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大将棋13升目から15升目への変更はキリスト教の影響ではない(長さん)

平安大将棋が13×13升目で、それより後とみられる、後期大将棋が
15×15升目となると、13という数字が迷信により、嫌われたとの
理由付けも、あるいは有り得るかもしれない。有名なのは現在でも、
西洋社会には残っているという、13日の金曜日が縁起が悪いで有名な
13嫌いである。これが南北朝時代とか室町時代とかに「シルクロード
を通って、明国に入り、日本に伝わって、大将棋を13升目制から、
15升目制に変えた」というのは、話としては面白いが、

この説が正しい可能性は、ほとんど無さそうだ。

 昨日、それを確かめるため、私はナサニエル・ラッケンメイヤー氏の
「『不吉な13』の誰も知らない本当の話」(2005年11月・ダイ
ヤモンド社)を斜め読みした。

この13の数字の迷信が流行りだしたのは、19世紀の後半。もっとも
流行ったのは、少なくともアメリカでは20世紀の前半

との事である。それまでは聖書に書いてあるような内容で、「12人の
弟子とキリスト」と、キリスト本人を数に入れずに、ユダの説話を、近
世の欧州人は語っていたそうである。

むしろ、シルクロードを伝わって西洋星占いといっしょに、日本に古代
末期に輸入されたのは、「真ん中に鎮座する御殿様と、12人の家来。」
という画材の構図

だったのではないかと、私には思えて来た。つまり、13がむしろ吉升
目数という方向に、大将棋に対して、キリスト教は作用した可能性が強
い。
 何れにしても、後期大将棋の成立を語るとき、この本を読んだ限り、
「13日の金曜日」には、言及しなくてよさそうだ。(2017/04/10)

袖の方に向かって小駒が増えない、15×15升目将棋のチェック(長さん)

今年の3月1日前後に、私は新作の将棋をこのブログで紹介した。
それは15×15升目142枚制の理想の後期大将棋ゲームと
仮称したもので、悪狼と猫叉が無い代わりに、白象、馬麟、踊鹿
という2升目動き駒と、走り駒として方行、横龍を加えたもので
ある。
つまり、以下の後期大将棋、

玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車
酔象、盲虎、空升、猛豹、空升、猫刃、空升、反車
師子、麒鳳、悪狼、空升、嗔猪、空升、猛牛、空升
奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升
(ただし以上は、相手側を見る形で、6段目までの左辺だけ
 を中央から示したもの。
 3段目中央隣列の”麒鳳”と表現された駒は、左辺に麒麟を、
 右辺に鳳凰を配列するものとする。なお、水無瀬兼成の将棋
 部類抄によると、成りは酔象が太子、麒麟が師子、鳳凰が奔
 王である。)

を、初期配列に関して、

玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車
酔象、盲虎、空升、猛豹、空升、嗔猪、空升、反車
師子、麒鳳、白象、踊鹿、馬麟、猛牛、飛龍、横龍
奔王、龍王、龍馬、角行、方行、竪行、横行、飛車
歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升

(ただし表現方法は、上で示した、
15升目130枚制の後期大将棋と同じで、
3段目中央隣列の”麒鳳”と表現された駒は、左辺に麒麟を、
右辺に鳳凰を配列するものとする。)
と、変更したものである。ここで、踊鹿は大局将棋、横龍・
方行は泰将棋等の動きとした。2升目動きの駒は、踊りの動き
をし、具体的には、大阪電気通信大学ルールの”八方塞ぎでも
じっとの出来る、ちょびっと拡張型師子の踊り”と、隣接一升
目行きが、両方できるとした。つまり踊りの升目数に、幅を持
たせるタイプで、踊りの性格は大阪電気通信大学型である。
 成りは、中将棋が無い中で、実際にゲームとして面白いよう
に、進化するという想定なので、中将棋並に、元の駒より成り
駒の動かし方の性能は、極端に大きくしている。つまり、各駒
の成りは、次のようにした。

不成、飛車、竪行、横行、竪兵、白象、横兵、白駒
太子、飛鹿、空升、角行、空升、奔猪、空升、鯨鯢
不成、師奔、象王、方行、奔王、飛牛、龍王、走龍
不成、飛鷲、角鷹、龍馬、強車、飛牛、奔猪、龍王
金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
空升、空升、空升、酔象、空升、空升、空升、空升

(上手で3段目中央隣列の”師奔”と表現された駒は、左辺の
麒麟が師子に、右辺の鳳凰が奔王に成る事を表すものとする。)
なお象王、走龍、強車は、大局将棋の動き、それに対して飛鷲、
角鷹は、中将棋の動きとした。

つまり、この新作の”理想の後期大将棋”は、実際の後期大将棋
と異なり、袖に向かうと中段や前段に、中心部に比べて弱い駒を、
配列する傾向が少ないだけでなく、全体として、強い駒の割合が
オリジナルに比べて多くなり、オフェンスがディフェンスに比べ
て、より勝った傾向が強くなるゲームである。つまり侍従駒の素
材を、平安大将棋に比べて、極力増やさないようにしている点が、
オリジナルの後期大将棋とは、基本的に異なる。なお私は、オリ
ジナルの15×15升目130枚制後期大将棋に、上記欠陥があ
るのは、中将棋の安泰な存在下で、この将棋が辞書的に大将棋の
語を説明するために、12升目の中将棋に比べて13×13升目
と、少ししか大きくない、それまでの大将棋を体裁上、また大陸
のゲームとの、関連付けによる権威付けを理由として、15升目
に拡張したが、その際実質、小駒を水増しして作成されただけ、
という誕生経緯から来る、「手抜き」が根本原因であると、推定
している。
 そこでこれで実際に4月7日、新作142枚制将棋をプレイし
て、その様子をチェックしてみたが、

改良版となる新作”理想の後期大将棋”は、攻守の駒構成のバラ
ンスが取れていて、その点では、ほぼ問題の無い将棋なのでは
ないかと、私には満足できた。

ただ、難をいえば最下段の将駒が、ほとんど手付かずに近い状態
で、ゲームが終わる傾向が当初強かった。これは今回最初は、

5段目までを自陣とし、日本将棋と同じパターンの成り規則

としたためである。こうすると、金、銀、銅、鉄、石は、余り動
かされずに、ゲームが終わってしまう。そこで更に成りの規則を、
5段目までを自陣とし、日本将棋と同様、動かす前か後の何れか
に敵陣に居る場合に、どの駒も成れるだけではなくて、例外的に

隣接升目にのみ行く小駒と、踊鹿については、それらの駒種に
ついての、初期配列位置以外の位置から出発して、相手駒を取っ
た場合にも成れる

にして、テスト指しをやり直してみた。すると、特に成り鉄将と
成り石将を作るため、この駒が動かされること、および攻撃力が
竪兵と白象の増加分増して、陣がより崩されるため、上記の難点
が、ほぼ解決されたように思えた。
 何れにしても、上記新作の後期大将棋は、オリジナルの後期
大将棋に比べて、見違えるほど、ゲームの性能が上がっていて、
中将棋が、室町時代前期に確立されていなくても、このゲームが
ありさえすれば、ひょっとして済んだのではないかと、思えるほ
ど、私にしては上出来だと、自分では満足出来るゲームとなって
いた。(2017/04/09)

普通唱導集の大将棋には何故”猪”駒があるのか(長さん)

普通唱導集によると、平安大将棋に無くて、普通唱導集の大将棋
に有る駒は、実質的に、飛車と嗔猪である。このうち名前としての
飛車は、イメージで奔車並に強そうである。だが、考えてみれば、
たとえば熊よりも弱い猪が、普通唱導集の時代に、大将棋へ加わっ
たのは、いったい何故なのかが、不思議のようにも思える。また、
”嗔”という字も、鎌倉末期には、比較的頻繁に当用されていた
のかもしれないが、少なくとも現在では、IMEパッドで手書き
入力しないと、変換されない程度に、余り使用されない字である。
 特に私の13×13升目104枚制仮説普通唱導集大将棋では、
悪狼、猛豹、猫叉、そして猛牛は無いと見たため、私の見方に従え
ば、その後の後期大将棋の中での導入以前に、この猪駒が導入され
る根拠を、一応考える必要があろう。
 さてこの議論で思い出されるのが、大阪電気通信大学の高見友幸
先生が発見された、

摩訶大大将棋には12支の動物名の駒が全部入っている

という事実である。ただし、私は狛犬を犬としたが、高見先生は、
狼を犬とみなしていたかもしれないと思う。”悪狼”とは、山歩き
をしている人間が、ちょっとでも、山で足がつまずくと、喰い殺し
てしまうという、狼の化け物または、悪神の事らしい。送り犬とい
う、類似の説話を持つ地方もあるとも聞いているので、「狼≒犬」
も、完全に否定は出来まい。
 ただし、一応狼は犬とは違うと、鎌倉時代中期に考えられたと
強弁するとすれば、

狼、豹、猫より猪の方が、日本のポピュラーな十二支の動物なため、
先に導入された可能性が、完全否定は出来ないかもしれない。

ただし、そうすると猛牛が、私のモデルでは、無い理由を説明しな
いといけなくなる。そもそも私のモデルでは、猛虎と嗔猪の間に
スペースがあり、ここに猛牛を入れると、108枚制になるが、
駒満杯の新しい大将棋モデルは作れる。ただし、猛牛を入れると、
飛龍と猛牛は、2升目動きの、”正行度の踊り駒”と見るのが自然
になり、”西暦1300年時点で、踊りの動きに関する議論が、
当時の棋士の間で、充分に確立していたのかどうか”という、それ
から250年以上も後の、水無瀬兼成の将棋部類抄時代にも、議論
が続いていたように見える問題に、突き当たると思う。もっとも
飛龍が平安大将棋、二中歴表記の一説の角行の動きで、

更に、西暦1300年当時の猛牛が、後期大将棋の動きとは限らず、
たとえば大局将棋の猛牛の、斜め前走りと前後1歩歩みという、
より判り易い動きだったとすれば、

この問題は、その時点では存在し無いかもしれない。
何れにしても、今の所、十二支に入っているか否か以外で、少なく
とも、

悪狼と猫叉が、鎌倉時代中期には大将棋の駒として、取り入れられ
ないという理由付けが、私には見出せ無い。

普通唱導集の大将棋に悪狼、猫叉が絶対無いと、言い切るのは困難
だろう。ただし猛豹の”豹”については、少なくとも、妖怪の類と
しては、あまり日本に伝説が、見られない動物のようである。なお
”豹は虎のメスと、日本では見られた”との話がある。(2017/04/08)

将棋類を描いた絵による、その時代の将棋のルールの解明(長さん)

 将棋に関連してこの”将棋盤類を描いた絵でルールを推定する”
議論で最も話題が頻出する絵は、何といっても鳥獣戯画の、”身分
の低い女性”等が、7×7升目前後の紙のような盤で、小将棋類と
みられる、ゲームに興じる絵であろう。ただし升目の数について、
鳥獣戯画の将棋図は、正確さを期していないと見られているため、
”7~9升目程度まで、いろいろなルールの可能性のある小将棋と、
までしか判らない”という定説に、私も今の所賛成するしかない。
 次に、私が珍しい図だと思ったものには、元禄3年(1690年)
に出版された、「囲碁」と「将棋」という、表題が左右にそれぞれ
ついた、人倫訓蒙彙の「将棋」の図である。この図は、

将棋の方の盤の升目を数えると、11×13升目前後の盤である

興じているのは江戸時代の町人らしい男性と、旗本武家の妻風に、
私には見える女性である。江戸時代になっても

元禄時代には、将棋と言えばまだ、中将棋の雰囲気も残っていた
のかもしれないと感じさせる絵だが、

碁盤の方が、少し大きく書かれている上に、囲碁盤の方の升目も、
12×12升目程度と、きちんと数えて書いていないとの印象な
ため、囲碁と将棋の相対個々升目のメッシュを、絵師が単純に間違
えただけの可能性も、否定できないのかもしれない。
 仮に人倫訓蒙彙の「将棋」の図だけしか残っていなかったな
ら、絵画の世界だけでは、日本の将棋は近世までは中将棋のよう
でもあり、日本将棋の近世の隆盛が、他の史料が無かったら判ら
なかったのかという事になるが、むろん将棋の絵は他にもあるので、
そのような事は無い。
 西暦1500年頃に狩野元信が描いたと伝わる、国立博物館の
「厩図」に描かれた、短い足が有り、現在も良く見かける木製盤の
ように見える将棋盤の升目は、確かに9×9升目である。よって、
文献に有るように、室町末期時代から戦国時代にかけて、9×9
升目制の、今と同じ升目盤の小将棋が、標準的な小将棋として、
この時点では少なくとも指されていた事が、はっきりと証明できる
と、この絵の繊細な写実性から、私も充分に承知する。
 日本の中世時代の絵画について、現時点でどの程度の将棋情報が
まだ埋もれていると推定されるのかについては、私は専門家で無い
ため、皆目見当が付かない。が、私にも空白時代と認識される、西
暦1300年近辺の時代の落書き程度の絵画で、13升目の将棋盤
の図が仮に、1点だけでも出土すれば、大将棋の研究史に、大きな
変化が起こるとみられる事だけは、現時点でも充分に予想できてい
るつもりである。(2017/04/07)

興福寺出土小将棋駒で、持ち駒ルール有りと推定できるのか(長さん)

以下個人的見解であるが、私は

 興福寺出土の酔象駒および、酔象と書かれた木管を含む将棋の出
土駒は今の所、8×8升目32枚制原始平安小将棋(金将右一枚のみ)
および、酔象を用いた場合には、その変則将棋用の駒であり、裏面
から表面の文字は、確定困難と私は解釈する。よって持ち駒ルール
の将棋には、この出土駒を使用していないと考えている。

これは、有名な成書、将棋の元プロで九段、関西将棋会館内にか
つて、存在した将棋博物館の館長もされた、木村義徳先生の
「持駒使用の謎」の見解とは大きく異なるものである。
 以前はwebの模写図を見て、歩兵の成りの字体が、歩兵固有の
それから、確か1枚しか出土していない、銀将の成り金に類似の字
体にまで、大きくバラツイていたため、木村先生の説に、賛成しな
かったという程度の理由であった。そこで最近、昨日までに話題に
した、天童市将棋資料館が2003年に出版した「天童の将棋駒と
全国遺跡出土駒」で、特に写真を再度詳しく確認しなおした。その
結果、木村義徳先生の書籍「持駒使用の謎」で”(10)”と番号
のふられた、”桂馬”の成の書体が金の第3画目の横棒と、その下
の横棒が、まとめて1本に省略されているように見える、特殊な字
体である点を除いて他は、概ね、

実は全部、成り銀も成り歩兵も”金く”と読める2字(?)で統一されて
いて、早期持駒説には、必ずしも有利な出土物ではないのではない
かと、やはり思われた。

なお、この遺跡からは残念な事に、香車駒が出土していない。
模写図では、歩兵の成りの字体は、個別の駒によって、ばらついて
いるように書かれているのだが、字は薄くなっており、全部”金く”
であると、持ち駒説には不利になるように見ても、天童カタログの

写真からは、大きな矛盾が起きない

ように私には見える。
ただし、半分に割れた破片であるため、充分に明確とまでは言えな
いように、私には思えるものの、「持駒使用の謎」、「天童の将棋
駒と全国遺跡出土駒」両方共に、カタログ番号で(10)番の桂馬
についは、写真でも、金の第3画目の横棒とその下の横棒との間の
スペースが短く(ほとんど無く)、他の全ての成り金駒とは、確か
に、書体が違うように私にも見えた。
 ただし、これが”現在の成り桂馬の成り金文字”と言えるかどう
かについては、私には個人的には賛成できない。金の第1画目と
2画目の”ハ”の字のそれぞれの長さは、模写図からは、現在の
成り桂馬の成り金に、似いていて、他の種類の駒の成り金と違うよ
うにも見えるが、天童カタログの写真からは、カタログ番号、両方
9番の銀将の成り金の、第1画~2画の”ハ”の字型と、余り差が
無いようにも見え、微妙だと思えるからである。出土までに、これ
らの出土駒の劣化が、かなり進んでいるのは、残念な事である。

つまり興福寺の、初期に発掘された出土駒の模写図が、それほど
確定的な図だとは、私が個人的には、見てい無いということである。

 しかし何れにしても、カタログ番号(10)番の桂馬の成り金の
書体は、その他全ての、興福寺出土駒の書体と、確かに少し違うよ
うである。言うまでも無く、見つかっている桂馬が、現在でもこれ
一枚だとすれば、たまたまの、書き損じだったのかもしれないし、
ここから何かを直ぐに、導き出すのは難しいのではないかと、私は
個人的には考える。ただし、1058年頃に指された将棋に関する、
何かの情報が、ここに隠れている可能性は完全には、捨てきれない
と当然見る。そこで以降、”桂馬の金の横棒が足りない”一件とし
て、私はこれを永く記憶しておく事にしたい。(2017/04/06)

「天童の将棋駒と全国の遺跡出土駒」の同定の厳しい駒(長さん)

天童市の将棋資料館の発行した表題のカタログは、実物写真
の他に、模写図が、だいたい並べて書いてあり、木製遺物の
鑑定の素人である私にも、たいへんわかりやすくありがたい。
 写真を見ると、長い年月の埋設によって、だいぶん字の消
えかかった駒が多く、正しい判読に、職人芸が必要な事も、
良くわかる。模写図から結果を知った上で、写真を見れば、
素人の私でも、この書籍を見ると、どう同定されたのかが、
ほぼ判る。ただし、写真と同定結果表を比べても、どうにも
判らないものが、一枚だけある。それは、京都の遺跡である、

上久世城之内遺跡から出土した、2番目に古いので著名な、
酔象駒である。

そもそもどういうわけか、この駒だけ模写の図が元論文に載
っていなかったため、天童市の上記遺跡出土駒カタログにも
載っていない。しかも、写真は片面だけであり、確か

裏不明酔象と私は、他所で聞いているが、たぶん裏面は、天
童カタログ図だけでは、全くわからない。

酔象駒の場合、最近出土した興福寺遺跡の駒の”酔象”が、
不成りと聞いているため、上記点は重要で、このカタログと
は別に、実際に調べてみる必要があると、私は感じた。
 特に、私見だが成り太子酔象は、玉将等の玉駒の、前や右
直ぐ隣の升目に酔象を置く事を、ほぼ示していると私は思う。
つまり、中将棋か朝倉小将棋かその他か、とにかく酔象が、
玉駒の隣接升目に置かれる将棋が、南北朝時代頃とされてい
る上久世城之内遺跡の時代に、存在したかどうかが判断でき
る、今の所唯一の証拠とみられる。それだけに、この出土
将棋駒の具体的な様子が、どうなっているのかに関する重要
度は、きわだって高いと私は考える。
 なお、「天童の将棋駒と全国の遺跡出土駒」の図で、この
ブログの観点からみて、正確度が必要な遺物で、不明な点が
あるその他のものとしては、小川城遺跡の成り飛鹿盲虎があ
る。すなわちこのカタログでは、写真と模写図が、左右あべ
こべのように、私には思われる。この”長谷川平蔵祖先遺跡
の出土駒”に関する私の見方が、もし間違いだと、このブロ
グの、かなり多数の記事の必要性や、その中での議論に対す
る影響度が、相当に大なため、私の解釈がおかしいと思われ
た方は、このブログのコメント欄等で、適宜御指摘し御助成
頂けると、たいへん助かる状況である。(2017/04/05)

新安沖難破船(東福寺難破船)出土駒の裏面(長さん)

以下、持ち駒ルールの発生年代に関連する話であるため、この
ブログの流れとは少し離れるのだが、前に韓国の沖合いで沈没
した、日本の漁船に積んであった、鎌倉時代最末期の将棋駒と
して著名な、東福寺難破船出土駒の、駒の相対的大きさの様子
から、取り捨てルールを私は示唆した。その際、webの韓国
の書籍のサンプルページには、駒の裏の成り金の書体が、記載
されていない旨を合わせて指摘した。昨日も紹介した、天童市
将棋資料編集委員会編の「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」を
最近チェックした結果、韓国沖で沈没した、日本の鎌倉時代末
の船舶出土駒の、成りの”くずし金”についても、天童市将棋
資料館の著書には、運よく記載されている事が逐次判明した。
 その様子を見ると、一部の香車と歩兵駒に、字が消えてしま
ったものがあるものの、飛車角無しで知られる東福寺難破船出
土駒の成りは、

全部「と金」で、香車・桂馬の裏まで「と金」のようである。

なお、駒の大きさも、天童カタログからも良くわかる。
3通りしかなく、大を玉将か金将が、中を恐らく銀将と桂馬と
香車が、小の駒木地を香車と歩兵が使用しているようである。
なお、銀将は難破時消失したため、出土していないとみられる。

つまり、裏から表面の字を推定するのは、今の将棋駒より困難
な将棋具である。

よって今述べたブログの以前の見解で、一応矛盾は無さそうだ。
なお、天童市将棋資料編集委員会は、

九州大学文学部文化史研究所

が、元発行の資料を転載している。九州大学の文学部の先生が、
韓国の文化財管理局を動かして、両面同じ名前が書いてあるに
すぎないという、固定観念に凝り固まった、韓国の博物館員を
粘り強く説得し、駒を遂にひっくり返させてくれたようである。

それは重大な情報を明らかにした、日本の遊戯史研究者の大き
な勝利だった

と私は思う。
九州大学文学部の活動履歴に対し、私は心より拍手を送りたい。
(2017/04/04)

鶴岡八幡宮遺跡出土の「不成り香車駒」(長さん)

かつて、確か大阪電気通信大の高見研究室の方からだと思うが、
私のブログ等の記事で、「神奈川県鎌倉にある鶴岡八幡宮出土
駒」で、「不成り香車」が、何を指しているのか不明確との、
御指摘を受けた事が有った。当時、鶴岡八幡宮出土駒は、3個
程度代表的なものがあり、裏奔王鳳凰、今金歩兵、不成り香車、
その他、不明の駒と認識していたと思う。ただ、どうにもこの
認識は不明確なため、「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」を
最近読み直した際、再度チェックして、以後正確に記載する
ように、改善する事にした。同書には5つ出土駒が記載されて
いて、他の書籍を読むと、この5枚組を1セットで表現する
文献が多い。うち3枚に着目するのは、どれを指しているのか
判りにくくて、どうも良くないようだ。これからは、

「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」の鶴岡八幡宮遺跡出土駒
の番号を使って、このブログでは表現するように改めることに
したい。

なお、同書では具体的に次のように、出土駒に番号を振って
いる。
1;裏奔王鳳凰駒
2;裏と金歩兵駒
3;不成り香車駒
4;不成り歩兵駒
5;今金ないしその他不明の成り、書籍によっては飛車成りと
  もされる、金将かもしれないと天童カタログでは表現され
  ている判別困難な駒
私がこれまで、奔王成りの鳳凰を含めて大将棋系の駒との、
根拠にしてきたのは、

天童編(纂全国遺跡)出土駒カタログナンバー3のかなり、
香車の香の字も薄い、成りの字が全く見えない、不成り香車駒

の事である。なお、以下は我流ではあるが、上の1から5は、
私によると、
1;裏奔王鳳凰駒
2;裏と金歩兵駒
3;不成り香車駒
4;金成り歩兵駒(裏の字は消えた)
5;今金成り歩兵駒

だと思う。
ただし私流の”今金成り歩兵駒(5)”が、文献の確か私の記
憶によると同じ名称の駒と、同じ物を指しているかどうかは、
私にはまだ確認できていない。よってこれ以降、

”鶴岡八幡宮の今金成り歩兵駒”という用語は使わず、
”鶴岡八幡宮の天童編出土駒カタログナンバー5の駒”と表現
する

ように、気をつけたいと思う。
なお”鶴岡八幡宮の天童編出土駒カタログナンバー5の駒”を
私が、実体普通の歩兵に近い駒とした理由は、表面の駒の先の
方の墨の残りが、他の鶴岡八幡宮の出土歩兵駒、同じくカタロ
グナンバー2と4の第1画目と第2画目と、ほとんど同じよう
に、私には見えたからという理由だけである。(2017/04/03)

2017年電王戦第一局の結果(長さん)

2017年4月1日、昨年秋に行われた、渡辺明永世竜王資格等、
わずかな例外を除いて、プロ棋士がほぼ全員で、トーナメント戦
を行う、第2期叡王戦を予選から勝ち上がって、叡王となった、
現電王戦第一局時点の将棋名人、佐藤天彦叡王と、コンピュータ
ソフトで、対プロ棋士戦負け無しのポナンザ(Ponanza)が、
栃木県日光市の日光東照宮にて、朝9時半より、恐らく20時
前後まで対局を行い、先手番のコンピュータ将棋ソフトポナンザ
が、71手で、佐藤現名人を下した。

マスコミ等には、タイトルホルダー現役初の、対コンピュータ
ソフト戦の敗北

と報じられた。なお佐藤天彦叡王は、この日、「5月20日の、
(自身が、先手番で対局する)第2局については、勝算有り」と、
”1勝1敗に持ち込む”との旨の、予告をしていた。また彼には
その前後、次期の実力名人を決定する、名人戦7番勝負が控えて
いると聞く。
正直な所、私には60手前後の所で、佐藤天彦名人とソフトとの
間に、どの程度の形勢差が付いていたのかは判らず、以下情報の
うのみだが、

夕食休憩後「ポナンザ快調」との控え室の声があったと言う。

また、将棋ファンのサイトには「(囲碁に例えれば)中押し勝ち
だった」という意見も聞かれた。事前にマスコミには、「人間プ
ロ棋士の、対コンピュータ将棋対局では、(この時点で)人間側
が、大きく負け越している旨」が、複数回放映され、人間不利の、
社会的な空気ができていた。以上は当たり前情報だが、検索でこ
の件、ヒットするサイトが、web上では妙に少ないので、著名
で必要ないかもしれないが、念のためここでも記載しておく事に
しよう。

私には、自分の屋敷で自分が中心になり、徳川御用立の将棋名人
の子孫が、西洋の科学技術で駆逐される姿を、明治維新からは、
だいぶん時を経たこともあり、今回は娯楽で観覧したいという、
徳川家康の御霊の強い希望から、佐藤名人後手番の対コンピュー
タ将棋対局が行われたかのようだと、この対局に接して、佐藤
名人の言からは、「後手番は不利」とも取れる発言をされている
点の、めぐり合わせの不思議さが、感じられた。

アインシュタシンの言うように「神はサイコロは(または振り駒は
が嫌いなので)振らない」が、徳川家康の見えざる手が、振り駒で
ある歩兵駒の着地の表裏に、影響するという事が、あるいはある
のかもしれない、かのようだと、対局場所と対局条件、そしてそ
の結果の不思議なめぐり合わせを感じさせる、2017年電王戦
第一局であったと、今の所私は考える。(2017/04/02)

2017年(第4回)電王戦、第1局の前評判(長さん)

2017年4月1日の日光東照宮で行われた、第4回電王戦
佐藤天彦名人と、コンピュータ将棋ソフト、Ponanza
(ポナンザ)の第1局目は、余り華々しい前評判が受信され
ず、少なくともweb上では、静かな雰囲気で開始された。
 2日前に、ざっと検索しても2~3のサイトで、佐藤名人
に対する応援等が書き込まれているだけで、「人間が負けて
しまったら、新しい時代が」という観点等で、景色の変化や、
エポックメイキングの存在等を、まとまって論じているブログ
等は、全くヒットしなかった。

恐らく、普段は別の話題についての内容の書き込みの多い個
人が、たまたま直近になって、電王戦についても、比較的簡
単に論じているために、GOOGLE検索等には、かかって
来ない状態なのだと、私には考えられた。

 かくいう私も、機械に人間が取って代わられる問題につい
て、本ブログでは、絶えず論じ続けてきた訳でもないので、
機械検索システム上は、そうした他の個人のサイト等と、い
っしょなのだろう。そもそも機械には所詮、大局的に、その
サイトの”奥底に流れるもの”を読む能力等は付与しにくい
し、それが目的のコンピュータサイエンスでも、さし当たっ
ては無いと、見られているような気もする。

つまり、面倒な単調仕事を疲れることなくさせるのが、人間
が心の奥底で考えている、機械化の真の目的なのだと思う。

 さて、将棋の愛好家でかつ、熱心な棋士のファンは、タイ
トルとして、名人のほか竜王等、幾つも有る事を知っていて、
名人がコンピュータ将棋ソフトと対局するのを、「頂上決戦」
とは、見ない場合があるのかもしれない。しかし、竜王と賞
金が同程度の額とはいえ、「名人」という称号は、将棋史上
は、最も歴史のあるものであろう。だから、

それほど詳しくないが、将棋に関心に有る大衆にとっては、
佐藤天彦氏対コンピュータ将棋ソフト、ポナンザの対局は、
頂上決戦に見えるのではないかと、私は大いに疑っている。

だとすれば、人間が負ければやはり、科学者の側から見れば、
ディープブルー以来の、快挙かつ変革なのではないかと思う。
 以上のように妙な話だが、検索システム上、現在恐らく一
過的に、コンピュータに対する、人間将棋棋士の敗北を議論
するブログ等のサイトが、余りひっかかってこないため、
webを開くと4月1日現在、ネット上は

日本将棋連盟の権威の凋落に対して、異様に静かに見える

状況である。
 話に聞いたところによると昔、西ローマ帝国が滅びたとき
にも、その消滅を問題にした、人間がほとんど居なかったと、
いう逸話が”そもそも話題にされるような種族は、その時点
では滅びない”という格言とともに、語られていたように思う。

本当に滅びるときというのは、ひょっとして物事、このよう
に見える場合なのか

と、私の検索能力相応とみられる、話題”電王戦”に関する
GOOGLE検索結果の様子には今、何か不気味さを感じる
状況にある。(2017/04/01)