雲南でテンが打っても南詔が碁を打たないのは何故(長さん)
以前に述べたが、ゲームの出来の良し悪しの感覚
を持つには、碁の強い棋士が多い社会が適し、
碁は天の周極星が、中国漢代成立の紫微垣を被覆
しているのが、条件との事であった。雲南省では
緯度が低いため、漢王朝期に確立された、中国
古来の星座観が南詔時代に疑問視され、星の配列
を碁の石の配列に見立てて、その状況をすばやく
把握する技量と考えられた囲碁は、雲南では衰退
した。その結果、ゲームの出来の良し悪しの感覚
を、南詔国の貴族が持て無くなって、実際には出
来の悪い、インド2人制古チャトランガ系が許容
され、黎明期の原始平安小将棋が、発生したとい
う理屈であった。
では、既説のように、雲南を囲碁文化が、漢代
頃には何故通過できたのか。ブロッキングされて、
インド・チベットから、漢王朝期の中国に、テン
国等を通っては入り込め無いと言う事は無かった
のかどうかを、今回は論題にする。
入り込めた。
テン国は、歳差の関係で、西暦-100年頃には、
北斗七星が周極星だったので、前漢の文化を
唐王朝の主張を、南詔国が、拒否したようには
拒まなかった疑いがある。
では、以下に説明を続ける。
以前に、中国の古代星座は、漢代成立という
のが、定説だと述べた。記録では紀元前数世紀
に原型が有るともされるが、石申星表が完成し
たのが、歳差を使って、冬至点から成立年代を
割り出したとされる、漢代なのである。その他、
ハレー彗星の記録が連続するのも、西暦-100
年頃からの漢代だという話が、長谷川一郎氏の
ハレー彗星物語(西暦1984年、恒星社)に
ある。
また歳差が存在するために、周極星が替わり、
特に宗教的にも大切な、
北斗七星の赤緯が、西暦-100年頃は20°
近く高く、ベネトナシュでも70°に近かった
事が判っている。そもそも、漢代からの中国星図
では、
皇帝の星は、ポラリスではなくて、こぐま座の
ベータ星のコカブ、太子がこぐま座ガンマ星
になっている。こぐま座アルファ星である現行の
北極星よりも、こぐま座ベータ星の方が、約20
00年前には、天の北極に近かったからである。
同様に、北斗七星が、今より天の北極の近くに
あり、カシオペヤ座が遠かった。
紫微垣の中心は、こぐま座ベータとガンマと
北斗七星であり、現行の北極星ポラリスは、勾陳
と呼ばれて、後に日本の安倍晴明によって、
十二神将の一人になる、金色の蛇の宮廷の守り神
に、過ぎなかったという事である。
確かに雲南は北緯25°付近と、緯度が長安よ
り南だったが、漢代には歳差の関係で、北に寄っ
ていた、北斗七星まで周極星になった。恐らく、
その時代は、今と違ってカシオペヤ座と北斗七星
の重要度には差があり、宮廷の庭先道路(?)を
デルタ・エプシロン星と見ていたらしい、前者と
違って、後者の方が、天帝の乗用車(?)と見ら
れて重視されたのだろう。だから漢代の地方国家
雲南省のテン国は、漢王朝の星座観、古代中国の
恒星天文学観を、唐代の南詔国と違い、受け入れ
ていた可能性がある
ようである。だから、テン国でも漢代恒星天文学
が受け入れられなかったので、囲碁に興味がもた
れなかったと、
決め付ける事は、少なくとも出来ない
のかもしれない。つまり、その後西暦700~
800年頃になると、天の北極が歳差で動いて、
紫微垣の構成メンバーとして特に重要な北斗七星
が、雲南では、北の空に秋頃沈むようになって
しまった。
そのためその頃成立した南詔国では、漢代の星座
観を更に推し進めた、唐代の中国星座観、
中国古代の恒星天文学は”それまでに無く”拒絶
されて、囲碁文化の低迷を新たに招いたと考えて、
一応の理屈は通るようである。
以上の事から、歳差という現象の存在を加味す
ると、雲南の囲碁文化の挙動が説明でき、かつ、
漢代以前なら雲南で、囲碁の伝来の壁は、一応
出来ない
と、考える事が出来るようになったと、私には思
われた。(2019/10/05)
を持つには、碁の強い棋士が多い社会が適し、
碁は天の周極星が、中国漢代成立の紫微垣を被覆
しているのが、条件との事であった。雲南省では
緯度が低いため、漢王朝期に確立された、中国
古来の星座観が南詔時代に疑問視され、星の配列
を碁の石の配列に見立てて、その状況をすばやく
把握する技量と考えられた囲碁は、雲南では衰退
した。その結果、ゲームの出来の良し悪しの感覚
を、南詔国の貴族が持て無くなって、実際には出
来の悪い、インド2人制古チャトランガ系が許容
され、黎明期の原始平安小将棋が、発生したとい
う理屈であった。
では、既説のように、雲南を囲碁文化が、漢代
頃には何故通過できたのか。ブロッキングされて、
インド・チベットから、漢王朝期の中国に、テン
国等を通っては入り込め無いと言う事は無かった
のかどうかを、今回は論題にする。
入り込めた。
テン国は、歳差の関係で、西暦-100年頃には、
北斗七星が周極星だったので、前漢の文化を
唐王朝の主張を、南詔国が、拒否したようには
拒まなかった疑いがある。
では、以下に説明を続ける。
以前に、中国の古代星座は、漢代成立という
のが、定説だと述べた。記録では紀元前数世紀
に原型が有るともされるが、石申星表が完成し
たのが、歳差を使って、冬至点から成立年代を
割り出したとされる、漢代なのである。その他、
ハレー彗星の記録が連続するのも、西暦-100
年頃からの漢代だという話が、長谷川一郎氏の
ハレー彗星物語(西暦1984年、恒星社)に
ある。
また歳差が存在するために、周極星が替わり、
特に宗教的にも大切な、
北斗七星の赤緯が、西暦-100年頃は20°
近く高く、ベネトナシュでも70°に近かった
事が判っている。そもそも、漢代からの中国星図
では、
皇帝の星は、ポラリスではなくて、こぐま座の
ベータ星のコカブ、太子がこぐま座ガンマ星
になっている。こぐま座アルファ星である現行の
北極星よりも、こぐま座ベータ星の方が、約20
00年前には、天の北極に近かったからである。
同様に、北斗七星が、今より天の北極の近くに
あり、カシオペヤ座が遠かった。
紫微垣の中心は、こぐま座ベータとガンマと
北斗七星であり、現行の北極星ポラリスは、勾陳
と呼ばれて、後に日本の安倍晴明によって、
十二神将の一人になる、金色の蛇の宮廷の守り神
に、過ぎなかったという事である。
確かに雲南は北緯25°付近と、緯度が長安よ
り南だったが、漢代には歳差の関係で、北に寄っ
ていた、北斗七星まで周極星になった。恐らく、
その時代は、今と違ってカシオペヤ座と北斗七星
の重要度には差があり、宮廷の庭先道路(?)を
デルタ・エプシロン星と見ていたらしい、前者と
違って、後者の方が、天帝の乗用車(?)と見ら
れて重視されたのだろう。だから漢代の地方国家
雲南省のテン国は、漢王朝の星座観、古代中国の
恒星天文学観を、唐代の南詔国と違い、受け入れ
ていた可能性がある
ようである。だから、テン国でも漢代恒星天文学
が受け入れられなかったので、囲碁に興味がもた
れなかったと、
決め付ける事は、少なくとも出来ない
のかもしれない。つまり、その後西暦700~
800年頃になると、天の北極が歳差で動いて、
紫微垣の構成メンバーとして特に重要な北斗七星
が、雲南では、北の空に秋頃沈むようになって
しまった。
そのためその頃成立した南詔国では、漢代の星座
観を更に推し進めた、唐代の中国星座観、
中国古代の恒星天文学は”それまでに無く”拒絶
されて、囲碁文化の低迷を新たに招いたと考えて、
一応の理屈は通るようである。
以上の事から、歳差という現象の存在を加味す
ると、雲南の囲碁文化の挙動が説明でき、かつ、
漢代以前なら雲南で、囲碁の伝来の壁は、一応
出来ない
と、考える事が出来るようになったと、私には思
われた。(2019/10/05)
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