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白河天皇の時代に日本へ北宋将棋は伝来したか(長さん)

以前紹介したが、巾11路×段10段の北宋
将棋は、中原から離れた、西の山岳部で、
指された形跡が有る。盤らしき石物が存在す
るからである。今回は、その将棋が日本へも
流行らなかったが、伝来したのかどうかを、
論題とする。回答から書く。

白河天皇の時代に文献上、朝廷レベルでは
公知になっていた。

そのため、大江匡房等が8×8升目金一枚
の原始平安小将棋を、9×9升目金二枚の
標準型平安小将棋へ、規格化、標準化する
理由になったとみられる。
 では、論を始める。
 以下、北宋将棋の大臣は、偏・裨ではなく
て、裨×2の、士駒であるとして、説明する。
後者の方が玉(将)守りが堅く、北宋将棋の
偏・裨型は、日本人が文句無く捨てたであろ
うからである。
 この将棋の将が真ん中にあり、士駒が2枚
だったのを口実に、集団指導体制だった、摂
関政治を模したような、原始平安小将棋を否
定したのが、大江匡房等の西暦1080年前
後の初期院政の基本姿勢だったと、本ブログ
では見ている。
 この時代、中国からまだ、シャンチー駒は
出土していない。だから今の所、中国シャン
チーは未成立だったと考えるしか無いと、私
は思う。
 北宋将棋をゆび指して、大江匡房等は、
”そうれ中国の象棋も、中国の官製をモデル
にして王が真ん中に在り、金は左右に2つに
なっているであろうが”と、

保守的な摂関家を、牽制してみせた

のであろう。その結果、標準型平安小将棋は、
将棋伝来約65年後になって始めて、めでた
く成立したというのが、本ブログの論だ。
 そのためには、ゲームとしては依然
出来が悪いが、中国中原発の文書から日本で
公知になるという形で、西暦1080年まで
に北宋将棋が、唐物書籍が潤沢にある、日本
の朝廷レベルで公知でなければ、おかしい
はずである。
 なお、民間への伝来は、
プレーヤーが面白いと感じて、じわじわ伝達
して到来する形であるから、この時代には、

朝廷公知と民間周知の間に数十年の差がある

のだろう。例として、
中国シャンチーが日本の朝廷に知られたのは、
源師時日記の長秋期の西暦1132年の鳥羽
天皇時代。公周知になったのは、二中暦の成
立前後の、1180年頃であろうと、私は見
る。つまり”新院占い”駒は、本ブログでは、
デザイン上、微妙に歩兵を小さく作っている、
日本の当時の小将棋駒では無くて、中国シャ
ンチー駒でしていると、見ているのである。
 なお北宋将棋は、出来が悪かったので、
囲碁文化圏(定朔太陰太陽暦)である
朝鮮半島通過時点でブロックされ、日本の
民間には、伝来していないと、ここでは見る。
 以上の観点から見ると、権威者がデザイン
したために、北宋将棋の砲駒最下段タイプ等
は、比較的、平安時代後期の中国文献には、
当時は良く探せば、判る程度に出ていたので
あろう。権威者がデザインしたので、地方官
僚も中国では、政治的思惑から指し、遺物が
山岳部でも見られる程度に、残ったのかもし
れない。
 しかし、北宋の権力者も、高麗国に権力は
及ばないので、朝鮮半島で北宋将棋は、恐ら
く指されず、中国北宋王朝国内限定になり、
日本へは、民間へは、認知されなかったので
あろう。
 以上が説明だが、この論法だと、大理国
原始平安小将棋が、西暦1065年頃には、

自然伝来、しなければならないという矛盾

が生じるので、補足する。
 本ブログでは、後一条天皇へ進上された、
藤原行成のコマ伝説記載の、

トップ権力者だけが、誰も知らない中国文書
情報や文物を、朝廷に披露する事ができた

との旨の記載は、

本当の事

であると見ている。つまり、大理国の原始
平安小将棋は、

トップ権力者である一例、藤原道長クラスが
介在して、始めて日本に伝来する、当時とし
てもレアーな情報

だと、少なくとも本ブログでは、見ていると
言う事である。
 だから、つまり藤原道長の権力のおかげで、
日本に将棋は西暦1015年程度に伝来した
のであり、それが有ると知っていて、必死に
情報を探した、興福寺の情報担当者だけが、

西暦1055年頃になって、やっと

本当は象の入った、大理国原始平安小将棋の
実体を、知りえる程度だった。以上の解釈で、

つじつまが合うと考えられる

のである。
 結局全体として、以上のように考えると、
全ての事の経緯は、ほぼ矛盾無く説明できる
ように、私には思えるのである。(2019/11/08)

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