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象棋図式百番奇巧の林信充序になぜ猛豹が有る(長さん)

故松浦大六氏蔵の象棋図式または将棋図式に
後奈良天皇が、朝倉小将棋から酔象を除いて、
42枚制の小将棋を日本将棋に直した話が
伝わる。が、それとまぎらわしい話として、
(西暦1080年頃に)大江匡房が日本将棋
をデザインしたときの経緯という話が、表題
の江戸時代の伊藤看寿著、象棋図式百番奇巧
または象棋百番奇巧図式、将棋図巧の
林信充序にある。そこには、将棋Ⅰ
(増川宏一著)によると”『玉将の頭に酔象、
左右の金将の上に猛豹がある』と(将棋家の
伝承として)伝えられている・・”と書かれ
ているといい、松岡信行著
”解明:将棋伝来の『謎』”によると、”兵
理を極めた大江匡房が、(前記の)酔象と
猛豹を除くと伝える”との旨書かれていると
いう。つまり、

平安時代から猛豹は嫌われ除かれた駒だった

という意味に取れると、本ブログでも従来か
ら見ている。なお、本ブログの見解では、前
記46枚制小将棋は、安土桃山時代の将棋者、
大橋家関連の人物の作、猛豹+酔象削除伝説
は、戦国時代の後奈良天皇時代頃の成立と見
ている。では後奈良天皇時代に実際に取り除
かれたのは今の所、酔象の1枚、42→40
枚変化なのに、戦国時代に、46→40枚の
イベントが有ったかのように、語られている
のは何故なのかを今回は論題にする。
 回答から書く。中将棋の最下段の駒のうち、
獣駒は、配列中、存在するのが相応しくない
という、

皇族内の論が誤伝承したもの

である。
 では、論を補足する。
 先行研究としては、大阪電気通信大学の
高見友幸氏が、自身のブログ”摩訶大将棋の
ブログ”等で、この記載の意味を詳しく論じ
られている。内容は検索すれば、該当の箇所
は直ぐに読めるであろう。
 他方今述べた原因の論については、ずばり
本ブログでは、

色葉字類抄2巻物、尊敬閣文庫蔵、八木書店
2000年発行冊の”き”及び”と”加筆字
として、玉将、金将、銀将、銅将、香車は有
るのに、酔象、猛豹、が無い理由を述べたと
きに、今述べた結論のように仮定できる

という議論を既にしている。
 つまり日本の将棋のあるべき姿を、戦国時
代に皇族が議論したときに、日本将棋の将棋
のあるべき姿と、日本の将棋(中将棋を含む)
のあるべき姿が、

ごちゃ混ぜになって、後の江戸時代に伝承

したと考えれば、猛豹の話が日本将棋に入り
込んで来る事が、比較的簡単に、説明できる
という事である。
 猛豹は中将棋では、たまたま進化の過程で、
最下段に落とされていたので、全く別の将棋
種である日本将棋でも”下段に玉といっしょ
に並んでいるのが、相応しいとは言えない駒”

→”日本将棋では、そもそも使用する事自体
が、相応しいとは言えない駒”と、話が拡大
しながら誤伝してしまった

という意味である。それが、言い伝えが曖昧
模糊化した、江戸宝暦時代の将棋書で、11
世紀の大江匡房の標準平安小将棋デザインの
言い伝えと更に交じり合った。つまり大江は
実際には、興福寺で1058~1098年頃
指されていた、大理国原始平安小将棋の、
右銀将位置の酔象を問題視しただけだったの
に。猛豹もその頃から有って、大江があたか
もそれまで取り除いたように、将棋図巧等の
林信充序に記載されたというのが、本ブログ
の独自推定の内容である。
 つまり、以上のように考えたのだが。
繰り返すが以上の推定は、今の所

本ブログの独自の見解

である。そして現時点では、諸説が並存して
いるのが、将棋史界の現状という事である。
(2020/11/02)
 
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