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日本の平安小将棋用将棋盤は中国中原伝来の9路囲碁盤(長さん)

本ブログでは、日本の将棋の伝来元を、中国雲南と
見ている。ただし、日本の将棋の将棋盤は、どうみ
ても、一番似ているのは囲碁盤だ。つまり日本の将
棋は、駒を交点置きにしないので、中国シャンチー
と大きく違うが、その升目置きをする置く盤自体は、
小型で九路の囲碁盤に、一番近いと私は考える。
 確かに現在の日本将棋は9×9升目なので、交点
置きすると、10路×10路の囲碁盤しか使えない。
が、伝来時の原始的な平安小将棋は、玉が中央左、
金が1枚だけで中央右置きだったと、少なくとも、
本ブログでは考えている。ので、本ブログの考えが、
仮に正しいとすれば、8升目将棋なので、9路の
囲碁盤が使える。
 私は囲碁をほとんどしないので、9路囲碁盤の聖
目が、4筋目が正調なのかどうか知らない。しかし、
囲碁に詳しくないものの、縁の近くが戦場になりや
すいゲームである事は知っている。たぶん、聖目は、
19路の普通の囲碁盤と同じく、第4路、すなわち、
升目に換算して3段目の所に付いていた方が、使い
やすいという意見も、多少は有るのではなかろうか。
 中国の北宋時代にも、恐らく開封では、囲碁の
一種で、勝負が早くつく、4路目に聖目が有った
9路盤を使った囲碁も有ったのだろう。だから、
将棋が日本で流行って来たのを知って、将棋駒とし
て使われる、経帙牌とセットで、日本人へ将棋具を
売りつけようと考えた、北宋の交易商人、西暦10
20年、刀伊の入寇後、初の交易商人であるなら、
(一例)周文裔が、

経帙牌を仮に500個持って、博多へやって来ると
きには、碁石を置くにはスカスカな、升目の粗い、
9路囲碁盤を、経帙牌にメッシュを合わせた上で、
たとえば15枚、西暦1020年に一緒に持って来
日するというような事は、いかにも有りそう

な気が、私にはする。
 そもそも、イスラムシャトランジから中国シャン
チーを試行錯誤で生み出そうとしているとき、プロ
ト中国シャンチー駒が、大きさとしてぴったりに
なるように調節しながら、中国人のゲームデザイナー
は、囲碁の九路盤に駒を交点置きして、シャンチー
ゲームを、完成させようとしていたのではないかと、
私は疑う。囲碁が盛んな国だったので、象棋の盤を
交点置きにしたのだし、副官駒を中国の王朝の制度
に合わせて2枚置きにしたかったので、縦9筋の9
路盤は、開発中のゲームをイメージしやすい、良い
開発道具と考えたのだろう。その時代、

聖目は9路盤の4段目だったので、兵卒も置きやす
かった

のだろう。そして試行の結果、段は9段ではなくて、
10段にした方が、兵卒が直ぐにぶつからないし、
馬アタリから見ても良かったので、

9路盤を真ん中から2つに切って、間に河を入れて
完成したというのが、現行の中国シャンチー盤の
正体

なのではなかろうか。その後、兵卒の成るルールが
河越に調節されたので、たまたま不要になって、中
国シャンチー盤からは、4個の聖目が消えたのだろ
う。その証拠に、今では、不要なので聖目はシャン
チー盤から確かに消えて、存在して居無いのだが。
当初は有り、2つの聖目の間隔が2升、つまり3路
だったので、聖目のラインを下に伸すことによって、

九宮ルールも、すんなりと思いつけた

という事なのではないかと、私は疑う。
 実際には雲南では、市松模様の8×8升目盤を
使っていたのかもしれないし、×の線、つまり、
ミャンマー式にシッケチュウの入った盤だったのか
もしれない。が、元々日本人には、囲碁盤は馴染み
があったので、それそのままよりも評判が良かった。
 また経帙牌の調達も頼まれたので、それに合わせ
て、中国開封でも馴染みの、第4路聖目9路囲碁盤
の、メッシュ調整済み品を日本の将棋用の盤として、
中国人の北宋交易商人(一例)周文裔が、西暦
1020年に、将棋の普及の為に、加勢して持って
来たのだろう。特に地面に線を書いて、将棋の練習
をする訳にも行かない、大宰府長官や少弐、大監と
言った、お偉方のゲーム用には、中国交易商人が、
ゲーム用の盤を送って来るようなケースが、実際に
有ったのではないかと、私は推定する。
 従って”自陣の駒は、敵陣の聖目に入ると皆金に
成る”という、いかにも中国伝来の囲碁盤を使った
ゲームルールの言い方は、日本の将棋が伝来して数
年程度後には既に有った将棋用語と、かなり疑われ
るのではないかと、少なくとも私には、そう思える
のである。(2019/08/11)

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堅田Bの不成り(補)龍馬駒と将棋馬写の龍馬(長さん)

以前、石川県金沢市近郊の堅田B遺跡の西暦12
50年前後に成立の、不成り龍馬駒は、西暦12
60年型大将棋の駒であって、大将棋の鎌倉時代
の進化を知る上で、ポイントになる駒の旨を述べ
た。
 ところで、だいぶん以前だが、この駒を龍馬と
本ブログが読んだときに、飛馬にも見え、不確定
性があるような書き方で、説明を終わった記憶が
ある。その時点から、どんな情報が新たに加わり、
龍馬に確定したのか、経過を以下述べる。
①天童の将棋駒と全国遺跡出土駒にて”裏に墨跡
の発見されない、口馬”と読みが公開されていた。
②京都曼殊院で、近年発掘された中将棋の駒の字
の写書”将棋馬写”の、中将棋の角行成り”龍馬”
の龍の字が、書き方のパターンで、堅田Bの龍馬
駒の龍の書き方と、同じだった。
 以上が結論であり、①については、その通りと
いう以外に無いので、②について、もう少し以下
に説明する。
 堅田B遺跡の龍馬駒と、曼殊院で成立が、江戸
草期とみられる、中将棋の駒に関する将棋馬写の
角行の成りの龍馬は、縦横比率をだいたい合うよ
うにして並べて見ると、以下のようになっている。

堅田B_駒写.gif

堅田Bの龍は、真ん中の縦棒が余計で、これが
あるせいで、飛にも見えてしまうのだが。仮に、
真ん中の棒が、汚れや傷だとすると、

将棋馬写の中将棋の龍馬と、筆運びが、ほぼ同じ

である。将棋駒の飛は、平泉の飛龍や、焼津の
飛鹿を見ても判るとおり、かなり特殊な書き方を
するケースが多く、金沢近郊の堅田Bの第1字目
とは、余り似て居無い。また、第1字目は、桂で
は、明らかに無い。近代に、この書き方の龍馬は
余り見かけないが、そう読むしか無いのである。
 ただし、上記で傷とした真ん中の棒は、龍の字
のヘンに当たる部分により似せて、草書書きする
つもりが無い事を示すために、堅田Bの出土駒で
は加えられた可能性が有る。なお、堅田Bの龍馬
の裏に、角行と書いてあるとの情報は無い。成立
西暦1250年代なら、鎌倉時代中盤に中将棋が
有ると言う事になり、

たいへんな発見になる所

だが”大将棋の駒の出土”という、

より、おとなしい(?)結論

に今の所落ち着いているという事である。つまり、

どちらにしても際立った発見だ。

同時期に発見された、”正月飾りのお経の額”よ
り、現地金沢の注目度は、今の所低いようである。
 ともかく②の項目、すなわち将棋馬写と堅田B
の龍らしき字が、筆使いといい、全体的な形のバ
ランスといい、良く似ていたので、

龍の字の雰囲気が、近代と、中世とでは、かなり
異なっていたため、本ブログに誤って、桂馬と読
まれていただけ

と、将棋馬写と堅田Bの龍馬通しの比較から、私
は考えるようになった。堅田B将棋駒のスケッチ
をした発掘担当者が、中世の書の書体に詳しく、
思い込みで、そう解釈できるように書いてしまっ
た可能性は、無いとは言えないのだが。今の所は、
以上のように、解釈する事にしたと言う事である。
 そもそも、曼殊院の将棋馬写の字のうち、龍馬
だけ紹介したのは、現在の将棋駒の角行の裏の龍
馬の書体と、曼殊院の将棋馬写の龍馬が、かなり
字が違っていた為、この字だけに注目したという
経緯であった。”桂馬と間違える”と、自らが指
摘しながら、堅田Bの出土駒では、自分自身が
”桂馬”と間違えていたと言う点で、誠にお恥ず
かしい次第である。
 以上の事から本ブログでは、天童の将棋駒と全
国遺跡出土駒にも出て、馴染のこの遺物について、

堅田B駒は、大将棋の不成り龍馬の駒である

との見解を、上記の経過から、その後継続して取
るようになっていたのである。(2019/08/10)

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金く、金・、金や、歩兵金也、と書いた駒師が居た理由(長さん)

以下、背理法で、日本の将棋の五角形駒が、他の
漢字文化領域の外国の産物では無い事を証明する。
 証明には、表題のように、興福寺(1058物)
作駒の、成り金の”金く”、”金~”、中尊寺境
内出土駒の作駒の、成り金の”金・”、栃木県
小山市神鳥谷曲輪の角行裏の”金や”、一乗谷
朝倉氏遺跡の一部の曲がり字歩兵の”歩兵金也”
といった作駒は、

外国産の五角形駒が、仮にあるとしたら、それを
生むような、字書きが行われているはずが無いの
で生まれない

という理屈を使う。
 では、説明を続ける。
 仮に、中国の揚子江下流域や、朝鮮半島等、と
にかく、漢字文化圏ではあるが、漢字を日本語の
訓読みで読む習慣が無い、外国で日本の将棋の
五角形駒が発明されたとすれば、仮想伝来五角形
駒の

成りの金は、楷書一文字で”金”と書いてあると
いう以外には、考えられない。

 理由は、”金に成る”という文を、漢文で書く
と、成るは動詞なので”成金”となるが、将棋駒
には、補語である”金”を書けば良いので、外国
人が”成金”と駒字を書くはずが無いからである。
なぜなら、カナ交じりで文章の意味を、他の漢字
圏の民族は、概ね把握しないからである。つまり、

日本人より、他の民族の方が”『成』という漢字
は動詞である”と、明解に意識している

という意味である。
 仮に、外国人の作成した五角形駒が、日本将棋
の駒のオリジナルとすれば、伝来時の姿の印象・
影響は大きいはずで、それは、日本人に真似られ
るのが必然だから、
真似た日本人は、銀、桂馬、香車、歩兵の裏には、
楷書で金と書いて、取捨て平安小将棋をするとし
か考えられない。
 つまり、興福寺(1058物)作駒の、成り金
の”金く”、”金~”、中尊寺境内出土駒の作駒
の、成り金の”金・”、栃木県小山市神鳥谷曲輪
の角行裏の”金や”、一乗谷朝倉氏遺跡の一部の
曲がり字歩兵の”歩兵金也”といった作駒は、
五角形駒が、元々外国起源なら、

この世に存在するはずの無い物品

と、少なくとも私には考えられる。
 しかしこのような、不可解な成りを表す駒が、
日本の方々で出土するのは、将棋駒が出来たとき、
作者が、最初は”成金”と書いて、”金に成る”、
または”きんなり”と呼んでいたとしか、考えら
れない。つまり成(レ)金とレ点、一ニ点入りで
漢文を認識する人種の書いた”成金”だったと考
えられる。
 つまり、

五角形駒に、将棋のルールを書くのが、将棋駒第
一号の使い方だったと言う事が、昔は、駒師の多
くに知れ亘っていて、面白半分にパロディ駒が作
られた

としか、考えられないと言う事である。
 そうすれば、成が、標識の第1字なのはおかし
いから、成金を金也に変えたのが、事の始まりだ
と説明が付く。また、諸橋徹次の大漢和辞典を見
ても、セイやジヤウが音読みの成と、ヤ、イ、エ、
が音読みの也とを、

置き換えるという発想が、日本人以外に、出来る
はずが無い。

成という字と、也という字の両者の間に、外国人
にとっては、共通性がほぼ無いからである。つま
り、諸橋徹次の大漢和辞典を、精読すれば明らか
だが、本来の漢字に、成と也とで、意味や解字、
その他、ほぼいかなる事柄においても、共通性は
ほとんど無いという事である。だから、日本語と
して

訓読みが、どちらも”なり”だったので、動詞の
成を、助詞の也で入れ替えただけ

と、このケースは、ほぼ断定できる。
そして、”急激に盛んになって、金に変わる”の
文意の”成金”を、現代語で表すと、

”金だゾゥwwww!”の意味の金也に置き換え、

日本人以外には、ほぼ意味不明であるが、重箱訓
読みすると、多少尤もらしいように、表現を変え
たのが、一部の裏金の後等に”く”や”~”や、
”・”や、”や”や、”也”が書かれた駒の、正
体だと考えれば、出土史料が理解出来るのである。
 そもそも、ある程度中国渡来の事物には、権威
が有ったはずである。だから、再度繰り返すが、
伝来品の、将棋駒の裏の成りに関して、金を表す
楷書”金”一文字が、このように書いてあれば、
とりたてて、それが不便な理由も無いだろうから

日本人は、その通りに真似続けるはず

である。だから金く類の将棋駒が、日本に現われ
る事は、ほぼ無いはずである。
 しかし、初期には、”金く”系が卓越している
ように見えるほど、出土駒に例が有るのは、

五角形の駒を発明したのが、元々日本人である事。

しかも彼は、ルールブックのようであって、モダ
ンで、こざっぱりした遊戯駒にはとても見えない、
”成金”と、裏に書かれた将棋駒を、

誤って、幾らか普及させてしまった経緯がある事。

以上を、かなり明解に示唆しているのではないか。
以上のように、私は疑うのである。(2019/08/09)

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滋賀県長浜市塩津港遺跡から2018年に王将駒が出土(長さん)

2019年8月1日前後の、読売新聞に多分、表題
の滋賀県長浜市塩津の塩津港遺跡で、昨年に新出土
した王将駒の記事と、写真が載っている。

奈良県を除いて近畿では、古代末~中世の玉将駒は
出土しないという法則が、更に強固なものになった。

滋賀県文化財保護協会や新聞の見出しを補足等する
と、以上の結論となり、更に以下のような状況のよ
うである。
 問題の王将駒は、外見が鳥羽離宮135次の王将
のような縦横比率だが、典型王将ではなくて、王真
ん中の横棒が、僅かに下に下がった、本ブログ流に
言うと、”玉将と書きたかったが、大江匡房から禁
止されたので、王ではなくて玉なのをこれ見よがし
にはっきり表現した、『屈折した心の生んだ王将型』”
である。ただし、出土駒の書体は、オリジナルの
”反体制側”の駒師のものではなくて、単に先達の
マネをしたという感じで、丁寧に書けている。

つまり、この王という字に点を付けると、興福寺出
土1058年物玉将のような形の、王将駒になる類

の一枚と表現されると、私は思う。
 これは、これまでの滋賀県産の王将で名高い、
滋賀里遺跡の、裏が下がり中央棒の王の駒や、
観音寺城下町遺跡の王将等、

これまでの滋賀県産の典型王将駒に、更に続く史料

となったと、私には認識された。
 なお、外見が鳥羽離宮135次の王将のような、
縦横比率なため、鎌倉時代のものと、私はいっけん
思った。が、滋賀県文化財保護協会が発表したPDF
ファイルによると、平安時代末期の遺跡での出土の
ようである。よってこれは、大阪府四条畷市の、
上清滝遺跡の王将駒と並ぶ、平安時代末の最古級の
王将駒なのかもしれない。
 ただし、この遺物の成立年代の詳しい情報につい
ては、今の時点で、本ブログの管理人には判らない。
なお発掘は、2018年の5月~11月の間のどこ
かで、滋賀県長浜市塩津港遺跡内でなされたようだ。
 何れにしても、近畿で中世までの玉将は、
南都北嶺のような所以外では、出土しないという、

今の所の経験側

は、特に滋賀県に関しては、まだ破るような例が、
全く無い”揺ぎ無い経験則”に、次第になりつつあ
るもののように、私には印象付けられる。(2019/08/08)

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増川宏一著”盤上遊戯”のリスモマティのチェック(長さん)

以前に述べたように、ものと人間の文化史29
”盤上遊戯”で、戦争ゲームのカテゴリーで紹介
されている、12世紀フランス発祥とされる、
リスモマティは、戦争ゲームではなくて、チェス
類とみられる。今回は、増川宏一氏の紹介して
いるリスモマティが、チェス・象棋・取捨て将棋
型なのかどうかを、ゲームをしてチェックした。
 ものと人間の文化史に記載されているリスモマ
ティの駒の、初期配列と数字部分を、完全に同じ
になるようにコピーすると、以下の、初期配列を
示す図のようになると見られる。

リスモマティ初期.gif

 増川氏の解説だけを頼りに、取った駒の数値の
合計が、一例として図のメモ部のように、850
と差が無い方が勝利(目標値が850)として、
ゲームを行うとする。このときチェスや将棋のよ
うに、玉駒や駒の価値は、ルールだけからは自明
ではないものの、目標値が、一例850のときに
は、次ぎのように考えなければならない事が、指
し初めの前からほぼ判る。
 先手は、狛犬駒のうち、後手の”120駒”、
”190駒”以外の6枚を取れば、勝ちである。
120駒、190駒は、取りたくない駒。また、
その他の後手の全ての駒も、目標値が850のケー
スには、取りたくない駒となっている。
 後手は、先手の狛犬駒の全てと、近王駒の、
”002駒”の計9枚を取れば勝ちである。その
他の先手の駒は、係わりたくない駒である。よっ
て、目標値を850にしたときには、

先手の方にだけ、”近王002”が玉駒になると
いう状況が、明らかに発生している。

そのため、目標値が850の時には、

先手が、すこぶる不利なゲーム

になっている。
 ちなみに、増川氏が盤上遊戯で紹介したリスモ
マティは、数字の合計が、上の図で言う先手が
1292点、後手が1752点と、すこぶる差が
あり、不均衡である。元ネタもそうなっていたか
ら、増川氏はその通り書いただけとみられるが、

上図はその点が妙であり、先手と後手を公平にす
る目標値は、設定しにくい。

ちなみに、狛犬駒の点数の合計も、上図に入れた
通り、先手が848点なのに対し、後手が
1160点と大きく差があり、その点でも先手と
後手が公平な目標値は、ほぼ作れないとみられる。
 実際ゲームを開始すると、後手が先手の、逃げ
足の遅い玉駒、”近王002”駒を、先手の狛犬
駒を蹴散らしながら、後手の、先手に取られる危
険性の無い、ウルトラ大駒の”狛犬120駒”と、
”狛犬190駒”とで追いかける、以下のような
展開となる。

リスモマティ途中.gif

ここから、少し進めば、以下のような局面になり、
”近王002”駒が詰まされて、先手はこれ以上
ゲームをする気が無くなって投了するとみられる。

リスモマティ投了.gif

 後手に比べて先手が、大きく不公平という意味
で、ゲームとして、極めて難があるが、実際にプ
レーヤーがしているのは、目標値の取り方によっ
て、たまたま玉駒になった、ほぼ近王に限定され
る特定の相手の駒を、詰ますゲームになっている
という事である。
 つまり旨く出来ているように私には見えないが、

実質的にリスモマティは、チェスの類だ

と言って良いと私は考える。
 なお、webの英文の情報を読める範囲で見た
が、駒を取るのに実際には、条件が有るようで、
好き放題に、狛犬で狛犬が取れるとも、限らない
ようだ。その点を加味しても、チェスに近い事に、
変わりは無いだろう。
 そこで、ものと人間の文化史29、盤上遊戯で
紹介されているリスモマティに戻ると、増川氏は、
このゲームを、完全には紹介していないが”目標
値に近くなるように、相手駒を取れば勝ち”とい
う、増川氏の文面からは、これが、戦争ゲーム
の中でも、チェスに近いものであるという、疑い
が、かなり強いと言う結論になるだろう。
 そう認識した上で、ゲーム具という観点から
更に見てみると、本ブログで紹介した狛犬、白象、
近王は、実際には立体造形で区別されている。
 しかしながら、
同じ狛犬でも捕獲できる駒と、相手が取りたくな
い狛犬駒という区別は、

”書かれた数字で区別される”という意味で、
書き字駒の要素が半分ある。

また、同じ近王でも、邪魔駒の機能を持つ近王と、
玉駒の近王とは、目標値の設定により、駒に書い
てある値で区別が決まるから、やはり、それにつ
いても”書かれた数字で区別される”という意味
で、書き字駒の要素が半分ある。
 よって、フランスで12世紀に考案された、
リスモマティも、中国シャンチー駒や日本の将棋
駒のように、書き字駒の要素が、全部とは言えな
いが、部分的に存在して、それはフランス人が、
たまたま工夫した結果と推定するのが自然である。
 以上のようにして、書き字駒を使うのが、中国
文化圏の特徴であるとは、フランス産のゲームを
実際にしてみると、半書き字駒を使ってチェスを
しているようであり、いつもそうだと言えない為、

定説には疑問符が付く

と言えると、結論できるのである。(2019/08/07)

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仏発生リスモマティはチェス類かつシャンチー型書字駒(長さん)

ものと人間の文化史29とかなり古い成書に、
1978年法政大学出版局、増川宏一氏著書の
”盤上遊戯”がある。そのⅣ-3戦争ゲームに、

12世紀フランスで発明と記載されている、

表題のゲーム”リスモマティ”が記載されてい
る。チェスからの派生と、増川氏は、この著書
の中で述べて居無い。が、

本ブログの見解によれば、チェス派生だと見る。

そして、特徴的な事は、各駒を討ち取ったとき
に、プレーヤーに与えられる点数が、

駒に”字”として記載

されているという点で、

中国シャンチーと日本の将棋に似ている

という事である。
 フランスが中国と距離的に離れ、12世紀は、
中国シャンチーが完全成立した世紀である事
から、

日本の将棋の書き字が、中国を見習ったと自明
に言えない

と以下結論する。
 では、もう少し説明を加える。本ブログでは、
中国仏典の伝来窓口の九州博多で、経帙牌に、
中国北宋商人から得た情報を、要点だけ掴んで、
書き込む事を業として行っている者が、輸入品
のチェックをするための、博多のターミナルに
置いて、西暦1015年の推定1月に、後に日
本の平安小将棋となる、伝来ゲームのルールを、
北宋商人がたまたま、説明し出したので、

生業から来る条件反射で、経帙牌に要点を書き
込んだのが、日本の字書きの将棋駒の始まり

だと見ている。つまり、
経帙牌に説明札として字を書き込むのが、
輸入経文受付者にとって、通常の業務の範囲に
於いて当たり前だったので、経帙牌が起源だっ
た、日本の五角形将棋駒は、彼がルールのメモ
として使用した経帙牌が、将棋駒へ用途拡張さ
れる事によって、必然的に発生したのであり、
中国からのゲーム具の、五角形駒部分に関する

アイディア伝来が、必要だったと到底思えない

と見る立場を、以前から取っている。つまり、

日本の将棋駒と中国シャンチーの駒が、共に書
き字タイプなのは、ほぼ、偶然の一致

だという意味である。
 それに対して、現在の将棋史学会の定説は、
言うまでも無く、

中国の文化に、日本のそれが影響を受けやすい
証拠の一つ

だと言う事になっている。しかしながら、
中国からかなり離れた所で、かつ中国象棋の
発生時代と、100年と差が無いフランス発生
のリスモマティで、書き字駒を使っているのは、
フランスが12世紀に、中国文化圏だったから
だとは思えない。だから、本ブログが正しく、

定説が、おかしい証拠なのではないかと言う事

になるという訳である。
 そこでここからが本論だが、次に、単なる戦
争ゲームとされているリスモマティへ、チェス・
象棋・将棋系統の議論を、

そのまま、持ち込んでよいカテゴリーのものな
のかどうか

を、次に問題にする。
 持ち込んでよいと、私は見るが、

このゲームが、以下のように表現できると見る

からである。
 ”盤上に、狛犬駒と白象駒と近王駒の3種類
が有って、狛犬駒で討ち合いをした結果を確認
した上で、結局どの相手駒を、相手の玉駒と見
るのかを決める”という指し方のコツを有する
チェス・象棋・将棋型ゲームだと、

ほぼ言い尽くせるのが、リスモマティの内容

である。なお、チェス・将棋類のゲーム盤に相
当する物品として、増川氏の前記著書を見る限
り、チェス盤を2つ連結させて、リスモマティ
盤にしているように、私には見える。
 つまり増川氏の上記著書の説明から、このゲー
ムが、算数の計算を主体にしているように読み
取れるが、そう考えてしまうのは、このゲーム
に関して”ビギナー”だからだと私は考える。
 実際にはこのゲームの上級者ともなれば、計
算は、だいたい何時ものパターンで自明なので
あり、そのため、玉駒がどれになるのかだけを、
ほとんど指し始めの時点で、算数ゲームの名に
相応しく、多少は考える程度のものなのだろう。
そして、計算結果に基づいて、相手の玉駒になっ
た駒を、どう詰めるのかしか、実戦のゲームの
各局面では、ほぼ問題になって居無いと、私に
は推定される。よってこのゲームは、単なる戦
争ゲームではなくて、玉駒が変動するという意
味で、変則的ではあるが、チェス・象棋・将棋
類の範疇であると、考える事ができると、少な
くとも、私は見るのである。
 具体的には、このゲームの必勝法は、以下の
ようなものではなかろうか。
1.狛犬駒は前段に出して、中央やや下に、
並列配置する。他の駒は下段へ下げる。相手が
仕掛けてこない限り、必要以上に自駒を繰り出
すような、無駄手は指さない。
2.最初、相手の狛犬駒と、味方の狛犬駒が、
相討ちになるように指す。基準点数は、互いの
狛犬駒の合計点数より、少し高めにするのが、
よい方法だろうと想像される。動きの下位の駒
で上位の駒を狙うような作戦は、無理筋である。
3.一枚だけ、味方の狛犬が駒得になるように、
注意する。最後の狛犬で、不足分の白象駒ない
し近王駒を取り、基準点になるべく近くして、
主導権を確保しておく。
4.最後に活躍した狛犬は、相手がそれを殺す
のに、1手でも2手でも、余計にかかるように
注意しながら、わざと相手に殺させる。その間
に、逆転の可能性のある味方”玉駒”を、白象
囲いで完全に防御し、ゼットの状態にする。囲
いが完成しさえすれば、このゲームの場合、相
手の投了は必然である。
 凡そ、上のような要領で、チェスゲームのよ
うに指すのだろう。
 だから、リスモマティの駒に書かれた数字は、
玉駒を決定するために必要な定数の情報である
だけでなく、

駒の種類のうちの細分類を、字を書いて示して
いるという、字書きという点で、中国シャンチー
・日本の将棋と同じ類のやり方

と見る事ができる。
 よって、フランスで12世紀に発生したゲー
ムが、書き字であり、東アジア文化圏に、その
頃のフランスが属していたとの情報は、ほぼ無
いとみられる事から、

チェス・象棋・将棋系の駒が書き字ならば、
”東アジア文化の影響が、100%有る文化圏
内である証拠”とまでは言えない。

以上のようにして、冒頭に述べた結論が、導き
出せるという事である。(2019/08/06)

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(コラム)本ブログの将棋史書き込み件数、千件達成(長さん)

初日の書き込みに、実質内容が無い等、正確にカウント
するのは困難ですが、本ブログの将棋史関係の書き込み
が、連続毎日1件書き込みで、どうやらここに来て、おかげ
さまで、ちょうど一千件に達した模様です。
 アクセスカウンタの様子から見て、本ブログは、ほと
んど本ブログの初期から、長い期間に亘って、チェック
を漏らさず続けておられる方が、十数人といったレベル
でおられ、極端にランキングが下がらないという、特徴
があったようです。
 そうした読者の皆様の御厚意は誠に、ありがたい事で
あり、本ブログの管理人は深く感謝しております。
 最近では、記事数900件を超えたあたりから、ラン
キング自体も少しですが、上がる傾向を示して来ました。
本ブログ・オリジナルを、力不足で少数例だけですが、
出す事により効果が上がったと考え、嬉しかったです。
 次に今後の見通しですが、よほど大きいネタが、近々
発掘されない限り、誠に残念ですが、

毎日連続し更新するという記録自体はまもなく途切れる

見込みです。
 ただし、更新が相当の日数で空くという事は、くれぐ
れも無いように、して行きたいと考えます。読者の皆様、
今後とも何卒よろしく御願い致します。以上誠に簡単で
すが、御報告いたします。(長)(2019/08/05の2)

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楽しい将棋の有ゲーム性。小将棋持駒型が中将棋より先(長さん)

だいぶん前に論じたテーマの続きだが、ここでは、
通説15世紀早期に開始した、娯楽として将棋を
指す行為は、南北朝時代の中将棋の確立では無く
て、鎌倉時代1320年頃の、小将棋への現在と
ほぼ同じと見られる、持ち駒ルールの確立からで
あるという点につき論じる。なお、本ブログでは、
これまで中将棋の成立によるものとしてきたので、

これは、以前の考えを撤回するという事

である。
 理由は、旦代の難点が残っていても、それを、
そのような局面からは、無理攻めを押し通すとか、
最初から駒落しして指すとか、そもそも9升目盤
では無くて、8升目の将棋盤で、金将を2枚から
1枚へ減らして指すとか、以上の”何らかの方法”
で、解決しさえすれば、

持ち駒ルール特有の、終盤近くのオフェンスの強
さゆえ”何だか、一般規則が判り辛い状況のまま、
終盤攻められて玉が詰む”現実として面白いゲー
ムへ、それまでのものが、変貌を遂げたから

と考えられる。
 では以下に、もう少し説明を加える。
 西暦1300年前後の普通唱導集の小将棋の唱
導唄の第2節は、佐伯真一氏の説の通り”小将棋
に、持ち駒ルールが存在する事を示している”と
言うのが、従来からの本ブログの見方である。
ただし、

西暦1300年には、成りが相手陣三段目を跨い
だ時点の一発成りだった為、持ち駒ルールの機能・
効果が、今とは実質的に違っていた

と本ブログは考える。状況から見て、それが同じ
になったのは、僅か後の、

新安沖沈没船の船内で、小将棋が船員に指された、
西暦1320年代ではなかろうか

と思う。鎌倉末期の太平記に、密偵と斬り合いに
なった、大宰府の武家の頭少弐直資が、小将棋盤
とみられる将棋具で、敵の刃を避けるシーンが、
記載されているし、少し時代が前だが、西暦13
04年頃亡くなった、鎌倉時代の後深草天皇の亡
くなった後の遺品に小将棋盤が有った事などから、

小将棋のルールが改善されて、旦代の難点が西暦
1320年頃には、それ以前よりも軽微になった

と、疑われるからである。つまりは桂馬を相手陣
に打っても、3段目なら最奥へ動いたときに、西
暦1300年頃のルールでは成れなかったが、西
暦1320年ルールでは成れるので、銀と交換し
てしまった失敗を、相手が悔しがらなくなった、
といった変化が、実際には起こったという事が、
考えられるという意味である。
 その結果、西暦1323年前後、

新安沖沈没船船内では、小将棋が娯楽として指さ
れた

と推定される。西暦1300年よりかなり前まで
は、都へ栄転させてくれるように、あからさまに、
大宰府で原始平安小将棋を指してみせるといった
”生きている『神様のような』為政者への願掛け”
や、モンゴル帝国が攻めて来そうなので、
”敵国降伏の呪い”をするといった呪術的な動機
で、将棋を指していた事が多かったのであるが、

西暦1320頃から、それが実質、暇つぶしの
娯楽の為

等、現代に近い動機に、

小将棋から先に転換した

と、少なくとも最近、私は考えるようになったの
である。
 異性庭訓往来には、各種の将棋が指されている
かのように書いてあるが、実際には南北朝時代は、
平安小将棋が、良く指されていたのだろう。
 ただしそれを追いかけるように、西暦1350
年頃には、旧普通唱導集大将棋の、定跡化の難点
を克服し、先獅子の規則等が有るので、アヤが出
来て、

面白い中将棋が確立

してきた。
中将棋は、旦代の難点は無縁であったし、日記を
書くのは貴族が多かったので、今に残る記録とし
ては、

15世紀に中将棋が立ち上がって、娯楽としての
将棋が延びたように、文献だけからは見えた

と考えられる。
 要は、

新安沖沈没船の中から、駒種によって大きさ・形
を完全に変えた小将棋の駒群が、現実として複数
出土しているという点を、重く見るべき

だったのだと考える。
 ただし、持ち駒ルール有りの平安小将棋という
のは、歴史的な日本の将棋としては、研究が余り
進んでおらず、現行

面白いと実際に実感しているのが、本ブログの管
理人等、人間の頭数が限られている事に、この文
面を御読みになられている方は注意

してほしい。つまり”日本の将棋の看板である、
持ち駒ルールの成立は、早いに違いない”という
空気は、将棋史界に昔から有るが、特定の将棋、
すなわち

平安小将棋、持ち駒ルール有りタイプの終盤につ
いて、詳しく論じた、少なくとも成書は無い

という現実に、注意はしてほしいという意味だ。
 つまり、今回述べた事は、”それがあるなら、
人気は高まるはずだ”等と、漠然と主張はされた
ものの、その効果を、定量的に考える等の意味で、

将棋史界では意外に厳密には議論され尽くしては
居無い事柄

という事なのである。政治的思惑を匂わせながら、
”大将棋を指し”ていると表現された娯楽将棋以
外の史料が、藤原頼長の台記位で少ない為である。
(2019/08/05)

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別の普通唱導集大将棋2017の右袖攻め戦法は有るか(長さん)

従来より、普通唱導集大将棋(本ブログタイプ)西
暦1290年型には、角2枚、龍馬2枚、奔王の、
5枚定跡攻撃が生じているが、”西暦2017年型
には無いように、改善された”と、本ブログでは主
張してきた。
 方行を嗔猪と交換した上で、横行、飛龍、猛牛を、
それぞれ飛龍、猛牛、横行と配置換えして、元の
横行位置に利きが集まり、当の横行は奥に退いて、
失いにくくしたためである。むろん、方行が大駒な
のも利いている。しかしながらそうすると、袖から
3列目と少し遠いが、竪行と方行が袖近くにあり、
これらを端筋に集めて、雀刺しが出来ないかと言う
疑問が湧いて来る。5枚攻撃ではなくて、端筋の
もともと3枚ある攻撃駒に、竪行と方行を加えて
5枚にし、斜めの角2枚、龍馬2枚、奔王の5枚も
入れて、相手の右袖の大駒10枚、集中攻撃戦法と
でも言う、普通唱導集大将棋唱導唄の第1節の拡張
定跡が、本当に無いのかどうかという意味である。
 つまり、普通唱導集の大将棋の第1節で、”耳を
破る”

反車と香車に加えて、飛車、竪行、方行も、加えた
戦法が、むしろ1290年型から2017年型へ
移行する事によって可能にならないのか

という疑問が生じるという意味である。
 そこで今回は、そのような陣を組んだとして、
今述べたような戦法が、成立するかどうかを論題に
する。答えを先に書くと、

恐らく、それも無理攻めに終わると見られる。

駒損をしながらの、急戦の戦法で、この将棋の場合、
柔軟に相手に受けられてしまい、恐らく勝勢に持っ
てゆくのは、かなり困難だと見られる。
 では、以下に、もう少し説明する。
 このような戦法が成立するとすれば、本ブログの
言う、13升目108枚制の普通唱導集大将棋は、
西暦1290年型を、西暦2017年型に変えても
だめだと言う事になる。
 たとえば、雀刺し戦法を、仮に後手が3筋から端
筋に、方行と竪行を移して陣を組み、先手が”いつ
もの軽い陣型で受けたとすれば、以下のような局面
になると考えられる。

普通唱導集2017十枚.gif

上の図で、向こう側の後手の黄緑色の四角の10枚
の駒が、相手右袖攻撃用の10枚の大駒である。
 仮に以下の局面から、後手が、エクセル表示で、
L9飛車(2九飛車)と指し、端筋を守ろうとして
いる駒の、一枚である角行を取ったとして、以下、
攻撃で右袖が破れるかと言えば、

恐らく破れない。

 先手が、左袖から持ってきた、H8の位置の飛車
が決め手の駒で、この飛車で、雀刺しは最終的に、
先手に受けられてしまう。その後、斜め攻撃走り駒
5枚で攻めても、先手の右飛龍で、逆攻めされ、
先手B9位置の、中央攻撃用の定位置にある角行も
反撃に加わり、10枚共に先手陣右袖を崩す前に、
消失してしまうと見られる。
 その後、先手は、今度は相手後手の右袖を、小駒
を、じわじわ上げて攻めて行けば、後手陣が、先手
の麒麟攻撃に耐えられない程度に、陣が崩れてしま
うはずである。
 なおこの例では、左袖から、先手が左鉄将を上げ
て行き、仲人や左翼の歩兵と連携して、2枚の龍馬
を、攻めの決め手に残しながら、相手陣を攻めて反
撃していく例が、オレンジの矢印で示されている。
よって、陣袖の駒の横への動きが、西暦1290年
タイプに比べて、西暦2017年タイプは、ずっと
スムーズになっているので、

即攻の大駒を5枚から10枚に増やしても、”勝ち
を取れる”ような大定跡は、そう簡単には作れない。

どうやらこの2017年作の新型将棋では、以上の
ようになって、問題が一応解決しているようであ
る。(2019/08/04)

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江戸時代初期、明王朝時代小説金瓶梅にシャンチー盤図(長さん)

これまで、本ブログでは、逆蓮花型脚の日本将棋の
将棋盤は、江戸時代初期には日本の囲碁盤と同形式
で、テーブルに脚無し囲碁盤を置いて、椅子に座っ
て碁を打つ、中国の碁盤の形式と違っていたとの認
識を取って来た。他方、安土桃山時代末~江戸時代
初期の、中国シャンチーのゲーム具について、本ブ
ログの管理人には未知であった。そのため、

日本将棋の将棋盤と、中国シャンチーの象棋盤とを
直接議論出来ず、囲碁盤同士に置き換えた議論をし
ていた。

 最近になって中国の古典小説”金瓶梅”の挿絵に、

囲碁ではなくて、珍しくシャンチー盤の絵がある

のを発見した。その結果、

日本将棋の盤と中国シャンチーの盤とは江戸初期に
違う

と言えるようになった。以下詳しく経過を示す。
 江戸時代初期に当たる17世紀初、中国の明王朝
時代の小説”金瓶梅”の中国シャンチー盤の挿絵は、
以下のようなものである。

金瓶梅.gif

中国シャンチーの遊戯具は、中国の囲碁の遊戯具と
形式が、日本の江戸時代の早期には同じだった事が
判る。
 だから、日本将棋の盤と中国象棋の盤との間には、
江戸時代初期の、逆蓮座型の将棋盤だった時代には、

中国の囲碁盤と、日本の囲碁盤との差と、ほぼ同じ

差がある事が判る。つまり逆蓮座型の独特の将棋盤、
囲碁盤は、日本の国内の事情で生じたものとみて、
間違いないようだ。
 それにしても、シャンチーの遊戯具の、江戸時代
初期頃の絵は、少なくとも私には、珍しいものだと
感じられた。金瓶梅の挿絵は成書:PHP新書
(2014)の、”中国人はつらいよ”大木康氏に
転載されていた。
 中国史の書籍で余り目にしない、”おもちゃ”に
ついて、1章設けて紹介してくれた、東京大学東洋
文化研究所の文学博士の大木康氏に、深く感謝した
い。(2019/08/03)

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