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博多遺跡群61次遺跡駒は王将か?(長さん)

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(2003)
に1990年頃に発掘されたと報告されて
いる表題の遺物について、最近web上に
カラー写真が紹介されている。所が、玉将
とされる駒の玉の点があまりはっきりとは
していない事に、私は気が付いた。
 紹介のurlは以下の通りである。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/438999

写真は啓蒙用に再編集したもので、普通の
サイコロと、目新しさの無い碁石、双六の
駒と共に、2枚組で紹介されている。

博多遺跡群.gif

写真のように、玉将とされているのだが、
点がはっきりしない。webを探してみる
と、奈良文化財研究所の発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に収録されてい
るとみられる、当時の発掘報告書も見つか
る。そちらの方のpdfファイル名は以下
の通りである。
17280_1_博多24.pdf
巻末付近の写真の木器類に将棋駒の写真も
白黒だがあり、こちらの方には”玉将”に
点が、多少離れているのが気になるが、あ
るように一応写っている。カラー写真は、
遺物が劣化して剥がれたのか、どうしてな
のかは、今の所良く判らない。なお、当時
(1990年頃)の前記発掘報告書には、
”王将”と紹介されていて、玉将にはなっ
て居ない。
 蛇足だが、もう一枚が何の駒なのかに関
して述べておく。香車かと言われているの
だが、カラー写真を見る限り、判別は相当
に困難なように、私には見える。
 発掘報告書で、これらの出土駒の成立が
13世紀~14世紀になっており、

形が鎌倉時代ないし、南北朝時代風なのは
明らか

だ。
 とりあえず、九州では鎌倉時代頃には王
将が出土していないとの、これまでの本ブ
ログの認識は改めておく事にしたい。鎌倉
時代までには、院政期の京都内、鳥羽離宮
内等での習慣が、鎌倉や博多の当時の地方
中心都市までは、かなり広がっていたのか
もしれない。(2020/08/17)

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