SSブログ

幸若舞信田の作者はなぜ駒数多数将棋を登場させた(長さん)

以前述べたが幸若舞の信田は、茨城県稲敷市付近
の住人と見られる作者が、江戸時代頃に、栃木県
小山市の小山氏が、通説では茨城県の英雄の、
平将門を討った藤原秀郷の子孫である事をやっか
んで、小山氏が平安時代末に、荘園の横領等での
し上がった話を作り、成敗する架空話である。
ただし同じ茨城県でも稲敷市は、志田義広の支配
地であり、野木宮の合戦の、小山市等による宣伝
等の方に、むしろ妬みが生じやすい可能性も有る
と、本ブログでは指摘した。
 小山氏の兵力が大であるために、勝利者が、
木曽義仲になるのか、源頼朝になるのかを、左右
させたと取れる史実から、小山氏を相手にした戦
で、それを将棋に例えれば、摩訶大大将棋を持ち
出す必要がある。そのため幸若舞信田では、
第一次の茨城県討伐隊の、壊滅的敗北を記載する
ときに、将棋に例えて、摩訶大大将棋を持ち出し
たというのが、本ブログの解釈であった。
 ではそもそも、単に負け戦を表現するのに、
将棋一般を、幸若舞信田の作者が持ち出してきた
のは、何故なのか。将棋史の方では、文献が増え
て助かったのであるが、なぜ幸若舞の特定のこの
作品に、将棋が出てくるのかを、今回は更に追及
する。回答を書く。
 幸若舞信田は完全成立が、安永の頃の将棋将軍、
徳川家治の時代であり、将棋が話題になった。そ
してそのときに、作者が恐らくだが、栃木県
小山市天神町~神鳥谷(曲輪西)の、当時真言系
の寺、青蓮寺に

伝摩訶大大将棋の将棋駒が、神社仏閣の宝物とし
て存在するという話を、日光街道の旅行中に立ち
寄って聞いて知っていた為ではないか

と、本ブログでは推定する。
 では、以下論を開始する。
 本ブログによれば、以前述べた通り、西暦
2007年に、神鳥谷(曲輪西)の、江戸時代に
は真言系の寺、いにしえ尼寺とされる青蓮寺付近
で出土した裏一文字角行駒には、江戸時代に少な
くともレプリカがあり、

青蓮寺に社宝、寺宝として保管され、訪問すると
旅人は、話は聞かされた。ただし、実際見る事
の出来たのは、日光参拝の将軍程度だった

という事になっている。その際恐らくレプリカ=
出土駒だろうと述べた上で、一例だが、

徳川家治時代に幕府の総力を上げて再現したもの

とも述べた。再現に際しての幕閣での想定される
担当者として、田沼意次、長谷川平蔵を挙げた。
 南北朝時代の南朝方で、堀河関白として知られ
る近衛経忠作とも疑われる元の駒が、ほぼ同じと
言えるほどに精密に再現されたと、今の所は判断
しているとした。
 駒数多数の将棋である事は明らかだっただろう
が、普通唱導集大将棋の存在は、江戸時代には知
られておらず、その宝物は当時、

伝・摩訶大大将棋の角行駒と表現されたはずだ

だとみられる。一般の旅人も、小山市天神町~
神鳥谷曲輪の、真言宗系の江戸時代当時は男寺で、
天満宮が神仏混合で、別当で付いている青蓮寺を
訪問した際に、現代に残った、旅行案内の古文書
に書かれているように”古は尼寺”という話程度
は事前に聞いただろう。しかし実際に訪問すると、
加えて、鎌倉時代の小山氏の兵力が大きかったの
で、寺宝として当時残っていると主張された、

参謀が用いた合戦戦略用の道具である将棋具一式
も、”小将棋ではなくて、(伝)摩訶大大将棋だっ
た”という話は、青蓮寺住職等から聞かされた

のではなかろうか。
 特に日光参拝で、将棋将軍の徳川家治が、臨時
の停泊所を作った上で、小山市で停泊したときに、
青蓮寺が挨拶のため、実は幕閣と協力して、新た
に作成した”寺の宝物”の前記レプリカを、持参
してから後は、

寺宝の将棋駒、角行が実際に存在するために、余
計、宝物有りの寺として宣伝されるようになった

と考えるのが、自然なように思われる。つまり、
仮に、幸若舞信田の成立が徳川家治の日光参拝の
頃の少し後の天明の頃であるとすると、その少し
前に、茨城県稲敷市付近が住居なので、日光へ旅
行で行くので小山宿を、たまたま幸若舞信田の作
者が通ってた事があった。そして、その作品を作
るときに、

小山宿には小山氏に関連して、摩訶大大将棋を
宣伝してる寺があるという記憶があって、物語上
において将棋に言及している疑いも有る

と私は考える。日本将棋の伝承なら、もっとケー
スが多いが。駒数多数将棋は珍しいので、記憶に
残りやすいのではあるまいか。なお、信田を読む
と、全国各地の地名が、大量に織り込んであり、
作者の旅行好きは、自明だと思われる。
 逆に言うと幸若舞信田で駒数多数将棋が出てく
るという事から、徳川家治の時代頃が、この作品
の成立時期ではないかとの、疑いを持たせる。そ
してそれと同時に、江戸の安永の頃から幕末まで、

小山市天神町~神鳥谷の青蓮寺に、現在では出土
遺物でしかない、裏一文字角行駒が、地上の建屋
の中に、きちんと保管されていた疑いもある。

以上のように、推論出来るのではないかと私は、
考えているのである。(2020/02/02)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。