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日本将棋の駒はなぜ40枚か(長さん)

今回は成書の表題を、ほぼそのまま論題にしてみた。webに、同名の
増川宏一氏の著書に、”その回答が書いていないのが不満”との、読後
感想文も、散見されるからである。その読後感想文の不満に対し、将棋
史に興味を持つ者の一人として、今回は回答する事自体に挑戦してみよ
うと思う。
 そこで、これを読む読者に、増川氏の成書と同類との心象を、
予め持たれないようにするため、いつものように回答から、先に書く事
にする。
 つまり、日本将棋が40枚である理由は、以下のようになる。
①原始インドチャトランガの32枚制から出発した事から、枚数は、そ
れと、桁違いには、違わなくなった。
②日本の役職に関する古代官制の影響、及び中国・シャンチーへの習い
で、9升目へ転換して36枚制になるのは、ほぼ必然だった。
③その36枚へ、更に別の駒を導入する事に関して、公的権力である、
朝廷が中世に妨害をしつづけた。つまり、②で成立した標準的な中間的
将棋の、それ以上の進化が朝廷により、平安末期から戦国時代まで
実質的に、ブレーキが掛けられ続けていたと、ここでは考える。
④鎌倉時代中期に蒙古来襲があり、龍神信仰が盛んになり”龍が、日
本を守っている”という、神道型の思想が、朝廷でも定着した。他方、
走り駒のネーミングとして、龍類にするという方法があり、縦横と斜め
で、龍駒が2つペアーで作られるのも、技術的には必然だった。より
正確には、龍の形が影絵のように浮き出るように、将棋図で、ルール
を示す記号を書いたときに、4方走りと、その他の方向への歩みの記号
から、龍の姿が出てくるため、龍王・龍馬の名称の駒が作られた。更に、
中将棋の元駒から、龍駒の隣接升目行きを除いた駒が、龍王、龍馬を
成り駒とする、元駒、すなわち飛車・角行として2種類選ばれた。
そして③の事情が有ったにもかかわらず、特例で、

龍が日本を守るという信仰から、朝廷に特別に駒の導入が許されて、
それら龍駒に成る飛車と角行が、②が理由で対局者それぞれの左右に、
最低量の一つづつ入って、4枚増え、40枚制日本将棋が、成立した

と、本ブログでは考える。
このうち、①と②は定説なので、成書を読んでもらえれば、納得できる
だろう。本ブログの独自な点は、③と④が存在する事であり、それらに
ついて、説明が要るだろう。
 まず③についてだが、本ブログの主張の特徴的な点は、

日本将棋の成立に、ちょっかいを出した天皇が、恐らく大江匡房の時代
の、白河天皇と、戦国時代で、酔象を取り除いた、後奈良天皇の、二
人どころではなくて、多数居る

と、仮定している点である。なお、②は、誰かがやったとすれば、②が
正しい事自体は、明らかだろう。が、本ブログでは特に、本朝俗諺誌は、
正しい内容で、②の9升目化を行ったのは、初期院政派の、大江匡房と、
白河天皇だと、独自主張している事が、これも特徴である。
 そもそも、このような将棋の進化妨害をする標準作りの起源は、

院政派が摂関派を排除するのが目的

だったと、ここでは見る。8升目等の異国風の原始平安将棋を、9升目
の、現在我々が、”日本将棋から飛車角を取り除いたもの”とみる、
標準的な、平安小将棋に規格化する本当の狙いは、宮中から、

(A)玉将的実体を排除する事、および、
(B)玉将と金将の力に差が無いとの印象を与える、配列のイメージを
排除する事、

の2点であったと見られる。つまり、”(C)左右対称にする”という
のは、実は表向きの理由だったと見る。それは国軍を初めとして、国家
権力の中枢に、西暦1000年前後に摂関派が居たのを、排除する狙い
をこめたもの、という事である。すなわち西歴1000年頃の当時、
大宰府の国軍等を、実質的に牛耳っていた、藤原摂関の長者である
藤原氏が、元々は中臣氏であり、天皇家とは直接に繋がらない、
アメノコヤネノミコトの子孫とされた為、その国軍に於ける長は、

王族の将とは名乗れず、玉将になぞらえるのが、相応しかった

という事情が有った。つまり、たとえば西暦1015年頃には、将棋の
玉将は、藤原道長のなぞらえであると暗々裏に見るのが、合い相応しかっ
たと言う事になる。しかし、藤原氏には専制的な権力者はおらず、道長
の時代にも、副官、すなわち

金将としての、藤原実資等が居た。

つまり、その姿を玉将・金将として中央列左右に1枚づつ入れた、

8升目制の偶数升目の将棋は、藤原摂関時代の国軍を模したものとの
匂いの、ぶんぶんするもの

であったと、院政期の白河天皇等には、感じられたのであろう。そこ
で、その側近の大江匡房らが、

王族の将としての王将を玉将とは別に発明し、偶数升目は辞めて、
奇数升目にして、王将を中央列に置く、王将が他の将駒に比較して、頭
一つ超えた、院政期に相応しい日本将棋の原型を作成し広めようとした

と、ここでは見るわけである。将棋は、突き詰めれば、単なる遊びでは
あるものの、

兵法との繋がりのあるゲームで国家的なもの

でもあった。そこで、朝廷は、鎌倉時代に入って、権力が後退したものの、

自身の顔を立てる意味でも、将棋のルールに介入する事がたびたび有った

と、本ブログでは推定するのである。つまり、白河天皇の詔が、俗人等
により、否定される事の方に、後代になると、目を光らせ始めたと、言う
事であろう。このような規制が、実際有ったと言う証拠としては、平安時
代から戦国時代にかけての、京都府と滋賀県の遺跡に、藤原摂関派の拠点
と見られる、奈良県の興福寺とは対照的に、玉将駒が出土した例が、今の
所無いという事実を、指摘する事ができる。また、”玉将・王将口伝”と
でも言うべきものが、将棋纂図部類抄著者の、水無瀬兼成の家にも、藤原
氏の支族の一つとして、安土桃山時代には、残っていたのだろうか。
将棋纂図部類抄に”王将”の記載が、見当たらない事からも、今述べた
事情の存在が、ほぼ推定できると、私は考える。
 なおその藤原摂関派は、その後13升目68枚制大将棋を作成し、後世
には中将棋が、12升目92枚制になった。ので、それら摂関派起源の、
駒数の60枚以上と多い将棋は、後白河詔の否定ではなくて、他の将棋種
のプレーと、次第に解釈されるようになり、規制対象からは、はずれた。
主に問題になったのは、8~9升目で、駒数34枚以下と38枚以上の、
小将棋型のゲームだったろうと、私には想像される。なおその規制が、
現実には機能したため、実際に9升目の将棋が普及した。機能した理由は
恐らく、特に、製作される将棋盤の形に対する詔の効果が、中世でも無視
し得なかったからだと想定する。 恐らく9升目盤が、鎌倉時代~室町時
代にかけて比較的、多数生産され、まるで卑弥呼の鏡のように、その文化
が広がっていったのであろう。
 また、その進化妨害に対する、反抗勢力の力も弱かったと見られる。
反抗勢力の力が、伸び悩んだ理由としては、

たかだか遊びなため、それに強く反対する理由も、日本の世論には特に
見出せなかったため

だと、私は考える。なお、本当に嫌なら、中将棋を指せば良かったし、
大っぴらに反抗して見せなければ、事実上、咎めはない程度という理由も
挙げらよう。たとえば後者については、普段8升目32枚制の、原始平安
小将棋を、鎌倉の賭博場等で指していたとしても、後鳥羽上皇の御前では、
9升目35枚制駒落ち将棋(旦代難点回避型)の話を、皇族の顔を立てて、
していれば、朝廷からも特に咎められない、という事もあったと見られる。
また鳥獣戯画の落書きの将棋盤が、はっきり書かれて居無いのも、ひょっ
とすると、規制に引っかかるのを、防ぐ配慮のためだったのかもしれない。
 但し、この朝廷の作り出した標準には、たった今述べた通り、ルールの
落とし穴が存在した。

旦代の難点

である。そのため、標準的平安小将棋には、走り駒を追加するか、駒落と
して指すか等され、常に改変の潜在的力が、約450年に亘り、延々と存
在し続けていた。つまり、ゲームとしての出来の悪さから、この

36枚制で、進化が本当に止まるという事が、結果として許されなかった

と、考えられるのである。ところが実際には、
朝廷の改変に対する反撃は根強く、それに対する抵抗勢力も、特に人の命
や生活に関わりが無かったため、脆弱であった。そのため、小将棋の進化を
阻止しようとする、朝廷のバリアーのポテンシャルの壁を、乗り越える事
は、実際には、長い期間に亘って、容易ではなかったとみられるのである。
 そこで、いよいよ冒頭で述べた⑤の、龍駒に成る、飛車・角行が、
登場する事になる。そもそも、龍駒自体は、

平安大将棋の飛龍が起点

だったと見られる。もともと龍という名称の駒は、走り駒を作り出す、
アイディアとして使用された。すなわち、龍の首の長さを、将棋ルール図
の走り記号にみたてて、龍が付くなら、首を振りながら、縦横か、斜め
4方向に走りとする、2種類の走り駒の作り方が、開発された。なお、
龍は、体が大きいため、走らない隣接升目に、歩みの記号が、絵画的に付与
される事が、しばしば有った。そのために、現在の龍王や龍馬のルールに
なったとみられるのである。そもそも走り駒は、1枚でも導入すれば、
旦代難点が簡単に無くなることは、少なくとも西暦1450年頃の、
将棋の相手が余りに弱いので、相手に「飛車を1枚与えることにした」と
伝わる、甘露寺親長の時代には、充分に知られていたようである。
 なお、走り駒を作るほかの方法としては、行駒、車駒が初期から知られ、
後には鷲鷹等、”鳥は遠くに飛べるため走りとする”方法等が、現われた。
なお実際には、もっとあるのだが、近代に形成しかつ、きりが無いので、
今回は省略する。ちなみに、行駒・車駒・鳥駒については順に、行駒が
縦・横・斜めの3種類、車駒が、前、前後、十字走りの3種類、鳥駒は、
より多種類作られる傾向が、有ったようである。
 元に戻すと今述べたように、龍は首を振って、走り方向に任意性を、
2種持たせられるため、駒種を2種ペアーで、作り出しやすかった。
 この龍駒、すなわち、龍王と龍馬を、成りとする、飛車・角の登場が、

権力は低下したものの、思想界には影響を与えていた、戦国時代の朝廷の、
駒数36枚の、標準平安小将棋保持のバリアーを、上の理由⑤で述べたよ
うに、たまたま有った龍神信仰のおかげで、初めて打ち破る

事になった。裏にそのような事情がある事は、前に本ブログで言及した、
三条西実隆が、飛車成りの龍王、角成りの龍馬を書き忘れて、自身の
将棋の先輩、甘露寺親長の息子で、皇族と接触のある、覚勝院了淳に、
送ったところ、書状まで添付の上、駒を突っ返されたという史料から、
推定できる。すなわち突っ返し方にしても、その文書を、後生大事に
後世まで、保管し続けた、突っ返された方にしても、そこまで仰々しかっ
た理由は何だったのかを、良く考えれば、おのずと明らかになるので
ある。恐らく長年に亘り、

覚勝院了淳らは、いわば日本の将棋文化の遠い未来を考えて、そのような
行動をとった

と、書状を見た近親者に見られたからに違いない。
 ちなみに、現在の定説は、

”試行錯誤により飛車角が導入され、たまたま40枚制になった”である。

 この説の難点は、本ブログによれば、たくさんある旦代難点の解決策が、
比較的混乱も無く、ある時点から急に、40枚制の一種だけに、収斂して
行ったようにみえる、36枚から先の

40枚制日本将棋成立の謎を、明快には解いていない点

にある。
 またそもそも、従来の定説が正しいとすれば、成書のような表題は、
きつく言うと、そもそも考える意味が、最初から無かったと言うのに、
近いのではないか。
 何れにしてもその結果、龍王と龍馬にそれぞれ成る、飛車と角行という
走り駒が、標準型の平安小将棋に導入されると、旦代の難点が解消された。
そして、もともと中盤以降は、持駒ルールが、既に有ったためとここでは
見るため面白かった日本将棋は、序・中・終盤を通じて、卓越した面白さ
を発揮した。

そのため、

昭和時代の中期以降は、中将棋の残り火をも消し去り、現行の
駒数40枚の日本将棋が、日本の将棋ゲームの代表格の地位を、
不動のものにした

と言う事になったのである。(2018/03/11)

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興福寺出土1058年木簡。酔象の象が”像”なのは何故か(長さん)

目下、興福寺からは、酔象に関して、2つの資料が出土している。その
うち駒としては、西暦1098年前後のものとみられる、不成り酔象駒
があり、もう一つは、木簡に”酔像”と書かれたと、されるものである。
 問題の木簡を見ても、正直な所”酔像”の字を探すのは、私には出来
ない。一回他人から、位置を聞いた事があったが、忘れてしまった。そ
こでその後、木村義徳氏著書の”持駒使用の謎”の図を見直したが、良
く判らない。ここではひとまず、酔像と書いてあるは、正しいと仮定し
て論を進める。
 この酔像は、象駒の一種が、現在の定説であるが、象が像になってい
る事に関しては、過去、1098年裏不成り酔象駒が、発見される以前
に、当然かもしれないが議論になった事がある。当時は、ひょっとする
と、シャンチーが成立していたのではないかと匂わせる、相手の馬や、
車に、にんべんを付けて区別する、中国の象棋駒表現の、相/象表現に
当たる変種、像/象表現と、見ているらしい、木村義徳氏の説も有った
が、もっと良く知られた説が有った。それは、

玉将と同じく、玉駒の類ではないかという説であった

と、記憶する。ただ現在私の手元に、その説の書かれた文献が見当たら
ない。
 従って情け無い事だが、誰の説だったのか、私には判らない。その後、
本物の、酔象駒発見のインパクトに消されて、この説自体が、余り注目
されなくなって、しまったようである。なお、木村氏の像・象同一説は、
木村義徳氏も言及して居るが、当時の酔象が、シャンチーの象等、外国
のゲームのルールを取ると、示唆しているという点で、興味深いもので
あると私は思う。
 以上のような、先行研究はあるものの、本件は1098年酔象の発見
の興奮に隠れてか、今は忘れ去られつつあるような、存在になっている。
そこで、ここでは再度、興福寺の西暦1058年木簡の字が、酔象では
なくて、なぜ”にんべん(人偏)”のある酔像になっているのかを、再
度問題にしてみる事にする。
 最初に回答を書くと、

伝来した将棋の、玉将、金将、銀将等が、立体駒、つまり”像”であっ
た事を、示唆しているのではないか

と、私は現在では考える。つまり、立体ネフライト駒、立体金駒、立体
銀駒、立体シナ桂製馬駒、立体シナ桂製なので、ほのか香りのした車駒、
が、本ブログによれば、大理国から、北宋交易商人の、周文裔の船
に乗って伝来した、最初の日本の将棋駒という事であった。そしてそれ
は、周文裔が、玉将、金将、銀将と説明したから、前三者が将の姿と
見られた物であり、後2者は、材質としては、香りのする桂でてきた、
馬と車の、こちらは造形の駒ではあったので、馬、車に、それぞれ桂と
香が付いたと、本ブログでは推定したのであった。が、厳密にはこれら
の立体将棋駒は、

玉製の何らかの像、金製の何らかの像、銀製の何らかの像、桂製のなん
らかの像、良い香りのする何らかの像と呼ぶのが、公平に見ると正しい
ような、姿を実際していた事

を、示しているのではないか。そこで実際には、一旦日本に来ても、
周文裔が船に乗せたまま、北宋に持ち帰ったとみられる、象駒を、

”行ったり着たりした(酔った)、どんな造形なのか、日本人は今では
誰も知らない像”を略した名称で、酔像と敢えて表現することによって、
暗に日本の将棋の伝来時に、立体駒が存在した事を、ほのめかしている

のではないかと、私は見ると言う事である。
 なお、その立体駒群の中で、特に玉・金・銀および、ひょっとすると
車の具体的な意匠であるが、
ミャンマーのシットゥインや、大理国遺跡、三塔主塔の像のような、
仏像である

「ミャンマー型」か、

タイのマークルックの仏舎利や、日本の埼玉県児玉郡美里町広木上宿
遺跡の、宝塔型のような、仏塔類である

「タイ型」かの、どちらか

が、有力なのだろうと、私は今の所見る。
 また他の根拠としては、玄怪録の宝応将棋を記載する部分で、軍隊の
長(王)を、金象将軍と、表現しているのも、同じようなパターンの、
思考で、誰でも考える程度のシャレ、なのかもしれないと思う。
大理国より前の、南詔国の将棋の玉駒が、

”金の像であり、将である”というのと、像の字に近い象が、一般に、
チェス・チャトランガ・シャトランジ類ゲームには有り、”象も有る”
との、ひっかけた洒落表現が、金象将軍

のような気が、私にはするのである。なお、更にこの引っ掛けは、金銀
将軍を、語呂で連想させるので、”金将と銀将がある”という意味の、
3重引っ掛けに、なっているのであろう。
 また玄怪録では、像や象が、相や上にも近いと牛僧儒には見られた
らしく、構成駒では上となおされ、それに修飾詞の将が付与されて、
上将と表現されたと、私は見る。
 ただし酔像が、玉将と並ぶ、相手の玉駒であるとの説も、私は否定は
しない。せいぜい、相手の副官が、金将、銀将なのに、玉だけ、仏像系
に変えたのかを、説明しなければならないという程度であろう。そもそ
も、大理国から来た、玉製の何らかの像、金製の何らかの像、銀製の何
らかの像等が、公平に見ると仏像だったので、玉将だけ玉像に変え、
たまたま酔という修飾詞を、やや不自然だが、像駒に、付与して居無い
とは、限らないとは思う。
 以上のように、仏像としての酔像の説での、酔という修飾詞が、猛の
類似語であり、力を誇示すると、先に取られて負けてしまってまずく、
玉駒にはやや付与しにくいのではないかという、本ブログ管理人の、
主観的な見解により、このかつての有力な説は、とりあえず採用して
いないだけである。つまり本ブログでは、たまたま、

酔像表現は、”酔像として闇に葬られた、立体将棋駒の略称”であると、
今の所、仮に仮定している

という程度のものである。(2018/03/10)

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仮説・大理国大大将棋の”虎”は平安大将棋の猛虎の動きのルールか(長さん)

前回、現行の日本の将棋の、主な動物駒のルールで、14升目の仮説
大理国大大将棋を、試し指しした旨を紹介した。だが、そもそも、大理国
に10世紀ころ、自国内の闘争する動物の造形物を参考にして、動物駒の
入った、雲南将棋の拡張バージョンが有ったとしても、その動物駒の動か
し方ルールが、大いに違えば、日本の摩訶大将棋に、接続するかどうかが
謎という事にもなろう。
 闘争する動物駒で、日本の文献の最も初期に現われるので有名かつ代表
的な駒は、表題の、平安大将棋の猛虎である。現在の日本の将棋に有る、
哺乳類動物駒で、蝙蝠を除いて、空を飛べない駒が、特別な修飾詞で形容
されない場合に、隣接升目だけに動ける小駒なのは、この猛虎を基点にし
ているように見える、という点でも、表題の考察をする際には、最重要視
されるべき駒であろう。そこで、最初に、猛虎の動きが、なぜ斜め4方向、
隣接升目一升なのかについて、私見を書くと

平安大将棋の猛虎は、出来て間もない中国シャンチー士/仕駒動きである

という事になる。そこで、この動きは、

大理国の仮説・大理国大大将棋が有ったとして、その虎駒とは動きが違う

可能性が高い、と私は思う。ただし更に個人的見解だが、

仮説・大理国大大将棋の”虎”は、隣接升目だけに動ける小駒ではある

という可能性が、かなり高いと私は思う。根拠は、

大理国の地元雲南博物館の、闘争動物としての造形物の虎は、走って無い

からである。
 雲南博物館の闘争造形物の虎は、闘争している際には、相手の動物と、
組み合っているので、走って居無いのは当然だが、闘争する直前を彫った
造形物でも、走っているタイプのものは、少なくとも日本に来ている、カ
タログには無い。闘争する直前の虎は、

獲物を狙って、抜き足差し足で、相手に近づいて行く姿が、総じて彫られ
ている

のである。つまり、大理国大大将棋の闘争動物駒で、鹿と山羊を除くと、
他は、足の速さで相手を捕らえるタイプを表現した動物は、余り含まれな
い。ので、

少なくとも大理国大大将棋の虎、豹、狼、蛇、猿については、隣接升目に
だけに進める、小駒になる

可能性が高いと私は思う。つまり、現行の日本の、対応する動物駒とは、
ルールが、ぴたりと合う可能性は低いが、何れにしても小駒であるため、

日本の将棋の駒で、これらを置き換えても、元の大理国大大将棋の雰囲気
になる可能性が高いため、前回の大理国平安小将棋の拡張の雰囲気の出た
将棋になるという結論を、変えない可能性が高い

と言う事である。
 なお、平安大将棋の猛虎が、12世紀初めには、9路制程度には進化し
たとみられる、中国シャンチーの士/仕から来ていると私が考える理由は、

平安大将棋にも、大臣駒としての金将が、2枚有るから

である。つまり、日本の将棋が奇数升目制になる理由は、中国シャンチー
の前例に倣い、官役職の左右対称制度に習う物と、今の所考えるより、仕
方が無いとみているからである。
 よって、士/仕に合わせて、猛虎を決めた結果、猛豹、悪狼等も小駒に
なったとみられるが、大理国で、相手に向かって抜き足差し足の虎をイメー
ジして、虎の小駒ルール化を決めた結果として、豹、狼、蛇、猿等が、同
様に小駒となった結果、

偶然だが、前回のような将棋を作って指すと、大理国大大将棋の雰囲気が
出るようになった

と、私は結論している。(2018/03/09)

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仮称・大理国大大将棋(取り捨て14升目)用将棋具を作成してみた(長さん)

前回議論した、摩訶大将棋の古型と疑われる、14路96枚制で、将駒
と闘争動物駒のみの大理国大大将棋を、実際に下の写真のように、作成
してみた。
 13升目盤が、仮説普通唱導集大将棋用に存在するので、今回は、
碁石に紙を貼り付けて、中国シャンチー風の、交点駒置きタイプとして
みた。13升目盤は、聖目(星)の位置が、交点駒置きにすると、5段
目になるため、その点でも、写真のように都合が良い。

大理国大大.gif

実際に、片付けながら1局ざっと指してみた。ただし、面白いか、どう
かではなくて、8升目32枚制の原始平安小将棋(角行酔象右銀位置に
有り・取り捨て)風に、なるかどうかが、チェックポイントであった。
 結果は、原始平安小将棋よりも、更に展開が、スローモーにはなるも
のの、相手陣5段目で成れるため、成り金は期待通り、良く出来た。
よって、

この将棋は、大理国産の平安小将棋の類風にはなっていると、期待通り
言える将棋ゲーム

である。ただし将棋としては、今の基準からすると、たいへんに、展開
がスローで、かったるい。が、成り金将が結構できるため、思ったより
玉将は、終盤捕まるケースが多いようであった。
 ただし、虎に関して、中将棋の

盲虎を止め、平安大将棋の猛虎にする事が、囲いが強すぎないようにす
るためには、重要な調整となっている

点も確認した。実際の歴史的ゲームのルールは不明だが、玉回りの囲い
は、摩訶大将棋のように、初期配列で堅くては、その古型としては、
失格だと思われた。
 ともあれ摩訶大将棋は、雲南博物館所蔵の、動物闘争造形物に出てく
る動物種が、その駒の種類に含まれると、完全に見なせる、最も古い
ゲームとみられる。そのため、もともと動物駒に乏しい、平安小将棋や、
闘争動物駒の代表である、虎が有っても、その虎は、四神、白虎・青龍
の神獣の虎が、猛虎なのではないかと疑われる、平安大将棋ではなくて、
本ブログがここで仮定する、雲南省出土造形物遺品の闘争動物を、将棋
駒として、日本に紹介されている美術品について、全部入れ込んだ、

仮説・大理国大大将棋が、摩訶大将棋の原始的形態であると見たほうが、
やはり合理的

なように、私にはだんだんに、思えて来ている所である。(2018/03/08)

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摩訶大大象戯(摩訶大将棋)は、(仮説)大理国大大将棋の拡張か(長さん)

だいぶん前だが、本ブログで、大理国のプロト原始平安小将棋を提案し
た際、それに銅将と鉄将を1交互に、それぞれの競技者に1枚づつ加え、
10升目とした仮説・大理国大将棋を、記載した事があった。
 その後、雲南省には漢代以降、北宋代程度までの、動物の闘争図の
造形物があり、日本の将棋に動物駒として存在する、動物種と、比較的
オーバーラップしているとの旨を見出した。そこで、初期配列図を答え
として、最初に書いてしまうと、
 大理国の王宮では10世紀前後に、上記の大理国大将棋より、更に
盤升目、駒数の多い、14×14升目の、次のような、

大理国大大将棋とでも、命名できる象棋も、作りえる

と言う事になるのではないかと、私には思われた。

五段目:兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵
四段目:口熊口豹口狼口口狼口豹口熊口
三段目:鹿口猿口蛇口牛牛口蛇口猿口鹿
二段目:口猪口羊口虎口口虎口羊口猪口
一段目:車馬木石鉄銀玉金銅瓦土象馬車

ここで、玉、金、銀、銅、鉄、瓦、石、土、木は、それぞれ略称で、
正しくは、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、瓦将、石将、土将、木将
である。駒の動かし方のルールは、今述べた将駒は、水無瀬の摩訶大
大象棋と同じ、木将は、大大将棋の動きと、仮にしよう。兵は、歩兵
の動きだが、大理国でも、チェスポーンと同じく、相手駒を取るとき
には、ななめ前に動けても良い。虎、蛇、山羊、猿、猪、狼、豹、熊、
鹿は、それぞれここでは仮に、猛虎(平安大)、蟠蛇、羊兵(泰)、
古猿、嗔猪(江戸時代の後期大)、悪狼、猛豹、盲熊(大阪電気通信大)、
飛鹿程度でも、大理国風になるのではと、私は思う。つまり、動物駒で
走りは、角行の動きと仮定する”象”と、羊兵(泰)と仮定する羊、飛
鹿の鹿3種類程度。動物駒以外では、香車の動きと仮定する、車だけ
である。なお、馬は桂馬の動きである。これらの駒は、敵陣の5段目に
入ると、一段目の玉金象以外と、五段目の兵が、金に成る。本ブログ
の”二中歴の大将棋、末備十語”の解釈によると、2段目から4段目の
動物駒は、成らない場合が多い。が例外的に羊だけ、金将になるシス
テムのはずである。なおこれらの動物駒は、象、馬を除いて、雲南
博物館の動物闘争図の造形美術品から、私がそろえたものである。
従って、大理国では、猛、蟠、兵、古、嗔、悪、盲、飛、酔、桂という
修飾詞は無く、動物駒は、山羊を除いて、日本語に訳すと一文字表現
(もともとは大理国・古代ペー族語)である。
 そこでこの仮説の将棋と、現在の摩訶大将棋とを比較すると、

足りない動物駒は、鼠と鶏、龍、驢馬、それに猫程度になるという事

である。なお、上の将棋の総駒数は96枚であるから、摩訶大将棋の、
ちょうど半分である。むろん、摩訶大将棋は14升目ではなくて、
19升目であるから、更に5つ、列を増やさなければできない。
 しかし、19升目を作ろうという動機付けは、

囲碁が19路であり、かつ交点数が361となって、日月星辰の動きに
則る(暦関連である)と言う点から、元から自明に有った

と容易に推定できる。つまり、仮に大理国について、原始平安小将棋だけ
ではなくて、上記のような大理国大大将棋情報も、少なくとも中国北宋の
開封あたりで、日本人が探せば有ったとすると、

他の平安小将棋出発点の将棋、平安大・小将棋の影響も恐らく受けたとは
言え、摩訶大将棋の古型は、小将棋系列ではなくて、(仮説)大理国の
大大将棋であった

という結論に、なら無いとも限らないように、私には思えてきた。
 むろん、上記で提案した、14升目の将棋から、摩訶大将棋を作る
には、四段目と五段目の間に、平安大将棋系と疑われる新五段目として、

新6段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
新5段目:飛車横行堅行角行龍馬龍王奔王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛車

を入れてから、更に鉤行、摩羯、横飛×2、左車、右車を導入して19升
目に変える必要がある。更には、老鼠、淮鶏、驢馬×2を導入し、獅子と
狛犬、羅刹、夜叉、金剛、力士、無明、提婆の仏教駒を入れ、麒麟、鳳凰、
臥龍、飛龍の神駒、更には仲人と反車を加え、偶数升目を奇数升目に入れ
替えて、配列も象を酔象にして、多少入れ替え、不要駒を少し削る等しな
いと、摩訶大将棋は完成しない。
 しかし、そもそも平安小将棋には、上記の仮説大理国大大将棋の2~4
段目に存在すると、ここではした、古代雲南の造形物として出土する

闘争動物(象と馬は入らない)を入れるという動機づけが無い。

そこで、
闘争動物造形古美術品の情報が、大理国プレ原始平安小将棋(酔象1枚残)
とは別に、何らかの形(たとえば、それを入れた、シナ桂製立体駒のある、
雲南大理国王室将棋が、別に存在等)で雲南から、平安時代の日本には、
もたらされていた。そしてあとで、西暦1300年頃に、普通唱導集時代
の大将棋に、”奔王龍王龍馬角行堅行横行飛車”の走り駒配列が、形勢され
たので、摩訶大大象戯は、その”奔王・・”配列の鉤行等を入れた拡張と、
もとの仮説の大理国大大将棋の要素、プラス、デザイナーの今述べた、あ
りったけの知識で、平安小将棋を経由しなくても、作れた可能性も、あった
のかもしれないと、私には思えてきた。つまり、摩訶大大象戯、すなわち
摩訶大将棋は、小から大への進化で作られたにしても、その場合の

”小”は、11世紀の平安小将棋ではなくて、9世紀の牛僧儒の宝応将棋と、
考えたほうが適切である

という可能性も、有り得るかもしれないと、言う事だと思う。(2018/03/07)

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10世紀等に将棋が、黒潮に乗り東南アジアから伝来し無いのは何故(長さん)

持駒将棋の謎の著者、木村義徳氏が、繰り返し増川宏一氏の”日本の将棋
の遅い伝来説”を攻撃し続けているのは、そもそも、前世紀に増川氏自身
が、将棋が比較的早い時期に、今回の表題のように”船で黒潮に乗り、
東南アジアより伝来した”という説を掲げていたという、背景がある。
 増川氏は、その後文献史料を重視して、11世紀の平安(恐らく小)
将棋の伝来説に転じたが、元の早い伝来説の理由付けを、当然ながら、
切り捨てる事になったため、木村氏には、不信感が生じても、おかしくは
無かったのであろう。そこで今回は、前世紀の増川将棋伝来論である、
表題の伝来仮説が、なぜ成立しないのかを、史料とは別に考察してみる。
最初に結論を書くと、

原始マークルックや、原始シットゥインの情報、または無彩色の仏像、
仏塔駒類は、イスラムシャトランジよりも、低い頻度で、黒潮に乗り、
10世紀までに、日本に漂着していた可能性がかなり高い

と私は考える。ところが、原始マークルックや、原始シットゥインは、
現在のマークルックや現在のシットゥインよりも、
飛車と後期大将棋の跳ぶ飛龍の動きの駒が、逆の位置に配置される点
等を除いて、ほとんどアラブシャトランジと、同じゲームレベルのもの
だった。そのため、前に述べた、”イスラム教徒でないのなら、
面白く無い武術獲得ゲームを、日本人が敢えてする事は無い”という、
9~10世紀当時、天皇から平民に至るまで、日本人には行き渡っていた
”世論”が、イスラムシャトランジが立ち上がらないのと同様に、これ
らの将棋の流行のブレーキになり、日本で指されるゲームとならなかっ
たと、私は見る。
 今でこそ、マークルックやシットゥインは、兵や貝駒が、3段目や、
4~5段目に配列されるが、それは、11世紀以後に、各国で、ルール
がそのように、進化したものだと私は思う。実際の所、
当時のタイ地域の原始マークルックや、ミャンマー地域の原始シットゥ
インは、インドの”四人制チャトランガ時代の、二人制チャトランガ”
に、ほぼ近いものだったはずである。つまり、兵駒は、インドチャトラ
ンガ同様、マークルックでもシットゥインでも、二段目に配列されてい
たに違いない。
 そして、10世紀後半に、アラブのアル=ビルニがインドチャトラン
ガについて記載等しているように、アラブシャトランジと、当時のマー
クルック、シットゥインの違いは、ざっとでみると、

シャトランジでは、
象が跳ぶ飛龍の動き、車が飛車の動きであるのに対し、
マークルック、シットゥインでは、当時の2人制チャトランガと同じで、
象が飛車の動き、車が跳ぶ飛龍の動き

と、ひっくり返っている程度の違いだったのではないかと、想定される。
つまり、たとえばマークルックやシットゥインで、象が銀将の動き等とい
うのは、少なくとも本ブログの見解では、
日本に原始平安小将棋が伝来した頃に、同時に大理国の銀将が、マークル
ックやシットゥインの象を、飛車から銀将のルールに変えた、後代もの
と見られるのである。
 つまり、アラブシャトランジと当時のマークルック、シットゥインは、

少なくとも10世紀の日本人には、同じゲームの、駒の形とルールが少し
違う、互いに他方が”地方変種”に見える程度の差のもの

だったと、私は推定する。実際には、大臣駒が、アラブシャトランジで
は、猫叉動き、当時のマークルック、シットゥインでは、当時の四人制
チャトランガ時代の2人制チャトランガのように、近王型の、ひょっと
すると、金将の動きだったのかもしれないのだが。アラブシャトランジ
の方が、玉が詰み易くなる分、終盤のだらだら続きが、多少は緩和され
るので、インド4人制チャトランガ時代の2人制チャトランガや、東
南アジアの原始象棋よりも、ましと見られる位だったのであろう。

実際に差してみると、金将がある分、日本の将棋に近くなるだけという、
やはり、微差に、私にも見える。

 従って、中国唐代の都の人間を媒介として、イスラムシャトランジが、
吉備真備のような遣唐使を通して日本に、実際には頻度が、比較的高く
伝来する中で、

相対的に稀に、黒潮に乗って当時のマークルック、シットゥインが、た
とえば、船乗りが道具箱に、盤を描いた象棋具として、日本の港に流れ
着いたに違いない。しかしだとしても、イスラムシャトランジに関する
否定的な世論が、それらのゲームを、日本人がするかどうかをも、
否定的に決定していた

と、私は予想する。
 また、雲南の将棋については、以下の理由で、伝来は桁違いにしにく
かったと、私は見る。すなわち第一に、①中国の唐~五代十国~北宋と、
日本人との交流は、長いタイムスパンで見ると、連続的に続いたが、
実際の、その”中国人”は、長安・開封と言った、都出身の人物が、
日本の朝廷の墨付きを持って、来日するケースが、多かったはずである。
つまり、彼らは総じて、吸収する文化は、その時代の科学技術・軍事力
の世界最強国家、イスラム・アッバース朝の文物を、最重要視する、

いわゆるグローバリズムとして、その思想が現代人と、本質的に等しい

都会人であった。また二番目には、②後の自国内であったとしても、
もともと山岳部で、長安や開封に出るにしても、ヴェトナムのハノイに
出るにしても、雲南からはそれまでの道のりが遠かった。以上①と②の
理由だけからみても、中国の都人にとっては、地方文化でしか無かった、
雲南の将棋は、政治家で、雲南南詔国が吐蕃の緩衝国家となっており、
かつ吐蕃国と、政治交渉で交流の有ったと見られる、牛僧儒を除けば、
興味の対象から外れた。

その雲南の将棋は、10世紀に入ると、飛車等大駒を減らし、成りを
大臣に限定し、更には成る段数を3段目へ上げて、駒が成りやすくする
事によって、裸玉勝ちして、終わりやすくするルールを導入した。その
ために、それまでの象棋とは違う、新しいゲームの世界を作り出しつつ
あった。

が、だとしても、何かの理由(例えば、京都の内裏が火事で、金銀財宝
が消失したので、補充が必要になった)が無ければ、海のシルクロード
メインルートに比べても、雲南の将棋は日本には、桁外れに伝来し、
にくかったと考えられる。そして、三番目には、③そもそも雲南の
宝応将棋は、指す人間も、南詔や大理の王侯貴族に、基本的に限られて
いた事も、伝わりにくさを増大させた事だろう。
 以上のように私は、日本人の少なくとも一部の人間には、興味をそ
そらせるような将棋ゲームが、11世紀まで、以上3点の理由で、

中国雲南の山岳地帯に隠れていたのが、それまで日本に将棋文化が、
見出されない理由

であると私は見る。ようするに、本ブログの見解等によると、開発
テーマが、余りにもハードルが高く、12世紀まで未完成だった
シャンチー・チャンギを除いて、長い目で見れば、世界各国の象棋・
チェス類が、”イスラムシャトランジ類”と、日本人には、

一ククリにされて、無視されながらも、伝来はし続けていた。
その中には当然、東南アジアの、当時のインドチャトランガに近い
原始的な象棋類が含まれていた

という事であろう。
 つまり東南アジアの原始的将棋は、黒潮に乗って10世紀までに、
日本の港に、頻度が低いながら漂着はしていたが、日本人には、
指されなかっただけだと、私は現在考えているのである。(2018/03/06)

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摩訶大将棋の五段目は、”小から大へ進化”を示唆しているのでは(長さん)

摩訶大将棋(水無瀬兼成の摩訶大大象戯)が、日本の将棋の進化の中
の位置付けに於いて、どの位置に有るのかという点についての、先行
研究として、

大阪電気通信大学の高見友幸氏らの研究が名高い。

それによると、安土桃山時代の文献の記録に残る、摩訶大大象戯(以
下摩訶大将棋と表記)は、

始原的なもの

とされる。詳細な構成駒名の調査から割り出したもので、仔細は、高
見氏らの論文に、任せる。ここでは、その構成駒に関して、文献では
取り上げられ方のウエイトが低いと、私が個人的に思っている、
5段目配列から、むしろ平安小将棋を基点として、平安大将棋、普通
唱導集時代の大将棋、摩訶大将棋と、

小から大への進化の方が、事実を説明しやすい

という点を、指摘してみようと思う。つまり、大から小への進化は、
一般論として有り得ると思われるが、現実に有る

摩訶大将棋については、基点はやはり、平安小将棋とみられるのでは
ないかという示唆

をしようとしているのである。
 今回も、推論を述べる前に、理由を回答として先に書く。
 摩訶大大将棋の第5段目は、左端から、飛車、左車、横行、横飛、
堅行、角行、龍馬、龍王、摩羯、奔王、鉤行、龍王、龍馬、角行、
堅行、横飛、横行、右車、飛車と、19枚並ぶが、
飛車、横行、堅行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、角行、
堅行、横行、飛車という、部分13枚の動かし方のルールで示すと、
縦横走り、横走り前後歩み、縦走り左右歩み、斜め4方向走り、
斜め4方向走り縦横歩み、縦横4方向走り斜め歩み、縦横斜め8方向
走り、縦横4方向走り斜め歩み、斜め4方向走り縦横歩み、斜め4方
向走り、縦走り左右歩み、横走り前後歩み、縦横走り、という、

互いが不自然に規則的な、ルール成分になっており、かつその間に、

左車、横飛、摩羯、鉤行、横飛、右車、すなわち、動かし方のルール
で、右前左後方前3方向走りの右歩み、横走りの斜め歩み、角行2回、
飛車2回、横走りの斜め歩み、左前右後方前3方向走りの左歩み、と
いう、それぞれの両隣の駒のルールと、

滑らかに連結する訳でもない、6枚の走り駒類が、無造作に加えられ
ている点が不自然

と考えるからである。
 以上は回答だが、同じ事を以下、ごちゃごちゃしないように奔王か
ら右の10枚についてだけ、書き直すと、以下のようになる。
摩訶大大将棋の第5段目は、奔王から、
奔王、鉤行、龍王、龍馬、角行、堅行、横飛、横行、右車、飛車と、
10枚並ぶが、
奔王、龍王、龍馬、角行、堅行、横行、飛車という、部分7枚の動か
し方のルールで示すと、
縦横斜め8方向走り、縦横4方向走り斜め歩み、斜め4方向走り縦横
歩み、斜め4方向走り、縦走り左右歩み、横走り前後歩み、縦横走り、
という、互いが

不自然に規則的な、ルール成分になっており、

かつその間に、鉤行、横飛、右車、すなわち、動かし方のルールで、
飛車2回、横走りの斜め歩み、左前右後方前3方向走りの左歩み、と
いう、それぞれの両隣の駒、つまり
鉤行は奔王と龍王、横飛は堅行と横行、右車は横行と飛車という、
それぞれの両隣の駒のルールを、滑らかに連結する訳でもない、
3枚の走り駒類が、

無造作に加えられている点が不自然

と考えるからである。なおごちゃごちゃさせないために、奔王から
右のみを考えるやり方で、
奔王、龍王、龍馬、角行、堅行、横行、飛車
が、駒の動かし方ルールで、”不自然に規則的”というのは、右端の
飛車は、端だけは、更に右側からの補強が無い為に、龍馬と角行の間
から、3つ駒を飛び越して、右端に移されたと考えて、元の順位位置
に戻すと、
奔王、龍王、龍馬、飛車、角行、堅行、横行、
となり、8方、縦横、斜め、縦横、斜め、縦、横という順序になり、

奔王、龍王、龍馬、飛車、角行、堅行、横行という並びについては、
完全に、構成要素と配列が規則的になる

からである。
 そして、重要な点は、もし摩訶大将棋が、最初に考えられた将棋で
あるとするならば、どうして、

飛車、横行、堅行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、角行、
堅行、横行、飛車が、同じ段に並ぶ13升目の将棋が、直ぐにできる
ように、19升目の将棋を作ったのか

という謎が、説明できないと、私は考えるからである。
 本当は、13升目将棋の方が指しやすそうなので、

13升目の将棋が直ぐにできるような、19升目の将棋を、19升目
の将棋を作る事に自信を持っているはずの、摩訶大将棋のデザイナー
が、敢えてするというのが、そもそも不自然

だと、私は考える。
 従って、19升目の

摩訶大将棋は、13升目の普通唱導集時代の、奔王からの右の配列に関
し、恐らく3段目に、奔王、龍王、龍馬、角行、堅行、横行、飛車と
7駒が配列される、13升目の大将棋を前身とする将棋なのではないか

と、私は推定する。つまり、普通唱導集大将棋の3段目の配列に、奔王
より右だけの片側表記で、鉤行、横飛、右車、という左右の駒から、
自明に類推できるわけでもない、言わば”新人の駒”を3種類加えて、
3段目を5段目に上げて、摩訶大将棋の屋根下部分が、作成されたので
はないかと、私は推定するのが自然だと考える。
 なお、本ブログでは、今述べた普通唱導集大将棋は、同じく13升目
で、歩兵を上げて、上記の13枚の走り駒系列が挿入される前の、

平安大将棋の子供

と見ており、また平安大将棋は、標準型9升目平安小将棋より後発の、
いわば第2標準として作成された物と見ているため、結局摩訶大将棋は、

小→大と進化して、おおもとは平安小将棋

と言う事になるのである。
 むろん、摩訶大将棋の第5段目の走り駒段について、中央奔王右から
の10駒について、全規則的に、走り駒が配列できるわけが無いという、
技術的問題が、明らかに存在するのであれば、上記の私の推論は崩れる。
 しかし、たとえば、実際とは違って、

奔王、暴風、龍王、龍馬、角行、飛鹿、横猪、堅行、横行、飛車

でも良かったはずで、これなら10枚とも、連続的変化である。ちなみ
に、上記は右側だが、左側は、暴風の代わりに、前後が左右に入れ替わ
る、”淮川”でも、良いかもしれない。
 こうすると、架空の摩訶大大将棋の第5段目は、左端から、
飛車、横行、堅行、横猪、飛鹿、角行、龍馬、龍王、淮川、
奔王、暴風、龍王、龍馬、角行、飛鹿、横猪、堅行、横行、飛車
と、19枚並ぶことになる。なお大局将棋にある暴風は、横に歩む飛牛、
大局将棋にある淮川は前後に歩む奔猪、大局将棋にある横猪は横に走り、
その他6方向に歩む動きである。ここでの議論は、

その動かし方のルールが大切なのであって、名前を決めるのは別の要因

であるから、既存の動かし方のルールを取る、駒名を当てはめている。
 何れにしても以上述べたように、歩兵段の直ぐ後ろの5段目に、

13枚は規則的で、残りの6枚は、どうしても、異質の駒を入れなけれ
ばならなかった、特に強い理由は、摩訶大将棋にそもそも無い

と私は思う。
 つまり、この事は19升目の摩訶大将棋が、13升目の平安大将棋族
の将棋の

小から大への進化物であるという、疑いを、抱かせるもの

なのではないかと、私は思う。
 高見友幸氏は、摩訶大将棋の始原性について、たくさんの根拠を挙げ
られている。そのため彼の説を、これだけでは完全には崩せないのかも
しれないが。少なくとも全ての事実が、彼に味方しているとまでは、行
っていないのではないかと、私には以上のように懸念されるのである。
(2018/03/05)

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(コラム)小山義政ゆかり北葛飾郡松伏町上赤岩で八角形木片を取得(長さん)

栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡で、2007年春発掘された、摩訶大将棋に
有る、裏一文字金角行駒に関連すると見られる、南北朝時代の武将の
小山義政が、西暦1382年の小山義政の乱まで、荘園の年貢請負権等を
所持していたと見られ、乱以後、”鎌倉府の問注所の某武士が、鎌倉公方、
足利氏満より、その地の利権を拝領して継承した”との旨の記録が残る、
小山義政の関連地の一つ、現在の地名で、
埼玉県北葛飾郡松伏町上赤岩、南北朝時代の地名で、下河辺荘新方郷赤岩
を今年の3月3日に漫然とだが、遺物を探しながら歩行した。その通過中、
午後ちょうど3時ごろ、コンクリ舗装道路の歩道上で、下の写真のような、

裏が一面ベタ赤で、表に”8”の字の白いマークの入った、形から

朝鮮チャンギの駒を思わせる、八角形の木片を、私が発見した。

真新しく、現代の積み木や、ある種のボードゲームの駒ようにも見えるが、

何なのかは、今の所私には判らない。

上赤岩物体.gif

 ”8”というマークが、形と対応しており、小中学校の算数の副教材を、
私には連想させる。ほかに、”4”との数字の書かれた四角形の木片や、
”3”と書かれた、正三角形の木片が、ひょっとすると実在するのかもし
れない。

これでチャンギが出来るとも思われないので、多分チャンギの駒では無い

のであろう。なお、数字”8”の向きは、辺に対して垂直になっており、
チャンギの標準的な駒と、同じである。なお、大きさは差し渡しが4cm
位であり、形は完全な正八角形ではなく、工業製品だとしても、廉価品で
ある。今も学校で使われている程度の、汚れ方であり、写真は特に洗浄し
ていない。

小学校の1~2年程度の児童が、学校から入学祝に貰う、副教材の一種

のようにも見える。取得した道路は、タロウバスというバス会社のバスが
通る、バス道になっており、近くに松伏町立第二中学校があるが、中学生
の数学の教材にしては、幼稚である。(2018/03/04)

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10世紀日本・五代十国~北宋に、象棋・将棋の明確な記録が無い訳(長さん)

木村義徳氏の持駒使用の謎を読むと、10世紀の、日本および五代十国~
北宋に、明解な形で、象棋・将棋の明確な記録が無い事を、将棋の伝来が
遅い根拠としている研究家に対し、強い攻撃が行われているというのは、
この学術領域では著名である。本ブログでは、その時代、五代十国~北宋
には確立されたゲームとして、イスラムシャトランジは有った、との立場
を基本的に取る。そこで、”中国語→日本語”の辞書等で、

記録が無いのは、漢民族の間では、宗教的な理由が無いため、イスラムシ
ャトランジが、中日辞書等に記載するほどには、流行っていなかったため

という基本的スタンスを取っている。そしてさいきんは、中国シャンチー
がこの時代に無いのは、

シャンチーは、作るのが難しかったため

という、説明をしている。
 しかし、その時代に厳密には、末期南詔国~草創期大理国には、象が
飛車、銀駒が無い程度の、四人制チャトランガ系・プレ原始平安小将棋
は有ったはずである。それも中国の辞書に無いのは、北宋と大理国との
間に、政府間の交流が無かったためとみる。そして日本にそれが来ない
のは、元々、これが王族の将棋であり、道具の絶対数が、限られていた
ことに加えて、大理国の大和城と、北宋の開封市との間の交通の便が、
もともとかなり悪かった事、北宋の都、開封の人間の目が、イスラム・
アッバース朝の、科学技術文化に目が奪われていて、中国の山岳地帯の
文化に関心が薄かったので、雲南の情報は日本へは、理由が無ければ、
伝わり難かったという事になる。
 ともあれ、本ブログでは、吉備真備が将棋を日本に持ち込んだとすれ
ば、ゲームは、イスラムシャトランジのはずだと推定するように、日本
人と接触する、10世紀以前の象棋型ゲームは、実質ほぼ、イスラム
シャトランジに限られるといえるほど、確率が大きいだろうと推定・
仮定している。
 ところで最近まで、個人的には、大理国の原始平安小将棋(酔象角行
型・取り捨て)と、イスラムシャトランジは、面白さでほぼ、同格だと
見ていた。しかし実際に最近になって、イスラムシャトランジを指して
みると、

イスラムシャトランジより、原始平安小将棋の方がましなのではないか

と、疑うようになってきた。
 イスラムシャトランジは、八方桂馬で、相手陣に多少のダメージを与
えたあとは、車で相手王を、追い掛け回すような将棋しか、私には指せ
なかったためである。これは、曲がりなりにも、序盤に銀~桂馬~香車
の連携で、相手の左袖を破ってゆく、原始平安小将棋の駒捌きのリズム
よりも、なまじ攻め駒が飛車駒2枚であるため、イスラムシャトランジ
の方が、かなり劣るとの印象を与える内容であった。なお、車が王駒よ
りも強いため、原始平安小将棋(取り捨て)とは異なり、イスラムシャ
トランジでは、”裸玉で終局”にもなかなかならず、だらだらとゲーム
が続く。この点でも、平安小将棋の方がましである。
 この事より、特に10世紀の日本人には、

イスラムシャトランジは、知ったとしても、相当につまらないゲームと
見られた疑いが、実はあるのではないか

と、ごく最近になって、私は疑うようになってきた。”モハメットが有
能な武将であるために、イスラム教徒は、上は国王から下は平民に至る
まで、面白かろうが面白くなかろうが、武芸の一部である、イスラム
シャトランジを指しているのである。だから仏教徒である我々日本人が、
そのゲームが面白く無いと感じるなら、特に真似なくてよいのではない
か”という世論が、10世紀の日本の京都当たりでは、ほぼ定着してい
たのではないか。だとすれば、誰かがイスラムシャトランジ用の、地味
な駒を持ってきたとしても、日本では相手にしてもらえない空気に、
なりえるのではないか。以上のように私は、以前に増して考えるように
なったのである。
 つまり日本では、やはり10世紀に将棋は無く、理由は、

相当につまらない部類の、イスラムシャトランジだけが、外国との接点
である大宰府等には、中国から伝来する確率がその時代かなり高かった。
その結果、イスラムシャトランジが、将棋の代表とされ、実際日本人は
指してみてつまらないと感じた。だから”将棋というゲームを認知する
必要が無い”という世論が10世紀までに、日本国内では定着していた

ためではないかと、私は最近では疑うようになって来ている。(2018/03/04)

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兵のチェスポーン式斜め駒取り。宝応~平安将棋の何処で消失したか(長さん)

木村義徳、元の将棋博物館館長の「持駒使用の謎」を読むと、日本の将棋
は上陸時には、平安小将棋とは、かなりルールが違い、その調整のために、
かなり早く伝来しないと、つじつまが合わないとの旨書いてある。それに
対し本ブログでは、もともと西暦850年前後の本ブログ独自の見解に
よれば、”雲南の王室で指されていた”宝応将棋が、飛車動きの上(象)
将を削除し、玉将を入れて、銀を2枚にすれば、平安将棋になるような
形をしていた。そしてまた、後の中国ウイグル自治区から、雲南への、ホー
タン玉(ネフライト)加工文化の伝来は、唐が五代に移り、吐蕃も弱れば
時間の問題だった。そこで、玉将の加入で上(象)将が追い出されるとい
った必要なゲームの変化は、現地、雲南に任せておいてよかった。だから
日本人は、宝応将棋が平安小将棋へ雲南で、現地の人間の手で進化してか
ら、結果だけを輸入すればよかった。ので、

指摘の日本国内での、進化の時間は不要のはず

だとの見解になっている。
 実際、これまでの本ブログの見解によれば、日本に雲南の大理国の原始
平安小将棋(片方酔象残り型)が、恐らく北宋交易商人の周文裔親子によ
って、酔象が取り除かれる形で伝来してから、大宰府の武家が中心と
みられる、日本人がした、ゲームのルールとしての改良は、”裸玉の自殺
手に対する優先ルール”の設定位ではなかったのか、というものであった。
 しかるに、宝応将棋の更に源流とみられる、インドの四人制時代の二人
制チャトランガには、歩兵のルールで、表題のように、現在のチェスのポー
ンのルールと同じく、これで相手の駒を取るときには、単に空升目上を前
進するだけの場合とは異なり、斜め前に進んで、相手の駒を取るという、
ルールになっていたと、推定されている。
 では、このチェスポーン型の相手駒、斜め前升目取りルールが、仮に、

宝応将棋には有ったとして、8升目原始平安小将棋(酔象なし。取り捨て)
に無いとしたら、どの段階で誰が、現行の、日本将棋の歩兵の動きに変えた

のだろうかというのが問題になるだろう。それが今回の論題という訳であ
る。
 そこで、さっそく結論から書くと、答えは驚くべきもので、実は

日本に平安時代の将棋が上陸してから、チェスポーン型の歩兵は、日本の
歩兵にルール変更された可能性も有り得る

よう、という事になるのだ。つまり、現行の歩兵のルールは

日本人が発明したもので、雲南ではいつも、歩兵は、相手駒を取るときに
は、斜め前に進んでいた可能性が、否定できない

というものである。根拠は、実際に指してみると判るというものだが、原
因は、

角行動きの、後に興福寺等で酔象と命名された象が、2枚とも銀に交換
された結果、歩兵の斜め取りルールがあると、序盤から繰り出される攻撃
駒としての、隣接升目にしか動けない銀将の、序盤での働きが、大いに
阻害され、駒の動きが全体に悪いだけでなく、歩兵が幾つも敵味方頭同士
で合い当たりした状態で、盤面に残ってしまい、駒捌きも、はなはだ悪く
なるので、歩兵は前で駒が取れるようにした

というものである。それに対して、仮説大理国将棋のように、右銀が、
角行動きの、推定興福寺11世紀ルール酔象に交換されると、角行は動き
が大きいために、

自身が、斜めに動く歩兵が邪魔にならないだけでなく、歩兵は象に喰われ
て、ポーン歩兵の斜め駒取りルールのために、頭同士が当たって固まって
しまった、敵味方計2枚の歩兵の対を、余り作らない

ようなのである。従って、周文裔から、兵駒のルールを正確に聞いた後に、
大宰府の警護役(刀伊の入寇のときには、主力部隊)の武士の溜まり場で、
写経所僧侶の発明作品の、五角形の経帙牌駒将棋を指しているときに、

日本人が、勝手に歩兵のルールを、前に進むだけに変えてしまった

可能性が、否定できないという事に、なってしまった。
 なお、ポーン型兵の中盤ぶち当たり、頭同士が当たって固まってしま
って生じた、無駄な歩兵駒の多発については、銀へ象を全部交換した当
の、周文裔親子が気が付いていて、

意識的に、歩兵のルールを、簡略化して、日本人に伝えている可能性も
有り得る

とは思う。何れにしても、歩兵のルールの変更は、道具を変えなくても
できるから、判ってしまえば、とっとと変えてしまったはずである。
ただし、これで将棋自体はかなり、様子が変わる。ので、どうしたらよ
いのか、解決策に気が付くのが、短期間であったかどうかは謎である。
上記のルール変更を、比較的短時間でしたとすれば、実際にした、プレー
ヤーやゲームデザイナーの能力は、とても高かったと言えると、私は
驚愕している。(2018/03/03)

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