大大将棋、泰将棋に興味
があるのが普通である。増川宏一氏の著書、日本遊戯思想史によると、
江戸時代の中将棋の愛好家の一人に、水無瀬宮のお膝元、大阪の人で
あり有名人でもある、井原西鶴が居るとの事である。井原西鶴が、
将棋と言うとき、既に時代は江戸の初期であったが、日本将棋の事で
はなくて、中将棋の事だったと、上記書籍に記載されている。

井原西鶴は、いわゆる中将棋派の方だった

のであろう。ところで井原西鶴の、友人かどうかは不明だが、知人の
京絹の商人が大阪におり、その息子が賢い子供で、自分の家で、

”大大将棋というゲーム”の盤駒を自作して、熱心に遊んでいた

と、井原が”新可笑記”の中で書いているそうである。増川宏一氏の
新書本の、将棋の歴史等には、こんな話は載っていなかったように、
私は記憶する。日本遊戯思想史で、初出の大情報だろうか。
 他方web上には”摩訶大(大)将棋は近世、余り指されなかった”
という情報が、私には幾つか散見される。実際には、広将棋の作者、

荻生徂徠が、摩訶大大将棋を研究していたことは明らか

なので、それは間違いだと、私は断定しているのだが。上記増川著書
は、それに続くものであるようだ。更に、上記の井原西鶴が新可笑記
で書いている、大阪の京絹の商人の息子は”道路の四つ角の道端に、
仏像が安置されている、小さいお堂のような場所に、恐らくその自作
の駒数多数将棋類の、将棋道具を置き、

通りがかりの人間に声を掛けては、一緒に指していた”

と、書いてある。恐らく大大将棋とは書いてあるが、増川宏一著書の
将棋Ⅰにも載っている、江戸時代成立の象戯図式の類を、大阪の京絹
の商人の息子は所持していたのだろう。そして、中将棋、大将棋、
大大将棋、摩訶大大将棋、泰将棋に、何れも、興味のある人物だった
のではなかろうか。お堂の場所は、井原西鶴の記載からでは不明であるが、
水無瀬宮の近所で、水無瀬兼成の、将棋纂図部類抄の情報も、ひょっ
とすると、その京絹の商人の息子は、持っていたのかもしれない。
 仏教関連の所で指すのであるから、将棋六種之図式にもある”摩訶
大大将棋は、寺の関係者が作成”との話も、彼は知っているとすれば、

お堂には、摩訶大大将棋の盤駒を並べそう

な気が私にはする。井原西鶴の記録では大大将棋となっているが、
”という”と、いう記載がやや曖昧であり、大大将棋という語句が含
まれる大大将棋の他に、摩訶大大将棋のケースが、当然考えられると、
私は思う。恐らく

江戸時代には、将棋書で摩訶大大将棋の記載を見た、都市部の人間が、
摩訶大大将棋の盤駒を、苦心して作成する事が、しばしば有った

のではないだろうか。上記の大阪のケースは、中将棋を指す人々が、
大阪の街中には、かなり存在していた。ので、知っている獅子等の駒だ
け適当に動かして、中将棋を知る大人が、京絹の商人の息子の相手を、
いい加減だが、仏像の眼前でしてくれるという事が、実際にあったの
だろう。なお、その大人の中に、井原西鶴が居たかどうかは、良くわ
からないが。
 増川宏一氏は、上の書の中のコメントとして、”「大大将棋という
ゲーム」を、井原西鶴が、どうして知ったのか不明”と書いている。
が江戸時代は、駒数多数将棋の文献類の、主たる成立期であると
私は認識する。ので、中将棋派の井原西鶴なら、どれかは読むだろう。
 更に、それを読んで、ゲーム自体に、強く興味を持った方が居る
というのも、当たり前の話であり、江戸時代には、京絹の商人の息子
のような方も、中には居て当然だと、私は思うのである。(2018/01/02)

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