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中将棋。遊学往来に言及あるが、康富記まで対局記録が何故無い(長さん)

増川宏一氏の将棋の歴史(2013)によると、南北朝時代の
遊学往来(1372年より少し前、岡野伸氏)が中将棋の初出
であるが、公家の日記等に、対局記録が現われるのは、西暦
1443年の中原康富の康富記が初出だという。そのため、
中将棋の記録(一。自費出版。2004年)の著者である、
岡野伸氏は”遊学往来の中将棋の文字は、後世の加筆ではない
か”と疑っておられる。今回は、前に紹介した、鎌倉市今小路
西遺跡木簡等の内容も踏まえながら、中将棋の日記対局記録が、
遅かった理由を論題にする。
 いつものように、結論を先に書き、説明を後で述べる。

駒数多数将棋は、ルールのコンテンツとしての分量が多くなる
傾向が強いため、亜流ゲームを作りやすく、標準平安小将棋の
強かった京都では、一本化に100年位掛かったのが原因

と、本ブログでは考える。
 では以下に、以上の結論に関して説明を加える。
 本ブログでは、西暦1320年頃に、普通唱導集大将棋が、
自明定跡の発生という、ゲーム性の難点から衰退し、いわば
モンゴル帝国来襲時代の、カリスマが去って以降、

駒数多数将棋に関しては、戦国時代がしばらく続いた

と、見ている。鎌倉市今小路西出土の木簡または木板の、

”志ろいぬ”駒と疑われる文字の存在は、それを支持するもの

であろう。異制庭訓往来の虎関師錬の駒数多数将棋に関する記
載も、この考えと大きく矛盾するものではない。
 他方、京都はもともと、初期院政の時代に発生したと、ここ
ではみる、9升目36枚制の平安小将棋が発展した、持ち駒型
の同形小将棋が、皇族に距離的かつ対人関係上近い、公家には、

他に有力な将棋が何も無ければ、指される傾向が強かった

のではないかと考えられる。恐らく南北朝時代の北朝の公家、
洞院公賢の指した将棋も、単純に持駒有り型の9×9升目36
枚制平安小将棋だったろうと、私は想像するのである。
 しかし、新安沖沈没船出土将棋盤(?)が示唆するように、
9×9、12×12、15×15といった、易経の九星占いを
連想するような盤升目の将棋は、何れも継続して研究が進んだ
のであろう。その結果、結局の所

中将棋は発生してから100年程度で、駒数多数将棋の覇者と
なった

と考えられる。鎌倉市今小路西の木簡は、その試行錯誤に、鎌
倉市近郊のゲーマーの寄与が、比較的大きかった事を、あるい
は示唆しているのかもしれない。
 ひょっとして、花営三代記の足利義持が大御所の時代の
西暦1424年に、京都よりも早く、中将棋の少なくとも亜流
であると疑われる将棋の記載が、武家政権の記録に現われるの
は、それを示唆しているのかもしれない。なぜなら室町幕府は
京都だが、そこに、東国の武家の棋士の活躍が、記載されてい
るからである。
 そして、西暦1440年代になると、

相変わらず旦代の難点が、持ち駒ルールになっても残っていた
標準型平安小将棋(9×9升目、36枚制、持ち駒有り)に、
京都に於いても駆逐されずに、京都で中将棋を指す団体棋士集
団が、発生するまでに至った

のではないか。以上のような流れで、駒数多数将棋と後の、
日本将棋の親である、小将棋が並立する状態が、15世紀にな
ると、当時の首都であった日本の京都で、ほぼ定着したのだろ
うと、以上のように私は見ていると言う事である。(2018/11/11)

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ブログ”世界遊戯史博物館”に源師時長秋記袋物占関連記事在り(長さん)

 将棋の文献で新猿楽記に次いで古い、西暦1129年5月02日
(宣明暦)に書かれた、源師時長の長秋記の日記に現われる記事、
鳥羽上皇の、”12枚の将棋の駒を使った袋物占い”という内容は、
将棋史では著名だ。実はそのシーンを、そのまま撮影したような、
将棋駒として、中国シャンチーの駒名を書いた札を、黒い布袋につ
めて、目隠しして1枚取り出す、この場合占いではなくて、賭博の
記事が、web上に2年近く前に掲載した記事として、ブログ、
”世界遊戯史博物館”の、西暦2017年01月06日のページに
公開されている。
 ページ自体は、”世界遊戯博物館”と検索すれば、ブログ自体が
hitする。ので、最近は更新されておらず、3ページ目程度に、
この記事が出るのだが、比較的簡単に見つかるだろう。
 ブログの説明記事によると、ブログの写真は、テレビドラマから
の転載で、”シンガポールのTVドラマ「双天至尊(1993年)」
の、第一話に登場する”との事である。なお、双天・至尊というの
は、賭博ものという意味らしく、劇中に様々な賭博ゲームが、登場
すると、同ブログで紹介もされている。
 よって占いとは異なり、袋から駒を選択した後は、賭博ゲームに
なると言う事である。具体的には袋に、中国シャンチーの駒名とし
て兵卒駒を除いて、残りは、敵味方を1枚づつとして、親が象棋の
12種類、すなわち

「帥・将・仕・士・相・象・俥・車・人偏馬・馬・炮・砲」と書い
た札を、黒い袋の中に入れ、ついで袋の中に手を入れて、手探りで
一つ選び、

それを、小さなケースに入れて蓋をし、その札が何であるかを、
子が賭けるというのが、劇中の賭博シーンの内容らしい。
 なお、賭博なので、子は掛け金の倍率を選択する事ができる。大
きな倍率を賭けると、当たったときにその分、大金が帰ってくる。
ので、これは典型的な賭博である。なおこの形の賭博は、日本にも、
明治時代以降中国より入り、”手本引”と言われていると言う事で
ある。ただし日本の手本引は、中国シャンチーの駒は使わず、問題
の1993年のシンガポールのTVシーンが、中国のどこの文化を
題材にしたものかは、世界遊戯博物館のブログの管理人にも、良く
判らないとの事のようだ。

何れにしても中国には、シャンチーの駒に関する、覆物選択行為が
古くから何処かにあるのだろう。

 より正確な話は、そのブログを見ていただくことにして、覆物占
いでかつ、将棋の駒の12枚という、源師時長の長秋記の日記に
現われる記事に、このテレビ番組のシーンに現われる、道具のパター
ンが、完全に対応しているという事が、ここでは重要である。
 つまり、西暦1993年は西暦1129年よりは、だいぶん後代
だが、中国から伝来した、中国シャンチーの駒を12枚と、黒い袋
を使って、駒を選択する行為という点で、1129年の将棋駒覆物
占いは、

本ブログの見解のように、将棋の駒とは、中国シャンチーの駒の事

と考えると、ピタリと話が合っているという事である。なお、
web上の未確認情報だが、源師時が長秋記で描いた、鳥羽上皇の
袋物占については、博多経由でもたらされた、

中国からの占い方法に関する文献の、存在記録がある

という話もあると、本ブログでは以前紹介した。
 繰り返すが従来は、この将棋占いの

将棋駒は、日本の五角形駒との説が、学界では強かった。

しかし、中国からシンガポールに最近だろうが伝来した、中国シャ
ンチー駒12枚を使う、覆物賭博が今でも有るとなると、

やはり、本ブログのように、鳥羽上皇の覆物占いとは、中国シャン
チーの「帥・将・仕・士・相・象・俥・車・人偏馬・馬・炮・砲」
の12枚を使った、覆物占いである疑いが濃いのではないか

と、私には思えてくる。実は、中国シャンチー駒の出土初出は、こ
の鳥羽上皇の覆物占いの、たった23年程度前でしか無い。
 この日本の将棋史のカテゴリーと従来見られた鳥羽上皇の覆物占
いの記録は、ことによるとむしろ、中国シャンチーのゲーム史にとっ
て、重要な史料なのかもしれないと、少なくとも私には、前から疑
われているのである。(2018/11/10)

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(コラム)本ブログ開設満2年が経過(長さん)

 今11月の第ニ週で、本ブログも開設より2年が経過した。
 この2年間、最初の方からほとんど欠かさず本ブログに注視
してくださった方が、明らかに何人かおられる。それに助けら
れて連続投稿日数731日を、無事通過する事ができた。特に
後者の記録は、その方々のおかげだったと言って良い。誠に
感謝いたしたいと思います。
 さて、その連続毎日投稿の記録であるが、途切れるとすれば、
当然ながら、本ブログのように、小論形式であって、内容が日
記ではないブログのケースは、書くネタが枯渇したときである
と考えられる。その見通しであるが、能力に限界が来て、ネタ
が考え出せなくなったときだろうとしか、今の所答えることが
出来ない。史料を見直しても、まだ言及していない内容がある
事に気がつくことは、最初の頃と違って最近では、めったに無
くなった。が、このような状態は、1年以上前からであるから、
今日は、どう見ても投稿する物が無いという気持ちになった事
は、幸いな事に、これまで一度も無かったという事である。
 また天災とか、身内の不幸とか、自分自身の病気等の不慮の
事態で、途切れることが有るのか無いのかは、今の所予想がで
きない。
 なお研究のため、ブログを立ち上げずに、調査に集中すると
いう事も、将来無いとは断言できない。が、将棋史の場合、
既存の史料の調査がほとんどなのが現実なので、私はそういう
生き方が、個人としては好きなのだが、そのような生活に移行
する確率は、少なくとも今のところ低いかもしれない。
 よって間違いなく、残念だと心より感じながらであろうが、
連続毎日投稿記録が途切れるのは、どうしても原稿が考え付か
ない事態が、私の能力不足と、題材が多少枯渇傾向になった時
に、これから未来のある日に、突然起こってしまうという事で
あろう。以上のような可能性が、一番高いのではないかと、今
の所漠然と予想しているだけである。
 思えば遊戯史学会が、あと2か月弱で消滅すると言われてい
る。そんな中、その中の一分野である、増川宏一史学会会長の、
メイン研究テーマ”将棋史”の、古い時代の方のパートのブロ
グが、学会の消滅日を待たずに、ろくに更新されない状態には
ならないように、したいものだ。だから管理人の能力が無いた
め、連続で、毎日本ブログへの投稿が、このまま続くとまでは、
とても確約できないが。少なくともできるだけ長く、本ブログ
を生きた状態で、保ち続けて行きたいものだと、現時点で考え
ている事は、確かである。(2018年11月将棋の日の少し前)

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中将棋。獅子を狛犬に変えたら、初手▲7七狛犬は良い手か(長さん)

前に、鎌倉市今小路西遺跡の木簡の記載に基づき、西暦1350
年頃の初期中将棋で、特別規則のある獅子の代わりに、狛犬の
配置された中将棋の存在の可能性について、本ブログでは論じた。
しかし、安直に獅子を狛犬に変えたならば、1手で動ける範囲が
獅子より狛犬の方が広いので、ゲームとして、おかしな事に本当
にならないのかどうか、懸念が有ると言える。たとえば、初手で
先手が狛犬を3歩前に進めて、支配領域を確保しようとすると、
この狛犬には繋ぎ駒は無いが、後手が3歩狛犬を進め返して、同
形にし、バランスを取る事が出来ないように思える。つまり、

先手必勝型のゲームになってしまい、このような変更が行われた
とは、最初から考えにくいという事は、本当に無いのかどうかが
問題という事

になろう。そこで今回は、表題に有るように、この先手が初手に
狛犬を3歩進める手の、善悪についてを論題とする。
 最初に回答を書き、それについて、その次に説明を加える。
以下回答を書く。

先手初手▲7七狛犬は、恐らく悪手のため、このゲームに、先手
有利の難点は、一応無いと見られる。

では、以下に説明を加える。
 すなわち先手初手▲7七狛犬には、後手は2手目で△8五歩と、
普通に駒数多数将棋では良くある、龍王前の歩兵を上げる手を指
してくると見られる。その後3手目▲7八歩とか▲5八歩なら、
後手4手目は、何れの場合も△6六龍馬である。その後、
▲4四狛犬(龍馬踊り喰い)△同龍馬の、狛犬と龍馬+歩兵交換
では、先手がやや不利なので、3手目には狛犬を移動させなけれ
ばならず、そうだとすると、

第1手目の▲7七狛犬は、位を取れないので無駄な手であった

という事になる。
 なお以上の推論で、狛犬は、同一方向に3歩歩むではなくて、
自駒を跳び越せる、大阪電気通信大学の踊りルールであると仮定
した。なお自駒を飛び越せない状態は、西暦1280年頃、
大阪電気通信大学ルールの形には、西暦1350年頃になったと、
本ブログでは、今の所一応推定している。
 獅子を狛犬に変えた中将棋では、恐らく先手は第1手目に、
▲7八狛犬とか、▲4七狛犬といった手を、指してくるのではな
いか。それなら特に、後手の方が、いきなり不利にはならないだ
ろう。
 つまり、

本ブログでは、狛犬は居喰いの能力は無いと見る

ので、攻撃力では獅子よりかなり劣り、早い時期に狛犬同士を、
敢えて相討ちにする事は、起こら無いのではないかと考えている。
 大阪電気通信大学の高見友幸氏により、以前、獅子-狛犬、同
時出現説が論じられた。狛犬が、金剛、力士、羅刹、夜叉に比べ
てこれだけが、早期に出現とも取れる説であり、当時私には、違
和感があった。しかし”中将棋の、しちめんどくさい点を何とか
しようとして、獅子を狛犬に変えてみる”という話の、可能性が
出てきてみると、確かに彼の言うのが、正しかったのかもしれな
いと、最近は私も思うようになってきた所である。(2018/11/09)

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将棋駒の盲虎。普通唱導集大将棋時代に何故出現できなかったか(長さん)

本ブログでは、中将棋の出現時に盲虎が成立したと考えている。
 つまり、普通唱導集の時代の13升目108枚制の大将棋、
仮説普通唱導集大将棋に有る虎駒は、猛虎だったと考えるとい
う事である。しかしながら、もしこの時代に猛虎が盲虎になっ
ていたとしたら、普通唱導集第1節の意図する、”香車と反車
が耳を破り、飛車を退け”て、次に成麒麟を作っても、それで
玉が成り麒麟に捕まってしまうと、自明には言えなかったはず
である。つまり猛虎に、盲虎のような守り駒としての性能が無
いからこそ、こう表現できた、普通唱導集の大将棋唄だと考え
ると言う事である。しかし、”猛虎の4方向歩みの、方向数を、
もっと増やして盲虎の7方向にすると、ゲーム性が改善される”
という事を、西暦1300年頃には考える事が難しかったとは、
とても思えない。ではなぜ、そうしさえすれば良い、虎駒の
変更が、中将棋の時代まで行われなかったと考えられるのかが、
今回の論題である。
 そこで、いつものように最初に答えを書いて、後で説明を加
える。まず、以下が答えである。

普通唱導集大将棋は二中歴平安大将棋の駒にほぼ、適宜別の駒
を加えて作られるべき将棋であり、その枠組みをはみ出す改善
は、棋士に支持されなかった。そのため、猛虎の動きに問題が
あっても、盲虎に変更する事が難しかった

と考えられる。
 では、以下に上記の結論につき、説明を加える。
 まず、獅子の動きの駒である麒麟の成りの獅子が考え出され
た時点で、虎駒が猛虎より盲虎の方が良い事は、ほぼ間違い無
い話である。だから、ゲーム性が常に優先されて、将棋ルール
が決まるとすれば、虎駒が猛虎のままで留まるという事は、有
り得ない。従って、

二中歴の大将棋の記載というのは、西暦1300年時点で、ゲー
ムルールを決める、原典として最重要視され、そこからはみ出
す事が難しいという事情が無い限り、普通唱導集大将棋第1節
の内容を、矛盾なく説明する事は難しい。

恐らく、大将棋のルール本として、よりどころになる情報は、
西暦1300年には、二中歴の内容しか、存在しなかったと、
結論せざるを得ないと私は思う。だから、

普通唱導集時代の大将棋で、銀将前升目の位置の駒は必ず、
猛虎で無ければならなかった

のであろう。ちなみに、隣に牛駒を置き、たまたま雲南省の
豪族の名前の一字をとって、猛牛としてしまったために、鬼門
でペアーになる、12支という意味での虎駒の名前としても、
猛虎の方が、別の字を書くよりも、ゲンが良いと言う事も、
猛虎を盲虎に変えにくい要因に、なったのであろうと見られる。
何れにしても、だから、

”大将棋は、二中歴大将棋が骨格となるべき”という時代には、
盲虎を採用できなかった

と、私は見るのである。
 それに対して、中将棋は、本ブログによれば12升目96枚
の駒で作る事から出発した、13升目108枚の駒の将棋、
普通唱導集大将棋とは、別の新しい将棋と、最初から見なされ
た。そこで、大将棋の駒種や配列を参考に作るにしても、中将
棋では、駒名を平安大将棋に、完全に合わせる理由が無くなっ
たと言える。だから、

中将棋にも獅子に成れる麒麟があるため、虎駒が猛虎より盲虎
の方がよければ、それだけの理由で盲虎を採用する事が出来た

と、考えられる。
 そのため、中将棋の時代に始めて、盲虎が現われたと、本ブ
ログでは考える。
 だから逆に言えば、前に述べたように、中将棋のごく初期の
形が、今の形とは完全に同じで無く、

成って出現する獅子はあるが、元駒の獅子が無くて、狛犬に置
き換わったような初期変則中将棋の時代でも盲虎は出現できた

と私は考える。つまりこの事は、

盲虎が出現したのは中将棋の時代だが、原因は成り麒麟の獅子
の存在のせいだったと、厳密に考えると、そう言える

という意味である。たとえば鎌倉市今小路西遺跡の墨跡木簡に、
”盲虎のルールの強調”のような、記載の跡が見られるのは、
今述べたような、事情によるものかもしれない。(2018/11/08)

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今小路西遺跡出土”内容不明木簡”はプロト中将棋ルール説明文(長さん)

鎌倉時代から南北朝時代の遺跡として知られる、鎌倉市の鶴岡八幡宮
からは、成り楷書奔王鳳凰駒等が出土している事で著名だ。が近隣の
鎌倉市市内の、北条氏や千葉氏の鎌倉邸跡等の遺跡からも、将棋駒が
出土している事で知られる。その他、賭博場かともみられる、今小路
西遺跡から、将棋駒や遊戯具が出土している。以上のように、全体と
して鎌倉市市内は、鎌倉時代から、南北朝時代にかけての将棋遺物が、
かなり出土する場所となっている。
 ところでいま最後に述べた今小路西(御成小学校)遺跡と、さほど
離れていない所とみられるが、今小路西(社会福祉センター)遺跡か
ら、今回話題にする、”読み下し不能な木簡”が一枚出土している。
 さっそくだが、この木簡に、

何と書いてあるのか、それが将棋史と関連するのかが、今回の論題

である。最初に結論から書いておく。
最初から、ほとんど”ひらがな”ばかりで、内容が書いてあると仮定
すると、

南北朝時代の中将棋の、ルール説明の一部のようにも読める。

では、以下に以上の結論につき、説明を加える。
 この木簡は、中央から上下に2つに折れてしまっていると、鎌倉考
古学研究所には見られたようだが、

そう考えると、内容が全くわからない。

今小路木簡.gif

2つを切り離して、

上の半分から説明が始まり、一部切れている

が、木簡の下半分とされるものへ、説明が続いていると見ると、この
木簡の文字が、ほぼ”ひらがな”ばかりだとして、次のようにも読め
るように、私には思える。

(本ブログの、読み下し案。上半分)
志ろいぬ、
もうひゃ(う)。
まうこは、
(以下、下半分の部分)
(近)くわ行が、
上わ(?)ゆ
け無。

つまり、読み下しのポイントは、このケース、いぬ、ひゃ、こ、と
いう、動物名に見える平仮名が、はっきりしているのが、ヒントの
ようにも、とれると言う事である。
 そこで、やや判りにくい、上記の読みを、本ブログなりに意訳す
ると、以下のようになる。

(以下意訳。)
西暦1350年頃現在、中将棋には
白犬。猛豹が在る。また更に、
盲虎が有って、隣接升目へ動くルールになっている。
が、盲虎はすぐ前の升目には進む事が、でき無い。

つまり、志ろいぬと書かれた、狛犬駒が、獅子の代わりに、一時期
中将棋に入っていて、獅子の”複雑な特別規則”が無くても、ゲー
ムになるように、変形中将棋が試験的に作られた時代が、一時期有っ
たらしい

とも取れるような、内容に読めると言う事である。これは、原初の
中将棋のルール説明を、ぼんやりと記したものと見る事ができるが、
中将棋のゲームルールの内容を知らない、かなりの数の木簡研究者
には、”意味不明”と取られてしまう内容であったという事になる。
 この木簡は、鎌倉考古学研究所が中心となり作成した成書、よみ
がえる中世(3)、武士の都鎌倉で、”判読不能”との烙印が、西
暦1989年に、権威ある専門家によって押されたため、

恐らく成書に堂々と載っているが、その後の解明の努力は無かった

ようだ。
 全国出土木簡には、まだこういった、内容未研究なものが、幾つ
かはあるのだろう。少なくとも、このケースについては、

読者が”読めない”と成書に書かれていても、それを頭から信じて
中身を、さいしょから、読もうとしなくなってはいけない例の一つ

に間違いないと、私は問題の、珍しい中世木簡の写真を見てからは、
思っているという事である。(2018/11/07)

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鎌倉時代から南北朝時代の出土駒。銀将が少ないのは何故(長さん)

今回は単純に成書、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、”鎌倉時代
から南北朝時代とされた出土駒リスト表”の中身を問題にする。た
だし、石川県金沢市の堅田B遺跡の、成り不明”飛馬ないし龍馬”
は、大将棋系の駒とし、これ一枚だけ、除くことにしよう。すると、
上久世酔象(?)駒も、普通の小将棋系という帰無仮説を適宜立て
るとして、この集計では加えると、合計42枚の駒が有る事になる。
 ところが、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、今度は、各駒種の
内訳表によると、このうち銀将が、鳥羽離宮54次の、成り極端草
書の今金の銀将駒一枚だけと言う事になっている。
 そこで、次に以上の42枚が、9升目36枚製標準平安将棋の駒
との帰無仮説を立てて、銀将の期待出現数を計算すると、
4.6・・枚前後になり、銀将の出る11.1%は小さいとして、
ポアソン過程で近似すると、0枚ないし1枚しか銀将の出ない確率
は、1/15程度で、かなり小さい。

従って、単純に考えると、9升目36枚制の平安小将棋系に、何か
別の小将棋種が、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、混じっていた

と、背理法で結論されるのだが、これは正しいのか。また正しくな
いとすれば、どう考えたら良いのかを、今回の論題にする。
 結論を先に書き、説明を後で加える。

正しくないと、今の所考える。理由は、神奈川県の鎌倉市佐助ケ谷
遺跡より、西暦1993年頃出土した、駒種不明とされる駒は、成
り一文字金銀将駒であろうと、今の所、本ブログではみなす為

という事になる。では、以上の結論について以下に、説明する。
 この新たに問題として出てきた、鎌倉市佐助ケ谷遺跡より、
西暦1993年頃出土した、”駒種不明”とされる駒は、

劣化が激しく、字を読むのが相当に難しい。

しかし、あくまで私見だが、

この駒の表面の残った墨跡は、銀将と書いてあると見て矛盾が無い

と、本ブログでは考える。

佐助ケ谷.gif

 著作権の関係で、正確に実体が示せないが、表面に13箇所程度、
墨の短い線が残り、裏面にも2箇所、墨跡らしきものが、スケッチ
された絵が、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に載っている。
 以下は、複写の承諾のために、このスケッチを作成した著作権者
を探すのが、後で述べる事情で、やや困難と見られたので、スケッ
チを更に、私が雑で申し訳ないが、更にしてみた再スケッチである。
なお、字だけ模写し、五角形の輪郭等、駒自体の像の線は、上の図
では省略している。
 上記成書、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒では、上図のように、
余りの墨跡の少なさに、両面とも判別不能と、判断したという事に
なる。
 本ブログでも、以上の本ブログの、これが成り金銀将だという見
方に、絶対の自信は無いのだが。銀将と考えて矛盾のない、鎌倉市
佐助ケ谷駒は、”銀将”と厳しく判定して、ユニークな仮説への結
論を、今後の新たな事実の出現まで、今の所は一応

先延ばしにすべきだと

考える。まあ、そもそも銀将の割合が、標準的な平安小将棋よりも
少ない将棋が有ったと、現行結論してみても、

京都市南区の、上久世酔象駒の酔象の文字の、実在性が疑われる

から、大理国平安小将棋が混在と結論するのも難しいし、現時点で
は”なるべく、つまらない状況認識をするしか無い状態”だと考え
ている。ちなみに、金将は予備駒を作る傾向が有るからかもしれな
いが、比較的多く出土する。銀将の次は、異常性がやや減るが、
新安沖沈没船出土駒以外に見当たらない、香車の少なさである。こ
れについては前に述べたが、問香札への転用による保存期間の延長
傾向が、疑われる。
 なお、鎌倉市佐助ケ谷遺跡を発掘した団体は、佐助ケ谷遺跡発掘
調査団という、正体が私には良く判らない団体である。また、別の
団体として、鎌倉市には、鶴岡八幡宮発掘調査団という、それより
10年ほど前の、西暦1983年頃に活動した団体があったとされ
る。以上の事から両団体には、平安大将棋と後期大将棋の如くに、
何か関連性があるようにもとれる、大将棋のごとくに”謎めいた”
名称の、考古学研究集団が、少なくとも鎌倉には2団体あるよう
である。
 ちなみに、鶴岡八幡宮発掘調査団の調査結果は、鎌倉市に今も有
るとみられる、鎌倉考古学研究所の著作物に引用されているので、
銀将(?)駒のスケッチの、著作の転載依頼という著作権問題も、
鎌倉考古学研究所に問い合わせれば、これについては、何とか、
なるようには思えた。
 何れにしても、こういった例は、京都府上久世駒に絡んだ、前に
紹介した著作物の複写問題といっしょで、

まったくめんどくさい話であり、早く50年が経って、著作権が、
切れてしまえば、権利者を探す手間が省けて良いのに

と、思われるような例ではある。
 何れにしても、この佐助ケ谷遺跡駒を、銀将駒と見れば、京都の
鳥羽離宮54次の、成り今極端草書金の銀将駒とあわせて、

42枚中に2枚銀将があり、期待値4.6枚よりは少ないが42枚
は標準平安小将棋系の駒群と考えても、説明可能という程度のフレ

という、統計的な結論にはなるわけである。
 しかし原則として銀将は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての
出土数が、平均すると少し少ない。これは更に発掘が行われると、

鎌倉時代~南北朝時代には平安小将棋の他に、別の銀将の割合が少
ない、小将棋種が混在していた

という結論にも、変わりうる可能性があると言う事である。
(2018/11/06)

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静岡県焼津市の小川城”中将棋系列3枚目駒”裏は軽く崩した金(長さん)

これまでに述べように、静岡県焼津市小川の小川城址遺跡の
出土駒のうち、中将棋の駒は、成り飛鷲竜王、成り飛鹿盲虎
とみられる。その他、もう少し新しい時代の物のように見え
る一文字略書体彫込み”馬”角行駒が、3枚目として出土し
ていると聞く。そして4枚目だが、中将棋駒と同一出土の、
細長い、これまで駒名不明とされていた駒が、出土している。
今回は、この4枚目の、歩兵系の形態の、中将棋駒と共出土
した、駒名不明とされる駒の、正体を論題とする。
いつものように、結論を先に述べると、

成りが銀将の裏の金型の一文字”金”の不明(歩兵)駒

で恐らく形から歩兵だが、中将棋の駒とみられる。
 では、以上の事に付き、以下に解説する。この第4の駒に
ついては、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に、駒の表裏の写
真が、裏、表の順で反対に載っている。が、写真が不鮮明で、
何なのかは、良く判らない。天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
の解説表でも、この駒は”()”と表記されていて”書いて
ある字の、内容の判断が不能”と、判定された事が判る。
 他方この駒は、成書「静岡県の歴史」(1987)河出書
房新社、永原慶ニ他編集に載っていて、こちらの方が、中将
棋駒同様、写真が鮮明である。そこで今回は、赤外線写真と
いったハイテク技術を私が使ったのではなくて、単に、

成書の写真を良く見て駒の種類を判断した。

その結果、この細長い焼津の第4の駒は、

裏面に、崩しが余り強くない、金が一文字、銀将の成りの書
体とみられる形で写っている

のを、私には確認できた。よって、表面は不明だが、この
一見して歩兵の駒の形に見える遺物は、金の崩し方が当時の
日本将棋の駒よりも弱い、

中将棋の歩兵駒のようだ

と私には判断できた。そして言うまでも無く、金が余り崩れ
ていないのは、

中将棋は取り捨てルールでかつ、金に成るのは、歩兵だけだ
からである

と判断できる。この駒は当然ながら、水無瀬兼成の将棋纂図
部類抄の中将棋の、歩兵の成り金の記載より古いし、大阪の
高槻城三の丸遺跡の小型中将棋駒の、成り”と金”歩兵より
も古い。よって、少なくとも上の事から、この余り注目され
てこなかった、焼津の細長い小型駒は、

中将棋の歩兵駒の書体が、昔は本当はどうだったのかを知る
うえで、たいへん貴重な遺物である事だけは確かであるとい
う事

が、少なくとも確認されたように、私には思われたのである。
(2018/11/05)

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チャンギの漢/楚と士駒が、同じ動きなのはなぜか(長さん)

交点置きが共通で、河の意匠が無いのを除けば、盤も良く似て
いるため、いっしょくたんに、ごちゃごちゃに論じられること
のある中国シャンチーと朝鮮チャンギであるが、イスラムシャ
トランジと比較すれば、前者の方が類似性が大きく、後者は少
し小さくなっている。なお中国シャンチーについても、帥/将
の動きが王型では無くなり、以下あくまで本ブログの見方だが、
北宋時代の、プロトシャンチーの士駒の偏牌の偏を、帥/将に
移した形になっている。かなり前に述べたが、帥/将のルール
の変化は、攻守のバランス調整の結果と、ここでは見ている。
 それに対して朝鮮チャンギの漢/楚駒と士駒は、九宮を同一
のルールで動くという点で、将駒同士のルールが類似している、
日本の将棋と類似と言えば、類似のパターンに変化していると
も言える。今回は、この朝鮮チャンギの士駒のルール変化が、
何によって、もたらされたのかを論題とする。
 いつものように、回答を先に書く。

日本の将棋の影響もあると、本ブログではずばり推定する。

では、以下に根拠等につき、説明を加える。
 根拠としては、朝鮮半島周辺に、このルールの変化を起こす
ような材料が、日本将棋の将駒以外に、特に見当たらないとい
う点が挙げられる。
 そもそも、少なくとも本ブログの見解では、この日本の将駒
の、古インド型の原始的な、王と副官(大臣)駒との動きのルー
ルが類似であるという性質は、インドにより近い、”田舎”よ
り、元となるゲーム、すなわち大理国平安小将棋が、伝来した
からこそ、起こった現象という事になっている。しかしながら、

中国雲南の大理国は、韓国からは遠い。

従って、中国から朝鮮半島へ伝来したシャンチーが変化して、
チャンギになってから、更に、中国の雲南省から、王に似た副
官のある将棋のルールが、朝鮮半島へも入って、朝鮮半島のチャ
ンギゲームに影響するとは、かなり考えにくい。
 それよりは、

古インド型のゲームに感染した日本のゲーマーの影響で、
韓国人も、古いインド型ルールを、後で導入してしまった

と考えた方が、よほど自然なように、私には思える。
 つまり日元貿易が盛んな頃に、日本将棋の玉将と金将が同じ
ような動きであるという習慣が、朝鮮半島のチャンギに影響し
て、それまでの、斜めにしか動けなかった、チャンギの士駒を、
漢/楚と同じ動きに変えてしまったのではないか。
 さらには、元々朝鮮半島には、駒の種類に関係なく、線に沿っ
て駒を動かす、十六ムサシ型の、将棋とは全く別のゲームがあ
って、それが流行っていた。そのため、日本の将棋とともに、
そのゲームの駒の動かし方パターンも、別系統のゲームである
朝鮮チャンギに取り入れられる傾向があり、日本の将棋のルー
ルと、十六ムサシ型ゲームの雪隠の所も、線に沿って移動させ
るルールが、チャンギに共に影響して、士駒のルールの変化に
なったのかもしれないと、考えられる。
 はっきり断定はできないが、中国シャンチーと違い、朝鮮チャ
ンギは、元々砲(包)駒を、やや弱くしている。だから士は強
くしない方が、かえって良かったはずである。にも係わらず、
朝鮮チャンギの方が、中国シャンチーより士駒がやや強いのは、
ゲーム性の改良というよりは、他のゲームの習慣に引っ張られ
て、多数派の方に、ルールが変えられてしまった結果のように、
私には思えてならない。
 大きいのは、朝鮮半島に元からあった、ボードゲームのルー
ルの習慣だったのだろうが、日本の将棋の玉/金駒のパターン
の影響も、その次ぐらいに、たぶん有ったのだろう。
 古くから、朝鮮半島と日本の間では交易が行われたため、文
化交流の結果、それぞれの国内のゲームのルールも、隣国から
の影響を受け続けたと見られる。そのため例えば、一旦桂馬駒
が別のルールに変わっても、朝鮮半島の馬駒のルールの影響で、
元に戻ったり、嗔猪のルールが、チャンギの卒駒と混同されて、
後退できなくなったりと、日本の将棋の方へも、朝鮮半島のゲー
ムのルールの影響が、当然有ったであろう。以上のように、私
は推定しているのである。(2018/11/04)

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戦国時代の将棋の棋士は、本当に全員字が読めたのか(長さん)

将棋を指すのが庶民層に広がった時代に関しては、諸説あるが、
本ブログでは、鎌倉時代の鳥獣戯画の頃からであると見ている。
それ以前は、識字の出来る古代の武家が将棋を指し始め、貴族
と僧侶の識字層に広がったと見る。鎌倉時代の鳥獣戯画の書か
れた頃に、僧侶に教わりながら、小将棋の字だけ庶民が読める
ようになり、庶民にも将棋が広がりだしたと、ここでは見てい
るのである。では、一乗谷朝倉遺跡の頃の、戦国時代中後期に
は、僧侶や城主に教わり、字が読めるようになってから、下級
武士等皆が将棋を指したと言えるのかどうかを、今回は論題と
する。
 回答を先ず書くと、

字を読むのが、すこぶる苦手な、駒師と棋士が一乗谷には居た

と推定できる。
 そこで、以上について以下に説明を加える。
 一乗谷朝倉氏遺跡から、香車の字が削られた、裏やや崩し金
香車駒が出土しており、この駒の作者は、たぶん香車という字
を読もうとしていないと、推定される。

一乗谷香車.gif

 この、木地への習字を無視して、形を切った駒には、書き師
に対する、駒師の、香車の大きさのデザインに関する、

怒り

が、ヒシヒシと感じられる。
 つまり細長い形で無いと、香車だとはピンとこないと、認識
するにも係わらず、幅広の”ミヤコ気取りの駒”用の習字をし
た、書き駒師への怒りと言った所だろうと、私には見える。
 そこで駒師は、最初の幅広の香車駒を、わざと、片方の側だ
け削り落として、

香車の字の切れた、細長い、彼に言わせれば、正常な形の香車
駒に”暴力的に”作り直してみせた

といった所だろう。つまり、駒師にとっては、香車駒は、形で
判断すれば良いのであり、

香車という字が、正常に表示されていなくても、さして目障り
ではない

と見ていた事になる。なお、この出土駒では、裏の金の書体は
と金である歩兵と区別できるように、成り金の金までは、切れ
るように、挟みを入れて居無い。つまり、依然として、

普通の持ち駒ルールの、日本将棋用の駒としては使える

と、駒師は認識していると見られるのである。
 以上の事から、一乗谷の恐らく朝倉館の中間部屋には、金
程度しか、字が判らないが、将棋駒は形で区別して指せる、
識字力が、ほぼ無い棋士や駒師も居たと、推定できるのではな
いかと私は考える。
 将棋駒の場合、字の代わりに絵を描くなどしなくても、将棋
駒の外見で、立体駒式に、有る程度駒の種類が判別できた。
だから、少なくとも10通り程度しか駒種名の無い、日本将棋
や朝倉小将棋を指すのに、識字のハンデは、さほど無かったの
かもしれないと、想像される。(2018/11/03)

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