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川角太閤記切腹直前の豊臣秀次将棋指し話実話説(長さん)

江戸時代初期に成立した、豊臣秀吉関連の軍記、太閤
記の類である川角太閤記に、豊臣秀次が秀吉により、
切腹を命じられて切腹したときに、その当日朝食休み
時間帯に、東福寺の僧で自身の仲間の龍(隆?)西堂
と共に、恐らく日本将棋であろうが、将棋を指してい
たとの旨の、かなり良く知られた記事がある。
 この件について従来正直、個人的に私は、

作り話だろうと、思っていた。が史実との説がある

ようだ。以下のurlにpdfファイルで、その旨が
紹介され、論じられている。

https://www.nara-k.ac.jp/nnct-library/publication/pdf/h27kiyo7.pdf

pdfファイル名は、以下の通り。

h27kiyo7.pdf

表題として”関白秀次失脚自刃事件と木食応其上人”
とあり、執筆者は勢田勝郭、出典は、
奈良工業高等専門学校 研究紀要 第51号(2015)
となっている。
 なお川角太閤記の、この部分の記載については、
古事類苑 30、遊戯部、将棋にも記載がある。
将棋史研究家も、安土桃山時代を語るときには、度々
引用した話題であり、天狗太郎こと、山本亨介氏の、
将棋文化史、筑摩書房1980年にも詳細載っている。
 しかしこれだけでは、大大将棋や泰将棋に絡む等、
太閤将棋を指していただけような、豊臣秀吉に比べて
豊臣秀次の方が、将棋に造詣が深く、後陽成天皇の
王将/大将質問の件で、水無瀬兼成に絡んで豊臣秀吉
が豊臣秀次を恨んでいたのかどうかは、証明困難では
ある。
 何れにしても繰り返すが、日本史の中の位置づけに
於いて、

将棋史が完全無視は、少なくとも出来ない存在である

事だけは、少なくとも証明できているように、私には
益々思えて来た。(2020/09/20)

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middrinn

大久保忠隣も〈改易を言い渡されたのは慶長19年(1614年)1月19日で、忠隣は
この時、京都の藤堂高虎の屋敷で将棋を指していた。そこに前触れも無く、家康の
上使として京都所司代・板倉勝重が現れたのを聞いて全てを悟り、「流人の身に
なっては将棋も楽しめぬ。この一局が終わるまでお待ちいただきたい」と告げると、
勝重はそれを承知したという。〉(wiki)のですが、関係あるんですかね(@_@;)
by middrinn (2020-09-20 10:53) 

df233285

middrinnさん、情報御提供誠に感謝します。
オリジナルと模倣という関係ではないかと、個人的に疑われました。
すなわち藩翰譜の成立が、改易事件との間に85年程度ある事から、

川角太閤記をもとに、創作された将棋話との心象を受けました。

傍証はありません。 当の大久保忠隣が、ヒマをもて余している
ので将棋で遊んでいたという状況でないときの、改易とされる
ようなのにという点が、不可解に、私には見えるというだけです。

by df233285 (2020-09-20 11:54) 

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